河合隼雄「河合隼雄著作集7 子どもと教育」(1995)

 今回は、河合隼雄の「父性原理・母性原理」について考察するにあたり、その特徴をまとめてみたい。河合の著書は「母性社会日本の病理」(1976)をはじめ、教育にも関連する数冊を読んだが、これらの本からまとめると、6点にまとめることができるだろう。

1.一点目として、その性質は本書のp17に書かれているような「切断」と「包摂」という二項図式によりまずもって定義されている。この態度は過去の著作から一貫しているといえるだろう。

「これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供をその能力や個性に応じて類別する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。父性原理は、このように強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、逆に切断の力が強すぎて破壊に到る面と、両面をそなえている。」(河合「母性社会日本の病理」1976,p10)
「母性原理に基づく倫理観は、母の膝という場の中に存在する子供たちの絶対的平等に価値をおくものである。それは換言すれば、与えられた「場」の平衡状態の維持に最も高い倫理性を与えるべきものである。これを「場の倫理」とでも名づけるならば、父性原理に基づくものは「個の倫理」と呼ぶべきであろう。それは、個人の欲求の充足、個人の成長に高い価値を与えるものである。」(同上、p13)

 そして前回も触れたが、これに関連して本書では表で「父性原理」と「母性原理」の特徴をp18でまとめている。これらの特徴の説明は逐一河合は行っていないが、特にR.ベネディクト以降盛んに議論されていると言える「日本人論」における特徴をまとめたものだ、と言われればあながちこのように理解されているといえなくもない(もっとも、そのようなまとめ方を河合は述べていないが)。


2. そして、これはそれぞれが西洋の原理、そして日本の原理として対比した形で語られることになる。かつ、合わせてそれらは相互に参照されるべき価値観であること、つまり母性原理で成り立つ日本には父性原理を、父性原理で成り立つ西洋には逆に母性原理を取り込む必要性を繰り返し述べる。

アメリカは今まであまりにも切り棄ててきた母性をいかに取り戻すかという点で、大きい問題をもっているのに対して、日本では今まであまりにも接触を持ちつづけてきた母性といかに分離するかの問題に悩んでいると考えられる。この点についての詳論は避けるとして、アメリカの状況からみて、あまりに母から切れた自我の危険性も十分に感じられるのである。この点、永遠の少年について述べたとき、日本の社会は父性原理と母性原理の中間的存在ではないかと指摘しておいたが、それを「永遠の少年」などと呼んだのも、西洋的な観点に立ったからであり、そのためにむしろ否定的な把握の仕方をしたが、ここで観点をまったく変えれば、柔軟性のある、バランスのとれた構造と考えられはしないだろうか。」(同上、p30)

「このように述べてくると、筆者の感じているジレンマ、父性的な自我の確立に伴う功罪の問題は、次のように結論づけられることになろう。つまり、日本人の自我における父性原理の弱さは、今後の国際交流の必要度の強さから考えても、やはり問題とすべきであろう。そして、現在のわが国の社会的な混乱も、このような観点を導入することによって、より問題が整理され、無用な誤解や争いも減少するであろう。
 ここで、われわれは父性原理の確立にもっと努力すべきではあるが、それは単純に西洋のモデルを良しとするわけではない。父性原理を確立しつつ、なおかつ母性とのかかわりを失ってしまわないことも大切ではなかろうかと思われる。この点、日本の神話のもつユニークな構造は、第三の道を拓くものとして、案外興味深い示唆を日本人に対してのみならず、世界に対しても与えるものではなかろうか。」(同上、p32-33)
 河合は父性原理と母性原理のどちらが優れているのか明言していない、という意味で価値中立的な立場から、双方の性質の理解とその適切な採り入れについての必要性を述べているといえるだろう。


3. これに関連するが、河合は現在の日本の状況として、すでに父性原理を取り入れ始めている過程にあるものとして位置付けている。本書のp100-103あたりの記述もそうであるが、部分的に父性原理によって行為しようとしている日本人がいることを想定しつつ、母性原理の支配的な状況に挟まれ、アノミー状態になっているかのような見方をしているといえる。そして、それは「西洋化の影響」として語られている。

「日本は母性社会ではあるが、欧米の文化の影響を受けて、父性原理のよさを知りそれを取り入れようとしている。そこにいろいろな混乱も生じているが、欧米と比較すると母性社会の特徴を保持していることで、利点をもっていることも事実である。たとえば常に全体を包みこむ姿勢があるので、わが国の全体的な教育水準の高さは世界に誇れるものである。また、よく言われることだが、日本の都市の安全性の高さ、非行少年の数も少なく凶悪な者が少ないことなどは、その反映である。このような利点が多くあることは決して忘れてはならないが、母性社会特有の圧力が個人に、特にその人が父性原理を好む場合は、強くのしかかっていることも忘れてはならない。」(「河合隼雄著作集14 流動する家族関係」1994,p159)


4. 更にこれに関連して、河合の教育問題に対する議論というのは、母性原理と父性原理の衝突の結果として、いわば日本独特の問題として語られることになる。本書では不登校の問題がそのように語られているが(p100)、いじめの問題についても、西欧とは違った日本的な問題としてそれが現われているものだとみているのである。

「まず、日本において青少年の暴力事件が極端に少ない事実であるが、これは欧米に比較して、日本は暴力に対する一般的抑制力が強いことを示している。……
ところが何でも一長一短で、絶対平等感に基づく一様序列性などが、個人を圧迫してくる。したがって、それぞれの個人が何とも言えぬ被害感をもっているところで、成績が悪いなどと言われるとますます腹が立ってきて「うっぷんばらし」をしたくなってくる。そのとき標的としては、何らかの意味で全体とは異なるところのある者が選ばれやすい。欧米のように弱い者、嫌な者にむかってストレートに暴力に向かうのとは異なる形態をとる。日本では「皆と同じ」でないことは、非常に危険である。
日本ではしたがって、個性的に生きようとする者が「いじめ」の対象となることがある。「生意気」とか「統制を乱す」などと表現されることがあって、このような「いじめ」は日本の職場の各所に生じている。そんな点では大人も子どもも同じだが、すでに述べたように、思春期においてはその程度があまりにもひどくなる点で問題である。」(「臨床教育学入門」1995,p178-179)


5. 次にそもそも「父性原理」と「母性原理」という用語が父・母という言葉を用いていることについて。これについてしっかりと明言している部分はあまりないが、本書のp57で「男性の目」と「女性の目」という表現を「実際の」男性・女性の傾向として捉えて使用していること、また、下記の引用の中でも、自立/依存という区別が「実際の」男性・女性の性質としてみなされていることから、基本的に父・母それぞれが担っている傾向があるものとみなしているといってよいだろう。

「人間は他の動物と異なり、だんだんと男性が力をもつようになる。人類の特徴としての「意識」、「自意識」ということに男性が強くかかわってくる。そして、自立ということに魅力を感じはじめる。自立も結構だが、単純に考えると、自立と依存とを完全な対立概念として捉え、依存を拒否すればするほど自立的である、というスローガンができあがる。これはスローガンとしては論理的で強力だが、およそ実態と合わない。何にも依存せずにいる人間などいない。空気や土や太陽に依存せずに生きることができるだろうか。この基本的依存の形に、人間関係として、もっとも近いのが母・娘関係である。
 人間が自立するということは、自分が何にどの程度依存しているかはっきりと認識し、それを踏まえて自分のできる限りにいて自立的に生きることである。しかし、「自立」ということが先にスローガン的に意識されると、依存はすべて拒否したくなる。」(「河合隼雄著作集 第2期 臨床教育学入門」2002、p108)

 しかし、他方で河合のこの二つの区分はパーソンズのレビューで取り上げた「<シンボル>としての父母」というのも(素朴にであると思うが)想定した議論となっている。必ずしも父性原理を男性に担わせるという意図があるという訳ではないのは、以下のような役割論の語りから見て取れるだろう。

「母親と子どもの結びつきは、このように極めて大変であるが、その母親を支える父親の力が弱いときは、親子関係の在り方が歪んでくるのである。父親の家庭での態度が弱いと、母親はそれを感じとって、知らず知らずのうちに、母親が父親役を演じるようになってくる。そのために、それを補償しようとして父親が母親役をとるようになると、もっぱら母親の役となり、父親は子どもに同情してかばってみたり、妙に甘やかしたりするようになる。このようなパターンは、わが国においては生じやすいように思われる。
 もちろん、父親と母親はテニスの前衛と後衛のようなものであり、時により、状況に応じてその役割が入れ代ることも必要である。あまりにも固定した観念に縛られていては、動きがとれなくなってしまう。しかし、父親と母親の役割がまったく逆転してしまうのは、やはり問題のようである。時には、一人で父親と母親の両方の役割をやり抜くような例外のあることも事実であるが。」(「河合隼雄著作集14 流動する家族関係」1994,p196)

6. もう一点河合の議論の特徴として、彼の議論する「父性原理」論が、日本で議論されている「父性の復権」論と混同されることに対して繰り返し批判をしていることが挙げられる。本書ではp20やp226などがそうだが、他の著書では次のような語りをしている。

「ここで少し困ったのは、原理としての「父性」「母性」ということを誤解する人がでてきたことである。もともとこのような命名は欧米人に日本文化のことを話すときに思いついたことで、よく理解されたのだが、日本人やアジアの国々の人にとっては、「父性原理」の強さというのが昔の権力的な父親像と結びついて、「昔の父は強くてよかった」というように誤解されることがままあることに気がついた。
 原理としての「父性」は、ものごとを明確に区別判断する機能に関係しており、昔の日本の父親は個人としてものごとを判断するよりは、「世間」の考えに従って、それを子どもに押しつけるときは家父長としての権力をもってした。それは一見「強い」ように見えるが、「父性原理」はむしろ弱いのであるこのことを明確にしておかないと、日本の母性原理の強さを反省して、「父権の復興」などということを言いたてることになる。日本においては「復興」などではなく、「父性」の強さを新しくつくり出す努力をしなくてはならないのである。」(「河合隼雄著作集 第2期 臨床教育学入門」2002、pix)


 以上のような特徴を持つといえる河合の「父性原理・母性原理」の議論であるが、まず疑問にせねばならないのは、パーソンズのレビューの際に述べた通り、「理念型」として言語を定義するにせよ、誤解を招く・ないし安易に「<シンボル>としての父母」を「実際の父母」と同一視しないためにも、「父・母」の性質の再生産に加担するような用語を避け、単に「切断」・「包摂」といった用語を使うべきだと思う。
 もっとも、河合は明言していないものの、「個人主義」と「集団主義」といった対比で説明するのを避けるために、あえてそれとは異なる形で用いているという風に解釈する余地はあると思う。個人主義という言葉もまたかなり様々な用法で用いられるものであり、それだけ語弊も生じやすいといえる。
 基本的に河合が「父性原理・母性原理」に限らず、学校教育の議論をする際にも、画一的・集団主義的な学校教育を批判しつつ、個性的・個人主義的な子どもを育てていかなければいけないという前提に立った議論をしている。

「ここでひとつの非常に大きい問題は、クラブの集団がほとんどの場合、日本的集団であることが多く、しかもその程度が強い場合が多いことである。ここに日本的と呼んだことは、筆者の表現を用いると母性原理が優位であることを意味する。全体がひとつに包まれていることが大切で、その集団の個々の成員の個性が時により、その集団のために無視されたり、潰されたりすることがある。そして母性的集団においては「長幼列あり」つまり古参の者が新参者に対して絶対的優位に立つという特徴をもつ。母性的集団では個人差を認めず本来的には全員が平等であるが、序列をつけるとするならば、個人の能力差を認めないので古い者から順番ということになる。」(「河合隼雄著作集 第2期9 多層化するライフサイクル」2002、p118)

「その本人が「好きなこと」は、個性と大いにかかわっている。したがって、ともかく「好きなこと」を尊重することは大変重要である。筆者は「好きなこと」をするためには、相当な犠牲を払ってもいいのではないかと考えている。しかし、以前は「好きなこと」よりも「するべきこと」をするのがいいと考えがちであった。おそらく教師という人は、同様に考える人が多いのではなかろうか。そんな好き勝手なことをする前に、するべきことが多くあるはずだ。各人が好きなことばかりやっていたのでは、全体の秩序が保てない。あるいは、非常に片寄った人間になってしまう。このような考えももっともである。しかし、そちらを強調しすぎて、個性を殺すようなことになっていなかったかと反省するのである。」(「河合隼雄著作集 第2期 臨床教育学入門」2002、p190-191)

「子どもたちに自由を許すと、そこから出てくるものは時に大人をおびやかすものもある。それらと正面から対決することによってこそ、新しい道が見えてくる。子どもが提出してくるいろいろな問題は、新しい発見へのきっかけをつくるものである。個性の尊重ということは、一人一人の責任と課題を重くする。制度の改変は必要であるが、それによって個人が楽になるのではない。日本の成人は各人が自分の意識の変革と取り組む覚悟をもたねばならない。」(
同上、p300)

 このような語りからは、河合が個性の尊重を行うべきである、という意味で、母性原理を批判しているのは明らかといえる。しかし、注目せねばならないのは、だからといって、父性原理の優位を語っていないという両義的な態度を河合がとっている点である。どちらの原理においても問題が出てくるのである。しかし、これでは何故父性原理に近づけることが善いことなのかが説明できない。
 少しこの点について整理してみよう。まず、河合の母性原理を批判する理由として、ネガティブなものとしては、それが子どもの抑圧になっていること、そして本書のp226のように、従属的態度をとることはかつて戦争に加担する態度になったという反戦的態度から見出すことができる。また、ポジティブな意味では「国際交流」という観点から、母性社会に閉じこもらずに父性社会へも適応できる態度を養わなければならないという見方をしている。
 そして、父性原理を批判する理由としては、その「切断」という性質そのものに対する批判を加えているきらいがある。実際問題となっている「アメリカの状況」については詳しく述べられている部分は先程引用した「母性社会日本の病理」のp30と下記のような部分が挙げられる程度である(しかし、ほとんど触れられているとはいえない)。

「筆者としてはここで日本の教育を否定して、アメリカをモデルにしろという気はない。アメリカの高校内の暴力や、麻薬の害を知ると、アメリカの教育が「成功」しているとは言い難い。」(「臨床教育学入門」1995,p82)

 したがってアメリカの父性原理が批判されるべきものであるという理由は、日本の教育水準の高さや都市の安定、非行少年の数が少ないといった、母性社会の性質(河合1994,p159)との対比として読むしかないように思われる。つまり、父性社会は個性を育むのには望ましいが、同時にその「排除」的側面により、少年非行といった社会問題の原因になっているという見方をしている、ということである。
 そして、河合は日本の現状について、父性社会を取り入れつつある状況であると述べていた。本書においても不登校問題をまさにそのような目線から批判しているのは明白であった。実際の所、河合は不登校問題をこのように捉えることで、日本特有の問題として位置付けているとみなすほかないだろう。


 しかし、このようにまとめるとすると、いくつか問題が生じる。
 まず何よりも、母性原理・父性原理批判に対する妥当性そのものについての問題である。先述したように、河合が父性原理・母性原理を厳密な意味でどちらがよいか判断していないとすると、何故それについて批判する価値があるかさえ問えなくなる。結局河合の言い分はどちらの原理にも善し悪しがあるのであるから、両者の性質を押さえた上でその良いところは活かし、悪いところは改善する、という両原理の「部分的」な改善の提起をしたいのだと思われる。
 しかし、そのような態度自体、やはり父性原理・母性原理という言葉を理念型として位置付け議論するという意味ではあまり有意義と思えない。改善すべきは父性原理・母性原理そのものではないのだから、それらを持ち出す必要性を感じないからである。先述のように河合の述べる父性原理・母性原理自体が、素朴な要素の集まりから成っている。そしてそれを裏付けているのは、おそらく古くからある日本人論といった議論を参照にした産物であると思われる。改善の対象とされた要素については焦点があてられるものの、そうでないものについては結局その性質を定義しただけで、特段その性質が「日本的」と呼ぶにふさわしいかの検討を行うことがない。今後このような日本人論については検証できる限りで考察してみたいが、実際にそれらのまとめられた日本人論の疑問符が付けられるのなら、それについては吟味していかなければならないだろう。

 もっと言ってしまえば、河合の「父性原理・母性原理」という言葉は彼のオリジナルではない。私が確認した限りでは、これ以前にすでに江藤淳が「成熟と喪失」(1967)にて同じ言葉を多少異なった文脈で語っている。具体的な問題点については、江藤の論と比較しながら次回行ってみたいと思う。


<読書ノート>
pxii「臨床心理学の仕事から出発して、教育の分野に実際的にかかわることが深くなるにつれて、私は「臨床教育学」という新しい学問領域を確立する必要を痛感するようになった。これまでは現場の教育と教育学者の間にギャップがあり過ぎたのではなかろうか。それに対して、「臨床教育学」では、何と言っても現場と直接かかわり、現場の教師にとっても意味のある研究をすることが使命となっている。しかし、それは単に個別的な事柄をどう処理してゆくか、ということを目標にしているのではなく、個々の具体例を通して、人間の心理について、教育について、できる限り普遍的な原理や方法を見出そうとする努力によって裏づけられていなければならない。」
※ある意味でそれだけ距離ができてしまった、と見ることもできるだろう。そしてこのような発言自体が、過去の教育についての理解の欠落によって成り立っている可能性の示唆にもなる。

P5「教育の「実状」を考えてみると、日本人すべてが、「勉強のできる子はえらい」という、一様な価値観に染まってしまっている、と言えないだろうか。親は子どもの点数のみ、序列のみを評価の対象にする。少しでもよい点をとってきて、少しでも上位にする子は「よい子」なのである。教師も親ほどではないにしても、それに近いであろう。」
※どこに根拠が?どう実状を見たのだろう。

P16「人間のことを考えるのには、いろいろな原理がある。ひとつの原理によって説明することは、単純でわかりやすいが、それはともすると実状に合わなくなるのではなかろうか。一党独裁が危険であることは、最近の世界の情勢がよく知らせてくれたことである。すでに述べたように、生と死、健康と病気、仕事と遊び、などの対極的な見方の、どちらか一方に片寄らず、ものごとを見てゆくことは、教育にとって大切である。
ここにもうひとつ特に取りあげたいのは、私が父性原理、母性原理と呼んでいる、対立するものの考え方である。この呼び名はわが国では、ときに誤解されるのだが、欧米の人たちに言うとよく通じるようだ。それは、ここに言う父性原理は、後でも言うように西洋に発達してきたものなので、そもそも日本人にはわかりにくいのである。これらの原理ではどちらが正しいとか誤りである、というのではなく、まさに一長一短であると私は考えている。ともかく、それがどのようなことかを次に述べる。」
※理念型αは無視し、価値の問題だけを取り出してしまっている。
P17「父性原理、母性原理と私が呼んでいるものは、端的に言うと、父性は「切る」、母性は「包む」機能を主としている。父性は善と悪、できる者とできない者、固いものと柔かいもの、何でも明確に区別してゆく。それに対して、母性はすべてを全体として包みこんでゆく。この原理のどちらが正しいというのではないが、片方の原理が正しいと思うと相手を攻撃したくなってくる。」
※この父と母という言葉はどこから持ってきたのか?

P17「割り切って言えば、日本は欧米に対して母性原理が強い国であったが、国際交流が活発で、かつ欧米の文化を輸入している間に、父性原理の方もだいぶ輸入しつつある。そして、頭で考えるときはーー特にインテリはーー父性原理に近いのだが、実際行動や感情的な面では、まだまだ母性原理によって生きている、というところである。」
※母性原理が強い国とはどういう意味か?社会的なものの議論であるようにも読めるが、後半の話はあきらかに国民の心性ありきの言い方である。
P18父性原理と母性原理のまとめ
※個人の確立/場への所属(おまかせ)、契約関係/一体感(共生感)、言語的/非言語的、個人差(能力差)の肯定/絶対的平等感、進歩による変化/再生による変化、個人の責任/場の責任、しまいには時間の捉え方について「直線的/円環的」という対比までしている。
P20「論を先にすすめる前に、父性原理についてもう少しつけ加えたい。この点について誤解する人が多いからである。わが国において、父性が弱いという認識がだんだんとできてきたのはいいが、「父性原理」などと唱える人がでてきて、軍国主義時代の父親をさも強い父性をそなえた人物であるかのように誤解して、それを押しすすめようとする。これはここに述べた父性原理をまったく誤解している。」
※そもそも河合の父性原理を参照する気があるかどうかから疑問だが。スパルタ教育論などを父性論とするなら、河合の方が後発した父性論者であり、喧嘩をふっているのも河合の方である。

P20「このことがわかっていないと、父性復権のつもりで、生徒に細かい校則を押しつけ、そのためには暴力をも使用する、などということになる。日本には父性原理の復活などということはない。それはもともとなかったものなのだから、もしそれを必要と感じるならば、父性の新たなる獲得として意識されねばならないのである。原理の弱さ腕力でカバーするのは、まったく馬鹿げたことである。」
※言葉遊びのようにしか聞こえないが。河合の批判する父性論者はそもそも父性原理を支持しているわけではない。それをわざと混同させようとし、日本的父性論を弱体化させようとしているのが河合である。これはただの価値のぶつけ合い、イデオロギー闘争でしかない。

P42「一昔前は経済的な条件のため、自宅から通える範囲内の大学にしか行けない人も多かったので、優秀な学生がある程度分散されたが、現在はそのような傾向も少なくなって、日本全体としての大学のランクづけが著しくすすみ、現状のように問題点が大きくなってきたのである。日本人のこのような傾向がもう少し変化しない限り、制度の改変によって大学受験の受験地獄を緩和することはきわめて困難であると思われる。」
※いつの話をしているのか。戦後であるのは間違いないが。そしてこれはいかにすれば実証できる話なのだろう??官僚の出身大学比較?それはむしろ昔の方が一極化していたのでは?
P44「おそらく、自我意識のあり方がどうであれ、日本人は日本人アメリカ人はアメリカ人なりに、個性的であることや、創造的であることは難しいのであろう。このことを教育との関連で言えば、集団の一般的傾向と異なる生き方をすることは、どこの社会でもなかなか難しいことで、教育者が、被教育者の個性的表現を許容したり、促進したりする態度をもつことがいかに難しいか、ということになるだろう。
このように考えてくると、試験の問題に対して、「正しい」答をできる限り早く見出すことを訓練することは、それが「正しい」ことであっても、個性の発展を妨害することがあることに気づくのである。問題を解く際に、いろいろと模索し、間違ってみることのなかに、案外個性の発芽が認められるかもしれない。せっかちに正答を見つけるのではなく、そのような誤答のなかに価値を見出すことも必要である。」
※何故かここでは日米比較をやめ、個性の問題を強調した語り方をする。結局のところこれが問題となるのは正しさを強要する場合だけではないのか?それを取り除いた場合に、ここで述べられている個性とは何を意味するのか?

P45「自然科学の発展の基礎となるような近代自我を、子どものときに確立することが、日本人のなかではどんなに困難であるかは、先に示した帰国子女の例が示している。この点に注目する人は、日本人で創造性の高い人は海外に流出してゆく、と主張する。実際に、日本の「学会」というものが日本的集団構造を強くもっているときは、そのなかで若い人が自由に発言できない、あるいは、能力のある人の足をひっぱる人が多い、などの現象が生じる。
わが国では、すでに述べたように、母性原理による絶対平等感が強いので、特定の能力のある人が、たとえそれにふさわしいだけの待遇を受けていたとしても、それは「民主的でない」ということばで表現される、日本固有の論理によって反対されてしまったりする。このために、創造的な個人がのびのびと活躍する場が奪われてしまうのである。このことは、今後、日本の教育や研究のあり方を考えてゆくうえで、大いに反省しなくてはならない点であろう。」
※前半についてはやはり、心性の問題と社会性の問題を混同した結果、子どもの頃から心性が育たないという結論をしている。創造性の高い人の海外流出は成人してからの話のはずである。それを子どもの話まで素朴に拡張してしまっている。これでは何を反省すべきかわからないという問題にもなりかねない。後半についても、アファーマティブ・アクションといった絶対的平等論とどう馴染むのか。

P57「そこで、私は思いきった表現で、現象を見る目に、「男性の目」と「女性の目」とがある、と考えてみたい。ここに、あえて「男性」、「女性」という表現を用いたのは、これまでの人間の精神史を考えてみると、やはり、男性がより得意としたものの見方と、女性が得意としたものの見方とがある、と考えるためである。したがって、個々の男性や女性をとって考えてみると、必ずしもどちらが得意かは一義的に言えないと考える。
「男性の目」は対象を自分と切り離し、客観的に見る。それは全体よりも、ある部分を切り取り、その部分を明確に認識する。「女性の目」は、自他の未分化な状態のまま、主観の世界を尊重しつつ、ものを見る。それは明確さを犠牲にしても全体を把握しようとする。実のところ、われわれは現象を見る際に、この両方の目を必要とするのであろう。しかし、いわゆる自然科学は、この「男性の目」の方を強調することによって成立してきたことを否めない。そして、それは普遍的な知識を供給してくれるものとして、きわめて有力なものであった。
人間が人間に対するときは、すでに示したように、「女性の目」を必要とする。「女性の目」で見たとき、それは自と他とのかかわりを含むものとなるので、いったい自分がこの子に何ができるのか、この際に何をすべきかがわかりやすい。」
※ここでも価値に限った中立性の主張をしてしまっている。このような素朴な男女の議論は、そのまま父性、母性という言葉にもつながっているとみてよいだろう。問題は「必ずしも当てはまらない」がいかなる意味を持っているのかに尽きるのだが、それについては語っていない。自然科学と男性の目が無関係ではないのは事実である。しかし、これが自然科学と男性の関係としてみる可能性に簡単に繋がることに問題があるのである。結局のところ何を立証したいのかがポイントであり、ここではおそらく自然科学と人間の話に重点があるはずである。であるとすれば、別に男性か女性かの議論をくっつけることを許すような理念型の言葉選びをする必要性などどこにもない。

P58「このように述べている私の専攻する臨床心理学も、「女性の目」を相当に必要とする学問であると考えられる。したがって、それは始まりは精神医学という、比較的「男性の目」を優位とする学問を借りて来なければならなかった。あるいは、「男性の目」を優位とする心理学を借りて来る必要があった。」
P69-70「子どもを育てる、子供が育つ、ということを教育の中心に据えることは実に難しいことである。それはなぜだろうか。その要因のひとつは、教師は「教える」側にまわっているかぎり、楽であり、安全でもあるからだ。「これをしては駄目」、「もうちょっちこのようにしては」と子どものなかを走りまわっている先生の方が、いかにも先生らしく見えるのではなかろうか。熱心な先生だと言われるかもしれない。
これに対して、私が理想としてあげたような、「子どもが育つ」場を提供する教師は、極端な場合は「何もせずに怠けている」とさえ思われないだろうか。こんなところもあって、教師の「教えたがり根性」はなかなか治らないのである。」

p73「日本では教師と生徒の関係は、母と子の関係を基本としている。よい面を言えば、教師は生徒一人ひとりに気を配り、暖かく接する。クラス全体が「家庭的」な雰囲気の一体感をもつ。しかし、悪い面では、教師が生徒を「かかえこもう」としすぎて、無意識のうちに、生徒の自立性を奪ってしまう。教師は生徒がすべて自分の懐のなかにいることを期待して、自由を許さない。」

p93「繰り返しになるようだが、不登校にはいろいろな種類があるのでそれに対処する画一的な方法がない、ということは非常に大切である。叱りつけたら登校したとか、そっとして放っておいたら登校したとか、という場合があるのが事実であるが、それを誰にでも適用しようとするのは間違っている。」
☆p93-94「この子たちの一般的特徴として、なぜ学校へ行けないか、と問いつめると、先生が怖いとか、成績がよくないとか、友人とうまくゆかないとか、いろいろな理由を言うが、それは本当の理由ではなく、実は本人も理由がわかっていないのである。登校しようとして前日には準備までするが、朝になると、どうしても起きられなかったり、足がすくんでしまったり、発熱、嘔吐が生じたりして登校できない。このような子たちは、決して怠けているのではなく、本人も学校へ行きたいのに行けずにいることを、まず理解してやらねばならない。」

p100「本章の第一章に、父性原理と母性原理について述べたところを参考にして考えてみよう。日本は欧米に比して、母性原理の強いところであった。しかし、そこに父性原理を少しずつ取り入れようとしているのが現状である。原理の衝突による摩擦が、そのためにあちこちに生じるのであるが、不登校というのもそのひとつとも考えられる。」
※どうも不登校アノミーの問題らしい。
P100「不登校の事例について、カウンセラーや教師たちが話し合いをする。「母親が家庭内で一番力をもち、子どもの足を無意識のうちに引っぱっている」、「子どもが自立するためのモデルとしての父親のイメージが弱すぎる」などと言っていたが、そのうちに、誰もが自分の家庭も似たようなものだ、と感じはじめ、「明日はわが身ですねー」と誰かが言ったので、「いやいや、今日はわが身です」と私が言って一同爆笑したことがあった。不登校の問題は、現代のわが国も社会全体の問題でもあるのだ。」
※問題を飛躍させすぎでは?

P101「あるいは、言い方をかえると、以前よりも父性原理を取り入れようとする傾向が生じているなかで、その尖兵として戦っているのが不登校の子どもたちである、ということになる。事実、不登校の子どもを抱えて家族が苦闘しているうちに、子どもはもちろん、父親も母親も以前よりは自立的になった。つまり、父性原理を少し取り入れるようになった、と思われる例が多くあるのである。そのような意味で、不登校の子どもたちは、社会の病い、文化の病い、を病んでいるとも言えるのである。」
※ある意味でアノミー的性質の問題であることは間違いないだろうが、それが父性原理の取り入れによる、という説明で成り立つ話かどうかは議論の余地がある。特に個人に期待される役割が増大しているのはp102-103で河合も認めるところだが、それは西洋からの影響という意味での父性原理というよりも、むしろ西洋も同じように要求されているような、社会の自立要求としての父性原理なのではなかろうか?このような見方からするならば、現状の西洋も十分に父性原理に支配されているとは言えない、という可能性も出てくる。
P101「不登校の子どもについて、何が「原因」か、と考える人が多い。そして、よく母親が、そして父親が「原因」にされる。そのような考えが効果を発揮することもある。しかし、どの場合も同じように考えるのもどうかと思う。そのうえ、不登校などという「悪い」ことが起こるのは、親か教師か誰かが「悪い」からだ、と考えて「悪者探し」をするのはナンセンスなことが多い。」

P102-103「社会が変わるにつれて、人々の生き方も変わる。そのためには、それぞれの人が自分の生き方を変えるための努力をしなくてはならない。私たちの父親は、ともかく働いて妻子を食べさせる、というだけで、父親としての役割を果したことになっていた。しかし、今では家庭内における父親の役割はもっと重くなっている。すでに第一章に述べたような、西欧型の父性をもった父親を、子どもたちは期待しはじめている。
子どもが学校へ行かなくなり、父親に対決を迫ってきてはじめてあわてふためいて頑張るよりは、それまでに父親としての生き方を少し変えるように努力した方が、問題を未然に防げることになるだろう。……
エネルギーの出し惜しみをする親は、自分の努力を棚あげして、「風の子学園」のようなところに子どもをあずけようとする。お金を出して、子どものために何かをやっているように見えて、これは一種の「棄子」ではなかろうか。」
※まずもって河合は不登校問題において親の役割が重要であることを否定することはない。そしてその役割は子どももまた期待していると前提にしている。しかし、そもそも子どものその期待もまた、社会的に規定されたものに過ぎないとしか(少なくとも河合の前提からは)言えない。ここでなぜそのような規定そのものを見直そうという議論に向かわせようとせず、親の役割論の議論に終始してしまうのか。もっとも、河合は処方箋を出すという態度を明言しているため、このような議論で終わっても良いという見方もできるが。

P189「もちろん、この二つの原理は相補性を有するものとして、われわれ人間が生きてゆく上で、どちらか一方のみに頼ってゆくことは不可能であり、両者のバランスの上に立っているのではあるが、ある文化がどちらか一方をより優勢とすることは大いにあり得ることである。そして、以前から主張してきているように、わが国の文化が母性原理に基づいていることは明らかなのであって、このことが、これから論じてゆくように、わが国の教育において重要な問題を生ぜしめているのである。」

P226「人は、よく昔のお父さんは強かった、怖かったと言いますが、そんなもには、ひとつも強くない。本当に強かったのならば、戦争に反対すべきですよ。反対もできないで、戦争へ行って死んだだけですから、あんなのは、弱かったんです。つまり、突撃する時にだけ強いんです。誰かが命令すれば、後は死のもの狂いになって頑張るけれども、命令に反抗する強さは全然持っていないというのが、日本の男なんです。つまり、個人として戦うということを、日本人はしないんです。みんな一緒にやりましょうということでやっていくのが、日本人の考え方で、それが悪いとは言っていません。ただ、日本は、そういうふうにやってきた国ですが、これだけ西洋と付き合うようになったなかで、個としての強さを、日本人の心の中に求めようとする気持が、今の若い人の中から出てきていると思うんです。」
※厳父論に対する批判も実証性に乏しい。ここにはそもそも厳父がいかに存在したかとか、そのような厳父的心性がいかに戦争に追随したかという問いの立て方が無視されている。河合のもっともらしさは中途半端に事実に基づいているが、因果関係について正しく考察していないのである。そして、そのような不明虜な議論を、そのまま自らの母性原理の議論の論拠としていることもわかる。また、事実の問題を隠蔽して価値論の議論をしてしまっているのもやはり問題。

P240「昔と違って、先生が生徒に与える教材やテストの問題なども画一化されてしまっている。先生たちは雑用が増えて忙しいかも知れない。しかし、自分の個性によって教育するという点においては、昔よりも相当少なくなっているのではなかろうか。このように考えると、一対一で教師と生徒が個性と個性のぶつかりを体験する教育相談の場は、今日的意義を大いに持っていると言わねばならない。」
※これも根拠がないし、おそらく誤りで、むしろ先生はかつてはもっと子どもの個性を無視することができたのである。それでも学校が機能していたのである。学校化がそれを許さなくなったから問題視されるようになったに過ぎないのではないか。ここでも雑用が増えたという事実らしきことを書いているが、因果の曲解をしている。

P309-310「日本人の言語表現における大きい問題に、タテマエとホンネということがある。公的な場や多数の前ではタテマエのほうを話し、ホンネのほうは隠しておく。ホンネは私的な場や、ごく親しい人にのみ話す。このような傾向を日本人の大人たちは持っているが、小学生の子どももすでにそのような傾向を持っていることが、授業を見ていても感じられる。
日本には欧米で発達した個人主義というのが理解されていない。個人としての自我を明確に確立するという方向ではなく、その場における全体のバランスの上に立って、自分の存在をそこに入れこもうとする。このことは、単純にどちらがよい悪いと割り切ってしまえることではなく、個人と全体とをどのように調和させるかに人間はいつも苦労している、と言っていいわけで、個人主義だから全体のことを考えないとか、日本人は全体のことだけ考えて、自分のことや自分の利益を考えないとかいうことはない。ただ発想の根本姿勢が異なっているのである。
タテマエの意見は、意見としては通りがいいので、ある程度の勢いを持つと全員が賛成する。しかし、そのときも各自がそれぞれホンネをもっており、時にはホンネがタテマエと反対の場合もあることは暗黙の了解事項となっている。したがって、満場一致で可決されたことに、後で従わない者がでてきたりする。これは西洋の論理で言えばおかしいことだが、日本では現実によく生じることである。つまり、日本人は欧米の考え方とは異なる考え方に従って生きているのである。」
※西洋の論理としてはおかしいのかもしれないが、それはひとまず西洋人の心性とは別物と考えるべきでは?これを混同すべきではない。