加藤美帆「不登校のポリティクス」(2012)

 本書は、学校ぎらい・登校拒否・不登校といった学校に通わない子どもをめぐる議論の変遷を追う中で、そこに内在する政治性について述べた本、のようである。
 私は以前松下圭一のレビューの中で、一般的な「ネオリベ批判」の言説に対して、否定的に捉えていると述べた訳だが、本書はまさにそのような「ネオリベ批判」の文脈に位置付けられる典型といえる一冊ではないかと思い、今回その問題についても言及していく。

 私自身の問題意識として、70年代以前の議論の忘却をした論考については、問題があるのではないかと考え、70年代より前の著書を多く読むようになったことはすでに述べてきた。これももともとは、70年代末の臨調、そして80年代の臨教審あたりから日本の政治性として述べられるようになった「新自由主義ネオリベ)」の議論の影響を大きく受けた形で教育の議論もなされるようになってきており、むしろその「ネオリベ批判」における政治批判ありきの論調を強く感じていたからであった。

 確かに本書の「不登校」の系譜は戦後直後からの、まだ学校化されていない農村・漁村の登校率の低さの提示と、当時の「学校に通わないこと」のコンテクストが当然今とは全く違ったものである(通学よりも労働そのものに価値を感じる保護者による、通学させることの拒否があった)という話から始まってはいる。しかし、本書は極めて筋書きありきの議論をしてしまっているがゆえに、結果として都合のいいデータにのみ依拠してしまい、私自身からみれば、事実を曲解しているようにしかみえないのである。


○新聞記事の取り上げにおける2つの問題について
 これについて2点指摘しておこう。まずはp12-13で語られている論点である。つまり、80年代後半の不登校問題(当時はまだ登校拒否と呼ばれていた)においては、「いじめ」との関連付けがなされていなかったかのような語りをしている。これはネオリベ批判の系譜から言えば納得してしまうような内容である。確かにこの時期、少年犯罪の第三のピークが過ぎ、非行問題は落ち着きを見せ始め、臨教審の答申が出されるようになった1980年代半ばから後半にかけては、相対的に進学問題がホットな問題となっていた。この影響から80年代後半に答申を出す第17次中教審においても、進学問題に終始していたと、当時の審議会にも関わっていた市川昭午も述べている。

「このように審議会の審議が大学入試の問題に集中したことから、委員諸公の視野には概して高校生の上位半数の者しか入ってこなかった。その結果、高校卒業生の半ば近くを占める非進学組ないしは就職組に関する問題が、審議の対象から落ちこぼれてしまった。全く無視さええたとはいえないにしても、残余の問題として副次的に扱われたにすぎない。
確かに銘柄大学をめざす受験競争に心身を擦り減らすトップ層にも問題があることは否定できないが、それ以上に高校教育から逸脱しかねないボトム層の問題のほうが量的にも大きく、質的にも深刻である。教育問題の多くは進学校よりもいわゆる底辺校で生じているし、受験競争に参加していない生徒がより多く問題を起こしているのである。」(市川昭午「臨教審以後の教育改革」1995、p53)

 しかし、本書で引用された1987年の記事の内容だけをみると、進学問題と登校拒否の関連性がはっきりとみえてこないのである。それもそのはず、元記事にあたってみたところ、該当の記事は同じ一面記事の別々の記事として記載されている内容をこのように解釈しているのである。確かに該当の2記事は一面に記載され、連続した記事であるものの、通常解釈すべき両者の記事の関連性は、直近に公表された文部省の「学校基本調査」の結果をそれぞれ取り上げたにすぎないだろう。両者を加藤のように関連付けて議論しようとすること自体が「普通に読めば」ミスリードであると言わなければならないだろう。
 更にいえば、いじめ問題と登校拒否の問題は、別の記事をさがせば、当時にもはっきりと関連付けて議論されていたことが確認できるのである。

「だが、この事件自体のつらさを超えて、より重苦しくのしかかってくるのは、一体いつまでころした悲劇を繰り返せばすむのか、というやりきれなさである。子どもたちの間に陰湿ないじめが広がっている事実を、大人たちが知って久しい。
登校拒否の増加がこれとかかわっていることも分かっているし、いじめに耐えかねて自殺した子も、もう何人も出ている。(朝日新聞1984年11月13日朝刊社説「悲劇から何をくみとるか」)

「中学校の登校拒否が六十年度に過去最高を記録し、中でも「いじめ」にからむケースが相当あることが九日、文部省の実態調査でわかった。「荒れる学校」の象徴といわれた校内暴力も、ピークは過ぎたが、減り方が鈍りはじめた。自殺も増加に転じており、子どもたちの問題行動全体が姿を変えながら深刻化していることを示している。」(朝日新聞1986年12月10日朝刊一面記事「登校拒否、10年で3.6倍」)

 これらの内容を踏まえると、p12-13の指摘は事実無根であり、むしろデータの操作も含めた悪質な議論の捻じ曲げまで行ってしまっていることがわかるのである。政治的議論への追随ありきに見えてしまう典型的な部分である。


 2点目はp176周辺の議論についてである。ここでは70年代には登校拒否を家庭問題として取り上げられていたものが、80年代になってから、奥地圭子の例を挙げながら親からの登校拒否に対する批判的議論が学校制度そのものへの問いかけへと向かっていったこと、そしてその根に横たわっているネオリベ政策について言及されている。
 ここでの問題の論点は「責任論」である。これについても新聞記事を見返してみたが、確かに70年代には総じて登校拒否が「学校恐怖症」とも呼ばれていたように、「病理」というよりも「病気」というカテゴリーとして位置付いていたといってよいと思う。そしてその位置付けは久徳の「母原病」の話を考えるとわかりやすい。ある意味で登校拒否も「母原病」のように見る考え方が当時には少なからずあったのである。
 もっとも、そこに含まれている「責任」というのが、露骨な「親のせい」であったかどうかは疑問もある。なかったと言えば嘘になるであろうが、山村賢明やパーソンズのレビューの際にみてきたような「親の責任論」については複数の捉え方が可能なのであり、どちらかというと、結果的に家庭への責任が付与されてしまっているという性質が強いのではないかと思う。いわば「子育て」と「登校拒否」が密接に関わっているものと考えられていた以上、育児の一次的な責任者は親でしかありえないからである。

 確かに、朝日新聞、及び毎日新聞の記事を読む限りは家庭の責任論の域を抜け出した議論はほとんどない。しかしながら、全てとはいえない。80年代に見られるようになったという「学校責任論」は、すでに70年代の記事にも散見されるのである。

「以上のような登校拒否相談件数のうち、中学生の占める割合は約二五%である。こうした急増は最近の塾、家庭教師、越境入学、業者テスト、偏差値、入試などにみられる教育の第二次荒廃現象とやはり密接な関係がありそうである。」(朝日新聞1976年4月29日「登校拒否、病む」)

「子どもの登校拒否は子どもや親の側の特異なケースとして切り捨てないで、学校教育の問題として問い直すべきだ――小、中、高校で増え続ける子どもが大きな問題となっているが、四日、東京・千代田区公会堂で開かれた日本児童精神医学会の第十九回総会のシンポジウムで、子どもや家庭環境の問題としがちだった対応の“盲点”を指摘する声が強く出された。……
とくに、思春期に画一的なワクに多様な子どもをはめ込もうとする時、最も登校拒否が起きやすいと言い「教育を子どもにあったものにすべきだ」と主張した。」(毎日新聞1978年11月5日朝刊「登校拒否は「学校教育に問題が」児童精神医学会強い声」)

 また、毎日新聞の1978年1月28日毎日夕刊記事では、日教組教研集会において、登校拒否における母親の責任の問題について触れていたことを報じているが、この記事のタイトルも「登校拒否、母にも責任」であった。ここでいう「も」とは母以外の誰なのか、記事中では明記されていないものの、必ずしも登校拒否について母親(家族)のみの責任ではないと考えられていたことの示唆なのではないかとも読めるのである。

 一方、読売新聞については、両新聞とは少々論調が異なり、登校拒否が問題視されるようになった70年代初頭の時点からすでにこの問題を親の責任として読んだり、自己責任の問題(※1)と捉えるべきではなく、学校制度の問題である、という論調も強かった。

「この資料から、同相談所(※武蔵野市教委の教育相談所)では家庭で甘やかされるのが登校拒否の原因だとし、水泳やマラソンで子どもをきたえたり、いやがる子どもを強引に学校に連れていったりする生活療法の効果を具体的に示している。
家庭で甘やかされる子どもに登校拒否は多いことは、指摘のとおりであろう。しかし、原因の大きな部分が家庭のしつけにあると判断することには疑問が残る。子どもたちが行くのをいやがる学校のほうには原因がないのだろうか。……
ささやかなこの実戦から、登校拒否の原因は学校にあると即断するのは、つつしむべきかもしれない。だが、義務教育なのだから、子どもは学校に行くのが当然だとし、その学校の教育内容や方法に子どもがなじまないのは、子どもが悪いのだとする考え方には反省の必要があろう。」(読売新聞1972年3月1日社説「登校拒否の原因はどこにある」)

「東京都立教育研究所の調査によると、小、中学校の子どもに多い登校拒否が高校生の間にまで広がっているという。同研究所は、高校生にも多くなった登校拒否の理由として?高校が義務教育化し、能力の低い子どもまで入学していること?高校では激しい受験戦争があり、生徒間の友情や連帯感が薄くなっていること?また、家庭では親が子どもに過大な期待をかけ、大学への進学を奨励していることの三つを挙げている。」(読売新聞1972年9月5日社説「高校生の登校拒否への対策」)

 毎日、朝日はこの時期「家庭」や「健康」に関する誌面で登校拒否を捉えつつ、家庭での子どもへの態度の取り方を問題提起した記事しか出していなかった。朝日新聞に関しては武蔵野市教委の教育相談所の指摘については追随する形で記事を作っていたくらいだったにも関わらず、読売はそのような態度自体に疑問符を付け、学校制度の問題であるのではないかと問題提起するのである。もちろん、読売についても登校拒否を病気として捉える傾向があった訳だが、それと同じ位学校制度そのものの批判として登校拒否を捉えていたと言えるのである。

 私自身の「教育問題」に対する認識では、70年代末頃から、教育問題が大きく取り上げられるようになるについて、「教育荒廃」という現象がひとまとめにされた形で議論されるようになったのではないか、と考えてきた。そして、そのようなひとまとめにされた教育問題の責任所在もまた、非常に曖昧なものとしてみなされるようになったのではないのか、いわゆる「学校・家庭・地域」という3セットでの連携により教育問題に取り組むといった姿勢が、(良いのか悪いのかは別にして)個別の病理問題の性質の違いについての議論を弱めてしまったのではないのか、と見てきたのである。そのような見方からすれば、加藤のような責任主体が「家庭から学校へ」というストーリー自体に違和感を感じるのである。むしろ「学校も家庭も」責任が問われるようになったのがこの80年代だったのではないだろうか(※2)。


構築主義に対する雑感
 最後に本書が採用している「構築主義」(p73)の考え方について。この議論は「政治」と「学問」の関連性で言うならば、学問は全て政治的性質を帯びるということを強調する立場と言える。これ自体はヴェーバーの議論で確認したように、間違いとはいえない。結局他人の解釈の仕方に厳密な意味で干渉できない以上、不可避的にそのようになる性質はあると言わざるをえない。しかし他方で、本書もそのような印象を受けるが、「政治」と「学問」という区別自体を放棄し、「全てが政治的議論だ」と言ってしまっている印象が強い。それを言ってしまえば、本書もまた(というか世間に流通している学術書自体が)「学問的な本」と呼ぶに値しないことになるだろう。このような議論は本書で展開するネオリベ批判にも非常に都合がよい「学問的(?)立場」なのである。本書が構築主義を殊更強調するのは、恐らく「学問的(?)立場」の表明の意味で、それこそ学術的な意味で必要なものだということは理解できるものの、どうにも私にはご都合主義的な側面が見えてならない。
 結局の所、構築主義にみられる政治的側面の強調自体が、冷静な現状分析を行うための視野自体を失わせてしまうのではないか、と思ってしまうのである。そもそも構築主義においては、「冷静な現状分析」なるものが不在なのではないかという見方を示してしまうからである。しかし、それは実証的に示されている訳ではないのではないか(※3)。だからこそ私は構築主義自体に疑問を持っているのである。



※1 読売新聞1972年3月1日社説記事にも「子ども自身」の問題として登校拒否を見る議論の可能性が見いだせるが、加藤の議論からはこのような観点が提出されていないのも問題であるように見えてしまう。特に「学校制度批判」としてこの登校拒否問題が取り上げられる場合、「学校の責任か、親の責任か」ではなく、「学校の責任か、子どもの責任か」で議論されている傾向の方がむしろ強かったのではとさえ思える。実際、本書で参照されている奥地圭子の認識もこれに近いといえる。そして、このような「家庭責任論」への過剰な視点付与も、加藤のいうネオリベ政策ありきの議論をしているからではないのか、と考えたくなるのである。

「逆にこの本は、「どんな学校なら必要か」を考えてほしいという問題提起でもある、と本文でも述べた。学校離れを起こしている子どもたちを「直そう」とするのではなく、子どもが背を向けていく学校を問い直すことのほうが必要である。子どもをめぐるどんな問題も、子どもの側に立って、子どもの人格と人権が本当に尊重される中からしか本質的解決は生まれない。」(奥地圭子「学校は必要か」1992、p222)


※2 余談だが、おそらく加藤が朝日新聞の記事に依拠して分析を行ったのは、単純に朝日新聞の新聞データベースである「聞蔵」にアクセスできる身近な環境にあったからだろう。実際、私が所属していた大学院でも、研究室のPCからアクセス可能だったのは聞蔵のみだったし、実態に統計は取っていないが、一紙の新聞記事を分析した研究は朝日新聞に依拠したものが最も多いだろうと思う。
 しかし、大衆紙として最も読まれていることはあくまで読売新聞であり、社会的影響力を考えるならまず読売にあたるべきではないかということ、そして私自身も3紙のデータベースにあたったわけだが、ここ数年来そのようなデータにアクセスすることはかなり容易になっていることからも、他紙の状況くらいの簡単な確認は著者自身もすべきところだったのではないかと思う。おそらくこのような物語を作り上げてしまったことの一因は朝日新聞の記事のみに依拠してしまった点も大きいといえるからである。


※3 本書でも言及されているシャンタル・ムフの議論なども少し読んでみたが、どのような事情があるとしても、下記のように「調和」の存在を否定するような言説は一般的には支持できない。構築主義における政治的態度というのも、結局はこのような見方のもとに成り立っているといえるだろうが、このこと自体が(たとえある程度実証的な側面でそう言えるとしても)一つの価値判断の域を越えているものではなく、そのような価値の先取りによって「学問」と「政治」の区別も全面的に(どのようなケースにおいてもまとめて)否定されるような議論はなされるべきではないと私は考えるのである。

ポスト構造主義による視座は、近代民主主義の種差性を把握するうえで、あらゆる同一性の可能性の条件と同時に不可能性の条件をも表象する還元不可能な他性の主張とともに、合理主義的アプローチよりもはるかに優れた理論的枠組みである。「構成的外部」の概念によって、対立と抗争性の永続を示唆する多元主義の理念へと導かれるだろう。実際、対立や分割は、不幸にも完全には取り除くことのできない妨害として、また調和によって構成されるひとつの善の十全な実現を不可能にする経験的な障害として理解されるべきではない。そもそも私たちは合理的で普遍的な自己と完全に一致することはありえないのだから、そうした調和に到達することはありえないのである。」(シャンタル・ムフ「民主主義の逆説」2000=2006、p51)


(読書ノート)
p12-13「先に挙げた2007年の記事と比較すると、20年を経て「問題」のあり方は大きく変わった印象を受ける。たとえばその理由や背景については1987年の記事は、18歳人口の増加と大学短大への進学希望者の増加によって大学が「狭き門」になっていたことが問題とされ、それと並んで「登校拒否」は注目されている。それに対して2007年の記事では「いじめ」との関連が強調されており、問題をとらえる文脈が大きく変わったことが分かる。」
※1987年の記事出典は朝日新聞(8月11日朝刊)。学校ぎらい、ないし登校拒否といじめの関連性が議論されていなかったとでもいいたいのだろうか?しかも、必ずしも関連性として進学者増加(受験競争)との因果が語られていることが確認できない引用である。
P25「しかし、この『第2集』(※2004年の生徒指導資料)においても、心理的、情緒的な側面を強調するニュアンスは強い。たとえば家庭の貧困、不安定な生活環境がもたらす学習への動機付けの弱さや、また外国籍の子どもたち学校への文化的不適応といったケースについては指摘がない。保護者による虐待についても、その社会的な背景についてはふれられておらず、長期の欠席を社会的・文化的な現象とみる視点は明示されているとはいえない。」

P45「先進国においては国家の経済的危機を救うと同時に、その凝集性としてのナショナリズムの新たな構築の必要性が1980年代には先鋭化していたのである。その解決が教育に求められたのであり、1980年代から先進国を中心に進められた教育改革は、国家の経済的危機を救うと同時にナショナリズムの強化を企図していたといえる。」
P49「また、学校中心の社会への批判がこの研究の主題となっているが、その主張の背景には、それまで登校拒否が「家庭の問題」と扱われてきた経緯がある。第1章で参照した『生徒指導資料第18集』(1983)では、登校拒否の原因として家庭の養育態度をあげ、過保護である、親が子の言いなりである、過干渉である、といった記述で家庭のあり方を問題としていた。このような解釈の枠組みのなかで、子どもの登校拒否を背景にした家庭での親殺し・子殺しの事件がいくつも報じられた。これらは家庭の責任、とりわけ母親の養育責任を問う社会的風潮のなかであらわれた事件だったが、そのなかで親同士が結束し、学校中心の社会のあり方に異議を申し立てる運動が1980年代には各地でおこった。」
※批判が研究の主題という言い方もおかしくないか?

P72「それまで不登校を契機にした運動の中では、不登校の経験について、自らの「選択」というかたちで肯定的な語りが多くなされてきたことを、(※貴戸理恵2004は)当事者たちへのインタビューをもとに問い直したのである。しかしながら不登校の当事者とその親や居場所の関係者との間を峻別し、あくまで〈当事者〉を強調する主張は、むしろ当事者なるものを単一な実体として本質化する危険性をはらんでいる。それは同時に、不登校に対する病理としての解釈を脱構築してきた社会運動を無力化する主張も含んでいたといえる。「選択」というロジックを問うのなら批判するべき対象は、既存の学校の改革の必要性という主張に呼応するかたちで教育改革の正当性をつくっていったニューライトによる支配的言説である。不登校が社会的な不平等と結びついていながら、当事者の自発性や主体性を前提とした語り方によってそれが不可視化しているのなら、「選択の重視」という知の構成によって矛盾を見えなくするという新たな支配の形式を、より広範な文脈と結びつけて議論すべきであろう。」
※本書における家族責任論の単一化にこの議論が適用されないのはなぜだろう。

P73「ここまで見てきたように不登校とはきわめて論争的な概念であり、それをいかに把握し、意味づけるかをめぐって、これまで多くの葛藤と議論が重ねられてきた。さきに確認したように、本書は構築主義に立脚して「不登校」とはつくられた問題であると考える。「不登校」という認識の仕方、問題のとらえ方や呼び名はどのようにつくられ、それが「当たり前」になっていったのか。それは見方を変えれば、学校に行かないことをいかに定義するかによって、就学の自明性を裏書きする過程であったといえる。」
※結局構築主義の問題と読むべきか、それとも本書自体が構築主義もどきでしかないとみるべきか。結局その政治性の問題をフーコーとは異なり一面的に解釈しようとしているように見えてしまうことが何より問題なのである。

P118「この1958年度の全国版の報告書(※長期欠席児童生徒調査)と東京都版の報告書の間の現状認識のずれは、この年を境にした全国調査の終了と、東京都独自の長期欠席者調査の開始につながる。そしてここには「長期欠席者問題の解決」という認識が、当時の政治的な過程のなかでつくられたものであったことが読み取れる。
ひとつには全国調査把握には表れない長期欠席者の状況の多様性が、自治体による認識には表れていたとみることができる。それは同時に、国の教育政策を方向づけるイデオロギーが機会均等から能力開発へと方向転換を迎えようとするなかで、教育の量的な普及という課題に一定の成果を見出そうとする中央省庁の政治的な意図を読むことができる。
他方でこのずれは、文部省が煽り続けてきた長期欠席者の状況の多様性が、自治体による認識には表れていたとみることができる。それは同時に、国の教育政策を方向付けるイデオロギーが機会均等から能力開発へと方向転換を捉えようとするなかで、教育の量的な普及という課題に一定の成果を見出そうとする中央省庁の政治的な意図として読むこともできる。
他方でこのずれは、文部省が煽り続けてきた長期欠席者のあぶり出しと微細な把握というまなざしが、自治体や学校関係者に自律的に内面化させていたことを端的に示している。」
※ただの根拠なき仮説に過ぎない。1952年の長期欠席者率全国平均3.76から58年に1.80、59年には1.29にまで減少していることから、単純に問題が縮小したに過ぎないと解釈する方が普通かと思われる。何より加藤は都が調査を始めた理由を勝手に代弁しているに過ぎないのである。ところで、東京都以外の自治体はどう考えていたのか何も示されていないが、それについてはどう考えるのか?たった1ケースの提示(しかもケース抽出の根拠不明瞭)によってなぜこのような主張ができてしまうのか??もしこれが成り立つのであれば、文部省の意図が読み取れる(もちろん、長期欠席者問題を能力開発政策によって排除しようとする)文章の一つぐらい引用してみたらどうか。それを示さない限り、ただの疑似相関をもっともらしく説明しているにすぎない、というレベルの域を超えない。しかも自治体を煽ったのは本当に「一方的な権力者」とみなされた文部省によるものだったのだろうか?

P122「これまでみてきたように、1950年代から60年代にかけての「長期欠席者」の減少のプロセスとは、中央省庁と東京都教育委員会それぞれの現状認識、重層化した「実態」、そして機会均等から経済成長への戦後教育政策の方向転換、それらが潜在的な緊張関係をもちながら節合していった過程と考えることができる。長期欠席者の減少とは、戦後の新学期の定着とシステム化とともにきわめて短期間のうちに実現したが、しかしそこには数字のうえでの減少には集約しきれない、社会的・文化的断層が残存していたと考えられる。そして1960年前後には、教育の機会均等を掲げ、学齢期の子どもを徹底して学校の秩序に組み込もうとした力が、能力と適性による階層秩序化の力学へと転換をむかえるが、そこで新たに注目されていくのが、「学校ぎらい」による長期欠席者なのである。」
※一文目の話について、「現状認識の違い」「教育政策の方向転換」については根拠がない。
P127「能力開発は社会の発展と福祉の拡大をもたらすという図式は、機会均等と競争の両立を可能にしたのである。こうした政治的文脈のもとで、長期に欠席する子どもの把握にしたのである。そうした政治的文脈のもとで、長期に欠席をする子どもの把握においても質的な転換がおこったのである。」
※ここでいう政治性は明らかに権力者からの一方的な働きかけを前提にしている。

P153「「登校拒否」を「学校ぎらい」に読み替えるという把握の仕方はさきにみたように1970年代から学校においてすでになされ始めていた。しかし、そこにはそれまでの『生徒指導資料』で繰り返し問題とされていた「登校拒否」だけでなく、非行や怠学と見なされるような生徒の状態も含まれていたと考えられる。」
※これは登校拒否が初期には精神遅滞や学校への価値観(労働との関連)、ないし本書では語られないが大人の社会運動的な側面を持ち得たことと関連するが、これも本当に正しいか検証してもよい問題である。
P157-158「そうした子どもたちの長期の欠席の顕在化は、臨教審以降の教育改革のなかでおこった学校、地域、家族の再構造化のなかでの諸変化、またより広く見れば新自由主義新保守主義の一体化した政治改革のなかでの教育と就労の関係の再編、グローバル化による流動性の高まりといった社会の様々な領域の変化とも無関係ではない。ここで示されているのは、長期の欠席を社会変動のなかでの、教育を通じた社会的排除の具体化のひとつとしてみる必要性である。」
※ここで社会的排除とは、結局「長期欠席とされる者の裾野の拡大によって、欠席に背景がより見えにくくなったこと」(p157)と関連していると思われる。しかしこれはひとつ不登校の問題だけはなく、すべての教育病理を「網羅的」に把握し始めた態度そのものに向けられるべきだろう。もっとも、それまでの教育病理の捉えられ方についても検討しなければならないのであるが、それ以前の問題意識も褒められたものとは言い難いのではないか。結局ある種のないものねだりの領域の議論であることに変わりはないのではなかろうか。もしくは、そのような「網羅的」言説に加担してしまっていること自体を問題にし、具体性ををあぶり出すような態度そのものが必要なのではなかろうか。

P176「これらは登校拒否を家族の不和をもたらす「悲劇」としてセンセーショナルなかたちで伝えるものだが、こうした語りには近代家族規範にもとづく親役割の再強化をみることができる。」
※これ自体は誤りと言い難い。
P178「また『「拒否」は病気じゃない 個性抑える学校に原因』(1987.10/24)以降、登校拒否を通じた学校教育への批判が続く。」
※ストーリーとしては、家庭責任論から学校問題が派生したという語りである。そしてこれが教育改革論における学校問題視と共振していたとみている(p179)。これが正しいかどうかの検証が必要。1972年から1983年までを家庭責任論の時期みる。合わせて、80年代後半から登校拒否の病理論的語りが解消されていったとも述べている。

P200-201「ポスト福祉国家における家族は、性別役割批判と集団性が弱まった不安定な関係にありながら、教育や福祉に関してはより多くの役割が課されている。新自由主義的な教育改革が進むなかで選択と投資の主体として、家族は子どもの教育を方向づけるうえでの重要性が増しているのである。」