河合隼雄・加藤雅信編「人間の心と法」(2003)
今回はいわゆる「日本人論」関連のレビューをしていきたい。
本書は川島武宣的な日本(東洋)/西洋の対比として用いられていた法意識の議論(p39)に対して、二種類の大規模な海外比較の調査の結果を用いつつ、その検証も含めた法意識の分析を行っている。本書で特に目立った論点は「契約順守意識」についてと、「調停制度の利用」、「裁判所へ訴えること」の3点であるように思う。
確かに外見上は明らかにアメリカの方が訴訟の受付件数が多く、その意味で川島的な発想を支持するようにも見える。しかし、本書ではそのような外見上の現象とは別に、アメリカ人が裁判を好んで行う「心性」を持っているという見方に対して「そうであるとも限らない」ということを提示している。
まず「契約順守意識」については、p69の通りである。法治的であれば当然契約についても順守し、そうでなければ順守意識も弱体化することが予想されるが、必ずしもそうでないと示されている。これについては、実際のデータの提示(22ヶ国の比較調査の結果)がないものの、概ね正しいと読んでよいように思う。
次に「調停制度の利用」については裁判所に訴える訳ではないが、それとは異なる調停の制度活用についての望ましさを聞いたものである。日米中3カ国調査では、「友人が貸した金銭を返そうとしない」「電気器具の不良品の取り換えに店が応じない」「交通事故の賠償金を加害者が支払わない」の3ケースについてどのような対応が望ましいかを聞いている質問がある。これについてはp134のように、どの国についても調整制度の利用は大半が望ましいとしている。
最後に「裁判所に訴える」ことについては、確かに望ましいと回答するのは米国が日本より多いが、中国の方が更に多く(p39)、また、単純に裁判に訴えるということ自体が訴訟自体が裁判を好む、好まないだけという性向の要素だけで行われる訳ではないことを示している(p96-97)。更に日本人は訴訟が嫌いであるというよりも裁判制度との関わり自体が疎遠であり、むしろ無関心に近いこと(p137-138)が述べられている。
これについては、先ほどの「調停制度の活用」と比較するとなおわかりやすい。米国の場合「望ましい」「どちらかといえば望ましい」と回答しているのは、「金銭貸借」「電気器具取替」のケースについては、調停制度の方が割合としてかなり高く、「交通事故」の場合についても、割合は拮抗している(調停制度が望ましいとするのは約79%であるのに対し、裁判所に訴えるのが望ましいとしているのは約83%)。
○価値の「絶対性」と「相対性」について
本書ではこれらをもって川島的二項対立論は支持できない方向性をもって議論している。私自身も仮に川島の議論が本書で示されているような内容であるなら、概ねこのことについては同意するところであるが、他方で特に裁判所への訴えに対する議論は、まだ解釈の取り方によっては議論の余地が残されているように思う。
特にここで考察したのは、価値の「絶対性」と「相対性」についてである。これはこれまでのレビューのなかで取り上げてきた社会問題について、そしてすでに贈与論の関連で阿部謹也を取り上げた際に合わせて議論していた日本人論などでも大きな論点となってくるものである。
基本的に両者は理念型としても整理可能である。まずもってそれを理念型として設定する場合は、絶対的な指標として定義されることが理想とされるが、それが現実にどの程度あてはまるかどうかを問う際にはむしろ相対的なものとして取り上げられることが多かった。そして、理念型の議論で注意すべきだったのは、そのような理念型と現実のあてはまりの程度をみていく理念型αの問題と、その理念型が語る因果関係の妥当性についてみていく理念型βとの違いと、たとえ理念型βが重要であるとしても理念型αの問題は無視されるべき性質のものではないということだった。基本的に価値の「絶対性」と「相対性」の問題もこれらの論点で問題をまとめられるだろう。つまり、
1.まずもって両者は違いが意識されることなく、混同されてしまう可能性があること
2.特にそれが相対的な問題としてしか捉えることができない場合は、取り上げられている事象の差異が本当に問題と呼ぶに値するものなのか、という点である。
まず、1.についていえば、本書における川島の法意識論の検証は、それを否定する場合は統計的な指標から述べられている傾向が強い。特にこれが該当するのはp134の主張である。しかし、これについては、絶対的な観点からそう述べられているに過ぎず、相対的な観点からすれば正しい主張とは言えない。つまり、日本、アメリカ、中国の3カ国はどの国も多数の者が調停制度を活用すべきと答えているものの、逆にこれを望ましくないと答えている者は「電気器具取替」「交通事故」のケースで日本が明らかに少ない。相対的観点で見れば、アメリカは日本のような調停制度を好まないという主張も間違えではなくなるのである。
また、「裁判に訴える」ケースについても考え方次第である。確かにそもそも日本人は裁判制度に対する認識が薄いため、裁判所に訴えることが望ましいかどうか「わからない」と言ってよいだろう。そして日本人も裁判所に訴えるとしている割合は、「電気器具取替」「交通事故」について言えば、それを否定する者と比べれば多い結果になっている。しかし、相対的に言えば、やはりアメリカの方が訴える者の割合は日本よりやはり多い。この事実を素直に読めば、「日本人が裁判嫌い」であるという風には言えないが、「アメリカ人が裁判好きである」というのは相対的に見れば正しいという余地があるのである。
日本人論の多くは統計調査による比較という形よりも、見聞やそもそものイメージの比較といったものからこれを主張する訳だが、この主張のされ方自体が(両者の違いについて言及しない限り)そもそも絶対的か相対的か判断できないといえるものであるし、また多くの場合、相対的なものを絶対視する場合が多い。これは本来絶対的指標であるべきとされる理念型を実際と比較する場合にもそのような議論の還元に陥りやすいものであることから、当然の傾向といえるかもしれない。
このような議論において悪い意味で阻害要因になっているのが「社会」というカテゴリーであると言ってもよいのかもしれない。そもそも「社会」の傾向というものについては、それが各個人の傾向とずれている可能性については当然許容される。「社会」はある集団なり地理的分類に基づき、その傾向を述べる場合はそれらの集団・地理的なカテゴリーをもって定義付けられるからである。しかし、このような「社会」はいかに実態を捉えるのかが、それ自体で大きく議論になるようなものである。
本書における川島の議論は相対的な議論に限定する場合、東洋/西洋という区分による比較が有効でないことについてはその通りであるが、肝心の日本/アメリカの比較に限れば、十分に川島の法意識論を批判したことにならないと言う余地はまだ残しているのである。法をアメリカが重視するのは正しいが、よりソフトな「契約順守意識」の問題については、2つの調査では決定的な議論ができないのである。日米中3カ国調査においては、契約順守の問題は、法の議論と結びつけて議論してしまっている。そもそも法に対する信頼というのは、その法の設立経緯などの要素を多分に含んでいることは本書も認めているところであり、純粋な1対1の契約関係について議論しているのはむしろもう一つの22ヶ国の比較調査による指摘である。確かにこの結果によれば、契約順守の意識は日米でほぼ差はない。しかし、この調査は大学生、しかも2つの学部(しかも法学・経営商学という、ある意味契約順守の立場に近い者が集まると想定される学部)の学生に限定したものであり、これを国民性の議論として展開すること自体に無理があるだろう。
また、合わせてp69の引用にあるような川島の「日本人の人情問題」について直接的に検証した訳でもない。確かに3カ国調査の「金銭貸借」のケースは友人関係の影響を受け、日本よりもむしろアメリカの方が争いを行おうとしない傾向があると言えるだろう。しかし、これで人情の優劣を測るというのは、あまり適切だとは言えないだろう。
結果として、少なくとも安易に想定されやすい「日本人の法意識」のいくつかについては反証できているが、少なくとも川島の著作である「日本人の法意識」の引用部分に見合った批判が十分展開されていない側面もあることは押さえておくべきだろう。
さて、2.についてである。基本的に相対的な価値比較しかできないケースが非常に多いものだと私は思うが、この論点はその差異が問題とされるのはいかなる場合か、ということである。これまでも「社会問題」が問題であるとはどういうことか、といった問いや、古いレビューだとウルリヒ・ベックのレビューで述べたリスク・コミュニケーションの議論でも想定してきた論点である。基本的にこれらを「問題」としてとらえる立場にある者は、その外部の問題系であったり、逆にその「問題」となるような状況が生み出してきたメリットについて無視して問題への批判を行う場合が多いように思う。これはその論者が支持する価値観に反することだから、考慮されることがないという単純な理由であることも多いと思うが、そのような簡略化はそう簡単に行ってしまってよいものだろうか?特にその差異が相対的であるならば、その良し悪しの判断はその時点での「状況」にも多いに依存しうるものといえるのである。そして特に「社会問題」という議論は、その問題を拡大化し、問題解決の必要性を訴えがちである。その問題の事実の有無の確認は当然重要だが、「ある」とする場合には、社会に占める程度、及びその影響力の両者を考慮する姿勢がなければ、その問題は一人歩きしかしないのである。私自身が「社会問題」を歴史的に捉えようとする試みをしているのも、このことを測定していくことが重要と考えているからに他ならないのである。
○河合隼雄の日本人論の是非は?
さて、最後に指摘しておきたいのは、本書において河合隼雄が編者・執筆者におり、自身の「父性原理」「母性原理」論を展開している点である。日米の法意識について懐疑的な議論がなされている中で、河合の理論の中には「父性原理」は契約関係として人間関係を捉え、「母性原理」は一体感(共生感)によって人間関係を捉えるとまとめられている(p12)。繰り返し河合は父性原理を西洋の論理、母性原理を日本の論理として紹介してきたのであるが、本書の主張を通すのであれば、河合の議論についても批判的検討が必要だったのではなかったのか、という疑問がどうしても出てくるのである。
河合は2つの原理の特徴を人間関係に限らず、いくつかの性質からその違いを指摘している。まさに日本人論の厄介な議論の仕方の典型であるように思うのだが、もっともらしい性質を並べ立てて議論しているため、ある意味で契約関係について批判できても、その他の性質については、批判されないため、その2つの原理が欧米的か、日本的かという区別について十分に批判に晒されることなく、正当性が与えられかねない。
河合の父性原理・母性原理論ついては、日を改めて検証を加えていきたい。
(読書ノート)
p15「ここに詳しくは論じないが、筆者はどちらの原理も一長一短であり、どちらが正しいとは言えない、と考えている。しかし、ヨーロッパ近代において、非常に強い父性原理による文化が、洗練されて強力となり、それは現代につながる、近代科学や個人主義的な考えを生み出して、それが今では全世界を席捲する状況になっていることは、よく認識しておく必要がある。
日本の現状については後にもう少し詳しく論じるが、欧米に比べると、日本は母性原理優位の文化であることは、前述したところからも、推測されることであろう。」
※by河合隼雄。
P16「その(※近代の人間に対する反省の)なかのひとつとして、「自然との共存」ということが注目されるテーマとして浮かびあがってきた。言うなれば、父性原理によって、人と自然を切り離すことを反省し、母性原理による、人が自然に「包まれ」て生きる生き方に、価値を見出そうとする人が、現代人のなかに生じてきたのである。」
P39「川島的な理解の背景には、法治の西洋、法なくしても社会が律せられる桃源郷的ユートピアの東洋、というイメージがあるように思われる。それがまた、訴訟社会アメリカと訴訟嫌いの東洋というイメージを生んでいるのであろう。このようなイメージどおりの違いがはたして本当に存在しているか否かは、法意識調査からある程度明らかにできるであろう。……この3カ国調査の結果、桃源郷的法イメージは、日本の一部にはみられるものの、現代中国には存在していない。それどころか、法の不可欠性の評価は、中国のほうがアメリカ以上に高いという結果が判明したのである。」
P59川島の「日本人の法意識」p98以下の引用…「アメリカ人は法律、規則、約束をよく守り、またよくそれを利用する国民である。日本人はそれらに対する観念が十分明りょうではなく、情状、義理、人情、友情、真心などを重んじ、それらに頼る。……彼ら〔アメリカ人〕が日本人よりもよく約束を守ることは周知の事実であろう。……日本人が人と約束する場合には約束そのものよりも、そういう約束をする親切友情が大切なのであって、こういう真心さえ持ち続けていれば、約束そのものは必ずしも言葉どおり非常に政策に行わなくても差支えない。……彼ら〔アメリカ人〕にとっては、約束と友情とははっきり別のものだ。」
P69「また、西洋諸国についても、契約遵守意識はさまざまであり、アメリカの契約遵守意識も多くの質問項目では日本人の場合とそれほど変わりがなく、違いがある質問のなかにも、契約遵守意識がアメリカ人の方が高い質問も、日本人の方が高い質問も存在した。この調査をみるかぎり、日本対アメリカないし日本対西洋という川島的な契約意識の差異にかんする図式は成立していない。」
P75「この点で、自国か外国かにかんし回答者が非常に公平な態度を示し、排外的な要素がほとんどみられなかったのが、(※調査対象の22カ国のうち、)日本、イスラエル、ドイツの3カ国であった。……
ただ、これとは対照的に、わが国の近隣諸国には、フィリピン、韓国、中国等、排外的感覚が強い国が多かった。」
※実施は2000年前後と思われる。
P96-97「小括すれば、アメリカが、友人に対しては、法的手段を控える傾向がみてとれた。ビジネスとプライベートは別というアメリカ人のタイプは実際に存在しそうである。また、日本人が借用書をとることが多いのは、日本のほうが、法的手段を好むというより、いわゆる一筆とっておくのであって、必ずしも訴訟に使おうというわけではないと解釈すべきであろう。友人ということは、長期的かつ広範なつきあいなのであるから、別の件で何か頼めることもあるかもしれないあるいは、再び借りにきたときに断る手段にするといったような関係とみるべきであろう。中国が、借用書を取らないのは、借用書の有効な使い方が乏しいからと考えられる。いずれにせよ、3国間で友人の意味するところが大きく異なっていることに十分な留意が必要である。」
P134「以上のように日米中の3国において、友人間金銭貸借トラブルでの「調停制度の利用」はどちらかといえば望ましいとされ、電気店修理トラブルおよび交通事故では「調停制度の利用」が望ましいとされている。逆に言えば、「調停制度の利用」を望ましいとする傾向は特殊日本的でも特殊アジア的でもなく、3カ国に共通の傾向であることが分かる。」
※なお、金銭貸借トラブルについては、日本は「わからない」の回答が最多。また、交通事故における調停制度の活用を否定した割合でいえば、日本は3.2%に対して、アメリカ、中国10%を超えている。また、電気修理事件についても望ましくないの回答は、日本、中国は3%程度、アメリカは8.6%である。
P137-138「以上のように質問16友人間金銭貸借事件におけるアメリカ人と日本人場合以外では、日米中3国において「裁判所に訴えること」はどちらかといえば望ましいないし望ましいとされている。こうしてみると、日本人は訴訟嫌いであるという主張は事実に即さないと言わざるを得ないと思われる。「わからない」と回答する者が非常に多いことから言えることは、日本人にとって裁判が「遠い存在」であり、よくわからないとせいぜい言えるだけだ、ということなのではなかろうか。」
※「望ましい」が日本が少ないのも事実だが、「望ましくない」もまた日本は少ない。
P161「若者に最も必要とされることは、きちんとした規律、ゆるがぬ決意、そして家族と国のために働き、また戦おうとする心である。」と回答した割合、賛成がアメリカ9割、中国78%に対し、日本は36%。どちらともいえないが41%。
P277「韓国では長く軍事力を背景にした、いわゆる権威主義的体制が続いていた。そして、歴代の統治者たちは、そうした体制を維持するための道具としれ法を利用してきた。従って、国民からすれば、法は政治体制を維持するための権力者の道具であって、国民の権利を守ってくれる道具とは到底思えなかったようである。」