小尾乕雄「教育の新しい姿勢」(1967)

 今回は、「地域子ども学校と地域子ども組織」のレビューで少し取り上げた小尾の著書を取り上げる。本書は小尾乕雄自身が東京都教育長時代に書いたものとして、当時の競争的試験制度是正通達であった「小尾通達」の背景を押さえるのには重要な内容であるように思う。

 描かれているシナリオについては非常にシンプルにまとまっているといえるだろう。流れとしては、
1.現代っ子が自分たちの小さい世界に閉じこもり、他人のことや社会のことを考えないようになったこと(p21,p24-25)。
2.しかし、子どもはもともと理想主義的であり(p28)、このような状況は子ども自身の問題ではなく、疎外されたものである。その疎外要因は多岐にわたる。ざっと見るだけで家庭教育(p163)、宿題の問題(p165)、塾の問題(p168)、サラリーマン教師の問題(p273)、学歴評価の問題(p285)といった議論がなされる
3.この問題を解決するために、学校群制度の導入の必要性を強調する(p296)

といった感じである。

 ただ、全体的に主観的な判断で議論している傾向が強く、どれも有効な立証ができているかどうか疑わしいか、誤りであるものばかりであった。特に最初の導入では実証的に東京都の調査の過去との比較をしているように見える分、その後の議論に検証可能な根拠が用意されていない点については、非常に悪質ではないかとさえ感じる話の流れであったように思う。


 それぞれの内容について少し考察してみる。
 まず、1.について。この調査は6つの選択肢の中で最も自分の目指す生き方に近いものはどれか、という内容の抜粋であり、これを根拠に議論を展開しているものである。回答の内容は、高山武志(1968)に同じ質問項目があったので、参照されたい。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/29041

 ここでの議論の問題は、子どもの利己性について、この結果のみから曲解して議論しているという点である。結局この質問では「金や名誉を考えずに自分の趣味に合ったくらし方をすること」「その日その日をのんきにくよくよしないでくらすこと」が東京都の調査で、過去の調査と比べると相対的に高かったという点から導いている。しかし、これはこの質問の性質として一番近いものを選んでいるに過ぎず、そのような利他的な態度が否定されるような質問の回答を想定していないことに全く配慮がなされていないのである。この質問が複数回答可能であって、利他的な内容に回答がないというのであれば小尾のような主張も納得ができるが、価値観の否定にまで及ぶ質問とみなすのは強引であると言わねばならない。

 次に2.について。これについても、家庭教育や塾に対する見方は主観でしかないように見える。例えば、「一般的な家庭教育」がどうかは知らないが、家庭教育として位置付けてよいであろう「しつけ」については、東京学芸大学社会学研究室(1963)が実証的な議論をしている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001877365
 ここでは、そもそも「しつけ」の中に「勉強をさせる」という項目自体が存在していない点が大いに議論の余地を与えるものといえる。また、進学要求については、特に男子については大学進学まで希望する親が多いことが確認できる。しかし、実際にどのような「しつけ」を重視しているかを聞いたものについては、この「勉強をさせる」に近い「根気づよさ」よりも「健康な体づくり」の方に重点が置かれていることがわかる。少なくとも、小尾のいうような家庭教育像を持ち出すには、議論の余地があるような内容ではなかろうかと思う。
 確かに「社会問題」としての教育ママ言説について言えば、このような形で家庭教育が欠落しているといった議論がなされていたのは事実である。しかし問題なのは、結局これを「社会問題」ではなくて、「一般的な家庭像」として議論をする際にその検証プロセスを全く経ていないということなのである。そして小尾が安易に越境してしまったように、両者の区別(境界)というのは、さほど意識されることもない場合が多いというのもまた事実なのではないかと思う。
 また、「宿題実施の批判」を行っている点については特徴的な点であったと思う。参照文献が不明なのが残念な所だが、この議論がどのようになされているのかは気になった点である。

 最後に3についてである。これについて即座に疑問となったのは、「何故高校入試による是正なのか」という問題であった。つまり、大学入試の変革なしに、高校入試の改革を行うことはいかに有効なのかという論点である。
 これについては、学校群制度導入後、特に東大入学者が日比谷などの公立高校から、灘・開成といった私立や国立高校に移ったということがよく知られている。以下のサイトに詳しい。
http://www.univpress.co.jp/chukou/column/todai_ranking/
 つまり、見方によっては学校群制度の導入は公立学校における序列化の責任回避のための政策としてしか作用されず、その規制から外れることができた私立・国立学校における序列化という形で残り続けたということ、見方によっては私立等にいける子どもが有利になることで、親の所得格差等の影響がより強くなったという仮説を立てるのも難しくないように思える。これは大学入試についての改善がされないために起こったともいえるのではないか。

 本書においてとても気がかりなのは、この大学入試との関連については全く言及されることがないまま、学校群制度の導入を推し進めようとしていた点にあるといえる。何故「日本という社会のゆがんだ現象」の解決として学校群制度が選ばれたのか、という論理がいまいち理解できないのである。この解決策は表面的に過ぎないのは明らかであるが、それでもなおこのような形で政策が選ばれてしまったのか、このような問いの立て方は今後の教育について考える場合にも有効ではないかと思う。
 これについては次回のレビューでも紹介したいが、大学については国立大学協会などの大学による試験制度の管理があり、高校入試は、都道府県レベルの教育委員会により取り扱われるという、素朴な管轄のズレと、それらの対応の速度の違いという見方も可能といえるだろう。

 もう一点学校群制度の導入において注目しておきたいのは、この制度が「高校の多様化政策」とは真っ向から対立しうる内容だということである。しばしばこの多様化と序列化の関係性については問題となり続けていたといえるだろうが、学校群制度は序列化の抑制を行うと同時に、学校の標準化を目指す意味で明らかに多様化とは逆行の政策だったのではないかと思う。学校の多様化を行うのであれば、その適正に合った生徒がより多く集まった方がより多様性が生かせるのは、少なくとも論理的には明らかである。「序列化なき多様化」というのは、客観的には明らかにありえない現象であり、常に多様化について序列化をしようとする人間がいる限りは常に序列化の試みがなされるような性質のものであろう。これについても、結局価値の多様化が生かされるような価値をめぐる議論を具体的に行っていかなければ、絵に描いた餅にしかならないような性質の議論なのではないかと私などは思うが、本書がまさにそうであるように、「高校の多様化」というのは、実質的な内容に欠落した「綺麗事」の代名詞のように語られていた傾向も否定できないのである。
 私自身もこの高校の多様化問題の時代的な流れの整理はできていない所だが、このような学校群制度の導入のような動きも多様化政策への少なからぬ影響があったのではないかとも思える。


(読書ノート)
p19「以上のような傾向に注目してみると、現代っ子には「夢がない」とか「功利的・打算的であまりにも自己本位である」とか「積極的・意欲的な生活態度が見られない」というような批判は、甘んじて受けなくてはならないように思われる。」
※昭和五年の文部省調査(壮丁思想調査、N=8561、対象の8割以上が20歳!)、昭和二十四年の桂広介の調査(中学生を対象とした)と昭和四十一年の東京都調査(N=611、中1-3年対象)が比較されている。桂の調査は大規模だったとされるが、どの程度だったのか?
P19「しかし、だからといって、「今の子どもはだめだ」とは考えたくない。また、そう考えてはいけない。」

P20「というのは、?(※理想主義的・社会的態度を重視する者)の内容をみると、(6)の「自分一身のことを考えずに、社会のために、すべてをささげて暮らす」というのが四〇%以上もある。他人と同時に自分もたいせつにすること、じゅうぶんに個性を発揮するというしかたで社会に貢献することが民主主義の考え方であるから、「自分一身のことを考えずに」ということは、考えようによっては、問題であるといえよう。」
P21「それはともかくとして、先に述べたように、「自分に合った暮らしをする」こと自体は、たいへんけっこうなことであり、そのこと自体を非難するとしたら、それは非難するほうがおかしいといってよい。
問題は、子どもたちの考え方や生活態度が「自分の趣味合った暮らしをする」ことに終始してしまって、他人のことや社会のことを考えないこと、協力とか責任とか奉仕とかいうようなことに無関心になってしまうことにある。」
※このことは調査結果からは全く取り出すことができない論点。
P24-25「以上見てきたように、子どもたちは、年とともに、また学年が進むにつれて、自分たちだけの小さな世界に閉じこもり、いわゆる小市民的なささやかな平和と幸福とを求める傾向が強くなってきている。いったい、これは何によるのであろうか。
もちろん、こうした子どもの考え方は、日本の社会そのもののあり方に根ざしているといえよう。しかしながら、そういってすまされることではない。われわれは教育関係者として、現在の学校教育のあり方について、きびしく反省の目を向けなくてはならない。」
※この調査は一番価値があると思うことに答えてもらった内容であって、その態度が欠落しているかどうかを全く問うてはいない。にもかかわらず、小尾はここで自分の世界に閉じこもる子どもが増えていると断言してしまっている。

P28「考えてみると、この二つの傾向(※人道主義へのあこがれと、消極的・現実的・個人的傾向)は、決して矛盾するものではない。子どもたちはもともと理想主義者であり、ヒューマニズムへの強いあこがれをもっている。しかしながら、現実はきびしい。さまざまな制約の中で、子どもたちは、次第に疎外され、現実主義者としての生活を余儀なくされているのである。」
※何が疎外しているとみなすか?またここでいう「もともと」とは何を意味しているのか?
P29「つまり、もともと理想主義者であり、ヒューマニスチックである子どもたちの、明るく伸びようとする芽が、現代の社会、学校、家庭の中で摘み取られているのではないかと考えられるからである。」

P31-32「欧米諸国では、職業を神によって与えられたものと考え、貴賎がないという考え方が強いが、われわれ日本人は、ともすると職業だけで簡単に人間を評価する傾向がある。だから、進学する高校を選ぶ際にも、適性や能力についてじゅうぶんな配慮をしないで、すこしでもいい職業につくためにはどの学校がいいか、ということに重きをおいて考える風がある。職業についての考え方や進路指導は、今後、学校教育の中で、もっともっと重視されなくてはならない。」
※これは批判としてほとんど意味を持たない。結局そのような信仰自体が格差の根源であるという批判も同時に成り立つのであるから。しかもこの指摘は実態を述べた上での議論では全くない。具体的な実態を把握しない限り、問題の具体的な所在も掴めない。
P33「小市民的ということは、一般には、現実と妥協して、自己本位で安易な生活を送るという意味に使われている。しかしながら、もしそれが、自分の能力や適性を無視した大望をいだくということではなく、正しい自己認識にたった判断であり、平凡ではあっても人間らしい生活をしたいというヒューマニズムにささえられており、さらには、そうした生活を守るためには、みんなで力を合わせて、平和な社会の発展に尽くされなければならないという、開かれた方向をもったものであるならば、あるいは、そういう方向に指導できる可能性をもっているならば、むしろ望ましいという考え方も出てこよう。」

P53「むしろ親として注意しなくてはならない問題は、別のところにあると思う。それは、日本の家庭は、往々にして閉鎖的・排他的傾向が強く、社会に対して開かれていないということである。すなわち、ともすれば「自分の子どもさえよければ」と考えがちであって、子どもを「社会の子ども」としてとらえ、社会連帯意識を家庭で指導するという点が弱いことを考えなくてはならない。」
※この指摘も調査結果からは全く関連性が語れないもの。
P61「しかし、彼らは決して、自ら求めてこの閉鎖的世界に閉じこもろうとしているのではない。各章の結果からも明らかなように、彼らは、豊かな生活を求め、各自の能力を生かして社会に貢献しようとする謙虚な心をもち、親に対する愛情と責任とを自覚して家庭の幸福を願い、平和で文化的な祖国の発展を心から期待しているのである。
彼らのなかには、豊かで実るであろう多くの可能性がかくされている。そうした彼らの積極的な前進をはばみ、彼らをして狭い個人の世界に追いこもうとしているのは、彼らの内部にある条件ではなく、むしろ外的な諸条件ではなかろうか。」

p76「私は、教育の正常化のため、テストの弊害を排除することに努めてきた。私はテストのすべてを否定するつもりはもちろんない。しかし、テストの成績が悪いためにいつもみんなからばかにされている子どもの気持ちを思わずにはいられないのである。テストの成績表を渡され、みじめな思いをしている子どもに、さらに追い打ちをかけるように、テスト成績の一覧表を校内に麗々しく掲示するような、子どもの心を無視した、無神経な教育に怒りをおぼえないわけにはいかないのである。」
p78「たしかに、テストによい点を取ってうれしかったという喜びはあるであろう。しかし、実はその喜びは、この次には点が下がるのではないかという不安や心配によってかき消されてゆく、つかの間の喜びであるにすぎない。この次は他の友だちに負けはしまいかという恐れを含む、落ちつきのない喜びであるにすぎない。それに比べて、長い時間をかけ、多くの努力を傾けて完成した工作とか絵画を見て感じる喜びはどうであろうか。そこには、ゆるぎない満足、満たされた心の充実からくる喜びがあるかもしれない。」
※近視眼的だとか、努力の積み重ねを重視したいという価値判断が明確に見て取れるが、実際に子どもがどう考えるのかはどう考えても別問題。
P82「東京都には、東京の子どもには情操が欠けがちだから、情操教育を学校の重点目標として重視しよう、という学校が少なくない。私も同感である。」

P102「世の母親を(※教育ママとして)このような教育過熱の状態に追い込んだ原因については、いろいろ考えられるが、これには、一部の児童心理学者や教育学者たちのゆきすぎと、母親たちのこの種のテストに対する盲信や過信をあげなければならない。」
※具体的に誰がそのような吹聴をしていたというのか?もちろん、具体例は挙げられていない。知能テストと学力の関連の話をしているようであるが…

☆p142「評価とは、指導ないし学習の成果、あるいはそれが子どもの発達として置き替えられたものとしての結果を測ることである。そのような結果をもたらした指導・学習などのプロセスと子どもの発達との関連がじゅうぶんに考えられなければいけない、ということは知りながら、それがいつのまにか、入学選抜といった、きわめて非教育的な立場から行われるテストと、いつの間にか混同してしまうところに問題があるのである。」

p158「ところで一般に、家庭教育というと、ただちに家庭学習というように考えられがちで、塾に通ったり、宿題をこなすことが家庭教育と思われがちであるが、実は、このような考え方そのものに問題があるのである。」
※この認識は明らかに誤りだろう。当時の一般的な「家庭教育」の文脈はむしろそれを否定しているように思われる。
P160「本来、家庭は、子どもの健康な心身をつくり、豊かな情操を育て、社会人としての基本的な行動様式を身につけさせる場である。」

P161-162「これに対して、正しい家庭学習とはどのようなものであろうか。その一つに、子どもが生活の中で興味を感じ、意欲を燃やすものを伸ばしてゆく学習がある。
たとえば、日曜大工をやっている父親を見て、子どもがそのまねをしたがっている光景をしばしば見受ける。この子が、そのような機会を通して、やがてプラモデルや工作に興味をもち、模型やラジオの組み立てなどもやるように発展してゆくこともある。子ども自身の自発的な興味と必要にささえられた学習は、宿題をやる時などと違って、はるかに積極的であり、熱心である。そのために必然的に深い知識や高度の技能を身につけ、それが中学や高校における科学や数学などの学習に役だってゆく。そして、本人はますます自信をもち、積極的になり、成績も向上する。自発的、自主的な家庭学習といっても、教科の学習に全く無縁なものではなく、かえって強い動機づけがなされ、学習効果があがるのである。このような自発的活動を学校の教科と関連させてみると、下の表のように実にたくさんある。
ところが一般には、このような自発的な家庭学習は、親の目から見れば、かえって学習にとってマイナスと考えられ、それらを育てるどころか、禁止してしまうことが多い。」
※表に示された活動は飼育栽培、手伝い、旅行、地域社会の行事など、すべて極めて日常的なもの根ざしたものしかない。当時はそれでもよかったかもしれないが、現在も同じ発想では、それ以外のものから自発性を高める可能性を排除する可能性もあるだろう。また、家庭教育感を勘違いしているため、禁止などが奨励されていたものとは一般的なレベルでは考えづらい。

P163「学校における学習の場や内容は、教師によって準備され、示されることが多い。これに反して家庭での学習は、友だちとの遊びや、学校における学習の発展のなかから、自分で問題をとらえて解決を試みるなど、子ども自身の力によって自発的に行なわれるところに意味がある。親の配慮や援助は必要であろうが、親が指示し、親の計画で行なわれるべきものではなく、子どもの自主性や積極性を養うようにくふうをすべきである。」
P164「塾が繁栄するということは、見方によっては、学校教育に対する親の不信のあらわれであり、学校教育への痛烈な批判でもある。」
P165「教師自身も、宿題について、経験的にあまり効果を認めていないにもかかわらず、父母の要望もだしがたく、その圧力に押されて出している場合もかなりあろう。
宿題を出す必要がないように教育できないものなのか。宿題がほんとうに学校の授業を助けるのに、どの程度役立っているのか。それはどういう形の宿題ならば可能なのか。これらの点について、教師も親ももう一度よく考え、話し合うことがだいじである。とくに、教育学的、心理学的の立場からの科学的、客観的な研究が必要であろう。」
※ここではまた出典がないが、学者、及びアメリカの小学校時代の家庭学習に関する調査報告により、宿題の効果を否定していることを引き合いに出した上での記述である。

P166「宿題は教室学習の延長や下請けではない。教室の学習を背景とし、きょうの授業の発展であり、またあすの授業を豊かにするためのものである。したがって、教師の指導の加えられていないこと、あるいは子どもの能力で解決できないものなどは宿題にしてはならない。したがって、むろん教科の学習指導の進度にぴったり合っているべきものである。」
※予習についても宿題を想定しているため、ここでの宿題の意味は比較的広義に捉えてよい。
P168「ところが、いまの塾は、一対一の人格のふれあいはもちろん、徹底した自学自習などの尊い精神は全く失われてしまっている。」
※よく断言できるものである。これが寺子屋時代には「一対一の形で行なわれ、そこには、人格と人格とのふれあいがあった。」(p167)と断言している。もちろん根拠に欠く。
P168「最も欠点とされているのは、学校の教育内容や方法を無視した場合がはなはだ多いことである。子どもは、学校の学習で疲れているにもかかわらず、さらに違った指導者の、違った方法で、違った新しい教材を再び学ばせられる。子どもの精神的、肉体的負担は想像を絶するものがあろう。」

P191「すでに述べたように体育の時間だけでは、子どもたちの身体活動の時間はじゅうぶんではない。そこでこれらの学校では業間体操、校内大会、運動会をはじめ、朝会、林間学校、臨海学校、遠足などの保健体育的行事についてくふうするとともに、健康診断や給食などについても、その合理的・効果的なあり方を研究し、実施している。」
P208「最近の子どもは、よく「頭にくる」という。少年非行にも、衝動的な犯罪が多い。つまり、車内で足を踏まれたという単純な原因から、他人を傷つけるような大きな傷害事件を引き起こしたり、お金がほしいが手にはいらないので自動車強盗をするというたぐいである。それほどではなくとも、ほしいと思えば、なんとしてもほしくなる、がまんできない、という子どもが多くなっているといえるであろう。」
※これも根拠なし。

P210「この数年前まで、多くの父親は、子どもの通学している学校の門をくぐることもなく、子どもの担任教師の顔も知らないで過ごしてきた。したがって、新しい学校教育には、きわめて無知であり、新教育は、もっぱら母親まかせであるというような風潮が一般的であった。父親は、いつの間にか学校教育のわく外に置かれているかのような観があった。」
※これはいかなる意味でだろうか?時期的にはいつからのことを言っているのか?
P226「日本人は、とかくわが子が他人から注意されるとむきになっておこる。よその子どものわるさは、危険なことでも知らん顔をして注意しない。子どもはすべて社会が連帯責任をもってりっぱに育てあげるものだという責任感が、国民の間に乏しいのではないか。
※残念なことに、小尾の学校の多様化論について見ても、どのような価値が必要なのかという観点を欠落させており、ここでいう「しかる」行為についても、何を正当化してしかるのか、という価値の問題に対して十分な説明がつけられるのか、疑問である。結局それは「あたりまえ」の基準としてしか語られていない。だからこそ、学校の多様化論についても「あたりまえ」のレベルに留まってしまい「何が必要なのか」や「何によって多様化が可能なのか」という議論を欠落させてしまうのではないのか??

P273「つまり戦前までは、すこし押しつけのくらいはあったにせよ、教職の特性を自覚するという態勢はじゅうぶんあった。それが戦後になって、教師も一般の勤労者となんら変わったものではないということが強調された。つまり戦後教師の特性のほうはタナ上げされて、職業人としての一般性のほうが強調されたのである。そして戦後のいろいろな思想的対立になかで、教職観というものがとまどいしているのが実情である。」
※しかしこれは、教師聖職論とセットのものでしかなかったのではなかったのか?ここで教職の特性とは何が想定されているか?「最近は少し違ってきたが、明治初期に救世済民の道を教職に求めた士族郡によって樹立された教師の権威は、抜きがたい教師への尊敬を、国民の心に植えつけた」(p271-273)とあるが、士族の権威と教師の権威の結びつきは疑わしい。「古いといえばそうもいえるが、教師の誇りは世俗的な成功や、金もうけにあるのではないことは、まちがいないだろう。」(p273)これも何も示していない。「教師は子どもの人間形成を仕事としているのだから、いわばその資本は人格である。」(p275)これが近いか?しかしこれは聖職論では?

P274「仕事の効果が測定しにくく、仕事のしぶりに対して監視の目が届かない教師の職務、そういう教師の仕事に対しては、信頼をもって対するよりしかたがあるまい。」
P275「しかしこれらの学生も教育実習などで、一度子どもと接触すると、考えが変わって、教職に対して積極的な熱意を示してくるという。……つまり望ましい教師像は、純真な童心との結びつきのなかで、形成されてゆく、というのが実際だと思うのである。」
P282「民主主義は本来、個々の人間に究極の価値を認める思想である。個人の持っている多様な個性と能力の可能性を発見し、じゅうぶんにひき出し、育てることこそが、本来の意味での教育の民主化なのである。」
※「これこそ日本の教育が緊急に解決を迫られている問題点である。」(p282)

p285「しかしこれが、人間評価の基準を学歴や学閥に求めるという、わが国の根本的な病弊のえんいんとなって、今日の教育の問題点である学校格差を生み出すにいたったのである。すなわち、人間の価値を決めるのに、本人の個性や能力を問うのではなく、どの程度の学校を出たか、それは国立か私立が行なわれ、また一流か二流かが問われるのである。こうして、学校格差が問われるから、激しい入学試験が行なわれ、入学試験があるから、知識中心のつめこみ教育が助長されたのである。この悪循環はどれが原因で、どれが結果というよりも、どれもが日本という社会の生んだゆがんだ現象である。」
※もしこの議論を前提に高校改革を行ったのなら、明らかに片手落ちだったというしかない。大学の仕組みについてまで変えないと意味がないはずだからである。にもかかわらず高校が先行して改革を行ってしまった。結果として有名私立高校が台頭してくるのは必然だったといえよう。
P286「また、就職する生徒がいても、それを無視してしまって、「ここは入試にたいせつだから、よくおぼえておけ」というようなことを平気で口にする教師も見うけられたのである。」
※ここでは日比谷高校や麹町中学の話として行っているが、結局「中学や高校での就職への影響」という意味での学歴社会言説は全く行われていないのではないか?

P288「これは、生活の安定とともに長欠者実数が大幅に減った反面、年々激化していく受験偏重教育に適応できない生徒が学校ぎらいになったことが大きな原因とみられている。
同じ原因が、疎外された生徒たちを非行にかりたてることにもなる。中学校卒業後直ちに就職する者は、差別されたという意識をもって、自分の最後の学窓を巣立っていくのである。その不満がかれらをどういう方向へ走らすことになるか、思えばおそろしいことである。」
※ここでは落ちこぼれが確かに語られているが、70年代の落ちこぼれと違う語られ方をしているといえるか?

P295都教委の調査会のよって、学校群制度の議論は65年3月にまとまっていた?
P296「たとえ、特定有名校をめざして準備していても、必ずしもそこへ入学できるとは限らない、ということになれば、むりな越境は減少するであろう。また、群志望となれば、一点刻みの志望校への生徒のふりわけも必要がなくなるので、ゆとりをもった本来の学習が行なわれるであろう。こうした期待に裏づけられて、この制度は発足したのであるが、どの群にも従来、世間で注目されている学校が含まれているので、誤った優越感や劣等感から解放され、それぞれの生徒が自分の能力を、自信をもって伸ばしていくことも予想される。従来、劣等感のために情緒の安定が阻害され、そのため本来伸びるべき能力をもちながら、その能力を萎えさせていた高校生が少なからずあったのである。学校群の制度により、明朗さを取り戻し、それぞれが特色ある才能を開花させることができるような道が開けると思われる。」
※いまいち最初の一文が理解出来ない。群の「第二志望を認めない」ことと関係するのか?

P298「わが国の入試制度の改革は常に内申書の尊重へと動きながら、それが現実の壁にぶつかって挫折し、再び学力検査の重視へと帰っていく歴史である。」
P300「入試制度改善のポイントが内申書重視の方向にあることは、何びとも否定しえないことである。この方向が間違いでないとするならば、いろいろの問題点はあっても、これをなんとか克服して、正しい方向にもって行くべきではないだろうか。人物について特記することについても、主観的になるような点に議論があろうが、内申書を教育カルテとして重視するならば、人間としての成長記録を除くことはできまい。そういう議論よりも、どうすれば児童・生徒の全人的な成長の記録が適正に評価され、それが入試にものをいうようになるか、についての研究に向かって、一刻も早くふみきらねばならないと思う。」
※入試そのものを否定する立場からは内申書の議論も批判されるわけだが…結局この議論は競争について態度を曖昧にしているとしかいえない。

P303「学校群の考え方に対しては、直ちに反論として出てくるのは、各学校にはそれぞれの特色があり、長い歴史によってつちかわれた伝統をもっているが、これを無視するのか、ということである。」
※後述する多様性とは結局この学校の特色を指すことになるだろうが、これがなぜ個人の多様性と結びつくのであろうか?そんなことはないだろう。であるならば、子どものため、という入試改革は、ただの言い訳にしかならない。
☆P303-304「後期中等教育の拡充案で、中教審はその多様化を強調しているが、これに対して、日教組などが、多様化は差別化であるといって反対しているのも、格差的な考え方をふまえての議論である。能力適正に応ずる教育を用意すれば、当然多様化する。これはまことに当然のことであるのに、それが差別化として受け取られ、幾多の問題が起こるのは、やはり能力そのものを価値に結びつけて、これに格差をつけるからであろう。全然種類の違う能力に高い低いをつける。つまり、一概に、知能は高い能力で技能は低い能力であると決めてかかるところに問題がある。だから、後期中等教育の対策で多様化を実現しようとするならば、すべての能力は等しく尊いものであるという考え方を確立しなければならない。」
※ここでいう格差的な考え方は学校群制度の発想とかみ合わないのでは。

P304「学校群制度は必ずしも後期中等教育の多様化に直接つらなるものではないが、これに背馳するものでは絶対にない。後期中等教育の多様化とは、現在の高校間の格差をさらに多様化せよ、つまり格差を小刻みにせよ、ということでは絶対にないのである。学校格差による人間の能力格差への幻想を学校群によって打破しようというのだから、むしろ、学校群制度は、高校多様化への地ならし的役割を果たすということができよう。」
※このあたりに本書の学校群制度の推進を政治的に行おうとする小尾の意図が見え隠れしているようにも思える。そして、格差を小刻みにしないという言明は、結局価値について何も考えていないと述べているのと同じである。