ローレンス・レッシグ「CODE」(1999) その2

今回は、ひたすら考察であったため、時間がかかりましたね…
通常の読書ペースも決して早くないので、だいたいこれぐらいの更新ペースがよいのかもしれません。

・(行為の)規制をめぐる諸相、再考
 レッシグは規制を行う様式を4つ挙げている。法・規範・経済・アーキテクチャだ。
 レッシグの力点は「客観的」にそれをとらえた場合に、法や規範は事後に何らかの制裁があり、経済・アーキテクチャは逆に事前にそれを制約するという点である。「あらかじめ」制約されてしまうのがアーキテクチャであり、その意味で、一種の脅威となりうるのである。

 確かにこの着眼点は重要である。普段我々は法・規範を行為を事前に制約するものとして考えがちだが、正確には、それを主観的に解釈し、その法・規範を「内面化」したから行為があらかじめ制約されるにすぎない。そしてアーキテクチャと呼ばれるものはそれとは異なる制約様式であること、これはこれで重要な論点だ(特に合意調達の重要性を考えているレッシグの議論においては)。


 しかし、この区分は不十分であると私は考える。さらに重要な観点がこの議論から見いだせると思うからだ。以下、考察する。

 まず、この規制の「事前・事後」性というのは、それ自体不十分な解釈である。この解釈の不十分さは事前制約の議論の方にあり、経済とアーキテクチャのとらえ方に難があると考える。 

 「経済」の方から考えてみよう。レッシグの議論をいくつか引用する。
 「さらに喫煙行動を規制しているのは法律と規範だけに限られるわけでもない。市場もまた制約条件だ。タバコの値段は、あなたの喫煙可能性を制約する。値段を変えればこの制約が変わる。」(p173)
 「市場の制約は、これまた違っている。市場は、価格を通じて制約する。価格は、ある資源が人から人へ移転できる点を示している。スターバックスのコーヒーがほしければ、レジで四ドル払うしかない。制約(四ドル)は求める便益(コーヒー)と同時に発生する。」(p476)
 経済の議論は、財の交換により定義をされている。原始的には、売り手と買い手は一定の財の交換をフェアなものとみなすことで、交換が成立する(実際は不公平があっても)。このとき、両者の関係は対等である。
 しかし、これを行為制約の問題として扱えば、交換は一種の妥協である。私は売り手の財を望んでいる。しかし、私はこれをタダでは手に入れられない。理由はいくつかあるだろう。もちろんここに法や規範による規則を適用させることもできるが、強奪しようとしても売り手がそれを阻止するかもしれない(これは広義にはアーキテクチャによる制約である)。だがもし私が何かしらの財を提供することで売り手が財の提供を拒まなければ、制約なしに財を手に入れることができる。

 では、「アーキテクチャ」の方はどうか?
 このアーキテクチャを私は「物理的な力」と「専門性」に分解して考えたい。ここで原始的な「物理的な力」とは、自然に存在する物理的な制約条件、例えば遠くの島へ行くための「海」であったり、先ほどの交換行為の話で挙げたような、交換せずに勝手に財を獲得しようとする場合に拒もうとする「(物理的な)人」であったりする。一方、「専門性」とは、人が規定したルールのもとで完結するような事象である。試験にパスするための筆記試験などはその例だ(注1)。レッシグの議論しているアーキテクチャの問題は、後者の方に力点が置かれているといえるだろう。
 しかし、これもまた行為が事前制約されていると呼ぶには不十分な場合がある。どの場合も、私の方になんらかの「力」があれば、制約となりはしないのである。目のまえに壁があっても、ダイナマイトがあれば壊せるかもしれない。プログラム言語だって、ハッカーだったらそれによる不自由を取り払ってしまうかもしれない(注2)。
 レッシグの言う「事前制約」というのは、アーキテクチャの場合は、一般人目線での話なのである。ハッカーならば制約にならないかもしれない。しかし、法はこのようなハッカーを排除するように効力を持つことができる。重要(かつある意味では問題)なのは、アーキテクチャを機能させるために、一定の「専門性」を法により制約しているという状況なのである。


 さて、ここまで自由の制約問題について議論しているが、最初のレッシグの関心、つまり「合意」による議論の話に立ち返ろう。アーキテクチャは確かに非合意的な制約手段たりえる訳である。しかし、問題となりうるのは、そもそもアーキテクチャというのは、合意以前に存在するものであるのではないだろうか。


サイバースペースの私有化問題
 レッシグ自身は公私問題を本書で展開しているとはいえない。このため本書の内容を超えてしまう議論ではある。しかし、この論点は無視できないように思える。
 最大の問題は、アーキテクチャがどのように作られるのか、という問題に近い。アーキテクチャ自体は個人や民の力により作り上げられるものである(そして、それが他者のものであるからこそ、我々はアーキテクチャをコントロールできない可能性が出てくる)。これが何かしらの公的合意で規制の方法として採用することは可能だが、そもそもアーキテクチャは合意以前に作られるものであると考えるべきだ。アーキテクチャをめぐる我々の合意はまさに、そのような形で作られた規制の選択肢の中から選択するものである。

 では、アーキテクチャを我々のために機能させるためにはどうすればいいのか?
 一つはすでにレッシグが指摘しているように、これを法的なものでコントロールすることだ。それが合意的なものとはならない可能性があるかもしれないが、「法」自体はそもそも誰かの利益を守るためのものであるために、要請させたものである。法によってアーキテクチャの作り手の利益以外の要素を組み込む余地がそこにある。

 もう一つは、そもそものアーキテクチャを作る目的が、その作り手とその他の者の利益が一致するようにすることである。これは経済活動の中には多分に含まれているものである。
 私の利益になるアーキテクチャとして、コンピューターのウィルス対策ソフトなどはいい例だろう。我々がコンピューターを使用する時、すでにその技術的専門性に依存しており、その技術を他者から借りている(自力での技術調達はできない)。その技術はタダでは使わせてもらえないので(そもそもそのアーキテクチャを作るインセンティブも作れない?)、それは経済活動の中に組み込まれる。

 ただ、やはり問題なのは、ここに合意が見出しづらいということである。法的なレベルではもちろんであるが、個人レベルにおいても、そのアーキテクチャを利用することは、十分に理解をした上でなされない可能性も高い。レッシグもこのことは指摘している。
 それを理解するために、内容を公開しても、見るものがいない可能性については前回指摘したが、これに加え、専門性があった場合、そもそもが高度な内容であるため、我々が理解のしようのない状態が生まれる。このため、合意を介さないような「信頼」を用いざるをえないのではないかと思う。


 この、専門性からくる分業体制、私(他者)への依存というのは、ネオリベ問題を考える上でも重要である。
 そもそも、なぜネオリベが批判されるべきものなのだろうか?これについて私は十分に整理できていないものの、よく聞くものは2つのパターン、3つの語り口であるように思う。

 1つ目のパターンは公から私へのシフトが公の怠慢を生むという論じ方。国がネオリベ政策をとる場合に緊縮財政を同時に採用することが多いが、このような緊縮は、公がとるべき責任を放棄し、不当な緊縮を行なっているというものだ。ただし、ここでいう「不当」の規準というのは、私にはよくわからない。
 
 2つ目のパターンは私的な専門性そのものに対する批判を行うものである。
 緩いケースだと、ネオリベを押し進めると、専門性をしっかり確保できる大規模な企業だけが生き残り、そのような専門性に欠く中小企業は潰れていくだけである、というもの。これが徹底的な市場主義批判として現れているのが基本で、ネオリベ政策はそれにドライブをかけているという解釈を行う。
 よりラディカルなものだと、直接専門性を批判する。この立場が守るべきものとして想定するのは「公的なもの」で、ネオリベを押し進めることで、専門性が公的領域に介入し、公的なものが消失してしまうというもの。例えば、学校教育をめぐる市場主義批判などでは結構よく聞く話である。
 これらの保護はおそらく法的なものでなされるべきであると解釈されることになるだろう。ただ気になるのは、専門性そのものは無い方がよくて、専門性を排除すべきという主張はなかなかされずらいように思う。「なぜ我々は専門性を求めるのか」といった問題はもう少し掘り下げて今後考えてみたい。


理解度:★★★★☆
私の好み:★★★☆
おすすめ度:★★★☆

(注1)この専門性というのは、個人のレベルを超えたものであるということを一応前提にしている。これが個人のレベルに完結する場合、個人の恣意的な判断に依存するものとなる。面接試験などをイメージするとわかりやすい。ここでの筆記試験の例はこの恣意的な個人的判断がされることがないような、ある程度客観的な「専門性/知」を前提にしている。
(注2)「マトリックス」の主人公ネオももともと凄腕のハッカーだった。マトリックスの世界を改変できる力は、ある意味でハッカーの力と同じものであり、それを連想させる演出だったに違いない。
 ただし、現代的アーキテクチャがその専門性・物理的力を強めることで、素人から見たら、いや玄人目から見ても事前制約的になっているかもしれない、という点は確認してもよいかもしれない。