ローレンス・レッシグ「CODE」(1999) その1

 すでに何度か言及していたレッシグですが、2回に分けて検討したいと思います。
 当時読んでいたのは初版でしたが、今回は2006年(邦訳2007)に刊行されているVERSION.2.0の方を読み直してノート作ってます(このためすごく時間かかりました…)。

(読書ノート)
p6−7 「本書は無政府状態のサイバー空間からコントロールのサイバー空間への変化について語る。サイバー空間がたどりつつある道を眺めると——これは第一部で説明する発展だ——サイバー空間の創設時に存在していた「自由」のほとんどは、将来は取り除かれることがわかる。もともと根本的なものだと思われた価値は、生き残らない。われわれの選んだ道では、サイバー空間は再構築されることになる。その再構築の一部を、多くの人は喜ぶことだろう。でもその一部は、誰もが後悔するものとなるはずだと論じたい。
 だがこれから描く変化を歓迎するにせよ後悔するにせよ、それがどのようにして起きるか理解するのは重要だ。サイバー空間の「自由」を生み出したのは何か、そしてその自由を再生するために何が変わるだろうか?その教訓は、今度はサイバー空間での規制の源に関する二番目の教訓を示唆してくれる。」
p20 「でもこの空間(※MMOG空間)では、ダンクは確かに自分の犬の死に方を選べた。「毒」が犬を「殺す」のは選べないにしても、死ぬときに犬が苦しむかどうかは選べた。さらに犬のコピーが作れるかどうかも選べた。コピーがあれば、犬が死んでもそれを「生き返らせる」ことができる。MMOG空間では、こういう可能性は神が与えるものではない。あるいは、それが神の定義するものでも、プレイヤーにだって神の力が与えられている。MMOG空間での可能性を決めるのはコード——そのMMOG空間を定めるソフトウェア、またはアーキテクチャだ。……実空間では、人はコードのほとんどには手出しができない。MMOG空間ではできる。」
p21 「「盗み」というのは(最低でも)保有の移動を含む。でもMMOG空間では「保有」というのは、その空間を定義するソフトが定義した関係にすぎない。」

p34−39 4つの主題…規制可能性、コードによる規制、隠れたあいまいさ、競合する主権(誰による統治か)

p37 「隠れたあいまいさ」について:「このワームがもたらす変化は、もとの憲法の規定に隠されたあいまいさを暴露した、ということだ。もとの文脈では、規定ははっきりしていたが、現在の文脈では、憲法がどの価値観を守ろうとしたかによって、規定が変わってくる。問題はいまや(少なくとも)二つのちがった答えの間であいまいになっている。いずれの答えも価値観次第では可能なので、どっちかをわれわれが選ばなくてはならない。」

p61 信用を高める技術:「たとえばクレジットカードが登場したときには、そのカードを持っているだけで利用が認証できた。この設計のためにクレジットカードを盗むインセンティブが生じた。銀行のキャッシュカードはちがう——カードそのものの保有に加え、キャッシュカードには暗証番号が必要だ。この設計のため、盗んだカードの価値は下がる。だが一部の人はキャッシュカードに暗証番号をメモしたり、書いたメモをカードと一緒に財布にしまっておいたりする。だから盗難のリスクは完全になくなってはいない。だがそのリスクはほかの認証技術を通じてもっと減らせる。たとえば指紋リーダーや網膜スキャンといった生体認証技術は、カードの持ち主が世紀(※原文ママ。おそらく正規の表記間違い)利用者だという安心を高める。
 実人生で絶えずこうした認証プロセスが進行するし、そのプロセスで、技術の改良や証明書の改良で、どんどん離れたところから認証ができるようになっている。……生活がもっと流動的になるにつれて、社会制度は重要な身分主張について信用を構築するために、ほかの技術に頼るようになってきている。」
p62 「この三つの異なる利益団体(※多くの人々、商業、政府)は、共通の関心を持っている。だからといってあらゆる認証技術がその共通に(※原文ママ。「な」の方が正しいか?)関心に一致するわけではないし、そうした関心だけでもっと効率の高い認証が導入されるわけでもない。だがこうした利益団体がどちらの方向を推進したがるかはわかる。認証が改善されれば、みんなが得をするわけだ。」

p121 「インターネットの開始時には、通信は文字を使って行なわれた。……多くの人は初期ネットのこの事実を、制約だと思っている。技術的には確かにそうだ。でも技術的な記述だけでは、ある種の生活を可能にしたアーキテクチャについての規範的な記述をカバーしきれていない。この規範的な見方からすると、この制約条件は逆に長所にもなった。制約する一方で可能にするものになる。そしてここでの文字だけという制約は、実空間での生活でハンデを持った人たちには、力を与えることになった。」
※ここでの例として、聴覚障害者、視覚障害者、「醜い」人などを挙げる。空間による制約を受ける人たちだ。

p137 「でもCCは、重要な点でAOLと似ている。どちらも民主主義ではない。どちらの場合も、その空間で何が起きるかをコントロールするのは、経営陣だ——繰り返すが、なんでもできるわけではない。市場が重要な制約となるから。でもどちらの場所でも「人々」は何が起こるかコントロールする力はない。」

p190 人種分離を法からアーキテクチャに移行した例…「そしてその通り、一九四八年以降の近隣コミュニティは、人種分離を維持する方法を変えてきた。契約条項に頼るかわりに、アーキテクチャを使うようになったのだ。コミュニティは、あるところから別のところへの住民の「流れを切断する」ように設計された。横断しにくい高速道路がコミュニティの間に建設された。鉄道の線路も、分離に使われた。何千ものちょっとした建築上やゾーニング上の不便さが、条項に基づくはっきりとした嗜好に取って代わるものとなった。正式には、何も人種融合を禁止してはいない。でも非公式には、あらゆるものがそれを防止していた。」
p191 「つまり問題は、間接規制そのものにあるのではない。問題は、不透明性だ。国は自分の狙いを隠す権利はない。憲法に基づく民主主義では、その規制は公開されなくてはならない。したがって、間接規制が提起する問題の一つは、公開制という一般的な問題なのだ。国は、透明性の高い手段があるときに、不透明な手段に頼ることを認められるべきなのだろうか。」
p193 不透明であることの問題…「悪い規則に抵抗するのを難しくする」「効率よい規制の範囲が広がることで、どんな価値観が危機にさらされているのかについての感覚がない」

p212 「クローズドなコードはちがった働きをする。クローズドなコードでは、ユーザーはコードにパッケージングされてくるコードを簡単には改変できない。ハッカーやとても高度なプログラマならできるかもしれない。でもほとんどのユーザーは、どの部分が必要とされていて、どの部分がいらないかわからない。」
p214 「政府がコードを規制する力、コードの中のふるまいを規制できるようにする力は、一部はそのコードの性格に依存する。オープンコードは、クローズドなコードよりも規制しにくい、コードがオープンになるとともに、政府の力は減少する。」

p271 DJやAMVの例…「創造性」とは何だろう?
※AMVにはオリジナルがあり、それに従属しかしないのでは?プロモーションとしてのAMV。そういやAMVもVJとやってることと同じ?
p272 「デジタル技術の変化により、デジタル環境ではクリエイティブ作品のありとあらゆる利用を規制できる。人生がますますデジタル環境に移行するにつれて、法が文化の利用をますます規制するようになるということだ。」
※コイン構造した自由が「表」にある。

p291 オーウェル→「監視は無数の警備員が、大量のテレビを見ることで実施されていた。」

p322 知的財産権とプライバシーの規制についてレッシグが異なる見解を示すことについて:「どっちも情報の売買の方式だ。どっちも情報を「本物の」財産「みたいに」する。でも著作権の場合、わたしは完全に民間だけの財産方式に反対する議論をした。プライバシーでは、それを支持する議論をしている。どうなってんの?
 そのちがいは、それぞれの文脈で情報を意味づける、あるいは意味づけるべき、根底にある価値だ。知的財産の文脈では、われわれは自由のほうに偏向しているべきだ。「情報が何を求めているのか」なんて、誰がわかるものか。何を求めていようと、われわれは法が知的財産保有者と行なう取引を、なるべく狭く読むべきだ。知的財産における財産権に対しては、なるべく渋い顔をしなきゃいけない。情報の仕組みを作り、支持するのに必要最低限なだけ、それを支持すべきだ。
 でも個人についての情報(少なくとも一部の種類)は別の扱いをされるべきだ。個人・私的情報について、人は法と取引したりしない。法はこうした事実の公開と引き替えに独占権を与えてくれたりしない。」

p323 「同じ論点を主張する第二の、おそらくはもっと有益な方法がある。知的財産権はいったん作られたら減らない。使う人が増えるほど社会のためになる。だから知的財産羽共有と自由の方向に偏るべきだ。一方のプライバシーは減る。その人のプライバシーを侵害するライセンスを与えられた人が増えれば、その分だけプライバシーは減る。このように、プライバシーを侵害するライセンスを与えられた人が増えれば、その分だけプライバシーは減る。このように、プライバシーは知的財産より実際の財産に近い。一人が侵害したからといってなくなるものではないが、侵害者が一人増えるたびに、その価値はその分だけ減っていく。」
※確かに知的財産は実際の財産とは異なる性質があることはレッシグの言う通り。しかし、これをもし押し通すのであれば、いくつか不都合な問題が出てきてしまうのではないか。 二つ考えられる。一つはオリジナルの消失。音楽業界においては曲作りで食べていける者が減り続けている。いや、DJについても、プロと呼ばれる人がその地盤を崩されており、曲を作らないとDJでいられることができなくなったりしており、「純粋なDJ」「純粋なアーティスト」が確実に減少しつつある。他方でコモンズの中にいる者の人口は増加するが、彼らの大多数はコピーをするのに過ぎず、コピーはオリジナルなしには金銭に還元される財産となりえない。オリジナルが消えた時、コピーはどうなるのだろうか?(文化資本も消失するだろう。)
 もう一つは知的財産の質。これについては簡潔にレッシグ相対主義の立場を貫くので「何でもよい」とされる。
 これまで、知というのは得てして一定の専門家集団が独占することで、その発展をしてきた、というもの言いは的を得ている。このコモンズの拡大は音楽に限らず、学問などにも(特に人文・社会科学分野)波及してくるものであると考えられる。その専門性の探求問題はどのように考えればよいだろう?オリジナルとコピーの価値転換のみで何とかなるものなのだろうか?


p361 「フィルタには、確かに否定のしようのない価値がある。人は、自分で処理するよりずっと大量なものをフィルタリングしているし、ふつうはそのフィルタを他人に選んでもらうより、自分で選んだほうがいい。『ウォールストリート・ジャーナル』よりも『ニューヨーク・タイムズ』を読むということは、それぞれの新聞の価値観についての理解に基づいてフィルタを選んでいることになる。明らかに、個別のケースではこれで何の問題もあり得ない。
 でも、フィルタリングされないものに直面することにも価値がある。われわれ個人としては、貧困や不平等といった問題は避けたいから、そういう事実を自分の世界から締め出しておきたいな、と思うかもしれない。でも社会の観点からすると、市民たちが自分に関心のない問題をあっさり無視するようになったらひどいことになる。まさにその市民たちは、まさにそうした問題を処理するためにリーダーを選ばなきゃいけないんだから。」

p365 「わたしが唯一言いたいことは、サイバー空間でどうしたいかはわれわれ自身が選択することだ、ということだ。」
※だからこそ、公開性を重要視する。
p371-372 迷惑メール表記違犯に対して、懸賞金をかけた規制を行なうという提案

p408 「世界政府を作れと言っているわけじゃない。……言いたいのはむしろ、われわれがこのアーキテクチャに組み込んでいる政治について責任をとるべきだということだ。というのもこのアーキテクチャは、その空間に生きるコミュニティを統治する一種の主権者だからだ。そこでの生活のアーキテクチャが持つ政治性を考えなきゃいけないのだ。」
p416 サイバー空間にいる時、その人は現実の空間とサイバー空間どちらにいるのかという問いに対し、レッシグは両方と答える。「誰かがサイバー空間にいるとき、その人はこっちの実空間にもいる。誰かがサイバー空間の規範にさらされているとき、その人は同時に実空間のコミュニティの中でも生きている。サイバー空間にいるとき、人はいつも両方の場所にいるし、両方の場所の規範が適用される。法にとっての問題は、規範が適用される人物が同時に二カ所にいるとき、両方のコミュニティの規範をどう適用するかを考えつくことだ。」

p418-419 「自国のものとは折り合わない外国の規則から、政府がその市民をどうやって保護するか」「市民自国にいながらにして異質な文化の中に住めることからくる問題」、これらは政府同士の対立を強める
p431 多数の法における規則として、レッシグはその国等に住む者がネットにアクセスすれば、そのサーバーの場所に問わず、アクセスした場所を特定し、そこの法を適用させるという案を出す。
 「どこの国も、自国の法を国際的に適用したいと思っている——というか、関心は国際レベルのほうが高いはずだ。だからこんな具合に、IDや証明書の豊かなインターネットは、国際ゾーニングの役に立って、この国際コントロール構造を実現できる。  こうした制度はネットに地理的ゾーニングを復活させる。それは国境なしで構築されたネットワークに国境で押しつける。」
p432 「だがあなたやわたしがこの制度をどう思うにせよ、ここでのわたしの議論は予言的なものだ。この制度は二つの結果の間の自然な妥協案なのだ。そしてその二つの結果はいずれも政府には受け入れがたいものだ——政府は現実空間の法がサイバー空間に及ばないような世界を受け入れないだろうし、一つの政府や少数の大政府の規則が世界中を支配するような世界も受け入れまい。この制度だと、それぞれの政府は自分の市民を規制する力を持つ。どの政府もそれ以上のことをする権利を持つべきではない。」

p441−442 「でもここで「政治的」とはどういう意味だろう。それは単に、法廷が価値観や政策上の選択をしているってことだけじゃない。ここでの主張は、法廷が判決をくだすにあたって価値観というのが適切な理由じゃないってことではない。その正反対だ。価値観の選択は、政治的プロセスによってきちんと正当化されていれば、司法による強制は適切なことだ。隠れたあいまいさの問題は、それが政治的プロセスによってきちんと正当化されていないことだ。それは価値観を反映しているけれど、でもその価値観は憲法からもってきたものには思えない。
 つまり「政治的」というのは、はっきりと正当化されず、しかも今対立するものがあるような判断をさす。判断のまさに基盤が根本的な対立にさらされ、そして憲法がこの対立のどちらかを支持すると考えるべき理由がないとき、特定の翻訳結果を強制することは、その文脈で政治的だと思われる。」

p447 「でも問題はサイバー空間の統治・政府じゃない。問題は、単純に統治一般についてのものだ。サイバー空間だけで提示されるジレンマ群があるわけではない。あるのは、現代においての統治でおなじみのジレンマばかりで、それが場所を変えただけだ。ちがっているものはある。統治の対象はちがう。国際的な配慮の程度もちがっている。でも、統治のむずかしさは、この対象のちがいのせいじゃない。そのむずかしさは、統治に対するわれわれの問題からくる。
 この本を通じて、わたしはサイバー空間がもたらす選択をはっきりさせようとしてきた。サイバー空間のアーキテクチャ自体が、早い者勝ちで好きに掌握できる状態になっていて、誰がそれを掌握するかによって、最終的な結果はちがってくると論じた。明らかに、その選択のいくつかは集合的なものだ——われわれが集合的にこの空間でどう暮らすかという選択だ。集合的な選択は、統治の問題だと思うのがふつうだろう。でも、統治するはずの政府にこの選択をしてほしいと思っている人はほとんどいない。政府は、目下のどんな問題だろうと解決できそうにない。なぜそうなのか理解すべきだ。」

p448 「民主的プロセスの産物は心底から信用しなくなっている。こうしたプロセスが、集合的な価値観よりは個別の価値観に関心を持った利益団体に牛耳られているというのがわれわれの信念だ(それが正しいかはさておき)。集合的な判断にはそれなりに役割があるとは信じているけれど、インターネットほど重要なものの設計を政府の手に委ねるという考えには反発を感じる。」
p450 「政府が嫌われるのは、われわれが自分たちの政府にうんざりだからだ。裏切りにうんざりして、ままごとにうんざりして、それを牛耳る利害にうんざりしたからだ。なんとかそれを乗り越える方法を見つけなきゃいけない。」
p451 「ここでの問題は、議会の議員たちが仕事をしていないということじゃない。問題はその働き方が、資金集めの必要性のために歪められているということだ。資金集めの標的として一番手軽なのは、ロビイストたちの顧客で、ロビイストたちは法を曲げて顧客の便宜を図る方法をいろいろ考えつく。
 そこで議会は曲がり、法は経済で最も強力な存在の便宜のために変えられる。これは資本主義というよりはロビー主義だ。われわれの経済は、法が一部の人に便宜を図り、権力が一部の人に便宜を図る組み合わせで定義されている。」
※ただ、これが本当にカネの問題に還元できるかは疑問がある。単に発言力があり、要求が通らなければ、不支持の波及効果が出てくれば話は別ではないか?

P463 「しかし、民主主義がますます失敗しつつあるのは、もう一つ妙に直観に反する理由のせいだ。それは、政府が民衆の意見に耳を貸さないということじゃない。逆に政府は民衆の意見を聞きすぎるということだ。国民のあらゆる気まぐれは世論調査に反映され、これらの世論調査は民主主義に次々と影響を与える。しかし、世論調査が伝えるメッセージは、民主主義のメッセージではない。世論調査がたびたび行なわれ、その結果が影響を持つとしても、それは重要性が増したからではない。大統領は即時世論調査に基づいて方針を決めるが、それは単に、即時世論調査が簡単にできるからといだけだ。」
※これは技術的に、コストが低く国民の意見が聞ける方法であるからだ、とレッシグはいう。

P472 「ただそれでも、比較でいうと絶対に確実なことが一つある。「海賊行為」のコストは、迷惑メールのコストよりもはるかに小さいということだ。実際、迷惑メールの総コスト——企業に加えて消費者も含めれば——はレコード業界の年間総収入を上回る。」
※不利益の計算だけしてもあまり意味はない。ましてやこれが「海賊行為」を許容する根拠にするのは違和感。

P481—482 「法や規範は、主観化されるほど有効になるけれど、でもそもそも効力を持つためには、最低限の主観化が必要になる。制約されている人間は、制約されていることを知らなきゃダメだ。誰も知らない違法行為にこっそり処罰する法律は、罰則対象になるふるまいを規制するのには役に立たない。
 でもアーキテクチャだと話は違う。アーキテクチャは、主観化がまったくなくても制約できる。鍵は、鍵がドアをブロックしているのを泥棒が知らなくても、泥棒を制約する。二地点間の距離はその間のやりとりを制約するけれど、それはその地点の人たちが制約を理解しているかどうかにはまったく関係ない。これはエージェント制についての論点の必然的帰結だ。制約を適用するのにエージェントを必要としないのと同じく、規制対象者はそれを知っている必要はない。
 つまりアーキテクチャ上の制約は、その対象者がその存在を知ろうと知るまいと機能するけれど、法や規範は、その対象者がその存在についてある程度知っていないと機能しない。」
P480 「主観的な視点からだと、こんな区別はなくなるかもしれない。主観的には、規範はあなたがそれを犯すずっと以前に制約しているように感じられる。近所の家に侵入しようかと思っただけで、それを禁止する制約を感じるだろう。客観的な視点から見て制約の地点がいつだろうと、あなたは別の形でその制約を経験するかもしれない。客観的には事後の制約も、主観的には事前に経験される。

(今改めて読み返してみて)
 当時の関心はアーキテクチャが人の行為を事前制約する、という点が中心で、法や規範が「客観的には」事後制約であること、この点は重要だなと感じていました。
 レッシグの面白いところは、哲学だとか社会学の分野が扱っていた自由の制約問題の観点については言及せずに、自身の法的な観点からこれをしっかり考察している点。自由制約の議論として前者に謙遜のないものである点です。

 今回検討したい点は5点ありました。うち一点はノートに書いてある音楽など知的財産における創造性云々の問題。これは私もDJをやっていた経験があるので、レッシグの別書「コモンズ」を読んだ際にひたすら違和感を感じていた点でした。また機会があれば「コモンズ」をレビューする際にでも考察したいと思います。


・<帝国>とレッシグの議論の関連性について
 <帝国>は何故<帝国>となるのか。レッシグの議論と大きく異なるのは、<帝国>が単一なるものを志向しており、法権利ではなく「合意」によって作られることで、法概念も消失していく可能性が見られた(「<帝国>」p36参照)。
 マルチチュードは<帝国>成立のためのファクターでした。ではマルチチュードでないものはどうか?「<帝国>」のp206から類推するに、「存在を再生する能力は持たない」、平たくいえば、<帝国>のシステムに対抗する要因にはならない、ということを言っている、と解してもよい気がします。
 一方、レッシグの議論する主権国家は「仕事をしている」。つまり、第一に自国の国民の保護を考えていることを前提とします。これは私が指摘した「国家の法は、<帝国>体制が仮に存在すると仮定しても、国内に限れば強く効力を発揮し続けるのではないのか」という疑問を国家間の問題へ拡張したものともいえます。ただ、この壁を越えるには、ハート/ネグリの言うのとは性質の異なる「合意」を要します。それは、積極的な調整を行なうことができた上で国家間で取り決めうるルールである。これはまさにハート/ネグリが批判をしていた媒介的なものである。 

 では、どちらに軍配を上げるべきだろうか。ポイントとなるのは、「法が法として機能しているのか」や「法が(レッシグ的な意味で)合意により成り立っているのか」といった点である。この両者は一見異なる主張であるが、レッシグも認めるように、「隠れたあいまいさ」の出現によって派生した問題として一致している。レッシグの場合はそのような状態にこそ選択が必要と訴え、ハート/ネグリの場合はこの問題はそのあいまいさがさらに進行するために、意味をなさない、と指摘するように思える(注1)。


・オープンな議論へ持ち込むことの意義(と、選択・責任?)
 レッシグが終始指摘するのは、まず、アーキテクチャなどの仕組みが合意調達の上で行われていること、さらに我々がその仕組みのあり方を「選択」することにあった。

 フィルタリングの話で、レッシグもわれわれが、知りたくない事実に目を伏せる可能性について言及しているが、これは現実のフィルタリングが不完全にならざるをえないという議論と一緒に回避させられるべき問題と位置付けられる。
 しかし、この理由付けについてはかなり雑な主張しかしていないように思う。
 「他人の問題を目の当たりにして、社会に影響する問題について考えなきゃならない。この露出のおかげで、われわれはもっといい市民になれる。」(p362)

 もっといえば、レッシグは一貫してオープンな議論の必要性を指摘している訳だが、それはわれわれが望んでいることなのだろうか?確かに民主主義という文脈からはこのことは結びつくものの、これは「強制させる」ものなのだろうか?レッシグの前提に基づけば、われわれの合意により「強制させる」ことがよいとされれば、強制は可能だが、それは本当に合意を得ることができるのか?全員ということは考えないほうがよさそうだ。
 この合意の範囲を「われわれ全体」とせずに考えてみよう。それでもオープンにされた知というのは、それ自体にアクセスする人間を制限してしまう。インターネットについてもそれを利用できる人は制限されるし、「検索」を使いこなして知にたどり着くのも制限される。そうすると、直接的に知にたどり着く可能性は低いものも多いといえる。
 オープンな状態の要求により、その問題に関心のある者によってその問題を掘り下げることが可能となってくる(知をオープンにしても、それに関心がないと、アクセスされない!)。しかし、果たして関心のある者はその情報フェアに扱うことはできるだろうか?レッシグの前提からみるとこれはNOと言っているように思える(これはレッシグが法によって利益を得る集団とそうでない集団が出てくることを議論していることからの推測)。一般人は直接的な知のアクセスだけでなく、間接的にも知にアクセスする。現代の場合、間接的な知にアクセスする機会の方がはるかに大きいのではなかろうか。そうすれば、利益のあるものによるフィルターにかけられた情報というのが、我々に知られる、という状況になる。これは事実を曲げられるというリスクとなる可能性もある。


 もう一点、レッシグが用いる「選択」を考察したい。
 選択は自分で行う場合と、集団で行う場合がまず考えられる。集団の場合は「合意」があるため、さほどの問題は生じないといってもよい。では、個人的な選択の場合はどうか?レッシグの主眼は明らかに集団的合意の方にあるため、個人の選択の観点はあまり文章中に見られなかったと思う。
 「もしサイバー空間がどう展開するかについての決断が必要なら、その決断は誰かがやる。問題は、誰がそれをするか、ということだけだ。この選択が行なわれるときに、何もせずに傍観することもできる——その選択は、あっさり傍観しないことにした他人たちによって行われることだろう。あるいは、選択が再び集合的に、責任ある形で行われる世界を想像してみることもできる。」(p451)
 確かに個人レベルでの選択(自己選択)を迫ることは、集合的に行うことで「責任」の問題を回避することも可能であろう。そして、レッシグの議論はどちらかといえば自己責任論を回避するようにして展開されているように思う。これは、現在の法というのが、市民レベルでの問題を扱えないよう設計されていることに対して、問題視する記述に現われている。
 「この二重性が問題になるのは、これまでこの種の問題を解決するのに使ってきた法的ツールが、市民レベルでの紛争を解決するようには設計されていないからだ。それは組織間の紛争を扱うためのものであったり、相対的にもっと高度な役者の紛争用だったりする。企業間でのやりとりのルールであったり、政府と企業のやりとり用だ。個々の市民間の紛争用に設計されてはいない。」(p420)
 これは証明書、信用を高めるアーキテクチャの議論の中でも見られる(p61あたり)。このシステムはアーキテクチャありきで成り立っている。ただし、そこには正しく機能しない可能性も含まれている。しかし、法が機能することによって、この問題は一定程度回避できる。レッシグは、信用をめぐる不確実な部分について、法でのフォローが可能であることを強調していると思う。

 ただ、ここで問題が2つほどある。
 一つは法の事後制約性である。レッシグの言うように、いくら法によって規制されても、それは厳密には事前制約とはならない。このため、そこには脅威にさらされる余地が用意されざるをえない。法がアーキテクチャに干渉することで、事前に制約することも可能だろうが、アーキテクチャによってどこまで信頼構造を担保できるか、という問題は残り続ける可能性もある。

 もう一点は、最初に立ち返って、集合的な合意というのは、個人的な選択を含まないのか?という問題である。ここでの考察はレッシグが個人的選択を回避していることを前提に進めてきた。しかし、そうすると、集合的な合意の問題において矛盾をきたさないか?
 この問題点は個人的選択を「認めていた説」と「回避していた説」でそれぞれの解釈ができるだろう。
 前者の場合。基本的に問題は生じないように思える。この場合は個人的選択と集団的合意が一致する状態である。問題はむしろ、この「一致」をめぐる問題である。この点については、今後も検討していきたいが、私個人としてはこれが不可能だと考えている。
 後者の場合。この矛盾を回避する簡単な方法は現行の「代表者」選出という方法である。 代表者へのレッシグの言及はp361にある通り。我々はアーキテクチャが間接統治することで隠蔽されやすい部分は公開されるべきで、それを知るべきであるという。ただ、代表者は個人と一致しないためにおこる必然的な考えのズレと、現行の制度においてはこの代表者と個人の「考え方」に着目した場合の制約要件というのはあまりにも強い問題もある。

 このように考えれば、個人的選択というのは、回避しきれない問題として扱うしかないのではなかろうか、という結論になる気がする。これは個人の責任問題にも言及する必要が出てくることも意味する。

 今回はこのあたりで。次回は残りの2つの論点を考察します。

(注1)しかし、このような「隠れたあいまいさ」が国家の法自体にも介入し、国民にも影響を与えるのであれば、その法は機能を果たさず、ハート/ネグリ的な「合意」に達せざるをえない、と考えると、私の指摘していた批判は成り立たず、国家内でも「<帝国>」の原理が作用する、ということになるだろうか。