ジョージ・リッツア「無のグローバル化」(2004=2005)

 今回はベックの代理でハイパー近代(後期近代)の議論をするということで、リッツアを取り上げます。
 リッツアは「マクドナルド化する社会」で有名ですが、本書はその後に出た本になります。

(読書ノート)
vi ご当地キティやご当地ロゴ入りTシャツなどについて…「これらのグローカル商品は一見地域特有のような幻想を与えるが、実は典型的なグロースバル化された商品であり、グローカル化はこうしたグロースバル化された商品に付加価値を与えたに過ぎないのである。」
xvi 「無という概念の定義は多様であるが、本書では特有な実質的内容を相対的に欠いており、概して中央で構想され、管理される社会形態を指すものとして、この概念を使用する。
xviii-xix 「また、内容の詰まった形態より、ほとんど空虚な形態のほうが、はるかにグローバル化しやすい。その主な理由は、内容の多いものには、世界のほかの文化に適合しない、さらにはそれらと対立する可能性が高いことである。内容が豊かであればあるほど、何らかの現象が適合しなかったり、受容されなかったりする機会が増える。」

p62 「存在は誘惑し〔魔法をかけ〕、われを忘れさせるような性質をもっている傾向があり、無は幻滅させる〔脱魔法化した〕ものであり、不思議なものやわれを忘れさせるものに欠けている傾向がある。」
※これは合理化と関係する。
P52 「現地で構想され、管理されるものはその時代に特定的である傾向が強く、中央で構想され、管理されるものは無—時間的である傾向が強い。現地生産者は自分が生きている時間もしくは自分がその小片であり、もしくはその最も最近の表れでしかない永劫の時間を当然にも映しだしている。中央管理型の生産者は、売り上げと利益を最大化しようとしているので、無—時間的なものを生産するようになる可能性が高い。」

P99 「永続的なものと一過的なものの問題は、時間特定的なものと無—時間的なものの連続体に密接に関連している。場所には永続的なものを感じさせる雰囲気があるが、それとは対照的に、非場所にはある種の一過的なものがある。」
P127 「前述のような悪循環があるとすれば、起点、つまり全過程がそこから動いている点を選択できるであろうか。十中八九、このような起点をみつけるのは不可能である。しかし、あえて選択すれば、モノと非モノの領域では、それらの大量生産を起点にすべきだろう。」
※なぜ非場所、非モノ、非ヒト、非サービスの共犯関係を「悪循環」と考えているのか。

P168-169 アメリカ化という表現について…
1. 消費に関するものである
2. 高い移動性
3. 一定以上の生活水準
4. 巨大なものへの熱狂の反映
p172—173 「明らかに、資本主義は無のグローバル化の強力な原動力である。これにはさまざまな理由があるが、おそらく、最大の理由は、利益を最大にするために、概して、資本主義企業が製品を最も単純で最も基本的な要素に縮約しようとしていることであろう。無の定義に即していえば、資本主義企業は存在と無の連続体の無の極にかつてないほど近いものを生産しようとしている。資本主義企業は連続体の存在の極に近いものを生産できるし、そうしているが、存在の生産は無の生産よりもはるかにお金にならない。それゆえに、資本主義企業はすでに無であるものに魅力を感じているが、存在を除々に無に変えている傾向が強い。」
p182 「グロースバルな企業自体が特定の市場の歴史や伝統に依拠する製品を開発して、「故意のノスタルジア」を利用しているがゆえに、複雑さがさらに増している。グローカルな代替物にみえるものが、たやすく無のグローバル化を促進する道具になっている。」

p202—204 グロースバル化と存在の相関が弱い理由7つ…存在の需要が少ない(無よりもはるかに洗練された趣が必要)、存在の複雑性は他文化の者を困惑させる、存在の高価性、マーケティングにお金が使えず、需要が増えない、存在の大量生産はそもそも困難、価格志向に弱い、運送費が高い
※ちなみにここで存在の例として挙がったのは、手作り工芸品、シルクロードコンサート、ゴッホの絵画、グルメ向け食品。
P212 「しばしば伝統的な衣装、踊り、音楽を使って上演されるグロースバルな観光客向けの郷土ショーは、無のグローカル化のもう一つの好例である。これらのショーは存在であったかもしれないが、グロースバルな旅行業者や観光客を満足させるために、無に変化している傾向がきわめて強い。これらのショーは中央で構想され、管理される空虚な形態になっている。それゆえに、それらは無のグローカル化の例といえる。これらのショーは骨抜きにされていないとしても、しばしば、難解な要素や不快感を与える可能性のある要素が取り除かれた水割りのようなものになっている。……結局、観光分野では、存在のグローカル化より無のグローカル化が進行している傾向がはるかに強い。」
※実例はないが、バリ島が典型的な例だろうか。また、食事などについてはこの問題が露骨に発生するだろう。

P222 「さらに、伝統的なヨーロッパ通貨の表面を飾っていた見慣れた独自な絵柄が消え去った。その代わりに、ユーロ紙幣には、どこにもない場所、つまり架空の地方の風景が描かれている。諸国民から自国の地方が描写されていないという反発を買わないように、ヨーロッパ諸国に現存する有名な地方のどれも用いないことが決定された。
 これらの名高い通貨(※ヨーロッパ各国の通貨)の消滅に対して大きな抵抗が起きると考えられていたが、抵抗どころか、反応さえほとんどなかった。これは、われわれがますます無を特徴とする世界に生きていることを反映している。」

p236—237 p2pの例…「ユーザーは一般的に無料でメディアファイルを互いに交換している。これは違法行為であるが、中央で構想されておらず、中央で管理されていないインターネットの分散型結節構造が、このような連続体の存在の極に近い消費形態を可能にしている。実際、インターネットの分散型結節構造はインターネット上の大規模消費サイトが中央で構想され、管理されていることと対立し、競合している。もちろん、交換されているものは大規模消費サイトにあるものと同様な非モノであるといえる。」

p341 「それ(※ブランド)は無のグロースバル化であろうか、それとも存在のグロースバル化であろうか。存在と無の定義にしたがえば、ブランドは現地で構想されておらず、管理されていないので、それらを存在とみなすのは難しい。しかし、ブランドは特有な内容をもっている形態であり、あるブランドの(理念的および感情的)内容はほかのブランド、とくに競合ブランドの内容と異なっている。……したがって、少なくとも本書の定義に即していえば、ブランドは無ともみなせないし、存在ともみなせない。」
p350 「ローカルなものをロマンチックに過大評価しないことが大切である。ローカルなものは、あまり望ましくないもの、さらには破壊的で非難されるべきものの多くの源である。人びとはローカルなものに支配された世界に戻るのを望んでいないと思われる。グロースバル化とグローカル化は世界中の人びとに彼らの生活を向上させ、彼らの多くをより幸せにするようにみえるものをたくさん与えてきた。必要なのは、人びとがローカルなものを選択できる権利を引き続きもてる世界、つまり、ローカルなものがグロースバル化とグローカル化によって破壊されず、一つの選択肢として存続する世界である。」

p396-397 「とはいえ、過去の多数の人びとは以前には存在が優勢であったとする本書の見解を共有していなかったし、現在の多数の人びとは今では無がますます優勢になっているとする本書の見方を共有していないと思われる。つまり、過去の少なくとも一部の人びとは存在には多くの実質があると考えていなかったし、より重要であるが、現在では、本書で無とみなしたもののなかに多くの実質があると思っている人びとがいる。それゆえ、本書で「客観的」観点から実質を欠いているとみなしたもの(無)のなかに実質(存在)をみている人びとがますます増えているという、もう一つの壮大な物語が生まれている。いいかえれば、人びとはますます無を存在とみなしている。」
グローカルとグロースバルの混同として、それを説明している。

(今改めて読み返してみて)
 グローバル資本主義についての理解のために当初読んでいました。リッツアの言う通り、無という言葉は少々厄介で、当初は読みづらかったという記憶もありますが、あまり無という言葉にこだわらなければ、具体性にも富んでいるので、読みやすい方かと思います。
 本書で取り上げているような非—場所や、存在などといった概念は、後にハイデガーを読む最初のきっかけになった一冊になったと思います。ハイデガーについてはかなり理解が難しかったので、取り上げるのを避けていますが、今後読書レビューを進めていくと避けられないような気もするので、時期が来たらレビューすると思います。

・「存在」の問題をどう扱うか?レッシグとの関連性は?
 リッツアのいう「存在」とは、中央で生産されたものではなく、なおかつ独特の意味を持ったものだとされます。そして、後期近代の文脈で、この「存在」が消失していることを危惧し、文化的多様性の消失の可能性を指摘します。
 ところで、リッツアの議論は消費社会論です。つまり、本書での議論は「財の交換」を扱っています。そうすると、リッツアは一つの前提を提出していることになります。「文化は、財としての地位を確保しておく必要がある。そして、それを交換対象として維持していく必要がある」というものです。
 ここでいう財は、他のものとの交換価値のあるもの、つまり貨幣価値のある財を指します。この前提からは、「貨幣価値のない財の交換」や「(一方的な)贈与」という可能性は排除されており、リッツアの議論の対象にもなっていません。

 ここで提起したいのは、「無のグローバル化がなされても文化的多様性は依然として生き残る可能性」です。「貨幣価値のない財の交換」や「贈与」の中に文化的多様性が生き残り続けるのなら、資本主義が対象にする財の交換の中に「存在」がなくなっても問題がなくなるといえます(少なくとも、リッツアの懸念はなくなる)。
 この論点は、レッシグ知的財産権について議論していた点にも関連してくる。やはりレッシグ知的財産権を通常の財とは性質の異なるものとして扱っており、「法」による制限を弱めるべきだとする(レッシグ2006=2007、p322)。ここで法は財としての価値を高めるために導入されるが、レッシグはこれを批判し、文化の自由な空間を確保しようとしているのである。もちろんリッツアの本当に言いたい文化的多様性とは異なるのかもしれませんが、財の交換のない所で「存在」が生き残る可能性があります(注1)。

 想定される最大の批判はこの財の交換と文化的多様性は分割不能であると考えることでしょう。財としての価値が文化にないと、自動的にそれが消滅してしまうという可能性です。文化の生産にしろ、再生産にしろ、リッツアの言うように無と比べれば労力がかかるものだし、その維持のためには財的な価値を文化そのものが含んでいないと維持できないのではないか、ということです。これはある程度理にもかなってるのではないかと思います。ただ、もう少し具体的な立証が必要でしょう。これが成立するなら、レッシグの主張が逆に無意味なものとして否定されることになるでしょうから。

 しかし、いずれにせよ、「無」が「存在」よりも優位であることは、我々の選択の結果であると言えるだろうし、これを逆転させる根拠が文化の多様性だとまた弱いです。ベックの言うような科学の議論と無の議論を(資本主義を媒介させて)関連付けることができれば、これが有効になるかもしれませんが、これもまた難しい作業だと思います。

ドゥルーズガタリとの関係をどう見る?
 一見リッツアの立場というのは、D/Gの立場から見れば、批判すべき対象であるようにも思える。リッツアの「無」という概念は、D/Gのいう「脱領土化」という言葉にも繋がりそうな話である。D/Gのいう「脱領土化」は資本主義の重要な性質である訳だが、同時に資本主義には「再領土化」の過程が必須であり、「再領土化」される資本主義の批判に繋がっている。
 リッツアもまた似たような説明を加えている。我々は無というのを、しばしば存在であるかのように扱っていると指的している。このような見方が、我々が無の世界で生きていることが日常化していることが、存在の消失に繋がっている、という論調を行なっているのだといえる。このような動きを加速させているのは,資本主義であるといえる。
 しかし、両者のめざす方向性は真逆である。リッツアは存在を擁護し、D/Gはより徹底した無を追求する立場を取っている、という言い方ができるだろう。D/Gから見たら存在の立場は擁護できないであろう。それは、おそらく簡単に資本主義に存在が回収され続けてしまうからである。では、D/Gの立場は支持できるものなのだろうか。
 すでに述べてきているが、私はこの立場を支持してはいない。その理由の説明方法として2通り思い付くものがあるが、今回説明を加えるのは、「よりわかりやすいが、若干うさんくさい」方である。それは、D/Gがグローバル資本主義という文脈をうまくとらえられていなかったのではないのか、という説明方法だ。

グローカル化とグローバル資本主義
 日本でもグローカルという言葉は広く復旧しているようだが、それもここ10年ほどの話かと思います。この言葉は日本でもグローバル化の中におけるローカル化という点を重視したものとしてとらえられていますが、リッツアはこのような見方に対して危機感を感じています。その説明のために導入したのが「グロースバル化」という概念であり、後期近代は「グローカル化」と「グロースバル化」の対立関係を生んでいるという説明を行うのである。
 このような考え方は、本書で名の挙がるロバートソンやアバデュライの考え方とも全く矛盾しない、というのが私の立場である。というのは、この両名がグローカル化として対象にしているのは、ここ数十年の時代の話ではなく、むしろ時代区分としての「近代」が出現してからの数百年単位の話の中からその議論を行なっているのである。「近代」の進行の中で、グローバル化していく、単一的な要素としての近代がローカルなものに接触する際に、ローカルなものと融合する中で、独自の価値を持っていく結果、それが「多様な近代」の説明として成り立つ、ということを両者は説明していた(注2)。
 ここで問題になるのは、ロバートソン/アバデュライ的なグローカルの解釈をする我々の立場の取り方である。この立場をそのまま現在に繋げるか、それともそれを否定するか。リッツアはこれを否定する。そしてその説明として「近代」と「後期近代」の性質の違いをことさら強調するような語りを行うのである。そして「多様な近代」は「単一な近代」に再構成されていくことになる、と考えられるのである。

 D/Gが「アンチ・オイディプス」を出版したのは、1972年。このタイミングというのは、後期近代という区分からみると、その初期に位置づけることができる。D/Gはこの時点で後期近代、グローバル資本主義の性質を十分に実感することがなかったという言い方は正しいだろう。そして、まだ「無」の方に志向することで資本主義に抗するということが可能だと信じることが可能だった時代だったのだろう。

 この説明の仕方は、あまりにも現実志向の説明であることが逆に問題かもしれないと思う。というのも、ドゥルーズの議論自体が、現実志向的な考え方に批判的であるように思えるからだ。ドゥルーズがここにどのような価値を認めているのかというのが、今現在読み込んでいる部分でもあるのですが、2つ目の説明方法というのは、このようなドゥルーズの態度の取り方自体への批判、という説明になります。詳しくは今後考察します。


(注1)しかし、もともと「存在」が財の交換によって支えられていたという主張もよく考えると疑問にできる気がしないでもありません。

(注2)アバデュライの「さまよえる近代」(訳書2004)は、インドを事例にして、この過程を実にうまく描いていたように思う。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★☆
おすすめ度:★★★★