アントニオ・ネグリ「さらば、“近代民主主義”」(2006=2008)

(読書ノート)
p30−31 ネグリは、ハイパー近代(現代という時代を常に近代の伝統との関係において考える、ベックなどの認識)ではなく、ポスト近代として(特に権力、労働、グローバリゼーションにおいて見られる)政治状況をとらえる。

P76 「市場という考えは、実際のところ、それ相応の理性によって暗黙のうちに支配される社会を仮定している。したがって、暴力は、正しい社会的機能を保証し、市場の影響圏を拡張するための補足的機能を担うものでしかない。しかし、市場において、生産や蓄積の指標が社会的磁場をつらぬき、社会的なものの尺度や規制の基準が危機に陥り、これに取って代わる別の価値化の指標が資本主義システムの中心ならびに周辺の地帯で姿を現すと、資本主義システムを支配する権力をもつ体系的勢力にとっての唯一の解決策は、非合理性を認めることである。すなわち例外状態がいたるところで宣言されることになるのである。」
※この例外状態において、「規制権力の特権維持と再生産の基盤に依拠して再導入しようという、がむしゃらな試み」が行われる(p77)という。

p112 リチャード・ローティやジャンニ・ヴァッティモの「弱い思考」への批判…「そこで問題となっているのは、危機の大きさを現象学的に示すことよりも、むしろ敗北の広がりを道徳的に提示することだった。弱い思考は、北アメリカであれヨーロッパであれ、悔悛した思想であり、怨恨に満ち、一九六八年五月の事態に罪悪感を抱いているのである。その皮相性は、前進する逃走(漏出)ではないところにあるが、かといって反動的でもなく、結局、死すべきものとしての人間の個人主義的・内面主義的な再発見にゆきつく。しかし、こうしたすべてのことは、一種のとてつもなく愚かな自己満足を通して悲劇性もなしに遂行され、生権力の奉仕者かつ媒介者であることの喜びを再発見しながら、他方で反逆の時代を生きた——そしてそれを忘れ去ることができない——ことへのルサンチマンをともなってもいた。」

p124 「大学においても新聞の文化欄においても、ベンヤミンアレントは、現状に対する醒めた擁護論を構築するために利用され、批判的機能は、ユートピア的な言明と終末論的形而上学とのあいだに、あるいは幸福への期待と存在論的限界に対する優柔不断で苦悩に満ちた虚偽意識とのあいだに根を下ろした、将来展望のない遊戯へと追いやられている。」

p135 権力を権力として成り立たせている媒介物は姿を消し、権力そのものの存在論が出現している。存在論的問題は、差異と創造性との関係のなかに直接根づいており、その二つの事柄の関係の存在を可能にするのは抵抗であるとみる。
P137—138 「したがって、差異について語ることは、抵抗について語ることである。……差異の確立が可能になるのは、創造性や生活様式の重視、本質主義と自己同一主義のあらゆる形態の破壊という脈路にそって、この組成を絶えず刷新することによってであり、それ以外に方法はない。そして、そのとき、<共>の建設もまた可能になる。<共>とは、このような運動の総体にほかならない。」
P139 「したがって、分離が生産的な差異——単なる引き算ではなくて——になったとき、そして権力の奪取が最重要であることをやめたとき——潜勢力(差異)の発展が明確になることによって——に、はじめて、構成的・創造的な過程が定着することになるのである。」

P140 「主観性の生産という視点から見ると、分離主義は、近代とポスト近代の歴史的区切りの自覚にかかわるもっとも明白な要素の一つであった。なぜなら、分離主義は、自らに固有の特異的あるいは集合的な革新的主観性を自己産出する生活様式や試みをもたらしたからである。そして、これが近代の決定論に対する根元的な断絶を構成したのである。したがって、分離主義は、すでに生政治の創造性を先取りする政治的なものの部分的発明に相当するものだったのである。」
☆P142 「脱出の力能、つまり、分離のなかであらかじめ発案された感情的・個人的・社会的・市民的・歴史的・政治的な差異をもとにして、一つの全体世界を再構築する力能が生まれるのは、この分離主義が差異になったときである。この世界は、あまりにも重すぎて、一撃で全部吹き飛ばすことはできない。……しかし、そうであるならば、そういった考えをやめて、新しい生活形態を構築しなければならないだろう。社会の内部で、かつてないような節合と経路を創りだすことだ。フェミニズムは、こうした戦略を重視した。」
※創造性のコンテクストはここから来ている?

P162 「したがって、市民権の新たな概念は、このような帝国的な指令に対立する——より正確に言うなら、抵抗する——かたちにおいてしか、提起することができないだろう。問題は、この新たな概念が、新たな生産的行為主体の社会的・生政治的次元と、生産的主体の可動的次元とを、同時に内部化し、包摂し、構造化する能力をもちうるかどうかである。」
P166 「まずなによりも、「政府の形態」としての、つまり国家と権力の統合的管理の形態としての民主主義の概念と、近代の陰鬱な時期に、絶対的国家の支配に対する「抵抗」としてつくりあげられてきた民主主義の概念とを、区別しなければならない。」
P168 「ラディカルな民主主義という概念を分析するにあたって、もう一つ指摘しておかねばならないことがある。民主主義的運動は——それがプロレタリア的なものであろうと、もっと広く言って社会的なものであろうと——、常に、持続的過程としての民主主義の二重性や矛盾を解決することを試みてきた。これまで、闘争の発展を支えるための一種の単線的モデルが常に存在してきた。……しかし、そうしたすべての場合において、問題は、とにかく、政府形態としての民主主義と<共>の実践としての民主主義をどのように再構成するかということであった。だが、今日、こうした伝統は、もはや持ちこたえることができない。」

P187−188 「近代的な主権概念の危機の歴史を再考してみると、人は通常、常にある磁場に身を置いていることがわかる。すなわちその磁場というのは、資本と、主権国家というブルジョワジーの二つの中心の、いずれかが統治能力を失うという事態が生じる場である。しかし、主権の危機についてのみ語ることは、絶対に不十分である。なぜなら、あらゆる反対行動、抵抗行動、オルタナティブな提起といったものは、権力に対する異議申し立てだけでなく、なんらかの<共>の表現をもともなっているからである。抵抗は建設なのである。」
※「反対行動、抵抗行動」と「オルタナティブな提起」は並列に語ってよいものか?抵抗が建設なのは何故か?<共>を作るからか?それとも、既存の価値とは異なる創造性を提供するからか??オルタナティブな提起とは、ただの再領土化ではないのか?

P197 「われわれは、決定をどう理解すべきか? それは個人的意志の行為だろうか? もちろん、そうではない。マキアヴェッリをはじめとして、政治的決定を分析したすべての者は、まさに決定の特異性に直面したがゆえに、個人的決定のモデルは不十分であると結論づけた。すなわち、特異的決定は、逆に、無限の因果関係をふくむ意志の行為である。それは、人間が自在に操ることのできる剣のようなものではなくて、共通の現実のみが管理することができる巨大な機械なのである。この共通の現実だけが決定する能力をもっているということだ。」
P198 「したがって、決定の存在論的な次元を深化しなければならないだろう。この次元を一者の意思としてではなく、マルチチュードの表現として定義しなければならない。ここにこそ、われわれが、政治的過程に回帰しうるために解きほぐさねばならない結び目がある。決定をマルチチュードの表現として定義し、<共>の運動の目的因(事後的な)のなかに、共通の行動の企図に中に挿入したとき、「決定:はいかなる意味を帯びることになるだろうか?」
P202 「決定の問題を重視するということは、もちろん、個人的なものでもなければ、集団的なものでもない。それは、まさにこの問題が共通的なものであるがゆえに、特異的なものにとどまりつづけるのだ。」
※これは一種の忘却を含んでいないか?その忘却の上に決定が成り立つ?

P211−212 「決定の空間——したがって、ありうべき組織の基盤——は、物理的空間に規定されたり限定されたりする——それが部分的であるか、全体的であるかを問わず——ような問題ではない。逆に、決定と組織は、全体的空間と局地的空間を同時につらぬく、さまざまな異なった力のあいだに存在する関係のなかに姿を現わすのである。ここで、組織について——つまり、組織というものは常に反権力の行使から生まれ、その行使を持続することによってではなく、それを越えてもっと先に進むことによって、運動や制度の本質的な変貌が起きるということについて——語ること、あるいはマルチチュードの組織について語ることは、局地的決定に統合された、そしてその局地的決定によって、局地的決定のために共通の名前と決定と化す全体的視点を表現しうる可能性について語ることにほかならない。」
※問題は忘却たらしめるものが何かだ。そうすると、強力な反Aということになるだろうか。奇妙なことに、多数的なものが存在しうる空間とは、そのような場所(のみ?)らしい。そうすると、いわゆる<帝国>が陰謀論的なものとしてでっちあげたものであっても、何も問題ないだろう…

p225 「したがって、貧困の力は、人間が最初に置かれた条件を越える飛躍の力なのである。この飛躍はもちろんリスクを引き受けることになるが、いかなる場合においても、自らの内に、想像可能な生そして/あるいは解放の選択の全体性を担っている。そうであるがゆえに、この力を、スピノザ的な意味における「力(潜勢力)」と呼びうるのである。」
p225 愛という言葉の古典的メタファーを避けての使用:「すなわち、プラトンにおいて、欲求と愛とが有機的に結合していたその場所において、ここでは、逆に、この両者を一方から他方へと移行させる生産的な持続性の関係を理解しなければならないのである。」
※潜勢力を無限の生産力とみる

p204 決定の様態の分析について:「すなわち、特異性が<共>に向かっていく時の緊張の内的限界と、その外的限界との対立という問題である。この外的限界は、主観性の内的イニシアティブが出来事を生み出そうとするときに遭遇する障害に対応する。そのとき、外的限界は、存在の虚空を越えて身をさらし、「カイロス」(好機)のリスク——賭け——を受け入れる。ここで、理解しなければならないのは、決定は、それが共通の労働や、それによる生産の存在論的な蓄積によって養分を与えられるぶん、外的限界に対していっそう——ほとんどぎりぎりの極限まで——わが身を開き、さらすであろう、ということである。この開放はリスクではあるが、同時にまた潜勢力となる。」
※表出のプロセスを根こそぎ無視してしまっている感じもある。あと、潜勢力の定義が逆になっている(外的限界に向き合うことが潜勢力にもなる、という表現)。

(考察)
 今回の考察は論点をかなり掘り下げてみたため、ネグリの考え方とのズレ、論旨の一貫性などが弱いかもしれません。

 ネグリのいう創造的なマルチチュードは素朴な(みんな違ってみんないい的な)多などではない。それはアレント的な多による議論を行う者達でもないし、ただそこにいる者達を指して多と呼べない。まずもって貧者であり、一なる者への抵抗者達であり、その抵抗によって作られた<共>のなかに存する者達を指すのである。
 しかし、抵抗者から創造者への転換はそう簡単には起こりえない。それは何より<共>にいる者が多な者だからである。フェミニズムのような例はこの議論においては適切ではない。フェミニズムの問題は男と女という二項対立図式をはっきりさせやすいものだ。しかし、例えば、障害者の連帯などはどうだろう?彼らは<健常者>への抵抗者たちである訳だが、この障害者という枠はあまりにも広い。既存の日本の法律では、身体・知的・精神という区分けが基本的なものだが、それも細分化するとそれぞれが他者であるし、法的な障害者でない者もまた不自由な人間であるかぎりにおいて障害者とみなしうる。

 ここでのポイントは何か?それは、<共>というのは、あくまで価値Aから価値Bへと移行するための集まりではなく、非Aによる集まりである、という点が第一の前提とする点である。価値Bという「一者の意志」とならないためにマルチチュードがとる方策は「Aではない」ということを強い理由することで集まることが可能になる、複数な者たちの空間にある。これはつまり、価値Aの否定があまりにも強いがために、その他の価値の差異があるマルチチュードは、その差異を認識せず、連帯することが可能である、ということだ。
 この空間を基軸にして、ネグリは持続性を語る(潜勢力という言葉も同じ意味で使われているのだろう)。これがネグリの最大の賭けの部分であり、なかなか興味深い部分でもある。抵抗の状態を止めずに継続していくことが貧困から愛へ、抵抗から創造へと繋がる鍵であると指摘するのである。この移行のプロセスについては、ネグリは断片的にしか語っていないと思うが、「抵抗と創造」という一見矛盾した概念の転換を説明するのに説得力をもっているようにも思えてしまう。しかし他方でそう思ってしまうのは、この移行がブラックボックス的になってしまっているからではないのか?とも思う。


 そこでネグリの議論の前提をもとにして、もう少し丁寧に考えてみたい。
 注目するのは<共>が構成させる起点についてだ。やはり、起点においてこの<共>はある価値Aに対する反抗勢力として集まることになる。その<共>の内部の差異については不問に付すことが可能な状態である。その後、この状態を変えるための「決定」が待っている。この決定はどのような決定なのか?
 思うに、<共>の側から出てくる創造は雑多なものの集まりではないだろうか。この雑多な提案というのは、さしあたっては<共>の空間を浸食するものではない。そして「決定」が下され、再びそれが反復されていく…という構造の中に持続が生まれるのである。

 では、この雑多な提案が<共>の間で対立を生みうる条件は何だろう?2つ考えられる。
 一つは、雑多な提案というのが、<共>の間で対立する価値観を表面化させてしまうことである。対立を生むということは、雑多な提案の内の1つが、<共>の中にいる存在を排除するような価値がある場合である。この条件が作動しない条件は2つ考えられる。一つはあらかじめ対立しないような価値のみを雑多な提案に組み込むこと。これは仮に排除の可能性がある場合でも、その排除を抵抗のもとになった存在、<帝国>のみに帰すことが必要である。もう一つは仮に対立しうるような要件が雑多な提案にあったとしても、それを認知しないという方法である。<共>の中で自分にとってデメリットである提案がなされているのにもかかわらず、それを認知せずに決定するという可能性である。
 この条件の不作動条件に大きく寄与するのが、「価値Aへの強い抵抗」であるといえるだろう。対立しない価値提出の意味でも、不認知の意味でも効果がある。もう一つ現実に即せば、「共生」という言説にも注目できるかもしれない。この「共生」という言葉は、対立を回避するために有効であり、また連帯的な機能も持ち合わせている。「共生」を唱えることは、マルチチュード達に内在する対立構造を回避するためのレトリックとして機能するのではないだろうか。

 もう一つの対立を生む条件は、「決定」そのものの構造がそれを内包することである。要するに「決定」を行うのは誰かという問題とリンクするものだ。仮に<共>の中で完結した「決定」が行えるのであれば、マルチチュードはその内部での対立は起らないかもしれない。しかし、「外部」が存在する場合はこれが異なる。国だとか<帝国>といった統治主体はその外部の存在となるだろう。
 先述の通り、<共>の創造は雑多な提案のうちに成り立つが、「決定」において、統治主体がその雑多な提案から選択を行った場合に<共>の基盤を揺るがす恐れがある。この選択は合理的の有無を問わないが、<共>の提案が部分的に認められ、なおかつ、それが<共>の中の特定の集団にのみ利益があるような場合、<共>の中で抜け駆けしたことにもなりえるため、<共>内での対立が生まれる可能性がある。この危機についても、基本的には統治主体への抵抗を維持する限りでは問題はないかもしれないが…


 さて、別の側面からこの決定の性質を考えてみると、<共>の創造というものには内面的な規範というものが存在しえない可能性が見えてくる。この内面的な規範というのは、つまり自己抑制の可能性である。これは統治主体への抵抗の言い換えとして現われることとなる。
 この内面化を介さずに自己の望む希望の提出を制約する要件はない。仮にその希望に何かしらのリスクがあっても、そのリスクは自分自身だけでなく、決定を介して全体にリスク分散されることとなるからである。


 ネグリ的な「決定」に内在するものを掘り下げるとだいたいこのようなところだろう。ここからいくつかの疑問を提出したい。
 まず、もし創造性について考えるのであれば、我々はその創造にベストな解を与えることは望まないのだろうか、と言う問題が生じると思われる。確かに、<共>の中で、ネグリの言うような形での創造を続ければ、自らの「満足」(ある意味で幸福と言い換えてもいいのかもしれない)が最優先される形にはなるだろうが、この主観的な「満足」というのは、やはり実際の「自由」だとか客観的な利益の有無とは別に作用するものだ。何故、<共>を最優先して、部分的な「私の属する一なる集団」の利益は不問にされるのか?そもそも、<共>を最優先しているという事実も認知されていない状況ではあるまいか?ここには「知/非知」をめぐる問題があるように思う。これについては今後も考察の対象になるかと思われる。

 もう一つの疑問は、<共>の構造の問題である。既述したように、<共>の構成は当初価値Aへの抵抗として現れたはずだ。これは恐らく強力な抵抗要因となることが必要であるので、漠然としたものでは恐らく<共>の設立基盤とはなりえないだろう。しかし、この決定の反復を行っていく状態において、この基盤は除々に薄らいでいくことだろう。
 そしてこれに加えて、抽象化された価値における<共>というのは、もともと同じ<共>に属していた者たちによって構成されていなかった可能性も出てくる。つまりある<共>は価値Bへの抵抗として、ある<共>は価値C への抵抗として構成されたが、抽象化の段階でこれらが合流した、という可能性である。この段階においては、もはやもともとの抵抗的な価値観などどうでもよくなっているのは確かである。漠然とした抵抗、それがまさに<帝国>への抵抗なのだが、この段階においては、何故その漠然とした抵抗に疑問を持たないのか、という論点を提出できる。
 
 ネグリへの批判として、そしてドゥルーズガタリへの批判としてよく聞く、政治的な問題としてこれらの非媒体的な決定の反復の問題の帰結は、このような<共>は無意識的な連帯を続けていて果たしてよいのか、その<共>に新たな統治主体となる集団が形成されはしないか?という問題である。その新たな統治主体の存在に気付くためのメカニズムは想定されていないし、抽象化された、実体さえ存在しないかもしれないものへの批判が、結果として実体をもった統治主体の統治に貢献するのではないか…という疑問は当然出てくるのである。

 今回は長々とした考察になりました。次回は本書でも出てきたウルリッヒ・ベックを取り上げて、ポスト近代の目線からでなく、ハイパー近代の観点を導入できればと思います。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★★