OECD教育調査団「日本の教育政策」(1976)

本書は1971年に発表されたOECDによる報告書の内容の一部を翻訳したものである。
報告書が出された当時から、この報告書はかなり頻繁に教育をめぐる議論で参照されてきている印象があり、恐らくは一定の影響力を持った内容とみなしてよいのではなかろうかと思われる。しかし、私自身今まで本報告書の参照のされ方は、記憶している限りは全て「選抜制度やカリキュラムの画一化」に対する批判という文脈もしくは、そのようなものが日本的な特徴をもったものとして批判されることを前提にした、有力な「海外からの声」として紹介されてきたものと思う。
例えば、文部科学省のHPにも掲載されている「学制百二十年史」(1992)でも、以下のような紹介のされ方をしている。

 このOECDの報告書は、日本の教育が経済成長に大きく貢献してきたことを認める一方、日本は大きな転換点を迎えており、その経済成長で得たものを社会がどう処理してゆくかが今後の日本の課題であると述べ、教育は、文化の継承と更新、職業への準備と人間的な豊かさの育成との間の調和のとれた発展を図ることが求められていると指摘している。そして調査団は、日本の教育全般にわたる問題として、1)教育の社会的選抜機能が過度に重視されていること、2)教育制度内部において「合意と協力」よりは「権力と威圧」の関係が強く見られること及び3)価値の教育において対立が見られることを挙げている。また、「世界参加のための教育」という名称で、この時期に既に教育の国際化の必要性が強調されている。
 また、個別の評価としては、初等教育についてはむしろ学ぶべき点が多いとして比較的高い評価を与えている反面、高等教育については、教育・研究体制が画一的で硬直化していること、財政基盤、教育水準、社会的威信などの面において、高等教育機関がピラミッド状に階層化されていることなどを指摘している。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318591.htm

 文科省公式とも言ってよい見解であっても、このような批判的な見方をしていることからわかるように、それ以外の、制度批判をする者からはこれ以上に厳しい語られ方の一環で本報告書が参照されたことは、この引用からも想像に難くないだろう。

 しかし、このような大まかな本書のまとめ方をしてしまうには、あまりにも勿体ないような内容が本報告書においては議論されていたことは、私自身実際に読んでから初めて知ったことであった。

 いくつか、論点を示しておこう。まずとても印象的だったのは、日本側の当局の立場から当時の政策についての意見表明が明確にされているという点で新鮮だった。国の教育を批判する側からの主張を一方的に読むことが多かった中で、このような意見が書かれていた本書は貴重だと感じた。
 この時期の一種の制度の変化の動きについては、画一性・権威的教育の批判の立場からしか語られていないことも多く、特に文部省・中教審の多様化政策については、むしろ画一性を強化するものとして批判が集中していたといえる。例えば、斉藤寛は以下のようにして60年代から70年代の多様化政策を批判する。

「いわゆるハイタレント・マンパワーの効率的養成を明確に意識した「学問系統主義」とそれによる多様化という六〇年代以降の戦略の生み出した社会的矛盾は、道徳性の強調によって糊塗できず、七〇年代において、“おちこぼされ”た生徒の増加・ツメコミ教育による学校の“非人間化”状況、それに対する批判の噴出等々がそれ自体社会問題として政策的解決を要求するに至ったのである。しかしながらかつての「生活経験主義」へ回帰することはもとよりできない、という隘路の中で編み出されたのが、基礎学力重視と学校教育の“人間化”・それを通じた多様化の推進という今回の(※学習指導要領の)選択だったと言えよう。」(斉藤寛「教育内容行政の論理と構造」p143、岡村達雄編『教育のなかの国家』1983)

 また、坂本秀夫などは、学校の多様化は結局その学校に入学してくる生徒の同質化であり、「話し合わなくなっても、何となく同じような考え方、感じ方になっているような同質社会が形成されてしまう、そのなかで生徒は、単純な、単細胞型の人間になっていくのである。」(「戦後民主主義と教育の再生」2007、p53)とも述べる。特に斉藤のような、「国の多様化政策は差別化を助長している」旨の言説は比較的よく見られる内容であるように思う。そして、本書においても政策立案者の側からから同じような旨の主張されることで国の多様化政策が理解されないことに対する苦慮がうかがえた。
 この点についてのOECD調査団側の提言はどうなっているか。そもそも多様化政策の問題を「学校の問題」としている点についてはいまいち納得がいかない感じもするし(P16-17)、日本では散々批判される「学力テスト」の類も多様な選抜方法のためにはむしろ重要であるとし(P100-101)、恐らくはテストや予備校業界などの「民間受験産業」などを公的部門に取り込んではどうか(P101)といった提案などは、あまり日本の文脈で議論されていている内容とはずれたものであるようにも思える。

 そして、特に注目したいのは、OECD側の多様化観と、文部省側の多様化観についての違いである。本書では多様化の文脈は多様な選抜制度、および多様な意見を取り入れた教育活動の運営に焦点が当てられているが、後者については見方が著しく異なる。問題は「多様な意見が接する機会が少ない」かどうかであろうが、これはこれで実証的に検討せねばならない問題だろう。もちろん、「日本人は閉鎖的だ」という価値判断からは簡単に導ける日本の教育の「欠点」と呼べる観点だが、それを踏まえて何をせねばならないのか(どのような教育制度をもってそれに対処するのか)、という問いを立てるならば、「何が足りないのか」を具体的に検討せねばならないだろう。特に本書で言及されているようなコミュニケーションの違い(P182⁻183)を単純な「日本人と欧米人の心性」などで区別せずに、どのような教育等による影響で違いを生むに至ったのか、そもそもその違いは実際の所どれくらいあるものなのか、に注目せねばならないだろう。

 またもう一点、本書が一般に取り上げられる際には、特に「『日本の』教育の欠陥」として引用されることが多いが、ここで議論されている選抜の問題、教育における権威の問題は決して「日本だけの問題」であるという認識のもとにあるのではないことは強調しておきたい(P11)。したがって、本書でOECDの調査団が提案している内容についても多分に実験的な要素が含まれていることも無視できない。
 本報告書を読むにあたって、そもそも「この報告書はどのような経緯で提示されるに至ったのか」についても考慮せねばならないだろう。その意図については残念ながら本書では明示されていない。ただ、OECDという組織の目的も考慮するなら、経済的は発展に資するための教育についての検討、ということが第一に挙げられ、また日本の教育当局との関係性についても、決して対立的なものではなく、むしろ密接な関係性を持っているものであり、私個人としては、本報告書はむしろ民間教育運動の側からは「敵」に位置するものとして批判されてもよい内容であるようにも思えなくない。しかし、そのような解釈で本報告を読んでいる論文等に私がまだあたっていないため、恐らくそのような読まれ方はあまりされていなかったのだと思う。

 最後にもう一点、天城勲が教育委員会制度の公選制廃止と地方における教員組合の支配を受けたことと密接に関係することを明言している点についてである(P180)。私自身もこのような主張を見たのは初めてだったが、このあたりの議論、特に戦後からの民主主義教育の弊害としての国の政策形成についてではなく、そのような弊害がない状況における、日本の「民主主義」教育がいかになされたのか(もしくはなされえたのか)という問題については非常に興味がある。例えば大久保正廣のレビューでみたように、戦後の教育論自体が非常に一面的に解釈されてきた部分が認められる意味では、民主主義の遂行に「不都合」とされた内容について排除がされながら日本の教育が語られてきた可能性は大いにありえる。この発言の正当性も含めて、今後の検討課題にしたい。

 いずれにせよ、本報告書の意義のひとつは、当時の教育問題について、OECD側と日本の当局が議論を行い、その議論された内容自体が掲載されているという点で、当時の状況の理解と、日本の教育の改善点をどう考えるかについてのヒントが非常に豊富であったという点にあると思う。


(読書ノート)
p11「つぎに解決を必要とする問題として調査団が直面したのは、教育制度内部での権威と協力の問題であった。たとえば学生と教師、若手教師と古参教師、さらには大学と文部省のような関係で、権威をめぐる問題が生じた場合、両者の関係は必ず合意と協力のとしてではなく権力と威圧の関係としてとらえられている。この問題もまた、日本だけのものではない。」
※もう一つ挙げられているのは、能力開発よりも選抜が重視されているという点である。しかし、これも「日本だけの問題」とは見られていない。
P16-17「この目標を達成するため、初等・中等学校をどのように改革するかは、むずかしい問題である。たとえば、現在の教育における誤った画一性を打破することもその一つだろう。そこでは生徒の質の多様化に応じて「コース分け」され、多様化した教育を受けることになる。だがこの教育の多様化も、成長していく個人の必要につねに対応していく能力を学校側がもてなければ、社会的選抜のための「能力別編成システム」として利用されることになる。」
※これは学校の問題なのか??

P36「中央教育審議会の提案は、この学年制にもとづいて、子どもの基本的能力の発達をはかることを強調しているが、同時に、児童の進度に応じて適切な指導をあたえる「無学年制」の導入を検討すべきことを提案している。この二つの方式を組合わせる方向で政策がすすめられるなら、その成果は大いに期待されよう。」
アメリカでは試験的に1950年代から、特に小学校低学年で実施されているという(p49)。
P41「大学の音楽学部では、演奏技術は身につけているが音楽理論はそれほど知らない音楽高校の卒業生を受入れている。それと同じように、大半の大学の農学部商学部、工学部は職業高校卒業者に受験の道を開き、また彼らの必要に応じた大学教育のコースを開設することができるはずだ。高校時代に学習していない科目を入学後履修することを条件に、彼らの大学進学を認めることもできるのである。
こうした方法によって、職業高校が進学の袋小路であることをやめたとしたら、そのおよぼす影響は現実的にも、象徴的にも、きわめて大きなものがあろう。」
※ここでの論点はむしろ、高校での専門性の多様化と、大学入試の専門性の要求とのリンクといえる。これもある意味で試験制度の合理性、ペーパーテストなどの限られた方法で選抜を行っていることの弊害と見るべきなのかどうか。海外の事例に着目する必要もあるように思うが、欧米は欧米で専門技術化した大学の学部を持っていないという問題もある…

p44「「道徳教育」「精神教育」「人格形成」などさまざまに呼ばれる事柄に対して、日本の教育関係者はすべて強い関心をもっている。初・中等学校がこの分野の教育を十分やっていないという不満の声は、多くの人たちから聞かされた。しかし、こうした「道徳教育」や「人格形成」の内容がいかにあるべきかという点になると、教育関係者たちは明らかにそれぞれが異る考え方をもっている。ある人々にとって、それはシツケや国家的価値、および過去の英雄に対する尊敬を意味する。またある人々にとっては、それは根性や独立独歩の精神を身につけた人間の育成を意味している。さらに他の人々は、国家的英雄や価値に対する反体制的な批判を身につけさせることだと考え、またある人々は人格形成とは、美的価値のすぐれた享受者となることのよって、みずからをゆたかにしていくための伝統的な一般教育を意味すると考える。」

p91「入試制度が個々の学生におよぼす圧力はきわめて大きい。そのため年齢別でみた自殺率は男女とも、大学入試の年齢層でもっとも高く、また男子の場合には入学試験の結果が発表される三月の自殺率が、年間を通じて最高となっている。もちろんこの年齢層の、しかも春という時期には、たとえば孤独感といった別の自殺の素因も考えられよう。だが大学入試が自殺への誘因の一つであることは、ほぼ間違いあるまい。」

p98-99「(※入試制度の)改善策として、もっとも多くの人に提案されているのは、高校の内申書——学業成績と教師の個人的評価——を唯一の選抜基準として、あるいは選抜のもっとも重要な資料として活用しようというものである。」
p100-101内申書と合わせて、「全国学力テスト」や「進学適性テスト」を合わせて実施することは「選抜方法の多様化をはかることに、一歩をすすめるものになるとわれわれは確信している。」
※これはある意味で試験反対層にとって都合の悪い指摘であるようにも思える。また、この提案の中には調査団の少数意見として、この方式をとっても「事態はそう変わらないだろうという考え方」もあり、代案として「たやすく入学できる開かれた大学制度」とすべきというものもある(p105)。いわゆる「入るに易く出ずるに難い大学にする方法」である(p106)。
P101「この種の民間受験企業が入試制度の改革によって脅威を受けることは、たしかに改革をすすめるうえでたいへん重大な障害となろう。だがこれら民間企業を公共部門に組入れ、中央教育審議会の第二六特別委員会が示唆しているように、高校と大学の協力による全国的なテスト業務のなかでその専門的能力を活用することは、可能ではあるまいか。さらにまた現在の民間企業の一部を、テスト業務を行う新しい公共企業体の設立・発展の過程で吸収していくこともできるかも知れない。」

P160-161「ガス氏は、教育における階層性はどこにもある一般的現象だと指摘した。しかし日本は他国とくらべ、これがとくに重大な問題となる。第一の理由は、日本社会が「単一中心の」硬い結合体だということである。第二は、大学入学の資格に比較的水準しか要求しないことである。これが、階層の底辺にいる大学にきわめて弱い権威しかあたえない理由となっている。同じように単一な中心をもち、画一的な階層性の社会、たとえばイギリスやフランスでは、大学入学の水準が高い。アメリカの場合は、高校を卒業できさえすればそれが大学入学資格になる点で日本と同じだが、地方大学は地理的に便利だという理由で、数多くの最優秀の学生層を集めるという、アメリカの地域主義がある。」
※ガス氏は先ほどの少数派の主張はしていないだろう。アメリカの地域主義の話はもう少し詳しく知りたいところ。

P162「西田氏のことばのように、大学の自主性を保証することで必ずしも多様化が実現されるとは限らない。いまの大学がもっと「成長」しなければならないのはそのとおりだし、いまの段階で大学に独立をあたえることに、ある危険がつきまとうのは事実である。だが危険をおかしても、やってみるだけの値打ちは十分あることだし、しかるべき激励と指導さえあたえられれば、大学は望ましい形で多様化がされるだろうと思われる。」
※調査団の提案は、「講座制の廃止、学科ごとに自治的単位とする組織変更、大学行政の専門職育成などを内容とするもので、そうした改革が大学を自主的な組織につくりかえるのに役立つだろうという考え」を述べている(p153)。また、「政府が予算の使い方で各大学に自主性をあたえる」ことも述べている(p153)。講座制とは、「一人の教教授と彼に個人的に従属するスタッフが、事実上一個の独立した組織単位として編成されている」ものを指す(p115)。いわば調査団は、大学は、上からの自律と、学内の連帯的な組織による自律という、二重の自律を行うべき、という要求をしているものといえる。私もこの提案が良い方向に機能するとは、特にそれが入試制度の均一化の解除としての多様性としては機能する理由が何一つないように思う。仮にそれをやるとしても、保守的な制度であるという批判をかわすための言い訳にしかならないのではないか。ここには、日本の特性としての同質性についても無視できない論点であるようにみえてくる。

P165「ついで西田氏はガルツング教授の冒頭意見にふれ、こう語った。
人間性をゆたかにする教育」と職業訓練とは両立しないと受取れるようなフシがその意見にあったが、もとよりそのようなことはない。すべての学生が大学入学時に、将来の職業についてはっきりした見通しをもつべきだというつもりはないが、しかしこの社会でなんらかの職業上の役割をもたずに「完全な人間」になることはありえない。」
人間性を強調する論者が、どちらの立場に立つかは重要な論点であるように思う。なお、ガルツングはその後この見方に同意している(p166)。

P179西田亀久夫の意見…「生徒が多様な見解に接するようになれば、やがて「自然淘汰」が行われるだろうというドーア教授の信念は、楽観的にすぎる。ある種の統制はつねに必要である。試行錯誤によって教育を行うことはできない。政府は両親に対し、最低限度の質をもつ、偏見のない教育を実施する義務を負っているのである。」
※これは、ドーアの「もし中央集権的なコントロールといった対立原因が取りのぞかれ、さまざまな考え方が自由に交換され、採用されるような状態を作れば、極端な意見はそれ自体の不合理性のために自然淘汰され、衰亡していくのではないか。」という意見(p178)への応答。確かにこの自然淘汰というのは言い過ぎであるが、そのような機会が用意される状況自体の重要性は議論に値するだろう。
P180「この発言(※中央政府が教科書を監督することは、必要不可欠であるとした西田の発言)を補足して、天城氏は次のように指摘した。
地方教育委員会がはじめ制度化されたとき、その委員は一般から選挙された。しかし公選制は結局、廃止された。シロウトの一般人で構成されるはずの委員会が、教員組合に支配されるようになったからである。公選制に代えて任命方式にした現制度は、いまも議論の的になっている。しかしこの方式が非民主的だという主張は、公選制の実態をふり返った場合、大いに疑問がある。」
※これについては、ドーアが「地方教育委員会を公選制にすると日教組が牛耳るようになる、という傾向がそのとおりだったとしても、現在では権力状況が当時と変っている。」反論する(p181)。確かにその通りかもしれない。

P182-183「大学紛争の期間中、一部の大学では、教職員と学生の間の接触がまったく姿を消してしまった。他の国々なら、コミュニケーションがかくも決定的に断ち切られることはない。たとえば教授たちが学生のすわり込みに参加し、討論を重ね、妥協点をみつけたりする。ところが、日本では、このようなことは思いもよらないことらしい。教職員と学生の関係は、普段はたいへんキチンとしているが、両者の距離は大きいから、ひとたび問題がおきるとコミュニケーションは全面的に断ち切れてしまう。」
※他の国とのコミュニケーションの違いはどう実証できるか。
P183「権威の源泉は一つであってはならないというのが、民主主義の本質である。紛争はどの社会にも絶えず起る。しかしその解決を、権威の仲裁に頼ってはならない。」
P183「日本では意見の対立を意識的に取上げず、むしろこれを避けて通ろうとする傾向が強い。この島国の集団は伝統的に、おたがいのコミュニケーションを断つことによって対立を避けようとしてきた。それは洗練された、礼儀にかなった作法ではあるが、避けて通るわけにはいかぬ重大な問題もあるわけだし、そうした場合には集団間の関係はまったく崩壊してしまう。」

P185「ここでセテ教授が意見を述べた――この点(※外部との意見の分極化)で中央教育審議会が困難に直面しているとしたら、それは権力の中央集権化の当然の帰結である。権力の分散が行われぬ限り、異る集団が教育改革について建設的な対話をもつ見通しはまずありえない。その意味で、権力と権威の分散こそ第一の条件であり、コミュニケーションはその次の問題である。」

P187-188「日本社会における伝統的にみられる集団の強い団結力が、この現象をいっそう激化させることになった。西田氏のことばによれば、人々がたがいに「私」、「あなた」で話合うのではなく、集団形式による「われわれ」ということばで対立し合う傾向が生れた。」
P188-189「(※調査団と日本当局の意見の)相違がみられたのは、次の二つのレベルでの権力の用い方についてである。第一に、対話をさかんにするためには、学校の内部にさまざまの見解を共存させ、その比較・対照を可能にし、またそれ自体が紛争のタネになっている国家の規制力を弱めるべきではないか。それとも、国家は子どもたちと極端な意見から守る義務があるのだし、「試行錯誤に立って教育の発展をはかる」ことができない以上、こうしたやり方は危険が大きすぎるのだろうか。
第二に、民主的なコミュニケーションと、集団的な、妥協による意思決定能力は、学校で子どもたちにもっと自由をあたえたとき、もっともよく培われるものなのか。それとも課外活動もふくめて、教師の積極的な指導をまたねば達成できないものなのか。」
※第二のレベルの問題は、後者が文部省の立場である(p179-180)。教師に重要性を見出していること、また、合わせておそらくは「新教育」時代の失敗も踏まえた上での議論を文部省側は押さえているのではなかろうかと思う。

P192「ドーア教授の第一の質問(※大学管理の再編成)について、西田氏は次のように答えた。
大学の内部管理は、その責にある教授が行政の専門家ではないため、うまくいっていない。また教授は自分の専門にとじこもり、他の分野の教授や大学の外の社会との交流が少ない。大学が社会的要請を知るのは、それと関係ある研究に従事する場合だけである。したがって大学の社会からの孤立は、事態を困難にしている最悪の要因の一つである。」

p259「こうして(※中国は)第二次の革命、おそらくは人類史上最初の反能力主義的な革命である文化革命が起った。そこでは専門的職業を格下げして人民大衆と固く結びつけ、また職業をまったく新しく定義しなおすなど、活字を通してわれわれが知っているさまざまなことがらが進行した。」

p265「原始社会から伝統社会、近代社会をへて、現代社会へと発展するにつれて、生涯学習は急速に現実化してきた。いまでは教育を社会生活の他の部分から切りはなして、別扱いすることはできなくなった。教育は生活そのものなのである。この傾向はますます強まりつつある。このことを具体的にいうなら、実際に自由社会で行われているような民主主義を信じ、また望ましいとするならば、教育は単に民主主義のための準備をするにとどまらず、みずから民主主義であらねばならないことを意味している。教育は機会均等を主要な原理とするとともに、意思決定への参加をもう一つの原理とする必要がある。民主主義の理想がそれほど高く掲げられず、教育が人生のせまい限られた部分を占めるにすぎなかった時代には、能率的な教育が正当化しえたかもしれない。しかしいまはそれだけでは十分ではない。」

p270「以上、今後の生涯教育の問題を、機会均等という観点から論じてきたが、民主主義のもう一つの側面である意思決定過程の参加も、これに劣らず重要である。学生の年齢が低い場合、彼らに意思決定への同等の参加資格を認めるのは、教師にとってむずかしいことかも知れない。しかし学生と教師の間に年齢や人生経験の点で差がなくなり、さらに知識や技術の面でも対等となってとも学ぶようになれば、ずっとバランスのとれた意思決定の形態が生れよう。」
※ガルツング「社会構造・教育構造・生涯教育」p232-278。ここでの機会均等とは、大学進学における多様化を指し、「すべてのものが高校の卒業証書をもっているわけではないのだから、大学進学の準備コースはもっとさまざまな形で編成していかなければならない。」(p268)と述べられている。