村上靖彦「治癒の現象学」(2011)

 今回と次回はちょうど今読み終わった本を取り上げたいと思います。
 まず、前回の「ポップ心理学」の流れを汲んでいる本を取り上げます。ナドーはポップ心理学についてはとにかく批判的に見ていました。が、もう少しポップ心理学がどのように機能しているのか考察してもよい気がしました。資本主義批判の中にポップ心理学が組み込まれる仕組みはある訳ですが、ではポップ心理学が選ばれる理由は何なのか、を掘り下げてみます。
 
(読書ノート)
p47 「現代においては生物学的な死だけでなく、学校でのいじめなどに見られるように、自分が生きている人間関係から排除されるがしかし防ぎようがないという「排除の可能性」のほうが大きな脅威となることも多い。それゆえ、むしろ最後の逃げ道として自殺が選ばれることになる。「排除の可能性」が予感されるとき、その触発は不安として現出する。この排除の可能性こそが、不安の核にあるものである。」
大澤真幸的に言えば、「見られているかもしれない不安」から「見られていないかもしれない不安」への転化。

P59 「つまり沈黙とは、あらゆる言語的意味と行間の「意味」双方が一時停止した状態、来るべき「意味」の可能性全体の準備のことなのである。……ただし来るべき「意味」が沈黙の中で予測されているわけではない。あくまで「意味」は予測不可能である。」
P67 「「意味」の生成は、意志による「選択の結果」ではなく、「彼自身の肉体よりも柔軟な」空想身体の作動による。目には見えない空想身体は、無際限の柔軟さをもち、新たな形の生成の可能性そのものなのである、そして空想身体が色づけした背景、その省略や歪みにおいて、まさに行間の「意味」が浮かび上がるのである。芸術作品の世界の生成とは、空想身体の作動と組織化に他ならない。」
P69−70 「沈黙とは、空想身体が作動を開始する直前の休止状態である。沈黙は(言語使用を遮断して既存の文節を無効にすることで)空想身体の初期状態を開く入り口、空想身体の組織化へのスイッチなのである。絵筆を書く直前のためらい、言葉が紡がれる瞬間の沈黙、音楽が始まる直前の沈黙、そして夢を可能にする眠りとは、空想身体の初期状態の開示であり、そこから出発してのみ「意味」の生成は可能になる。

P120 「「意味」とは現実による触発を反映する表現である。「意味」は遊びにおける創造的な表現として成立する。「意味」の新しさは現実の異他性に由来する。そして「意味」は現実に対応する行為の可能性と連動するがゆえに、「意味」生成は現実の肯定的な受容である。それゆえ「意味」生成は治癒のプロセスである。」
P33 「過剰がなかったとしたら、イメージの行間に析出する「意味」がなくなる。しかしそこにおいて生存が不可能になるような外傷的現実である場合には、仮に変換できても不安や恐怖やここでの腫瘍のような受け入れがたいイメージである。悪夢のイメージの行間は、「耐え難さ」という「無意味」になる。症状形成に結びつくだけで治癒には至らない。」
※意味を見出そうということと、無意味さを恐れないというのは全く異なるものである。しかし、治癒のためには意味を見出すことが必要だというが、意味自体は全て治癒の効果があるものなのか?秩序の構築?無意味さに向き合う、という行為がなぜ治癒とならないのか??
P7 「本書が目指すのは、精神的な問題において治癒というものが可能になる基盤についての哲学的探求である。」
※やはり無意味は治癒に繋がらないとみなすか?

P131 「主体が事前に持っていた可能性を超える「意味」の生成という創造性は、このXの地平の上で現実への応答として成り立つ。創造性の思いがけなさは、現実から栄養を汲んでいる。現実は、それがたとえ疎外的で病的なものであっても、引き受けに成功する瞬間には、意図を超える「意味:を生むのである。」
※ここに介在しているノスタルジーの説明は極めて簡単である。それはやはり我々の記憶の万能性を信じてやまない点であり、忘却を想定しない点であり、忘却を想定しないからこそ、それは拡張的に、成長的にとらえることが可能となる。

P178 「創造性とは、現実による触発のもとで行われる「意味」の生成である。「意味」とは空想身体のそのつど新たな組織化の運動である。大まかにいうと本書で行なってきた作業は、空想身体が作動する仕組みとその土台について、空想身体のただなかに視点を取って記述することであった。」
P9 「何を以て治癒と考えているのかは、本書全体を通して明らかになっていくが、本書ではとくに創造性の回復のことを考えている。創造性は困難な現実への適応を可能にするだけでなく、それ自体として健康であるという感覚を生むからである。」
※現実への適用のために、そして自身の健康のために意味は生成せねばならない。
P15 「この空想身体が創造的に働くためには、対人関係が不可欠である。対人関係が安定し、さらに実際に外の人と関わり合うなかで、創造性すなわち空想身体の変化は起きる。」
※対人関係はさしあたって自身にはなかったものを与える者として現われる。しかしこれがモノではなく、人であるのはなぜか?無意味なものは無意味なまま浮遊していては意味を与えることができない。だからこそ、意味を与えるよう仕向ける存在が必要だ。

P61−62 「行為の型は「意味」生成のプラットフォームである。どんな芸術家も何らかの文体や型に則って「意味」を生み出し、それが作品として定着するが、しかし彼は型を自覚的に使用しているわけではない。……行為の型それ自体が、創造者の意志とは無関係に自然発生し、変容し伝承されるのである。
 ただし、急いで付け加える必要があるのは、この行為の型は、型からの余剰を可能にするものでもある。型にはまることだけでは創造性はありえない。型のなかで思いがけない跳躍が見られるところに創造性がある。」
※そしてこの型と空想身体を結びつける。

(考察)
 本書の内容自体については、あまり評価していません。現象学的・精神分析的な用語を使ってはいますが、教育論的なものには似たものがよくあり、「わたしの教育はこうだ」という例に合わせてそれを拡大解釈し、一般論的に物事を論述する、という内容と大差がないように思います。
 ただし、内容はあまりにポップ心理学的なものであり、逆にそこから何が語れるかを実証的にみることは可能でしょう。
 
 本書での「治癒」の問題は精神的な問題に対するものであり、そしてそのために「創造性」の回復であるが、これをドゥルーズ的な創造性と同じように語ることはできない。なぜなら、そこには積極的に「意味」を見出そうとする姿勢があるからだ。ここにノスタルジーの問題が介在しうる。

 「「意味の痕跡の不連続な連鎖は、反省的な言語地平において再構成されて物語となりうる。こうして成立した物語が現実を指示したり説明したりすることは通常ないが、しかし物語は現実に応答し受容している。現実は、それを物語ることのできないものであるがゆえに物語を要請するという逆説が成り立つ。語り得ない現実と現実を受容する物語のあいだにはこのようなねじれた弁証法がある。」(p154)
 「仮の定義をすると、物語とは、現実の触発が不連続的に「意味」」を生成したときの、この不連続な「意味」に対しての(事後的に見いだされた)連続性である。」(p154)

 ナラティブ・アプローチという手法はノスタルジー的なものの代表格として説明可能だろう。私が歩んできた記憶を(操作者である精神科医・カウンセラーや、ピア・グループ内での語り合いの中で)再構成していき、一つのストーリーを作り上げるのである。ここで重要なのは、物語というのは私の物語であり、それは私自身がそれを語るものであるという点だ。これは最終的に私の中から生まれたものだとして解釈されることになる。
 しかし、そうすると、ノスタルジーのどこに問題があるととらえればよいのだろうか?これがポップ心理学者によるものである場合には、資本主義との関連を説明できるが、ピア・グループの実践からもナラティブ・アプローチは有効であるとされるため、あまり有効な説明とならない気がする(注1)。

 では、問題は「受容的な態度」に向けるべきだろうか。大前提の問題に戻るが、そもそも「治癒」というのは、「創造性」の発見や「意味」の導出によってのみ見いだされるものなのだろうか?物語ではない現実をそのまま受け入れ、物語化されないまま、「無意味さ」を放置したまま「治癒」するという可能性はないのだろうか?経験的な話で言えば、ありえるように思えないだろうか?
 ある意味、無意味さのままであることは絶望なのかもしれないが、それと直接向き合い、無意味さそのものと付き合う、という実存主義的にも思えるこの方法は、やってくる現実に意味を付与し続けることとは異なるように思う。そして記憶の改変という可能性が考えられない以上、ノスタルジックなものでもないといえよう。
 これはある意味でドゥルーズガタリ的なアプローチであるかもしれないが、不徹底なものである。なぜなら、ドゥルーズガタリ的なロードランナーの考え方は、運動そのものであり、静止するという可能性は存在しない。しかし、この無意味さとの向き合い、というのはどちらの道もとりうるものである。ここに、ナドーがメランコリーとノスタルジーという2つの区分で行なったものとは別の、3つ目の解釈が現れないだろうか?これは、奇妙なことにナドーの言う「バックス・バニーとロードランナーの結婚」という表現そのものにも思えなくもないが、この3つ目の解釈の可能性については検討の余地がないだろうか(注2)。


 「受容的な態度」の問題をとるというのは、我々が消費者的な態度に徹底するという表現にも似ている。つまり、このような「意味の導出」「創造性」といったものは、実は資本主義に従属的な態度を「促進」するのではないか、という疑念が出てくるかもしれない。ただ、この「促進」という表現は、規律化されて、すでに我々が内面化した従属的態度に過ぎない。しかし、ドゥルーズガタリが危惧する資本主義の問題というのは、むしろそれが回避困難なものであるから問題意識を持っているように思う(注3)。しかし、本当に回避不能なのかは、やはり「資本主義」のどこが問題なのかをもっと深く掘り下げる必要もあるだろう。ドゥルーズガタリからそれが語られているかも、今後考察したい。

 
 しかし、意味導出による「治癒」というのが、無意味さとの向き合いによる「治癒」に勝るのが「当たり前」になってしまっているのはなぜなのか、この点については今後も考えねばならないだろう。

 あまりまとまりませんでしたが、この辺で。また似た文献を検討できた際にでも議論が深まればと思います。

理解度:★★★☆
私の好み:★★
おすすめ度:★★☆

(注1)しかし、フーコー的な問題意識の上でこのピア・グループによる解決を検討すると、資本主義的なものとの関連を認めるようなことにもなるかもしれない、と思わなくもない。詳しい説明はできないが…
(注2)今後行う「シルバー事件」の考察も、この3つ目の解釈がポイントになってくるように思っている。
(注3)これは俗にいう「規律社会」から「管理社会」への移行に伴う問題の一つであると思う。