黒崎勲「教育の政治経済学」(2000)

 今回から新しいテーマで継続的にレビューを行いたい。私自身が丁度学生時代に研究対象としていた分野にも関連するが、90年代から00年代の教育改革をめぐる議論を読み解いていく。

 その中で特に注目していきたいのは、教員組織の自律性、『改善』の意志を持った「専門性」をめぐる議論と、80年代以降、『改善』の要求を強調するようになった「日本人論」というのがどのようにこの改革をめぐる議論に位置づけられていたのか、という点である。両者の共通点である『改善』の視点と密接に関わる形で、教育改革をめぐる議論においても、まさに何を『改善』するのかという点が争われたものといえると思う。これまで「専門性」と「日本人論」の文脈について考察してきたことも踏まえ検討してみたいと感じたので、しばらく取り上げてみることにした。

 

 この『改善』の議論を読み解く上でまず押さえておきたいのは、

  1. 実態(教育の現状)をどう捉えているのか
  2. その実態の何が問題か
  3. その問題を改善するためにどのような方法により解決するのか

 という、3つの問いのセットである。これを『改善言説の枠組み』と呼びたい(以下、『枠組み』と呼ぶ)。この枠組みが十分に焦点化されているかというのがまずもって重要であり、この三つのどれかが欠けると、その改善言説は有効性を欠いたり、虚構を語っているのと同じになりかねない。基本的に教育改革をめぐる議論の検討においては、この視点からどう語られているかを検証していくことにしたい。

 

 

 初回は黒崎勲を取り上げる。黒崎は世識書房の「教育学年報」上で藤田秀典と「学校選択制度」を中心にした論争を行ったことで知られているが、論争から出てくる論点は当時の教育改革をめぐる議論の導入としてはそれなりに適切であると言えるだろう。

 

 

○黒崎と藤田の『改善言説の枠組み』について

 

 まず、本書の黒崎の議論からわかるのは、『枠組み』(1)に関して、行政改革委員会のような、政府系の組織における現状認識をほぼ全面的に追随しているということである。このような議論はすでに中野雅至のレビューでみた「公務員バッシング」言説のような中央省庁批判・つまり「統制的」な政策を行ってきた文部省への批判や、「学校で学ぶことは役に立たない」といった議論に見られる官僚制批判の文脈を大きく依存していたといえる。黒崎が学校選択制度をはじめとした議論で「学校の自律性」を強調するのは、このような官僚制への批判として、p105のような前提に立っているからであり、「国=上からの」教育政策の硬直性が認められると考えるからこそ、「学校単位=下からの」教育政策が重要であると殊更強調したのである。更に「専門的官僚制と職業的教育者による教育行財政制度の独占についての弊害」(p93)、「専門職の独善と学校の閉鎖性」(p137)といった主張などからも、当時の行財政改革の言説で語られていた『枠組み』(1)の問題意識と基本的に区別できない立場に黒崎はあると言ってよいだろう。更に教育の専門性批判の文脈から、国民の教育権論への批判意識も相当強く、p151-152のような見方もこの『改善』に対し正当性がある根拠とみているのである。

 

 この「専門性」をめぐる国民の教育権論への批判などは私自身も「恵那の教育」の議論で実証的に示そうとしている通り問題含みなのは確かである。更に、黒崎は堀尾輝久のような国民の教育権論者を批判するのと同様に、p147にあるように藤田の議論においても具体的な『改善』に関する議論に乏しいことを批判している。しかし、ここでは藤田の言い分も聞かねばならない。これまで「日本人論」の議論の曖昧さの中でも議論してきたように(※1)、教育改革の原動力であるネオリベ勢力における日本人論をベースにした改善言説というのも正しいのかどうかという議論は当然ありえるように思える。この事実を極端に歪めて議論していたのが千石保であったが、千石は「教育病理」問題について特に飛躍した解釈を行った結果、事実を歪め日本の教育について改善を行うべきであるかのような主張を行った(千石保のレビュー参照)。これはネオリベ言説が支持した「日本人論」においても同じ前提を共有しており、多かれ少なかれ、議論の飛躍を行っている場合も多いことを示唆する。そして、黒崎もこの前提を追随しているため、藤田はこの観点をまさに批判している傾向が認められるのである(※2)。

 藤田の議論は前提として「日本の教育は(少なくともネオリベ勢力が言う程には)悪くない」し、むしろ事実誤認に基づいた改善を行おうとしている点で害悪であるというのが学校選択制批判においても主要な見方である。だからこそ、藤田はしばしば海外の教育改革の動向と日本の動向を比較し、日本の動向はその動きと反対であるかのような状況を批判する(cf.藤田「市民社会と教育」2000,p5~7)。なぜなら、日本はむしろ世界から注目された教育を行ってきたからであり、その模範となってきた方策を海外が倣っているものとみているからである。

 

 さて、藤田は学校選択制についてどうみているか。藤田の著書「教育改革」(1997)では冒頭で学校選択制をめぐって「うわさ」が必要以上の影響を与え、それが学校の「共同性」を不必要に破壊することを強く非難している(cf.藤田1997,pi~vi)。学校の教育においては信頼関係、共同性により「よい教育」がなされるものだという前提があり、「学校選択制」はその基盤を突き崩す要素しかもたず、保護者を学校教育への参加者ではなく、消費者にしてしまう。また、教員や学校に対する評価も根本的に黒崎とは相違しており、基本的に否定的ではない(少なくとも、ネオリベ言説が言うような問題はないということを確信している)。黒崎は藤田の議論に対し「改善策がない」ことを非難しているものの(p147)、これはある意味で『枠組み』の(2)が問題に値しないという認識であることから藤田が(3)の視点に(少なくとも相対的に)乏しくなっているのは当然なのである。藤田と黒崎の議論の相違において最も顕著なのは、この『枠組み』の(特に(1)の)ズレにあるといってよい。

 正直な所、この『枠組み』の(1)の論点に限れば、黒崎の方が説明に乏しいと言うべきではないかと思う。確かに両者の議論は「社会問題」に振り回されすぎていると言わねばならないほど、実態把握の議論に乏しい。特に黒崎はこの議論を「一般大衆」が『改善』を望んでいることを根拠に『改善』を要求する。このこと自体も検討しなければならないがそれほど誤りであるとは言い難い(※3)。しかし、これは『枠組み』との関連で言えば、著しく妥当性を欠いている。恐らく藤田もこのような黒崎のスタンス自体承服しかねるという理由でも、黒崎の批判に執拗にならざるをえないと言えるだろう。

 しかし、他方で黒崎が藤田批判の焦点としている『改善』への視点の欠落という点も無視することはできない。藤田の『改善』に対する視点というのは今後のレビューの課題とするが、藤田自身も過去の日本の教育全てが正しいと考えている訳ではない。しかし、何を問題をし、何を改善すればよいと考えているのかよくわからないという黒崎の言い分はそれなりに正しいように思える。藤田は恐らくは「国民の教育権論」の一派であるとは言い難く、それなりに擁護の余地もあるように思えるが、やはり『改善』に対する視点について「国民の教育権論」と同様のレベルではないといえる程の議論を行っているとは言い難いのではなかろうか。

 

○守られるべき「共同性」とは一体何なのか?

 

 学校選択制をめぐる議論の焦点の一つとして教育における「共同性」が挙げられる訳だが、これをどう考えればよいのかは黒崎がこの「共同性」について空想的に過ぎると言っている(cf.黒崎「教育行政学」1999,p49)点からも検討せねばならない点である。

 この点について、藤田の論点は2つあるように思える。一つは、素朴な「地域性」についてである。

 

「この<面>としての生活圏が重要なのは、それこそがリアルな日常生活の基盤だからである。親子であれ、仲間であれ、顔見知りの人であれ、あるいは見知らぬ人であれ、多様な他者と出会い、さまざまの関係を築き上げ、その関係のなかで喜んだり悲しんだり、思い悩んだり葛藤したり、反目・対立したり、協力し合ったりしながら生きていく、その基盤である。好きか嫌いか、好みに合うかどうかに関わりなく、対面的で包括的・多面的な関係に組み込んでいく、その基盤である。」(藤田2000、p15)

 

 そして、このことを根拠に藤田はもう一つの論点である「共生のための受容」を強調する。

「確かに現行の通学区域制の下では、学校・教師を選ぶ自由は正当な理由がないかぎり認められないことになっている。それは紛れもない事実である。しかし、この<選ぶ自由がない>という事実と、<生まれた家庭、生まれた階層、生まれた国は選べない>という事実の、どちらを優先するのかということは、私たちの社会がいま突き付けられている実に重い問題である。前者の事実を重視して、そのなかで前者の事実に起因する問題や不満の解決を図るのか、これは私たちの良識と英知が問われ試されている重大な問題である。」(藤田2000、p11)

 「この「共生」という価値は“選ぶ”という行為によってではなくて、“受け入れる”という行為、“関わる”という行為によって実現されるものである」(藤田1997、pviii)であるために、ここでは「選択をさせない」ことを強いることの価値を支持するのである。

 

 しかし、まず「地域性」の議論に限っていえば、なぜすでに「選択制」が実現している私立学校に対して「学校選択」を非難しないのかが理解できない。藤田の理屈であれば、私立学校もまた排除されるべきものであり、いくらそれを尊重するとしても、一定の地域の限定を定める主張はされてよいのではないのだろうか。少なくとも、私立中学校の選択をさせる場合においても、次のような主張は全く同じ論理になるはずである。

 

「どの中学に行くかを選ぶことができるということは、裏返していえば、どの中学に行くかを選ばなければならないということである。選択の自由があるということは、一般論としては好ましいことに思われるかもしれないが、小学生がどの中学が自分にとって好ましいかを判断することは、けっして容易なことではない。学校の選択は、お菓子やおもちゃを買う場合とは、わけが違う。……

 この選択が重要なものであればあるほど、そこに内包される問題も重要なものになる。まず、そのような重要な選択を小学生が自分の判断でできるとは考えにくい。むろん、できる子どももいるであろうが、たいていの子どもは親の好みや判断に左右されることになろう。そうなると、教育機関の階層差が中学段階から具体化することになる。現に私立や国立の小中学校で見られるような親の経済力の差や文化的好みの差が、公立中学校でも起こることになる。」(藤田1997、p85)

 

 しかし藤田が行った膨大な学校選択制度批判の議論においては、管見の限りこの論点について全く触れようとしない。正直な所何か私立学校と癒着関係があるのではないかと疑ってしまう位、棚に上げてしまっている。黒崎も指摘するように、「公立学校不信」と呼ばれる現象の一つは、小尾乕雄のレビューでもみたように学力上位層の私立学校への逃避というもので語られたり、また私立に通う保護者の不満が語られることで可視化されてきたはずである。にも関わらず、なぜ藤田は公立学校の選択に限りコテンパンに批判し、私立学校の選択は無視してしまうのだろう?

 この理由については、学生時代の私にはどうしても不可解であったが、「新自由主義的教育批判」という文脈でこれは考えるべきことなのだろうと思う。藤田の具体的な教育政策批判の一つに「週休二日制」の導入が挙げられる。この導入は藤田が「文明論的議論」と呼ぶ日本人論的文脈の影響を受けたものとして捉えていた(藤田1997,p138)。さて、ここで「文明論的」とは何を指すのか。藤田は「文明論的」と「文化論的」という用法を分け、次のように説明する。

 

「学校週五日制の導入をはじめ昨今の改革動向とその支持論は、文明論的ストーリーに与している。しかも、以上に述べたように文明論的ストーリーには種々の疑問があるにもかかわらず、いまやそれが自明視され規範化され始めている。なぜなら、文明論的解釈は変化の方向を理念化し、改革の意図と結果を等置してしまうからである。また、文明論的ストーリーのまえでは、文化論的ストーリーは保守的なものと見なされがちだからである。しかし重要なことは、文化論的ストーリーと文明論的ストーリーとの交点で諸改案の功罪を検討し、適切な改革を進めることである。そして、その際、学校教育の改革、とくに学校週五日制や公立中高一貫制といった制度改革は、一方で教育の効率性・生産性や公平性・平等性に関わる問題であり、もう一方で、青少年の生活と成長をどのように枠づけ、編成するかに関わる問題だということを忘れてはならない。それは、青少年の生活と成長に対して社会がどのように責任をひき受けるかという問題なのである。」(藤田1997,p152-153)

 

 一言でまとめれば、文明論的ストーリーおいては、「文明としてのイエ社会」で言う「単系的発展論」、つまりあるべき「近代」の型は一つであり、それ(欧米)に追随することこそ正しいと捉える文化論の視点を想定している。一方で「文化論的」という表現は文化相対主義的な見方でその優劣にこだわらない態度を指しているといえる。結局、週休二日制の議論を始め、学校選択制など、藤田が批判を行う教育改革における政策というのは明らかに「教育」の外部から語られている議論であり、それは教育の内部から問題意識が与えられることのないまま『改善』を要求されているものと位置付けているのである。確かに週休二日制に限れば、外的な影響がかなり強かったと言え、正しいということもできる。

 しかし、学校選択制については少々事情が異なる。学校選択制の遠因となっているといえる「私立中学校の選択」と相対的な公立学校の学校不信の動きというのは、学校選択制のかなり以前からあったものだし、下手をすると小尾通達の出た60年代末まで遡ることのできる議論である可能性を否定できない。つまり、この議論というのは「新自由主義的政策」とは別の文脈から問題が出てきている可能性があるし、この不信感というのは極めて全うな「教育内部」からの訴えであるということもできるのではないのだろうか(※4)。

 

 更に、藤田の主張をみていると、学校選択制を導入しないことで守るべき「地域性」というのは、「共生」の文脈でいえばむしろ無視してさえよいと言えるようにも見える。藤田は結局学校内にいる者の多様性を何よりも強調しているため、「地域性」という文脈は必ずしも必要ないのである。むしろ素朴に教育の支持基盤の一つとして、「地域」を強調しているにすぎないのであり、学校選択はその支持者(信頼)を失うことにしかならないという観点から批判していると言えるように思う。

 藤田のいう「受容」という視点は、一見「共生」という観点からいえば一理あるように聞こえるかもしれない。しかしそれは必ずしも「共生」に関する「受容」に留まるとは限らないし、藤田の議論の趣旨からはどうも多くの意味が含まれているように聞こえてならない。つまり、「多少の不満」のようなものもそれが学校運営に参加する活力になる『可能性』になるから強要しろ、とでも言いたいような雰囲気を感じることもある。しかし、翻ってこのような可能性を実現するためには、現状の学校教育がこのような『可能性』に開かれているのか、教育専門家による官僚制下においては、そのような『可能性』に閉じており、生産的な議論になりえないのではないのか、という素朴な疑問も提出しなければならないだろう。例えば、都内の私立進学率の高さは学力問題に限らず、より広い意味で「地域の公立小学校に安心して託すことのできる状況にない」ことが理由にあると捉えていること(黒崎「教育行政学」1999、p115)はそこまでずれた発想とは言い難い。この「安心して託すことのできない」状況は90年代後半当時で少なく見積っても20年近く続いていたはずである。にも関わらずそれが改善できないのは何故か、教育の専門家はそのことに対し本気で考えてきたのかと言われると、国民の教育権論がそうであったように、具体的な政策の議論を、特にその制度的な改変に関する議論を怠ってきたからではないのか、と言われても仕方がないように思える。特に標準化にこだわり続ける態度からはこのような問題解決を積極的に行う姿勢が乏しくなるのではないのかということが、黒崎の問題意識の主たるものなのであり、これについても、「ネオリベ言説を追随しすぎている」といくら言ってみても、一定の正当性が認められるように私には思えてしまうのである。

 

○「学校選択制度」はそれ単独で語ることができるのか?―「自治体行政」の着目について

 

 学校選択制度の弊害というのは黒崎も承知の上で、二つの議論があることを強調する(p96-97)。黒崎の議論は「改善」ありきであり、「創造的、革新的実験のチャンスの保障」を行うのであれば、学校選択制度はなくてはならないとみることで、その弊害の議論とは分けて考えるべきだとする。標準化に向かわない(官僚化を否定する)教育実践はその自律性に加えp112で指摘されるようなリスクや、平たく言えば「好みの問題」といった議論も生まざるを得ない。そのような教育における「好みの問題」のレベルの議論はむしろ学校選択制度でないと行えないのではないのか、と黒崎は考えている。逆にそのような枠組みがなければ、公立学校では標準的な取り組みしか行うことができず、「独創性」ははじめから否定されなければならないからである。

 このような視点からも、黒崎は暗に学校選択制度はそれ単体として機能するものではなく、その理念や複数の制度的枠組みを前提にし、その枠組みの一つとして学校選択制度は「担保されなければならないもの」として位置付けている節もあるといえる。

 しかし、藤田の場合、管見の限り、「新自由主義的政策」の一環として学校選択制度を位置づけるものの、黒崎の視点とは明らかに異なり、これを一つの独立した制度であると前提し、これを批判する態度が一貫していた。そこには複合的な制度としての一つである学校選択制度という視点には極めて乏しい状況にあった。

 これに関連して藤田の議論の問題は、この「学校選択制度」は無条件に批判されるべき性質のものであるため、その現場での運用がいかに行われていたのかという視点も欠き、この制度が「改善」に寄与した形で個々の自治体で運用されているのかという視点も全否定したことであった。正直な所、このような態度の取り方こそ「改善」のための可能性を閉ざす類の「官僚化」の産物であるようにさえ私には思える。「学校選択制度」のデメリットをどのように活用し、「改善」を促すのかといった生産的な問いをあらかじめ否定しまうため、実際にこれを運用していた自治体に対する評価さえまともにしなかったということである。藤田も学校選択制度を支持するかしないかというのは支持すべき価値観の程度問題であると言う(cf.藤田1997,p3)。しかしこの価値観というのは、行政の複合的な政策の如何で教育全体としてはある程度その重きなどをコントロールできる可能性もある。例えば、学校選択制度批判の主たるものの一つである「序列化(入学者数の減)」などについては、そのような支持されない学校は『改善』の必要性があるという理由で、「力のある校長」を入れたり、相応の教育的なリソースを導入するといった人事的・財政的政策を行うことは公立学校の平等性確保という意味では正当性が確保される見方であり、そのような対応を通じて公立学校全体の底上げをすることは可能なのではないのか。しかし藤田にはこのような目線はなく、学校選択制度の是非について先回りして批判をしてしまう。これも結局藤田が批判する「外からの(ないし上からの)」教育改革のアクターの動きからしか政策を評価せず、実際の制度改革の主体となりうる「内からの(ないし下からの)」アクターとしての自治体への視点の欠落があるのではなかろうか?この「内からの」という視点は、学校現場との関係性で言えば自治体の位置付けは微妙なものとなるという点からも、役割について軽視しているように見えてしまうのである。

 

 逆に言えば、このような自治体に対する「評価」なしに何故これまでの教育に対してまでどうこう言うことができるのか、という疑問さえ出てくる。教育実践の「地域性」の重視、現場の重視などを行いたいのであれば、『改善の分析枠組み』は自ずとケース事例に注目されねばならなくなるはずなのだが、それさえも行わないこと、そしてそのような議論が正当化されている教育の言説そのものに疑義を提出することさえできてしまうのではないだろうか?これが如何にして可能となるのか、藤田がどう考えていたのか(もしくは考えていなかったのか)については、今後、藤田の議論を読み解きながら検討していきたい。

 

 

 

※1 もっともこの曖昧さの議論は、80年代以降の「改善言説」を主とした日本人論の検証としてではなく、それ以前の日本人論固有の問題として捉えてきたところであるため、ある意味80年代以降の言説の正当性についてはまだ私自身も検証を行っている訳ではない。ただし、そのような語弊の多さというのは、80年代以降の議論においてもそれなりに有効であるように思えるし、そうであれば『枠組み』の(1)や(2)についてどのように語られ、それが正しいと言えるのか、という検証は行われてしかるべきだろう。

 

※2 例えば、中高一貫校の導入の是非について藤田が批判をする際、「西欧諸国では中等教育が六年制で行われているからといって、日本でもそうしようというのは「隣の芝生はよく見える」というたぐいの印象論のレベルで教育改革を進めようとするものであり、無責任もはなはだしいといわざるをえない。」といった言い方がされる(藤田「教育改革」1997、p86-87)。ここでは、端的に『改善』の必要性について「安直すぎる発想」というニュアンスが強く含まれている。これは、「改革の気分」という言い方をする次のような指摘からも言える。

 

「この「改革の気分」はゆがんでいないだろうか。こうした「問題」のとらえ方に問題はないのだろうか。そこで提案され、進められている改革や対策は本当に「問題状況」を改善することになるのだろうか。

 これまで見てきたように、改革推進論を支配している問題のとらえ方はきわめて一面的であり、進められようとしている改革や対策には矛盾が多く、種々の重大な問題が見過ごされており、さらには、この「改革の気分」は全体主義的な傾向をもち始めている。右に列挙した問題が重要で、なんらかの対応が必要だということはいうまでもないが、改革至上主義的な時代の気分とそのなかで提案され進められている主要な改革は、日本の教育社会と学校のあり方を根本的に変えていく可能性、しかも見方によっては、極めて好ましくない方向に変えていく可能性をやどしている。」(藤田1997、p173-174)

 

※3 例えば児美川考一郎「新自由主義と教育改革」(2000)で指摘されているように、各種メディアで世論調査が行われる中で、「学校不信」(読売新聞社「学校教育に関する意識調査」1998年4月実施)や「学校選択制の支持」(毎日新聞社、1998年12月20日世論調査)というのは、国民の意志として表明されている(児美川2000,p78-81)。

 

(2020年9月1日追記)

※4 例えば、藤田武志は1950年代の東京における私立、国立中学への入学、及び学区域を越えた「越境入学」が相当数あったことからすでに中学校が「選ばれる」ことのまなざしが一定の圧力として機能していたことを示唆している(藤田武志「受験体制の生成に関する社会学的考察」藤田英典ら編『教育学年報7 ジェンダーと教育』1999、p497-524)。これもまた、「ネオリベ勢力」とは関係のない形での学校選択を支持した系譜の一つとして位置付けることも可能だろう。

 

<読書ノート>

P10「日本において現在進行中の教育改革は、一九六〇年代以降四半世紀にわたって確立、定着してきた教育改革政策の構造を著しく変容させるものとなっている。このような構造的な変容を遂げつつある時代の教育理論の役割は、そのような教育改革の動向を観察し、評価することに留まらず、これにかかわるさまざまな関係者のそれぞれの目的意識的な実践の可能性を拡大するために、主体的、能動的にこれに関与するところにあろう。いいかえれば、教育を単に現象として対象化するというよりも、目的意識的な営みとして教育に接近するところに教育学理論本来の特性があるというのは、本書の方法的態度である。」

P13「こうして一九七一年中教審答申に集大成された教育改革政策の構図は、教育を経済的要請に即応させるものであり、国家的な長期教育計画として、国家の機関が、すなわち文部行政が教育改革を実施するという特徴を備えるものとなった。現在進行中の分権化と選択を基調とする新しい教育改革政策は、こうした従来の教育改革の構図を否定するものである。この教育改革政策の構図を根本的に変容させたのは臨時教育審議会の改革提言であり、第一四期中教審における審議経過報告であった。」

※「臨時教育審議会における教育の自由化の提言は、教育は市場における公正な競争原理を通してのみ、高度な知識と技術が集約され多様化された社会を特徴づけられる二一世紀の情報化社会に適応した活性化された姿に保たれうると主張し、教育改革を国家的長期計画として実行することを否定するものであった。」(p13)。また、46答申では「また、この教育の改革と拡充整備は国家的に巨大な資源を必要とするが、わが国の今後における社会の経済発展の見通しを考慮すれば、けっして実現困難なものではなく、それを実行できるかどうかは、もっぱら政府の決意と努力のいかんにかかっている」と述べられた(p13)。

 

P16「たしかに、わが国の新しい教育政策においても、競争の価値が強調され、学校教育の活動をビジネス界の用語によって説明し、正当化するという傾向は強固で、明瞭なものである。しかし、教育を商品化し、市場経済の論理によって教育制度の運営を語るという新しい教育政策の動向は、わが国の教育をこと改めて経済的目的に従属させるものではない。逆に、学校教育を社会的要請に応ずるとの観点から多様化し、経済的人材需要に適応させてきた従来の教育政策からの転換の基調として、分権化と選択の理念が語られているということも、確かなことなのである。すでに述べたように第一四期中教審答申が、経済的に非効率になっても教育的な意味で効率的であることを述べて、それまでの教育政策を反省してみせたことの意義は小さいものではない。」

※この議論は常に「意図せざる効果」をめぐる議論でもあり(※体制批判言説はある意味「意図した効果」を全否定し語られないことへの強調の繰り返しである)、政策提言だけでなく、エビデンスもないとその「期待される(予想される)効果」の議論はできないはず。ある意味でそれが示せていないことが黒崎の弱い点。

P20ジェフ・ウィッティ(1998)の引用…「特定の類型のコモンエデュケーションを選好する社会民主主義的アプローチはすでに正統性を失っており、増大する専門性と社会的多様性に応える方途を発見する必要がある。しかしながら、左派は、我々がこれまで研究者として、社会的不平等を再生産し、正当化してきたと批判の対象とした教育とは根本的に異なるような公教育の概念を発展させる努力をほとんどしていない。」

※これに対し「わが国の教育改革論議においても同質の問題点を見いだすことができるといえよう。」と述べる(p20)。

 

P37ハイエクの引用…「(個人主義に対する通常の誤解のうちでも一番馬鹿げた)誤解は、個人主義は社会の中に存在することによってその全体の本質と性格が定められている人間から出発するものではなく、孤立した個人、または自足的な個人の存在を前提にしている(もしくは、このような想定に議論の基礎を置いている)という確信のことである。」

※「ハイエク全集3 個人主義と経済秩序」p8-9。

 

P92「教育の民営化については、資本による利潤追求の試みであると理解するステレオタイプがある。……藤田は、市場経済における商品の流通・交換に働く原理を選択の理念と名付け、選択が民主主義社会における基本理念であることを承認するが、しかし、こと学校については、「教育政策が公論の対象として論じられ選択される公共の場を提供し、もう一方で、公共の営みとしての教育実践が展開する公共の場、教育実践に直接・間接にかかわる人びとが出会い、相互交流する場」でなくてはならないというのである。ここにはいわゆる市場原理が資本主義経済の論理を体現するものであり、資本による私的利潤の追求に対しては社会の公共性を擁護するための対抗原理を必要とするという藤田の資本主義社会についての理解が存在している。」

☆P93「堀尾の議論にも藤田の議論にも、共通して市場経済あるいは市場原理を資本主義経済の実質と観念し、現代的人権としての教育を受ける権利の保障は市場原理を否定する制度を不可避的に媒介にしなければならないという「確信」が存在する。教育に対する公共的な関心からの規制を緩和し、あるいは廃止しようとする教育の民営化政策は現代的人権としての教育を受ける権利に逆行するものということになる。しかし、そこには現代社会における教育を受ける権利を保障する公教育制度が内包する専門的官僚制と職業的教育者による教育行財政制度の独占についての弊害を批判し、これに対して改革を試みる能動的なアプローチを見いだすことは出来ない。」

 

P93-94「しかし、(※人権の理念が市場の等価交換関係の一般化に対応する歴史的な観念であるという)マルクスの定式にも別の問題が存在している。人権概念の概念的土台となる市場の等価交換関係が資本主義経済の実質と重なるとする定式からは、人権概念は資本主義社会の支配関係を覆い隠すイデオロギーに過ぎないとの結論が導きだされることになるからである。」

※「堀尾輝久は人権概念を純粋培養型資本主義に照応する社会思想と規定した」(p94)ものの、結局は「人権としての教育と市場原理による教育の民営化はメダルの両面なのであり、これを相互に対立させ、人権としての教育の価値理念によって教育の民営化に対抗することは、観念上の希求としては理解できても、論理的には混乱以外の何ものでもない」(p93)。要するに市場主義批判のために擁護する人権概念はそもそも市場主義(の源泉である資本主義)の産物でしかない、ということである。この見方もある意味では正しいという他ないが、他方で決定的な議論と言い難い。結局は「よい教育」に寄与できるのはどちらかなのかに基本的に還元される問題であり、それは理念としてバラバラな堀尾、藤田的な理解による人権擁護でも一応問題はないからである。

民主主義的な価値観により、「皆で決めなければならない」の支配を受けている可能性も高い。この意味では、「よい教育」云々のレベルでもともと議論を行なっていないこと自体が問題とも読めるか。

 

☆p96-97「こうして学校選択の自由を強調する議論は、二つに分かれることになる。学校選択の推進論の中のこの二つの論拠の違いについて、十分に注意が必要である。「保護者の意向、選択、評価を通じて」学校教育活動の多様性と適切性を確保するという前者の考え方は、教育制度にいわゆる市場原理を導入すれば、自由な競争によって学校は自ずと改革されるという信念に立っている。しかし、これは、あまりに単純な議論であり、起こりうる弊害についての慎重な考察に欠けている。公立高校においては現に「学校が選ばれる」制度になっているが、実際には、学校は序列化され、生徒が学校に選別されているのであり、その弊害は様々に語られているところである。

 ウィッティが指摘するように、単純な市場原理による学校選択制度は「混乱」をもたらすだけのものであり、あるいは「持てるもの」と「持たざるもの」との格差を広げる結果をもたらすとの批判、あるいは、公共精神を衰退させるとの批判もまた広く行き渡ったものである。市場原理を万能視する学校選択についての提言には、専門家の深い経験と理論に媒介されなければ到底成功は覚束ない教育活動の営みの実際的な過程に対する十分な考察がない。

 これに対して、後者の学校選択の意義の提唱は、公立学校制度の伝統的規範に縛られて公立学校の改革を妨げている教育行政の官僚化を打破し、個々の学校の改革の努力を導きだすためには、学校選択制度が必要であると説くものである。公立学校制度に創造的、革新的実験のチャンスを保障するために学校選択制度の必要を提唱する論者は、単純な市場原理の導入という乱暴な理念によるのではなく、学校をめぐる意思決定過程に「抑制と均衡の原理」を導入して、学校を教育行政の官僚主義からも、専門家の専門職主義による閉鎖性からも解放させ、教職員、教育行政当局、親、子ども、地域コミュニティの市民といったさまざまな関係者の力と働きを再結合する場として学校を再構築することを目指しているのである。学校選択制度の導入は、意欲あふれる教職員に対して「公立学校であるから」といって現状改革を妨げられることのない状況をつくりだす。他方で、学校選択制度が存在すること、そして現に選択による実験的な学校が存在するという事態は、教育行政の当局者および学校関係者に問題を抱えたまま現状を放置することを許さない環境をつくりあげるのである。」

 

P100「教育の民営化は公教育の解体ではない。もともとアルチュセールの国家イデオロギー装置についての研究に従えば、公私の区分は再生産の営みにとっては本質的な意義をもたない。その国家およびイデオロギー論の核心は、私的な機関もまた、公的な機関とならんで、社会の再生産の営みを担い、国家イデオロギー装置としての機能を果たすという点にあったからである。」

P100「教育の民営化を理念とする新しい教育政策の動向は、ハイエクの政治経済学に強い影響を受けるものであったとされる。しかし、すでに検討したように、ハイエクの社会理論には公教育の縮小=解体などと把握される以上の、近代社会の本質的理解にかかわる重要な問題提起があった。そこでは、人間理性を積極的に限界づけることによって、近代合理性の内面的抑圧から人間の自由を回復させる自覚的な志向が含まれていた。これに対して、現在進行しつつある教育の民営化政策の動向には、こうした積極的な理論的考察を見いだすことができない。それはハイエクの政治経済学に刺激を受けるものとの通説的理解にも拘わらず、ハイエクの社会理論および道徳理論の有する本質的、発展的側面を自覚的な課題として追求しようとするものではないのである。」

 

P105「行政改革地方自治が最大の政治課題として党派を超えた議題となっているのは、国家および地方公共団体の行政活動の適切性と効率性が疑われ、そのことを通して法的規制あるいは行政指導の正統性が根本的に問われるところにまで、日本の社会諸制度が行き詰まっているとの状況認識を背景としている。膨大な財政赤字の累積という事態一つとっても、そうした認識が架空のものでないことは明らかである。こうした事態に対処し得ず、既存の制度と手続にのみ安住するかに見える政治およぶ行政に対する国民の目もこれまでになく厳しいものとなっている。

こうした文脈において見るとき、教育行政についてもまた、規制緩和が叫ばれるのは当然のことである。」

P107「筆者はさきに規制緩和小委員会で意見を述べる機会があった。その場で看取し得た委員および事務局スタッフの準備と議論から推測するならば、筆者がこれまで自覚的に追求しようとしてきたような、市場原理の単純な適用による教育へのインパクトについての神話と公立学校における独創的な実験を可能にするための仕組としての学校選択を区別しようとするなどといった感覚は、規制緩和小委員会の問題発想のなかには存在していないようであった。「論点公開」の後で催された懇談会において同委員会の立場を代表して大宅映子座長が述べた発言に端的に見られるように、そこにあるものは、ほとんど市場のもつ反官僚制の機能への信念といったものによって支配されているようにみえる。」

行政改革委員会規制緩和小委員会を指す。96年の動き。この見方はあくまで委員会の態度に過ぎず、官僚制が問題であることが事実であるかどうかは別問題である。

 

P108-109「ところで、学校選択についての擁護論とは別に、規制緩和小委員会のヒヤリングの席でも話題となったのは、学校選択の理念はいいとして、はたして日本の学校教育の中に選択が問題となるほどの多様性を生み出すことが可能かどうかという点についての悲観論であった。……これらの議論は、たしかにいかにも「現実的な」ものである。しかし、これらの議論はいずれも学校選択制度を、市場原理=自由競争によって自動的に教育改革のメカニズムが動きだすという類のものと理解しているといえよう。そのうえで、自由競争は一元的な偏差値序列に必然的に帰結し、また学校選択論のいうような市場原理の前提は、画一性に慣れて来た日本の学校制度においては準備できないだろうという趣旨からのものであろう。繰り返し述べることだが、そのような、市場原理によって自動的に教育改革のメカニズムが動きだすなどという主張は、到底教育改革の実際的な理論として受け入れることはできないということは、スティーブン・ボールあるいは学校選択に反対する多くの論者とともに、筆者もまた、そう考えている。しかし、そのことは学校選択制度の理論的意義を否定するという結論に行き着くものではない。

 学校選択制度はそのような市場原理による自動的な教育改革のメカニズムを信奉するものではなく、別の根拠をもって、教育改革についての別の理論的見地から、主張されるべきものなのであり、筆者の学校選択の意義の提唱はそのようないわゆる市場原理の学校制度への単純な適用とはまったく違った教育改革問題に対するアプローチによるものなのである。すでに述べたことだが、学校選択制度の主張を二つの類型に分け、市場原理の単純な適用を原理とするものと抑制と均衡を原理とするものにわけるというのが、筆者の学校選択制度についての理論的整理の結論である。それは公立学校制度を民営化することを最終目標とする学校選択制度と、公立学校制度の再建と活性化のための必須の道具と位置付ける学校選択制度との対比であるといってもよいものである。」

 

P111「しかし、学校選択制度は機能するために前提となるこれらの教育専門家あるいは親と生徒は、もとより多いに越したことはないが、ほんの少数でもよいのである。むしろ、少数の、真に意欲的で創造的な公立学校改革の努力を、公立学校制度の枠組みの中で保障し、その実験的な試みの意義と限界、成果と問題点を広く、実際の学校教育活動の実践を通して検証することとそ、学校選択制度を必要とする最大の理由なのである。それにしても、こうした先進的な教育専門家、親、生徒などの存在を前提にすることは非現実的な想定なのであろうか。筆者は、日本の教育界の現状認識として、これを非現実的とは考えない。さらに、もし、こうした想定を非現実的に想定するならば、そもそも教育を改革するということ自体が非現実的なことになるのではないかと疑わざるをえないのである。」

※果たしてこの検証はできているのか?

P112「各学校が魅力的な学校づくりを保障する条件として通学区制度の維持が主張される場合、そうした学校づくりの試みは専門家の独創的な努力によるものとなろう。しかし、専門家の独創が独走に終わらないとはいえないし、実験がリスクを負うものであることも否定できない。仮に専門家が独走するほどであれば、通学区制度はそのリスクを強制的に子どもに負わせることになる。」

 

P137「しかし、選択は、親の教育への期待、評価を形に表わすことを可能にし、親に正統化されない教育活動には存在の根拠がないということを示すものである。誰に対しても平等で最善の教育は専門家の手によって初めて可能であるとする伝統的な公立学校の規範が、専門職の独善と学校の閉鎖性をもたらしているとすれば、親の選択の自由が、学校を解放し、専門家教職員の責任を直接に問いかけるインパクトをもつことになるのは明らかである。」

学校評価の議論として捉えるべき。

P138-139「学校選択制度に対して、公立学校制度がはたしてきた地域社会を形成する機能が失われるとする批判がある。……

 しかし、現実の通学区制度は学校とコミュニティを密接に関連させているとはいえない。生徒の人間的な成長がコミュニティのなかで実現し、教育がコミュニティを形成する重要な機能をはたすということは、むしろスモールスクール運動が強調するものであった。……すでに言及したように、コミュニティと学校をいきいきと関係づけるときに初めて、学校が生徒の教育に成功するものであり、せまい個人主義を乗り越えることができるというのがニュービジョンの設立の精神に他ならなかった。スモールスクールの運動が批判し、選択制度が改革しようとするものは、こうしたコミュニティの必要に応答せず、責任を果たそうとしない現行の公立学校制度の官僚制についてである。」

 

P145-147「藤田が問題視するのは、一貫して「市場原理がもつ教育意識『改革』の危険性」である。「学校選択は親や生徒の学校、教師に対する期待と信頼の質を変え、さらには地域の学校が保持していた共同性の質を変え、さらには、地域の学校が保持していた共同性の質を変えていく可能性がある」。この可能性が危険だというのである。その危険性に対する関心の大きさが、藤田に、「公立離れが公立学校の危険なのではない。公立離れは、公立学校の危機の表れでしかに。危機は公立離れを引き起こしている親や子どもの期待と構えの変質にある」とまでいわせているのである。

 ところで、この表現にはどこかしら妙なところがある。あえて藤田がこのような言い回しにこだわるのは、公立学校の活動の実態とは別のところで、いわば公立学校に対しては外在的に、親や子どもの教育に対する期待と構えの変質があり、それが公立学校離れという形で公立学校への反応として表れているにすぎないとでもいいたいのであろう。しかし、ではこうした期待と構えの変質とは何によって引き起こされているのだろうか。藤田理論によれば、それこそが「教育の市場化」意識の醸成であるというのであろう。そして、そうであればこそ、現在の危機の原因を公立学校の側の行為あるいは体制のなかに求め、選択などの新たな原理によって公立学校制度を再構築するなどという発想は、かえって「教育の市場化」意識の醸成の強化につながるというのであろう。他方、学校選択を公立学校制度の改革の理念とするという筆者の現状認識は、もとより「教育の市場化」意識の覚醒による教育改革に期待するというものではない。その強調点は、繰り返すまでもないだろうが、公立学校の否定的な現状が「教育の市場化」意識の醸成の原因のひとつにもなっているとするものである。さらに「教育の市場化」意識に対する最大の歯止めは、公立学校の「活性化」によって公立学校への信頼を高めることであるとも主張するものである。

 要約してみれば、藤田がいいたいのは、公立学校制度の枠組みとは別のところで外在的に生じている教育の市場化が親や子どもの「期待と構え」の変質を引き起こしているということであろう。そして公立学校の危機の構造がそのようなものである以上、学校選択は公立学校の危機を進行させるものではあっても、これを改革するための根拠にはなりえないということであろう。これに対して筆者が提起するのは、教育の市場化が危機を引き起こしているとして、公立学校の危機は公立学校の現実から内在的に生じているものであり、学校選択の原理を排除する現行公立学校制度は、むしろ逆にその市場化の促進の契機ともなっているという分析であり、学校選択の原理を排除する現行公立学校制度は、むしろ逆にその市場化の促進の契機ともなっているという分析であり、さらに公立学校の再生のプロセスにとって、学校選択の原理の採用が不可避的なものであるという制度論上の展望なのである。

 ここに公立学校離れという問題をめぐって、筆者と藤田の間には大きな現状認識の相違があることは明らかである。かりに藤田の立論がこのようなものであるとすれば、藤田にはまず自らの現状把握にしたがった公立学校の危機とその克服についてのストレートな分析を求めたほうが賢明というものであろう。」

※この議論はもっと煮詰めてもよい。つまり、問題認識の相違はどちらに分があったのか、という見方による議論である。そして、安易なネオリベ批判言説は、基本的にこの外在説を支持し、それを当たり前とみる立場にある。

 

P147「論点を明確にするためにさらに指摘するならば、藤田の議論においては、公立学校制度に対して、どのような問題の把握と改革の展望をもとうとしているのかという点が不明瞭なのである。筆者の議論を「学校がうまくいくための条件、組織としての学校の特質についての捉え方が一面的」であると批判する藤田論文において、では多面的、複合的な学校改革の筋道はどのように提示されているのだろうか。たよえば藤田論文は「教師の自覚や対応の改善、向上は必ずしも学校選択といった制度的変更を必要とするものではない」という。では、何が教師の自覚や向上を促すというのであろうか。」

※これも改善要求ありきだが、改善要求自体が不要という議論はありえる。

P148「民衆統制と専門的統制の関係を論じて、「後者が前者に良質の教育サービスを提供することであり、前者は後者に適切な期待と支持を与え、適切な参加をしていくことである」というだけなのはなんとしたことであろうか。この程度の提言なら、なにも教育社会学界を代表する論者にいまさら期待するようなものはないというのが筆者の実感である。これは、筆者がつとに批判の対象としてきた、国民の教育権論に特有の、教育専門家の教育の自由と親の教育権との間の予定調和的関係という前提と同一の類のものである。」

 

P149「藤田論文は筆者の議論に対して、「どうも黒崎氏は制度的枠組みが変われば教師の自覚と対応も変わると考えているらしい」との批判をもらしている。先に筆者の議論に対して「学校がうまくいくための条件、組織としての学校の特質についての捉え方が一面的」だとする論述も、この点をめぐるものだろう。しかし、この部分こそ、筆者と藤田の最大の争点であることを藤田は自覚して論じたのであろうか。制度として教育問題を対象化し、制度の運営と改革を通して教育の営みに関わろうとするのが教育行政学の存在理由であるというのが筆者の立脚点である。筆者は「制度的枠組みが変われば教師の自覚と対応も変わる」と「一面的」に考えているのではなく、教師の自覚と対応を変えるために有効性をもつ制度的枠組みのあり方を究明するところに教育行政学の存在理由があるとの立場に立って、その具体的な内容を「自覚的に」究明しようとしているのである。」

P151-152「国民の教育権論が、親の教育権(あるい場合には住民の教育権までも)を名目的には主張しながら、実態としては専門家の自由の確保のための理論に止まるとするのは年来の筆者の評価である。それは親の教育権を単に教師の教育権を導き出す媒介としてのみ把握するという理論構成上の矮小化を伴っている。さらに住民の教育権への言及においては、それが地方自治制度に置き換えられ、さらには国家統制からの防御機能のみが注目され、この結果、ここでも教師の教育の自由の確保がそのまま住民の教育権の保障であるかのように立論されてきた。このような理論的限界に対する認識と批判は、教育権の理論にあきたらないものの間でとみに強く意識されるようになってきている。」

※黒崎は具体例として、中野区の準公選制における「教育行政参加」と「学校参加」の区別をめぐる議論を挙げる。堀尾はこの議論のなかで両者が明確に区別されなければならないとするが、それは「教育専門家の自由を確保するために教育と教育行政の区別を説く内的事項外的事項区分論と教育の民衆統制の機関としての公選制教育委員会制度との間の理念的葛藤を回避するため」のものであるとみる(p153)。このような主張からは当然公選制の趣旨はどちらの意味も含まれて然るべきだという反論が出てくるし、実際そのような批判が出されたが(p154、宇田川宏編「教育委員を住民の手で」1991、p41-42参照)、この批判は理解されないと指摘する。

 

P190「臨教審の教育政策提言の骨格は、自由な競争が導き出すダイナミズムによって教育を活性化しようというものであった。これに対して、第一四期中教審は受験競争の弊害を正面に見据えて、我が国の教育における競争が教育の質を大きく損なうほどのものになっていることを強調するものであった。臨教審が推賞した中高一貫校あるいは私立学校の意義についても、第一四期中教審は、いずれも競争を加熱する主たる要因の一つとして、これを否定的にとらえている。」

P198「こうした一九九七年中教審答申の改革提言には、学校教育を家庭の選好の問題と捉え、学校間の競争がおのずと学校教育の質を改善するという主張がある。そこでは、公教育の質と量について整備を図ることは国家的な責務であるとする、かつての中教審教育改革論が基礎とした課題意識は、論議の表面からまったく姿を消しているのである。」

 

P206「しかし、今日、多くの人々が教育の荒廃を実感する場合、そこで想起されるものは、こうした国家権力の政策の結果についてではない。今日、学校が問題視されるとき、そこで語られるのは、例えば不登校であり、いじめであり、学校内の暴力であり、学級崩壊といった問題である。これらは、国家権力の政策の結果、あるいは権力統制によって専門職の自律性が損なわれていることから発した事態として感じられているのではない。むしろ、こうした問題は、学校の「失敗」、つまり専門家教職員の「失敗」であり、専門家教職員の自律性の無限定の強調は、こうした「失敗」に対する批判から身を守る学校の閉鎖性を意味するのであり、専門職の自律性は、最悪の場合には、学校を無責任な場所に放置することになるのではないかという危惧が、学校関係者を除けば、多くの人々の間に生まれていると言っても、あながち過言とはいえないだろう。」

※しかし、教育権論者はそうは考えない。教育問題は政策の失敗とみる。しかし、黒崎は「これを教育政策の直接の結果、あるいは教育の権力統制の結果とすることには相当の無理がある」という理由で退けようとするが(p207)、教育だけが独立した政策を担っていないことも含めれば、トータルな資本主義体制の政策として教育病理が発生するという見方は簡単に否定できないように思える。黒崎もこの点の批判におけるエビデンスが乏しい。要するに水掛け論の域を出ていないということ。

P207「すでにこれまでの論述によって明らかだと思うが、今日、教育改革のキーワードとして学校の自律性が強調されるのは、これまでの教育行政批判の理論が主張してきたような専門家教職員の自律性への信頼と尊重を説くためではない。むしろ逆に、それは、専門家教職員の自律性が実際には学校の閉鎖性に帰結していることを批判し、さらに学校をめぐる問題が教職員の専門家としての職務遂行における責任として、これを厳しく問うというものに他ならない。こうしたことは、学校の自律性を強調する教育改革の具体的プランが、学校管理責任の明確化であり、校長の役割の強調であることに、明瞭に現れている。」

 

P242地方教育行政の在り方に関する調査研究協力者会議の1997年9月公表の「論点整理」の引用…「主要国の中で学校理事会や協議会のようなものを有していないのは日本だけである。住民参加ということが大きな行政課題となっている今日、学校についても保護者、地域住民などの参加について検討すべきではないか。」

※この切り口から官僚制の問題の議論をする余地はある。