ステファヌ・ナドー「アンチ・オイディプスの使用マニュアル」(2006=2010)

(読書ノート)
P40 「ポップ心理学では、幸福はむしろ道徳的価値として理解される。「悪くなる」より「良くなる」のほう、ではもう関心事にはならない。「悪にしたがう」より「善にしたがう」のほう、これが関心事となるのである。」
p41 「ではなぜわたしはポップ心理学者は測量技師と言い張るのか? それは、心理学的な言い方をすれば、ポップ心理学者は領土(社会的、道徳的)を規定し、自分たちが用いた規準を提示することで、その領土の特徴を説明するからである。」
p43 「ポップ心理学の著者は権力のある立場にあり、善と悪とを区別する言説を発言しているわけだから、しばしば教祖さまのような身分にされてしまう。精神医学や精神分析的な物言いが大事なのはそのためだ。こうした物言いは、意図的にかれらの秘教的な面のために利用されうるものだし、専門家でない者にとっては理解が難しいものだ。」

p53 「この三角形の下側にある頂点に、エディプス(子)と書こう。そして底辺を構成する二つの頂点には、父と母と書く。こうして完全なシンメトリーができあがる。エディプスの家族は、完全な幾何学的図形なのである。しかし、このシンメトリーは見かけだけのものだ。エディプスの家族は、どう見ても三つの頂点は交換可能ではないからである。」

p56 「精神分析家たちは、エディプス・コンプレクスが実際にはむしろこちらに、じつは牢獄のようなこのなぞなぞのなかにあることを理解すべきだっただろう。牢獄と言うのはどうしてか。それは、エディプスが周囲の期待する唯一の答えのなかに閉じ込められているからだ。」
p57−58 「エディプスには本当は選択の余地がなかった。ここにエディプス・コンプレクスがある。たくさんの人間が思い付くであろうたくさんの答えに対して、エディプス・コンプレクスは、実在しないひとりの人間が思い付いたただ一つの答えが普遍的なのだ、と強要するのである。」
p48 「しかし、まさにこれが、ポップ心理学のなかでももっとも議論の余地のある三つの側面に対応しているのだ。すなわち、心的な機能についての一義的な真理の発信、この真理の道徳的次元、そしてその真理を保持している者、すなわちポップ心理学者の正当性である。」

p94—95 「実際、人口を定義するときには、その集合をもちいて定義がなされている。ある個体がすることには興味がない、別の個体がすることにも、そのまた別の個体がすることにも興味がない。しかし目に見えない集合には興味をもつ、というわけだ。詳細説明はすべて集合とのみ相対的に関連づけられている。そのため、集合を説明するためには統計こそがもっとも有効な道具となる。その集合は何パーセントが男、何パーセントが女で構成されているか? 大人と子どもでは? しかし、人口に関してはそれ以外の「データ」ももちろんある。平均寿命、出生率、人口曲線、労働力人口比率、等々。人口のなかに含まれるひとりの固体化可能な主体、それはつねに統計から引っ張り出された理想である。そして、この人口から見れば現実の個体とは、人口と相対的に関係づけられるときにのみ存在するものとなる。」
p97 選挙の投票に見る統計…「しかし、ある意味では、その結果がより多くを語る、というわけにはいかないかもしれない。というのも、一般的見解が全体的に示されないからである。こうした見せ方は、さほど包括的ではないかもしれないのだ。それぞれの個体が投票したかどうかはほとんど重要ではない。大事なのは、人口の全体的な態度とはなんなのかを知ることにある。」

p108 「ここでもまた資本主義にとっては、さしあたり再領土化のメカニズムを組織することが必要だろう。消費するためには個体が必要だ。……諸々の研究は、これこそ典型的な主体、この研究の「理想人」だと主張している。これは非個体化された「統計的」主体であり、人口のなかの割合である。逆に、石けんを買ってそれを洗うには、誰かが、つまりその石けんを必要とする個体化された身体が必要になる。つまり個体が必要なのだ。……
 この再領土化のプロセスは、是が非でも、絶え間なく変化する個体化された主体性を取り戻す。わたしはそれを、「強いられた主体化」と呼ぶ。」
p106 「どの再領土化も、個体として主体化されたどの対象も、したがって正確な意味では「コード」と呼ぶことはできない。というのも、こうした個体が創造されて、もう一つ別の個体化された主体と比較されるやいなや、あるいはこうした個体が、資本という名の原器を規準にして、比較相手と天秤にかけられ関連づけられるやいなや、これらの個体は解体して、ふたたび逃げ去るフローへと化してしまうからである。それとともに、比較の瞬間にしか存在しない原器も消滅させられる。そしてその消失とともに、一時的に動的構成された二つの個体性も消滅する。」
p109 「この再領土化のメカニズムが機能しうるために必要なシステムがあるとしたら、その特徴は、まさにこのシステムのいっさいの相対性、すなわち相互個体性を作り出すもの、ということになるだろう。ある個体は、別の個体と比較されることによって、あるいはどちらがより価値があるか知るために二人なかよく対置され、そうして関連づけられて初めて自分を個体と考えることになるだろう。つまりある個体は他の個体に対立させられるときにのみ、自分を個体と考えることになるのだ。」

p111−112 「いいかえれば、ポップ心理学は資本主義にとって、この主体という「接ぎ木」、砕けて飛び散るのにほとんどなにも必要としない強制された再主体化がうまく運ぶようにするための、便利な道具というわけだ。というのも、極度な脱個体化、脱領土化がなされるような経験が度重なると、この個体は幸福になるにはあまりにも不快な思いをするだろう。……この幸福は決して訪れないし、いつも欠けているように思われ、ほんの一瞬垣間見られたと思うと消えていくのだ。まさにこの欠如、この空虚を、われわれはみなが感じているのである。」
p114 「かれらは間違ってこう考えている。資本主義の第一の、そして本質的な特徴は脱コード化、脱個体化にあると。したがって、ポップ心理学は個体化された主体、人間を「取り戻す」ことを援助する。それを被害者という様式のもとでおこなってしまう、ということは承知の上だ。しかし実際には、それは資本主義の機能に特有の、これら強いられた再主体化に協力しているだけのことである。そしてこれらは、資本主義の再生産のために必要なのである。」

p127 「平和は死の観念を遠ざけることで民主主義を強化する。民主主義は生を称揚することしか知らないが故に。」
p129-130 「死はシステムが組織化する主体性生産システムの中心部に位置している。……資本主義的システムによって主体化されたそれぞれの個体は絶えず死んでいる。あるいはより正確に、とどのつまりは死んでおり、別の個体性のなかに再領土化されることになる者がまとう形態の一つに過ぎない、と言っていいかもしれない。」

☆p164—165 「つまるところノスタルジーの果てに人がたどり着くのは、わたし自身とは無縁のものであること、われわれのなかにではなく外にある失われた時を再発見しようと考えること、そんなものだからだ。そしてファシズムの内部においては、これはいかんとも避けがたいものとなる。しかしとどのつまり、お手元のマニュアル(わたし同様、〔アンチ〕オイディプスを成功したいみなさんのための)を書くことでわたしがしていることといえばただ一つである。このマニュアルはわたしがそう呼んだように、『アンチ・オイディプス』の入門と卒業を試みるものであるからには、わたしがみなさんに提供したことといえば、それはともに時を過ごすことであって、諸々の質問に答えることではない。わたし自身の疑問に答えるということでさえないのだ。」

p171 「過去に固着し、死を拒むこうした傾向は、われわれの世界では非常によく見るものだ。これは、資本主義が不死の幻想を維持することで作り出した、決定的な死を受け入れないための一つの様式そのものであり、ここではそれが過去の事柄の幻想になっているというわけだ。」

p178 「事実、フロイトが提示したシステムにおいて、ある一つの表象代理が全面的に忘却される(抑圧されるのではなく、完全に消失する)ためには、それに結びついている情動(欲動エネルギー)の量がゼロに等しくなければならないはずだ——そのことは表象の全面的な消失を招くだろうが、それはフロイトのこの理論においては死と同じことになろう。」
※ ところでなぜ忘却の問題なのだろう?「忘却しない」という選択肢がなぜないのだろう?常識的に考えれば当然ではある。本書では三島の小説から老いの問題とノスタルジーを関連づけて議論している。

☆P179 「フロイトの間違い、それはエロスとタナトスの戦いにかんするものだ。フロイトは生の欲動(統一的かつ保存的)が死の欲動(解体的かつ破壊的)と対抗関係にあると想像した。それため(※ママ)、この両者は共通の実体を持つものでしかあり得なくなってしまう。つまり、すべての欲動は、同時に生かつ死の欲動であり、統一的であり、破壊的である、ということになってしまう——正直言って、わたしには理解しがたいことに、こうして自我は、みずからが恒常的かつ永続的であると信じ込むのだが、実際には主体の再領土化によって構成される、反復される無数の変化こそが、このシステムに受け入れられる唯一の主体化、つまり強いられた個体生産的な主体化のプロセスによって引き起こされる隷従のおおもとになっていることはあきらかだ。ガタリドゥルーズは、欲望する諸機械を特徴付ける諸々の綜合とは「決して一つの体系の最終的な均衡状態を表現しているものではなくて、むしろ無数の準安定的な停止状態を表現しているものなのである。ひとりの主体は、次々とこの個々の状態を体験し通過していくのである」と説明している。」
※「生成の社会学をめざして」で展開した批判と基本的に同旨。ただ、私が区別した「成長」と<大なるもの>の違いはあまり重視していないと思われる。はっきり言えるのは、<大なるもの>の志向は放棄された所にドゥルーズガタリがいるということである。私は<大なるもの>は自由への希求として定義したが、このことからドゥルーズガタリ的なものが消極的自由とは別の議論をしている可能性が現れてくる気がする。

P181 「こちらのほうの様式(※メランコリーという様式)はといえば、思い出と、主体の唯一の意志に依拠する能動的忘却とを分節化する。そしてこうして状態の変化が可能になったことで、それらが確定したものとなりうるわけだ。メランコリーは、消失した事物の永続性を信じ込ませることをその意図として持っているわけではない。メランコリーとはしたがって、全面的忘却を操作するのであり、こうして忘却と思い出の能力を利用することを可能にする。これは喪をごまかそうとすることもなく、死と直面することを強い、同時にまた生を楽しむことを許してくれる。いいかえれば、メランコリーは死と生を引き受ける記憶の機能を生み出しているのである。」
P182—183 「だが、この能力が発現することを、資本主義はことさらに妨げる。それはこれから見ていくように、この能力が資本主義にとって根本的に壊乱的だからだ、ともわたしは思う。」
P183 「それは能動的なものでなくてはならない、つまりそれを用いる主体の意志の結果でなくてはならない、と。」
※アンチ資本主義のためにメランコリーが必要である。ところでなぜ資本主義に抗するのだろう?それが「不自由」だからだろうか?しかし、メランコリーは自由への志向というものをもたないものである。では何が問題なのか。「不服従」であるのは確かだ。それが不自由と関連しないのならば、暴力的であることそのものへの非難か?この審級においてエゴ(他人に指図されたくない)以外に残るものはあるのか?

P183—184 資本主義的システムは「部分的、受動的忘却は受け入れるし、それどころか必要とさえしている。それはわれわれがすでに述べたように、このシステムが休むことなく組織化する、個体化された再主体化および隷従が機能する上で必要不可欠だからだ。資本主義は、言うまでもなく部分的なものでしかないこの忘却のメカニズムがその機構に統合され、諸個体の知らぬうちに(受動的忘却)形成されるように努める。」
P184 三島が「抽象的理想」と呼んだものについて…「この理想は絶対的記憶という理想になる。そこでは能動的かつ意志的な忘却の利用が禁止され、唯一重視されるのは、台座に引っ張り上げられたおかげで利用不可能になった、死んだ思い出の崇拝となる。若さの持つ力はずっと前に死んだ過去の事物のために利用されるが、しかしこういった記憶の管理によって、まだ生きているという幻影がそれらに付与される。」
※しかし、この議論の系というのは、「確定された知などどこにも存在しない」というものになる。

P186 「自我はその根底的な現実が無限の再個体化によって作られたものであり、自分はかりそめのものでしかないことを知らない。そして資本主義は、自我がそれに気づかないようにするためならなんでもする。」

P188 「メランコリーの場合、自我それ自身、あるいはより正確には自我の一部分の喪失を受け入れねばならないのに対し、喪の場合、失われた対象が基本的に自我の外部にあるということである。ここは少々難しいところだが理解に努めよう。自我は自分が一つの統一体であることを意識している。自分自身の一部を失えば、その部分は否応なく無意識的なものとなる(自我はもはやそれを意識できない)。なぜなら、その消失が起きる前にそうであったような統一体を保つことができないからである。相変わらず一つの統一体であることはわかっているが(でなければもう自我ではなくなってしまう)、しかしまた、なにかがこのまとまりには欠けていることもわかっている。それはついさっきまでそこにあったのに、しかしいまはもうそこにないのだ。しかしながら、この消失した自我の一部分——それは死んだのだ——は限定(領土化)することはできなかったし、かつて自我−個体であったもの、この喪失のあとも依然として自我—個体であるものに、とても似ていたのである。だからこそ、フロイトはこう説明するのである。「喪では外の世界が貧しく空しくなるのだが、メランコリーでは自我それ自体が貧しく空しくなる」」

P190 「完全に忘却しようと決意すること——つまり、結局はその死を受け入れ、幽霊に変えてしまわないようにすること——、それはこの死んで消失した事物がその場所で再び占めることは決してないだろう、という事実を受け入れられるとうになるためのよい方法なのだ。」
☆P191 「メランコリーの利点は、個体化された自我が、自分がどう機能しているか——いささかなりとも——の自覚を、そして自分が隷従しているという自覚を持つことを可能にしているという点である。……というのも、なんと言っても過去の事物——思い出——は外的な対象ではなく、心的現象にに統合されたものであり、それゆえ全体的に自我に似ているからだ。そして、この過程は必然的に痛みに満ち、多くの犠牲を伴うからだ——だからこそ、メランコリーという概念は、われわれを(幻影的な)統一体として基礎づけるものの喪失に伴う痛みをも暗示しているが故に、いっそう適切なのである。しかし、わたしが構築したメランコリーという概念は、全面的忘却を能動的に利用することを可能にするものという点で、喪の方の特質を流用している。」

p193 「このシステムが個体に代わって、個体がひとりの他者であったことを忘却し、思い出の断片を思い出さねばならぬと決める。個体はこうした断片は、ノスタルジックに縛られたままであろうが、こうした思い出はいかなる意味でも自分のものではない。にもかかわらず、むりやりそれを自分のものだと考えなければならなくなるのだ。」
※これに加え、ノスタルジーでは死の否定(生き返るのではないか)ともリンクする。そしてこの思い出の想起というのが、操作的に、外から与えられるものとしてノスタルジーは作用する。
 儀式の消失とも関係があるかもしれない。儀式によってそれまでの古い主体が新しい主体へと変化する(別の個体に取って代わる)とされていたものが、否定されることによって、非連続的な私から連続的な私へと変化する。そこにはノルタルジーの介入する余地がある。
p198—199 「問題はすべて、おそらく以下の点に存する。どうやって勇気を見つけるか? すべての基準が「セキュリティ」になったこの時代に。つまり、前に進み続けるために、自分の自我(個体化された統一性)を少々危険にさらす勇気を、どこで見つけるか? われわれは本当に、誰もが最低限のリスクすら背負えない、メランコリーなどばかげているとしか思えない「いいとこどり」の時代にいるのか?」
※常識的には最もだが、このように考えるとドゥルーズの主張とはずれているように見えなくもない。ここではメランコリー行使の目的が前に進み続けるためとある。どういうこと?

p268-269 「身体は資本主義にとって必要不可欠な現実の媒体(身体機械)であるからこそ、それゆえ資本主義にとっては、自殺への管理を強化することが重要なのである。」→このための管理は二重の方法でなされる
p269 管理1:「自殺の定義そのものを形づくるもの、すなわち自殺の選択を、自殺から取り去ってしまうことで成立している。」「死は存在しない」→選びようがないものとして解釈すること
管理2:「身体の潜在的な行使、つまりこの身体を殺すという行為に激しく反対することから成り立っている。」「とどのつまりは十分に論理的な言葉で答えることができないようにさせるのである。」
p271 「この第二種の管理は、われわれをすべて二重の結びつきのなかに閉じ込める。それはわれわれにまだ選択があると信じ込ませるが、しかしそれは考えるのも不可能な、ばかげた選択なのだ。なぜなら、その選択肢は全面的に偶然まかせだからである。」
※ex.『「不運」な人生を送っていたからその人は自殺を選んだのだろう。』という考え方は、自殺の発生を偶然の結果としてとらえており、能動的選択を介する余地をなくしてしまっている。そして、この考え方自体には、生の絶対的優位が前提として潜む。
p276 「(ドゥルーズ=ガタリが構築した)哲学は概念を製造すること、つまり道具を製造する以外の役割を持たない。この道具の持つメリットはなにか、あるいは有効性はなにか?この二人の友人たちにとって、それは哲学の問題ではなかった。」→一度製造された概念はひっきりなしに改変されるものである、それを自称哲学者が用いたりする。
p290 「ドゥルーズ=ガタリの哲学の主要な着想は「時間をつぶす」「大股で行ったり来たりする」以外になんの役にも立たない、というものだ。それは本当になんの役にも立たないし、なにも生み出さない。分岐線を接続させ、リゾームをのばさせる以外のことはしない。」
レッシグの創造性との概念と何故か一致する。

P280−281 「まず、哲学によって開かれたこの公理領域には、それでも確かに現実の効果がある、ということを主張しておかねばならない。しかし、それはただ公理によって開かれた領域においてのみである——それが公理論の定義そのものである。この領域外では、この効果は存在しない。すべての問題は、このように区切られた領域と、この領域でしか意味を持たない諸帰結からなにを作り出すか、である。実際は、二つのものから一つのものを、なのだ。問題の領域にとどまるか、隅々まで探し求めることを決してやめないからこそ、認識できるだろう真理を手にするわけである。際限なくそれを測量することもできるはずだ——パリ・フロイト学派のメンバー以上に、ラカンの書いた一節一節の詳細を知っている人間はいないようだ。したがって、こうして開かれた領域において、一つの真理が登場する。これは単数であるが、また同じように多数でもありえる。つまり諸真理が存在しうる。」

P281 「マトリックス」に登場するサイファー(モーフィアスやネオとは逆に現実世界から、マトリックスの世界を選択した人物)の例から…「かれはほかのなにものにも代えがたいステーキの味を捨てる気力もなく、レジスタンスたちが選んだ妙な衣装と船での生活よりも、幻想の世界のマシンの奴隷でいることを選ぶ。そもそもほとんど外科手術的なかれらの決断をコントロールしたのはどんなモチベーションだったのか?(※マトリックスではなく、現実世界を選んだ理由は?)というのも、問題なのは新たな公理を開くことだとして、最初の公理領域を捨てることになんのメリットがあるのか? あるいは、そしてこれが第二の注意点だが、メリットは反復される知的な遊びのなかにあるのかもしれない。この遊びは人が作り出したものを方法論的に探求することから成り立っている。いいかえれば、よりいっそうの空間、領域を開くことを決してやめない、そしてその領域を立ち止まることなく何度も行き来して測量していく、「地面をアルパン単位で、つまり別の土地単位で計測する」という事実から成り立っている。」
※私のマトリックス考察と異なっているのは、「自由/幸福」という区分ではなく、それを「公理A/公理B」という区分に分け、自由と幸福を区別せず、一定の(単一の!)測量単位を設定して議論する点である。多少粗いかもしれないが、この公理は自由という言い方をしてもいいかもしれない(自由A/自由B)。
 ただし、この議論を単なる認識論的な領域で完結された問題ととらえるのは問題があることを、すでに「生」をめぐる問題として論じてきた。ナドーの目線というのは、あくまで大衆目線に過ぎず、「貧者」だとかマイノリティ目線の話として成り立つとは言い難い。

P293 公理論と逃走線を「結婚」させようとするポップ哲学者の問題…「逃走線の「上に」留め金を、再領土化を、連鎖を措定することである。そしてそれ故に結局は、逃走線を止めてしまうのである。ここに危険があるのだが、このときはおそらく、逃走線に関係し続けているという幻想を伴ってしまうのだ。」

☆P299−300 「つまり本マニュアルでわたしは、自分がときとしてバックス・バニーなのだった(公理的基礎に基づいて作業することで、みなさんに個体主義的な主体の状態に快適に居座ることの落とし穴を示せたと思う。……)。そしてまたときにはロードランナーでもあった(みなさんとなんのためでもなく時間を過ごしたと思う)。……ことばを換えれば、わたしは連続的に絶え間なくそれぞれのキャラクターになることで、計測しかつ大股で行き来することが、同時には不可能だということをはっきり確認したのである。」


(今改めて読み返してみて)
 本書の議論というのは、ドゥルーズガタリ(以下、D/G)の議論をひとつメタな視点に置き、D/Gの議論の意味(正確には無意味さを説明することではあるが)と、より具体的なアンチ・オイディプスのための指標提示としてのメランコリーの概念の説明が中心である。論点がとてもわかりやすく、読みやすい。ただし、著者自身もわからない領域の説明が入ると,ちょっと読みづらくはなる。
 また、広く三島由紀夫論を展開している点も興味深いところです。私自身は基本的にナドーの与えている三島評には賛同する立場です。

 メランコリーの概念というのは、ドゥルーズの「差異と反復」を読んだあとだと、ドゥルーズの提示した3つの反復の中でドゥルーズが必要性を認めた反復、未来への反復のことを思い出す。

 「永遠回帰は<追うもの>としての否定を利用し、「否定されうるものはすべて否定され、否定されなければならない」という、否定の否定についての新しい定式を考案する。永遠回帰の霊妙なところは、記憶にあるのではなく、かえって浪費に、能動的になった忘却である。……永遠回帰のテスト〔試練〕に耐えぬものすべて、これらこそが否定されなければならないのである。」(ジル・ドゥルーズ「差異と反復」訳書1992、p97)

 ニーチェ的なこの未来志向の反復は現在や過去を排除(否定)する上で成り立っている。ナドーもこの論点を意識しながらメランコリーを議論している節がある。


 ナドーのD/G解釈は正しいものだと私も考える。しかし、このことで生じる疑問が4つくらいあった。簡単に提示したい。

・D/Gの「言いたいこと」と「(実際に)言っていること」は一致しているのか?
 これは大きな論点であり、D/G解釈において、最も緒論者で認識のズレがある点だと思う。本書でも名前の挙がるアラン・バティウやスラヴォイ・ジジェクなどはD/Gの議論には批判的であるが、何がおかしいのか?私が一通りD/Gを読んだ印象だと、これは「言いたいこと」と「言っていること」にズレがあることがもともとの問題であると考えている。ナドーも本書では、D/Gの原著を細かく考察し実証した上で議論している訳ではない。
 これについては今後D/Gをレビューする時に、実際の内容を踏まえながら考察してみたい。

・メランコリーをどう解釈するか? なぜ無意味さに価値を置かねばならないのか?
 これは、ナドーの中でも解決されていない問題であるようだ。これ自体に具体的な解釈を加える必要もない、という見方も可能だが、現時点でメランコリーの概念はほとんど何も意味を与えたものではなく、現実にメランコリーが採用しうるものかさえよくわからない状態になっている。
 本書でメランコリーについて繰り返し言われているのは、
1:それが能動的忘却であること
2:それが全面的な忘却であること
3:それが能動的な忘却である以上、我々の記憶は我々によって傷つけられるため(消去されるため)、痛みとなること
 である。

 2番目の話については正直何を意味しているのかわかりませんが、先述した未来への反復のために必要な要素であることに違いありません。
 1つ目の話はわかりやすい。しかし、3つ目の話はどうか。ここはおそらく、消極的自由の議論とは異なってくる話です。ただし、我々が何を理由に身を削るのかがよくわかりません。何を理由に能動的に身を削るのか。

 少なくともこの根拠を「我々の自由意志のため」に帰すのは無理があると思います。D/Gの議論は自由の議論を究極的根拠として定めているとは思えません(消極的自由とは異なることを前提にすれば)。
 つまり、本書の関連でいうと、「資本主義が我々の意志を縛る」という理由が有効であるとは考えづらいのです。基本的に消極的自由は「AよりもBがよい」という、公理論の話の延長線に成り立っていると考えられます。しかし、このような比較をすることは「全面的忘却」をしようとするメランコリーの概念からは認められない話のはずなのです。
 そこで、その根拠は無意味さに帰す、というのがナドーも含め、D/G の結論となる訳ですが、これを究極的根拠として置けるものなのか、おくべきものなのか、それは根拠を提示せずともよいものなのか、様々な疑問が生じます。

 もう一点、「過去を殺す」、我々が能動的に記憶を消去する、というのも具体的にどうやるのかよくわからない話ですし、本書でも話題に挙がりません。しかし、この方法のヒントででもあるのなら、私もそれに興味はあります。この「過去を殺す」というフレーズで私が想起したのは、「シルバー事件」というゲームです。99年にPSで出た作品ですが、この作品はミメーシスの話ともかなり関連するので、ジラールのレビューをしたあとにでもとりあげようかと思っていました。レビューの際にこのメランコリーの観点からも考察してみたいと思います。

存在論とメランコリーの関係についての問題
 D/Gの議論の根拠が存在論にある、という話は前にもしましたが、この存在論がどこの存在論なのかがよくわかりません。少なくともフッサールハイデガーのそれとは違うのではないのか、というのが現状の見解です。

 例えば、「地平」という概念についていえば、このような形で提示される。
 
 「この地平という語は、特にニーチェおよびフッサール以来、哲学において、有限で規定された存在に思考が拘束されていること、視野が一定の歩調で拡張すること、を表現するために用いられている。地平をもたない者は、十分遠くまで見ることができず、それゆえ自分の近くにあるものを過大評価する人間である。逆に、<地平をもつ>とは、ごく身近にあるものに制限されずに、それを越えて見ることができるということである。……したがって、解釈学的状況を十分考え尽くすということは、伝承をまえにしたわれわれに立てられる問いのための、適切な地平を獲得するということである。」(ガダマー「真理と方法2」訳書2008、p473−474)

 この定義も必ずしも的を得ているとはいえないかもしれないが(これを視野の拡張と関連づける点で)、この定義から言いたいことは、これがメランコリー的な、もしくはドゥルーズのいう未来志向の反復概念とは異なる、という点である。地平というのは、(私の?)思考の有限性の境界に対する意識を持つことである。この有限性の境界を確認するためには、既存の私の記憶もまた把握している必要がある訳で、これと全面的忘却が結びつくかどうか疑問である。どちらかというと、ナドーが本書でとった立場である「バックス・バニーとロードランナーの2つの立場の行き来」に近い気がする。そしてD/Gの立場というのは基本的にロードランナーではないのか?という疑問である。

 今後存在論についてももう少し本を読みたいと思ってますが、なかなか理解が難しいので、どこまでやれるかはわかりません。ただ、この存在論とメランコリーのリンクが認められるのか、もし認められず、そこにズレがあるなら、なぜD/Gが言う存在論と、一般的な議論で言われる存在論にズレが生じるのか、という点は考察してみたい問題である。

 問題意識もまとまってきましたので、そろそろD/Gについても、レビューをしてみたいと思います。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★★