角田忠信「日本人の脳」(1978)

 今回は、日本人論の関連で、角田の著書を取り上げる。

 角田の日本人論というのは、恐らくは「最強」の部類だと思われる。通常、日本人論として認められるものというのは、それが「一般的な日本人」について妥当であるかどうかの検証というのが難しく、それ自体がしばしば争点となった。例えば、土居の「甘え」の議論についても、縫田のレビューでも捉えた「歴史性」の証明という観点から、つまり土居のいうような辞書的な意味での「甘え」の用法について、一般的な日本人にどこまで浸透しているのかという点については(その用法が使い古され、日常的に「意味」が与えられているようには使われていない可能性があるといった)議論の余地があった。

 しかし、角田の主張というのは、日本語を用いる者(正確には日本人そのものではなく、日本語に幼少期から精通している者を基本的に指す)は文字通り「全て」当てはまるものだというものである。もし、角田の議論が正しいとするならば、これほどまともな「日本人論」はないと言ってもよいだろう。

 

 さて、角田の理論というのは、いつもの「理念型α、β(類的理念型と歴史的個性体としての理念型、羽入のレビュー参照)」の枠組みで言うと、

 

・理念型α:母音・自然音における認知の左脳の優位が日本人独特のものであること(脳科学認知心理学的問題)

・理念型β:その認知が日本人の創造性に結びつく(国民性論の問題)

 

 の二種類に分けて考えることができる。角田が実際に示しているのは理念型αのレベルの議論にすぎないのであるが、理念型βについても、「飛躍」していることを認めつつも、どうも確信じみたような語り口で日本人論と結びつけて指摘している(p86-87)。

 

 

〇ツノダテストの特徴と問題について

 

 しかし、角田の議論には多く問題があるようである。これは理念型αの議論と理念型βの議論から指摘できる。先に、理念型αに関連する問題について八田武志「「左脳・右脳神話」の誤解を解く」(2013)を足がかりに検討していきたい。八田は80年代に角田の議論の追証実験を行った者としても知られる。

 まず、押さえなければならないのは、角田が理念型αで示した内容について、独自の方法で立証したことである(ここでは「ツノダテスト」と呼ぶ)。ツノダテストは次の方法によりなされた(cf.角田1978、p52-53)。

 

 最初に被験者に対し、右耳から小さな音(母音、子音、バイオリンの音、こおろぎの鳴き声といったものが使われた)を一定の間隔で流す。その後、今度は左耳から右耳の音より大きな音を、しかしそれを遅らせて音を鳴らす。被験者は両方の耳からずれた音を聞くことになるが、最初の小さい音に合わせて規則正しくスイッチを押すよう命じられている。大きな音の方はその音量を次第に大きくしていき、大きな音の干渉のため「スイッチを押す間隔が不規則になった」時点で一度実験は終了となる。

 今度はそれを逆に、左耳の音に合わせて規則正しくボタンを押し、遅れた音が入ってくる右耳の音を大きくして不規則になったタイミングで実験を終了する。

 左右の耳で行った場合で実験終了時の音のデシベル数には差が出てくるが、基本的により大きなデシベル数まで規則的にボタンが叩けた場合、そちらの耳がよりその音に対して「敏感」であったことを示す。

 日本語人の場合、母音と子音の聞き取りは同じ右耳(=左脳)で優位になり、自然音も右耳、楽器の音は左耳(=右脳)で優位になる一方で、非日本語人の場合は子音と楽器の音は日本語人と同じ結果であるものの、母音と自然音は共に左耳優位になるというのが角田実験の結果である(※1)。

 

 八田のツノダテストへの批判として注目すべきは次の2点である。まず一つ目はこの実験の追証不可能性であった。学問的にはこちらの理由でツノダテストは「科学性研究とはならない」という指摘もあったとする(八田2013、p157)。

 特に不明なのは、「スイッチを押す間隔が不規則になった」ことへの定義の問題である。八田の著書からは角田と同じ方法で実験した内容に対する明確な反証が確認できなかった(※2)が、恣意的な操作が許される状況の下で追証を行うことができていないことでその正しさが示されていないということが言われているようである(※3)。この点については、角田のその後の態度の取り方からみても、妥当な批判であると思われる。

 

 八田の言うもう一つの批判は、角田がこの実験の方法を独自のものとして行ったことに理由がない点である。八田によれば、認知心理学の実験において類似の内容を検証する際に行われていたのは両耳分離聴テストと呼ばれるものであった。これについては角田も「キムラ法」として著書で紹介しているが、「実験条件の精度の低いこと、合成手法の不完全さからその結果は十分な信頼性を有していないと癇癪している」としている(p63)。また、別の著書では「キムラの両耳分離聴テストは、言語応答(口頭・筆記)による方法をとっているために、母音以外の言語要素が同時に含まれる。そのために、実験条件によって言語半球が支配的になる」と反証している(角田「ヒトの聴覚系にみられる左右差について」久保田競ら編『感覚と行動の神経機構』1976、p223)。

 この主張の正しさは両耳分離聴テストの内容を説明する必要がある。八田の実験の説明がわかりやすいだろう。

 

「片方の耳からは六桁の数系列を女性が読み上げる声。それと対にして、反対の耳からは「犬の鳴き声」「小鳥の声」「虫の音」「自動車の通る道路騒音」「白色雑音(多くの周波数が混じっている音で『シャー』と聞こえる)」を学生に聞かせるというやり方である。学生には両方の耳に等しく注意を配分するように頼んでおいて、数系列の正答率をペアにした条件ごとに比較している。」(八田2013、p154)

「結果は、右耳から数系列が聞こえる条件は「犬の鳴き声」をペアにしたときも、「小鳥の声」でも「虫の音」でも左耳よりも優れていた。日本人では「犬の鳴き声」「小鳥の声」「虫の音」は左脳で処理されるために、右耳からの数系列の聞き取りが英国人よりも劣るという傾向は決して見られなかった。論文では、環境音の対提示条件における数系列の聞き取りに日本人でも英国人でも違いはないと結論づけてある。」(同上、p154-155)

 

 八田はこの結果について、「自然音が有意な耳から聞き取りを行った方がもう片方の耳での数系列の点数が高くなる(聞き取りにおいて聞き取りづらいノイズがない方が点数がよい)」ことを前提にしていることを、まず押さえておきたい。

 

 さて、この説明で議論せねばならない問題がある。それは「環境音」をどう考えるかではなく、「数系列」をどう考えるのか、という問題である。この実験法を用いた場合、両耳から異なる音を聞くことになるが、それぞれの音が左右どちらの脳に「聞き取りやすい/聞き取りにくい」の性質があるかによって、影響が出てくる可能性があると考えた方が自然である。端的に言えば八田は「数系列」の音の聞き取りにおける脳への影響を無視しているのである。

 基本的に左脳(=右耳)は言語を聞き取る上で有意であることは角田とその他の一般的な研究は一致している。問題は音節としての母音と子音の認識の違いであり、子音は左脳有意であるものの、母音は右脳有意とするのが、角田理論、これが明確でないか、左脳有意とするのが一般の理論である。

 ここで問題となるのは、「数系列」は言語・単節母音・単節子音のうちどれになるのだろうか、という点である。というのも、「数系列」の聞き取り自体が、他方の耳で何を聴こうが有意脳側で聞いたほうが好成績になる可能性を否定できないからである(※5)。

 八田の言うような前提を支持するためには、次のような条件が必要になってくる。左耳で数系列を聴き、右耳で環境音を聞いた場合、右耳ではよく環境音が聞こえてくる。このことが左耳での数系列の聞き取りにも好影響を与え、実験結果も左耳の方がよくなる、という条件である。しかし、この条件を提示するのであればもう一つ考えなければならないのは、数系列自体の聞き取りやすさにおける左右の耳(脳)のバイアスである。

 

 むしろ注目したいのは八田の実験で「日本人学生の成績水準の方が絶対値では勝っていた」と述べている点(八田2013、p154)である。この事実も角田理論の都合のよい方へ解釈することが可能である。まず、右耳(が数系列の場合)の結果については、「数系列」が単節の音に近いものだとすると、母音・子音共に右耳有意であるため、日本人においては右耳の方が聞き取りやすい、という解釈を行うことも可能であるからである。また左耳(が数系列の場合)の結果についても、右耳で聞こえている自然音において、それを左脳で処理する傾向のある日本人は「ノイズが少ない」分、非日本人よりも聞き取りやすくなる、という見方が可能である(もっとも、この結果は道路騒音・白色雑音では差がでないという結論にはなるが)。

 

 この実験から角田理論を立証するには、日本人の場合自然音(環境音)と言語(非日本人の場合は子音のみ)が別の脳(=耳、非日本人の場合は)から受容されることを前提にして、自然音に該当する「虫の音」などは両方の有意に良くなる(もしくは悪くなる)結果になるだろうということだが、八田の実験ではそのような結果を見出せなかった。この実験内容を見る限り、角田側から批判できるとすれば、「「数系列」が母音と子音を両方含んでいるため、十分に認知の違いを確認できない」ということになるだろう。これには一理あるように私には思える。また、このテストでは左右どちらの耳も等しく聞くことが求められるものの、これも被験者の主観の影響を無視することがかなり難しく、個人差がかなり出る印象も受ける。少なくとも、八田が言うような「両耳分離聴テストに問題がないのに、なぜ(※独自の実験手法を)開発しようとしたのか了解しにくい」(八田2013,p147)という主張が成り立つのかは素人目には判断できない。

 更に、八田は両耳分離法テストでは母音は「右脳有意であるという報告が一貫して行われてきた」としているが(八田2013、p143)、角田の参照する(もちろんキムラ法=両耳分離法を用いた)ハスキンス研究所の実験結果によれば、その傾向は一貫していないとする(角田1978、p57)。これについては、角田はそれぞれの結果の出典をほぼ明示しており、八田の分がかなり悪い。このような結果の一貫しない点についても、角田は自身の実験法にノイズが少ないことを理由に優位性を主張している嫌いがある。このような事情からも、少なくとも角田があえて別の方法でこの問題を実証しようとしたことには理由があると私には見える。

 

 以上の議論から指摘できることは、少なくとも八田(2013)の著書から行われる理念型αの批判というのは、ツノダテストの結果そのものというよりも、別の方法による議論の方が強いことになる。PETスキャンを用いた実験においてツノダテストの結果とは異なる結果が導き出されたなどという指摘や(p156)、出所のわからないシンポジウムの場において角田が「(※「スイッチを押す間隔が不規則になった」という定義について)博士課程クラスの基礎がある人なら僕のところで半年くらい習えば判断が可能です」という発言したことなどを紹介するが(p152)、決定的な研究結果を引用できていないのは確かである。

 

〇サピア・ウォーフの仮説、もしくは言語相対論からみた角田理論の問題について

 

 さて、次に理念型βから考えた場合の批判についてみていく。これについては、江村裕文「サピア=ウォーフの仮説について――文化その3―」(法政大学国際文化学部「異文化」第8巻2007、p25-53、URL: https://hosei.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=83&item_id=2989&item_no=1)の内容を参照したい。これらの議論には「強い仮説」と「弱い仮説」があり、前者は「言語決定論」というべきような、言語そのものが思考や文化を決定づけるものであるとみなす。

 例えば、土居の「甘え」の議論もこの議論に位置付くように思えるが、すでにレビューしたように、言語相対論的な影響についてはそれほど明快に議論がされているといい難かった(もっとも、土居自身は「強い仮説」を支持していたと言えるだろう)。

 一方でこの角田の議論は明らかに「強い仮説」の立場にある(江村2007,p34)。彼のいう日本人は全てが同じ脳の傾向を持っていることを前提にしているからである(※4)。

 ただ、問題なのは、角田がこの議論を基本的には日本語に限定している点である。まじめに言語学的なアプローチをする場合は少々偏り過ぎており、一般論として言語相対論が成り立たないとしても、日本語の特殊性まだは十分に考察できていないからだ、と反論されそうである。

 そして再度注意せねばならないのは、角田の実験によっては、理念型βに関わる部分の実証は何一つなされていないということである。このため、角田自身は日本人の脳と同じ傾向を持つ者として、ポリネシア語族について指摘しているものの、「ポリネシア語族の人々が日本人と同じような文化傾向をもつのか」について全く検討しないのである。少なくとも言語決定論的なアプローチを行なえば当然検証しなければならない論点であるはずなのに、「ユニークな日本人」の描写に満足してしまったからか、この点については深入りしないのである。

 角田が理念型βとの関連で議論をするときは、すべて日本人論は「なんとなく」我々に受容されていることを前提にし、それを自らの実験結果と無理やり結び付け、その「なんとなく」の証明材料であると強調するのである。理念型βの証明は何も角田の実験によってのみ導き出せる類のものでは決してなく、それに類する実験等によっても議論されねばならない点である。そして、それらの検証は何一つ示さないまま、角田は日本人の特徴を自らの実験と結びつけてしまっているのである。基本的にこの点について角田の議論は「論外」と呼ぶしかないだろう。

 

 しかし、ここでこれまで私が検討している「日本人論」の議論においてとても無視できない点がある。本書が30万部を売り上げるベストセラーであったのもそうであるが(八田2013、p186)、マスメディアには「純正な科学研究」とさえ評価されていたことや(江村2007,p34)、著名な湯川秀樹らによる肯定的な評価がされていたことである(江村2007,p39)。これは端的に言えばマスコミの「疑う力」の欠如や「「手短に結論だけ」を珍重する特性」の問題(八田2013、p187)が原因であったといえるのだろう。少なくとも、本書が出版された時期における「日本人論」の受容のされ方というのは、極めて疑うことを知らずになされていったこと、このような態度はその後の90年代以降の日本人論的語りの受容にも影響があったということになるのではなかろうか。

 

〇近年の「角田理論再評価」の誤解について

 

 最後に一部界隈で「角田理論の再評価」として取り上げられている、角田晃一らによる“Near-infrared-spectroscopic study on processing of sounds in the brain; a comparison between native and non-native speakers of Japanese”(Acta Oto-Laryngologica 136(6),2016:p568–574, URL:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4898151/

)にも少し触れておきたい。特に本論文が「角田理論」が当初持っていたサピア=ウォーフの「強い仮説」の態度からすると大きく異なる結論を導いていることについては押さえておかねばならないだろう。

 

 まず、大前提としてこの実験で用いられたNIRSという医療機器は、前頭葉のヘモグロビン量の増減により、脳の働きをみるものである。このため、角田理論で強調されていた左脳・右脳の議論とは直ちに結びつかない。Tsunoda et al.(2016)では、この点に配慮し、左脳・右脳ではなくlanguage brainとmusic brainという言い方を行い、2つの脳の使われ方の違いとして説明をまず行っている。

 この実験は、言語(日本の言語)と音楽(西欧の音楽)を聴く時の脳の働き(=NIRSによる測定値)のどちらの傾向が、虫の音を聴くときの傾向で似ているかというのを実験したのである。結果は、言語を聞くとヘモグロビン量は多くなり(language brainの受容パターン)、音楽を聞くと、NIRSによるヘモグロビン量が減る(music brainの受容パターン)ということは共通であったが、虫の音色に関しては日本人と非日本人で傾向が異なる結果となった、というのが本論の趣旨である。

 

 この結果自体は興味深い指摘であると思われる。もっとも暗黙の前提としているNIRSによる観測結果として「虫の音色を聴く際と言語を聴く場合とで同じパターンでヘモグロビン量が変化したということは、言語と同じ仕組みで脳も働いた」というのが正しいのか、といった点は追試等が必要であるように思える。

 

 しかし、Tsunoda et al.(2016)は例外がかなり多く存在している点にも注目せねばならない。まず奇妙なのは被験者選択においてである。被験者候補70人のうちから「顔や脳の手術を行った等の基準」により、過半数の37名を調査対象から外している点である。なぜこれほど対象外とした者が多くなったのかが気になる(そもそものサンプルが相当偏っている可能性が危惧される)。また、特に「角田理論」との関連で重要なのは、「日本人被験者20名のうち16名が虫の音をlanguage brainで受容し、4名がmusic brainで受容したこと」「非日本人被験者13名のうち、5名がlanguage brainで受容し、8名がmusic brainで受容したこと」という実験結果そのものである。これが「角田理論」に基づくのであれば、基本的には「日本人被験者20名全員が虫の音をlanguage brainで受容し、非日本人被験者13名全員が虫の音をmusic brainで受容した」とならなければおかしいのである。

 このことについて日本人の例外4人のうち2人は「豊富な外国経験がある」と例外処理の説明を行っているものの、非日本人側にも5名も例外がいたことに対する説明は特段触れられていない。少なくともTsunoda et al.(2016)は、「角田理論」にあったような絶対的な日本人論ではなく、相対的な日本人論(弱い仮説)にシフトしないと説明がつかないし、いわゆる「角田理論」を追証した研究として紹介するには、様々な誤解を生むことになるだろう。

 

※1 角田の場合、脳の反応の仕方が左右逆のパターンを結果を示す被験者パターンがいることを示している。つまり、通常左脳の機能を右脳が果たす反面、右脳の機能を左脳が果たすような者が一定数いることを指摘している。このような者を「逆転正常型」と呼んでいるが、議論の簡略化のため、以後の「右耳・左耳有意」の議論では「逆転正常型」のケースは取り扱わないことを前提としたい。

 

※2 直接的なのは、1990年の日本心理学会のシンポジウムで、実際にデータ収集する角田の助手の発言で、角田の方法では有意差を示すことができなったというものがあるが(八田2013,p190)、それ以外の内容では角田実験の批判は別の方法論により否定されているにすぎない。八田が行った検証実験(Hatta and Diamond,1981)も、後述する両耳分離聴テストによるものである。

 但し、角田実験の批判として頻出されるUyehara and Cooper"Hemispheric differences for verbal and non-verbal stimuli in Japanese- and English-speaking subjects assessed by Tsunoda's method."(1980)という論文では(原文を読めていないがhttps://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0093934X80900656の要旨を見る限り)、角田実験の追試として行っているようであり、有意な差は存在しないという結論となっている。

 

※3この点については直近に出ている「日本語人の脳」(2016)においても何ら言及がなされておらず、実験方法の恣意性の問題については特に修正を加えないまま角田はその後も同じ実験を続けていたことになる。

 しかもこの点については、むしろ他の実験者が追試した際にその実験方法自体に問題があるかのように指摘している傾向が強い。八田の著書においても「数年間厳密に外国語の使用を禁じる、情動刺激や薬物使用を取り除くという条件統制」をしないと正しい結果が出ないと主張したとされるが(八田2013、p156)、更に不可解なのは、実験時に「被験者の両足うらは常に床に設置する必要があること」を主張した点だろう(角田2016、p315)。このような条件配慮をしていなかったことが追試で行われなかったことについてそれを方法論的欠陥だと明言しているが(角田2016,p24)、まずもって、この批判は最初の批判の焦点である「スイッチを押す間隔が不規則になった」には何一つ回答を与えず、この批判点に対する改善も見られなかったことは注目しなければならない。また、「両足うらをつけること」についても、その方法論的妥当性については他者に委ねたいと思うが、私が読む限りは「日本人の脳」の特徴と関連性があるとはとても思えず、ただツノダテストにおける「誤差の発生(角田理論に反する結果の発生)」に対する説明のために持ち出したものにしか読み取れなかった。

 

※4角田の実験においても「例外」と呼べる者がいなかった訳ではないが、例えば、例外とされた日本人を「病的偏移型」と名付け、「正常者のうちに数%の頻度でみられる、無自覚性の脳微損傷が疑われる興味ある例」 (p74)とする態度がそもそも適切な見方なのか、私には理解し難い。これも※3で述べたような例外処理の苦肉の説明であるように見えてきてしまう。

 

(2020年6月17日追記)

※5 本文以下の記載については誤りであると考えられるため訂正したい。というのも、ここで争点としようとした「数系列」というのは、「言語」として扱うべきであり、「単独母音」や「単独子音」の範疇には入りえないと断言できるからである。本書p84などに記載があるが、「単独母音」「単独子音」というのは1/20秒~1/13秒という極めて短い時間に出される音であり「言語という認識がもてない」レベルのものとされる。言語認識がもてる音声は角田も日本人と非日本人で脳の違いの相違を認めておらず、「数系列」においてもそれを聴くことで日本人・非日本人で差が出ない。

 したがって、ツノダテストはキムラ法と別の方法として行う理由が乏しいという八田の批判も正しいことになる。

<読書ノート>

P85-86「複合音の認知機構の差を直ちに日本人と西欧人との精神構造の差に結びつけるのは甚だ飛躍した考えと受け取られるかも知れない。しかし感性的な音が無意識のうちに論理・知的な言語半球にとりこまれて音認識をする日本人と、無意識のうちに言語半球から閉め出されて音認識をする西欧人の感覚は明らかに異質のものであり、この差が精神構造にも影響を与える可能性は充分に考慮する価値があると考える。

日本では認識過程をロゴスとパトスに分けるという考え方は、西欧文化に接する迄は遂に生じなかったし、また現在に至っても哲学・論理学は日本人一般には定着していないように思う。日本人にみられる脳の受容機構の特質は、日本人及び日本文化にみられる自然性、情緒性、論理のあいまいさ、また人間関係においてしばしば義理人情が論理に優先することなどの特徴と合致する。西欧人は日本人に較べて論理的であり、感性よりも論理を重んじる態度や自然と対決する姿勢は脳の受容機構のパターンによって説明できそうである。西欧語パターンからは人間や自然を対象とした学問は育ち難く、ものを扱う科学としての物理学・工学により大きな関心が向けられる傾向が生じるのではなかろうか? 明治以来の日本の急速な近代化や戦後の物理・工学における輝かしい貢献に比べて、人間を対象とした科学が育ち難い背景にはこのような日本人の精神構造が大きく影響しているように思える。」

P88「さて、我々日本人は学校及び社会を通じて意図的に西欧文化の吸収に勤めており、その生活様式も著しく西欧化され、文明の余慶を受けていることでは西欧諸国に遜色はない。

しかしながら日本人の意識構造は甚だ画一的であり、かつ極めて異質なものであることは、屢々外国人や日本を離れた日本人によって指摘されているところである。私は日本人の画一性は同一言語で統一されていることに由来し、また日本語母音が有意語であるという特異性が西欧人とは異質な自然音の認知機構と感覚をもたらし、自然に恵まれた日本の風土と相俟って独特な精神構造を作りあげたものと考えたい。」

 

P110「日本人の精神構造や美意識を特徴づける「わび」「さび」などで表わされる情緒性や感覚が、脳の言語音、感性音また自然音処理機構の特性として捕え得るものであるならば、日本の伝統音楽は日本人の美意識に適合した形に作られて発達してきたものに違いないし、現代の日本人もまた日本の伝統的な音楽の感覚を身につけている筈である。」

P139「ところで、非言語脳で処理される音は西洋楽器の音、それから純音、雑音などのいわゆる物そのもの、マテリアルのようなものになってしまうのですね。だから、日本人の脳は「心」と「物」というふうな形に分かれるのだろうと思います。

西洋人の場合には、自分の感性も含めた自然界全体と、理性的なものとを峻別している。ですから彼らは言葉を受けもつ左半球の方を主体的に働かせて、自然界の音・虫の声を雑音と同様右半球で処理するわけですからこれらを客体化できるわけです。」

 

P292「日本語の母音の優位性が極めて特殊なものであることはこれまで説明してきたが、日本の近隣諸国に日本語型と同型の言語はないものであろうか? ヨーロッパ系の人々と西欧語圏で生育した日系二・三世は日本語と全く異なった母音の優位性を示すことが知られている。その後、朝鮮語、中国語(広東、台湾)、東南アジアの一部の人々についても優位性を測定する機会があったが、彼らは西欧語パターンを示していて、母音の優位性という観点からみると日本語とは全く異質の言語と考えられた。日本とは文化的に深い関係にあり、言語学的にもアルタイ語系として最も近いといわれる朝鮮語が完全な西欧語型を示すことがわかったことから、日本より北方の言語については日本語型を見出すことの可能性が稀薄であると考えられた。

ポリネシア語の母音の音韻構造が日本語に酷似していることから、以前から検査をする機会をねらっていたが仲々果たせないでいた。」

 

P360-361「創造性の研究というと、日本では多くの外国の著者の引用・紹介・まとめが主な作業となることが多いが、こういう文献を莵集するという作業そのものが既に創造性を無視していることになるから、せいかく、且つ客観的な研究状況の紹介や批判になり得ても、著者の主体性が失われてしまう。しかも現代のように情報過多の時代には、世界中の膨大な研究論文を読破してまとめるということが、既に個人の能力では不可能な作業となってしまった。情報の過多は情報の欠乏にも通じるのである。

さて日本人が過去に行なった創造活動の最も活発であった時期は、日本及び日本人が、周辺諸国と隔絶して、文化の交流が絶たれ、日本人が模倣という精神活動から一時全くつき放された時期、すなわち十七世紀から十九世紀にかけての鎖国時代ではなかったろうか。現代日本の伝統とされている主として芸術の面の大部分は、実は、徳川時代のこのゆるやかな醸酵期間に形成されたものであったといわれる。明治以後の日本及び日本人は、短い第二次大戦中を除いては欧米の影響をまともに受けてきたが、この一世紀以上の間に日本人の頭脳で創造し得た文化の所産となると甚だ乏しいのに愕然とする。我々、日本人はこの一世紀の間に、あるときは過去の日本の土着のあらゆる文化を否定してまでも西洋の文明を受け入れてきた。そして現在の自然・人文科学の領域において、学習に費やされる知識の源泉は、殆どが西欧由来の文化や技術であり、我々はこの西欧化・近代化を進める上の理想像としては、西欧人の理性になり切って自然や事物を考えるという観点に立つことを画いてきたのである。

しかしこのような観点に立ち得たとすれば、それは完全に西欧人の窓枠で物を考えるということにほかならない。他の文化圏を観察し、自然を認識する窓枠は日本人である限り、日本的窓枠から抜け出て西欧の窓枠に組み変えることででき難いのではなかろうか? そしてこのような借りものの窓枠で自然認識を続ける限り、日本人の頭脳で考えた日本的独創というものは決して生れてこないのではなかろうか?」

※一種の日本人論批判。

 

P364-365「心の病気を扱かう精神科領域での日本的独創といわれる森田学説のような神経症理論は西欧的思考法からは生れ難い特徴をもっているし、最近では土居氏の甘え理論は日本人の本質に迫った研究であるが、著者のあげた日本的窓枠とも暗合している。この甘え理論の着想は、患者との面接で、彼らがどういう言葉で自分の状態を訴えるかに注目し、またそれをどう記載することが日本語として正確かという点に心を砕いたことから生れたという。日本の医者が従来行なってきた、病状を限られたドイツ語で記載し、表現できぬものは切り棄てるという、西欧の教科書をモデル化して、日本人の診療に当てはめるという態度は病態を正しく認識する方法ではない。土居氏の着想は日本語で記載し、日本語で物を考えることを徹底して続ける過程からはじめて生れたのである。」

 

P375「創造活動にとって大切なのは、右の非言語脳の働きを妨げないことにあるから、我々が読書・討議・計算・講義をきくなどの左脳の活動をしているときに、論理過程を通して良い発想法が生れるものではない。読書にしても一気に読み切るというよりは、新しい知識を得たときに、一旦本を離れて、両脳を働かせて本の内容以上に考えを発展させるということを教えられなくてもやることが習慣になっている人がいる。こういう時に、言葉の左脳の働きから、両脳の働きにスイッチ機構がすぐに戻る脳を持った人は創造のための機会を多くつかむことができることになる。」

P378「日本人は古くから心を重んじてきたが、現代は心を忘れて物に関心が向けられている時代である。逆に、西欧人は理性中心の態度を反省して、東洋の思想に目を向けはじめている。この東洋の思想というのも実は、日本人の脳のメカニズムのうちに、日本人の文化の窓枠として、日本語が続く限り、宿命として、仕組まれているのである。

西欧文明の危機が叫ばれているが、それは西欧人の窓枠を通しては、新しい時代に即した創造が生れ得ない苦悩の表明ではあるまいか。数ある文明国のなかで、異質の、しかもまだ充分に創造性の発揮されていない文化の窓枠をもつのは、実は日本以外にはないのである。……

筆者は日本人が、日本人の窓枠の異質性にめざめて、借りものでない自分の頭で考え抜くときにはじめて日本人の独創性が発揮され、その所産は世界の文化に貢献できる可能性のあることを信じたい。」

 

黒崎勲「教育の政治経済学」(2000)

 今回から新しいテーマで継続的にレビューを行いたい。私自身が丁度学生時代に研究対象としていた分野にも関連するが、90年代から00年代の教育改革をめぐる議論を読み解いていく。

 その中で特に注目していきたいのは、教員組織の自律性、『改善』の意志を持った「専門性」をめぐる議論と、80年代以降、『改善』の要求を強調するようになった「日本人論」というのがどのようにこの改革をめぐる議論に位置づけられていたのか、という点である。両者の共通点である『改善』の視点と密接に関わる形で、教育改革をめぐる議論においても、まさに何を『改善』するのかという点が争われたものといえると思う。これまで「専門性」と「日本人論」の文脈について考察してきたことも踏まえ検討してみたいと感じたので、しばらく取り上げてみることにした。

 

 この『改善』の議論を読み解く上でまず押さえておきたいのは、

  1. 実態(教育の現状)をどう捉えているのか
  2. その実態の何が問題か
  3. その問題を改善するためにどのような方法により解決するのか

 という、3つの問いのセットである。これを『改善言説の枠組み』と呼びたい(以下、『枠組み』と呼ぶ)。この枠組みが十分に焦点化されているかというのがまずもって重要であり、この三つのどれかが欠けると、その改善言説は有効性を欠いたり、虚構を語っているのと同じになりかねない。基本的に教育改革をめぐる議論の検討においては、この視点からどう語られているかを検証していくことにしたい。

 

 

 初回は黒崎勲を取り上げる。黒崎は世識書房の「教育学年報」上で藤田秀典と「学校選択制度」を中心にした論争を行ったことで知られているが、論争から出てくる論点は当時の教育改革をめぐる議論の導入としてはそれなりに適切であると言えるだろう。

 

 

○黒崎と藤田の『改善言説の枠組み』について

 

 まず、本書の黒崎の議論からわかるのは、『枠組み』(1)に関して、行政改革委員会のような、政府系の組織における現状認識をほぼ全面的に追随しているということである。このような議論はすでに中野雅至のレビューでみた「公務員バッシング」言説のような中央省庁批判・つまり「統制的」な政策を行ってきた文部省への批判や、「学校で学ぶことは役に立たない」といった議論に見られる官僚制批判の文脈を大きく依存していたといえる。黒崎が学校選択制度をはじめとした議論で「学校の自律性」を強調するのは、このような官僚制への批判として、p105のような前提に立っているからであり、「国=上からの」教育政策の硬直性が認められると考えるからこそ、「学校単位=下からの」教育政策が重要であると殊更強調したのである。更に「専門的官僚制と職業的教育者による教育行財政制度の独占についての弊害」(p93)、「専門職の独善と学校の閉鎖性」(p137)といった主張などからも、当時の行財政改革の言説で語られていた『枠組み』(1)の問題意識と基本的に区別できない立場に黒崎はあると言ってよいだろう。更に教育の専門性批判の文脈から、国民の教育権論への批判意識も相当強く、p151-152のような見方もこの『改善』に対し正当性がある根拠とみているのである。

 

 この「専門性」をめぐる国民の教育権論への批判などは私自身も「恵那の教育」の議論で実証的に示そうとしている通り問題含みなのは確かである。更に、黒崎は堀尾輝久のような国民の教育権論者を批判するのと同様に、p147にあるように藤田の議論においても具体的な『改善』に関する議論に乏しいことを批判している。しかし、ここでは藤田の言い分も聞かねばならない。これまで「日本人論」の議論の曖昧さの中でも議論してきたように(※1)、教育改革の原動力であるネオリベ勢力における日本人論をベースにした改善言説というのも正しいのかどうかという議論は当然ありえるように思える。この事実を極端に歪めて議論していたのが千石保であったが、千石は「教育病理」問題について特に飛躍した解釈を行った結果、事実を歪め日本の教育について改善を行うべきであるかのような主張を行った(千石保のレビュー参照)。これはネオリベ言説が支持した「日本人論」においても同じ前提を共有しており、多かれ少なかれ、議論の飛躍を行っている場合も多いことを示唆する。そして、黒崎もこの前提を追随しているため、藤田はこの観点をまさに批判している傾向が認められるのである(※2)。

 藤田の議論は前提として「日本の教育は(少なくともネオリベ勢力が言う程には)悪くない」し、むしろ事実誤認に基づいた改善を行おうとしている点で害悪であるというのが学校選択制批判においても主要な見方である。だからこそ、藤田はしばしば海外の教育改革の動向と日本の動向を比較し、日本の動向はその動きと反対であるかのような状況を批判する(cf.藤田「市民社会と教育」2000,p5~7)。なぜなら、日本はむしろ世界から注目された教育を行ってきたからであり、その模範となってきた方策を海外が倣っているものとみているからである。

 

 さて、藤田は学校選択制についてどうみているか。藤田の著書「教育改革」(1997)では冒頭で学校選択制をめぐって「うわさ」が必要以上の影響を与え、それが学校の「共同性」を不必要に破壊することを強く非難している(cf.藤田1997,pi~vi)。学校の教育においては信頼関係、共同性により「よい教育」がなされるものだという前提があり、「学校選択制」はその基盤を突き崩す要素しかもたず、保護者を学校教育への参加者ではなく、消費者にしてしまう。また、教員や学校に対する評価も根本的に黒崎とは相違しており、基本的に否定的ではない(少なくとも、ネオリベ言説が言うような問題はないということを確信している)。黒崎は藤田の議論に対し「改善策がない」ことを非難しているものの(p147)、これはある意味で『枠組み』の(2)が問題に値しないという認識であることから藤田が(3)の視点に(少なくとも相対的に)乏しくなっているのは当然なのである。藤田と黒崎の議論の相違において最も顕著なのは、この『枠組み』の(特に(1)の)ズレにあるといってよい。

 正直な所、この『枠組み』の(1)の論点に限れば、黒崎の方が説明に乏しいと言うべきではないかと思う。確かに両者の議論は「社会問題」に振り回されすぎていると言わねばならないほど、実態把握の議論に乏しい。特に黒崎はこの議論を「一般大衆」が『改善』を望んでいることを根拠に『改善』を要求する。このこと自体も検討しなければならないがそれほど誤りであるとは言い難い(※3)。しかし、これは『枠組み』との関連で言えば、著しく妥当性を欠いている。恐らく藤田もこのような黒崎のスタンス自体承服しかねるという理由でも、黒崎の批判に執拗にならざるをえないと言えるだろう。

 しかし、他方で黒崎が藤田批判の焦点としている『改善』への視点の欠落という点も無視することはできない。藤田の『改善』に対する視点というのは今後のレビューの課題とするが、藤田自身も過去の日本の教育全てが正しいと考えている訳ではない。しかし、何を問題をし、何を改善すればよいと考えているのかよくわからないという黒崎の言い分はそれなりに正しいように思える。藤田は恐らくは「国民の教育権論」の一派であるとは言い難く、それなりに擁護の余地もあるように思えるが、やはり『改善』に対する視点について「国民の教育権論」と同様のレベルではないといえる程の議論を行っているとは言い難いのではなかろうか。

 

○守られるべき「共同性」とは一体何なのか?

 

 学校選択制をめぐる議論の焦点の一つとして教育における「共同性」が挙げられる訳だが、これをどう考えればよいのかは黒崎がこの「共同性」について空想的に過ぎると言っている(cf.黒崎「教育行政学」1999,p49)点からも検討せねばならない点である。

 この点について、藤田の論点は2つあるように思える。一つは、素朴な「地域性」についてである。

 

「この<面>としての生活圏が重要なのは、それこそがリアルな日常生活の基盤だからである。親子であれ、仲間であれ、顔見知りの人であれ、あるいは見知らぬ人であれ、多様な他者と出会い、さまざまの関係を築き上げ、その関係のなかで喜んだり悲しんだり、思い悩んだり葛藤したり、反目・対立したり、協力し合ったりしながら生きていく、その基盤である。好きか嫌いか、好みに合うかどうかに関わりなく、対面的で包括的・多面的な関係に組み込んでいく、その基盤である。」(藤田2000、p15)

 

 そして、このことを根拠に藤田はもう一つの論点である「共生のための受容」を強調する。

「確かに現行の通学区域制の下では、学校・教師を選ぶ自由は正当な理由がないかぎり認められないことになっている。それは紛れもない事実である。しかし、この<選ぶ自由がない>という事実と、<生まれた家庭、生まれた階層、生まれた国は選べない>という事実の、どちらを優先するのかということは、私たちの社会がいま突き付けられている実に重い問題である。前者の事実を重視して、そのなかで前者の事実に起因する問題や不満の解決を図るのか、これは私たちの良識と英知が問われ試されている重大な問題である。」(藤田2000、p11)

 「この「共生」という価値は“選ぶ”という行為によってではなくて、“受け入れる”という行為、“関わる”という行為によって実現されるものである」(藤田1997、pviii)であるために、ここでは「選択をさせない」ことを強いることの価値を支持するのである。

 

 しかし、まず「地域性」の議論に限っていえば、なぜすでに「選択制」が実現している私立学校に対して「学校選択」を非難しないのかが理解できない。藤田の理屈であれば、私立学校もまた排除されるべきものであり、いくらそれを尊重するとしても、一定の地域の限定を定める主張はされてよいのではないのだろうか。少なくとも、私立中学校の選択をさせる場合においても、次のような主張は全く同じ論理になるはずである。

 

「どの中学に行くかを選ぶことができるということは、裏返していえば、どの中学に行くかを選ばなければならないということである。選択の自由があるということは、一般論としては好ましいことに思われるかもしれないが、小学生がどの中学が自分にとって好ましいかを判断することは、けっして容易なことではない。学校の選択は、お菓子やおもちゃを買う場合とは、わけが違う。……

 この選択が重要なものであればあるほど、そこに内包される問題も重要なものになる。まず、そのような重要な選択を小学生が自分の判断でできるとは考えにくい。むろん、できる子どももいるであろうが、たいていの子どもは親の好みや判断に左右されることになろう。そうなると、教育機関の階層差が中学段階から具体化することになる。現に私立や国立の小中学校で見られるような親の経済力の差や文化的好みの差が、公立中学校でも起こることになる。」(藤田1997、p85)

 

 しかし藤田が行った膨大な学校選択制度批判の議論においては、管見の限りこの論点について全く触れようとしない。正直な所何か私立学校と癒着関係があるのではないかと疑ってしまう位、棚に上げてしまっている。黒崎も指摘するように、「公立学校不信」と呼ばれる現象の一つは、小尾乕雄のレビューでもみたように学力上位層の私立学校への逃避というもので語られたり、また私立に通う保護者の不満が語られることで可視化されてきたはずである。にも関わらず、なぜ藤田は公立学校の選択に限りコテンパンに批判し、私立学校の選択は無視してしまうのだろう?

 この理由については、学生時代の私にはどうしても不可解であったが、「新自由主義的教育批判」という文脈でこれは考えるべきことなのだろうと思う。藤田の具体的な教育政策批判の一つに「週休二日制」の導入が挙げられる。この導入は藤田が「文明論的議論」と呼ぶ日本人論的文脈の影響を受けたものとして捉えていた(藤田1997,p138)。さて、ここで「文明論的」とは何を指すのか。藤田は「文明論的」と「文化論的」という用法を分け、次のように説明する。

 

「学校週五日制の導入をはじめ昨今の改革動向とその支持論は、文明論的ストーリーに与している。しかも、以上に述べたように文明論的ストーリーには種々の疑問があるにもかかわらず、いまやそれが自明視され規範化され始めている。なぜなら、文明論的解釈は変化の方向を理念化し、改革の意図と結果を等置してしまうからである。また、文明論的ストーリーのまえでは、文化論的ストーリーは保守的なものと見なされがちだからである。しかし重要なことは、文化論的ストーリーと文明論的ストーリーとの交点で諸改案の功罪を検討し、適切な改革を進めることである。そして、その際、学校教育の改革、とくに学校週五日制や公立中高一貫制といった制度改革は、一方で教育の効率性・生産性や公平性・平等性に関わる問題であり、もう一方で、青少年の生活と成長をどのように枠づけ、編成するかに関わる問題だということを忘れてはならない。それは、青少年の生活と成長に対して社会がどのように責任をひき受けるかという問題なのである。」(藤田1997,p152-153)

 

 一言でまとめれば、文明論的ストーリーおいては、「文明としてのイエ社会」で言う「単系的発展論」、つまりあるべき「近代」の型は一つであり、それ(欧米)に追随することこそ正しいと捉える文化論の視点を想定している。一方で「文化論的」という表現は文化相対主義的な見方でその優劣にこだわらない態度を指しているといえる。結局、週休二日制の議論を始め、学校選択制など、藤田が批判を行う教育改革における政策というのは明らかに「教育」の外部から語られている議論であり、それは教育の内部から問題意識が与えられることのないまま『改善』を要求されているものと位置付けているのである。確かに週休二日制に限れば、外的な影響がかなり強かったと言え、正しいということもできる。

 しかし、学校選択制については少々事情が異なる。学校選択制の遠因となっているといえる「私立中学校の選択」と相対的な公立学校の学校不信の動きというのは、学校選択制のかなり以前からあったものだし、下手をすると小尾通達の出た60年代末まで遡ることのできる議論である可能性を否定できない。つまり、この議論というのは「新自由主義的政策」とは別の文脈から問題が出てきている可能性があるし、この不信感というのは極めて全うな「教育内部」からの訴えであるということもできるのではないのだろうか(※4)。

 

 更に、藤田の主張をみていると、学校選択制を導入しないことで守るべき「地域性」というのは、「共生」の文脈でいえばむしろ無視してさえよいと言えるようにも見える。藤田は結局学校内にいる者の多様性を何よりも強調しているため、「地域性」という文脈は必ずしも必要ないのである。むしろ素朴に教育の支持基盤の一つとして、「地域」を強調しているにすぎないのであり、学校選択はその支持者(信頼)を失うことにしかならないという観点から批判していると言えるように思う。

 藤田のいう「受容」という視点は、一見「共生」という観点からいえば一理あるように聞こえるかもしれない。しかしそれは必ずしも「共生」に関する「受容」に留まるとは限らないし、藤田の議論の趣旨からはどうも多くの意味が含まれているように聞こえてならない。つまり、「多少の不満」のようなものもそれが学校運営に参加する活力になる『可能性』になるから強要しろ、とでも言いたいような雰囲気を感じることもある。しかし、翻ってこのような可能性を実現するためには、現状の学校教育がこのような『可能性』に開かれているのか、教育専門家による官僚制下においては、そのような『可能性』に閉じており、生産的な議論になりえないのではないのか、という素朴な疑問も提出しなければならないだろう。例えば、都内の私立進学率の高さは学力問題に限らず、より広い意味で「地域の公立小学校に安心して託すことのできる状況にない」ことが理由にあると捉えていること(黒崎「教育行政学」1999、p115)はそこまでずれた発想とは言い難い。この「安心して託すことのできない」状況は90年代後半当時で少なく見積っても20年近く続いていたはずである。にも関わらずそれが改善できないのは何故か、教育の専門家はそのことに対し本気で考えてきたのかと言われると、国民の教育権論がそうであったように、具体的な政策の議論を、特にその制度的な改変に関する議論を怠ってきたからではないのか、と言われても仕方がないように思える。特に標準化にこだわり続ける態度からはこのような問題解決を積極的に行う姿勢が乏しくなるのではないのかということが、黒崎の問題意識の主たるものなのであり、これについても、「ネオリベ言説を追随しすぎている」といくら言ってみても、一定の正当性が認められるように私には思えてしまうのである。

 

○「学校選択制度」はそれ単独で語ることができるのか?―「自治体行政」の着目について

 

 学校選択制度の弊害というのは黒崎も承知の上で、二つの議論があることを強調する(p96-97)。黒崎の議論は「改善」ありきであり、「創造的、革新的実験のチャンスの保障」を行うのであれば、学校選択制度はなくてはならないとみることで、その弊害の議論とは分けて考えるべきだとする。標準化に向かわない(官僚化を否定する)教育実践はその自律性に加えp112で指摘されるようなリスクや、平たく言えば「好みの問題」といった議論も生まざるを得ない。そのような教育における「好みの問題」のレベルの議論はむしろ学校選択制度でないと行えないのではないのか、と黒崎は考えている。逆にそのような枠組みがなければ、公立学校では標準的な取り組みしか行うことができず、「独創性」ははじめから否定されなければならないからである。

 このような視点からも、黒崎は暗に学校選択制度はそれ単体として機能するものではなく、その理念や複数の制度的枠組みを前提にし、その枠組みの一つとして学校選択制度は「担保されなければならないもの」として位置付けている節もあるといえる。

 しかし、藤田の場合、管見の限り、「新自由主義的政策」の一環として学校選択制度を位置づけるものの、黒崎の視点とは明らかに異なり、これを一つの独立した制度であると前提し、これを批判する態度が一貫していた。そこには複合的な制度としての一つである学校選択制度という視点には極めて乏しい状況にあった。

 これに関連して藤田の議論の問題は、この「学校選択制度」は無条件に批判されるべき性質のものであるため、その現場での運用がいかに行われていたのかという視点も欠き、この制度が「改善」に寄与した形で個々の自治体で運用されているのかという視点も全否定したことであった。正直な所、このような態度の取り方こそ「改善」のための可能性を閉ざす類の「官僚化」の産物であるようにさえ私には思える。「学校選択制度」のデメリットをどのように活用し、「改善」を促すのかといった生産的な問いをあらかじめ否定しまうため、実際にこれを運用していた自治体に対する評価さえまともにしなかったということである。藤田も学校選択制度を支持するかしないかというのは支持すべき価値観の程度問題であると言う(cf.藤田1997,p3)。しかしこの価値観というのは、行政の複合的な政策の如何で教育全体としてはある程度その重きなどをコントロールできる可能性もある。例えば、学校選択制度批判の主たるものの一つである「序列化(入学者数の減)」などについては、そのような支持されない学校は『改善』の必要性があるという理由で、「力のある校長」を入れたり、相応の教育的なリソースを導入するといった人事的・財政的政策を行うことは公立学校の平等性確保という意味では正当性が確保される見方であり、そのような対応を通じて公立学校全体の底上げをすることは可能なのではないのか。しかし藤田にはこのような目線はなく、学校選択制度の是非について先回りして批判をしてしまう。これも結局藤田が批判する「外からの(ないし上からの)」教育改革のアクターの動きからしか政策を評価せず、実際の制度改革の主体となりうる「内からの(ないし下からの)」アクターとしての自治体への視点の欠落があるのではなかろうか?この「内からの」という視点は、学校現場との関係性で言えば自治体の位置付けは微妙なものとなるという点からも、役割について軽視しているように見えてしまうのである。

 

 逆に言えば、このような自治体に対する「評価」なしに何故これまでの教育に対してまでどうこう言うことができるのか、という疑問さえ出てくる。教育実践の「地域性」の重視、現場の重視などを行いたいのであれば、『改善の分析枠組み』は自ずとケース事例に注目されねばならなくなるはずなのだが、それさえも行わないこと、そしてそのような議論が正当化されている教育の言説そのものに疑義を提出することさえできてしまうのではないだろうか?これが如何にして可能となるのか、藤田がどう考えていたのか(もしくは考えていなかったのか)については、今後、藤田の議論を読み解きながら検討していきたい。

 

 

 

※1 もっともこの曖昧さの議論は、80年代以降の「改善言説」を主とした日本人論の検証としてではなく、それ以前の日本人論固有の問題として捉えてきたところであるため、ある意味80年代以降の言説の正当性についてはまだ私自身も検証を行っている訳ではない。ただし、そのような語弊の多さというのは、80年代以降の議論においてもそれなりに有効であるように思えるし、そうであれば『枠組み』の(1)や(2)についてどのように語られ、それが正しいと言えるのか、という検証は行われてしかるべきだろう。

 

※2 例えば、中高一貫校の導入の是非について藤田が批判をする際、「西欧諸国では中等教育が六年制で行われているからといって、日本でもそうしようというのは「隣の芝生はよく見える」というたぐいの印象論のレベルで教育改革を進めようとするものであり、無責任もはなはだしいといわざるをえない。」といった言い方がされる(藤田「教育改革」1997、p86-87)。ここでは、端的に『改善』の必要性について「安直すぎる発想」というニュアンスが強く含まれている。これは、「改革の気分」という言い方をする次のような指摘からも言える。

 

「この「改革の気分」はゆがんでいないだろうか。こうした「問題」のとらえ方に問題はないのだろうか。そこで提案され、進められている改革や対策は本当に「問題状況」を改善することになるのだろうか。

 これまで見てきたように、改革推進論を支配している問題のとらえ方はきわめて一面的であり、進められようとしている改革や対策には矛盾が多く、種々の重大な問題が見過ごされており、さらには、この「改革の気分」は全体主義的な傾向をもち始めている。右に列挙した問題が重要で、なんらかの対応が必要だということはいうまでもないが、改革至上主義的な時代の気分とそのなかで提案され進められている主要な改革は、日本の教育社会と学校のあり方を根本的に変えていく可能性、しかも見方によっては、極めて好ましくない方向に変えていく可能性をやどしている。」(藤田1997、p173-174)

 

※3 例えば児美川考一郎「新自由主義と教育改革」(2000)で指摘されているように、各種メディアで世論調査が行われる中で、「学校不信」(読売新聞社「学校教育に関する意識調査」1998年4月実施)や「学校選択制の支持」(毎日新聞社、1998年12月20日世論調査)というのは、国民の意志として表明されている(児美川2000,p78-81)。

 

(2020年9月1日追記)

※4 例えば、藤田武志は1950年代の東京における私立、国立中学への入学、及び学区域を越えた「越境入学」が相当数あったことからすでに中学校が「選ばれる」ことのまなざしが一定の圧力として機能していたことを示唆している(藤田武志「受験体制の生成に関する社会学的考察」藤田英典ら編『教育学年報7 ジェンダーと教育』1999、p497-524)。これもまた、「ネオリベ勢力」とは関係のない形での学校選択を支持した系譜の一つとして位置付けることも可能だろう。

 

<読書ノート>

P10「日本において現在進行中の教育改革は、一九六〇年代以降四半世紀にわたって確立、定着してきた教育改革政策の構造を著しく変容させるものとなっている。このような構造的な変容を遂げつつある時代の教育理論の役割は、そのような教育改革の動向を観察し、評価することに留まらず、これにかかわるさまざまな関係者のそれぞれの目的意識的な実践の可能性を拡大するために、主体的、能動的にこれに関与するところにあろう。いいかえれば、教育を単に現象として対象化するというよりも、目的意識的な営みとして教育に接近するところに教育学理論本来の特性があるというのは、本書の方法的態度である。」

P13「こうして一九七一年中教審答申に集大成された教育改革政策の構図は、教育を経済的要請に即応させるものであり、国家的な長期教育計画として、国家の機関が、すなわち文部行政が教育改革を実施するという特徴を備えるものとなった。現在進行中の分権化と選択を基調とする新しい教育改革政策は、こうした従来の教育改革の構図を否定するものである。この教育改革政策の構図を根本的に変容させたのは臨時教育審議会の改革提言であり、第一四期中教審における審議経過報告であった。」

※「臨時教育審議会における教育の自由化の提言は、教育は市場における公正な競争原理を通してのみ、高度な知識と技術が集約され多様化された社会を特徴づけられる二一世紀の情報化社会に適応した活性化された姿に保たれうると主張し、教育改革を国家的長期計画として実行することを否定するものであった。」(p13)。また、46答申では「また、この教育の改革と拡充整備は国家的に巨大な資源を必要とするが、わが国の今後における社会の経済発展の見通しを考慮すれば、けっして実現困難なものではなく、それを実行できるかどうかは、もっぱら政府の決意と努力のいかんにかかっている」と述べられた(p13)。

 

P16「たしかに、わが国の新しい教育政策においても、競争の価値が強調され、学校教育の活動をビジネス界の用語によって説明し、正当化するという傾向は強固で、明瞭なものである。しかし、教育を商品化し、市場経済の論理によって教育制度の運営を語るという新しい教育政策の動向は、わが国の教育をこと改めて経済的目的に従属させるものではない。逆に、学校教育を社会的要請に応ずるとの観点から多様化し、経済的人材需要に適応させてきた従来の教育政策からの転換の基調として、分権化と選択の理念が語られているということも、確かなことなのである。すでに述べたように第一四期中教審答申が、経済的に非効率になっても教育的な意味で効率的であることを述べて、それまでの教育政策を反省してみせたことの意義は小さいものではない。」

※この議論は常に「意図せざる効果」をめぐる議論でもあり(※体制批判言説はある意味「意図した効果」を全否定し語られないことへの強調の繰り返しである)、政策提言だけでなく、エビデンスもないとその「期待される(予想される)効果」の議論はできないはず。ある意味でそれが示せていないことが黒崎の弱い点。

P20ジェフ・ウィッティ(1998)の引用…「特定の類型のコモンエデュケーションを選好する社会民主主義的アプローチはすでに正統性を失っており、増大する専門性と社会的多様性に応える方途を発見する必要がある。しかしながら、左派は、我々がこれまで研究者として、社会的不平等を再生産し、正当化してきたと批判の対象とした教育とは根本的に異なるような公教育の概念を発展させる努力をほとんどしていない。」

※これに対し「わが国の教育改革論議においても同質の問題点を見いだすことができるといえよう。」と述べる(p20)。

 

P37ハイエクの引用…「(個人主義に対する通常の誤解のうちでも一番馬鹿げた)誤解は、個人主義は社会の中に存在することによってその全体の本質と性格が定められている人間から出発するものではなく、孤立した個人、または自足的な個人の存在を前提にしている(もしくは、このような想定に議論の基礎を置いている)という確信のことである。」

※「ハイエク全集3 個人主義と経済秩序」p8-9。

 

P92「教育の民営化については、資本による利潤追求の試みであると理解するステレオタイプがある。……藤田は、市場経済における商品の流通・交換に働く原理を選択の理念と名付け、選択が民主主義社会における基本理念であることを承認するが、しかし、こと学校については、「教育政策が公論の対象として論じられ選択される公共の場を提供し、もう一方で、公共の営みとしての教育実践が展開する公共の場、教育実践に直接・間接にかかわる人びとが出会い、相互交流する場」でなくてはならないというのである。ここにはいわゆる市場原理が資本主義経済の論理を体現するものであり、資本による私的利潤の追求に対しては社会の公共性を擁護するための対抗原理を必要とするという藤田の資本主義社会についての理解が存在している。」

☆P93「堀尾の議論にも藤田の議論にも、共通して市場経済あるいは市場原理を資本主義経済の実質と観念し、現代的人権としての教育を受ける権利の保障は市場原理を否定する制度を不可避的に媒介にしなければならないという「確信」が存在する。教育に対する公共的な関心からの規制を緩和し、あるいは廃止しようとする教育の民営化政策は現代的人権としての教育を受ける権利に逆行するものということになる。しかし、そこには現代社会における教育を受ける権利を保障する公教育制度が内包する専門的官僚制と職業的教育者による教育行財政制度の独占についての弊害を批判し、これに対して改革を試みる能動的なアプローチを見いだすことは出来ない。」

 

P93-94「しかし、(※人権の理念が市場の等価交換関係の一般化に対応する歴史的な観念であるという)マルクスの定式にも別の問題が存在している。人権概念の概念的土台となる市場の等価交換関係が資本主義経済の実質と重なるとする定式からは、人権概念は資本主義社会の支配関係を覆い隠すイデオロギーに過ぎないとの結論が導きだされることになるからである。」

※「堀尾輝久は人権概念を純粋培養型資本主義に照応する社会思想と規定した」(p94)ものの、結局は「人権としての教育と市場原理による教育の民営化はメダルの両面なのであり、これを相互に対立させ、人権としての教育の価値理念によって教育の民営化に対抗することは、観念上の希求としては理解できても、論理的には混乱以外の何ものでもない」(p93)。要するに市場主義批判のために擁護する人権概念はそもそも市場主義(の源泉である資本主義)の産物でしかない、ということである。この見方もある意味では正しいという他ないが、他方で決定的な議論と言い難い。結局は「よい教育」に寄与できるのはどちらかなのかに基本的に還元される問題であり、それは理念としてバラバラな堀尾、藤田的な理解による人権擁護でも一応問題はないからである。

民主主義的な価値観により、「皆で決めなければならない」の支配を受けている可能性も高い。この意味では、「よい教育」云々のレベルでもともと議論を行なっていないこと自体が問題とも読めるか。

 

☆p96-97「こうして学校選択の自由を強調する議論は、二つに分かれることになる。学校選択の推進論の中のこの二つの論拠の違いについて、十分に注意が必要である。「保護者の意向、選択、評価を通じて」学校教育活動の多様性と適切性を確保するという前者の考え方は、教育制度にいわゆる市場原理を導入すれば、自由な競争によって学校は自ずと改革されるという信念に立っている。しかし、これは、あまりに単純な議論であり、起こりうる弊害についての慎重な考察に欠けている。公立高校においては現に「学校が選ばれる」制度になっているが、実際には、学校は序列化され、生徒が学校に選別されているのであり、その弊害は様々に語られているところである。

 ウィッティが指摘するように、単純な市場原理による学校選択制度は「混乱」をもたらすだけのものであり、あるいは「持てるもの」と「持たざるもの」との格差を広げる結果をもたらすとの批判、あるいは、公共精神を衰退させるとの批判もまた広く行き渡ったものである。市場原理を万能視する学校選択についての提言には、専門家の深い経験と理論に媒介されなければ到底成功は覚束ない教育活動の営みの実際的な過程に対する十分な考察がない。

 これに対して、後者の学校選択の意義の提唱は、公立学校制度の伝統的規範に縛られて公立学校の改革を妨げている教育行政の官僚化を打破し、個々の学校の改革の努力を導きだすためには、学校選択制度が必要であると説くものである。公立学校制度に創造的、革新的実験のチャンスを保障するために学校選択制度の必要を提唱する論者は、単純な市場原理の導入という乱暴な理念によるのではなく、学校をめぐる意思決定過程に「抑制と均衡の原理」を導入して、学校を教育行政の官僚主義からも、専門家の専門職主義による閉鎖性からも解放させ、教職員、教育行政当局、親、子ども、地域コミュニティの市民といったさまざまな関係者の力と働きを再結合する場として学校を再構築することを目指しているのである。学校選択制度の導入は、意欲あふれる教職員に対して「公立学校であるから」といって現状改革を妨げられることのない状況をつくりだす。他方で、学校選択制度が存在すること、そして現に選択による実験的な学校が存在するという事態は、教育行政の当局者および学校関係者に問題を抱えたまま現状を放置することを許さない環境をつくりあげるのである。」

 

P100「教育の民営化は公教育の解体ではない。もともとアルチュセールの国家イデオロギー装置についての研究に従えば、公私の区分は再生産の営みにとっては本質的な意義をもたない。その国家およびイデオロギー論の核心は、私的な機関もまた、公的な機関とならんで、社会の再生産の営みを担い、国家イデオロギー装置としての機能を果たすという点にあったからである。」

P100「教育の民営化を理念とする新しい教育政策の動向は、ハイエクの政治経済学に強い影響を受けるものであったとされる。しかし、すでに検討したように、ハイエクの社会理論には公教育の縮小=解体などと把握される以上の、近代社会の本質的理解にかかわる重要な問題提起があった。そこでは、人間理性を積極的に限界づけることによって、近代合理性の内面的抑圧から人間の自由を回復させる自覚的な志向が含まれていた。これに対して、現在進行しつつある教育の民営化政策の動向には、こうした積極的な理論的考察を見いだすことができない。それはハイエクの政治経済学に刺激を受けるものとの通説的理解にも拘わらず、ハイエクの社会理論および道徳理論の有する本質的、発展的側面を自覚的な課題として追求しようとするものではないのである。」

 

P105「行政改革地方自治が最大の政治課題として党派を超えた議題となっているのは、国家および地方公共団体の行政活動の適切性と効率性が疑われ、そのことを通して法的規制あるいは行政指導の正統性が根本的に問われるところにまで、日本の社会諸制度が行き詰まっているとの状況認識を背景としている。膨大な財政赤字の累積という事態一つとっても、そうした認識が架空のものでないことは明らかである。こうした事態に対処し得ず、既存の制度と手続にのみ安住するかに見える政治およぶ行政に対する国民の目もこれまでになく厳しいものとなっている。

こうした文脈において見るとき、教育行政についてもまた、規制緩和が叫ばれるのは当然のことである。」

P107「筆者はさきに規制緩和小委員会で意見を述べる機会があった。その場で看取し得た委員および事務局スタッフの準備と議論から推測するならば、筆者がこれまで自覚的に追求しようとしてきたような、市場原理の単純な適用による教育へのインパクトについての神話と公立学校における独創的な実験を可能にするための仕組としての学校選択を区別しようとするなどといった感覚は、規制緩和小委員会の問題発想のなかには存在していないようであった。「論点公開」の後で催された懇談会において同委員会の立場を代表して大宅映子座長が述べた発言に端的に見られるように、そこにあるものは、ほとんど市場のもつ反官僚制の機能への信念といったものによって支配されているようにみえる。」

行政改革委員会規制緩和小委員会を指す。96年の動き。この見方はあくまで委員会の態度に過ぎず、官僚制が問題であることが事実であるかどうかは別問題である。

 

P108-109「ところで、学校選択についての擁護論とは別に、規制緩和小委員会のヒヤリングの席でも話題となったのは、学校選択の理念はいいとして、はたして日本の学校教育の中に選択が問題となるほどの多様性を生み出すことが可能かどうかという点についての悲観論であった。……これらの議論は、たしかにいかにも「現実的な」ものである。しかし、これらの議論はいずれも学校選択制度を、市場原理=自由競争によって自動的に教育改革のメカニズムが動きだすという類のものと理解しているといえよう。そのうえで、自由競争は一元的な偏差値序列に必然的に帰結し、また学校選択論のいうような市場原理の前提は、画一性に慣れて来た日本の学校制度においては準備できないだろうという趣旨からのものであろう。繰り返し述べることだが、そのような、市場原理によって自動的に教育改革のメカニズムが動きだすなどという主張は、到底教育改革の実際的な理論として受け入れることはできないということは、スティーブン・ボールあるいは学校選択に反対する多くの論者とともに、筆者もまた、そう考えている。しかし、そのことは学校選択制度の理論的意義を否定するという結論に行き着くものではない。

 学校選択制度はそのような市場原理による自動的な教育改革のメカニズムを信奉するものではなく、別の根拠をもって、教育改革についての別の理論的見地から、主張されるべきものなのであり、筆者の学校選択の意義の提唱はそのようないわゆる市場原理の学校制度への単純な適用とはまったく違った教育改革問題に対するアプローチによるものなのである。すでに述べたことだが、学校選択制度の主張を二つの類型に分け、市場原理の単純な適用を原理とするものと抑制と均衡を原理とするものにわけるというのが、筆者の学校選択制度についての理論的整理の結論である。それは公立学校制度を民営化することを最終目標とする学校選択制度と、公立学校制度の再建と活性化のための必須の道具と位置付ける学校選択制度との対比であるといってもよいものである。」

 

P111「しかし、学校選択制度は機能するために前提となるこれらの教育専門家あるいは親と生徒は、もとより多いに越したことはないが、ほんの少数でもよいのである。むしろ、少数の、真に意欲的で創造的な公立学校改革の努力を、公立学校制度の枠組みの中で保障し、その実験的な試みの意義と限界、成果と問題点を広く、実際の学校教育活動の実践を通して検証することとそ、学校選択制度を必要とする最大の理由なのである。それにしても、こうした先進的な教育専門家、親、生徒などの存在を前提にすることは非現実的な想定なのであろうか。筆者は、日本の教育界の現状認識として、これを非現実的とは考えない。さらに、もし、こうした想定を非現実的に想定するならば、そもそも教育を改革するということ自体が非現実的なことになるのではないかと疑わざるをえないのである。」

※果たしてこの検証はできているのか?

P112「各学校が魅力的な学校づくりを保障する条件として通学区制度の維持が主張される場合、そうした学校づくりの試みは専門家の独創的な努力によるものとなろう。しかし、専門家の独創が独走に終わらないとはいえないし、実験がリスクを負うものであることも否定できない。仮に専門家が独走するほどであれば、通学区制度はそのリスクを強制的に子どもに負わせることになる。」

 

P137「しかし、選択は、親の教育への期待、評価を形に表わすことを可能にし、親に正統化されない教育活動には存在の根拠がないということを示すものである。誰に対しても平等で最善の教育は専門家の手によって初めて可能であるとする伝統的な公立学校の規範が、専門職の独善と学校の閉鎖性をもたらしているとすれば、親の選択の自由が、学校を解放し、専門家教職員の責任を直接に問いかけるインパクトをもつことになるのは明らかである。」

学校評価の議論として捉えるべき。

P138-139「学校選択制度に対して、公立学校制度がはたしてきた地域社会を形成する機能が失われるとする批判がある。……

 しかし、現実の通学区制度は学校とコミュニティを密接に関連させているとはいえない。生徒の人間的な成長がコミュニティのなかで実現し、教育がコミュニティを形成する重要な機能をはたすということは、むしろスモールスクール運動が強調するものであった。……すでに言及したように、コミュニティと学校をいきいきと関係づけるときに初めて、学校が生徒の教育に成功するものであり、せまい個人主義を乗り越えることができるというのがニュービジョンの設立の精神に他ならなかった。スモールスクールの運動が批判し、選択制度が改革しようとするものは、こうしたコミュニティの必要に応答せず、責任を果たそうとしない現行の公立学校制度の官僚制についてである。」

 

P145-147「藤田が問題視するのは、一貫して「市場原理がもつ教育意識『改革』の危険性」である。「学校選択は親や生徒の学校、教師に対する期待と信頼の質を変え、さらには地域の学校が保持していた共同性の質を変え、さらには、地域の学校が保持していた共同性の質を変えていく可能性がある」。この可能性が危険だというのである。その危険性に対する関心の大きさが、藤田に、「公立離れが公立学校の危険なのではない。公立離れは、公立学校の危機の表れでしかに。危機は公立離れを引き起こしている親や子どもの期待と構えの変質にある」とまでいわせているのである。

 ところで、この表現にはどこかしら妙なところがある。あえて藤田がこのような言い回しにこだわるのは、公立学校の活動の実態とは別のところで、いわば公立学校に対しては外在的に、親や子どもの教育に対する期待と構えの変質があり、それが公立学校離れという形で公立学校への反応として表れているにすぎないとでもいいたいのであろう。しかし、ではこうした期待と構えの変質とは何によって引き起こされているのだろうか。藤田理論によれば、それこそが「教育の市場化」意識の醸成であるというのであろう。そして、そうであればこそ、現在の危機の原因を公立学校の側の行為あるいは体制のなかに求め、選択などの新たな原理によって公立学校制度を再構築するなどという発想は、かえって「教育の市場化」意識の醸成の強化につながるというのであろう。他方、学校選択を公立学校制度の改革の理念とするという筆者の現状認識は、もとより「教育の市場化」意識の覚醒による教育改革に期待するというものではない。その強調点は、繰り返すまでもないだろうが、公立学校の否定的な現状が「教育の市場化」意識の醸成の原因のひとつにもなっているとするものである。さらに「教育の市場化」意識に対する最大の歯止めは、公立学校の「活性化」によって公立学校への信頼を高めることであるとも主張するものである。

 要約してみれば、藤田がいいたいのは、公立学校制度の枠組みとは別のところで外在的に生じている教育の市場化が親や子どもの「期待と構え」の変質を引き起こしているということであろう。そして公立学校の危機の構造がそのようなものである以上、学校選択は公立学校の危機を進行させるものではあっても、これを改革するための根拠にはなりえないということであろう。これに対して筆者が提起するのは、教育の市場化が危機を引き起こしているとして、公立学校の危機は公立学校の現実から内在的に生じているものであり、学校選択の原理を排除する現行公立学校制度は、むしろ逆にその市場化の促進の契機ともなっているという分析であり、学校選択の原理を排除する現行公立学校制度は、むしろ逆にその市場化の促進の契機ともなっているという分析であり、さらに公立学校の再生のプロセスにとって、学校選択の原理の採用が不可避的なものであるという制度論上の展望なのである。

 ここに公立学校離れという問題をめぐって、筆者と藤田の間には大きな現状認識の相違があることは明らかである。かりに藤田の立論がこのようなものであるとすれば、藤田にはまず自らの現状把握にしたがった公立学校の危機とその克服についてのストレートな分析を求めたほうが賢明というものであろう。」

※この議論はもっと煮詰めてもよい。つまり、問題認識の相違はどちらに分があったのか、という見方による議論である。そして、安易なネオリベ批判言説は、基本的にこの外在説を支持し、それを当たり前とみる立場にある。

 

P147「論点を明確にするためにさらに指摘するならば、藤田の議論においては、公立学校制度に対して、どのような問題の把握と改革の展望をもとうとしているのかという点が不明瞭なのである。筆者の議論を「学校がうまくいくための条件、組織としての学校の特質についての捉え方が一面的」であると批判する藤田論文において、では多面的、複合的な学校改革の筋道はどのように提示されているのだろうか。たよえば藤田論文は「教師の自覚や対応の改善、向上は必ずしも学校選択といった制度的変更を必要とするものではない」という。では、何が教師の自覚や向上を促すというのであろうか。」

※これも改善要求ありきだが、改善要求自体が不要という議論はありえる。

P148「民衆統制と専門的統制の関係を論じて、「後者が前者に良質の教育サービスを提供することであり、前者は後者に適切な期待と支持を与え、適切な参加をしていくことである」というだけなのはなんとしたことであろうか。この程度の提言なら、なにも教育社会学界を代表する論者にいまさら期待するようなものはないというのが筆者の実感である。これは、筆者がつとに批判の対象としてきた、国民の教育権論に特有の、教育専門家の教育の自由と親の教育権との間の予定調和的関係という前提と同一の類のものである。」

 

P149「藤田論文は筆者の議論に対して、「どうも黒崎氏は制度的枠組みが変われば教師の自覚と対応も変わると考えているらしい」との批判をもらしている。先に筆者の議論に対して「学校がうまくいくための条件、組織としての学校の特質についての捉え方が一面的」だとする論述も、この点をめぐるものだろう。しかし、この部分こそ、筆者と藤田の最大の争点であることを藤田は自覚して論じたのであろうか。制度として教育問題を対象化し、制度の運営と改革を通して教育の営みに関わろうとするのが教育行政学の存在理由であるというのが筆者の立脚点である。筆者は「制度的枠組みが変われば教師の自覚と対応も変わる」と「一面的」に考えているのではなく、教師の自覚と対応を変えるために有効性をもつ制度的枠組みのあり方を究明するところに教育行政学の存在理由があるとの立場に立って、その具体的な内容を「自覚的に」究明しようとしているのである。」

P151-152「国民の教育権論が、親の教育権(あるい場合には住民の教育権までも)を名目的には主張しながら、実態としては専門家の自由の確保のための理論に止まるとするのは年来の筆者の評価である。それは親の教育権を単に教師の教育権を導き出す媒介としてのみ把握するという理論構成上の矮小化を伴っている。さらに住民の教育権への言及においては、それが地方自治制度に置き換えられ、さらには国家統制からの防御機能のみが注目され、この結果、ここでも教師の教育の自由の確保がそのまま住民の教育権の保障であるかのように立論されてきた。このような理論的限界に対する認識と批判は、教育権の理論にあきたらないものの間でとみに強く意識されるようになってきている。」

※黒崎は具体例として、中野区の準公選制における「教育行政参加」と「学校参加」の区別をめぐる議論を挙げる。堀尾はこの議論のなかで両者が明確に区別されなければならないとするが、それは「教育専門家の自由を確保するために教育と教育行政の区別を説く内的事項外的事項区分論と教育の民衆統制の機関としての公選制教育委員会制度との間の理念的葛藤を回避するため」のものであるとみる(p153)。このような主張からは当然公選制の趣旨はどちらの意味も含まれて然るべきだという反論が出てくるし、実際そのような批判が出されたが(p154、宇田川宏編「教育委員を住民の手で」1991、p41-42参照)、この批判は理解されないと指摘する。

 

P190「臨教審の教育政策提言の骨格は、自由な競争が導き出すダイナミズムによって教育を活性化しようというものであった。これに対して、第一四期中教審は受験競争の弊害を正面に見据えて、我が国の教育における競争が教育の質を大きく損なうほどのものになっていることを強調するものであった。臨教審が推賞した中高一貫校あるいは私立学校の意義についても、第一四期中教審は、いずれも競争を加熱する主たる要因の一つとして、これを否定的にとらえている。」

P198「こうした一九九七年中教審答申の改革提言には、学校教育を家庭の選好の問題と捉え、学校間の競争がおのずと学校教育の質を改善するという主張がある。そこでは、公教育の質と量について整備を図ることは国家的な責務であるとする、かつての中教審教育改革論が基礎とした課題意識は、論議の表面からまったく姿を消しているのである。」

 

P206「しかし、今日、多くの人々が教育の荒廃を実感する場合、そこで想起されるものは、こうした国家権力の政策の結果についてではない。今日、学校が問題視されるとき、そこで語られるのは、例えば不登校であり、いじめであり、学校内の暴力であり、学級崩壊といった問題である。これらは、国家権力の政策の結果、あるいは権力統制によって専門職の自律性が損なわれていることから発した事態として感じられているのではない。むしろ、こうした問題は、学校の「失敗」、つまり専門家教職員の「失敗」であり、専門家教職員の自律性の無限定の強調は、こうした「失敗」に対する批判から身を守る学校の閉鎖性を意味するのであり、専門職の自律性は、最悪の場合には、学校を無責任な場所に放置することになるのではないかという危惧が、学校関係者を除けば、多くの人々の間に生まれていると言っても、あながち過言とはいえないだろう。」

※しかし、教育権論者はそうは考えない。教育問題は政策の失敗とみる。しかし、黒崎は「これを教育政策の直接の結果、あるいは教育の権力統制の結果とすることには相当の無理がある」という理由で退けようとするが(p207)、教育だけが独立した政策を担っていないことも含めれば、トータルな資本主義体制の政策として教育病理が発生するという見方は簡単に否定できないように思える。黒崎もこの点の批判におけるエビデンスが乏しい。要するに水掛け論の域を出ていないということ。

P207「すでにこれまでの論述によって明らかだと思うが、今日、教育改革のキーワードとして学校の自律性が強調されるのは、これまでの教育行政批判の理論が主張してきたような専門家教職員の自律性への信頼と尊重を説くためではない。むしろ逆に、それは、専門家教職員の自律性が実際には学校の閉鎖性に帰結していることを批判し、さらに学校をめぐる問題が教職員の専門家としての職務遂行における責任として、これを厳しく問うというものに他ならない。こうしたことは、学校の自律性を強調する教育改革の具体的プランが、学校管理責任の明確化であり、校長の役割の強調であることに、明瞭に現れている。」

 

P242地方教育行政の在り方に関する調査研究協力者会議の1997年9月公表の「論点整理」の引用…「主要国の中で学校理事会や協議会のようなものを有していないのは日本だけである。住民参加ということが大きな行政課題となっている今日、学校についても保護者、地域住民などの参加について検討すべきではないか。」

※この切り口から官僚制の問題の議論をする余地はある。

縫田清二「ユートピアの思想」(2000)

 今回は日本人論の関連で、縫田のユートピア論を取り上げる。特に今後取り上げる予定の西尾幹二の議論とも関連するため、特に「理想」と「実態」に対する見方についてを中心に検討したい。

 

○「大衆としての日本人」と「代表としての日本人」について(または日本人論の絶対性/相対性について)

 

 板倉章のレビューでも触れたが、日本人論をはじめ国民性の議論を語るにあたって前提としなければならないのは、その国民性の説明というのが「大衆(一般人)」について指しているのか、それとも「代表(為政者や影響力を持った人・集団)」どちらに重点を置いた説明をしているのか、という点である。これまでもレビューしてきた素朴な日本人論というのは、社会問題に関連することなども典型的な例だが、基本的に「代表」と思われるものを取りあげ、それがあたかも「大衆」を説明できるかのように語っていることに大きな問題があると指摘してきた。当然ここには「代表」性も満たしていないような場合もある。つまり、ここでいう代表とは「『日本』という性質を説明するのに十分である(影響がある)と認められる人物に関する議論」ということである。板倉章のレビューで取り上げたヴィルヘルム二世もまた、影響力を持ったという意味で代表的ドイツ人たりえたということである。

 しかし、この影響力を持った人物がそのまま大衆の性質そのものを代表する訳ではない。これは様々な理由が考えられるが、今後の議論をする上で押さえておきたいのは、そのような「代表」が一定の集団である場合であり、そのような集団が「国」との関連で決定的な影響力をもつような場合である。極端な話をすれば、非民主的な社会においては、このズレを致命的に持っているものと捉えることもできる。大衆と一部の集団が決定的に乖離してよいことを許している状態であり、これが国民性を実質的に定めていることになってしまうこと、そしてそこに大衆が関わっていないことを意味するからである。

 

 余談になるが、合わせてこれまでの日本人論のレビューでその国民性について「絶対的」なものとして取り上げられる場合と「相対的」なものとして取り上げられる場合があることを議論してきた。杉本・マオアのレビューでは特に欧米人による日本人論にこの傾向があると指摘されていた点である。つまり、「絶対的」なものとして取り上げられる場合は、全ての日本人があたかも同質であるかのように取り上げられ、「相対的」であるときは、程度の問題として取り上げられることになる。「絶対的」である場合は「大衆」「代表」どちらも基本的に区別することはないが、「相対的」である場合は、両者を分けて考えることも可能である、という整理ができるだろう。

 

 それでは、本書はこの「大衆」と「代表」の視点から見た場合、どちらの日本人論を語っているといえるのか?一見すると、どちらとも読み取れるかのように思われる。正直な所、「代表」の視点から見れば本書の主張もかなりの部分妥当である可能性があるようにも見えてくるわけだが、「大衆」ベースで考えてしまうと、どうしても違和感を持ってしまう。それは特に本書が一貫して国民性を「歴史的」に、過去の思想体系を捉え、その影響を確実に受けている存在として現在の日本人を規定していることに起因しているように思える。

 

○本書における「歴史性」の過大評価について―「教育」という観点の必要性

 

 この「歴史性」という着眼点は、新堀通也のレビューで考察したものであった。新堀のレビューでは特に「日本語」の用法や法などの「制度」を想定していたが、過去に成立した言語や制度というのは、その用法や制度意図までを現在に至るまでそのまま引き継いでいるとは限らないこと、その意味で「現在」の視点に立った考察を行わない限り、そのようなものを根拠にした「日本人論」は成立し難いということを指摘した。土居健郎の「甘え」の用法もまさにこれに該当する。

 本書では特にこれを「万葉集」「古事記」といった古典にまで遡り、そこで語られている内容がそのまま国民性を説明するかのように捉えていること、また、ほとんどノートには記載していないが、西洋における「ユートピア」思想について、トマス・モアやラブレー、ルソーなどから捉え、そのような思想の体系の存在を根拠にして、西欧人の「ユートピア」志向について説明を行っている訳である。

 結局本書では「日本」「西欧」どちらにおいてもこの「歴史性」から見た国民性論は成立するものという前提に立っている。しかし仮に実態において国民性に差異があったとしても、片方しか成立していない可能性もあり得ることについては何ら検討していないのである。日本人論においては、千石保西尾幹二などがそうであったように、「日本の思想はそれ自体として脆弱であり、歴史的連続性に欠ける、そのこと自体が問題である」という立場から論ずる者もあるし、本書の論述などと比べてしまうと、むしろそちらの方が理に適っているという見方さえできる。もちろん可能性としては逆に日本だけで「歴史性」が成り立つこともありえる。結局このような「歴史性」の議論に対して違和感を持つのは、少なくとも私に限れば、その歴史について何一つ理解していない人間がそのような歴史を引き継いでいる訳がないという、歴史の断絶に対する見方に起因する。結局、そのような歴史を学び、引き継いでいない状況においては、歴史は「消滅」することもあり得るのであるが、そのことを全く縫田は考慮しないのである。これはp187の語り口がいかにもこじつけに見える(「思考の原点」なるものは存在しなければならないという確信がある)点にも見いだせる。現在の日本人が「古事記」の内容について一定程度の理解でもしている者はどれくらいいると言えるのだろう?このような古典をむりやり引っ張り出してきたところで、「日本の思考」を説明できるとはとても思えないし、場合によってはこのような態度の取り方が過去への制約を助長させ、創造的な観点から阻害要因になりうることも自覚せねばならない。

 

 このような議論を踏まえた場合、日本人論における教育学や教育社会学が重要性をもってくるように思える。結局、この「歴史性」というのは、その「歴史性」に如何に我々が束縛されているのかという問いを無視できないためであり、それはそのような「歴史性」が「(意図的・無意図的であるかをを問わない)教育」を通じてどのように継承されているのか、という検証なしには語れないということにもなってくるからである。「日本人論と教育」というテーマは、これまではむしろ新堀や西尾のように「国民性(日本人論)の要素がいかに教育制度に影響を与えてきたか」という観点から語られるのが主であった。しかし、ここで検討されるべきなのは、「影響を与えうる国民性がいかに「教育」を通じて継承されているのか」といった問いの立て方である。そして、特に「思想」との兼ね合いで言えば西尾も指摘する「宗教」と「教育」とのつながりというのも重要な検討課題になってくるだろう。

 

○「ユートピア」の思想について―「実態」と「理想」のズレについて国民性は見いだせるのか?

 

 本書で指摘される日本人の「ユートピア」観というのは、西尾幹二の議論にも関連しているといえる。それは、「理想」というものについて、日本人はあまりにも実現可能なものであるかのように捉える傾向があるという指摘(西尾「西尾幹二全集 第一巻」2012,p187)との関連においてである。本書においても、日本の憲法に関する内容について、日本人はそれを絵空事であるかのように捉えることに対し否定しており、それは紛れもない現実であるという指摘があるが(p43)、この両者が結びつくものであるなら、基本的に縫田のユートピア論を西尾の議論同じ枠組みで捉えることが可能となる。

 確かに実態としてこのような議論を裏付ける議論もありえる。例えば日本人のアンケート調査における回答の趣向として語られる論点にそれを見出しうる。国際比較のアンケート調査においてはバイアスの一つともなりうるが、日本人の回答傾向が「どちらともいえない」に偏り、「はい」や「いいえ」という二項図式の極を志向しないという議論は実証的に示されているようである(例えば、林知己夫、鈴木達三「社会調査と数量化」1986,p68、p73)。このような日本人の特性について「何故」を問う場合、少なくとも西尾の議論においては部分的な回答が与えることができる。西尾は西欧人が「理念」に対し一種の耐性があり、それが実現不可能なものであることを了解しながらも、受容する能力があるものと捉えていた。この指摘をアンケート調査のバイアスと関連付けるのであれば、「理念」として提出される「はい」「いいえ」という極端な回答の要求は、西欧人にとってはそれが極端であるものと了解されながらも、それを受容することで「二項図式」的な回答を行うという説明に読み替えることができるということになる(※1)。一応林・鈴木が指摘している日本人との比較対象はアメリカ人であり、西尾はヨーロッパ人を指すものの、同じ理屈が成り立っているものとして見れば、そのような指摘も可能となる。

 しかし、この説明が成り立つとなると、日本人の「理念」の受容に対する考え方にも配慮が必要となる。結局日本人は「理念」を「理念」として割り切ることができないからこそ、中間的回答を行っていることになる。要は「一概には言えない」ことを、素直に述べることができる国民性があるからこそ、「どちらともいえない」と述べるということになるはずである。これが「大衆としての日本人論」として正しいものだとすると、縫田の説明は少しおかしくなる。縫田はむしろ「理念」と「実態」を区別できていないのが日本人であるという趣旨でユートピア論を展開していたが、むしろ大衆は「理念」と「実態」をしっかり割り切っているからこそ、中間的回答をしていることになるからである。

 

 少し話を戻すと、縫田はユートピア思想をアンリ・ベルクソンの流動的なエネルギーの議論と結びつけ説明する。西欧のユートピアの議論において体系づけられた思想は構想力(p13)を生みだし、自然の改変していく批判的な能力を生みだすものと捉えていた。しかし、日本人は自然と調和的な文化の歴史を持っていることから、このようなユートピア思想を持ちえず、「風刺的もしく、否定的要素が希薄な則物願望的段階」「孤独の自覚の不在」(p187)「「絶対」(=死)を意味すると言った極限状況にまで追いつめられていない」(p22-23)といった状況になっているのだという。この「極限状況に追い込まれていない」ような状況というのは、西尾も宗教思想との関連で説明していた部分である。ただ、「日本人が即物的」「欧米人が即物的ではない」という二項図式が直ちに成り立つのかどうかはそれほど明確ではない。特に「代表としての日本人論」としては存立の可能性があっても、「大衆としての日本人論」にはなりえないように思える。例えば縫田の議論も進歩的文化人のような存在を念頭に入れれば、ある程度妥当しているように思えるし、それは「社会問題」のフレームにおいても妥当するかのような議論は想定できる。しかしそれらは決して対比されるべき「西欧・欧米」という枠組みから実証的比較によって導き出された議論ではないのである。

 そして、このような日本人論の議論が安直な善悪の議論、もしくは成長の有無の議論と結びつけられやすく、本書もこの典型であるようにどうしても思える。結局「日本人は未熟である」という漠然とした言説を支持すること、それを実証しようともせずにあたかも成立しているかのように振る舞うことに加担することは、日本人論においてままある暴論であるが、本書もやはり「代表性」が認められるだけの立証を行っていない。本書の与える視点は興味深いものの、この正しさは別途検証しなければならないだろう。

 

※1 但し、林・鈴木(1986)では、このような差異の発生が日本語固有の問題にも起因するものとみている点には留意する必要がある。これは日本語を使う外国人にアンケート調査を行った場合、やはり二項図式的な回答を示さない傾向が認められるからである。しかし、言語に頼らないような回答方式により聞き取り調査を行った場合には、やはり日本人の方が二項図式的ではない、中間的回答を示す傾向も認められている。もっとも、この「日本語の問題」と「国民性の問題」については、どちらがよりアンケート結果の偏りに影響を与えているのかまでは明確に検証されていない。

 

<読書ノート>

P13「日本においてもユートピアと呼ばれている思考形態があるにはありますが、前に申しましたように、意識のエネルギーの発露という視覚から検討しますならば、日本のユートピアと呼ばれているものは、これら東西の典型的ユートピアに見られるような構想力にまでは達しておらず、その大部分が風刺的もしくは、否定的要素が希薄な即物願望的段階のものであると私は考えます。

 広義な概念で、同じイースタンのなかでも、例えばインドあるいは中国などのユートピアの本質には、非常にウェスタン的な、私なりに抽出したいくつかの要素というものを備えた、きわめて典型的な型で出てくるユートピアがあります。

 ただ日本だけが、どうもユートピアに関しては何か特別にその本質が定着していなかったような印象を持たざるを得ません。

 それでは日本には独自な「ユートピア」思想があったのか否かという疑問は、それ自体がきわめて根源的な方法論を含む大問題ですし、そのこと自体がひとつの重要な研究課題になり得るほどの大きな意味をもっております。いま、ここでは、それを論ずることが目的ではありませんから触れませんが、端的に申して、日本には厳密な意味での「ユートピア」思想の発想はほとんどなかったと見ることが妥当であるように私には思われます。あるいは、少なくとも日本の精神的風土において、「ユートピア」思想はほとんど定着したことがなかったと申した方が適切であるかもしれません。これに関連して、丸山正男氏が、だいぶ以前の『朝日ジャーナル』の座談会でつぎのように語っておられるのは、私にとってはきわめて印象深く記憶に残っております。すなわち、「日本は明治から今日まで理想というものが、ユートピアという形ではなくて、いつも地上のどこかの国としてあったと思うのです。時代によって、または階級や集団によってちがいますが、ある場合には、イギリスが理想であり、ある場合にはアメリカが理想であり、またプロシャ軍国主義が理想であり、ソビエトが理想だった時代もあった。……」

※これをどう評価するかだが、丸山真男に依拠する程度では足りないだろう。また、日本にはユートピアが必要だったのか、という問いもまたせねばならないだろう。また、「結局日本にはユートピア思想の伝統がない」と宣言するのも丸山である(朝日ジャーナル1959年8・9号「現代はいかなる時代か」が出典)。

P19「そこでユートピアの特質の第一は、人間による自然の変容ということになります。あるがままの自然の状態や自然のままの風景などは、たとい、それがどのように神話的・誘惑的で美しくともユートピアにはなり得ません。ユートピアは、まず批判的精神に裏付けされた人間の構想力から出発して常に周囲の自然に挑戦し、自然を人間にとってよりよきものにするために変化させてゆくような徹底的に人工的な性格のものであります。」

 

P20-21「日本では古代から近代に至るまで、自然をむしろ率直に受容して、「花鳥風月」という言葉に象徴されるように、自然の美を精神の高さと一致させて、その次元で高度な精神性を維持し、すぐれた芸術性を発揮してきました。日本人のこのような自然観はどこにその原因があるのでしょうか? むろんその解明は大問題に違いありませんが、ユートピアとの関係で、その根本的な一点だけに着目しますならば、日本人の思考の原点には、自然と人間とのきびしい対立関係を規定するユダヤキリスト教的な聖書というようなものがなく、そのかわり、日本人の精神的風土の伝統はほとんど和歌の精神によって伝えられているということが重要な一点として指摘され得ることだと思われます。

 つまり、西欧的思考の原点にあるべき原罪という意識、すなわち原始的自然状態からの人間の分離・独立(=自由)という根元的な孤独の自覚は、少なくとも日本人の伝統的な思考の原点にはありません。」

※日本文化を極度に具体化しすぎでは?

P21「日本人の精神の故郷はむしろ『万葉集』の方に集約化しているとみることの方が妥当であるように思われます。なぜなら、この和歌の伝統は、それ以前の時代から今日に至るまで連綿として天皇系や貴族社会を通じて庶民一般においてさへ、最も格調の高い精神生活の表明として持続されてきているからであります。」

※明らかに大衆を視野に入れている。しかし、「そんな故郷はいらない」という人に対し、この言明は何を意味するのか。これを「最も格調の高い精神生活」だと断じるのは誰か?

 

P22-23「つまり、ひとつの大きな革命的な時期に現われるユートピアの特色は、あくまでも現実に社会に密着しておりますから、それだけに実際の改革案という色彩が強くなり、その分だけ雄大な構想力はしぼんでしまいます。ということは、革命の時代というものは、現実の社会行動によってある種の改革が可能だという確信に基づいているからであり、たとい現実の社会の「壁」を強く意識したからといっても、自らの現実批判がたちまちその人の「絶対」(=死)を意味するといった極限状況にまでは追い詰められていないことを意味しております。しかも、こういうユートピアの基本的性格というものは西欧も東洋も区別はありません。……逆に、両者の相違が明白になるのは、最も追いつめられた意識が、「生」を志向する場合、もはや両者それぞれの思考の原点に立ち戻らざるを得ない場合だけであります。」

※「つまりユートピアというものが、仮に「生」のエネルギーであるとすれば、この場合の「生」というものは、けっして「善」だけを志向するものではなくて、「悪」というものをも含めての「生」なのであります。」(p19)というが、仮にこのような議論が日本的問題と見る可能性がありえるなら、まさに「善悪」に対する態度の取り方、その固定観念に見いだすことも不可能ではないか。しかしこれも日本の専売特許には思えない。

P26「ところで、少なくとも日本の精神的風土のなかでは、自由意志の問題がそれほど深刻に追究されたことはありませんし、そのことは日本人の孤独感の性質が、人間としての根元的なものから出てくるのではなしに、きわめて即物的もしくは生活次元的なものであるがゆえに、そこから出てくる「生」の意識のエネルギーも、生活次元的な理想のなかに解消されてしまう場合が多いことを意味しているように思われます。日本の大部分のユートピアが諷刺的段階にとどまるか政治小説の類に終ってしまうのはそのためだろうと思われます。

 ただ、あまりに生活次元的なことだけにその「生」の志向が拡大する場合には、非常に危険な方向をたどる可能性も大いにあり得ることなのであります。つまり、現実の社会生活の改善を究極の目標とし、人間の存在的価値の全体的把握を無視したような疑似ユートピアは、結局のところ強烈なる有効性の追求というところへ「生」の意識が凝集してしまうのであります。そして近代の世界史が教えるとおり、本能生活的次元における有効性のあくなき追求はまさしくファシズムやナチズムのような決定論主義に趣く可能性を常に内包しているものと考えなければなりますまい。とくに本来的なユートピア思想の定着していない日本の風土のなかにおける各種共同体には、いつの場合にもこの危険が伴っております。それは、日本の場合、「農本主義」というものと密接に関連しやすいからであります。」

※例えば、最後の日本の特殊性なども、ほとんど違いを説明する根拠がない。

 

P28-29「それはともかく、このように同じ東洋的思考のなかでも、インドや中国には古くから幾何学的シンメトリーの概念が定着しており、この部分では西欧的ユートピアと東洋的ユートピアとの間には大きな差異はありませんが、東洋的ユートピアのなかでも、日本の伝統的な思考のなかには、幾何学的であるよりも、絵画的な意味での調和を重視する傾向がはるかに強いように思われます。これも日本の美しい自然と、それに対する日本人の受容的な自然観に由来するのでありましょうし、日本のすぐれた絵画芸術はこういう思考方法に支えられているところが大きいと思われるのであります。しかし、その反面、そういう思考形態は、情緒的になることが多く、日本に典型的なユートピア思想(批判精神を基調とする)の定着することを妨げる結果にもなっていると申せましょう。

 ただ、私のこれまでのユートピアを素材とする多少の分析結果からだけでも申せますことは、「生」の意識の原形質なるものが、ちょうど生理的にみた人間の原形質の場合と同じように、決してひとつふたつの要素には集約できないということであります。つまり、個々には異質な根元的要素が「関係」的に結合してこそはじめて正常な人間の「生」の意識が生きたエネルギーとして発現し得るのであり、そのパターンを社会的な構図として把握しますのならば、ユートピア成立の根源にはかならずや共同体的志向が内在的エネルギーとして存在しているということだけは明言し得るように思われます。」

 

P43「私は、ある会合の席で、憲法は一つのユートピアであろうという意味のことを言ったらたいへん叱られたことがある……。どうも、この人たちの受けとめるユートピアというのは、絵空事という侮辱的な意味においてであるらしい。ユートピアとは、そんなに頼りのないものなのだろうか? この現世で戦争を放棄し、戦力を保持しないと明言することは、私には、どう考えてもユートピアとしか思えない。だからこそ、そこを強烈なエネルギーを見出すのだ。なぜなら、前回にも規定したとおり、ユートピアとは、人間が「生」を志向する意識のエネルギーそのものにほかならないからである。その意味で、私は憲法に関する限り、「はじめにユートピアありき」と思っている。そして、それが明文化された憲法はあくまで「現実」のものと考えている。ここではユートピアと「現実」の間は断絶はなく、両者は一直線のものとして結びつく。」

P62-63「人間の肉体から出発するという思想は、つまり、人間は生れながらにして男性であるか女性であるかのいずれかであり、お互いがすでに片割れ的な存在である以上、そのいずれか一方だけをもってしても「人間」を考えることはできないという相対的な考え方が基本になっているからである。こういうところから、一般にユートピア思想では人間創造の母体である女性の地位の重要視が非常に強調されている。女性の解放がなければ男性の解放もあり得ないし、男性の解放がなければ女性の解放もあり得ないからである。

 このようにユートピア思想の中心は、人間社会に関する一切のものに相互に矛盾する「個」の限界の自覚を強調し、この矛盾の明確な認識から「人類意識」という人間性の究極にあるべき雄大な統一場が設定されているのである。」

 

P187「これに反して、日本の思考の原点にはそのような自然と人間とのきびしい対立関係はない。というより、『聖書』のかわりに日本人の精神的風土の伝統になっているものは和歌の精神であろう。つまり西欧的思考の原点にあるべき「原罪」という意識――言いかえるならば、原始的自然状態からの人間の分離という根元的な「孤独の自覚」は、すくなくとも日本人の伝統的な思考の原点にはない。

 日本人の思考の原点ということになれば、どうしても、まず何等かの古典に拠らざるを得ないし、まず問題になるのが『古事記』であろう。多くの日本人は漠然とこれを「神話」と呼んでいるようである。」

※このように思考の原点を古典に求めようとした際に違和感が出てくる。「日本では古代から近代に至るまで、自然と対立するのではなしに、むしろ自然を率直に受容して、「花鳥風月」という言葉に象徴されるように、自然の美を精神の高さと一致させて、その次元で高度な精神性を維持し、すぐれた芸術性を発揮してきた。」(p186)とも言うが、日本の近代史を考える上で、このような古典思想があたえた影響は限定的でありうるのではないか?このような古典へのこだわりは逆に実態を正しくない方向に縛り付けることになってはいないか??そもそも古事記とは何か理解している日本人はどれほどいるのだろう?

 

☆P193「だが、いずれにせよ、日本の精神的風土のなかでは、そもそも「自由意志」の問題がそれほどまでに深刻に追究されたことはない。そこに、同じオリエントにありながら、日本にはユートピア思想が定着しない根本原因があるように思われる。つまり、日本人の孤独感の性質が、自然ときびしく対立する人間としての根元的なものから出てくるのではなしに、きわめて生活次元的なものであるがゆえに、そこから出てくる「生」の意識のエネルギーも、結局は生活次元的な「理想」のなかに解消されてしまう場合が非常に多いことを意味する。だが、ユートピアが「自由意志」を前提としてのみ成立し得るものであるとすれば、それはむしろ「理想主義」なるものの諸前提の全面的否定の上にのみ成立が可能なのである。なぜなら、「自由意志」の母胎たるべき真の自我とは、それ自体がけっして「理想」というような一定の理性目的の体系ではあり得ないからである。

 それはともかく、日本の大部分のユートピアが諷刺的段階でとどまるか、政治小説の類になってしまうのはそのためと思われる。つまり、それはユートピア(どこにもないところ)ではなくて、何等かの「理想像」なのである。したがって、その場合には、地上のどこかに理想国があって、あとは、それに追いつけ、追い越せという型で発想され、結局は地上のどこかの国の「理想化」に終ってしまうのである。」

※重要なのは、歴史の存在ではなく、その受容がいかに行われているのか、行われうるかという議論である。それは極めて教育社会学ないし教育学的な問いである。

 

P278「キブツに限らず、世界各国に存在するこの種の共同社会は、学問的に「ユートピア共同体」と総称する。といって、これらの共同社会が「地上の天国」だという意味ではない。それはこういう意味である。――人間は本来その本質において全的存在であるにもかかわらず、現代社会の人間は、好むと好まざるとにかかわらず疎外されている。全的存在たる人間は、財産や権力や機械や制度や固定観念……など、いかなるもののドレイにもならないことを意味する。それにもかかわらず、現代社会の人間は、これらもろもろの偶像崇拝者たることを余儀なくされ、そのことのために本来の全的人間は疎外されている。それならばこそ現代社会は、全的人間にとっての非現実であり、非人間性にとっての現実である。「ユートピア共同体」というときのユートピアとは、まさにこの意味の「非現実」を意味するものにほかならず、この非人間的な「現実」のなかで、全的人間を志向して生活していること自体が「ユートピア」なのである。このように、学問上で使用される場合の「ユートピア」ということばの意味を明確にしておかないと概念の混乱や奇妙な誤解が発生する。」

 

P332-333「ここではっきり認識しておかなければならないことは、キブツのメンバーは、町の労働者と同じく、すべて「ヒスタドルート」(イスラエル労働総同盟)の組合員であるということである。したがって、もし日本にもキブツと同じような組織を作ろうというのであれば、相互のキブツは、たとえば「日本キブツ連合」といった横のつながりのある組織を作るとともに、その組織は労働組合に加入し、各メンバーは当然に組合員としての権利と義務をもつ必要がある。少なくともイスラエルキブツは、そのような近代的労働関係の上に成立しているのである。

 このように、日本の各種共同社会が、いつの場合にも横の「連合」組織をもちえず、また、労働組合の方でも、これらに接近しえない根本的原因は、日本では、協同組合というものが、本来的な意味で正常に発達していないからである。」

P335「イスラエルキブツは、原則として夫婦単位の家庭をもち、親子はそれぞれ独立的に生活する。「個」の確立という近代化過程の最も端的な表現である。ところで、その近代化の問題であるが、別の意味で、欧米社会のように、市民の生活基盤になんらかの人類的な精神的共属関係をもたない日本の場合には、「共同体」という概念ほどやっかいなものはない。キブツの共同体の存在は日本の近代化過程とどのような意味で照応するであろうか?

 日本で「共同体」ということばが多くの人々に与える印象は、せいぜい農村の前近代的なエゴイスティックな連帯感や、一党一派の党派的な閥意識、滅私奉公の全体主義的傾向といったものであろう。いや、近代のドイツ社会でも、その近代化のおくれはあのナチス的な「運命共同体の理念を作りあげてしまった。それだけに、現代の日本では、一般に、「共同体」という概念はすべて封建的・前近代的なものであり、近代社会ではむしろ、この共同体から個人が脱出し、独立的な存在になることであると考えられている。むろん、そのこと自体は正しい。」

※勝手に大衆の考えを述べている!

「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間考察

 今回は前回に引き続き、中津川市の教育正常化運動の考察を行う。

 

・小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」(1985)について―丹羽実践の批判から

 

 まず、小木曽の自費出版本の2冊目の内容について、丹羽徳子の実践内容を含む恵那の子編集委員会の9冊の編書に対する批判が語られている点から見ていきたい。小木曽はこれらの著書において「中津川の教育に深く根付いている「生活綴り方教育」なるものが、特定の政治・思想を根底にもつ「社会変革」の手段として利用されてきた」こと(小木曽1985,p96)が随所に示されていることを指摘する。確かにこれは正しく、例えば、中津川の教育実践の中で実践者側のリーダー的存在である石田和雄などは次のように主張する。

 

「さらに目立つことは、教育に関する父母・国民の不安を助長させながら、その鉾さきを民主的な教育と教師に対して向けさせるやり方を(※三木内閣が)しきりにとってきていることです。今年になってから、PTAという形で、民主的な教育と教師へ対置した問題を提出させることが露骨になってきています。 

それは、今までの教育支配が生みだしてきた、子供の人間破壊や、あるいはわからない学習の増加の問題を利用して、民主教育に攻撃を加え、破壊しようと企んでいる、極めて危険な策略とみることができるのです。 

たとえば、高度経済成長政策によって、自然が破壊されたり、公害が発生していることは、誰の目にも明らかで、誰もが高度経済成長政策は駄目だったということを認めるし、その限りでは国民的な合意が成り立っているともいえます。しかし、同じ高度経済成長政策としての人づくりであり教育の問題では、中教審路線が子どもの人間破壊をすすめていくものであることを、私たちを含めて、民主的な人々が、もっとも早くから警鐘鳴らし続けてきたにもかかわらず、今日、子どもの人間的破壊が誰の目にも明らかに映るということになってはいないし、しかも、それがこれまでの人づくり政策による教育支配のせいなのだという点で、国民的なコンセンサスができあがっていないというような、そうした複雑さを教育はかかえているのです。そこに教育問題のむつかしさがありますが、支配はそのむつかしさを巧みに利用して、父母・国民の鋒を民主教育に向けさせ、攻撃を仕掛けてきているのです。 

教育問題のむつかしさということで、いますこし補足しますが、ごく簡単にいって、公害だ、といえば、それは政府の政策が悪かったんだということでの理解が早いのです。けれど、子どもがひどく悪くなっている、ということでは、それは政府の政策が悪かったからだと、直ちに理解されない状況があるのです。子どもの悪さについては、先生のせいなんだというように思われている問題や、子どもの資質や親のせいに考えられている問題が存在していて、これまでの中教審路線としての人づくり政策が、今日のような結果を、子どもの上にもたらしてくるものなのだということもわからないわけではないが、実際にはそのことがなかなかつかみきれないのです。」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p129-130)

 

 この引用での発言の趣旨は少しわかりにくさもあるものの、このような教育問題は、そもそもの体制がおかしいという批判に繋がらないことへの不満として現れているものといってよい。このような「思い込み」に対して、小木曽は次のように反論するのである。

 

「「市議会」での教育論議も「非教育的」になるらしい。

 とんでもない。中津川の教育の中味が、ずっと以前からもっともっと市議会で論議されているなら、中津川の教育の今日、かかえている困った問題の大半は片づいていたといえよう。……

 市議会で市民の声を背景とした教育論議を「非教育的」と決めつける主張が、生活綴り方教育の本に堂々と出てくる。中津川の生活綴り方が、どんな立場の人達をリーダーとしているか、わかるような気がする。」(小木曽1985、p222)

 

 中津川市議会で取り上げられる「教育問題」が「非教育的」であるかどうかは、前回の中間報告で引用した議員の発言からも察することができたのではないかと思う。そもそも議員自体が教育についてわざわざ取り上げることについてためらいさえあったにも関わらず、何故教育問題を議会で取り上げなければならなかったのか。そのような前提から議会での議論を押さえねばならないように見えるのに、「反正常化側」は完全に政治的問題に還元し、これを一方的な政治的攻撃としか考えようとしないのである。

 

 また、丹羽(1982)における反論として、1976年度の坂本小学校における学力問題等を「ウワサ」として片づける態度についても、小木曽は次のように反論する。

 

「次に掲げる文章は、昭和五十一年十月から十一月にかけて一斉に行われた坂本小学校PTA主催の学級懇談会或いは地区懇談会で一般の親からどんな意見が出されたかを学校側で九ページにまとめられた資料から抜き出したものである。これをみれば当時の坂本小学校の授業内容がどんなにひどいものであったかうかがい知ることができ、そういう声が凝縮してその年の十一月六日「会」結成となったことも理解していただけよう。

 ▼算数・国語をしっかりやってほしい。基本ができていないと、中学校の三者懇談会で言われて不安。(十月十九日、六年学年委員会)

 ▼教科書がすすんでいない。学校教育の実態を知ると自習時間が多い。(十月十九日五年学年委員会)

 ▼小学校の高学年や中学校は勉強を主にやってほしい。親達が責任をもって地域はやる、学校はもっと学力をつけてほしい。(十月二十五日、中洗井五、地区懇談会)

 ▼授業時間にやる子ども会の実態や成果を先生はつかんでいるか。基礎学力低下の問題について先生の態度に不満だ。(十一月二日、星が見地区懇談会)

 ▼教科書があるのに、なんで副読本、参考書を使っているか、教科書はぜんぶ教えてほしい。(十一月二日、中切・地区懇談会)

 ▼地域子ども会もこれで三年目だが反省する時期ではないか、できれば地域子ども会は止めさせたい。(十月三十日、深沢地区懇談会)

 ▼坂小の子どもの学力が低いのではないかという不安がある。特に他の学校では教科書を使っているのに教科書が使われていないのは問題だ。(十一月九日、三年二組・学級懇談会)」(小木曽1985、p214-215)

 

 どのような意図で学校側がこの資料を作ったのかは不明であるし、これは多数の親がこう思っていたことの根拠たりえないものの、無視できないレベルの不満があったのは確かである。

 

・小木曽(1980)の内容検証について

 

 前回の小木曽(1980)のレビューでいくつか課題とした点、また根拠がはっきりしていなかった点について挙げたが、これについても確認作業を行った。

 

 まず、「中津川の親たちの「知育」に関する関心の高さには、先般、市が実施したアンケートにも如実に表われている」(小木曽1980、p47)としている点である。これは「広報なかつ川」1979年2月1日号に掲載されている、「市民意識調査」の結果で「特に力を入れてほしい市の仕事」の中で23項目中「教育」が3番目に挙げられたことを指しているものだろう。しかし、この意識調査では、高々8.6%の人が「教育」に期待しているにすぎない。一番力を入れてほしい分野とされた「医療施設の充実」も11.0%であり、この割合だけで、一般市民の関心の高さまでは指摘できるものとは言い難く、この小木曽の主張は適切ではないと言える。

 

 次に、p166-167で語られた「父母の教育要求第一次調査」の結果である。「学力・体力・生活」の3つの中でどれが最も大切な力か、を問う質問に対し、子どもの年齢層により異なるものの、全体では「体力(44.8%)」「生活(29.1%)」「学力(25.6%)」の順番になっている(中津川市学力充実推進委員会「父母の教育要求調査のまとめ」1981,p4)。ただし、このまとめでは、関係者による座談会の内容も掲載されており、「(※一番大切なのは)本当は学力といいたいのだが、生活は、人間が生きていく上において当然のことなので二位になり、三番目に学力が入ったのだろうと思います。」(同上、p18)「親はまず第一番に学力と書きたいんだ。ところが生命あってのものだね、だから、「体力」と書いたんだと思います。なぜ「学力、学力」と言われるかというと、社会にひずみがあるからだと思います。」(同上p21)というように、アンケートに関与した者からもあまり正しい結果だという認識がなかったらしい。言い換えれば、「学力要求の強さ(そしてそれが一辺倒なものである)」という認識が広くなされていたということでもある。

 

 最後に「小木曽が何故現場ではほとんど不安要素がなくなったのに教育懇談会を続けたのか」という問いである。確かに最初の問題提起であった通常の授業の実施という内容はかなり早い段階である程度解決したようであるが、一部の教師による中津川の教育支配に小木曽が不満をもった理由というのは、当時の中津川市全体の教育問題の論調などをみると、いくつか考えられるものがあるといえる。

 一つは、「教育現場は決して褒められた現状にないにもかかわらず、「反正常化」側は『恵那の教育』を讃美し続ける態度を取り続けるのに対し、当事者(にさせられた側)として恥ずかしささえある」という認識が少なからずあったのではという点である。これは小木曽本人が直接語った訳ではないものの、恵陽新聞における他の論者はこのように見ている者も複数おり、このような「根拠のない讃美」というのを、自分たち中津川市民の実践として(反正常化側はこれを「教師の親の連帯」の強調として語っていた)取り上げられることに対する憤りが強くあったものと推察できる。小木曽(1985)の内容が反正常化側への反論に終始しているのがその現われであると私は見る。そういう意味では、単純な現場の改善云々だけではなく、「正義」の問題として、恵那の教育の実践者として自らが巻き込まれることに対する反発心というのが、この正常化運動の前提として存在せざるを得ない状況だったと言うことができる。

 また、これに関連して、複数の現場から偏向教育の実践や、教育活動に真摯に取り組もうとしない教師に対して、改善を求めるような動きを行う必要性について強く感じていたという点も挙げられる。後述するように、当時の中津川市教育委員会は、現場改善に対する機能を失っていた状態であるのは明らかであり、議会や市民運動としてこれを改善要求しない限りは現場が変わらない状況であったことに対し、小木曽は正常化運動を継続していったのである。これらの理由は、教育懇談会を継続するのに十分すぎる理由だといえる。

 

・当時の中津川教育委員会と教育長の問題について

 

 私が榊編(1980)以来、重要な論点として提起してきたのは、教員組織の「自律性」の問題であった。反正常化側はこの「自律性」を「教育支配を一切受けないもの」という意味で捉え続けてきた訳だが、本来的にはこの「自律性」には専門家集団として当然に持ち合わせなければならない「(内省も含めた)自浄作用」、つまり集団内で十分な議論を行うことで時に批判し合い、誤りを正していくという性質もまた欠かすことができないものであるはずであった。反正常化側もこの側面について「専門性の向上」としては言及することがあるものの、「相互批判」という文脈ではほとんど語ることがないし、少なくとも実践のレベルでは皆無であることをこれまで私は指摘してきた。

 これは「恵那の教育」の事例においても変わらない。管見の限り、現在に至るまで、この「恵那の教育」を支持する反正常化側の立場にある論者は、偏向教育の実態に対して何一つコメントをしようとしない。そんな事実はなかったかのように振る舞い、それは「政治問題」として体制側が攻撃している以上のものではないと解釈するのみなのであった。この「コメントをしない」ことこそが、「自律性」の欠如の根本的な現われである。「コメントをしない=クレームを申し立てない」状況はまさに改善を要求していないことと同義であり、それは転じて「コメントをしないこと」は専門家集団内で行ってよいこと、そして傍から見れば「何をやってもよい」という風に見えることを意味しているにも、関わらず、このことを反正常化側は全く理解しようとしていないように見える。次のような主張もまたそのことへの批判の一つである。

 

「煽動教育においては、決して反省はない。すべて自分が正しい、とする。マルクスレーニンの革命主義も同じである。そして不満はすべて政治や社会や学園が悪いからだとするのである。これ、革命主義の革命パターンにも連なる。反省して自分が正しいか正しくないかなど考えていては革命に参加することができないからである。群衆心理を燃え上らせるためには反省は邪魔だからである。

 「一人一人の子供を、こよなく愛し、生活綴方を通しこれをよく見詰めて個性に応じその特質を伸ばす人間教育」というのが、本来の恵那の教育であった。これが民生同活動が進むにつれて、これに利用されて、と言うより塗りつぶされてしまって政党色が強まってきたのを感ずるようになったのは安保闘争以後ではなかったかと思う。これは指導的役割を果してこられた方々の、昭和30年頃の御意見と、昭和50年頃の御意見を比較してみれば明瞭である。そしてやがて党の情宣活動をも果すことになったとわたくしは思う。

 こうした政党的なものを区別しないで、これが恵那の教育だとして熱心に進めている先生方の中には「本来的なねらい」を純粋に信じ、これを教育現場に生かして見える先生方も多い。こうした政党的環境の中で本来的教育活動を進められる信念と勇気には心から頭が下がる。わたくしがさきにきびしく批判した「恵那の教育」は党の情宣活動化している異質的なものを指したのであったが、言葉不足の点お断り申し上げたい。

 わたくしは教育の中に「甘やかし」はあってはならないし、まして「甘やかし」を条件としたような煽動は絶対に避けねばならないと思う。しかも教育の中における煽動による政党の情宣活動は卑劣だとさえ思う。恵那の教育が正当活動とは縁を切り、本来の恵那の教育に立返られることを祈りながら稿を閉じたい。」(恵陽新聞1980年8月30日号、原鏡一の論)

 

 歴史的考察の是非は置いておくとして、ここでも押さえるべきは、やはり「自己批判できる組織」であるかどうかという点であり、それができない状況こそが「甘やかし」と表現されているものである。恐らくはこの組織の中には熱心な綴方教育の実践者もいたはずであるが、その組織の「異分子」(という表現が正しいかは測りかねるが)ともいうべきものがある場合にそれに対して何もいうことができない組織であるならば、組織として問題がある。このことを反正常化側は適切に捉えようとしないで、問題を政治的なものに転化してしまうのである。原鏡一のこの指摘もまたかなりの「配慮」、つまり組織内の多様なアクターの存在とそれぞれが持つ価値の全てを否定する訳ではないという留保がされた論であるが、反正常化側はこのような「配慮」を全て無視するのである。

 

 本来であれば、このような状況について指導する立場にあるのが教育委員会という機関である。教育委員会という組織が存在しているのは、直接的に政治的なるものの影響を受けることを回避するため、専門性の確保の一環のためである。しかし、渡辺春正教育長をはじめとした当時の中津川市教育委員会はこの役割を担うことができていなかった。反正常化側の勢力であった(※1)森田道雄が指摘するように、中津川教委の立ち位置は現場擁護の立場であり、敵対視されていない。少なくとも現場にとって、中津川市教委は自らの活動の脅威にはなりえなかったのである。

 

 「丹羽実践はもちろんこの時期の生活綴方実践は、こうした学校批判の正面からの「攻撃」と、行政的圧力(中津川市教委はこの動きに対して学校を擁護する立場だったが、県教委及びその出先の教育事務所、さらには一般行政の筋はあきらかに攻撃側となった)、さらにはそれから情報を得て書かれるマスコミの記事との「闘い」のなかで行われた。」(森田道雄「1970年代の恵那の生活綴方教育の展開(4)」「福島大学教育学部論集第65号、1998,p21」

 

 さて、この市教委の体制を考える上でやはり無視できないのは、渡辺教育長の立ち位置であろう。まず、彼の経歴について、教育長辞任時に議会挨拶をしているので引用したい。

 

「顧みますというと私は、中津(※ママ)の教育委員会に16年間、指導主事で昭和28年の4月1日から5年間、それから教育次長で吉田教育長のもとで5年間と、教育長を6年間と。なお県の教育委員会の人事管理の仕事を5年間やらせていただいたものですから、戦後教育行政に21年間と。もうほとんど教育行政に当たりまして大変、特に中津川の市民の皆さん方にお世話になったことを改めて深く感謝をし、厚く御礼を申し上げるわけでございます。

 特に指導主事の5年間の中で、県の教育委員会の派遣研究生として、東京大学教育学部教育学科へ1年間やっていただきまして、大変教育学の勉強をさせていただいたわけでございます。そのときの院生、学生さんが、いま名古屋大学教育学部長だとか、あるいは各大学にみんな第一線の教育学者として働いてみえますし、文部省では課長級でたくさんの人が勤めてみえまして、現在も大変お世話になっておることを感謝を申し上げておるわけでございます。」(中津川市議会第4回定例会、1981年6月11日)

 

 同じ挨拶の中で昭和13年から教員をしており、日本教育学会、日本教育法学会、日本社会教育学会の3学会に所属しているという発言もなされている。渡辺が東京大学教育学部に在籍していた時期には当然大田堯がおり、すでにいくつかレビューで取り上げた反正常化側の理論的視座を与える名古屋大学教育学部とも関係性が強い。これだけでも反正常化側とのコネはかなり強くもっていることが推察される。

 また、小木曽(1985)も、教育長退職後の渡辺の動向について次のような指摘をしていることは注目しなければならない。長文となるが引用する。

 

「しかし五十六年六月、任期半ばでご退任なさったあと再びこんなかたちであなたにお手紙をさしあげる機会があろうとは私自身、思いもよらないことであります。でも書かないわけではいられません。なぜなら、去る五十八年三月八日より三月二十六日まで、日本共産党機関紙「赤旗」本紙に連載された、中津川の教育に関する特集記事を読ませていただいたからです。とりわけ、三月十五日付、同紙にあなたの写真入りで報道された、「元教育長の気概」という記事は、中津川の教育に、わが子を託す親の立場からはとうてい黙視でき得ない内容であります。」(小木曽1985、p240)

「「赤旗」にはこう書いてあります。

 「三菱電機の社員の小木曽尚寿さんたちがきたと思います。その後何度かきました。坂本小学校の授業時間割調査結果をつきつけてきましたが、学校側で調べたら会のデーターは実際と違っていました。第一、子ども達を使って授業時間割調査をするなどゆゆしい問題ですよ。それに会が出した高校進学の業者テストのデーターも業者側から“事実と違う”という文書がきています。それをいったんですがなかなか納得していただけませんでしたねェ。」(五十八年三月十五日付赤旗

 渡辺さんあなたは六年も前のことだからなにをいっても市民の皆さんは忘れている、そんなおつもりかもしれません。無責任さにあきれるばかりです。今頃こんなことをいわれるなら、あの時(五十二年一月三十一日)、私どもがあなたに送った「公開質問状」になぜお答えにならなかったのでしょうか。」(同上、p240-241)

「渡辺さん、あなたが市教育長として本当に中津川の教育をとりしきる気概と責任をお感じになっていられたなら、六年もたってから政党の機関紙に“実はあれは間違いでして……”などといわないで親達が必死の思いで書いたあの質問書に真面目にお答えになっておかれるべきであったと思います。」(同上、p242)

「例えば特定政党支持の機関紙「しんふじん新聞」を学校で子どもにもたせることについては誰れが考えても間違っている事例です。市議会で渡辺さんは“申訳ない、今後は……”そういっておられるのに、なかなかその通りにならなかったのは、そのことに一生懸命になっておられる現場の先生が市教育長として渡辺さんがこの「赤旗」記事にに示されているようなお考えの方であることをよく承知されていた、そのことに原因があると思えてなりません。」(同上、p244-245)

 

 公開質問に答える必要性は必ずしもないのかもしれないが、そうだとしても中津川市教委の説明責任は極めて不十分であったことは、2度の学力テストの実施などからも言える。

 

「「しかし学力は高い低いだけが問題でなく、問題点はどこにあるか、またどう是正していくかが一番重要なことだ」と(※教育長は)語っているが、サツパリこの意味がわからない。市の教育部門を担当する最高責任者としての教育長の事がこれでよいのだろうか。今少し市民、子を持つ父兄にわかりやすい解明談が欲しいものだ。」(三野新聞1978年7月2日号)

 

 このような当時の説明責任の不足は、この引用に限らず、議会答弁に対しても類似の評価が与えられていた(三野、掲載日不明)。だからこそオープンな場での議論ではない、後出しジャンケンになるこのような渡辺元教育長の行動こそ、過去の教育論争をなかったことにするための工作として行われていると言われても弁解が難しいだろう。そしてその後の「恵那の教育」実践をめぐる反正常化側の言説がこのような性質を持ち続けてことも否定するのが難しい。

 

・正常化側、反正常化側、どちらが「一部」なのか??

 

 当時の教育をめぐる議論において保護者も含めた一般大衆は正常化側、反正常側のどちらの側についていたのか。これについては榊編(1980)のレビューで提起したように、少なくとも反正常化側の動きに保護者が支持する基盤が欠落していることを述べたし、中間報告で示した内容はそれを裏付ける傾向があった。しかし、反正常化側はそもそもマスコミが語ることこそ偏向であり、大衆の意志の反映である可能性を頭から否定している。

 マスコミの影響及び政治的影響(議会での議論)を排除してなお、残る議論の可能性として挙げられるのは、「夜明けへの道」の製作を中津川市国民会議が承認した際のプロセスが明らかに非民主的であったことと、それへのPTA連の反発、そして小木曽(1980)が広く中津川市民に読まれたという事実およびその評判が基本的に小木曽支持であるらしい(この評判は議会で議論されている意味で政治的影響を排除していない)という事実であった。ただこれらも正常化側が多数だったという事実の裏付けにはまだ乏しさがある。

 

 ただ、一つはっきりしているのは、先述の渡辺元教育長の議論にも見られたような反正常化側の事実の隠蔽工作が認められる点である。例えば2000年に出た恵那の教育に関する資料集では、この時期の状況について、次のように語っている。

 

「そうしたなか、いくつかの記録映画を手がけてきた日本ビデオ・映画製作所から、恵那の教育を記録映画にできないかと申し入れがあり、中津川市国民会議の関係団体や個人の協議と協力をえて、教育記録映画「夜明けへの道」は、一年に及ぶ教育現場や地域での撮影の末に完成し、各地で上映されていきました。また、八〇年に入り民教研は、すでに出版社からも問い合わせが来ていた“七〇年代の恵那の教育綴方をまとめて出版する”ことを決め『生活綴方―恵那の子』全五巻(五冊)・別巻三冊(四冊)を刊行しました(八一年)。

 子どもを見つめ、子どもをつかむ中で発達の芽を見つけ、子どもが自覚的に生活を変革していく力をもつための教育実践が広がり深まっていくなか、中津川の一部の親が起こした“恵那の教育に真っ向から反対する”動きは、背後に企業、行政、政治勢力が見え隠れしながら、執拗につづけられました。

 しかし、子どもの人間的発達を願い、教育をよくしたいとする父母・教職員の運動は大きく広がり、県民大集会や恵那地区教育大集会が開かれるとともに、恵那地域のいたる所で「教育を育てる会」の小集会がもたれるようになり、地域に根ざす教育は高校の積極的なとりくみと共に大きく前進しました。七九年には“子どもと教育に寄せる親の願いを語り合おう”をテーマに「全国親のつどい」が恵那の地でもたれました。」(恵那の教育資料集編集委員会編「恵那の教育」資料集2、2000、p697-698)

「恵那地域にを(※ママ)中心に、「地域に根ざす教育」が広がり深まるなか七六年の秋、中津川市坂本地区で親が子どもをつかった授業時間割調査をもとに「授業時間が片寄っている」「基礎学力が低下している」「文部省の示す教育をせよ」と、真っ向から反対する運動が、坂本地区の一部の親、市内の大企業、保守の市議会議員を含む保守勢力のそれと時を同じくして展開されました。学校長・教育長などに質問状を出したり、市議会での質問を利用した教育攻撃、地元の地方紙に数十回にわたって「生活綴方」教育、地域子ども会活動などに対する批判・攻撃をくりかえし、教員の人事異動に介入する動きまでみせました。」(同上、p706)

 

 この引用を初見で見た読者は少なくとも「恵那の教育」実践が子どもの可能性を広げた実践であったことを疑わないことだろう。また、あたかも「集会」に多くの人が集まり、賛同者として存在していたかのように語られる(※2)。そして、正常化側が政治性を強くもった勢力であったということも真に受けてしまうかもしれない(※3)。しかし、すでに見てきたように、事実はそこまで明るいものだったと、少なくとも当時の一般的論調では語られていないし、政治性に関しては、ごくごく一部の例外(まだ検証できていないが、岐阜県議会の正常化決議などはこれに適合していると言いうるか)を除けばほとんど虚構であると言わねばならない。集会の内容についても、小木曽は次のような批判をしている。

 

「(※「恵那の知で教育を考える全国親の集い」の集会呼びかけ資料を)少し長いがその部分を引用させていただく。

(子供達の自殺、殺人、強盗、家出を深刻な荒廃として)

「子どもたちの、この荒廃のひどさは、取りも直さず、大人達の荒廃のひどさの反映だと指摘されてきています。(中略)

 まことに、今私達の生活は、政治的、経済的、社会的に戦後最悪の危機的状況に落ちこんでいるように思います。有事立法、元号法制化、失業、物価高、増税など、様々な形で生活がおびやかされ、自由がせばめられ、主権在民がないがしろにされ、子ども達の全面的な発達をめざす努力に対しての圧力が加えられたりしてきています。」(以下略)

 続発する子供の非行、自殺に心を痛めない親はない。その原因の一つにいわれるような、大人の暮らしに起因することも理解できる。がなぜそこに「有事立法」が出てくるのだろうか。全く無関係であるとはいい切れないものの、子供の非行も「有事立法」と結びつけて考える親は、極く限られた一部の人達であろう。その人達にとって今問題なのは、子供の非行よりも、政治の流れでありそれにまつわる政党の消長ではありますまいか。

 子供の自殺も心配されておろうが、それさえも、今の政治が間違っている。それをいうための一つの現象として考えられているに過ぎない、こういったら言い過ぎであろうか。

 中津川においても、子供達の非行化を憂い、基礎学力向上を願う多くの親達の声は、政治、思想を越えたところにある。であるのに中津川の教育が、子供の非行と「有事立法」を一緒に考える一部の親と教師によって、長い間リードされて来たこと、ここに問題があったのではないだろうか。

 今子供達を非行の誘惑から守り、生命の尊さを教えるのは、政治と教育の混同を思わしめるような○○集会ではなく、学級、或いは地域での親と教師の率直なひざ突きあわせた話し合いの積み重ねの上にこそよりたしかな効果が得られよう。」(小木曽1980、p52-53)

 

「本日開催された第一回恵那地区教育大集会に教育に関心をもつ親の一人として参加した。

 親、教師のそれぞれの問題報告は日曜日の半分を棒にふってまで来てよかったと思えるような胸をうつなにものもなかった。しかし高校生二人の現状報告はとりあわけ高校生をもつ親にとって考えさせられる内容であった。

 クラスの半分以上の生徒がタバコを吸っている。それを注意した方が仲間はずれにされる。勉強が厳しすぎるあまり、非行に走るものや、無気力、無感動の生徒が多くなっている。高校に売春の噂さえある。

 子どものよりよい発達を願う親ならばこれをきいて平然としてはいられない。私はこれ程、重大なテーマを高校生自らが提起(告発といってもよい)した以上集会がこれをどう扱うか大変興味があった。しかし結果はまたいつものパターンで終った。問題は出されただけ、そのあと壇上に上った親、教師の誰もそのことにふれようとされない。親がききたいのはその生徒たちの訴えに対して、どうするという、専門職である教師としての「診断」とそれに基づいた「具体的な処置」である。」(小木曽1980、p114-115)

「これでは「教育の荒廃」そのものが人を集めるための「みせもの」になっているといわれても致し方あるまい。集会の成功、不成功はその討論の中味ではなく何人集め得たか、その「数」を「力」によみかえ誇示するだけといったら、いい過ぎであろうか。私も含めてそこに集った親達は漠然とした不安と疑問をここでも「増幅」されっぱなしで帰ってゆくだけである。

 これは今回に限ったことではない。もう十数年も前から実行委員会という主体のさだかでない人達で企画される教育の○○集会はいつもこうである。」(同上、p116)

 

「(※恵那地区教育大集会の)会場入口の受付には、学校の先生がずらり並んでおられ、参加者一人ひとりに集会の資料を手渡されていた。会場へ入ってから、その資料をみてびっくり、とんでもないのが含まれている。そのパンフレットはタイトルこそ“保育所つぶしは許さない”、そうなっているが、その記事の内容は政治的偏向いちじるしいとしかいいようのない文章で埋められている。

 その一例をあげれば、生活保護費、児童保護費等の国庫負担率一割カットに関連して

 「法律も無視して弱者をきりすてようとする政府を許すわけにはいきません」

 「私たちは子どもや障害者、老人などを守る運動と連帯して政府の攻撃をはねかえして行きましょう」

 とまあこんな調子の文章である。

 それだけでなく、さらに、ていねいにも切りとって、切手をはればそのまま内閣総理大臣中曽根康弘殿宛の要望書となるようなハガキまで用意されていた。そして集会終了後、主催者側より、参加者に対しこのハガキを出してほしいという呼びかけまであったことは子どもの先生という立場を利用し集めた不特定多数の親たちに政治活動を強いている、そういわれたとき、どう弁明されるおつもりなのであろうか。

 パンフレットに書いてある内容を、政党の機関紙でみるなら一つの見方、考え方として別にどうということはない。しかし、ここは学校の体育館であり、教育の集会であるはず、どうみても不自然すぎる。

 なによりもこのパンフレットが学校の先生によって配布されることは、教育公務員として厳しく規制されている政治的行為にふれるのではないかとさえ思える。

 あげ足をとるともりはない、しかしこのパンフレットが集会資料として配布されることに対し、主催者側内部で“こんな文書を配ることはこの集会が誤解される”、そういう声は起きないのだろうか。

 ここにこそ、この集会が子どもの教育の場を偏った政治活動の手段として利用せんとする、一部の人達に引きまわされている困った側面をまざまざとみせつけていることになろう。

 学校という公の施設で、こうしたことが堂々とできる、中津川の教育にみえかくれするこの陰の部分に、もっと、もっと多くの親が気付いてくれない限り、教室で子どもの授業を通して親の信頼と連帯を……。そういう先生方はいつまでも隅っこに押しやられていることになろう。」(小木曽1985、p164-165)

 

 小木曽の批判点はひとまず置いておくとして、無視できないのは、むしろこの集会の性質である。小木曽の言い分をそのまま支持すれば、ここで議論されているのは「恵那の綴方教育」実践のすばらしさを集会で披露するようなタイプのものではなく、むしろ保護者も含めて教育問題に取り組むことを意図するための集会が行われていたのが実際ではないか、という点である。そうすると、「反正常化側」が述べているような集会のイメージとは少し異なっていることになるのである。あくまでここでの集会は高々中津川市民の教育への関心の高さという事実のもとで行われた集会でしかないのである。この点からも反正常化側は事実を正しく伝えようとしているとは言い難いといえる。反正常化側はあたかもこれを政治的対立図式をもって語っている節があるが、そのような図式は集会参加者層には全く適用されていない内容なのであり、それが適用されるように見える要素というのは、横槍で用意されている政府の政策に反対されている資料などしかないのである。一言でまとめれば、このような集会が行われていたという事実は、反正常化側の支持者が多数いたことの根拠には全くならないということである(これは教師の呼びかけにより参加をしている保護者が相当数いるかのような小木曽の言い方からも認められる)。

 

 今回の現地調査で検討できるのは概ねこのあたりまでである。今後も資料収集を行いながら、より議論を深めていきたいと思う。

 

※1「七〇年代全般にわたって恵那地域の生活綴方教育は、坂元忠芳、深谷鋿作、森田道雄、田中孝彦、その他の全国の研究者の方々に理論的に導かれた部分がたくさんあります」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p9)とされるように、森田はこの時期の主要な反正常化側の論者の一人に位置づけられる。

 

※2 「教育を育てる会」については、実態を十分につかめておらず、今後の考察課題としたいが、小木曽は次のように育てる会についてコメントしている。

 「「中学になればテストに追われ、入りたい高校にも入れず、点数だけで子供の将来を決めてしまう状態です。万引や非行、性の問題で悩む子もいます。親も先生も本当にどうしたらよいのか困ることばかりです。」

 これは市内の小学校で子供を通して、先生から親達に配布された。「民主教育を育てる会」への入会を呼びかける文章の一部である。ここにはいま、学校教育のかかえている、のっぴきならない問題の大半がいいつくされている。

 なぜこれらは「育てる会」では話し合われるのに、PTAの役員会の議題にはならないだろうか、中学に入れば子供の将来が学力で決められることがわかっているなら、そしてそれがどんなに不合理であろうと子供達の、当面する現実がこれであることを先生方も認めざるを得ないならPTAで背骨の曲がっていることと朝、歯をみがいて来ないこと、これらと同じレベルで学力をとりあげられてもいいはずである。

 また、ちゃんとしたPTAがありながら、「育てる会」、「母親連絡会」、「新婦人の会」等の会員拡大に、先生方がこれ程熱心であるということ、これらも中津川の教育のおかれている特殊性を表明していることになる。

 育てる会、新婦人の会等をそんな特別の芽でみることはない……。親と教師が話し合うことはいいことじゃないか。私もそう思いたい。しかし、これらの団体の目的の一つに、先生方の教育運動の一環としての位置づけ、即ち国が標準として定めている指導要領までも、それを守ることを猿芝居として排斥する自由を確保するため、もう一つは特定政党の学校を基礎として基盤として活動するための「かくれみの」として育てられてきた。そう思わざるを得ない事実をみるにつけ、こうした会が先生方や一部の父兄によって、これ程までに大きく学校に居坐ることは子供の教育という面からは好ましいこととはいえない、やはりPTAがあればそれで十分、そういわねばなるまい。

 「育てる会は誰でも入れる、そこがPTAと違う」とよくこういわれる。本当にそうであろうか。現に私は数年前まで熱心な「育てる会」の会員であった。岐阜市で開かれる全県レベルでの会合にも、先生からの「御指名」により何度か出席している。それが三年程前「子供達の基礎学力をもっと大切に。」こんな発言をPTA総会などでするようになったとたんに、「育てる会」の連絡は一切なくなった。そのことを「育てる会」の本部役員にきいてみたところ「あなたは会費を滞納している。だから会員ではなくなった。」こういう返事であった。でも会費はたったの月額十円、それをいつどこで収めるのかこんなことはいつさい知らされていない。私が「クビ」になった理由は他にあり、それは私自身がいちばんよく知っている。このように誰れでも入れるといいながら、その入口ではちゃんと選別がある。これらは育てる会の性格をよく表している事例である」(小木曽1980、p100-102)

 

※3余談に近いが、ここで語られていた「人事介入」についての小木曽の説明も加えおきたい。

  この「人事介入」と呼ばれる内容が初めて明らかにされたのは、渡辺元教育長の「赤旗」記事からであると思われる。

 

 「あれは人事異動の時期で一九七七年二月ころの午後だったと思います。小木曽尚寿氏が市教育長室へきて、私に一枚のコピーを差し出し『これを代えてくれ』といいました。それは手書きで、坂本小学校の教組の活動家の名が五、六名書かれてありました。私が受け付けなかったので、彼はそのコピーを置いて、帰っていきました」(1983年3月15日赤旗・小木曽1985、p242-243)

 

 これに対し小木曽は次のような反論をしている。少なくとも、ここでいう「人事介入」にはそれなりの理由があるが、やはり反正常化側はその事実には触れていない。

 

「私達、親には先生を代える権限もなければ力もありません。しかし私達は市教育長であるあなたのところへかけ込めばきっとなんとかしてもらえる、そう信じて疑いませんでした。

 子どもの授業はいい加減で「有事立法反対」にばかり目の色を変える先生をなんとかしてほしい、親達が教育委員会にそういっていくことが、どうして“人事介入”なのでしょうか。そういう親達の声に耳を傾けその事実を調査し、公教育を進めるに不適当な先生があればそれなりの処置をしていただくのが教育長のお仕事ではないでしょうか、私は自分の子どもの義務教育の先生を塾の先生のように自由に選べない以上、「赤旗」新聞にどう書かれようとも、困ったことがあればこれからも市教委にいって行きます。教育委員会はそのためにあると思っています。ただそれはよくよくのことであり、わざわざ市教委にまで持出さなくても、担任の先生、或いは校長先生の段階で解決できればこれに越したことはありません。当時、私達がこうして何度も市教委へ“直訴”すべき事柄の多かったことは今から思えば結局その根元は、渡辺さん、あなたにあったのではないでしょうか。」(小木曽1985、p244)

 

「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間報告

 今回は70年代後半の「恵那の教育」の正常化の議論を検証していくにあたっての中間報告を行う。

 この報告は中津川市を中心に私が行った資料収集の結果を、時系列で追う形でまず行う。具体的には映画「夜明けへの道」の発表のあった1976年6月から、当時の中津川市教育長であった渡辺春正が教育長をやめる1981年6月までの5年間を対象に、これまでに拾えている議論を捉えていく。今回の報告をもとに、これまでの「恵那の教育」の議論との関連性などの考察を次回行う予定である。

 今回特に資料として重要といえるのは、中津川市に本社のある(あった)二つの地方新聞「三野新聞」と「恵陽新聞」の当時の論調である。両新聞は週1回の発行である。今後また別途岐阜の地方紙にはあたる予定だが、特に恵陽新聞に至っては、1976年7月以降、それまでの一般的な新聞の論調からまるで「教育新聞」であるかのように中津川の教育問題を取り上げるよう新聞の内容を改めている傾向さえあり、1978年11月以降は小木曽尚寿による長期連載も行われている(この長期連載の内容が1980年と85年に自費出版で書籍化している)。

 

・1976年7月20日 中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 前月6月20日(三野新聞報。恵陽新聞では25日とされる)に「中津川教育市民会議」という組織により映画製作が決定された。この市民会議は中津川のあらゆる教育機関(各小中学校、教職員組合、市連合PTA、民生児童委員会等30~40数団体。正確な数字は新聞記事により異なり把握できなかった)により構成された組織である(※1)。この連合PTAの会合の場でこの決定があまりにも「非民主的」手続をとったことが問題となった。恵陽新聞(1976.7.31)では各PTAの意見が次のように取り上げられている。

 

「教育市民会議の性格・構成について、単Pにも通知せず総会をしたが、これはどなたが何の代表で総会をしたか、全く複雑怪奇であり、こんな総会の構成はない。単P会長に連絡したというが、それは直前であり、また総会の出席者は先生が大多数だった。決ってから協力せよでは納得できない。」(落合小P)

「各団体を調べたが通知がない。手違いだけでは済まされない。総会で決めたのは横暴である。」(落合中P)

「何故十六ミリ映画でなければいけないのか。また中津川に立派な教育があるのか。例えば地区外へ行く生徒はいても入ってくるものはない。当市で誇るものがあるか。映画づくりは一部のなんとかよがりと思う。この映画づくりには反対します。」(南小P)

 

 恵陽新聞の社説欄では次のように語られる。

 「会議の母体は団体名が非常に多く羅列されているが、本質は中津川市の教育ボスのひとりよがりの官製ハガキに過ぎないのではないか。教育市民会議という組織の偉い人達がどのようにいおうと市民という言葉を使うのは余りにも押付がましいのではなかろうか。幹事会機関団体とかいう団体の中に現に私の属している団体名があがっているが、私がこの団体に属してからすでに八年にもなるが、いままでに一度も教育市民会議の名すら出たことがない。……本当に民主的に作られた組織であるならば、総会に組織に参加していない一般市民の参加をビラによって集めて総会で決定したなどと無理をしなくてもよいし、映画の制作が決まったという時点で、これ程の反対は出ない筈であろう。」(恵陽1976.7.24、立石道郎)

 

 小木曽も「映画作りが多くの先生と、一部の父兄によって強引に進められてきた」(小木曽1980:p215)と述べていたが、この総会においては、実質的に動員された「反正常化」側の職員らが中心になって決議に関与したことは想像に難くない状況だったといえるだろう。

 結局結論として「中津川の教育を取り上げるのなら、そんなに急がず、もう一度市民会議の上に戻し、教育界全体で判断すべきだと結論が出された」(三野1976.7.25)、「会の意向を市民会議に戻すと同時に単Pに持ち帰り、再度検討することになった」(恵陽1976.7.31)と「差戻し」に近い結論がこの場では出たようである。

 

 PTAをはじめとして保護者側から見ればこの映画騒動は「外から」やってきたものであった。そして、その決定について関与を事後的に議論することとなったのである。この映画に対する最初の印象が良かったなどとはとても言えず、まさに広く中津川の教育に対して「疑念」が湧いてくるような事件だったといえる。

 

・1976年9月18日 再び中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 映画製作に対する説明や、実際の撮影の状況、そして各PTAによる話し合いの結果、実質的にこの日に映画製作が追認されることとなる。ただ、すでに話の前提として「教育市民会議が一方的に決めたとの批判があるが、あくまで総会で決った以上映画製作を進めるのは当然である」との見解が此原久夫P連会長から出ている。

 恵陽新聞(1976.9.25)の記事記載の議事からは、落合中PTAが明確な反対を表明、落合小は説明不足のため保留、坂本中はまだ議論をしており保留としたが、その他のPTAの意見は映画撮影の状況を見て賛成、もしくは問題・一部反対があるがその解消等を目指すことも含め条件付きで賛成と、結果として賛成が多数となり、PTA連として映画に協力することとなった。

 

・1976年10月16日 坂本地区教育懇談会の結成

 

 坂本地区教育懇談会の結成は結局上記の議論の延長線上にある。恐らく上記の決定が出る前後から、中津川の教育そのもののあり方についての内省の必要性が議論され、坂本小での「授業実態調査」がなされたものと言えるだろう(調査は9月28日から行われた)。

 坂本地区教育懇談会の発足時の会員は86名と報道されている(恵陽1976.11.13)。当時の坂本小学校の児童数は正確な数字が見つかってないが、中津川市議会の昭和56年度の第4回定例会の議事にて、約1200人という数字が書かれていた(6月15日議事録)。この数字を見ればそれほど多数の会員がいた訳でもないとみることもできるし、わざわざPTAとは別組織を立ち上げ、それに積極的に賛同する層がこれだけいたとみることもできるだろう。

 

・1976年12月 中津川市議会

 

 坂本地区教育懇談会の実態調査・提言を受け、年末の中津川市議会定例会は教育に関する一般質問が相次いだ。質問を行った10議員のうち、7人が教育に関する質問を行ったという(三野1976.12.19)。残念なことにこの時期の議会議事録の記録が図書館には存在しなかったものの、三野新聞では、篠原孫六議員の質問文を2回に分けて全文記載するという異例の対応をとっていた(三野1976.12.19、1977.1.1)。以下、内容を引用する。

 

「これから述べることは小学校、中学校、また学校によって程度の差はあるが、特に二ツの某学校は異常と云われている。この地域は日教組のモデル地区とも云うべき地位で、年一年と強化して今日に至っている。その名は日本的にも名が知られていて、中央のある雑誌にも紹介されている程で今回の教育映画作成もこうしたルートから手がつけられたものであると思われている。

 組合活動は法で認められているものであるが、待遇改善、勤務上のことは限定されている筈であると思うのにイデオロギーや政治的論争に深入りしすぎている。ある教師は社会科の本は五年、六年、二年間ほとんど考えず、本はまっ新しのままと云ったものも出ている。そして毎日の授業が指導案一つ書かず、思いつきその場限りのもので、生活綴方と地域活動には異状(※ママ)なほど熱を入れ正規の時間に食い込んでいる。コツコツと地味な研究を続けたり研究授業をやることなど大嫌いで、ハデな作文や地域活動と云った表面的なことに浮身をやつしているかに見える。これは今回の教育映画作成にも表われている。父母の大部分が反対していても、あの手、この手で一方的に賛成させた型でやろうとする。このかげの力は一体誰であろうか。この映画の趣意書にはあるところから流された文章がほとんどそのまま使ってあり、どんな傾向のものであるかは想像がつくものである。」

「県内で毎年施行されるところの児童、教師の発明工夫展、その他作品展、音楽会などへ出品も参加もしない。……

 こうした結果として、県下の他地区からその教育が軽べつされ、県下の教育界の孤児となり教育砂漠と呼ばれている。」

「テストは教育効果をためす一手法であって、人間を点数で評価するためのものではない。つめこみ教育反対と云うが、食物でも同じように、精神的栄養である知識をつめこまなければ人間は死んでしまう。ただその分量なり内容方法技術をどうするかをどうするかが教育者に課せられた問題である。

 学校教育にはご存知のとおり智育(※ママ)、徳育、体育の三ツの方向があり、それら三ツが揃ってその人の生活力と人格を形成する。智育を軽視するのは学校教育の否定であり教育的自殺者である。綴方と地域活動さえしっかりやっておれば勉強もできるようになる。」(以上三野1976.12.19)

 

 

「私達は地域重点の教育活動が無意味とは思っていません。そこで得られる人間的なふれ合いは親を含めて必要な事はよく判ります。然しそのことによって失われるもの、即ち学校本来の使命である授業や、学級としてのまとまりが軽視されることに多くの不安を抱き、そのことを適接(※ママ)に学校側にただしたこともありました。しかし学校側からはいつも「やるべきことは」十分やっているという返事をいただいてきたのです。ところがさきに%で申したとおり、地域重点の教育方針によって他の科目時間数は失われております。」(三野1977.1.1)

 

 この事例は一つ、二つの学校だけの問題であればそこまで深刻ではなかったのだろうが、実態はどうもそうではないらしい。次のような記事もある。

 

「新学期が始まった早々に市立第二中学の国語教育に父兄からクレームがつくなどに端を発し、ことし卒業した同三年生の国語教育が卒業生から異口同音に(本社調査)昨年一年国語の教科書は一度も開かなかったといい、先生は使用したという言葉の喰い違いがあるが、いづれにしても補助教材を多用していることは間違いない。」(恵陽1977.5.14)

  

・1977年12月 映画「夜明けへの道」の完成とその反響

 

 極めて残念なことだが、恵陽、三野の両新聞記事からは、この映画上映によって、PTA連を中心に保護者全般がどう感じたかは読み取れなかった。むしろ不可解なのは、事前段階では大騒ぎになった題材であったにも関わらず、上映会に関する記事さえも見当たらない点であった。

 ただ、「一部の論者」と片づけることができてしまうレベルで言えば、酷評しか記録が残っていないのは確かである。

 

 「この映画に対する感想を結論から書いてみよう。「失望」という言葉よりほか何ものもない。……

 秋の運動会を、あなた達は地域ごとに編成し、子供達の手で運動会をつくっていったといっているが、このあなたがたの、いい分については納得いかないものがある。私は子供達は自主的につくりあげた運動会の運営についていうのではない。地域別という方法である。同じ学年のクラスの親同士が一番交流しやすい場を、うばってしまった事になることをきづいているのか。あなた方年二・三回行なわれる型にはまった授業参観では親同士のつながりは不可能でしょう。

 またこの映画の中で地域子供会は、あなた方が育成してこられたようにいっておられるが、数年前まで、あなたたちは地域子供会の組織を拒否つづけてきたのではなかったのか。古い子供会の育成会の役員たちは皆いたいほど知らされている。

 佐義長の行事にしても、夏まつりの、ワッショにしても、多様化してくる社会で押しつぶされそうになりながらも、復活させ、また守りつづけるのに必死になっているのは、あなた達ではない。本当に地域の伝統を素朴にうけついできた親たちであるといいたい。

 あなた達はいつのときでも自分の立場だけでものをいっていることに気付いていない。この映画の中でも綴方教育が今日の恵那の素晴らしい教育基盤を作りあげてきたのだというが、そのかげで毎年三月入試発表の校庭で涙を流す親子があり、小中学生の非行指数も全国平均を上廻ろうとしている現実になぜ目を、おおうのか。親達は今の社会の中でごく普通に生きてゆく事の出来る子供に育ててゆきたいということを願っていることを忘れないでほしい。……

 とも角この映画はあなた達がこうありたいという希望なれば、まだゆるせるが、このように私達がやっているのだとの主張なれば、とてもゆるすことはできない。」(恵陽1977.12.10、白井清春

 

「昨年十二月市議会で、こうした動きを察して数名の議員が一般質問で取り上げ、教育長の善処を促した結果であろうか、少くともカリキュラムの面での改善は可成り進歩したようにみえた。これで中津川の教育が改善されたわけではない。その具体的のあらわれが、最近封切られた「夜明けへの道」という自主映画である。資金を持たないで中津川教育市民会議が自主的に作らせた映画であるだけに、父兄、先生のカンパでできた映画である。「うちの子がうつった、笑った、走った」と、素朴に喜ぶ父兄もいる。しかしそこを貫いている教育理念は、日教組理念であり綴方教育の延長線上にある。「教育の場に政治を持ちこむな」とは、日教組が常に口にする言葉であるが、この映画を見るかぎりに於ては、彼等の主張する政治理念が映画の中にふんだんに盛りこまれ、政治による教育の混乱が一そうはげしくなっていることはいなめない。・記録映画ではなく、傾向映画としサブタイトルを改めてはいかがであろう。」(恵陽1977.12.17、阿木寒子)

 

 また、坂本地区教育懇談会が市民向けに1000部印刷し(1977.12.17付で)配布したパンフレットでは次のように評す。

「「ナマの事実の持ち合わせがない他地区の人々、特に教師にとって中津川の自由な教育実践はきっと評価されるであろう。そのあまりにも自由すぎる教育実践に対しての親の不安と疑問は画面ではすべて打ち消されている。が製作に携わった教師はその過程で「親と教師が見事な合意のもとに素晴らしい教育を進めている」。これとは違う「市民の声」が決して少なくないこともよく承知されておられることと思う。」(小木曽1980,p221)」

「「父母なんかの要求は、いびつな中にもとにかく上の学校へ行かせたいという要望がある。本当に子供をしっかりした人間にするということは、ちょっとすじの違う要求が、手をかえ品をかえ表れると思う。教師はそれを乗り越えねばならない」

 これは画面に出てきた東京大学教授(当時)大田堯先生の言葉である。中津川の教育の歴史のなかで、太田(※ママ)教授がずっと以前から中津川の教育の指導的立場を果たされてきた人であることはよく知られている。はじめから賞讃する立場の人の、しかも「東大教授」という権威をたてに、親の願いを都会で問題になっている進学過熱にスリ替え、「すじの違う要求」として葬ろうとされている。映画を一時中断せしめた程の「市民の声」がこれでも大切にされているといえるのだろうか。」(同上、p227)

「今、問い直されるべきだという意見は結果的に少数意見であるかも知れない。しかし、中津川の学力水準はどうか、学校の特異の授業は、本当に子供のためになっているのか。これらは少くとも「地域」「綴り方」に優先して問われるべき義務教育の本質にふれるテーマである。これが新聞テレビであれ程とりあげられたことにより、多くの子をもつ親は、それを直接、教師に言うか言わないの違いはあっても、もうそこからそんなにたやすく目をそらしはしないと思われる。これこそ映画のもたらした大きな意義ではないだろうか。」(同上、p229)

 

 また、この映画上映にあたりもう一つ議論の種となる事態があった。地元市民向けの映画上映がこの時期なされたのとは別に、全国への普及向けの映画が別に作られていたという内容である。これは公開質問状という形で坂本地区教育懇談会が教育長になげかけ、三野、恵陽両新聞でも内容が取り上げられた(三野1978.4.2、恵陽掲載日未確認)。その映画に対する評は、恵陽新聞で次のように取り上げられた。

 

「一見して驚いたことは、内容が前回に上映されたものと全く異質のものとなってしまっていたことである。いままで父兄や教師の論議の中で教師達が、父兄の説得のために終始言いつづけてきた、いままでの中津川市の教育の点検という、映画作りの基本はその姿を全く消してしまい、とかく非難の多い、当市の綴方教育というものを、我田引水的な論理によって、合理化しようとし、つま先立の必死の背伸びとしか受けとれない映画となってしまっている。そこに何か教師達の心の底をみたようで、私は親達が子供の教育に対する心情を考えたとき、いきどおりと共になんともやりきれない暗い気持になった。

 余りにも、つくられた絵である。この映画の言わんとすることは、始めから終りまで、綴方教育の讃美であり、その上この教育こそがと自画自賛しその芽がいまこのようにでようとしていると、結論づけている。しかし、この映画の製作に当って始めにいった点検は全く姿を消し、父母、市民、教師の協力だとか、地域ぐるみの「子育て」の記録映画だといった基本的な製作姿勢は何処へいってしまったのだ。

 たとえば、昨年の十一月二十日の製作ニュースをふり返って見よう。「秋空の下撮影すすむ」の内で親と子、地域と子どもといった撮影に入ったと告げ父兄の歓心を買うような(現在ではそうとしかおもえない)記事を大見出しで載せているが、改訂版にはその片鱗すらみうけられない。

 この映画には教師諸君のいっていたような、中津川の教育の点検のための製作である、この映画をとおして、親も教師も、子供の教育を考えるすべの市民が明日の教育を考えるためとか中津川の教育の点検であるとか立派なことが言われて来たが、できあがったのは全く“うらはら”な教師達の現在の教育姿勢のどこが悪いのかという、ひらき直った態度さえ見える。父兄、市民への押しつけである。……

 この映画は市民の恵那の中津川の教育の点検という悲願を置きざりにして、私達の手のとどかぬところへいってしまった。」(恵陽1978.5.13、立石道郎)

 

 

・1978年3月 2度の学力テスト結果の公表

 

 小木曽のレビューでも渡辺教育長の反論として取り上げていた学力テストの結果であるが、中津川市立教育研究所「研究紀要 第8集」(1978)の中で確認ができた。これは国立教育研究所の「学力実態調査」と「学習到達度調査」という2つの学力調査結果として示されていた。

 この調査自体は極めて綿密に行ったように見えるものである。試験内容は国語と算数の基礎問題が出題されており、誤答分析も行い、その誤答の傾向も全題示している。

 ただ、気になる点もある。まず、この2つの調査の実施日である。中津川市における「学力実態調査」の実施日が1976年12月10日であり、「学習到達度調査」は1978年1月25日である。コロナウイルスの影響でまだ正確な裏が取れていないが、両調査とも、国立教育研究所が正式な調査として実施した時期よりも後に行っているらしいことがciniiの論文検索を見る限り確認できている。要するに、既出の学力調査について、(おそらくは国立教育研究所の許可を得て)中津川市の児童にも実施したというのがこの2つの学力調査である。

 また、具体的な調査方法については「研究紀要」では何も示されていないが、少なくとも悉皆調査としては行っていない。例えば、「学力実態調査」の方は小学5年生の調査人数は算数が251人、国語276人とされており、中学1年は数学が374人である(国語は未確認)。統計データを確認すると、1978年5月1日時点での中津川市立小学校在籍児童は合計5,197人、中学校在籍児童は合計2,528人であり、1学年800人前後は在籍児童がいるはずなのである。また、同じ日にやった割には小学5年生の算数と国語で実施人数がかなりずれている印象がある点も気になる。

 

 この2つの疑問は「恵陽新聞」の1978年6月3日号でも同じように取り上げられている。

 

「テストの方法が問題である。実施者が公平な第三者でなくて報告者自らのもので、自分が自分を、親が子をテストして公正なものであるというようなものであり、実施したクラスも無作為抽出とは書いていない。一番出来るクラスかも知れないしそのクラスだけ特訓もできるし、予め練習させておく事もできる。必ずしもそうだというのではないが、そう疑われてもしかたのないようなものを公表して市民を納得させうるだろうか。」(恵陽1978.6.3)

 

 これだけ見ると随分と偏見があるように見えなくもない。しかし、やはり基本的に学力低下が深刻なものであるということは当時の記事を見る限り、(小木曽の議論も含め)繰り返し、実証的に示されてきたところもあり、その事実に反するという前提があれば、このようなうがった見方も致し方がないかもしれないとも思える。

 例えば、小木曽も紹介し、岐阜県議会でも話題になったという高校進学模擬テストの経年比較において、中津川市も含んだ東濃地区は過去十年程度は低い基準にあったことが指摘されている(小木曽1980、p242)。新聞でも次のような記述があった。

 

「先日、岐阜日日新聞社が発表した模擬テストの結果は東濃人、とくに中津川、恵那地域の人々にとっては実にショッキングな発表だった。そのテストは県下六地区のうち東濃が最下位、しかも英語は一位の岐阜六一・四に対し三二・八。国語理科、社会といずれも最下位、平均点も岐阜の二七九・七に対し二二二・九という成績である。

 なにも成績のよいことばかりが万能ではないが、せめて平均点ぐらいはほしいものである。東濃の人間は県下で一番頭が悪いということも今まで聞いたことがないし、成績のよい若者も多数いた。それが近ごろなぜこんなに成績が悪くなったのか、教育者も父兄も、いや東濃の人々は真剣に考えなければならない。」(三野1977.2.20)

 

「高校教職員組合恵那支部の「落ちこぼれや非行は受験競争、つめ込み教育」というチラシが各戸に配布された。一読して、去る七月県議会で多治見市選出の古庄三六県議が「東濃は教育の谷間」という代表演説と、これを受けて県議会が「教育の正常化」決議を行ない、日の丸を掲げ君が代を歌おうと決めたことに対する反論とうけとれた

 学力は県下最低、非行は県下一、というあの古庄県議の演説は東濃ことに恵那地区の父兄にとってはまことにシヨツキングな問題提起であった。恵那の教育はこれでよいのか?と幾つかの新しい動きが始まったのも当然である。

 このチラシでは“学力は最低ではない”と国民教育研究所の資料をのせ、古庄県議の資料は一業者の結果だけで然かも受験率などが考慮されていないものだといっている。がたとえ一業者(新聞社)の資料とはいえ九年間も各課目とも最低とはいかにもなさけない

 非行についても「ある一時期の警察に摘発された万引だけを取りあげた」とし非行は恵那だけでなく全国的傾向だとのべている。が一時期にしろ県下一とは誠に遺憾であり等閑に付すべき問題ではない。政府や社会にも問題はあるが、みんなで責任をもち、謙虚に真剣に取り組みたいもの。」(三野1977.9.11)

 

 

・1980年9月・12月 中津川市議会

 

 小木曽(1980)の出版のインパクトが非常に大きかったことが当時の状況からわかる。三野・恵陽新聞でも紹介され、自費出版ながら発行部数は7月から3ヵ月で4,000部売れたという(1980年9月16日中津川市議会定例会議事録)。このうち3,300冊が中津川市で配られたものである。1980年の国勢調査によれば、中津川市の世帯数は14,502世帯(人口52,626人)となっていることから、4世帯につき1世帯近くが本書を手に取っていたという計算になる。9月の議会においても、本書に関連する一般質問が3人の議員からなされた。本書に対する評判については「この本がわずか3ヵ月で4,000部も売れ、その反響のほとんどがその内容を肯定し、この際改善を求める声が強く多いとすれば、議会の立場からもこれを看過するわけにはいかない重大な教育上の問題」(1980年9月16日、千村信四朗議員一般質問)、「これまで私が耳にした本の反響は、内容に対する共感の声が圧倒的に多いことです」(1980年9月16日、市岡廣議員一般質問)という形で好意的な意見が多数であったと述べられている。

 議会の質問内容としては学力低下、非行問題、映画の問題とその監督責任の議論が一通り語られるものの、9月の議会では特に真新しい議論があったとはいえなかった。ただし、12月の議会は少し事情が異なる。12月の議会で市岡廣議員は次のように発言している。

 

「まず質問の第1点は9月にも行いましたが、その関係もありまして少々くどいぞと言われるかもしれませんが、何としてももう一度渡辺教育長さんから明快な見解をいただきまして、毅然たる姿勢で問題に対処していただくため、あえてもう一度ここに取り上げることにしたものです。

 それは教育長さんの学校に対する管理、監督、指導に関するかかわりの問題であります。9月議会の折り、この主題の中で私は次のように渡辺教育長さんに対してご質問を申し上げました。それは学校を中心にいろんな活動が行われています。PTAの活動はもちろんのことですが、育てる会、母親連絡会、さらには新婦人の会などの活動がとりわけ私たちの目に触れております。学校を中心にしたPTA活動以外のこれらの活動は教育の職務を全うする上でどうしても必要な教育活動なのか、はたまた自主的な、任意的な組合活動としてあるのかとの問いかけをいたしまして、具体的な事例の一つとして特に育てる会の位置づけについて申し述べたところであります。さらに育てる会の通信文がいまもって子供たちを通じて各家庭に配布されている事実についても指摘いたしまして、こうした状況のもとでは学校の政治的中立性がないがしろにされる危険性がきわめて大きいと、危惧の念を申し上げてきたところであります。そうしてこれらに対して今後どのように指導をしていくのかをお聞きをしたわけです。

 渡辺教育長さんは私のこれら質問に対しまして、次のような見解を披瀝をされましたし、私自身もこのやりとりを通じてそれなりに理解をしてきたところであります。それによれば、まず育てる会などもろもろの諸団体は教師の本来の任務である教育実践としては異質なものであり、これらは民主団体といった位置づけにあること。この活動は民主団体の構成員の自主的な活動であるべきであり、この面では拘束時間外に活動すべきだ。明確にお答えをいただいたものです。さらに子供たちを通じて通信文を配布することについては決して望ましいことではないので、厳重に注意を申し上げ、これらけじめをつけるよう今後指導したい、このように答弁をいただいたわけであります。

 ……しかし再びこの壇上から同じような問題で質問を申し上げなければならないのはまことに残念だと言わなければなりません。皆さん、私の持っているこの新聞を見てください。この新聞は新日本婦人の会が発行しております新婦人新聞であります。ある特定な読者を対象に発行をされてる新聞であり、私がここでこの新聞を取り上げて話題にすることこそ奇異に感じられる方もおみえになると思いますが、この新聞をこの壇上で取り上げてどうこうするという気は私自身毛頭ありません。むしろ私がここで取り上げたのは9月議会で渡辺教育長さんからの明確な答弁にもかかわらずある特定の学校で、それも特定な先生を通じてまことに堂々とお母さんのもとに届けられたという事実を、この新聞を通して指摘をしたかったからであります。新聞の発行日付は1980年11月6日であります。私が9月議会で一般質問をいたしましたのは9月16日だったはずです。……この縦位置にはあて先のお母さんの名前が印刷をしてあります。その横には子供の学級名が、そして下には小さく子供の指名が印刷をしてあるわけです。発行のたびごとにこの帯封が印刷をされたのか、1度に何枚か印刷をされたのか、あて名書き謄写印刷機を使って書かれております。……まことに淡々と渡辺教育長さんのお達しなどどこ吹く風と、教育の第一線ではこんな事実がまかり通っていることです。これを見て私はある種の戦慄を覚えるものであります。」(1980年12月12日、市岡廣議員一般質問)

 

 さて、この議会後この問題が適切に指導され改善されたかというと、2度の議会質問を経てなお改善されていなかったようである。この点は恵陽新聞の小木曽尚寿の連載からも確認できる。

 

「その際渡辺教育長(当時)は、議会という公的な場で、その間違いを認められて「厳重な注意」を確約された。

 私達はこれでもう、こうした行為はいくらなんでもなくなると思っていた。

 ところがどうであろう。市内O小学校の一部の先生は、それ以後、今日まで(二月二十七日現在)機関紙は堂々と子供の親達に向けて配布されている。子供に持たせなければいいと思われてのことなのか、先生自らが親達に配っておられるケースもあるという。」(小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」1985,p120)

 

 この動きを踏まえ、小木曽らは直接県や国に請願する署名活動を行っていたようである。後日別途考察するが、端的に教育委員会は現場の監督を行うようには機能していなかったというのは事実であり、むしろ共犯者的な立場にいたと言うしかない状況だったのである。

 

・1981年6月 渡辺春正教育長の辞任

 

 小木曽の本の出版により過熱傾向のあった教育問題の議論であったが、翌年渡辺教育長が自動車免許を更新しないまま運転(無免許運転)をした問題に対する責任問題から辞任をすることで、以降沈静化の傾向が確認できている。

 教育長の無免許運転の事件が4月7日にあり、その直後4月9日に「減給」処分が発表された。この対応の速さには「電光石火ともいうべき、早さで市も教育委員会も処分の処理をしたことである。」「この事は市民の中からこの事件を起爆点として新らしく当地の教育批判の出てくることを恐れて、市民の目をそらさせようとする意途があると、みることができるがひが目であろうか。」(恵陽1981.4.18、臼井清春)とのコメントもある。

 また、小木曽も次のように渡辺教育長の辞任をとらえている。

 

 

「ときあたかも、私どもの「小学校の政治的中立を求める請願」は県教委、文部省へ提出されている時期でもありました。中津川の教育の変革を願う市民、親の声は、ひしひしと先生の周りにも届いていたことと思います。

 先生が辞任を決意された動機は、ここにあったのではないでしょうか。

 先生が辞任にまで追いこんだのは一枚の免許証の有効期限なんかではなく、「特定政党支持」の機関紙を、先生が議会であれ程、追求されているのを百も承知で子供に持たせていた、心ない一部の現場の先生方の間違った行動である、そう思えてなりません。

 私がそっとしておけばいい先生の辞任の動機に敢てふれるのは、中津川市の教育を支配するこの間違った、教育と政治の癒着が許されていた時代は終った、そのことを、それを生甲斐としておられるような一部の先生に知ってほしい、ただそれだけの気持ちからです。

 先生がお辞めになったことだけで、中津川の教育の今、かかえているすべての問題が解決できる、とてもそんなふうにはならないと思います。……

 先生の辞任を機会に親達一人ひとりが学校とはなにをするところなのか、いまいちどそのことを真剣に考え直すきっかけとなることを期待して止みません。

 長い間、本当にご苦労様でした。今までの非礼の数々、心からお詫び申しあげペンをおきます。」(小木曽1985、p30-31及び恵陽1981.6.13)

 

(2020年5月20日追記)

※1 森田道雄の指摘によれば、1974年から発足したこの会議体は、112団体が構成団体であったとしており(森田道雄「続・教育行政の地方自治原則と市町村教育委員会」『福島大学教育学部論集』第31巻3号、1979,p18)、この数字が発足当時の数字と読んだとしても、報道と相当の乖離があることがわかる。これは学校数の数え方(例えばPTA連で1団体とするのか、各学校のPTAを構成団体とすることで多く数えているのか)によるのかもしれないが、この組織自体の定義付けの議論としては興味深い事実認識の相違である。

(2020年6月13日追記)

渡辺教育長が1979年に寄稿したもののなかにも構成団体が112とするものがある(藤岡貞彦編「講座 日本の学力4巻 教育計画」1979、p214)一方で、榊達雄の1980年の論文では118団体とされている(榊編「教育「正常化」政策と教育運動」1980、p23)。

小木曽尚寿「先生、授業の手を抜かないで」(1980)

 今回は「恵那の教育」についての検討を行いたい。本書は「坂本地区教育懇談会」の代表である著者が地元中津川の地方新聞「恵陽新聞」(現在は廃刊)に長期連載を行った文章を中心に収録されているようである。本書には1985年に出た続編もあるものの、どちらも国会図書館にさえ蔵書がなく、岐阜まで行かずに本書を手に取ることができたのは僥倖だった。

 坂本地区教育懇談会は1976年10月に結成。この会の結成の一因となった、「恵那の教育」を題材にした「夜明けへの道」が1976年6月に映画化することが発表されている。この会が結成されるにあたり、2つの調査結果を公表し問題提起を行ったことが全国区で話題となった。一つは民間の高校進学模擬テストの結果が5科目で206点、県平均の242点より大きく下回ったとした点、もう一つは坂本小学校五年生の子どもに17日間調査させた学校での授業科目に関するもので、「特別活動」に属するものが時間割では4時間しかないのにも関わらず、25時間近くあり、他の教科の時間数が削られているという実態を示したという点であった。本書ではこれに加えて、現場での偏向教育等の事例に多く触れている。「トヨタに入ると労働強化で殺される」かのような印象を与えるパンフレットを社会科見学の事前資料としたり(p31)、生活綴り方の研究会では日本経済のせいで家庭の破壊、性の荒廃、文化の頽廃が起こったことを自明視する資料が配られたり(p19)、特定政党の機関紙が子供を通して配られたり(p35)、万引をしても綴り方に書いたから、その店に謝りにいかなくてもよいとされたり(p5)といった形で、中津川の教育の問題を列挙する内容となっている。

 恐らく、小木曽の問題の矛先は以前レビューした榊編(1980)で取り上げた「教育権」を獲得しようとする反教育正常化派にあったのはほぼ間違いない。特にp54-55のような議論は、「教育権」を擁護する側の中心的理論である親・教師の共同論に対する明確な反対意見の提起とみてよいだろう。「普通の親」像の考え方については基本的に私が想定していたのと同じである。また、p8-9のような指摘からは、反教育正常化派に欠落しているのではないかと指摘した「自浄作用」を伴うような自己批判の余地のない主張がそのまま批判の対象にされていることがわかる。更にノートに十分に反映できなかったが、非行や学力問題といったものに対して教師たちがそれを体制批判として捉える際に、それが教育現場の当事者としてあるべき姿なのか、現場で問題が起きているのであれば、それに積極的に対処すべきであるのに、政治運動まがいのことしかやろうとしないのはただの無責任ではないのか、という不信感も強く本書には現われていた。

 

 

○「ウワサ」として片づけられる学力問題――恵那の綴方教育と「保護者の立ち位置」の関係性について

 

 本書に関連して、生活綴方:恵那の子編集委員会「明日に向かって(下)」(1982、以下丹羽1982と表記する)では、ちょうど1976年当時坂本小学校で五年生の担任をしていた丹羽徳子による現場の状況が語られている。坂本地区教育懇談会の公表内容が中日新聞で報道されたことについて触れられ、これ以後、「ウワサ」が広くひろまったことを指摘している。

 

「それ以後、地域別PTA役員会、家庭訪問などのなかでは「生活綴方」「地域子ども会活動のあり方」を中心にして、学力低下・非行化についての「うわさ」が、親たちの間でひろまっていることを先生たちはきいていました。」(丹羽1982、p12)


「 (※親の噂話に対し)そこで私(※丹羽徳子)は、
「地域のPTAの懇談会へ出たりしてわかったんだけど、今までになく学校教育への批判が出はじめているの。だけどそのほとんどが、『……げな』『……そうだが』と、事実をたしかめないで、うわさ話にのった問題ばかり。やっぱり自分の子どもを通して考えた自分の気持ちを言わなあかんねえ。子どもたちだって自分たちのやっていることを悪くいわれるのは悲しいから、いっしょうけんめい弁護してくれるんやねえ。でも、日本中の学校がそうだけど、絶対時間割通りやっているばかりじゃないから、ほんとうのことをらくに言える子にしてやらなあかんねえ」といったことでした。
 親と子、親と教師、親と親――子どもと教師、子どもと子ども、教師と教師の信頼の関係をバラバラにしていく刃のようなものをみた思いでした。」(丹羽1982,p14-15)

 丹羽自身はウワサはあくまでウワサでしかないという認識程度しか当時持っていなかったようである。確かに小木曽も当初は本書で書かれていたような偏向教育の実態まで多くの事例を問題提起していた訳ではなかった。また、授業時間数についても、「規定の授業とのズレは現場ではよくあること」程度の認識しか持っていなかった。
 しかし、気になるのは、榊編のレビューで、恵那の教育における論点の一つとしていた「保護者の立ち位置」についてである。少なくとも、子どもについては、丹羽の教育実践について支持しており、学力低下といった「ウワサ」に対してもそんなものはないという反発を強力に行っていることが、丹羽(1982)を読めばよくわかる。しかし、保護者はどうだったかというと、紹介される子どもの記録の中でも複数この「ウワサ」を信じており、子どもは親にも反発するという構図が見て取れるのである。

「あれだけの記事のことで 私とおかあさんの関係が、おかしくなっちゃった。

 私はいきおいこんで 帰って行って

「おかあさん わたしんたあが バカにされた新聞記事が出たに」

と、言ったら おかあさんが、

「先生に攻撃が かかっとんやに」

って 言った。

「そのことは 私たちが バカにされたことやに」

って、言ったら

「ほんとのことやら」

って 言った。

 私は もう この時 なさけないと思った。自分の親なのにやんなっちゃった。

 私のおかあさんだけは、私といっしょに、

「ひどいねえ」

と 言ってくれると思っていた。……

 あの新聞をみて 私のおかあさんみたいに信じちゃう人をいっぱいつくっちゃったと思う。新聞はひどい!」(丹羽1982、p38-39)

 この状況については、70年代後半に名古屋大学教育学部の関係者であった森田道雄「1970年代の恵那の生活綴方教育の展開(4)」(1998、「福島大学教育学部論集 教育・心理部門 第65号」URL:http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000002649/?lang=0&cate_schema=100&chk_schema=100)にも同じようなニュアンスで語られている。保護者は基本的にウワサに翻弄される客体であり、そのウワサというのは結局政治的論争の産物としてしかみなされていない。

「子どもたち以上に、親もまた学校批判の動きにとまどい、むしろ本音が言えなくなっていたのである。事実にもとづく批判ではなく、政治的意図を先行させた「攻撃」であったらばこそ、親を含めて住民の中に深刻な亀裂が走ったのである。」(松田1998,p19)

 しかし、このような態度は「反正常化」を批判する言説に対する適切な評価だったのだろうか。「中津川の子どもの学力が低下していたのか」という命題の真偽、という論点は後述するとして、少なくとも、小木曽がp62-63で指摘するように、それを議会の場で提起しなければ現場での教育における問題が放置されてしまうのであれば、このような方法に訴えるのも「やむなし」なのではないのだろうか?そして、そのような「やむなし」の状況に対して「政治性」の一言で片づけてしまうような態度こそむしろ問題なのではなかろうか?少なくとも、本書で指摘されているように、中津川の教育が「反正常化」側にも相当に政治的であり、子どもを政治に巻き込んでいるのは「反正常化」側だったのではないのか、という疑問が抜けない。それは丹羽の言説にも現われている。そもそも新聞報道について正面から学校の授業で取り入れ、その感想を児童に求め、「反大人」の連帯を子どもに強めさせる実践を行っていることや、松田道雄も本書を読み、反正常化側の問題指摘を認識しているにも関わらず、その実践の非については何一つ語ろうとしないこと、これらを踏まえてもやはり「反正常化」側の「自浄作用」というのは望めないものであるように思えてならない。

 また、「反大人」志向というのは、小木曽も早い段階で指摘していた。p194-195にある内容は1977年1月に渡辺春正中津川市教育長に提出した質問書が出典で、この質問書にもその問題が指摘されている。恵那の教育における綴り方実践において、このような「親の改心」がどの程度意図的に組み込まれていたのか、その実践にどのような社会問題を介した「憎悪」を持ち込み、その憎悪が子どもに対してはどのように影響を与えていったのか、という教育学的検討も興味がある所だが、このような志向を持った状況において、「教師と親の連帯」による「教育権」の確立というのは、更に厳しいものとなったといえるだろうし、そもそも「教育権」の獲得と綴方の実践自体が矛盾しているのではないか、という状況も垣間見ることができた。少なくとも丹羽の著書においては、自らの学級の保護者が連帯して丹羽の実践に協力し、「坂本地区教育懇談会」に対峙していったという図式は作ることができなかった。その連帯は子どもにしか及んでいないのである。

 

○残された「学力問題」についての是非

 

 「教育権の獲得」という形で、第一義的に教育を行う親の信託を得る形で行う教師の教育実践は事実上破綻していたといえるだろうが、他方で恵那の教育をめぐる学力問題についてどう考えるか、というのは別の議論が必要になってくる所である。
 本書が指摘する学力低下の議論については、私が調べた限り現時点で多くて2点明確な反証材料が存在するようである。一つは1976年秋に日教組が行った学力テストというのがあり、そのテストでは中津川の子は平均点を上回っていることを渡辺教育長が主張している(1977年8月12日毎日新聞朝刊3面)。もう一つは本書p237で紹介されている中津川市教育研究所から出たパンフレットに記載されているものである。この両者は同じ結果の掲載かもしれないが、少し気がかりであるのは、小木曽がこのテスト結果について具体的に説明しようとしない点にある。またp166-167にある調査結果の具体的内容にも言及していない。このような小木曽の態度は公平性に欠く印象がどうにもある。数字にこだわるのであれば、あくまで数字を示しながら議論すべきであり、自分にとって都合のいいものだけ数字を示すことには違和感しか感じないのである。


 これに関連してもう一つ気になる点を挙げれば、「坂本地区教育懇談会」自体は当初目的を達成したら解散する組織であるはずだが、p104-105の主張をそのまま鵜呑みにするなら、すでに現場ではほとんど不安要素はないレベルであるが、ごく一部の教師の態度に問題があるから、「坂本地区教育懇談会」は存続を続けている、ということになる。ここではすでに最初に問題提起をおこなったはずの「問題のある教育実践」に関する議論は蚊帳の外にある印象があるということである。本書だけではまだこれらの問題についてすっきりとする程明確な議論の整理はできないだろう。今後も検討を進めていきたい。

 

<読書ノート>

 

P5「少年非行の多発が憂慮されているとき、生活指導の面からも綴り方は有効であるといわれる。しかし、「万引をしても綴り方に書いたから、もうその店に謝りに行かなくてもよい」(前掲雑誌子どものしあわせより)こんな指導が綴り方の成果として堂々と語られていることをどう理解したらいいのか、これでは万引きは悪だという教育が二の次となっているとしか思えない。」

※雑誌は昭和五十一年六月一日付け。

P8-9「「今日の教育体制のなかで強制されている計画は、目前の子どもの実態を深くみつめ、そこに人間としての発達の問題点を探ることもなく、目的意識としての人間像は期待される人間像〈指導要領の到達人間〉にまかせたうえで、指導要領の項目を、単元、教材として割り振ることを、「なに」を「どう」する専門性にすりかえられている。ここには、本当の「なに」をみつけ、選択する必要はないしそれをこそ専門家の特性として探求する意欲が生ずることはあり得ないのである。主観的には「なに」を「どう」のつもりで割りふりをしていても、結局は、指導要領を「どう」効果的に具体化するかという点での猿芝居に過ぎない。」

 これは本年七月、中津川市南小学校、石田和男先生がある機関紙(昭和五十三年五月三十日東濃民主教育研究会発行春季号)の冒頭で「私の教育課程づくり」に関連して述べられているものである。石田先生は今、中津川の教育の指導的立場では第一人者として自他共に許す有名な方である。親にとってはむつかしい理論はわからない。しかし「指導要領をどう効果的に具体化するのか」その実践を猿芝居とされるなら、そこで強調される「私の教育課程」は、いったいなにを基準に作ろうとされるのか、まさか石田先生ともあろうお方が〝やりたい放題やりなさい〟といわれるはずはない。が私達が読んでそう感じられるように、経験の浅い若い先生は「指導要領」を守らないことがいい先生だと錯覚しそうなお言葉である。」

※少なくとも理論を突き詰めた場合は、小木曽の批判は妥当という他ない。石田の主張に他に含みがあるかどうかという論点は残りうるが。

 

P9「石田先生がもし本当に公教育の基本である指導要領をそう思っておられ、更にこうして活字にしてまで訴えられるなら「塾」の教師になられるべきと思う。」

P18「だが私達は三年前から、中津川の「生活綴り方」が、子供の教育のためにというより、むしろそれは教師集団としての、極めて強い「政治改革指向」に利用されてきたのではないかということを具体的な事例によって訴えてきた。渡辺教育長にも親の側の率直な疑問を「質問書」という形で提出したが、ついに回答は得られなかった。私達がそう危惧する根拠はいくつかあるが、その一つとして次の資料をみていただきたい。これは昭和五十一年二月苗木小学校で開催された「生活綴り方合同研究会、小学高学年部会」に提案されている中津川の「生活綴り方教育」の本当の目的ともいえる内容である。もちろん提案された先生から直接説明をきいた訳ではないがこの解説がなにを主題としているかは一目瞭然、なんと生活綴り方で子供達にわからせることは「日本経済が個々の家庭を押しつぶしている」ことにある。

※資料中には「家庭の破壊、性の荒廃文化の頽廃」が自明のこととされ、「問題の奥の日本経済が個の家庭を押しつぶしている様子がありのまま見えるようにするには?」という問いが立てられる(p19)。

P20-21「先生方が個人として、或いは集団としてどんな政治理念、思想をもたれようと親達がとやかくいう筋合いはない。が、特定の政治思想を子供に押しつけることだけは断じて許されない。……

子供達が成人したとき、自らその道を選ぶのなら致し方ない。しかし、小学校時代から「社会変革」の担い手となる教育を期待する親がそんなに多いはずはない。」

P22教育映画「夜明けの道」の一節……「戦前に生活綴り方教育があったら、軍部と大企業が結託しても戦争は起きなかった」

 

P31「トヨタへ入ると労働強化で殺される」大人ならそんな企業がいまどき企業として生き残れるはずがない。それは常識として知っている。が10歳の子供にはそれがない。事実なら致し方ない。それがどんなに暗いことでも、そこから目をそらしてはいけない、そう教えてやって頂きたい、しかし、事実でもないことが、子供達にとって絶対的に信頼をおく先生から、教室で教育という名のもとに教えこまれる。こんなことが許されていいのだろうか、純白などうにでも染めることのできる子供の心に消しがたいシミを残すことになりはしないだろうか。」

※余談だが、小木曽は三菱電機の社員である。これについては教育長から「これは間違っている。今後はこういうことのないよう指導する」と回答があるようである(p31)。

P34「「父母なんかの要求は、いびつな中にも、とにかく上の学校へ行かせたいという要望がある。本当に子供をしっかりした人間にするということとは、ちょっとすじの違う要求が、手をかえ、品をかえて表れてくると思う。教師はそれを乗り越えねばならない。」

これは教育映画、「夜あけへの道」で、中津川の教育の指導的役割を果してこられた、元東大教授の肩書のあるえらい人言葉である。このように中津川の正規の授業を重視しない特異な教育が、人間作りの美名のもとに、大手をふってまかり通り、それを理解しない親は、子供の受験のことしか考えない「悪い親」であえう。こういう風潮があまりにも表面に出すぎている。

たしかに都会の学校では、過熱する進学競争のあおりをうけて、その弊害がいろんな形で出ていることは事実であろう。しかし中津川では問題の背景がまるで違う。学力レベルが、ここ数年常に県下で最低となっていることは、正規の授業が少い、やるべきことをやってない、ここにありはしないか、親がこう考えるのは当然である。」

P35「もう一つ付け加えておく。中津川の教育の特異さは授業ばかりではない。小学校で特定政党の機関紙が、子供を通して親に配られていた。これは全く一部の先生の事例かもしれない。しかし一部にしろ、こんなことが堂々とやってこれたのは全国でも中津川だけだろう。」

 

P47「中津川の親たちの「知育」に対する関心の高さには、先般、市が実施したアンケートにも如実に表れている。今、親達の関心がどこにいちばん集っているかを、十分承知されていながら、敢てそれを避け得ても、「知育」こそ学校の存在が問われる本質の問題であることは、世の中がどのように変ったとしても、このことだけは変るまい。映画作りを契機に、中津川の教育を問い直す機運は確実にたかまっている。」

※詳しい内容は不明。

P52「続発する子供の非行、自殺に心を痛めない親はない。その原因の一つにいわれるような、大人の暮らしに起因することも理解できる。がなぜそこに「有事立法」が出てくるのだろうか。全く無関係であるとはいい切れないものの、子供の非行と「有事立法」を結びつけて考える親は、極く限られた一部の人達であろう。その人達にとって今問題なのは、子供の非行よりも、政治の流れでありそれにまつわる政党の消長ではありますまいか。

子供の自殺も心配されてはおろうか、それさえも、今の政治が間違っている。それをいうための一つの現象として考えられているに過ぎない。こういったら言い過ぎであろうか。

中津川においても、子供達の非行化を憂い、基礎学力向上を願う多くの親達の声は、政治、思想を越えたところにある。であるのに中津川の教育が、子供の非行と「有事立法」を一緒に考える一部の親と教師によって、長い間リードされて来たこと、ここに問題があったのではないだろうか。」

※昭和五十四年五月の「恵那の地で教育を考える全国親の集い」の呼びかけの資料で、「子どもたちの、この荒廃のひどさは、取りも直さず、大人達の荒廃のひどさの反映だと指摘されてきています。(中略)

まことに、今私達の生活は、政治的、経済的、社会的に戦後最悪の危機的状況に落ちこんでいるように思います。有事立法、元号法制化、失業、物価高、増税など、様々な形で生活をおびやかされ、自由をせばめられ、主権在民がないがしろにされ、子ども達の全面的な発達をめざす努力に対しての圧力が加えられたりしてきています。」(p51-52)と言う。物価高なども全部悪とみなされている。

 

P54-55「なお今回の企画には、映画の撮影を担当した「日本ビデオ」も参加されている。が日本ビデオそのものが、中津川の教育をどうみておられたのか、それは代表者である桑木道生氏が、ある雑誌に発表されている次のような文章からうかがい知ることができる。

「しかし、学力が低いと教師たちを攻める親もある。そして数十人で団体を作ってさかんに活動をしている。それは新しい傾向で、親のなかに反対派を育成して親同士を対立させ、混乱させ、〝教育は教師と親の共同作業〟という教師たちを孤立させようという狙いがあるように見える。ベトナムで失敗したあの手口と同じ手口が、こんなところまで応用されている感じだ。」(昭和五十二年十一月十五日発行、雑誌「子どものしあわせ」一〇一ページ)

私にはベトナムの手口とはどのようなものかわからない。

ただわかっていることは、三年前この映画作りが「引金」となって立上った親達の、中津川の教育と子供達の将来を憂う必死の提言が、このようにしか読みとれないとしたなら、中津川の教育に向けられたカメラのレンズの焦点は、はじめから子供には合っていなかったとしかいいようがない。私達は子供達の教育が、親と教師の「共同作業」であるという認識をかたときたりとも忘れたことがない、だからこそ、具体的な事例をもとに、親の願い、期待を率直に学校をPTAに、ぶっつけてきたまでである。」

※教育権に対する根本的な考え方のズレによる意見の相違。しかし、少なくとも教育権擁護論者には小木曽のような立場は理解不可能である。なお、公開質問状を送っているが、それに対する回答もなかったという。やはり対話をする気がないのである。

 

P57「恵那の地で教育を考える全国集会」における映画放映「人間の権利、スモンの場合」における描写…「ところが、観ているうちに、カメラが追う憎悪の対象が、いつのまにやら、自民党政府に移っている。そしてスモン病とはあまり関係のない、大平総理の靖国神社参拝と右翼、こんなのが飛び出してくるころには、これはいったいなんのために作られた映画かわからなくなっていた。」

P62-63「五十一年十二月中津川市定例市議会に於いて、中津川市の教育の「中味」について、とりわけ小学校高学年の学校教育のあり方が問題となったが、このことは、中津川の教育、三十年の歴史のなかに、かつてなかったことだといわれた。

更にそれが発端となって翌年七月の岐阜県議会でも地域的な学力低下の問題等がとりあげられた。

これらに対して、先生方、あるいは革新側といわれる政党、労働団体は、一斉に〝教育に対する政治介入〟として強い反撥を示され、渡辺教育長も、五十三年二月のテレビの取材にお応えされるなかで、教育への政治介入を厳しく指摘された。

だがよく考えてみると、私達庶民にはむずかしいことはわからないが、市議会にしろ、県議会にしろ、進められていく行政に対する市民の不平、不満、疑惑、不正、などを市民にかわって、執行する側に対して、問いただし、間違いがあればそれを改めさせる。市、県政の百年先の大計見極めることと同時に、こうした市民の声を行政に反映させることも、議会の大きな役目であると思われる。」

※教員組織が自律的な改善を行えない組織である以上、議会で問わないでどこで問えばよいのか??

 

P104-105「今、坂本小学校の授業内容は(※坂本地区教育懇談会設立)当時と比較したら、格段の違いである。地域活動にしても綴り方授業にしても、ある節度が保たれている。表面ではともかく、やはり私達の願いはきいていただけた部分も多かったと感謝している。

だったらもう(※会の趣旨として不要となったら解散するとしていたことからも)解散したら……。私達もそうしたい。でも、PTAの総会に現職の教師を議長にしての、国会なみの「強行採決」があったり、ヤジと怒号で相手の発言を封じこめようとするような人達を、PTA会長も、そこにいる先生方も、だれ一人注意できない、こんな現状をみせられては、これからさきもPTAに親の願いが素直に生かされるといいがたい。まだまだ旗をしまうわけにはいかないのである。」

P150「中津の教育は低い、なんていっとるわね。低い、低いって、どこが低い、自分の子供の話でいってみい、いうとありゃせんで。自分の子どもの中に力があんのかないのかわからんのよ」(一九七六年六月一日発行子どもとしあわせ六月号六一ページ・南小学校・石田和男先生)」

※「数値化の全否定」の精神。

 

P165「しかし五十四年四月十九日付「広報なかつ川」は、市民の多くが学校教育に強い関心をもち、なかでも教育方針の改善、教員の資質向上、基礎学力、道徳教育の充実を期待する声が、圧倒的に多いことを報じている。これらは親達が学校には本当のことをいわない。しかし見るべきところをちゃんとみているたしかな証拠である。」

P166-167中津川市学力充実推進委員会一九七九年十一月実施「父母の教育要求第一次調査」の調査票

※調査結果はなぜか紹介しない。

P192「市議会において、さきの授業時間の実態と同様、教育長から事実と相違するという御指摘があった。この点数については私達は絶対にまちがいではないという確信をもっている。そしてここで私達が理解して頂きたいのは、〝中津川の子供達はこれ程のハンデイを背負って高校進学へ立向かっている〟という事実であり、このことを多くの親に認識して頂きたいのである。」

※ここでの議会は、1976年12月の議会を指す。

 

☆P194-195「生活綴り方が、教育長の御見解に示されているように、“暗いものをどう明るくするか、その子の生き方の指導の手がかりとする”これは単なるタテエマ(※ママ)であって、真のねらいは子供達に家庭の内情を細かに書かせることによって、それをテコに社会の、家庭のゆがみを告発するという手段に使われている。だからこそ暗い面、おぞい事を書けという指導に傾くのではないか。

 先生方が雑誌(前掲こどものしあわせ六月臨時増刊号)に発表されている生活綴り方の基本的な考え方の部分を引用させていただくなら、

「(親は)もっと困って、困って、困りぬくとええのよ。困りぬくものを子供が書きゃええの…。」(P・58)

「子どもが家の中のことを書くってことが家庭生活を変えていくきっかけになっていく……。」(P・58)

「世の中の矛盾が生活の一番根拠である家庭に集中しとんでね。だから家庭の中のいろんなことが、たんに家庭の問題だというふうにとらえられておるうちはだめよね。社会の問題なんだちゅうふうに目が変わらんと、親の変革ということをいやでもそこで生みださにゃどうにもならん…。」(P・60)

 私達親にとって専門的な教育理論はわからないものの、学校教育に期待するのは「世なおし」よりも文章がきちんと書ける力を養ってほしいということである。その力も人間性も暗い、おぞいことを書くことでしか育たないという理論があまりにも強調されるところに不自然さと疑問をもたざるを得ない。」

※「こどものしあわせ」は1976年のもの。

 

P237昭和五十三年三月中津川市教育研究所から出たパンフレットで「中津川の子供達の学力水準は、全国レベルを上回る」という実態報告がなされる

P241「「業者テスト(高校進学模擬テスト)の求める学力は差別、選別のための詰め込み学力に重点がおかれ義務教育で必修の基礎学力や生徒が自分でものごとをしてゆくための判断、真の学力に基準を置いていない」(52年7月13日付毎日新聞渡辺教育長談話)」

村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎「文明としてのイエ社会」(1979)

 今回も日本人論として、大平政権にも影響を与えた著書としても知られる本書を取り上げる。

 本書のポイントの一つである多系的発展論の歴史的説明がいかに正しいのかという点は私の能力を超えるため触れないが、欧米的な個人主義や近代化論について一定の批判を加えつつ、更に既存の日本人論とも一定の距離を取ろうとしている傾向が認められる。ただ、「欧米文明」との対比を意識していると述べるものの、本書は一貫して「ヨーロッパ」との対比を想定して日本を論じているといわざるを得ない。近代化論、そして日本人論を語るのに際しアメリカとの対比を無視することはできないはずだが、本書が目指す視点から近代国家アメリカをどう語ることができるのかが全く見えてこなかった。まあ、本書のスタンスとしては将来的な発展が個人主義的になるのか、集団主義的になるのかは明言していないという点からすると、過去の「文化的遺伝情報」(p461)なるものというのはむしろ限定的な影響しか与えないということ解釈をしていることを踏まえれば、あまりアメリカの歴史的連続性について考えなくてもよいのかもしれない。しかし、「近代化論」としてはやはり本書が歴史的連続性を強調している以上、触れて欲しかった論点であるように思う。

 

○欧米の近代化論者は「二項図式的」なのか?――テンニースの事例から

 

 本書ではテンニース、マッキーバーパーソンズという具体名を挙げ、「欧米的近代化の中で育まれてきた社会学的分析においては、個々人を基本的な主体として考える原子論的ないし還元主義的傾向が強い」と述べ(p33)、その二項図式的な近代化の分析に対する批判と、それに応える意味で日本の歴史的発展におけるウジ集団とイエ集団の分析を行う。ここでは、テンニースの著書「ゲマインシャフトゲゼルシャフト」をもとに、この点について検証してみたい。

 この検証を行うにあたり、まずこの二項図式を考える上で、すでに羽入辰郎のレビューで検討したヴェーバーの「理念型」についての基本的理解を前提にする必要がある。理念型というのは、それが社会の実態を捉える上で「分析的」なものとして機能させるためには、むしろ極概念として明確な二項図式として提示した上で、それがどの程度実態にあてはまるのかをみていくためには、ある意味で「還元主義」に基づき定義される必要があった。そのような極概念により、より実態が「対象化」可能なものとして分析できるのである。これをここでは「分析概念としての二項図式(二項図式A)」と呼ぼう。一方で、実態についてある一定の法則性を見出せることが実証できたのであれば、それは一定の事実として二項図式的に示すことが可能となる。これを「実態としての二項図式(二項図式B)」と呼ぶことにする。差し当たり前提として押さえておきたいのは、この二つが混同されてはいけないということである。つまり、本書で二項図式を否定する際には、二項図式Bが否定される筋合いはあるが、二項図式Aの否定は、社会分析にとって自殺行為になるということである。もっとも、本書は流石に二項図式Bこそが批判されるべき「欧米的社会学分析」だとみなしているだろう。

 しかし、更に注意しなければならないことは、この両者の混同というのは、デリダ的な意味での「誤配」に極めて陥りやすい性質を持っているものであると言ってよいように思う。つまり、社会学者(作者)側の意図とは別に読者の側が二項図式A・Bを混同し、特に二項図式A(理論的仮説)をあたかも二項図式B(実態そのもの)であるかのように読まれるということである。結論から言えば、少なくとも本書のテンニース理解というのは、この誤解に陥っていると言わなければならない。

 

 さて、本書における欧米的社会学分析の批判は単に二項図式的であるという主張とは別に、p42のように「前近代的集団」と「近代的集団」の捉え方もまた問題であるという風に主張される。ただし、この点については、「限定的/無限定的」であることと「人為的/自然的」であることについては異論がないようであり、「即自的か手段的か」という点に論点が絞られている。これはテンニースの著書においては、「本質意志」と「選択意志」の違いであるといってほぼ間違いないだろう。テンニースがいう二つの意志に関する定義付けを一言でまとめるのは難しいが、次のような言い方で語られている。

 

「本質意志という概念を正確に把握するためには、外界の事物の自立的な存在からまったく眼を転じて、それに関する感情または体験をその主観的実在においてのみ理解しなければならないであろう。そこで、ここにはただ精神的な実在と精神的な因果関係だけしか存在しない。換言すれば、ただ存在感情・衝動感情・活動感情の同時的存在と連続的継起だけが存在するのであって、これらの感情は、同時に全体として存在している場合でも、継起的な連関において存在している場合でも、かの個性的存在の原初的な萌芽状態から生じてきたものと考えることができよう。……――選択意志はそれが関連する活動に先行しており、活動の外にとどまっている。選択意志そのものは自己の存在をただ思惟のうちにのみ有しているのに対し、活動は選択意志の実現である。両者(選択意思とその実現としての活動)の主体が、身体を外部的な衝動によって運動に導くのである。この主体は一つの抽象物である。それは他の一切の性質をぬぎすてて本質的に思惟する作用だけを営むものと考えられる人間的な「自我」である。」(テンニエスゲマインシャフトゲゼルシャフト上」1887=1957、p166)

 

 

 確かにテンニースの著書においてはあたかもゲマインシャフト=本質意志、ゲゼルシャフト=選択意志が成立しているようにも見える。テンニース自身もこれを対比的に描くし、訳者の解説においても、これを対比的に語っている(同上下巻、p226)。しかし、テンニースがこの二分法を絶対的なものとして取り入れているわけではないことはテンニースの著書を読めば明らかである。

 そもそもこの点の検証においては、テンニースがゲマインシャフトゲゼルシャフトを非対称的なものとして捉えていること、言い換えれば明確な形で対比的なものとして捉えていないことを押さえなければならない。

 そのポイントは2点ある。一つはゲゼルシャフトと商業との関係性が語られる部分である。完全な形での(理想形としての)ゲゼルシャフトとは、個々人が財の交換を行うことで自己の満足度を高めること、より正しくは相互の満足度を高めることができるように財の交換が自由にでき、それのみで完結可能な社会を指す。テンニースの議論にはマルクスの影響も強く受けていると確認でき、ここでのポイントは「個人が独立していること」と「財の交換の実施」にある。そしてゲゼルシャフト的人間の代表格として商人を挙げている点も特徴的である。

 

「一般にあらゆるゲゼルシャフト的関係は、可能的な給付と提供された給付との比較にもとづいて成立するものであるから、明らかに、この関係においては眼に見える物質的な対象との関係が先行し、単なる活動や言葉はただ副次的にこのゲゼルシャフト的関係の基礎をなしうるにすぎない。これに反して、「血」の結合体としてのゲマインシャフトは、まず第一に肉体の関係であり、したがって行為と言葉で表現されるものである。そしてここでは、対象との共同の関係は二次的性質のものであって、これらの対象は交換されるというよりは、むしろ共同で所有され享楽されるのである。」(同上上巻、p115-116)

「各地方は、このような商業地域に発展しうるが、しかし、領域が広くなればなるほど、それはますますゲゼルシャフト的地域として完全なものとなる。なぜなら、それだけますます交換取引が普遍的に自由に行われうるようになり、交換取引の純粋法則が妥当する蓋然性がますます大となり、人物や物品が相互関連的にもっている非商業的な諸性質がますます大となり、人間や物品の領域は最後には一つの主要市場に、すなわち究極においては世界市場に集中し、他の一切の市場がこの世界市場に依存するに至るのである。」(同上上巻、p117)

「そして、貨幣を集めるということが、商人の目ざしている唯一のことがらなのである。商人は、商品の媒介によるとはいえ、貨幣をもって貨幣を買うのである。それどころか、金貨業の場合にはこの媒介すら存在しない。もし同じ量だけの貨幣しか手に入らないとすれば、かれらの行為や活動はゲゼルシャフト的な意味においてはまったく無意味なものであろう。」(同上上巻、p124)

 

 そしてもう一つ重要なのは、「ゲゼルシャフトがないゲマインシャフトのみの世界」は過去に存在したが、「ゲマインシャフトなきゲゼルシャフトはありえない」ことをテンニースが確認している点である。前者は段階論的な語りで次のように述べられる。

 

「事実としても名称としても、ゲマインシャフトは古く、ゲゼルシャフトは新らしい。」(同上上巻、p36)

「したがって、ゲマインシャフト的な民族生活の最高度に発展せるものとして現われるゲゼルシャフトの発展過程も、この経済的領域にかぎって考察するならば、それは、家経済が一般的である段階から商業経済が一般的である段階への移行として現われ、またこれと密接に連関しているが、農業の支配的な段階から工業の支配的な段階への推移として現われる。この発展は、あたかも計画的に推し進められているかのように考えられる。」(同上上巻、p116)

 

 また、後者については、ゲマインシャフトは実在する物的なものを基盤にし、ゲゼルシャフトは観念的なものを基盤に成立しているため、物的なものへの依存からは抜け出せないという形で語られる。

 

「――ところが、ローマ法と並んで、その系統をひけるものとして、近世の哲学的・合理主義的自然法がある。この自然法は、もっとも重要な己れの活動の場所が一部受け継げるローマ法により、一部は因果律によって占められているのを最初から発見した。この自然法固有の活動領域は、公法の構成とされた。かくて自然法は、ローマ法学の歴史的見解がこれに与えようと考えた致命的打撃にもかかわらず、この領域を(ひそかにではあるが)己れの勢力範囲として維持したのである。……近代自然法は、支配者階級自身の発展のために働いた後、今度は被抑圧階級の綱領として展開されるのである。……このような闘争のもっとも一般的な、最も直接的な対象は、土地の自由にして絶対的な私有ということであった。なぜなら、土地所有権の濫用が――「地代」として――もっとも明瞭に人々の眼に映じたからであり、「われわれと共に生まれた」ゲマインシャフト的法の記憶が、ミイラの中の穀粒のように、活動を停止しているがなお発展の力を保持しながら、庶民大衆の心の奥に蔵されているからである。なぜなら、自然法は正義の理念として、人間の精神の永遠なる、売却不可能な所有物であると解せられるから。」(同上下巻、p152-153)

「しかし、その名の示す通り、大都市内部には町が存在しているが――これと同様に一般にゲゼルシャフト生活様式の内部には、たとえ萎縮し、さらには死滅せんとしているにしても、ゲマインシャフト生活様式が唯一の実在的なものとして存続している。」(同上下巻、p199)

 

 しかしここで問うべきは、ゲゼルシャフトゲマインシャフトの後の社会だというのであれば、「ゲゼルシャフトの誕生はいつなのか?」という点である。これについてテンニースは明言しない。上記のローマ法との関連で言えば、かなり古い時代からあった(中世頃にはすでに登場していた)ように読めそうであるものの、「協約」という言葉にも現われているように、基本的にゲゼルシャフトは資本主義的な、近代的主体による交換を行うことで初めて成立するものであるという見方をしており、18世紀か早くても17世紀あたりを想定しているイメージが強い印象である(これは私の印象も多分に含んでいるが)。例えば、テンニースはこの関連で大都市におけるゲゼルシャフトの成立について言及したりもするものの(同上下巻、p208)、商人の存在については、ギルドといったものに対しゲマインシャフト的組織と断じていることもあり(同上下巻、p126)、ここで述べられる大都市とは、何らかの地理的な意味での(単純な都市の規模を述べている意味での)大都市ではなく、シンボルとしての大都市として、例示的に示しているべきではないかと思われる(これは、ゲゼルシャフトがそのような土地といった物的なものから解放された状態であることを意味しているという意味での、機能的な意味で用いていると解釈すべき所である)。

 

 以上の議論を踏まえ、本書で述べられていた「手段的・即自的」の二項図式について考えると、ゲマインシャフトが即自的なものと一致していると考えるのはむしろ不自然であり、手段的要素も含まれていたと考える方が自然である。テンニースは単なる交換行為についてはそれだけでゲゼルシャフト的であるとは述べていないし、より直接的にゲマインシャフトでも手段的でありうる(=選択意志が働く)ことは明言されているのである。

 

ゲマインシャフト的団結体も――その指導者を介して――その意志を選択意志として表現することができる。しかし、分離せる選択意志領域を有する個々の人格以外にはいかなるものも前提としない団結体としては、ゲゼルシャフト的団結体がその唯一の可能な種類である。ゲゼルシャフト的団結体は、次の点で明確に区別される。すなわち、この団結体がその成員の意志に合致した、したがって合法的なものであるためには、この団結体の一切の活動は、一定の目的ならびにその目的を達するための一定の手段に向って局限されなければならない、という点で明確に区別される。(これに反して、生命と同様に普遍的であり、自己の外部にではなく自己の内部に力を有しているということが、ゲマインシャフト的団結体の本質的性格である。)」(同上下巻、p130-131)

 

 また、テンニースの議論が西欧近代化論特有の還元主義的な立場に立っているというのも誤りである。そもそも本書においては、「現在」の社会がゲマインシャフト的かゲゼルシャフト的かという点について明確な判断をしていない。明らかにゲゼルシャフト的になってきているものの、ゲマインシャフトが消失する訳でもないし、どの程度ゲゼルシャフト化しているのもよくわからない。ただただゲゼルシャフト化する社会に対して警鐘を告げるだけである。この点からも先述した「二項図式B」としてゲマインシャフトゲゼルシャフトをテンニースは論じていると言い難いのである。したがって本書がテンニースの解釈を誤っているのは、羽入辰郎ヴェーバー研究者に対して行った批判と同様、テンニースらをそのように解釈した(誤配が作用し理解された)過去の「社会学者」に対してそのように言っている可能性しか残らないのである。しかし、本書ではこのような論者について具体的なものは何も出てこないため、この可能性も「あまりにも素朴に」想定しているにすぎないということにしかならないのである。欧米人の日本人論が二項図式的であるという可能性はまだ否定しないが、少なくともテンニースに対してはこれは全く成り立たないと言わなければならないだろう。

 

○「単系的であること」と「多系的であること」の違いはどれ程重要なのか?

 

 

 本書は多系的発展論を採用し、日本のイエ社会の経営体としての性質を捉えることの重要性を説いた訳だが、このような見方は本当に「単系的発展論」と比べ優れていると言えるのか。すでに本書が前提としていた「単系的」であることの意味合いはずれていることを確認した訳だが、例えば、過去にレビューしたジョージ・リッツアの「グロースバル化」といった概念は、このような多系的発展論的な理解に一定の距離を置き、むしろ単系的であるもの(一般則・普遍則として支持されやすいもの)の地域文化への影響を指摘したものであったように、一定の多様性を許容した上で、近代化を単系的なものとして議論する方法も大いにありえるものであるということはまず押さえねばならない。本書の前提からは、このような議論の可能性を「二項図式論」に還元し否定しまっているのである。

 本書が日本人論全体に与えたインパクトというのは、大著であることや政治的影響の強さがうかがえるにも関わらず、管見の限りはかなり限定的であったように思う。これ以前のアベグレン・ライシャワーヴォーゲルや中根・土居などの日本人論者の引用の頻繁さから比べると、ほとんど引用されていないに近いといってもよいレベルかもしれない。本書が強調する「間柄」の話も本書が出る以前にすでに多くが語られており、あまり真新しさがないこと、また本書が歴史的考察を行っているにも関わらず、現在(将来)の日本人論については、これをあたかも断絶的でありうるかのように捉えていることなどから、参照しづらさの方が大きいからではないかとも思う。

 本書についての批判は河村望「日本文化論の周辺」(1982)や関曠野「野蛮としてのイエ社会」(1987)で紹介されている。河村の場合は少々極端であるが、両者とも批判の主旨は類似しており、単系的であることに対する軽視を行っているものと述べられる。

 

「著者たちは(※文明としてのイエ社会の)、「決定論的歴史主義」や「単系的発展論」に反対するあまり、「よりいっそうの近代化・産業化の進展を人類史の必然的方向とみることにも、大きな問題がある」として、「近代化」概念の混乱を利用して、社会発展の法則性ないし傾向性までも否定するのである。」(河村1982,p250)

 

 また、関の場合はもっとシンプルに、イエ社会における「服従」の側面を強調し、これに倣う形で文化継承される可能性を肯定的に捉えること自体が問題であると述べる。

 

「ところで、イエ集団のおいて血縁の絆は、集団形成のための最も基本的な定礎でありつづけた。しかしこのことは、日本のイエが中国の伝統的な家族制度のように、抑圧的要素と温和で人道的な要素を合わせもつ存在だったことを意味しない。反対にここでは武家としてのイエ文化の勝利と共に、主君と家来の主従関係がますます血縁関係の擬制下で抑圧的、専制的なものとなっていった一方、婚姻関係や血縁関係の中に「社縁」の要素が浸透していったように思われる。主従関係が血縁のそれに擬されることは、たとえ外見上は家族的な親愛感のヴェールをかぶることがあろうとも、現実にはイエ内部の家内奴隷制的支配を正当化するために血縁関係のイメージを不当な、倒錯した形で転用することである。だからこそ本書の著者たちも指摘するように、日本における他人との血縁的な擬制は常に親―子の擬制となり、中国のような義兄弟という形をとることがなかったのである。そしてイエ内部および大イエと小イエの親―子関係に擬された主従関係は、西欧的な結社の原則とは対照的に、無制約的で無期限の全人格的な主君と集団への服従を生み出す。」(関1987,p65-66)

「従って日本における女性の地位の低さ、女性の社会的な威信と影響力の弱さは、儒教や仏教のイデオロギー的影響力に帰されてはならないものである。たとえ儒教や仏教がイデオロギー的粉飾のために使われたとしても、その原因はやはり所有と蓄積の抽象的な単位としてのイエに女性が家族を介して従属していることにある。大イエと小イエや準イエの間の支配と従属の関係は、個々のイエ内部の主従関係に反映される。こうした日本のイエ内部の主人とその妻子の間の主従関係は、中国の家における儒教的な長幼の序などとは区別さるべきものである。」(同上、p68)

 

 もっとも、本書の立場は今後の日本についてのあり方について「中立的」であることを宣言することで、現在における日本の状況についても言及を回避しているため、このような疑念もあくまで「過去のものにすぎない。未来はこれとは別様でありうる」と反論があるかもしれない。しかし、ここでいう「中立的」というのは、あくまで将来的な状況がどうなるかについて回避しているにすぎず、本書が「シナリオⅠ(個人主義傾向への志向)」と「シナリオⅡ(間柄・集団主義への志向)」のどちらがより望ましいかと考えているかは明らかである。個人主義については、p175にあるように(土居健郎個人主義を批判するのと同じように)その「不可能性」から棄却される。一方、集団主義についても、過去と同じような形でそれが用いられることは現実的でないとするものの(p175)、それが改良された形での運用がなされることについては特段否定しているといい難く、その意味で本書はシナリオⅡの方が優れているという価値判断を行っているのは明らかであり、個人主義的価値観の軽視をしている傾向は否定し難い。土居のレビューで指摘したように、個人主義がその信念を貫くことはある意味不毛であるのは確かだが、プロセスの中で与えてきた良い側面まで否定される筋合いはないのである。

 

 正直な所、私としては単系的発展論をとるか、多系的発展論をとるかという問いにあまり意味があるとは考えていない。どちらの理論でも多様性は十分に捉える余地がある。むしろ重要なのは、このどちらかを選んだ際にどのような視点を失うか、そしてそれは実態を踏まえ許容可能なものなのか、といった点であり、それらの問いを深めていった方がよほど有意義であると思う。

 

<読書ノート>

 

P12-13「しかし近代化・産業化のためには、欧米型の「近代的個人」の誕生が不可欠であるという意見は、欧米ではもとよりのこと、非欧米の国々ですら今なお強く、集団主義は一律に批判される傾きがある。たとえば日本でも、少なくとも知識人の間では、日本固有の集団主義型文化が近代化を遅らせたり歪めたりしたという理解が久しく多数意見であった。さらに、単に近代化・産業化への適合性というばかりでなく、歴史の流れとして、集団主義個人主義によって必然的に克服さるべきものだとする、より強い考え方も少なくなかった。既にふれたように、欧米思想の主流は、単系的発展論への反省が強まった今日でも、基本的にはなお個人主義的であるといって過言ではない。

しかし人類史の全体からみれば、個人主義的文化の時代はむしろ例外である。たしかに近代化・産業化の始動にあたって、個人主義的な欧米の文化が決定的な役割を果し、最近数百年の人類史の主要な発展枝となったことは事実である。しかし「つぎの先進段階はそれまでのものとは別の系統からはじまる」とすれば、今後の発展枝の可能性を探るにあたって、欧米型の個人主義的な文化にとらわれることなく、さまざまの他の可能性をも考慮しなければならない。近代化・産業化に限って考えても、以下で日本という特定の事例について示すように、ある種の集団主義は産業化に十分適合する。」

※しかし「単純に集団主義を主張し、擁護するものではない」「われわれの主張するのは、個人主義集団主義とを同じ相対性の光の中におくことであ」るとする(p13)。一方でこのような集団主義批判はいつの話をしているのかわからない。

P16「個々の人間の発達過程を例にとれば、乳幼児の心理では、自分と他人(主として親)とが十分に分離されずある程度融合している。しかし生きることを学習する過程で、親が「他者」であることを徐々に発見し、それにつれて子はその分だけ「自己」を発見していく。つまり「他者」と対置されるとき初めて、自他己前の間柄の中から、「自己」を外在化ないし対象化されるのである。そのようにして、子供は、生物的個体であることを自覚する程度にまで「自己」を発見して、成人となっていく。たしかに、生物的個体であることの習得は、生物としての人間にとって基本的な事実である。しかし人間は生物的存在である以上に社会的存在である。生物的個体としての自立は、必ずしも社会的文脈で「個人」であることをそのまま意味するものではない。」

発達心理学の影響を無視できない。

 

P17「しかし個々の人が、生物的個体として、あるいは集団の構成単位として、さらにあるいは宗教での救済単位としての自覚をもったとしても、彼はただちに完全な意味での「自己」となり、「個人」となったわけではない。個々の平均人は自己完結しえず、つねに他者との交流を必要とする。しかも、他者との交流の作り出す間柄に入ることによって、人はそれぞれ交流以前とは多少とも異なったものに変質し、その意味では間柄は個々の人に刻印を押す。このようにして間柄は個々の人を作り上げていくが、間柄を作り出し維持するものが個々の人であることも間違いのない事実である。また、間柄の性質自体もどんな人がそれに入ってくるかによって、多少とも影響をこうみる。間柄と個々の人のいずれが先でいずれが後かという問題は、果てしもない問いかけにすぎない。間柄と個々の人とを切り離すことは、それぞれを対象物として把えようとする知的作業として可能であるにすぎず、そのときどきの直接的事実としては、間柄と個々の人とは共に在るとしか言いようがないのである。」

※これが前提で、普遍的なものとみる。では、個人主義とはなんなのか?

P19「そもそも他者とは自己と交流可能なものでなければならず、その意味で単なるモノであってはならない。だが、完全な他者とは、交流可能でありながら自己とは完全に異質であり断絶していなければならない。しかしそのような他者は現実の人間としてはありえない。したがって、第三章で改めて取り上げるように、人類史上最も徹底した「自己の対象化」あるいは「個人」概念の確立は、ユダヤキリスト教におけるような絶対的他者としての人格神の概念を経て、初めて実現したのである。そのような絶対的他者は、すべての現実の「他者」を含んでしかもそれらを超えるものであるーー「もろもろの関係の延長線は永遠の汝(神)において交わる(マルチン・ブーバー)」。かくてすべての現実の間柄は、神と人の間柄の不完全な仮象にすぎないものとみなされる。このようにして、個人の概念化がその極に達したのは、宗教改革を経て西方型有史宗教(キリスト教)が徹底化したときのことであった。」

P20「たとえば日本では一千年近くにわたって、一定類型の自立的集団――われわれは後にそれを「イエ集団」と呼ぶーーが存続した。かくて日本では、「間柄」がそれ自体として意識される度合が強かったように思われる。」

※歴史的因果関係の説明部。

 

P30「ほとんどすべての神話的・呪術的要素と協会による媒介とが取り払われたとき、ユダヤキリスト教的価値観は、現世的進歩の思想と個人主義的社会の発展を支える力となった。欧米型社会の発展は、その脱宗教的外観にもかかわらず、依然として「神の栄光を増大させて」きたともいえよう。」

P31「そこからえられる一つのヒントは、個人主義集団主義という対比が十分に適切ではないということであろう。歴史上のほとんどの社会は、個人主義集団主義の何らかの組合せに基いて作られており、その組合せがさまざまの形をとるにすぎない。ただ例外として、欧米型近代社会は、個人主義のみを原則とする社会システム作りの大胆な試みだと理解できる。そしてこの社会の掲げた「近代的観点」からみるとき、他のすべての社会は集団主義的ともみえるであろう。しかしそれは一つの極点からみたとき、他のすべてのあり方が一様にみえたという以上のことではないかもしれない。非欧米的あるいは非近代的諸社会は、より複雑で多様な事例を与えている。」

P32「「主体」はもちろん相対的な概念であって、現実には、十分な主体は存在せず、またまったく主体性のない個人も存在しない。しかしかりにある特定の社会をとって観察すれば、その社会ではある種の集団の方が個人よりも主体と呼ばれるに相応しいことはありうるだろうし、またその反対の場合ももとよりありうるだろう。このようにして、社会の中には、個人という非複合主体もありうるし、また集団という複合主体もありうる。」

※これは立派な価値判断であるが、それに自覚的であると言い難い。

P33「しかしながら、欧米型近代化の中で育まれてきた社会学的分析においては、個々人を基本的な主体として考える原子論的ないし還元主義的傾向が強い。たとえば、集団類型についての有名な議論の例をあげると、テンニスの「共同社会」と「利益社会」の二分法、マキーバーの「共同体」と「結社体」二分法、パーソンズの「ゲマインシャフト」と「オーガニゼーション」の二分法などがある。これらの有名な集団分類には、欧米の個人主義的近代化の経験に基いて、前近代社会と近代社会とを対比させようというねらいが一貫している。このような分類は、少なくとも今後の産業社会のあり方を考えるにあたっては十分に一般的ではないおそれがある。」

※二分法はむしろ欧米に好まれる、という根拠である一方、「分析的」であるためには二分法にしなければならないという矛盾。ただ、ここでの指摘では前者に偏っている。

 

P39「個人主義的観点からすれば、各個人は個性的であるべきであって、彼らの生活全般にわたる姿勢は当然ながらそれぞれ異質であり、そのような彼らの共有しうる集合目標は限定的たらざるをえない。他方、集団主義の観点からして、個々の人々の生存の根拠を集団に求めるとすれば、集団の目標はまさしく成員の生活の全般を牽引するものであることが要求される。ある集団が集団主義的性格をもつか個人主義的性格をもつかの判定は、その集合目標が無限定的か否かの規準によることが最も適当であろうと思われる。」

P42「テンニス、マキーバー、パーソンズその他の多くの有名な集団分類は、近代と前近代との対比を浮き上らせてきた。……つまり、近代的集団が手段的・限定的・人為的であるのに対して、前近代的集団は即自的・無限定的・自然的であるかのように思われてきた。しかし、そのような前近代の理解は、近代についてのおそらくは不当な自負と、前近代への根拠なき憧れとの奇妙な混合物に過ぎない。」

※ここでの争点は絶対的か相対的であるかの議論ではないのか。また、立証の状況を見ると、「無限定的かつ自然的な集団を「共同体」ないしむしろ「原共同体」と呼ぶことはおそらく適切である」といい(p44)、即自的か手段的かという軸に否定的であること(p42)にある。

 

P87-88「このようにして、中世ヨーロッパの封建社会は、少なくとも発生起源においては、異質な二層なら成る。戦士集団としての家士制のシステムが社会の上層を形成し、各々は孤立した(農民の)村落共同体が下層を形成した。そして戦士集団側の領主権が事実上次第に確定するにつれて、高位の領主は下位の家士に封土を授ける慣行が成立し、各々の家士が村落共同体ないしそれらの集まりの領主になることによって、上層と下層のシステムが結合された。……

それに対して、東国日本のイエは同質性を基本理念とし、家長から所従下人にいたるまでの成員が軍事要員であると共に農作業に参加し、彼らの生活様式も程度の差はあるにせよ基本的には同質的であった。戦士と農民とは決定的には分離されず、家長から下人にいたるまでの階統は連続的であり、同質のもの、一体のものとして統合されていた。したがって、イエの内部では契約関係はありうべからざるものであった。そしてイエに属する武士にとって、土地は祖先が自ら汗して開発したものであって、経済的なものというよりもイエ型集団の結合を支える拠り所であり、まさに「名字の地、一所懸命の地」であった。……すなわち日本では、武士がイエの長であり領主であることは、論理的には、鎌倉殿の御家人であり家士であることに先行している。したがって、まったく逆説的なことであるが、人的結合としてのイエの一体感が持続するかぎり、経済的資源としての土地はむしろ二義的な意味をもつにとどまる。かくて後に述べるように、日本のイエ型集団は、ヨーロッパの農村共同体よりもむしろ脱地縁的性格を示しやすいのである。」

※この理解はアメリカについてどう考えるかという論点を曖昧にする。

 

P111-112「そもそも東方型有史宗教と西方型有史宗教の間には基本的なちがいがあった。既に述べたように、東方型有史宗教を支えているのは、宇宙原理理解のための知的(霊知的)作業における緊張である。知的訓練をうけず知的作業の余裕のない一般大衆が、僧侶階層の媒介なしに知的構成をもった救済論を体得することは非常に難しい。……このことは、主知的宗教としての仏教における直接的救済論の試みが、大衆レベルでは緊張なき現世肯定主義につながり易く、宗教的エネルギーを持続し難いことを示唆しているように思われる。

これに対して西方型有史宗教の基礎は、唯一の人格神との主意的関係における緊張にあった。神は最も身近なものであると共に最も畏るべきものであった。そのような神と罪の観念は、宗教改革期の一般のヨーロッパ人たちにとって最も具体的な事実の一つであり、俗人大衆の一人一人にとって自ら対処すべき問題であった。……神と罪の重荷を担った主意的緊張は、当時の俗人大衆にとっての実感であり、彼らをかり立てて勤勉と節約の世俗内的禁欲主義に向わせる力をまさしくもっていた。主意的宗教としての西方型有史宗教は、大衆型の直接的救済を生み出し易い性格をもっているように思われる。」

※宗教と大衆との付き合い方も自ずと異らざるをえないのではないか。

P120「ただし以上の議論は、西方型有史宗教がより優れた宗教であり、能動主義の思想や個人主義の思想がより優れた思想であることを意味するものではない。……いずれにせよわれわれがここでいいうるのは、宇宙論――受動主義・集団主義――的構成をとる東方型有史宗教と、人格神――能動主義・個人主義――的構成をとる西方型有史宗教とが、優劣を離れて相並ぶ二つの途であるという以上のことではない。」

 

P126近代化の定義としての「近代化=産業化」「近代化=欧米化」

P127「以下で述べるように、われわれは「近代化=産業化」という前者の方向をとることにしたいと考えている。……しかしかりに欧米型近代化発展枝が事実上唯一の発展枝であって、他の発展枝はそれに合体しあるいはそれ自体としては枯死するものだとすれば、近代化=欧米化(=産業化)が唯一の意味のある定義となるだろう。要するに、近代化=産業化という定義をあえてとることの意味は、欧米型近代化以外の発展枝の可能性を発見できるか否かにかかってくる。以下の議論はそのような「それ以外の発展枝」は可能であるという考え方に基づいている。」

※同じであるとはどういう状況を指すのかわからない。

☆p128-129「(※産業化により近代化が)十分(※条件)であるという議論に対しては少なくとも二つの基本的な反対論がありうるだろう。第一には、近代化にはそれを支える文化的・思想的な主要動因があり、産業化はその現われの一つにすぎないという考え方がある。そのような思想的動因としてあげられてきたのは、キリスト教、近代科学、進歩の観念、合理主義、個人主義自由主義などの欧米型近代の諸思想であった。……

第二には、近代化とは人類社会のやることのない分化・複雑化の最新局面であり、産業化もその一つの現われにすぎないという考え方がある。……しかし既に第二章でふれたように、人類史は一定方向にだけ分化し複雑化してきたわけではない。分化にはそのときどきでいくつかの発展枝があり、あるものは挫折しあるものは発展する。したがって欧米的経験にみられる機能的分化の傾向が挫折するものか発展するものかは、改めて検討する必要があるだろう。

※理念型として「概ね妥当」という議論がある以上、この批判も近代化=産業化の図式を否定するものと必ずしも言えないのでは。何をもって「概ね妥当」なのかは理念型からは判断ができない。一方で、「この定義は、「近代化=欧米化」という定義を避けることによって、日本を始めとする非ヨーロッパ系社会や、ソ連・東欧型の社会主義社会を含む広い範囲を近代的社会として認定する。」(p129)という消極的言い分もある。

 

P129近代化の定義…「近代化とは産業社会の形成過程をさす。すなわち、産業化それ自体の進展、およびそれを支えるに足る価値観と、それを支えるに不可欠な社会システムの成立も当然近代化に含まれる。」

P132産業化の帰結…「(1)個別化。産業化と共に生産と消費は分化し、生活の全般にわたって帰属すべき集団は、消滅する。それと共に、消費と教育の水準は平均として上昇し、個人行動の選択の範囲が拡大して、個人はあたかも自立的であるかのように意識し行動するようになる。われわれはこれを、信念としての「個人主義」と区別する意味で「個別化」と呼ぶ。大衆消費と大衆教育の水準が一段と上昇し生存に関する脅威が消滅した「豊かな社会」の段階では、個別化も一段と顕著になる。」

※これは産業化に必要な価値観として「個人主義」を必要としていない点(p131)とリンク。

P132「(3)即自化。産業化と共に、手段的行動と即自的行動とが分裂する傾向が生じ、特に前者の価値が優勢となるが、生存に関する脅威がついに消失しいわゆる「豊かな社会」の段階に達すると、長期的・絶対的な生活目標が見失われ、結果として手段的行動・手段的価値の相対的地位がついには低下する。われわれはこれを「即自化」と呼ぶ。」

※近代化=産業化なのに、なぜp42で即自化は否定されたのか?これは、前近代の認識の誤りがあるとp42で指摘していることになるか?だが少なくとも相対的な指標としては了解していることになるような。

 

P158「「個別化」とは、人々が自分自身の事情のみを引照して行動することをさす。つまり、行動上の個人主義化あるいが現象的な個人主義化であり、自己における究極の価値を信じる「個人主義」そのものとは区別される。」

P169-170「ただし産業化、とりわけ個人主義的産業化の下では、バランスのあり方が特異な形をとっていた。生産と消費の分化、職場と家庭の分離の結果として、職場は手段的行為の場となり、家庭は即自的行為の場となるという分裂が生じていた。二つの行為型を結びつけバランスするという社会的課題が、二つの場の間を「通勤」する個々の働き手の内心の問題として処理された。平均的な働き手は、手段的行為への献身と即自的行為の追及の間でーー比喩的にいえばモーレツ社員主義とマイホーム主義の間でーーしばしば内心の動揺を味わう。その不安定の状況に、既に述べた「私化」の傾向が重なる。「私化」は「即自化」によって強化され、「即自化」は「私化」によって強化されて、個々の働き手の「即自化プラス私化」の傾向は急激な変化として現われる可能性が生れる。そしてそのとき、手段的価値の世界と即自的価値の世界は相互に疎外しあう。

しかし、産業化が続く以上、手段的行為が不可欠であることに変りはない。」

※「手段的行為の美徳化はその意味で産業化にとって本質的なものであり、即自化は産業化の基盤を掘りくずす可能性をもっている。」(p170)基本的には、「大多数の人間の即自化を容認するとすれば、分業化のシステムはあちこちで綻びをみせ、自発的な一般の投資意欲は低まり、技術革新の情熱は一般には盛り上らないだろう。」と述べる(p172)。更にエリートと大衆の対立としてこれを語る(p173-174)。かくて手段性の即時性の再統合についての可能性が語られるが、これを個人主義的なアプローチから行うことは、個人主義の信念の不可能性として否定的に見られる(p175)。残るはこれを集団主義的に捉えるものだが、完全な融合までは現実的でないとする(p175)。ただ、だましだましであっても最も可能性として否定していないのは、この集団主義性に対してであるということは可能だろう。

 

P212「かくてイエという言葉は転じて、単なる住居ではなく、生活を共同に行なう経営体を意味するようになる。……われわれは、「イエ」という言葉を、生活を共同する経営体のある種の独特の類型をさすために用いる。

したがって、「イエ」は家族ではなく、それを原型とするものでもない。」

※「しかしイエを家族の何らかの複合的派生体と考える発想は本末を転倒しているとわれわれは考えたい。」(p213)

P418-419「参勤交代は、人間と情報の全国的ネットワークを創出したばかりでなく、各藩財政における藩領外での貨幣支出を増大させ、市場を拡大させた。各藩は年貢米や特産物を中央市場で大量に売却せざるをえず、藩財政とひいては領国経済は中央市場を通じて相互に密接な結びつきをもつにいたっていた。」

 

P458「学歴と年功とを基準とする階層性、終身雇用制、新卒者の採用、企業内教育、企業内福祉制度等を特徴とするこの「日本的経営」は、経営体の系譜性や強固な統合力・分裂増殖力を保存しつつも、メンバー間の結びつきを機縁としての血縁性を大幅に払拭し、イエ原則を機能的に純化したものであり、徳川期の(準)大イエ型経営体を産業化に適合的な方向に組織革新したものとみなすことができる。それは、従業員に強い帰属感を与え、彼らの忠誠心と自発性とを調達することに成功した。とくに稟議制的意思決定方式の採用は、下位者の積極性を開発するとともに、企業内の情報流通を促進し、イエ型企業を活性化する上で大きな意味を持っていた。」

P461「しかし、イエ型主体はともかくとして、徳川日本に支配的であったイエ型の主体組織原則そのものまでが、幕藩体制の消滅とともに一掃されたわけではない。イエ型諸組織の解体後も、イエ原則は、暗黙ながら自明の組織原理として、つまり一種の文化的遺伝情報として、人々の行動様式を事実上規定していた。」

※そしてイエ原則は制度として「動員」されるものでもあった(p462)。

P465「イエ型組織原則が個々の日本人の心の中に一種の文化的遺伝情報として蓄積され、さまざまな個々の局面でそれが再確認され再利用されるということは事実であったにせよ、システムとしてそれが有効に構成されえたかはある一定のレベルに限られていた。」

※この言い方があまり適切であるとは思えない。個々の記憶の中にあるというよりも、その外部に存在し、再導入される類の情報だろう。また、「どれほど機能していたか」の議論を始めてしまうと、過去のイエ制度の民衆への機能についても議論せねばアンフェアだが、支配制度としてはありえても大衆的レベルでの機能を検証している訳でもない。

 

P532「産業化の原則とイエ社会の原則はつねに干渉し合い、時には対立し、時には共鳴しつつ、既に百年の経験を経てきた。」

P533「思想的絶縁状況は(※現在では)いかなる意味でも不可能になっている。」

※このため日本独特の思想や哲学が今後生まれたとしても「徳川期のように作為的な自閉状況の下で醸成されるのではなくて、世界のさまざまな思想配置の中で自らの位置を明らかにするという形をとる以外にない。」(p533-534)

P536「日本社会はあまりにも無批判に欧米文明を受容したとよくいわれる。……しかし、近代化に費やした百年の経験を公平に眺めるとき、日本社会の近代化は、欧米文明と固有の文化とのあいだの激しい闘争と習合の歴史であったといえるだろう。」

※これも絶対的尺度と相対的尺度の問題を抱えている。

P538「このような問題を考えるにあたって避けなければならないのは、欧米的社会分析特有の先入観である。すなわち、適度に分権的で非専制的な社会は、個人主義的文化の下でのみ成立するという考え方である。裏返していえば、集団主義的文化においては、極度に集権的で専制的な社会が必然的に生れるという先入観であり、明治以降の日本人学者の多くがその考え方に大きく影響されてきた。しかし、このような先入観は、集団主義(間柄主義)についての分析の不足に基いている。」

 

P547「このようにして、戦後の日本は、国家のレベルにおいて、欧米型民主主義との習合を果しつつ、イエ型集団を成員とするムラ型社会として運営されてきたといってよいだろう。国家レベルにおける意思決定は、多数決というよりも(多数決の暴力!)満場一致という形(村八分的存在としてのある時期までの共産党を除く)で行なわれるべきものであった。ムラ型社会には本来――たとえばイエ型集団に比べてーー利害の分離を調整する能力が狭くかつ弱く、停滞的になり易いという問題点がある。しかし戦後日本においては、追いつき型産業社会の合意が悲願といえるほどに強化することがなかった。かくて戦後の大連合政治はかつてなく強固で安定的であった。ムラ型民主主義の欠点は一九七〇年代の始めまでは露呈することがなかったのである。」

※「ムラの理念はまさしく平等主義であり、その理念を崩さない暗黙の指導力がムラの政治を支えるのである。」(p547)

P548「しかし現在の形のムラ型民主主義は今後においては欠陥を示す可能性が大きい。日本社会は、これまでの合意目標を失うと共に、しかも依然として国際的な経済競争で落伍することなく、さらに国際関係の中で受け身の立場から脱皮していかなければならない。そのためには、国内のムラ的な平等主義を守って一視同仁の停滞状況に浸っていることは難しい。ある種の産業やある種の利害は整理されなければならないが、それは平和時のムラの原則を乗り越えることを意味している。さらにまた、アメリカというお上を失ったムラ集団日本は、軍事や外交の自主的な意思決定を余儀なくされる。ムラ型民主主義のシステムを温存しようとすれば、これらの課題に機動的に答えることはできないだろう。」

P549「日本での個別化・即自化は欧米におけるほど進行しないかもしれないが、他方、日本人のムラビト的感覚は、お上に抵抗するにもかかわらず自らはお上に代わって決定の責任を負おうとはしないという形で残っている。」

※個々人の問題であるよりも、制度的に無責任である問題を議論すべき。

 

P552-553「このような複合型に進むにあたって、日本社会は欧米諸社会よりもあるいは有利な立場にあるかもしれない。つまり過去百年にわたって、とりわけ戦後四半世紀以上にわたって、日本社会は、制度と運営の二重性、タテマエとホンネの二重性に慣熟した一種の複合型社会だからである。しかし問題の難しさは、これまでのような複合型が、今後において望ましい複合型とは必ずしも一致しないというところにあるだろう。」

※これは対立的な要素の調整という意味で有利という解釈。

P557「一方の解釈をとれば、「保守への回帰」と呼ばれている現象は、政治面でいえば、新野党の形成が新中間層の期待に一歩遅れているところに生じている一時的な現象にすぎない。……

だがここでもまた、もう一つの解釈が可能である。すなわち、新中間層は、石油ショック以降の環境条件の悪化によって、伝統的な間柄への回帰・参入志向を急激に強めつつある。」

※「一方の極には、新中間層の形成は不可避的な現象であり、個別化・即自化の傾向はさらに進んで、以前の方向への復帰はいずれにせよ不可能であるとする見方がありうる。他方の極には、新中間層の形成は、環境条件に恵まれた昭和四〇年代に一時的に生じえた現象にすぎず、環境条件の変化によってたちまち消滅してしまうようなものにすぎないという見方がありうる。」

P559「前章でもふれたように、わが国の新中間層に属する人々は、たしかに何らかの意味で個別化しているとはいえ、欧米と同じような意味で個人主義者となることはないだろう。個人の意味が相対的に高まったり(あるいは低まったり)する可能性は十分に考えられるが、それが欧米におけるほど絶対的な意味を獲得することはおそらくありえない。この点については、有史宗教以来の文化型の差が決定的な力をもつと考えられる。」

※過去の制約から逃れるのは端的に不可能だという立場。しかしそれは本当なのか??

P562「けっきょく、われわれは、何らの政策的奨励策をとるまでもなく、一種の日本的家族の再建が起る傾向にあると予測する。」