「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間考察

 今回は前回に引き続き、中津川市の教育正常化運動の考察を行う。

 

・小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」(1985)について―丹羽実践の批判から

 

 まず、小木曽の自費出版本の2冊目の内容について、丹羽徳子の実践内容を含む恵那の子編集委員会の9冊の編書に対する批判が語られている点から見ていきたい。小木曽はこれらの著書において「中津川の教育に深く根付いている「生活綴り方教育」なるものが、特定の政治・思想を根底にもつ「社会変革」の手段として利用されてきた」こと(小木曽1985,p96)が随所に示されていることを指摘する。確かにこれは正しく、例えば、中津川の教育実践の中で実践者側のリーダー的存在である石田和雄などは次のように主張する。

 

「さらに目立つことは、教育に関する父母・国民の不安を助長させながら、その鉾さきを民主的な教育と教師に対して向けさせるやり方を(※三木内閣が)しきりにとってきていることです。今年になってから、PTAという形で、民主的な教育と教師へ対置した問題を提出させることが露骨になってきています。 

それは、今までの教育支配が生みだしてきた、子供の人間破壊や、あるいはわからない学習の増加の問題を利用して、民主教育に攻撃を加え、破壊しようと企んでいる、極めて危険な策略とみることができるのです。 

たとえば、高度経済成長政策によって、自然が破壊されたり、公害が発生していることは、誰の目にも明らかで、誰もが高度経済成長政策は駄目だったということを認めるし、その限りでは国民的な合意が成り立っているともいえます。しかし、同じ高度経済成長政策としての人づくりであり教育の問題では、中教審路線が子どもの人間破壊をすすめていくものであることを、私たちを含めて、民主的な人々が、もっとも早くから警鐘鳴らし続けてきたにもかかわらず、今日、子どもの人間的破壊が誰の目にも明らかに映るということになってはいないし、しかも、それがこれまでの人づくり政策による教育支配のせいなのだという点で、国民的なコンセンサスができあがっていないというような、そうした複雑さを教育はかかえているのです。そこに教育問題のむつかしさがありますが、支配はそのむつかしさを巧みに利用して、父母・国民の鋒を民主教育に向けさせ、攻撃を仕掛けてきているのです。 

教育問題のむつかしさということで、いますこし補足しますが、ごく簡単にいって、公害だ、といえば、それは政府の政策が悪かったんだということでの理解が早いのです。けれど、子どもがひどく悪くなっている、ということでは、それは政府の政策が悪かったからだと、直ちに理解されない状況があるのです。子どもの悪さについては、先生のせいなんだというように思われている問題や、子どもの資質や親のせいに考えられている問題が存在していて、これまでの中教審路線としての人づくり政策が、今日のような結果を、子どもの上にもたらしてくるものなのだということもわからないわけではないが、実際にはそのことがなかなかつかみきれないのです。」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p129-130)

 

 この引用での発言の趣旨は少しわかりにくさもあるものの、このような教育問題は、そもそもの体制がおかしいという批判に繋がらないことへの不満として現れているものといってよい。このような「思い込み」に対して、小木曽は次のように反論するのである。

 

「「市議会」での教育論議も「非教育的」になるらしい。

 とんでもない。中津川の教育の中味が、ずっと以前からもっともっと市議会で論議されているなら、中津川の教育の今日、かかえている困った問題の大半は片づいていたといえよう。……

 市議会で市民の声を背景とした教育論議を「非教育的」と決めつける主張が、生活綴り方教育の本に堂々と出てくる。中津川の生活綴り方が、どんな立場の人達をリーダーとしているか、わかるような気がする。」(小木曽1985、p222)

 

 中津川市議会で取り上げられる「教育問題」が「非教育的」であるかどうかは、前回の中間報告で引用した議員の発言からも察することができたのではないかと思う。そもそも議員自体が教育についてわざわざ取り上げることについてためらいさえあったにも関わらず、何故教育問題を議会で取り上げなければならなかったのか。そのような前提から議会での議論を押さえねばならないように見えるのに、「反正常化側」は完全に政治的問題に還元し、これを一方的な政治的攻撃としか考えようとしないのである。

 

 また、丹羽(1982)における反論として、1976年度の坂本小学校における学力問題等を「ウワサ」として片づける態度についても、小木曽は次のように反論する。

 

「次に掲げる文章は、昭和五十一年十月から十一月にかけて一斉に行われた坂本小学校PTA主催の学級懇談会或いは地区懇談会で一般の親からどんな意見が出されたかを学校側で九ページにまとめられた資料から抜き出したものである。これをみれば当時の坂本小学校の授業内容がどんなにひどいものであったかうかがい知ることができ、そういう声が凝縮してその年の十一月六日「会」結成となったことも理解していただけよう。

 ▼算数・国語をしっかりやってほしい。基本ができていないと、中学校の三者懇談会で言われて不安。(十月十九日、六年学年委員会)

 ▼教科書がすすんでいない。学校教育の実態を知ると自習時間が多い。(十月十九日五年学年委員会)

 ▼小学校の高学年や中学校は勉強を主にやってほしい。親達が責任をもって地域はやる、学校はもっと学力をつけてほしい。(十月二十五日、中洗井五、地区懇談会)

 ▼授業時間にやる子ども会の実態や成果を先生はつかんでいるか。基礎学力低下の問題について先生の態度に不満だ。(十一月二日、星が見地区懇談会)

 ▼教科書があるのに、なんで副読本、参考書を使っているか、教科書はぜんぶ教えてほしい。(十一月二日、中切・地区懇談会)

 ▼地域子ども会もこれで三年目だが反省する時期ではないか、できれば地域子ども会は止めさせたい。(十月三十日、深沢地区懇談会)

 ▼坂小の子どもの学力が低いのではないかという不安がある。特に他の学校では教科書を使っているのに教科書が使われていないのは問題だ。(十一月九日、三年二組・学級懇談会)」(小木曽1985、p214-215)

 

 どのような意図で学校側がこの資料を作ったのかは不明であるし、これは多数の親がこう思っていたことの根拠たりえないものの、無視できないレベルの不満があったのは確かである。

 

・小木曽(1980)の内容検証について

 

 前回の小木曽(1980)のレビューでいくつか課題とした点、また根拠がはっきりしていなかった点について挙げたが、これについても確認作業を行った。

 

 まず、「中津川の親たちの「知育」に関する関心の高さには、先般、市が実施したアンケートにも如実に表われている」(小木曽1980、p47)としている点である。これは「広報なかつ川」1979年2月1日号に掲載されている、「市民意識調査」の結果で「特に力を入れてほしい市の仕事」の中で23項目中「教育」が3番目に挙げられたことを指しているものだろう。しかし、この意識調査では、高々8.6%の人が「教育」に期待しているにすぎない。一番力を入れてほしい分野とされた「医療施設の充実」も11.0%であり、この割合だけで、一般市民の関心の高さまでは指摘できるものとは言い難く、この小木曽の主張は適切ではないと言える。

 

 次に、p166-167で語られた「父母の教育要求第一次調査」の結果である。「学力・体力・生活」の3つの中でどれが最も大切な力か、を問う質問に対し、子どもの年齢層により異なるものの、全体では「体力(44.8%)」「生活(29.1%)」「学力(25.6%)」の順番になっている(中津川市学力充実推進委員会「父母の教育要求調査のまとめ」1981,p4)。ただし、このまとめでは、関係者による座談会の内容も掲載されており、「(※一番大切なのは)本当は学力といいたいのだが、生活は、人間が生きていく上において当然のことなので二位になり、三番目に学力が入ったのだろうと思います。」(同上、p18)「親はまず第一番に学力と書きたいんだ。ところが生命あってのものだね、だから、「体力」と書いたんだと思います。なぜ「学力、学力」と言われるかというと、社会にひずみがあるからだと思います。」(同上p21)というように、アンケートに関与した者からもあまり正しい結果だという認識がなかったらしい。言い換えれば、「学力要求の強さ(そしてそれが一辺倒なものである)」という認識が広くなされていたということでもある。

 

 最後に「小木曽が何故現場ではほとんど不安要素がなくなったのに教育懇談会を続けたのか」という問いである。確かに最初の問題提起であった通常の授業の実施という内容はかなり早い段階である程度解決したようであるが、一部の教師による中津川の教育支配に小木曽が不満をもった理由というのは、当時の中津川市全体の教育問題の論調などをみると、いくつか考えられるものがあるといえる。

 一つは、「教育現場は決して褒められた現状にないにもかかわらず、「反正常化」側は『恵那の教育』を讃美し続ける態度を取り続けるのに対し、当事者(にさせられた側)として恥ずかしささえある」という認識が少なからずあったのではという点である。これは小木曽本人が直接語った訳ではないものの、恵陽新聞における他の論者はこのように見ている者も複数おり、このような「根拠のない讃美」というのを、自分たち中津川市民の実践として(反正常化側はこれを「教師の親の連帯」の強調として語っていた)取り上げられることに対する憤りが強くあったものと推察できる。小木曽(1985)の内容が反正常化側への反論に終始しているのがその現われであると私は見る。そういう意味では、単純な現場の改善云々だけではなく、「正義」の問題として、恵那の教育の実践者として自らが巻き込まれることに対する反発心というのが、この正常化運動の前提として存在せざるを得ない状況だったと言うことができる。

 また、これに関連して、複数の現場から偏向教育の実践や、教育活動に真摯に取り組もうとしない教師に対して、改善を求めるような動きを行う必要性について強く感じていたという点も挙げられる。後述するように、当時の中津川市教育委員会は、現場改善に対する機能を失っていた状態であるのは明らかであり、議会や市民運動としてこれを改善要求しない限りは現場が変わらない状況であったことに対し、小木曽は正常化運動を継続していったのである。これらの理由は、教育懇談会を継続するのに十分すぎる理由だといえる。

 

・当時の中津川教育委員会と教育長の問題について

 

 私が榊編(1980)以来、重要な論点として提起してきたのは、教員組織の「自律性」の問題であった。反正常化側はこの「自律性」を「教育支配を一切受けないもの」という意味で捉え続けてきた訳だが、本来的にはこの「自律性」には専門家集団として当然に持ち合わせなければならない「(内省も含めた)自浄作用」、つまり集団内で十分な議論を行うことで時に批判し合い、誤りを正していくという性質もまた欠かすことができないものであるはずであった。反正常化側もこの側面について「専門性の向上」としては言及することがあるものの、「相互批判」という文脈ではほとんど語ることがないし、少なくとも実践のレベルでは皆無であることをこれまで私は指摘してきた。

 これは「恵那の教育」の事例においても変わらない。管見の限り、現在に至るまで、この「恵那の教育」を支持する反正常化側の立場にある論者は、偏向教育の実態に対して何一つコメントをしようとしない。そんな事実はなかったかのように振る舞い、それは「政治問題」として体制側が攻撃している以上のものではないと解釈するのみなのであった。この「コメントをしない」ことこそが、「自律性」の欠如の根本的な現われである。「コメントをしない=クレームを申し立てない」状況はまさに改善を要求していないことと同義であり、それは転じて「コメントをしないこと」は専門家集団内で行ってよいこと、そして傍から見れば「何をやってもよい」という風に見えることを意味しているにも、関わらず、このことを反正常化側は全く理解しようとしていないように見える。次のような主張もまたそのことへの批判の一つである。

 

「煽動教育においては、決して反省はない。すべて自分が正しい、とする。マルクスレーニンの革命主義も同じである。そして不満はすべて政治や社会や学園が悪いからだとするのである。これ、革命主義の革命パターンにも連なる。反省して自分が正しいか正しくないかなど考えていては革命に参加することができないからである。群衆心理を燃え上らせるためには反省は邪魔だからである。

 「一人一人の子供を、こよなく愛し、生活綴方を通しこれをよく見詰めて個性に応じその特質を伸ばす人間教育」というのが、本来の恵那の教育であった。これが民生同活動が進むにつれて、これに利用されて、と言うより塗りつぶされてしまって政党色が強まってきたのを感ずるようになったのは安保闘争以後ではなかったかと思う。これは指導的役割を果してこられた方々の、昭和30年頃の御意見と、昭和50年頃の御意見を比較してみれば明瞭である。そしてやがて党の情宣活動をも果すことになったとわたくしは思う。

 こうした政党的なものを区別しないで、これが恵那の教育だとして熱心に進めている先生方の中には「本来的なねらい」を純粋に信じ、これを教育現場に生かして見える先生方も多い。こうした政党的環境の中で本来的教育活動を進められる信念と勇気には心から頭が下がる。わたくしがさきにきびしく批判した「恵那の教育」は党の情宣活動化している異質的なものを指したのであったが、言葉不足の点お断り申し上げたい。

 わたくしは教育の中に「甘やかし」はあってはならないし、まして「甘やかし」を条件としたような煽動は絶対に避けねばならないと思う。しかも教育の中における煽動による政党の情宣活動は卑劣だとさえ思う。恵那の教育が正当活動とは縁を切り、本来の恵那の教育に立返られることを祈りながら稿を閉じたい。」(恵陽新聞1980年8月30日号、原鏡一の論)

 

 歴史的考察の是非は置いておくとして、ここでも押さえるべきは、やはり「自己批判できる組織」であるかどうかという点であり、それができない状況こそが「甘やかし」と表現されているものである。恐らくはこの組織の中には熱心な綴方教育の実践者もいたはずであるが、その組織の「異分子」(という表現が正しいかは測りかねるが)ともいうべきものがある場合にそれに対して何もいうことができない組織であるならば、組織として問題がある。このことを反正常化側は適切に捉えようとしないで、問題を政治的なものに転化してしまうのである。原鏡一のこの指摘もまたかなりの「配慮」、つまり組織内の多様なアクターの存在とそれぞれが持つ価値の全てを否定する訳ではないという留保がされた論であるが、反正常化側はこのような「配慮」を全て無視するのである。

 

 本来であれば、このような状況について指導する立場にあるのが教育委員会という機関である。教育委員会という組織が存在しているのは、直接的に政治的なるものの影響を受けることを回避するため、専門性の確保の一環のためである。しかし、渡辺春正教育長をはじめとした当時の中津川市教育委員会はこの役割を担うことができていなかった。反正常化側の勢力であった(※1)森田道雄が指摘するように、中津川教委の立ち位置は現場擁護の立場であり、敵対視されていない。少なくとも現場にとって、中津川市教委は自らの活動の脅威にはなりえなかったのである。

 

 「丹羽実践はもちろんこの時期の生活綴方実践は、こうした学校批判の正面からの「攻撃」と、行政的圧力(中津川市教委はこの動きに対して学校を擁護する立場だったが、県教委及びその出先の教育事務所、さらには一般行政の筋はあきらかに攻撃側となった)、さらにはそれから情報を得て書かれるマスコミの記事との「闘い」のなかで行われた。」(森田道雄「1970年代の恵那の生活綴方教育の展開(4)」「福島大学教育学部論集第65号、1998,p21」

 

 さて、この市教委の体制を考える上でやはり無視できないのは、渡辺教育長の立ち位置であろう。まず、彼の経歴について、教育長辞任時に議会挨拶をしているので引用したい。

 

「顧みますというと私は、中津(※ママ)の教育委員会に16年間、指導主事で昭和28年の4月1日から5年間、それから教育次長で吉田教育長のもとで5年間と、教育長を6年間と。なお県の教育委員会の人事管理の仕事を5年間やらせていただいたものですから、戦後教育行政に21年間と。もうほとんど教育行政に当たりまして大変、特に中津川の市民の皆さん方にお世話になったことを改めて深く感謝をし、厚く御礼を申し上げるわけでございます。

 特に指導主事の5年間の中で、県の教育委員会の派遣研究生として、東京大学教育学部教育学科へ1年間やっていただきまして、大変教育学の勉強をさせていただいたわけでございます。そのときの院生、学生さんが、いま名古屋大学教育学部長だとか、あるいは各大学にみんな第一線の教育学者として働いてみえますし、文部省では課長級でたくさんの人が勤めてみえまして、現在も大変お世話になっておることを感謝を申し上げておるわけでございます。」(中津川市議会第4回定例会、1981年6月11日)

 

 同じ挨拶の中で昭和13年から教員をしており、日本教育学会、日本教育法学会、日本社会教育学会の3学会に所属しているという発言もなされている。渡辺が東京大学教育学部に在籍していた時期には当然大田堯がおり、すでにいくつかレビューで取り上げた反正常化側の理論的視座を与える名古屋大学教育学部とも関係性が強い。これだけでも反正常化側とのコネはかなり強くもっていることが推察される。

 また、小木曽(1985)も、教育長退職後の渡辺の動向について次のような指摘をしていることは注目しなければならない。長文となるが引用する。

 

「しかし五十六年六月、任期半ばでご退任なさったあと再びこんなかたちであなたにお手紙をさしあげる機会があろうとは私自身、思いもよらないことであります。でも書かないわけではいられません。なぜなら、去る五十八年三月八日より三月二十六日まで、日本共産党機関紙「赤旗」本紙に連載された、中津川の教育に関する特集記事を読ませていただいたからです。とりわけ、三月十五日付、同紙にあなたの写真入りで報道された、「元教育長の気概」という記事は、中津川の教育に、わが子を託す親の立場からはとうてい黙視でき得ない内容であります。」(小木曽1985、p240)

「「赤旗」にはこう書いてあります。

 「三菱電機の社員の小木曽尚寿さんたちがきたと思います。その後何度かきました。坂本小学校の授業時間割調査結果をつきつけてきましたが、学校側で調べたら会のデーターは実際と違っていました。第一、子ども達を使って授業時間割調査をするなどゆゆしい問題ですよ。それに会が出した高校進学の業者テストのデーターも業者側から“事実と違う”という文書がきています。それをいったんですがなかなか納得していただけませんでしたねェ。」(五十八年三月十五日付赤旗

 渡辺さんあなたは六年も前のことだからなにをいっても市民の皆さんは忘れている、そんなおつもりかもしれません。無責任さにあきれるばかりです。今頃こんなことをいわれるなら、あの時(五十二年一月三十一日)、私どもがあなたに送った「公開質問状」になぜお答えにならなかったのでしょうか。」(同上、p240-241)

「渡辺さん、あなたが市教育長として本当に中津川の教育をとりしきる気概と責任をお感じになっていられたなら、六年もたってから政党の機関紙に“実はあれは間違いでして……”などといわないで親達が必死の思いで書いたあの質問書に真面目にお答えになっておかれるべきであったと思います。」(同上、p242)

「例えば特定政党支持の機関紙「しんふじん新聞」を学校で子どもにもたせることについては誰れが考えても間違っている事例です。市議会で渡辺さんは“申訳ない、今後は……”そういっておられるのに、なかなかその通りにならなかったのは、そのことに一生懸命になっておられる現場の先生が市教育長として渡辺さんがこの「赤旗」記事にに示されているようなお考えの方であることをよく承知されていた、そのことに原因があると思えてなりません。」(同上、p244-245)

 

 公開質問に答える必要性は必ずしもないのかもしれないが、そうだとしても中津川市教委の説明責任は極めて不十分であったことは、2度の学力テストの実施などからも言える。

 

「「しかし学力は高い低いだけが問題でなく、問題点はどこにあるか、またどう是正していくかが一番重要なことだ」と(※教育長は)語っているが、サツパリこの意味がわからない。市の教育部門を担当する最高責任者としての教育長の事がこれでよいのだろうか。今少し市民、子を持つ父兄にわかりやすい解明談が欲しいものだ。」(三野新聞1978年7月2日号)

 

 このような当時の説明責任の不足は、この引用に限らず、議会答弁に対しても類似の評価が与えられていた(三野、掲載日不明)。だからこそオープンな場での議論ではない、後出しジャンケンになるこのような渡辺元教育長の行動こそ、過去の教育論争をなかったことにするための工作として行われていると言われても弁解が難しいだろう。そしてその後の「恵那の教育」実践をめぐる反正常化側の言説がこのような性質を持ち続けてことも否定するのが難しい。

 

・正常化側、反正常化側、どちらが「一部」なのか??

 

 当時の教育をめぐる議論において保護者も含めた一般大衆は正常化側、反正常側のどちらの側についていたのか。これについては榊編(1980)のレビューで提起したように、少なくとも反正常化側の動きに保護者が支持する基盤が欠落していることを述べたし、中間報告で示した内容はそれを裏付ける傾向があった。しかし、反正常化側はそもそもマスコミが語ることこそ偏向であり、大衆の意志の反映である可能性を頭から否定している。

 マスコミの影響及び政治的影響(議会での議論)を排除してなお、残る議論の可能性として挙げられるのは、「夜明けへの道」の製作を中津川市国民会議が承認した際のプロセスが明らかに非民主的であったことと、それへのPTA連の反発、そして小木曽(1980)が広く中津川市民に読まれたという事実およびその評判が基本的に小木曽支持であるらしい(この評判は議会で議論されている意味で政治的影響を排除していない)という事実であった。ただこれらも正常化側が多数だったという事実の裏付けにはまだ乏しさがある。

 

 ただ、一つはっきりしているのは、先述の渡辺元教育長の議論にも見られたような反正常化側の事実の隠蔽工作が認められる点である。例えば2000年に出た恵那の教育に関する資料集では、この時期の状況について、次のように語っている。

 

「そうしたなか、いくつかの記録映画を手がけてきた日本ビデオ・映画製作所から、恵那の教育を記録映画にできないかと申し入れがあり、中津川市国民会議の関係団体や個人の協議と協力をえて、教育記録映画「夜明けへの道」は、一年に及ぶ教育現場や地域での撮影の末に完成し、各地で上映されていきました。また、八〇年に入り民教研は、すでに出版社からも問い合わせが来ていた“七〇年代の恵那の教育綴方をまとめて出版する”ことを決め『生活綴方―恵那の子』全五巻(五冊)・別巻三冊(四冊)を刊行しました(八一年)。

 子どもを見つめ、子どもをつかむ中で発達の芽を見つけ、子どもが自覚的に生活を変革していく力をもつための教育実践が広がり深まっていくなか、中津川の一部の親が起こした“恵那の教育に真っ向から反対する”動きは、背後に企業、行政、政治勢力が見え隠れしながら、執拗につづけられました。

 しかし、子どもの人間的発達を願い、教育をよくしたいとする父母・教職員の運動は大きく広がり、県民大集会や恵那地区教育大集会が開かれるとともに、恵那地域のいたる所で「教育を育てる会」の小集会がもたれるようになり、地域に根ざす教育は高校の積極的なとりくみと共に大きく前進しました。七九年には“子どもと教育に寄せる親の願いを語り合おう”をテーマに「全国親のつどい」が恵那の地でもたれました。」(恵那の教育資料集編集委員会編「恵那の教育」資料集2、2000、p697-698)

「恵那地域にを(※ママ)中心に、「地域に根ざす教育」が広がり深まるなか七六年の秋、中津川市坂本地区で親が子どもをつかった授業時間割調査をもとに「授業時間が片寄っている」「基礎学力が低下している」「文部省の示す教育をせよ」と、真っ向から反対する運動が、坂本地区の一部の親、市内の大企業、保守の市議会議員を含む保守勢力のそれと時を同じくして展開されました。学校長・教育長などに質問状を出したり、市議会での質問を利用した教育攻撃、地元の地方紙に数十回にわたって「生活綴方」教育、地域子ども会活動などに対する批判・攻撃をくりかえし、教員の人事異動に介入する動きまでみせました。」(同上、p706)

 

 この引用を初見で見た読者は少なくとも「恵那の教育」実践が子どもの可能性を広げた実践であったことを疑わないことだろう。また、あたかも「集会」に多くの人が集まり、賛同者として存在していたかのように語られる(※2)。そして、正常化側が政治性を強くもった勢力であったということも真に受けてしまうかもしれない(※3)。しかし、すでに見てきたように、事実はそこまで明るいものだったと、少なくとも当時の一般的論調では語られていないし、政治性に関しては、ごくごく一部の例外(まだ検証できていないが、岐阜県議会の正常化決議などはこれに適合していると言いうるか)を除けばほとんど虚構であると言わねばならない。集会の内容についても、小木曽は次のような批判をしている。

 

「(※「恵那の知で教育を考える全国親の集い」の集会呼びかけ資料を)少し長いがその部分を引用させていただく。

(子供達の自殺、殺人、強盗、家出を深刻な荒廃として)

「子どもたちの、この荒廃のひどさは、取りも直さず、大人達の荒廃のひどさの反映だと指摘されてきています。(中略)

 まことに、今私達の生活は、政治的、経済的、社会的に戦後最悪の危機的状況に落ちこんでいるように思います。有事立法、元号法制化、失業、物価高、増税など、様々な形で生活がおびやかされ、自由がせばめられ、主権在民がないがしろにされ、子ども達の全面的な発達をめざす努力に対しての圧力が加えられたりしてきています。」(以下略)

 続発する子供の非行、自殺に心を痛めない親はない。その原因の一つにいわれるような、大人の暮らしに起因することも理解できる。がなぜそこに「有事立法」が出てくるのだろうか。全く無関係であるとはいい切れないものの、子供の非行も「有事立法」と結びつけて考える親は、極く限られた一部の人達であろう。その人達にとって今問題なのは、子供の非行よりも、政治の流れでありそれにまつわる政党の消長ではありますまいか。

 子供の自殺も心配されておろうが、それさえも、今の政治が間違っている。それをいうための一つの現象として考えられているに過ぎない、こういったら言い過ぎであろうか。

 中津川においても、子供達の非行化を憂い、基礎学力向上を願う多くの親達の声は、政治、思想を越えたところにある。であるのに中津川の教育が、子供の非行と「有事立法」を一緒に考える一部の親と教師によって、長い間リードされて来たこと、ここに問題があったのではないだろうか。

 今子供達を非行の誘惑から守り、生命の尊さを教えるのは、政治と教育の混同を思わしめるような○○集会ではなく、学級、或いは地域での親と教師の率直なひざ突きあわせた話し合いの積み重ねの上にこそよりたしかな効果が得られよう。」(小木曽1980、p52-53)

 

「本日開催された第一回恵那地区教育大集会に教育に関心をもつ親の一人として参加した。

 親、教師のそれぞれの問題報告は日曜日の半分を棒にふってまで来てよかったと思えるような胸をうつなにものもなかった。しかし高校生二人の現状報告はとりあわけ高校生をもつ親にとって考えさせられる内容であった。

 クラスの半分以上の生徒がタバコを吸っている。それを注意した方が仲間はずれにされる。勉強が厳しすぎるあまり、非行に走るものや、無気力、無感動の生徒が多くなっている。高校に売春の噂さえある。

 子どものよりよい発達を願う親ならばこれをきいて平然としてはいられない。私はこれ程、重大なテーマを高校生自らが提起(告発といってもよい)した以上集会がこれをどう扱うか大変興味があった。しかし結果はまたいつものパターンで終った。問題は出されただけ、そのあと壇上に上った親、教師の誰もそのことにふれようとされない。親がききたいのはその生徒たちの訴えに対して、どうするという、専門職である教師としての「診断」とそれに基づいた「具体的な処置」である。」(小木曽1980、p114-115)

「これでは「教育の荒廃」そのものが人を集めるための「みせもの」になっているといわれても致し方あるまい。集会の成功、不成功はその討論の中味ではなく何人集め得たか、その「数」を「力」によみかえ誇示するだけといったら、いい過ぎであろうか。私も含めてそこに集った親達は漠然とした不安と疑問をここでも「増幅」されっぱなしで帰ってゆくだけである。

 これは今回に限ったことではない。もう十数年も前から実行委員会という主体のさだかでない人達で企画される教育の○○集会はいつもこうである。」(同上、p116)

 

「(※恵那地区教育大集会の)会場入口の受付には、学校の先生がずらり並んでおられ、参加者一人ひとりに集会の資料を手渡されていた。会場へ入ってから、その資料をみてびっくり、とんでもないのが含まれている。そのパンフレットはタイトルこそ“保育所つぶしは許さない”、そうなっているが、その記事の内容は政治的偏向いちじるしいとしかいいようのない文章で埋められている。

 その一例をあげれば、生活保護費、児童保護費等の国庫負担率一割カットに関連して

 「法律も無視して弱者をきりすてようとする政府を許すわけにはいきません」

 「私たちは子どもや障害者、老人などを守る運動と連帯して政府の攻撃をはねかえして行きましょう」

 とまあこんな調子の文章である。

 それだけでなく、さらに、ていねいにも切りとって、切手をはればそのまま内閣総理大臣中曽根康弘殿宛の要望書となるようなハガキまで用意されていた。そして集会終了後、主催者側より、参加者に対しこのハガキを出してほしいという呼びかけまであったことは子どもの先生という立場を利用し集めた不特定多数の親たちに政治活動を強いている、そういわれたとき、どう弁明されるおつもりなのであろうか。

 パンフレットに書いてある内容を、政党の機関紙でみるなら一つの見方、考え方として別にどうということはない。しかし、ここは学校の体育館であり、教育の集会であるはず、どうみても不自然すぎる。

 なによりもこのパンフレットが学校の先生によって配布されることは、教育公務員として厳しく規制されている政治的行為にふれるのではないかとさえ思える。

 あげ足をとるともりはない、しかしこのパンフレットが集会資料として配布されることに対し、主催者側内部で“こんな文書を配ることはこの集会が誤解される”、そういう声は起きないのだろうか。

 ここにこそ、この集会が子どもの教育の場を偏った政治活動の手段として利用せんとする、一部の人達に引きまわされている困った側面をまざまざとみせつけていることになろう。

 学校という公の施設で、こうしたことが堂々とできる、中津川の教育にみえかくれするこの陰の部分に、もっと、もっと多くの親が気付いてくれない限り、教室で子どもの授業を通して親の信頼と連帯を……。そういう先生方はいつまでも隅っこに押しやられていることになろう。」(小木曽1985、p164-165)

 

 小木曽の批判点はひとまず置いておくとして、無視できないのは、むしろこの集会の性質である。小木曽の言い分をそのまま支持すれば、ここで議論されているのは「恵那の綴方教育」実践のすばらしさを集会で披露するようなタイプのものではなく、むしろ保護者も含めて教育問題に取り組むことを意図するための集会が行われていたのが実際ではないか、という点である。そうすると、「反正常化側」が述べているような集会のイメージとは少し異なっていることになるのである。あくまでここでの集会は高々中津川市民の教育への関心の高さという事実のもとで行われた集会でしかないのである。この点からも反正常化側は事実を正しく伝えようとしているとは言い難いといえる。反正常化側はあたかもこれを政治的対立図式をもって語っている節があるが、そのような図式は集会参加者層には全く適用されていない内容なのであり、それが適用されるように見える要素というのは、横槍で用意されている政府の政策に反対されている資料などしかないのである。一言でまとめれば、このような集会が行われていたという事実は、反正常化側の支持者が多数いたことの根拠には全くならないということである(これは教師の呼びかけにより参加をしている保護者が相当数いるかのような小木曽の言い方からも認められる)。

 

 今回の現地調査で検討できるのは概ねこのあたりまでである。今後も資料収集を行いながら、より議論を深めていきたいと思う。

 

※1「七〇年代全般にわたって恵那地域の生活綴方教育は、坂元忠芳、深谷鋿作、森田道雄、田中孝彦、その他の全国の研究者の方々に理論的に導かれた部分がたくさんあります」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p9)とされるように、森田はこの時期の主要な反正常化側の論者の一人に位置づけられる。

 

※2 「教育を育てる会」については、実態を十分につかめておらず、今後の考察課題としたいが、小木曽は次のように育てる会についてコメントしている。

 「「中学になればテストに追われ、入りたい高校にも入れず、点数だけで子供の将来を決めてしまう状態です。万引や非行、性の問題で悩む子もいます。親も先生も本当にどうしたらよいのか困ることばかりです。」

 これは市内の小学校で子供を通して、先生から親達に配布された。「民主教育を育てる会」への入会を呼びかける文章の一部である。ここにはいま、学校教育のかかえている、のっぴきならない問題の大半がいいつくされている。

 なぜこれらは「育てる会」では話し合われるのに、PTAの役員会の議題にはならないだろうか、中学に入れば子供の将来が学力で決められることがわかっているなら、そしてそれがどんなに不合理であろうと子供達の、当面する現実がこれであることを先生方も認めざるを得ないならPTAで背骨の曲がっていることと朝、歯をみがいて来ないこと、これらと同じレベルで学力をとりあげられてもいいはずである。

 また、ちゃんとしたPTAがありながら、「育てる会」、「母親連絡会」、「新婦人の会」等の会員拡大に、先生方がこれ程熱心であるということ、これらも中津川の教育のおかれている特殊性を表明していることになる。

 育てる会、新婦人の会等をそんな特別の芽でみることはない……。親と教師が話し合うことはいいことじゃないか。私もそう思いたい。しかし、これらの団体の目的の一つに、先生方の教育運動の一環としての位置づけ、即ち国が標準として定めている指導要領までも、それを守ることを猿芝居として排斥する自由を確保するため、もう一つは特定政党の学校を基礎として基盤として活動するための「かくれみの」として育てられてきた。そう思わざるを得ない事実をみるにつけ、こうした会が先生方や一部の父兄によって、これ程までに大きく学校に居坐ることは子供の教育という面からは好ましいこととはいえない、やはりPTAがあればそれで十分、そういわねばなるまい。

 「育てる会は誰でも入れる、そこがPTAと違う」とよくこういわれる。本当にそうであろうか。現に私は数年前まで熱心な「育てる会」の会員であった。岐阜市で開かれる全県レベルでの会合にも、先生からの「御指名」により何度か出席している。それが三年程前「子供達の基礎学力をもっと大切に。」こんな発言をPTA総会などでするようになったとたんに、「育てる会」の連絡は一切なくなった。そのことを「育てる会」の本部役員にきいてみたところ「あなたは会費を滞納している。だから会員ではなくなった。」こういう返事であった。でも会費はたったの月額十円、それをいつどこで収めるのかこんなことはいつさい知らされていない。私が「クビ」になった理由は他にあり、それは私自身がいちばんよく知っている。このように誰れでも入れるといいながら、その入口ではちゃんと選別がある。これらは育てる会の性格をよく表している事例である」(小木曽1980、p100-102)

 

※3余談に近いが、ここで語られていた「人事介入」についての小木曽の説明も加えおきたい。

  この「人事介入」と呼ばれる内容が初めて明らかにされたのは、渡辺元教育長の「赤旗」記事からであると思われる。

 

 「あれは人事異動の時期で一九七七年二月ころの午後だったと思います。小木曽尚寿氏が市教育長室へきて、私に一枚のコピーを差し出し『これを代えてくれ』といいました。それは手書きで、坂本小学校の教組の活動家の名が五、六名書かれてありました。私が受け付けなかったので、彼はそのコピーを置いて、帰っていきました」(1983年3月15日赤旗・小木曽1985、p242-243)

 

 これに対し小木曽は次のような反論をしている。少なくとも、ここでいう「人事介入」にはそれなりの理由があるが、やはり反正常化側はその事実には触れていない。

 

「私達、親には先生を代える権限もなければ力もありません。しかし私達は市教育長であるあなたのところへかけ込めばきっとなんとかしてもらえる、そう信じて疑いませんでした。

 子どもの授業はいい加減で「有事立法反対」にばかり目の色を変える先生をなんとかしてほしい、親達が教育委員会にそういっていくことが、どうして“人事介入”なのでしょうか。そういう親達の声に耳を傾けその事実を調査し、公教育を進めるに不適当な先生があればそれなりの処置をしていただくのが教育長のお仕事ではないでしょうか、私は自分の子どもの義務教育の先生を塾の先生のように自由に選べない以上、「赤旗」新聞にどう書かれようとも、困ったことがあればこれからも市教委にいって行きます。教育委員会はそのためにあると思っています。ただそれはよくよくのことであり、わざわざ市教委にまで持出さなくても、担任の先生、或いは校長先生の段階で解決できればこれに越したことはありません。当時、私達がこうして何度も市教委へ“直訴”すべき事柄の多かったことは今から思えば結局その根元は、渡辺さん、あなたにあったのではないでしょうか。」(小木曽1985、p244)