縫田清二「ユートピアの思想」(2000)

 今回は日本人論の関連で、縫田のユートピア論を取り上げる。特に今後取り上げる予定の西尾幹二の議論とも関連するため、特に「理想」と「実態」に対する見方についてを中心に検討したい。

 

○「大衆としての日本人」と「代表としての日本人」について(または日本人論の絶対性/相対性について)

 

 板倉章のレビューでも触れたが、日本人論をはじめ国民性の議論を語るにあたって前提としなければならないのは、その国民性の説明というのが「大衆(一般人)」について指しているのか、それとも「代表(為政者や影響力を持った人・集団)」どちらに重点を置いた説明をしているのか、という点である。これまでもレビューしてきた素朴な日本人論というのは、社会問題に関連することなども典型的な例だが、基本的に「代表」と思われるものを取りあげ、それがあたかも「大衆」を説明できるかのように語っていることに大きな問題があると指摘してきた。当然ここには「代表」性も満たしていないような場合もある。つまり、ここでいう代表とは「『日本』という性質を説明するのに十分である(影響がある)と認められる人物に関する議論」ということである。板倉章のレビューで取り上げたヴィルヘルム二世もまた、影響力を持ったという意味で代表的ドイツ人たりえたということである。

 しかし、この影響力を持った人物がそのまま大衆の性質そのものを代表する訳ではない。これは様々な理由が考えられるが、今後の議論をする上で押さえておきたいのは、そのような「代表」が一定の集団である場合であり、そのような集団が「国」との関連で決定的な影響力をもつような場合である。極端な話をすれば、非民主的な社会においては、このズレを致命的に持っているものと捉えることもできる。大衆と一部の集団が決定的に乖離してよいことを許している状態であり、これが国民性を実質的に定めていることになってしまうこと、そしてそこに大衆が関わっていないことを意味するからである。

 

 余談になるが、合わせてこれまでの日本人論のレビューでその国民性について「絶対的」なものとして取り上げられる場合と「相対的」なものとして取り上げられる場合があることを議論してきた。杉本・マオアのレビューでは特に欧米人による日本人論にこの傾向があると指摘されていた点である。つまり、「絶対的」なものとして取り上げられる場合は、全ての日本人があたかも同質であるかのように取り上げられ、「相対的」であるときは、程度の問題として取り上げられることになる。「絶対的」である場合は「大衆」「代表」どちらも基本的に区別することはないが、「相対的」である場合は、両者を分けて考えることも可能である、という整理ができるだろう。

 

 それでは、本書はこの「大衆」と「代表」の視点から見た場合、どちらの日本人論を語っているといえるのか?一見すると、どちらとも読み取れるかのように思われる。正直な所、「代表」の視点から見れば本書の主張もかなりの部分妥当である可能性があるようにも見えてくるわけだが、「大衆」ベースで考えてしまうと、どうしても違和感を持ってしまう。それは特に本書が一貫して国民性を「歴史的」に、過去の思想体系を捉え、その影響を確実に受けている存在として現在の日本人を規定していることに起因しているように思える。

 

○本書における「歴史性」の過大評価について―「教育」という観点の必要性

 

 この「歴史性」という着眼点は、新堀通也のレビューで考察したものであった。新堀のレビューでは特に「日本語」の用法や法などの「制度」を想定していたが、過去に成立した言語や制度というのは、その用法や制度意図までを現在に至るまでそのまま引き継いでいるとは限らないこと、その意味で「現在」の視点に立った考察を行わない限り、そのようなものを根拠にした「日本人論」は成立し難いということを指摘した。土居健郎の「甘え」の用法もまさにこれに該当する。

 本書では特にこれを「万葉集」「古事記」といった古典にまで遡り、そこで語られている内容がそのまま国民性を説明するかのように捉えていること、また、ほとんどノートには記載していないが、西洋における「ユートピア」思想について、トマス・モアやラブレー、ルソーなどから捉え、そのような思想の体系の存在を根拠にして、西欧人の「ユートピア」志向について説明を行っている訳である。

 結局本書では「日本」「西欧」どちらにおいてもこの「歴史性」から見た国民性論は成立するものという前提に立っている。しかし仮に実態において国民性に差異があったとしても、片方しか成立していない可能性もあり得ることについては何ら検討していないのである。日本人論においては、千石保西尾幹二などがそうであったように、「日本の思想はそれ自体として脆弱であり、歴史的連続性に欠ける、そのこと自体が問題である」という立場から論ずる者もあるし、本書の論述などと比べてしまうと、むしろそちらの方が理に適っているという見方さえできる。もちろん可能性としては逆に日本だけで「歴史性」が成り立つこともありえる。結局このような「歴史性」の議論に対して違和感を持つのは、少なくとも私に限れば、その歴史について何一つ理解していない人間がそのような歴史を引き継いでいる訳がないという、歴史の断絶に対する見方に起因する。結局、そのような歴史を学び、引き継いでいない状況においては、歴史は「消滅」することもあり得るのであるが、そのことを全く縫田は考慮しないのである。これはp187の語り口がいかにもこじつけに見える(「思考の原点」なるものは存在しなければならないという確信がある)点にも見いだせる。現在の日本人が「古事記」の内容について一定程度の理解でもしている者はどれくらいいると言えるのだろう?このような古典をむりやり引っ張り出してきたところで、「日本の思考」を説明できるとはとても思えないし、場合によってはこのような態度の取り方が過去への制約を助長させ、創造的な観点から阻害要因になりうることも自覚せねばならない。

 

 このような議論を踏まえた場合、日本人論における教育学や教育社会学が重要性をもってくるように思える。結局、この「歴史性」というのは、その「歴史性」に如何に我々が束縛されているのかという問いを無視できないためであり、それはそのような「歴史性」が「(意図的・無意図的であるかをを問わない)教育」を通じてどのように継承されているのか、という検証なしには語れないということにもなってくるからである。「日本人論と教育」というテーマは、これまではむしろ新堀や西尾のように「国民性(日本人論)の要素がいかに教育制度に影響を与えてきたか」という観点から語られるのが主であった。しかし、ここで検討されるべきなのは、「影響を与えうる国民性がいかに「教育」を通じて継承されているのか」といった問いの立て方である。そして、特に「思想」との兼ね合いで言えば西尾も指摘する「宗教」と「教育」とのつながりというのも重要な検討課題になってくるだろう。

 

○「ユートピア」の思想について―「実態」と「理想」のズレについて国民性は見いだせるのか?

 

 本書で指摘される日本人の「ユートピア」観というのは、西尾幹二の議論にも関連しているといえる。それは、「理想」というものについて、日本人はあまりにも実現可能なものであるかのように捉える傾向があるという指摘(西尾「西尾幹二全集 第一巻」2012,p187)との関連においてである。本書においても、日本の憲法に関する内容について、日本人はそれを絵空事であるかのように捉えることに対し否定しており、それは紛れもない現実であるという指摘があるが(p43)、この両者が結びつくものであるなら、基本的に縫田のユートピア論を西尾の議論同じ枠組みで捉えることが可能となる。

 確かに実態としてこのような議論を裏付ける議論もありえる。例えば日本人のアンケート調査における回答の趣向として語られる論点にそれを見出しうる。国際比較のアンケート調査においてはバイアスの一つともなりうるが、日本人の回答傾向が「どちらともいえない」に偏り、「はい」や「いいえ」という二項図式の極を志向しないという議論は実証的に示されているようである(例えば、林知己夫、鈴木達三「社会調査と数量化」1986,p68、p73)。このような日本人の特性について「何故」を問う場合、少なくとも西尾の議論においては部分的な回答が与えることができる。西尾は西欧人が「理念」に対し一種の耐性があり、それが実現不可能なものであることを了解しながらも、受容する能力があるものと捉えていた。この指摘をアンケート調査のバイアスと関連付けるのであれば、「理念」として提出される「はい」「いいえ」という極端な回答の要求は、西欧人にとってはそれが極端であるものと了解されながらも、それを受容することで「二項図式」的な回答を行うという説明に読み替えることができるということになる(※1)。一応林・鈴木が指摘している日本人との比較対象はアメリカ人であり、西尾はヨーロッパ人を指すものの、同じ理屈が成り立っているものとして見れば、そのような指摘も可能となる。

 しかし、この説明が成り立つとなると、日本人の「理念」の受容に対する考え方にも配慮が必要となる。結局日本人は「理念」を「理念」として割り切ることができないからこそ、中間的回答を行っていることになる。要は「一概には言えない」ことを、素直に述べることができる国民性があるからこそ、「どちらともいえない」と述べるということになるはずである。これが「大衆としての日本人論」として正しいものだとすると、縫田の説明は少しおかしくなる。縫田はむしろ「理念」と「実態」を区別できていないのが日本人であるという趣旨でユートピア論を展開していたが、むしろ大衆は「理念」と「実態」をしっかり割り切っているからこそ、中間的回答をしていることになるからである。

 

 少し話を戻すと、縫田はユートピア思想をアンリ・ベルクソンの流動的なエネルギーの議論と結びつけ説明する。西欧のユートピアの議論において体系づけられた思想は構想力(p13)を生みだし、自然の改変していく批判的な能力を生みだすものと捉えていた。しかし、日本人は自然と調和的な文化の歴史を持っていることから、このようなユートピア思想を持ちえず、「風刺的もしく、否定的要素が希薄な則物願望的段階」「孤独の自覚の不在」(p187)「「絶対」(=死)を意味すると言った極限状況にまで追いつめられていない」(p22-23)といった状況になっているのだという。この「極限状況に追い込まれていない」ような状況というのは、西尾も宗教思想との関連で説明していた部分である。ただ、「日本人が即物的」「欧米人が即物的ではない」という二項図式が直ちに成り立つのかどうかはそれほど明確ではない。特に「代表としての日本人論」としては存立の可能性があっても、「大衆としての日本人論」にはなりえないように思える。例えば縫田の議論も進歩的文化人のような存在を念頭に入れれば、ある程度妥当しているように思えるし、それは「社会問題」のフレームにおいても妥当するかのような議論は想定できる。しかしそれらは決して対比されるべき「西欧・欧米」という枠組みから実証的比較によって導き出された議論ではないのである。

 そして、このような日本人論の議論が安直な善悪の議論、もしくは成長の有無の議論と結びつけられやすく、本書もこの典型であるようにどうしても思える。結局「日本人は未熟である」という漠然とした言説を支持すること、それを実証しようともせずにあたかも成立しているかのように振る舞うことに加担することは、日本人論においてままある暴論であるが、本書もやはり「代表性」が認められるだけの立証を行っていない。本書の与える視点は興味深いものの、この正しさは別途検証しなければならないだろう。

 

※1 但し、林・鈴木(1986)では、このような差異の発生が日本語固有の問題にも起因するものとみている点には留意する必要がある。これは日本語を使う外国人にアンケート調査を行った場合、やはり二項図式的な回答を示さない傾向が認められるからである。しかし、言語に頼らないような回答方式により聞き取り調査を行った場合には、やはり日本人の方が二項図式的ではない、中間的回答を示す傾向も認められている。もっとも、この「日本語の問題」と「国民性の問題」については、どちらがよりアンケート結果の偏りに影響を与えているのかまでは明確に検証されていない。

 

<読書ノート>

P13「日本においてもユートピアと呼ばれている思考形態があるにはありますが、前に申しましたように、意識のエネルギーの発露という視覚から検討しますならば、日本のユートピアと呼ばれているものは、これら東西の典型的ユートピアに見られるような構想力にまでは達しておらず、その大部分が風刺的もしくは、否定的要素が希薄な即物願望的段階のものであると私は考えます。

 広義な概念で、同じイースタンのなかでも、例えばインドあるいは中国などのユートピアの本質には、非常にウェスタン的な、私なりに抽出したいくつかの要素というものを備えた、きわめて典型的な型で出てくるユートピアがあります。

 ただ日本だけが、どうもユートピアに関しては何か特別にその本質が定着していなかったような印象を持たざるを得ません。

 それでは日本には独自な「ユートピア」思想があったのか否かという疑問は、それ自体がきわめて根源的な方法論を含む大問題ですし、そのこと自体がひとつの重要な研究課題になり得るほどの大きな意味をもっております。いま、ここでは、それを論ずることが目的ではありませんから触れませんが、端的に申して、日本には厳密な意味での「ユートピア」思想の発想はほとんどなかったと見ることが妥当であるように私には思われます。あるいは、少なくとも日本の精神的風土において、「ユートピア」思想はほとんど定着したことがなかったと申した方が適切であるかもしれません。これに関連して、丸山正男氏が、だいぶ以前の『朝日ジャーナル』の座談会でつぎのように語っておられるのは、私にとってはきわめて印象深く記憶に残っております。すなわち、「日本は明治から今日まで理想というものが、ユートピアという形ではなくて、いつも地上のどこかの国としてあったと思うのです。時代によって、または階級や集団によってちがいますが、ある場合には、イギリスが理想であり、ある場合にはアメリカが理想であり、またプロシャ軍国主義が理想であり、ソビエトが理想だった時代もあった。……」

※これをどう評価するかだが、丸山真男に依拠する程度では足りないだろう。また、日本にはユートピアが必要だったのか、という問いもまたせねばならないだろう。また、「結局日本にはユートピア思想の伝統がない」と宣言するのも丸山である(朝日ジャーナル1959年8・9号「現代はいかなる時代か」が出典)。

P19「そこでユートピアの特質の第一は、人間による自然の変容ということになります。あるがままの自然の状態や自然のままの風景などは、たとい、それがどのように神話的・誘惑的で美しくともユートピアにはなり得ません。ユートピアは、まず批判的精神に裏付けされた人間の構想力から出発して常に周囲の自然に挑戦し、自然を人間にとってよりよきものにするために変化させてゆくような徹底的に人工的な性格のものであります。」

 

P20-21「日本では古代から近代に至るまで、自然をむしろ率直に受容して、「花鳥風月」という言葉に象徴されるように、自然の美を精神の高さと一致させて、その次元で高度な精神性を維持し、すぐれた芸術性を発揮してきました。日本人のこのような自然観はどこにその原因があるのでしょうか? むろんその解明は大問題に違いありませんが、ユートピアとの関係で、その根本的な一点だけに着目しますならば、日本人の思考の原点には、自然と人間とのきびしい対立関係を規定するユダヤキリスト教的な聖書というようなものがなく、そのかわり、日本人の精神的風土の伝統はほとんど和歌の精神によって伝えられているということが重要な一点として指摘され得ることだと思われます。

 つまり、西欧的思考の原点にあるべき原罪という意識、すなわち原始的自然状態からの人間の分離・独立(=自由)という根元的な孤独の自覚は、少なくとも日本人の伝統的な思考の原点にはありません。」

※日本文化を極度に具体化しすぎでは?

P21「日本人の精神の故郷はむしろ『万葉集』の方に集約化しているとみることの方が妥当であるように思われます。なぜなら、この和歌の伝統は、それ以前の時代から今日に至るまで連綿として天皇系や貴族社会を通じて庶民一般においてさへ、最も格調の高い精神生活の表明として持続されてきているからであります。」

※明らかに大衆を視野に入れている。しかし、「そんな故郷はいらない」という人に対し、この言明は何を意味するのか。これを「最も格調の高い精神生活」だと断じるのは誰か?

 

P22-23「つまり、ひとつの大きな革命的な時期に現われるユートピアの特色は、あくまでも現実に社会に密着しておりますから、それだけに実際の改革案という色彩が強くなり、その分だけ雄大な構想力はしぼんでしまいます。ということは、革命の時代というものは、現実の社会行動によってある種の改革が可能だという確信に基づいているからであり、たとい現実の社会の「壁」を強く意識したからといっても、自らの現実批判がたちまちその人の「絶対」(=死)を意味するといった極限状況にまでは追い詰められていないことを意味しております。しかも、こういうユートピアの基本的性格というものは西欧も東洋も区別はありません。……逆に、両者の相違が明白になるのは、最も追いつめられた意識が、「生」を志向する場合、もはや両者それぞれの思考の原点に立ち戻らざるを得ない場合だけであります。」

※「つまりユートピアというものが、仮に「生」のエネルギーであるとすれば、この場合の「生」というものは、けっして「善」だけを志向するものではなくて、「悪」というものをも含めての「生」なのであります。」(p19)というが、仮にこのような議論が日本的問題と見る可能性がありえるなら、まさに「善悪」に対する態度の取り方、その固定観念に見いだすことも不可能ではないか。しかしこれも日本の専売特許には思えない。

P26「ところで、少なくとも日本の精神的風土のなかでは、自由意志の問題がそれほど深刻に追究されたことはありませんし、そのことは日本人の孤独感の性質が、人間としての根元的なものから出てくるのではなしに、きわめて即物的もしくは生活次元的なものであるがゆえに、そこから出てくる「生」の意識のエネルギーも、生活次元的な理想のなかに解消されてしまう場合が多いことを意味しているように思われます。日本の大部分のユートピアが諷刺的段階にとどまるか政治小説の類に終ってしまうのはそのためだろうと思われます。

 ただ、あまりに生活次元的なことだけにその「生」の志向が拡大する場合には、非常に危険な方向をたどる可能性も大いにあり得ることなのであります。つまり、現実の社会生活の改善を究極の目標とし、人間の存在的価値の全体的把握を無視したような疑似ユートピアは、結局のところ強烈なる有効性の追求というところへ「生」の意識が凝集してしまうのであります。そして近代の世界史が教えるとおり、本能生活的次元における有効性のあくなき追求はまさしくファシズムやナチズムのような決定論主義に趣く可能性を常に内包しているものと考えなければなりますまい。とくに本来的なユートピア思想の定着していない日本の風土のなかにおける各種共同体には、いつの場合にもこの危険が伴っております。それは、日本の場合、「農本主義」というものと密接に関連しやすいからであります。」

※例えば、最後の日本の特殊性なども、ほとんど違いを説明する根拠がない。

 

P28-29「それはともかく、このように同じ東洋的思考のなかでも、インドや中国には古くから幾何学的シンメトリーの概念が定着しており、この部分では西欧的ユートピアと東洋的ユートピアとの間には大きな差異はありませんが、東洋的ユートピアのなかでも、日本の伝統的な思考のなかには、幾何学的であるよりも、絵画的な意味での調和を重視する傾向がはるかに強いように思われます。これも日本の美しい自然と、それに対する日本人の受容的な自然観に由来するのでありましょうし、日本のすぐれた絵画芸術はこういう思考方法に支えられているところが大きいと思われるのであります。しかし、その反面、そういう思考形態は、情緒的になることが多く、日本に典型的なユートピア思想(批判精神を基調とする)の定着することを妨げる結果にもなっていると申せましょう。

 ただ、私のこれまでのユートピアを素材とする多少の分析結果からだけでも申せますことは、「生」の意識の原形質なるものが、ちょうど生理的にみた人間の原形質の場合と同じように、決してひとつふたつの要素には集約できないということであります。つまり、個々には異質な根元的要素が「関係」的に結合してこそはじめて正常な人間の「生」の意識が生きたエネルギーとして発現し得るのであり、そのパターンを社会的な構図として把握しますのならば、ユートピア成立の根源にはかならずや共同体的志向が内在的エネルギーとして存在しているということだけは明言し得るように思われます。」

 

P43「私は、ある会合の席で、憲法は一つのユートピアであろうという意味のことを言ったらたいへん叱られたことがある……。どうも、この人たちの受けとめるユートピアというのは、絵空事という侮辱的な意味においてであるらしい。ユートピアとは、そんなに頼りのないものなのだろうか? この現世で戦争を放棄し、戦力を保持しないと明言することは、私には、どう考えてもユートピアとしか思えない。だからこそ、そこを強烈なエネルギーを見出すのだ。なぜなら、前回にも規定したとおり、ユートピアとは、人間が「生」を志向する意識のエネルギーそのものにほかならないからである。その意味で、私は憲法に関する限り、「はじめにユートピアありき」と思っている。そして、それが明文化された憲法はあくまで「現実」のものと考えている。ここではユートピアと「現実」の間は断絶はなく、両者は一直線のものとして結びつく。」

P62-63「人間の肉体から出発するという思想は、つまり、人間は生れながらにして男性であるか女性であるかのいずれかであり、お互いがすでに片割れ的な存在である以上、そのいずれか一方だけをもってしても「人間」を考えることはできないという相対的な考え方が基本になっているからである。こういうところから、一般にユートピア思想では人間創造の母体である女性の地位の重要視が非常に強調されている。女性の解放がなければ男性の解放もあり得ないし、男性の解放がなければ女性の解放もあり得ないからである。

 このようにユートピア思想の中心は、人間社会に関する一切のものに相互に矛盾する「個」の限界の自覚を強調し、この矛盾の明確な認識から「人類意識」という人間性の究極にあるべき雄大な統一場が設定されているのである。」

 

P187「これに反して、日本の思考の原点にはそのような自然と人間とのきびしい対立関係はない。というより、『聖書』のかわりに日本人の精神的風土の伝統になっているものは和歌の精神であろう。つまり西欧的思考の原点にあるべき「原罪」という意識――言いかえるならば、原始的自然状態からの人間の分離という根元的な「孤独の自覚」は、すくなくとも日本人の伝統的な思考の原点にはない。

 日本人の思考の原点ということになれば、どうしても、まず何等かの古典に拠らざるを得ないし、まず問題になるのが『古事記』であろう。多くの日本人は漠然とこれを「神話」と呼んでいるようである。」

※このように思考の原点を古典に求めようとした際に違和感が出てくる。「日本では古代から近代に至るまで、自然と対立するのではなしに、むしろ自然を率直に受容して、「花鳥風月」という言葉に象徴されるように、自然の美を精神の高さと一致させて、その次元で高度な精神性を維持し、すぐれた芸術性を発揮してきた。」(p186)とも言うが、日本の近代史を考える上で、このような古典思想があたえた影響は限定的でありうるのではないか?このような古典へのこだわりは逆に実態を正しくない方向に縛り付けることになってはいないか??そもそも古事記とは何か理解している日本人はどれほどいるのだろう?

 

☆P193「だが、いずれにせよ、日本の精神的風土のなかでは、そもそも「自由意志」の問題がそれほどまでに深刻に追究されたことはない。そこに、同じオリエントにありながら、日本にはユートピア思想が定着しない根本原因があるように思われる。つまり、日本人の孤独感の性質が、自然ときびしく対立する人間としての根元的なものから出てくるのではなしに、きわめて生活次元的なものであるがゆえに、そこから出てくる「生」の意識のエネルギーも、結局は生活次元的な「理想」のなかに解消されてしまう場合が非常に多いことを意味する。だが、ユートピアが「自由意志」を前提としてのみ成立し得るものであるとすれば、それはむしろ「理想主義」なるものの諸前提の全面的否定の上にのみ成立が可能なのである。なぜなら、「自由意志」の母胎たるべき真の自我とは、それ自体がけっして「理想」というような一定の理性目的の体系ではあり得ないからである。

 それはともかく、日本の大部分のユートピアが諷刺的段階でとどまるか、政治小説の類になってしまうのはそのためと思われる。つまり、それはユートピア(どこにもないところ)ではなくて、何等かの「理想像」なのである。したがって、その場合には、地上のどこかに理想国があって、あとは、それに追いつけ、追い越せという型で発想され、結局は地上のどこかの国の「理想化」に終ってしまうのである。」

※重要なのは、歴史の存在ではなく、その受容がいかに行われているのか、行われうるかという議論である。それは極めて教育社会学ないし教育学的な問いである。

 

P278「キブツに限らず、世界各国に存在するこの種の共同社会は、学問的に「ユートピア共同体」と総称する。といって、これらの共同社会が「地上の天国」だという意味ではない。それはこういう意味である。――人間は本来その本質において全的存在であるにもかかわらず、現代社会の人間は、好むと好まざるとにかかわらず疎外されている。全的存在たる人間は、財産や権力や機械や制度や固定観念……など、いかなるもののドレイにもならないことを意味する。それにもかかわらず、現代社会の人間は、これらもろもろの偶像崇拝者たることを余儀なくされ、そのことのために本来の全的人間は疎外されている。それならばこそ現代社会は、全的人間にとっての非現実であり、非人間性にとっての現実である。「ユートピア共同体」というときのユートピアとは、まさにこの意味の「非現実」を意味するものにほかならず、この非人間的な「現実」のなかで、全的人間を志向して生活していること自体が「ユートピア」なのである。このように、学問上で使用される場合の「ユートピア」ということばの意味を明確にしておかないと概念の混乱や奇妙な誤解が発生する。」

 

P332-333「ここではっきり認識しておかなければならないことは、キブツのメンバーは、町の労働者と同じく、すべて「ヒスタドルート」(イスラエル労働総同盟)の組合員であるということである。したがって、もし日本にもキブツと同じような組織を作ろうというのであれば、相互のキブツは、たとえば「日本キブツ連合」といった横のつながりのある組織を作るとともに、その組織は労働組合に加入し、各メンバーは当然に組合員としての権利と義務をもつ必要がある。少なくともイスラエルキブツは、そのような近代的労働関係の上に成立しているのである。

 このように、日本の各種共同社会が、いつの場合にも横の「連合」組織をもちえず、また、労働組合の方でも、これらに接近しえない根本的原因は、日本では、協同組合というものが、本来的な意味で正常に発達していないからである。」

P335「イスラエルキブツは、原則として夫婦単位の家庭をもち、親子はそれぞれ独立的に生活する。「個」の確立という近代化過程の最も端的な表現である。ところで、その近代化の問題であるが、別の意味で、欧米社会のように、市民の生活基盤になんらかの人類的な精神的共属関係をもたない日本の場合には、「共同体」という概念ほどやっかいなものはない。キブツの共同体の存在は日本の近代化過程とどのような意味で照応するであろうか?

 日本で「共同体」ということばが多くの人々に与える印象は、せいぜい農村の前近代的なエゴイスティックな連帯感や、一党一派の党派的な閥意識、滅私奉公の全体主義的傾向といったものであろう。いや、近代のドイツ社会でも、その近代化のおくれはあのナチス的な「運命共同体の理念を作りあげてしまった。それだけに、現代の日本では、一般に、「共同体」という概念はすべて封建的・前近代的なものであり、近代社会ではむしろ、この共同体から個人が脱出し、独立的な存在になることであると考えられている。むろん、そのこと自体は正しい。」

※勝手に大衆の考えを述べている!