山村賢明「日本人と母」(1971)

 本書は日本人の「母のコンセプションズ」、つまり個々人の具体的な母親を越えた、一定の社会の一般的な母親像を捉えようとした研究成果を示したものである。

 本書において特筆すべきはその分析方法だろう。テレビドラマ「おかあさん」の台本及びモニターアンケート、ラジオ番組「母を語る」の録音テープ、少年刑務所でのインタビュー、戦前・戦中の修身・国語教科書という4つの媒体から母のコンセプションズ(母親像)をとり出す作業をしているのであるが、ここまで多岐にわたる内容を分析しようとしたこと、そしてそれを行うことができたことについては素晴らしいの一言に尽きる。

 また、これまで私のレビューでみてきた家族論と比べると、かなり本書での母親像は異質であるように見えてしまう。私の今までイメージしていた「教育ママ」言説以前の母親像の議論はこのような認識を持っている傾向を認めていた。

「実際、今日、教育ママと評されているような異常なまでの子どもへの執着は、かつての母親にみられなかったものである。戦前の母親も、子どもに寄せる愛情、心のつながりという点では、戦後の母親に劣るものではなかったであろう。しかし、当時の彼女らがおかれていた状況からみて、とても一日中、子どもにつきっきりで世話を焼く余裕などは無論なかったし、また、その自信や能力にも欠けていた。」(増田光吉「アメリカの家族・日本の家族」1969、p27)

 結局、子どもの世話をする時間の余裕がなかった程、家事や(農業などの)仕事に追われる母親像があり、教育ママ言説というのは、そのようなものに時間を割くことが減った分、その対象が「子ども」に向かっていったという語られ方をするのであった。それは教育ママ言説が、「マイホーム主義」などにおいて「父は仕事、母は家庭」という図式が結ばれた際に母の方向性は悪い意味で子どもに向かうということがよく指摘されてきたからだと思う。
 しかし、本書ではいくつかの参照文献も挙げながら、これとは異なる母親像を提示している(p4-5)。つまり、読み方によっては、このような母親像も1950年代には主流で流通していた可能性もあるのではないか、という印象も同時に感じた。こればかりは検証するしかない。
 私自身、現在の日本の教育言説及び家族言説なるものが、社会問題という切り口を経由して、1970年代以降に定着していったものであると感じており、その意味で意識的に1970年代以前の言説に触れ、その違いにも着目しなければならないと感じていた。70年代以降の言説がそれ事前の言説の「忘却」の上に成り立っており、その「忘却」による影響がいかなるものなのか、という視点での考察を試みてみたいということである。学校教育における「弁証法」の取り扱われ方もその一つであったが、本書で提示されたような母親像というのも同じような形成のされ方がなされていた可能性もあるだろう。もっとも、「母親の多忙さ」という論点が本書も含め単純に忘却されてしまっている可能性も否定できないが。


 しかし他方で、この母のコンセプションズを捉えるという作業において(ほとんど固有の)問題については指摘せねばならないだろう。

1.「日本の」「母」の分析は、「日本でない」「母でない」ものとの比較を想定していないかどうか
2.本書において、母のコンセプションズが一般性をいかに持っていたのか

 1.については一見特に大きな問題がないように思える。これは本書で海外の母のコンセプションズを対象としておらず、今後の課題点としてその分析が必要であるだろうという点からうかがえる(p229)。これはその通りなのであるが、しかし他方で本書で見いだされた母のコンセプションズが「日本的」であるという言明は明らかにキリスト教的な「普遍主義」に対する「個別主義」的な罪の意識の形成を促しているという指摘ですでに断じてしまっているように思える。この主張は暗に罪の意識の社会化過程についての比較を想定してしまっているように思える。これは実証的検証を抜きにしてなされており、「日本的」かどうかについては全く検証されていない議論にも関わらず論じられていることが非常に気がかりである。
 また、「母でない」もの、つまり父との対比というのは本書からは基本的になされていないものであると言ってよいだろう。これについても、「父」との対比により「母親らしさ」が強調されることによって、結局学者がこの言説の再生産過程に関わってしまうことはありえる。このような言説が歴史的な意味でいかになされていたのかという議論は今後も行っていくことになるかと思うが、必ずしも積極的に役割固定を前提にした議論のされ方(例えば、父は外で仕事を行い、母は内で家事を行うことが人間の本質であると主張するような議論)は多くないように思う。むしろ、このような対比を積極的に述べることのないような議論のされ方が多いのではないかと思う。そしてその議論のされ方のレベルは多様であると思われる。
 ここから一段階消極的に議論するような例としては、母性本能の強調を行うような類の議論が挙げられるだろう。

「母親に代る育児のエキスパートによって、衛生的に隔離された新生児室で育てられる子どもたち、一週間後に母親のもとに完全に返された時には、母親の母性本能は減退し、母親は育児の仕方をエキスパートから学習する。こうした育児がはいつのまにか、母親が体得するよりも技術を学習する形としてとらえられるようになってしまった。母性本能が希薄になったのは、母親一人一人の責任ではない。社会と文化の発展が、知らず知らずの間にそれを奪ってきたといっても過言ではなかろう。」(松尾恒子「現代家族と母性的教育」1975,p133-134 太田武夫編「現代の親子問題」p120-157)

 ここでは父親がどうこうという議論がなくても、母親というのが父親とは異なることがあらかじめ想定されており、それが差別化を図ることに繋がっているような議論である。これは「父母の違いを明言しないが、積極的に差異化しようとする議論」である。
 また、もう一歩消極的な差別化の議論のされ方は、以下のような女性役割の前提をもとにした議論である。

「母親の外勤などによる親の不在が、愛情飢餓やしつけの不足を生むこと、親が自分の関心事にとらわれすぎたり、極端に忙しいことなどが、子供への拒否につらなって危険であるとされているが、一方母親が近隣のコミュニティーや学校の父兄会などに参加することは、非行抑制の作用があるといわれており、総じて大部分の外的条件は親の精神的健康、親の人格の表現としてはじめて非行に関係するとみられる。」(水島恵一「増補 非行臨床心理学」1971=1975、p96)

 ここにおいては、現状の母親の役割自体が結果として子どもに悪影響を及ぼすという類の議論がされており、必ずしも先ほどのような母親の愛情そのものが必要であるという言明をしている訳ではない。しかしながら、現状の言明をそのまま受け入れる形で議論を続けてしまうのであれば、これもまた母親の役割固定を安易に認めたと同じ状況になってしまうと言わねばならないだろう。これは「父母の違いを明言せず、かつ積極的に差異化しようともしないが、結果として現在の差異化を再生産してしまう議論」のされ方である。本書の位置付けはこのレベルでの母親論を行っており、なおかつこのままの言明を受け止めることについて明確に否定されるべきであると繰り返し述べられているという意味で、この差異化の議論は回避されていると言っていいだろう。
 

 2.母のコンセプションズが実際の母親像の形成にどう影響していたのかについても距離を置いている。しかし他方で、このコンセプションズの分析の仕方として4つの媒体の分析を行った際、それぞれの媒体を分析した時期が異なっているのは少々気になる。学校の教科書を除けば50〜60年代の媒体をもとにした分析であるが、学校の教科書については、明治〜昭和戦中期までという時代区分によってなされているのである。これらを一緒にまとめた上で、「母のコンセプションズ」を見出す作業というのは、ある意味でその不変性を前提にしないと成立しないはずなのだが、この点についての言及は全くなされていないのである。この点も全体として「日本的性質」を追求しようという態度の現われかと思うが、「没価値的」(p234-235)と呼ぶにはすでに価値判断にのりかかってしまっていると言わなければならない点かと思う。
 確かに「母のコンセプションズ」と実際にその「母親性」を示す言説が生身の「母」に与える影響は異なるものであることは明言されているし、その意味でこの「母のコンセプションズ」がどの程度一般的な人々に通用しているかどうかという問いも留保しているようにも見える。つまり、ある媒体(テレビ、ラジオ、書籍など)が、実際にどれ位の割合で人々に享受されているかどうか、もっとわかりやすく言えば、昔なら識字ができなかった者は書物が読めなかったという状況が広くありえた時代があっただろうし、その時代には書物という媒体の影響が小さかったといった状況において、そのような層(非識字層)の人間が考えていたような「母のコンセプションズ」が書物の読める層(識字層)と異なりうるという意味で、本書の見いだした「母のコンセプションズ」は一定のバイアスがあらかじめかかっている可能性を認めているともいえるのである。
 ただし、あまりこの点については徹底しているようにも読めない部分もある。というのも、ここでの留保的な視点は、あくまで「生身の母親の社会化」、つまり概念としての「母のコンセプションズ」の影響力の方しか考えていないのではないかという疑念もかなり見受けられる。これについても確定できないが、大いに語弊の余地がある論点となっているのではないかと思う。


 何故これらの論点に私がこだわるのかといえば、これがちょうどヴェーバーの「理念型」の議論とも直接関わってくるからである。「理念型」の議論において以前私は理念型α(因果関係を形成する要素=概念が、その理念と実態でどうずれているのか)と理念型β(因果関係そのものの正当性の検証)のどちらも、その理念型の検証過程に関連づけえなければならないと論じた。本書においては理念型αが本書で考察した「母のコンセプションズの形成」、そして理念型βが「その概念の(善悪両方含めた)実際の影響力」にあたり、理念型βについては検討の対象としていないと述べている。しかし、このことは理念型αの検討を否定してはならない。論者によっては、折原浩のようにこのことを全否定してしまうような立場に立つ人間がいることを以前確認したが、そのような立場で本書を議論してはいけないということを強調しておきたかったのである。山村によるこの理念型の扱われ方は大きな問題にはならないとも読める。しかし、同時に十分に意識づけがなされているとも言い難い点に注意を促したいのである。


(読書ノート)
p3「要するに、問題は、日本の母は単なるコのオヤとしての意味を越えた存在であり、価値的なシンボルとして機能しているらしいということである。……本書において、第一に明らかにしたいと思うのはその点である。日本の社会の母子関係のなかで、子にとって母はどんな意味をもつものと思念されているのか、母は日本人の行動様式のなかで、どんな意味をもっているのかーーということを、秩序立てて経験科学的に解明することである。」
p3-4「しかしとりわけ日本の母について、その母性愛は、世界に類をみないほど崇高なものである、という観念が、今日なおつよくみられるのである。それがいつの時代に誰によっていい出されたものか、その辺の事情はつまびらかにしないが、戦前から戦中を通じて、日本の淳風美俗としての家族制度の独自性と抱き合わされて、「軍国の母」の賛美によってしれが高揚されたことはたしかである。」

☆p4-5「しかしここでわれわれにとって問題なのは、日本の母の肯定否定ではない。重要なのは肯定にしろ否定にしろ、それらは日本の母子関係を特別なものと考えている点においては一致しているということである。そこで問題となるのは、そのような日本の母のあり方を、学問的にどう説明するかということである。この点に関して次のような論は、日本の母のおかれてきた状況の説明として、最大公約数的なものということができよう。
妻は伝統的に子どもを生む道具とみなされ、子どもによってこそ妻としての地位を安定させることができたこと。母親の社会的地位は一般に低く、老後の生活は子に保証してもらうより外に手がなかったこと。妻は夫・姑に忍従を強いられ、子どもだけが感情のはけ口であったこと。夫婦の愛情の自由な表現が許されず、妻は夫婦関係においてフラストレートされていたため、その不満を子どもによって満たそうとしたこと。かくして母にとって子が唯一の生き甲斐になり、子への執着が生じること。その子どもは権威的に支配しようとする父親に反感をいだき、自己犠牲的・献身的な母親の悲劇的な立場の同情し、後には、そのような母親をなつかしむようになること。母は家のため子のため、自分に要求される犠牲をせめて美化し、その悲壮感によって慰められるよりほかに救われようがなく、その犠牲礼讃が軍国主義者たちに利用されたこと等々。」
※この事実関係は素朴な想定の域を出ていない。一応磯野誠一(1958)瓜巣憲三(1962)津留宏(1959)が参照とされるが、昔から母親のフラストレーションを子どもに向けていた、という見方は、家事が多忙で子どもの面倒を見る暇などなかった、といった母親像とは乖離しているのも気になる。もしくは、60年前後の言説においてはこのような両方の観点は両立しえるものとみなされていたのか?だがこれは60年代中頃からの教育ママ言説とは異なるように思える。

P47「このようにみていくと、ドラマ『おかあさん』は、その番組の常識性・持続性・視聴の広がりからみて、日本の母のコンセプションズの再生産過程において、かなり大きな機能を演じていることが想像される。」
※コンセプションズについては次のように説明される。「一定の社会においては、一般的な母というものについての知識(観念)が、現実には伝記的状況に規定されてさまざまなバリエーションをもっているはずの、個々人の具体的な母親を越えたところで構成されているということである。そこで以下においては、われわれはこの常識的知識としての母の観念を「母のコンセプションズ」というタームでよぶことに」している(p15-16)。「おかあさん」は1958-1967年まで放送されていた。
P59「それでは『おかあさん』のドラマとは何だろうか。まず問題になるのは、母が夫および子との関係でどんな〈状況〉におかれているかということである。結婚して、夫および子どもと生活している尋常な母は、二割にみたないのにたいし、夫と離別(といってもほとんどが死別でsるが)して子どもと一緒に生活しているものは、四割強にのぼり、他に夫とも子どもとも離別している母が、一割近くもある。」

P79「これは、どこからみてもほめられた母ではない。ドラマ『おかあさん』のなかでは、このような不道徳な母を描くということは極めて少ない。たとえばどんなに非難さるべきことをする母でも、描き方としては子どものためにそんなにしなくてはならない母の状況に同情をこめて描くか、少なくともドラマの結末においては、反省するか救われるかするのが普通である。このドラマのように、がめつく生きるためには、自分の娘を喰いものにし、他人にまで自分が母であることを押しつける母を、そのまま扱ったというのは、全体を通じてこれだけである。……モニターといえども、そんな母が現実にいるということを否定しているわけではなかろうが、許せないのである。つまりこれらのことは、母を悪人には描けない(描かない)ということ、言いかえると母に悪人はいない(いるはずがない)という母のコンセプションズの一つの基本的な側面をネガな形で示しているわけである。」
P83「おそらく現実の生活の上では、年をとったら子どもに頼る必要があるに違いないのだが、ドラマに現われる限りでは、つまり、われわれが問題にしている母のコンセプションズとしてはそうではない。……つまり、すべてを捧げて子の幸福につくすことを、母はそのまま女性として妻として人間としての幸福として感ずるということ、母とは本来そういうものだ、ということである。」

P86「このようにみてくると、母は子どもを苦労して育てる過程においては、自らを極小化して子を生き甲斐とし、生きる支えとなしているが、大きくなった子どもは、今度は、そのような母を支えにして生きる、という相互依存的な循環的関係がみられることになる。そして子がそのような、子を生き甲斐とする母の辛い立場を同情と共に理解し、内にとりこんだ時には、心の支えとしての母は、子の社会的達成の原動力にもなりうるのである。それが動機としての母とでもいうべきものである。ここには、孝行のイデオロギー的側面などが崩壊してもなお存在しつづける、母と子の深い情動的なつながりと、そのコンセプションズがあるのである。そしてこれをさらにおし進めるならば、「普遍主義」的な原理による生き方とは別の、「個別主義」的な人間関係を手がかりとする日本人の生き方、というものにつながっていくのかもしれない。」
※ここでいう個別主義とは何か?
P95「それでは、ほめられるべき形においてはどうなるのかというと、それは「もつこくの花」のなかにみることができる。はじめに引用したように、母は息子の嫁になる人に、「不束かな伜ですが、これからは、私に代って支えてやって下さいと」(※ママ)畳に手をついて頼むのである。……これは母が従来自分のとってきた子にたいする役割を、嫁に託して引退するということであり、子の母にたいする依存の関係が、そのまま妻におきかえられることを意味している。そこには妻が夫にたいして母のような役割をとるという「良妻賢母」のもう一つの側面がうかがえるのである。つまり現象的には、子の恋愛・結婚を哀しみとしてうけとる母とは逆のようにみえるけれども、子の恋愛・結婚にたいして、重要な関与をなし、そこに入り込むという点においては同じだということである。」
※作中モニター評価ベスト8のうち、他にも三本も同じ傾向を認めている。また、鶴見祐輔「母」にも同じ傾向を認める(p96)。

P96「先に、子が母から独立するということは、母と子の両方にとって解決すべき人生の発達課題であるといったのであるが、こうしてみると、それが哀しみとして表現されることはあっても、言葉の本来の意味において、解決されているとはいえないのではないかという疑問がわいてくる。少なくとも、子の母にたいする依存の持続性を、特定の母と子だけでなく、文化としても期待している、といえないだろうか。そこには子の母への精神的依存や、子がいつも母のことを忘れないということの美化がある。」
P97-98「それなら、母からの独立ということをもっと真正面から描いた作品はないかというと、ないわけでもない。「水仙」のように母・子の別離を哀しみと共に表現するのとは違った、ドライな作品も少数ながらある。しかし、そのように、子は母から独立すべきであるとか、母には母の、子には子の人生がある、というようなことを強調したドラマは、モニターから一致した高い評価をうるこりがないのである。そんなドラマにたいしてはモニターの意見は分かれるのである。」

P116「子につくす母、たえる母という事実と観念、そんな母への罪の意識、そういうものが伝承される限り、そしてそれにふさわしい「コトバののりもの」がある限り、イデオロギーとしての考がいくら否定されても、それは文化の基層に残るといわなくてはなるまい。現に後から述べるような「内観法」が効果的であるとされているのであり、ここで述べたことが『母を語る』の戦後世代への偏りによるものではないことは、次節の戦後世代を対象にした分析によっても、明らかにされるであろう。
このような罪の意識は、西欧社会におけるそれに比べて、多分に「個別主義的」な性格を帯びたものではある。」
※ここでの個別主義とは、再生産過程のことを指していると思われる。

P179「それは今までの例からもすでにうかがえることであるが、教科書における母は、概してきびしく強い母であるということである。子に愛情をそそぎ、苦労して子につくすにしても、子にたいする愛情におぼれて、子を盲愛する母は現われない。」
P188まとめ。教科書のみに見られたコンセプションズは「母は子のためにあえて厳しくする」「母は公のために子を捧げる」、逆に教科書のみに見られなかったのは「子にとって父より母との関係の方が濃密である」「母は哀しい存在だ」「母は心から甘えられる存在だ」「母にとって生き甲斐は子である」など。

P213-214「西欧の罪の意識というものの根源が、唯一絶対者としての神Godに由来するものとして、普遍主義的原理であるのに対して、母への罪悪感は、まったく個別主義的なものであることはたしかである。そして母が罪の意識の原点になりうるのは、母が時には、夫=父や姑との関係でつらい立場におちいり、ある時は自我egoの欲求を抑圧して、自分の全人生にコミットし、子の側においては、自分の現存在をそのような母に負っていると意味づけ、それを償うのは不可能だと「解釈」する――ということを基礎においている。それは現実には、子がいたらなかったからという事実があるにしても、究極的本質的には、子の個々の過失に帰属しうるものではない。それはそのような母のもとに生まれ育てられたという“原恩”に由来するものである。その限りにおいて、それはキリスト教の「原罪」にも相当する面をもっている。しかしそれを、被造物的に堕落した人間の過去・現在・未来にわたるものとする意識はみられない。ただすべての生をうけた人間に、現世的に負わされているとみなされるのである。このようにして、子にとっての特殊具体的母というものが、個別主義的なものを越えて、普遍主義的性格を帯びることになるのである。」
P214-215「そのような意味づけや観念は母に限るものではなく、むしろその基底にある日本の文化、つまり恩と考の観念に深くかかわっているといわなければならない。……しかしそれに全部解消してしまえないものがあるように思える。何故なら、仏教に起源をもつといわれる恩と報恩、本来中国儒教に由来しながらも恩によって条件づけられるものとして日本化された孝などの諸観念には、倫理的命令や、義務としての色彩が強い。それにたいして、母のコンセプションズにおいては、より内面的なものとしての罪の意識、より内発的なものとしての「動機」かたちで現われていることを問題にしているからである。」

P228「このようにして、われわれは一つの結論に到達したことになる。それは日本の文化において母は「宗教的」な機能を演じうるようなものとして観念されているということである。」
※ここでいう日本の文化は非常に曖昧な時代認識ゆえに、未来にも影響を与えるものと想定される。
P229新たな問題点として挙げられているもの…「(4)欧米諸国および東洋の他の民族と比べた場合、日本の母のコンセプションズはどんな特徴をもつか。
(5)母に対応するものとしての、日本の父のコンセプションズはどのようなものであるか。」
※ここで山村のいう「日本人」が必ずしもその外部の比較を想定していないことがわかる。しかし他方で、このようなコンセプションズは本当に「日本的」と呼んでしまって良いのか、という問題を二重に抱えている。一つは地域差の問題を無視する可能性、もうひとつはやはりその日本性の説明過程で、「西洋」との比較を安易に行ってしまった上で概念形成をしてしまっているのが明らかであること、である。ここで述べられる実証的プロセスなしに本来日本的文化を語れないにもかかわらず、それを語ってしまっているのである。

P231「本来一種の虚像である母のコンセプションズは、実像としての母のあり方と母子関係の実態を規定しているとはいえ、それは家族や社会の構造的変化によって、実像に応じて徐々に修正されてくることはまちがいない。すでに「教育ママ」として問題にされるような母親のなかには、伝統的な母と、新しい母との混合をみることができそうである。現にわれわれによって把握されたような母のコンセプションズは、すでに崩壊してしまっているという論が、江藤淳によって提出されている。」
※ここで将来的な議論が本書の見解と異なる可能性について言及しているといえる。
P231-232江藤の指摘として…「もはや日本人には、秩序の原理としての「父」も、無限にゆるす「母」もないが、かつて深く「母」の文化に育ってきたがゆえに、この現実を認めまいとして母の回復をはかっている。しかし近代産業社会における人間は、そのようなあがきによっては所詮成熟を達成することはできない、というのである。」
P234-235「以上のような展望のなかで筆をおくことになるが、いうまでもなく、この研究は認識的関心によって方向づけられており、つとめて没価値的にすすめられてきた。従って、このような日本の母にたいする批判や評価と、それに基づく新しい母親像の創造という問題は、別の次元に属する、もう一つの残された現実的な課題であるといわなければならない。」
※繰り返すが、この没価値的とは、事実問題に及んではいない。