タルコット・パーソンズ、武田良三監訳「社会構造とパーソナリティ」(1964=1973)

 前回、父母の役割について意図せずとも、その役割の再生産過程に加担してしまうとみなさねばならないケースについて少し検討した。今回はパーソンズの著書を確認しながらもう少し踏み込んだ議論をしてみたい。本書はパーソンズの論文集という形式をとっており、いくつかのジャンルがあり、読書ノートは全体のものであるが、その中から今回はパーソナリティ論の議論のみに考察していくことになる。他の論点はまた機会があれば議論してみたい。


 前回、山村のレビューにおいて、父母の役割の違いについて語る言説の類型として、
1.父母それぞれの差異について積極的に(半ば規範的な)価値判断を行うケース
2.父の議論はしていないものの、母の本質について議論することによって、消極的に父母の差異化をはかろうとするケース
3.現状の母の役割について言及することが結果的に父母役割の差異の固定化に加担しているケース

の3つに言及しておいた。これらの3つのケースはまずもって、語られる母親像と、実在する母親との関係性について、ほぼ完全に一致していることを前提にした議論(もしくは、その違いについて想定することのない議論)であった。
 今回、パーソンズも言及するフロイトをはじめとした精神分析の議論における父母の語りというのはこれらとは少し異なる。つまり、ここで語られる父母というのはあくまでも<シンボル>としての父母であることが強調されるのである(p63)。だからこそ、p63-64で見られるような、実際の父親が重要なのではない、という述べられ方がなされるのである。この場合の<シンボル>としての<父親>とは、役割機能としての<父性><母性>の必要が論じられる形で議論を展開することになる。
 そして、この<父親>とは実際の子どもの「父親」と同一である必要性はないことがしばしば述べられることになる。結局そのシンボルの「機能」について着眼することから、実際に役割を担う人物が誰かという問いについては一旦留保されることになるのである。そして、それは同時に役割が充足すればそれで足りるという議論につながることになる。

「このように、ラカンによると、子供と両親の三角関係の成立に果たす父親の役割と、言葉による人間的な秩序の成立とは、切り離すことができない。
そのばあい、この父親は、家庭のなかにいる具体的な人物でなくとも、もちろんかまわないわけである。それは、言葉をとおして子供のこころのなかに人間世界の秩序を植えつける機能と考えられている。たとえ家族のなかに父親と呼ばれる人物がいなくとも、母親がひとつの文化のなかにおける父親のこの機能を承認し。自分の愛を言葉の秩序をとおしてなにものかにむけているならば、やはりその子供は、文化のなかに行われている秩序を自分のものにしようとするだろう。」(佐々木孝次「父親とは何か」1982、p121)

「母親と子どもの結びつきは、このように極めて大変であるが、その母親を支える父親の力が弱いときは、親子関係の在り方が歪んでくるのである。父親の家庭での態度が弱いと、母親はそれを感じとって、知らず知らずのうちに、母親が父親役を演じるようになってくる。そのために、それを補償しようとして父親が母親役をとるようになると、もっぱら母親の役となり、父親は子どもに同情してかばってみたり、妙に甘やかしたりするようになる。このようなパターンは、わが国においては生じやすいように思われる。
 もちろん、父親と母親はテニスの前衛と後衛のようなものであり、時により、状況に応じてその役割が入れ代ることも必要である。あまりにも固定した観念に縛られていては、動きがとれなくなってしまう。しかし、父親と母親の役割がまったく逆転してしまうのは、やはり問題のようである。時には、一人で父親と母親の両方の役割をやり抜くような例外のあることも事実であるが。」(河合隼雄河合隼雄著作集14 流動する家族関係」1994、p196)

 確かにこれらの引用において、実際の父母とその役割については分けて考えられていることがわかる。他方で、河合の議論がまさにそうであるが、役割機能を担う実際の人物と、シンボル機能の一致はすべきであるという見方がなされることも多いように思われる。これは感覚的にはよくわかる話である。子どもを守る(より正確には結びつく)人物と、子どもを試す(より正確には引き離す)人物が一致するということは、子ども自身の立場からすればどちらの立場に立っている者なのかを問うた場合には混乱しかねないことになり、それは当然信頼関係などの問題にも転化しうる。しかし他方で、河合も例外を認めている。
 こと精神分析の実践者側からこのような<父親><母親>論をみると、部分的に性の問題を扱う中で、結果的に規範的に男女の区別をしなければならないと考えるケースが多いように思う。フロイトはもちろん、ラカンもこの違いについては執着しているレベルであったように思う。この点についてはあまり深入りができないが、他方で精神分析はある種の「治療」の考え方に基づいた上での実践を行っているのであり、そのような領域に留まる限りにおいて、有効であるという余地はあるだろう(※1)。

 しかし、他方で本書などの、精神分析のジャンルから明らかに離れて、社会学的(役割理論として)、ないし心理学的(発達理論として)の中で同じように<父親><母親>という用語を採用してこの議論を行うのは妥当なのか、といわわれれば、NOと言わなければならないのではないか?つまり、それがあくまで「シンボル」としての機能を指す言葉であると言うのなら、たとえ「一般的な担い手」としての実在の「父親」といとも簡単に結びつくような<父親>という用語を充てること自体が、そもそも紛らわしいということである。いくら両者が別物であることを強調し、読者に対してその違いを訴えるとしても、何故ミスリードを簡単に招いてしまうような用語を充ててしまうのかの説明ができなくなってしまうように思うのである。せいぜいここでいう「<父親>と<母親>」を「<タナトス>と<エロス>」程度には言い換えて議論すべきなのではないのか、ということである。それでもなおこのまま<父親><母親>という表現を使うのであれば、もはやシンボルとしての<父親>といったものを規範概念として立ち上げることを意味する(つまり、<父親>と「父親」を同一視することをあらかじめ予定しており、その点において、規範性を帯びることになる)ほかなく、これは役割分担の再生産に、分析者自身が加担することと同じになってしまうということである。
 
 もっとも、百歩譲ってこの概念混同を招く用語の使い方を認めたとしても、実際の議論において、分析者自身が概念を混同してしまっては元も子もない。そして、残念なことに、パーソンズにおいては、これを混同してしまっていると解するほかない発言をしてしまっているのである。
 P63-64の「しかしながらどんな社会の子どもも、家族をこえて広範に拡がっている文化的パタン・システムの初歩を、家族の中で他の家族成員とくに両親との相互行為を通じて学習しなければならない。それゆえ、子どもにとって重要な焦点となるのはまさに父親である。」とそれ以下のくだりは明らかにシンボルとしての<父親>の領域を超え、実在の「父親」を想定するほかない語りをしてしまっている。それは、「どんな社会の子どもも」という普遍性に言及してしまっているがゆえになされる誤読である。このような語りを認めるのであれば、わざわざシンボルとしての<父親>を析出すること自体が不要なのである。取り出したい機能が実態と結びついてしまっているのだから、それに機能の独立化を与えようとすること自体が不毛だということである。
 本書において、フロイトの議論をパーソナリティ理論として再評価しようという観点が見出される訳だが、その反面、フロイトの議論の前提になっているような、父母のシンボル性に対する議論が欠落してしまったことは問題だったのではないかと思う。


※1 確かに精神分析の議論において、その議論の範囲を精神分析の実践にのみ限定しようという動きがあったといえる。

「すなわち精神分析理論の客観性というものは、この実践的意図の枠外に存在するものではない。むしろその枠を肯定するところに、はじめて精神分析的認識の客観性が存在するといわなければならない。それはちょうど、Weber,Mが述べているように、近代の社会学が社会政策の立案という実際的必要から生まれたのと同じことなのである。」
土居健郎精神分析と精神病理 第2版」1965=1970、p25)

 しかし、同時にそれが困難であったことも指摘される所である。これは結局読者がどう読むのかという問題、そして精神分析論者からの態度の曖昧さといった点からも言えることである。十川幸司が「精神分析経験」と「社会理論」という対比として、次のような指摘をしている。

「ところが、精神分析経験を徹底的に考えていくと不可避にそれが社会理論へとなってしまうことに、フロイトは少なからず不安を抱いていた。それは精神分析理論の限界設定が失われてしまう不安である。六九年のラカンが社会における精神分析の位置づけを明確にする必要性を感じたのも、このフロイトの不安と同じ精神分析の位置づけを明確にする必要性を感じたのも、このフロイトの不安と同じ精神分析の限界設定の問いであったと言える。そして「四つの言説」の理論化においては、精神分析と社会理論が持つ内在的な関係性の明確化とともに、何よりも精神分析という言説が他の言説と決定的に切り離されるその独自性が強調されることになる。ここでの関心は関係性の明示ではなく、分離にある。しかし、この理論化のさいにラカンは先に得た簡略化された四つの記号を用いる。このような方法では、結局のところ、彼の意図に反して、精神分析と他の言説の差異よりも、連続性のほうが浮かび上がってしまう。分離を強調するつもりが、逆に関係性を強めてしまっている。結果的に六九年のラカンの理論化で生じたことは、精神分析と社会理論との共犯関係の強化といった現象である。」
十川幸司精神分析への抵抗」2000、p219-220)

 しかし、他方で、このような限定性をあえて外し、精神分析で見出したこのシンボルをその実践を超えた、普遍的な<父親><母親>であるとして述べる論者がいたことも事実である。このような言及がその典型だろう。

「もちろん、そういう父親の概念は、伝統的な西欧の社会において生きつづけてきた父親の役割がその根底になっている。これに対して、ラカン精神分析による説明は、むしろ、特定の社会に伝統的な、ひとつの意味の基準によってその他の文化の内容を明らかにしようとするのではなく、そこに人間がいるかぎり、いかなる文化のなかにもみられる人間の存在の仕方をとりあげているのである。そのかぎりで、彼の説明は、人間の構造を明らかにしようとしているといってもよいだろう。」(佐々木孝次「父親とは何か」1982、P124-125)



<読書ノート>
p13-14「リースマンは、典型的な個人が「他者指向」に依存するようになり、もはや以前の世代の人間と同じようには、また同じ程度には、自分自身の決定に対して責任を取らなくなったと主張するのであるが、われわれの一般的な見解では、もっとも高いレベルの一般性をもつ社会の価値、および社会の支配的性格類型には、リースマンが視察するような変動は生じていないのである。」
※まえがき的な序章より。ここではアメリカという単語はないが、前の文脈からアメリカに限定しているとみなせる。

P56「これこそフロイトがもっとも強調した超自我の源泉としての父親の側面である。超自我と関連して父親は尊敬すべきもの、一方で見ならい、他方で服従すべきものを意味するとともに、それと同時に不安と憎悪の対象を意味するのである。」
※一応前提として「シンボルとしての父親」の議論をしている。
P63「子どもにとって、やがていつか自分が自分の父親になるのではなくて、まさに一人の父親になる日が来るという事実が、その見本を自らの父親により、またそれゆえに他の男たちによって示されているところのこのより複雑なパタン・システムの一部となる。父親がシンボルとなっていて、もはや単なる一個人ではないという事実は、その後のもっとも重要な発達に門戸を開くものなのである。」
※だが、このような議論の仕方は、結局シンボルというものを抽象的な領域から具体的な領域に持ち込んでしまっているのでは?このような父親モデルの提示のされ方は、母親を排除している。

p63-64「この点に関連して性別役割はきわめて重要な要因である。なぜなら性別役割は、問題の分化を助長する主要な構造上の出発点となるからである。その際に、重要になってくるのは、性別役割全体のうちで、これを担う人の家族内での役割に包摂されない成分である。したがって当然、この家族外的成分は女性の役割よりも男性の役割においていっそう優勢であり、しかもより大きな戦略的意義をもっている。もちろん問題とする特定の社会の構造類型に応じてどの程度に、どのように優勢であり、重要であるかは違ってくるが。
しかしながらどんな社会の子どもも、家族をこえて広範に拡がっている文化的パタン・システムの初歩を、家族の中で他の家族成員とくに両親との相互行為を通じて学習しなければならない。それゆえ、子どもにとって重要な焦点となるのはまさに父親である。といっても単なる父親としての父親、つまり父親という家族内での役割を果たしているにすぎない男としての父親が重要なのではない。重要なのは、家族外での役割に対して、および家族外の問題をめぐって堅持している一定の文化的価値に対して特殊な関係を結んでいる男としての父親なのである。」
p64「われわれはこれまで次の基本的区別を強調してきた。初期の母親依存を打破し、全体としての家族に貢献するような遂行を動機づける権威としての父親の役割、他方では、男児にとって性別役割の担当に関連して役割モデルとして機能し、女児にとって男性の理想を示すところの父親、この二つの区別がそれである。」
※結局のところ、一般論としての子と結びつく母親と父親の存在を大前提に議論しているとしか読めない。

P80「インセスト・タブーが何らかの形で普遍的に見られるということと、核家族もまたあらゆる人間社会にとって普遍的であるという事実とが直接的に関連していることはいうまでもない。」
※??これが核家族のみの機能分析を促進してしまっていることになぜ目を向けようとしないのか?
P82「核家族の第一次的機能は、私の考えでは、成人を含む全成員の情動的平衡を維持するうえで、一定の意義をもっていることと、子どもの社会化担当機関として至上の役割を負っているということである。」
※これは子どものパーソナリティの発達段階に限らず言えるのか??
P90「人間のパーソナリティが普遍的に核家族の中で社会化されるというのは、明白なことであろう。」
P97「子どもの性別にかかわりなく、児童期のエロティシズムにとって最初の対象は母である。」
※これは何を言っているのか?普遍的な事実のことか?一般的な傾向のことか?例外についてはどう考えるのか?なお、抑圧と呼ばれるものは潜伏期の存在と関連して、適切な管理が「エディプス的危機」を回避し、適切な抑圧を生む、といった発想を前提にしているようにも見える。

P192-193「満足すべき教育上の資格の下限が上昇するに応じて、この境界線の近傍ないしそれ以下のところにいる子どもたちは、そうした期待を拒否する態度をとらざるをえなくなる。無断欠席や非行はこの拒否を表出する様式である。かくして社会全体における教育水準の改善それ自体がおそらく地位と性能の分布の底辺にあって、その数をいや増している部分において教育過程のまずい結果生みだす主たる要因となっているのであろう。したがって、教育過程は全般的にうまくいっておらず、非行はその兆候だなどと憶測するのはあまりにも安直だといえる。」
※結局この指摘は社会の影響を子どもが受けていることを前提にしているし、それがあまり意識化された言い方かどうかよくわからない。これが学校そのものの否定へと向かっていくならば、合わせて上位層の子どもさえ学校を忌避するであろうからである。ここで下位層の子どもが拒否的となるのは、結局何らかの圧力がそこにかけられていること(社会的な認識としての学歴社会の影響か、より直接的な現場教師などの教育的働きかけか)の影響に他ならない。パーソンズはむしろここでそのような間接的影響の大きさについて排除をし、子どもの主観的態度により規定される非行問題を強調しすぎているように見える。
P188「この過程を支えるもっとも根本的な条件は、おそらく関与する二つの機関——家庭と学校——の成人たちが共通価値を分有していることである。この場合は中核となるのは業績に対する評価の共有なのである。これはとりわけ、機会に近づく公正な道があるかぎり、業績のレベルの異なるに応じて差異的に報賞を与えることは当然である、またその報賞が成功者により高次の機会をもたらすのは当然であるという認識が含まれる。かくして基本的な意味で小学校の学級は機会均等というアメリカの根本的価値を体現している。」
※ここでの説明は、いわゆる学歴社会の議論にまで及んではいないように見える。
P181「かくして肝心な点は次にあるように思われる。すなわち、小学校は、社会化機能ということに照らしてみると、概して業績という単一の連続体によって学級を分化させる機関であり、業績内容の重点は相対的には、成人社会の代行者である教師の課する期待に答えるように生徒を行動させることに置かれているのである。」
※ちなみは「業績」はachievementの訳語(p200)。ここで認知面と道徳面の比較を行い、両者が一体化しているのが小学校であり(p181)、それらが分化しているのが中学校だとする(p193-4)。また、ここでの「相対的」という言葉の意味がよくわからないが、おそらくー、「伝統的」「進歩的」な学校を区別し(p178)、「伝統的な学校ほど教科別の単元学習を強調するのに対して、進歩的なタイプの学校は「プロジェクト」による、より「間接的」な教授を認め、いわば一挙両得をねらえるような幅広いトピック中心の関心を許す。伝統的な学校では生徒個人と教師とが直接に関係を結ぶのに対して、進歩的な学校では生徒たちの集団が一致団結して学ぶことを重視する。」(p178)の議論を引き継いでいるように見える。したがって、この議論は、執筆された1960年ごろの、アメリカの学校に限定した議論であると読む必要がある。

P217-218「今日の状況を説明する場合、向上していく生活水準や、いわゆる甘い安逸な生活を強調するような見解が広く行き渡っている。だがそれとは反対に、私は次のように考えるのが正しいと思う。すなわちそれは、社会発展の一般的な趨勢は、大きくいってーーもちろん若干の著しい例外があるとはしてもーー社会の平均的な市民個々人に対してその要求を軽減するのではなく、むしろよりいっそう大きな要求を課してきたのだし、これからもまた課しつづけていくであろうということである。個人は以前よりもいっそう複雑な状況の中で行動しなければならない。」
※誰が課すのか?多分、社会だろうが。
P218「だが実際には、次のように考えて間違いないと思う。すなわちそれは第一に、社会の要求はこれまで何らかの形で、能力——とくに規範的に複雑な状況に志向していく能力——の発達を、そしてまたある点では機械の発達をさえも、いくぶん凌ぐような勢いをもって発達してきているのではないかということであり、第二に、そうであるとするならばまさにこのことが、今日の動揺と不穏の主要な源泉として考えられるのではあるまいかということである。」
※他方で、「アメリカ社会は主要な価値と発展の大きな傾向という点からすれば、比較的よく組織され統合されている社会である。」(p218)とされるが、これは残念なことに比較対象が本書のどこにも存在せず、リップサービス程度にも読めてしまう。逆に言えば、この仮説もまた根拠に著しく欠いている可能性を認めねばならないということ。

P218-219「この離婚率はこれまで広く、「家族の崩壊」を示す指標として、さらにまたいっそう重要なことには結婚した人びとの道徳的な責任のレベルを示す指標として解釈されてきた。」
P219「しかしながらここで注意しなければならないのは、以上のような見解が、現代の状況における婚姻関係にはますます大きな緊張が課せられていくということを、まるで考慮に入れてはいないという点である。」
P219「(※課題がますます難しくなる要因の)その一つは、核家族はかつては他の構造の中に組み込まれたものとしてあったわけだが、それがかかる構造からますます分化してきているということ、とりわけ経済的な支えをそこに求めていた農場、あるいは他の世帯内ないしはかぞくないきぎょうから、核家族がいよいよ分化してきているということである。かかる分化は家族とその内部の婚姻関係から、それを支える一定の構造的な基盤を奪い去ってしまうことになる。」
※このような観点に核家族と拡大家族の違いの説明が与えられない。ある意味で海外の議論の安易な導入がその論点を隠蔽してきたという見方もできるのか?
P219-220「課題を難しくするもう一つの要因は、成人にしろ児童にしろ、家族外部の役割行動に対して以前よりもいっそう高いレベルの期待をかけられるようになったということである。」

P222-223「まずはじめに心理的準備について述べれば。家族の内部では、エディプス期前の子どものーーもちろんいうまでもなく、とくに母親に対するーー依存性を強めるような傾向が引きつづいてきているように思われる。かかる傾向は、核家族の構造的な孤立化の結果である。近しい親戚が同じ家に住むようなことはめったになくなったし、また家族と頻繁に行き来して緊密に連絡をとり合うような親戚がいることも少なくなった。中産階級の家族の場合、家事使用人は事実上消滅してしまったが、これはまた育児の責任を分割する余地がいよいよなくなってしまったということでもあるのである。さらにまた、五人以上の子どもをもった大人数の家族の割合は急激に減少しており、他方子どもが三人ないしは四人という家族が増大してきている。これらすべての要因は、子どもがとり結ぶ諸関係が家族内に集中していくことを促進し、またしつけと賞罰に関する裁定の権限を両親(とくに母親)に集中させることに寄与している。」
※ここには拡大家族の発想だけでなく、父親の役割についても排除された発想を前提においている。

P246「リースマンがはっきりと指摘しているように、これら三つの類型はすべて普遍的なものであり、いかなる社会も、いかなる具体的な個人も、一つの類型に完全に当てはまることはありえない。しかしながら、あらゆる特定の個人あるいは社会は、基本的には一つのメカニズムに依存し、それによって特徴づけられるとされている。社会についていうならば、リースマンは伝統指向型から内部指向型、他者指向型へと発展する歴史的な過程を踏まえており、それによってこれらのメカニズムが、それぞれ指向の第一次的源泉としてどのように移り変わってきたかを基本的に分析することが可能になってくるのである。」
※この中段の指摘は「群衆の顔」の引用をもとにしている。
P250-251「ところが個人がもはや秩序に依存せず、媒介要因にのみ依存するという考え方は、社会を功利主義的に見る見方と興味ある類似性を示してくる。功利主義においては、秩序は無規定なものと考えられており、媒介要因の構造と比喩的に言い表しているものとしての「見えざる手」(リースマンもこの言葉を用いている)によって「利害関心の自然的調和」が計られるとされている。他者指向という概念は功利主義の再興を意味するものであり、それを仲間集団に応用したものであるように思われる。このことは、消費の領域についての記述においてとくに顕著に表われる。」
※見えざる手の使用は、孤独な群衆、p114。

P251「かくして、他者指向において指針を得るための唯一の源泉となるのは、移り変わっていく消費選好に基づいて与えられる仲間の同意なのである。」
P253「リースマンがいっているのは、これらの探求や技術革新が個人にとっての指向の源泉となるためには、その個人自らの自律性を主張し、自ら他者指向のもつさまざまな限界をのり越えていかなければならないということであるように思われる。」
※そうなのか??であれば、なぜそのような理念型を提示しないのか?
P264「第一に、功利主義的解釈においては、個人の欲望が所与であることが自明の前提とされているため、われわれの強調するような活動主義という要素が全然考慮されない。すなわちそこでは業績と義務づけられるような根拠は何もないとされ、存在するのは快楽主義的享楽志向だけであるとされているという点である。……他方、道具的個人主義においては、社会の善のために貢献することが義務づけられているのであり、第二に、個人にとってするべき値打ちがあるのは何かについての規準が社会的に与えられているということである。自らの義務の遂行はかなりの程度まで個人の自由裁量に委ねられているが、その義務を規定する規範的な規準は制度化されているのであって、個人の自由に委ねられているのではない。」
※このような功利主義的解釈は、ヴェーバーの「プロテスタントの倫理」の議論を全否定することになる。このような議論の仕方はほとんど意味を持たないだろう…リースマンはこの観点を無視しているとされる。

P321「ところが、やがて老人人口が相対的に増加してきて、しかもそれと同時に、純粋に経済的な能力以外のさまざまな理由からして老人を子どもの世帯の中に統合しておくことが次第に難しくなってきたのである。そうした状況の中で老人問題に対処しなければならなかったから、ますます多くの人口部分が大なり小なり苦境に立たされ、一九三〇年代の社会保障立法を最初の主要な反応とするような緊急事態が生まれることになったのである。」
※ここでの意識は拡大家族的なものを暗に想定しているように見える。ただし、過去のアメリカ農村社会においては「大規模な雇用組織の成長に伴って出てくるような引退の問題がそれほど痛感されることはなかった」ともしており、その意味で都市化、産業化の影響を語る(p321)。

P451-452「前者に関していると、マックス・ヴェーバーのかの有名な官僚制組織のモデルは次の事実をきわめて不十分にしか考慮に入れていない。すなわちたとえ、もっぱら管理上の「部下」ではあっても、科学を身につけた専門家は自分の特定の専門領域に関しては、自分よりも専門知識の少ない上司に「命令」されているわけにはいかないということである。」
ヴェーバーがここで官僚制をどう定義していたかが最大の問題点となる。
P470リースマンは「現代アメリカ人の性格を「他者指向型」と規定している」
※武田の解説より。