諏訪哲二「学校の終わり」(1993)

 今回も前回に引き続き、「進歩的文化人」と「近代/欧米化」の議論との関連性について検討したい。諏訪も苅谷同様、進歩的な勢力に対し「欧米的な近代化」の主体であるとみなす議論を行っている。諏訪は高校教師として教鞭をふるっていたこともあり、現場感覚的なものも多分に含んだ論を展開しており、その主張の正しさについての検討は慎重になる必要があるが、少なくとも「戦後民主主義」という枠組みにおける進歩的勢力の言説は「欧米的近代化」だったというのはやはり無理がある。今回は、

 

  1. 何故諏訪はこの「勘違い」を行ったのか
  2. この「勘違い」によって進歩的言説から何を見失うのか

 

の2点について考えてみたい。

 

○前提としての「権力」観について

 

 まず、諏訪の議論を読み解く上で無視できないのは、日教組的、進歩的な戦後民主主義教育について意識的に批判を行っている点である。そしてその切り口は、これまで私が検討してきた「恵那の教育」の実践について小木曽尚寿ら教育正常化側が批判したような「無責任な教師」に対する批判であるといえる。この無責任性を諏訪は「権威性に対して無自覚であること」とほぼ同じように捉えている節がある。P39-40にあるように、そのような権威性の有効性は学園闘争によって終焉したかのようにも見ている。

 この見方が大きく反映されているのが、本書における小浜逸郎への批判的態度である。小浜の用いる「権力論」というのは、諏訪にとっては極めて無責任であるように映る。P127-128にあるように、「進歩的・民主的」教育論者は、教育病理を体制側の問題として還元し、教師自身はあたかも「中立者」であるように振る舞う、もしくはそうあるべきであることを大前提にする。しかし、このような態度は、学園闘争で突き付けられたはずの「権力者としての教師」の問題について何も答えようとしないものであった。諏訪は自戒の意味も込め、別の著書で次のように述べる。

 

「私たちは学園闘争によって教師たちに突きつけられた「教師は権力者である」「教師は生徒を一方的に抑圧している」「教師は知識の伝達を通じて生徒を従順な労働者にしている」という問題を、まともに受けとめようと考えていた。この先、教師をやりつづけるつもりなら、一生かかってもこの問題を解いていかねばならないと思った。それは、私の認識としては権力存在でない教師などありうるはずがないように思われたからでもある。つまり、教師の客観性そのものが権力存在であるということだ。」(諏訪「反動的!」1990,p256)

 

 諏訪の権力論は私も詳しくレビューしたミシェル・フーコーの権力論を採用していることもあり、極めて当たり前のことを言っているように私には思える。学校教育とは、既存の価値観を教える場である以上、その教える行為の中に「権力」が働かないはずがなく、そのような「権力」が働かない状態を志向すること自体がナンセンスである。むしろそのような志向を回避すること自体が無責任な教育の担い手であることを正当化しているのではないか、と諏訪は考えている節があるが、全くその通りであると感じる。一方で小浜の態度は「中立的態度」を徹底しようとすること、そのような態度が可能であることを前提にした教育論を展開する訳であるが、個々の教師は「公=中立的」ではなく、ある意味で「私」的立場から、言い換えれば教師と生徒の個々の関係性を超えることができない所から教育を行うほかないと諏訪は基本的に考えていると読める。

 

○近代的な「個」の思想とは何か?

 

 このような基本的態度は、近代的な「個」に対する懐疑をもってすれば自ずと導かれる結論である。諏訪は私も以前レビューした芹沢俊介「現代<子ども>暴力論」(1989)をとりあげ、「近代=個の尊重」の系譜に位置付く芹沢を批判している。この批判の切り口は私が芹沢の議論を「戦後民主主義の亡霊のようなもの」と形容した部分を批判したものとほぼ同じであると言ってよい(cf.p153)。しかし、このような言葉に与える意味については私と諏訪では大きな相違もある。私が以前提起したのは「子ども自身による教育自治」の理想(神話)が歪んだ形で現れたのが芹沢のような教育論であるいう点であったが、それ以上の意味を含むものではなかった。しかし諏訪は、これを「近代思想」の産物であり、なおかつ「欧米思想」の産物であると拡大解釈をしているのである。このような発想による語弊はいくつか考えられる。一つはすでに西尾幹二や縫田清二のレビューでみたように日本的な欧米思想の取り入れはそれと同じではなく、「理念」と「実態」の距離感がうまくとれていないまま導入されているために問題含みであるという見方がされるような場合もあるという点である。もう一つは竹内洋の「進歩的文化人」の議論で読み解いてきたように、芹沢の系譜にある戦後民主主義の思想というのが必ずしも欧米的ではなく、むしろその否定として展開されていったという点である。例えば、諏訪はp233のように「権力的ではない政府は存在しうる」というような言い方をもって戦後民主主義批判を行う。しかし、注意せねばならないのは、実際に「権力的ではない政府は存在しうる」という主張を行った進歩的文化人は皆無に近いのではないのか、という点である。諏訪はここで結論の先回りをし、二項図式をもって戦後民主主義を捉えようとしているのだが、このような態度をとること自体が「止揚」を前提としていた戦後民主主義の思想を捉え損ねることになるのである。

 

 これが如何に問題であるかを、諏訪がより近代思想としての「個」の批判を行っている著書「反動的!」(1990)の中から検討してみよう。まず、諏訪は現状が「個」をいかに守るようになったかについて、その事実と、いかに子どもが「社会化」されなくなったかを説明する。

 

「どこの学校でも、最近は生徒たちが学校の「やりかた」になかなか馴染まない。自分が納得しないことには従わなくていいという大衆社会状況的な価値観が定着しつつあるから、なかなか馴染もうと思わないのである。もっとも、これも進歩的ジャーナリズムの言葉に翻訳すると、教師が生徒を偏差値でおどしたり、管理、管理でしめあげているから、生徒たちが正義の反乱を起こしているのだ、ということになる。だが、いずれにしても、生徒たちが学校に順応しないようになったのは事実なのである。とくに高校では、ここ数年の生徒たちの変貌が著しい。教師と生徒の初発の関係すら成り立ちにくくなっている。」(諏訪「反動的!」1990,p30-31)

「彼らはまず、自己の「外」と「自己」との区別ができない。彼らの「自己」が、「外」からの規制と闘ってきた「自己」ではないからである。親はもちろん教師たちも、最近は生徒のエゴを「外」から叩かなくなった。だから彼らの「自己」は、つねにエゴの衝動としてしか存在していない。あるいは、「外」をエゴの外延上の世界としてしか捉えていないといおうか。

だから、彼らのルール違反にはまったく緊張感がない。何をやるにしろ、「自己」の決断というものは己の「外」の世界(人間関係や社会的規制など)とのかかわりにおいてなされるべきであるのに、最初から自己の「外」なる世界の認識を欠いているからである。

もともと、人間の自意識というのは、自分の「外」部の世界、そこにいる他の人間との差異性を意識するなかで形成されるものである。だが、戦後の社会風潮は、「子どもを枠に入れてはいけない」「その子の本来持っている個性をつぶさないように自由に育てるべきだ」という子育てを推賞してきた。そのために、日本文化の持つ伝統的な子育ての方法は時代遅れのものと考えられ、子どもは小さいころから「いい子、いい子」と可愛がられて育てられるようになった。もちろん、可愛がられて育つのは結構なことである。しかし、もの心がついて社会生活が広がるようになっても親が「外」的な規制を加えなくなった結果、子どもたちの多くが自分の「外」部と自分との距離をつかめなくなっていったのである。」(同上、p32-33)

 

 このような子どもばかりになってしまったのは何故なのか。この点諏訪は一方で割と当たり前の議論を行っており、家庭や地域といったものも含め、学校の教育力が低下したことの総体の結果として捉えているといえるだろう(※1)。

 

「つまり彼らは、赤ん坊のときから「個性」を尊重されてきたのであり、自分のいやなことは強いられなかったのであり、自分の利益を主張することは絶対に正しいと教え込まれ、エゴを肥大化させてきたのである。彼らとコミュニケートするためには、教師のことばが彼らの利益と交差しなければならなくなってしまったのである。」(同上、P144-145)

「自分の内面を絶対視して、「外」の価値観に正面から闘いを挑むようなことは、私たちが子どもの頃にはなかったことである。もちろん私たちも、自分の内面で「外」なる大人たちの論理と必死で闘ってはいたのだが、それをそのまま表に出そうとはしなかったように思う。私たちは、家庭でも地域でも学校でも、まず自分の「内面の正当性」を否定されながら育ったのである。

こういう環境は、もちろん「個性」を大事にするものではない。しかし、そういう苦しい環境のなかからしか、本物の「個性」は育たないのではないだろうか。

子どもであった頃の私たちは、何をしてもどこへ行っても大人の価値観に取り囲まれていたし、いつもそれに従わなければならなかった。私たちは自分一個の「個」を超える規範性を「外」から叩き込まれたのであり、そういうなかで自分の「内面の正当性」をどう生き延びさせるのかを必死に考えていたのである。これは、子どもの育ち方としては、ごくまっとうなものではなかったろうか。

叩かれることによって「個」は育つ。甘やかされて育つのではない。放っておかれ、何でも好き勝手なことをすることによって、「個性」が伸びるのではない。そういう「個」はエゴが肥大化しただけのものであり、叩かれるとすぐに崩れ落ちてしまうのである。」(同上、P146-147)

 

 もっと言ってしまえば、ありきたりな「構造」の問題として捉えている傾向もある(※1)。

「管理が厳しくなったのは、学校が変わったからでない。経済構造が変わり、地域社会が崩壊し、家庭の教育力が喪失し、子どもたちが野放図になり、自分を規制しなくなったからである。これらの社会的な変動の影響をモロに受けた子どもたちが学校に来るようになったからこそ、学校は生活上の規制を強化せざるをえなくなったのである。このようにして管理は肥大化し、管理主義にまで到達してしまった学校があちこちに生まれたのである。」(同上、P52-53)

 

 しかし他方で、諏訪の議論はことさら学校の問題を強調している傾向も認められる。

 

「戦後の教育のなかでも、日本を破滅に追い込んだ軍国主義教育への反省から、「個」を「集団」のなかに埋没させてはならないという考えが強く主張され続けてきた。教師たちの多くは、いまでも班という概念そのものが嫌いであり、生徒を集団として動かさなければならないときでも、「個」の群としての集団はつくるのだが、その内部に有機的なつながりがあるような集団は決してつくろうとしない。そして、集団をつくろうとしないことが進歩的なことであり、民主的なことであると考えている。

これほどさように、戦後教育というのは「集団」が嫌いである。ましてや班などというと、すぐに江戸時代の五人組制度の再来だといって怖気をふるうのだ。実際にはクラスとは集団にほかならず、何らかの班のようなものをつくらなければ、どのような民主的な教師でもクラスを運営することができないから、結局はつくらざるをえないのだが、不思議なことに彼らは、自分が班をつくったという意識を持ちたくないようなのである。」(p138-139)

「いうまでもなく、誰にとっても集団をつくり、集団のなかで共同の仕事をし、また集団をつくりかえていくちからは必要である。そして事実、学校のなかにもさまざまなレベルの生徒の集団がある。全校、学年、クラス、班、生徒会、委員会、部活動、クラブ活動など、「公」的な集団だけでもこれだけの種類があるし、生徒たちが「私」的につくりあげる集団を考えたら数えきれないほどである。ところが、日本の民主的な教師たちのおおくは、「集団」というものは必ず「個」を抑圧すると思っているから、まじめに「集団」のことを考えようとしないのである。

個性を尊重しなければならない教育の場では、人間を「集団」としてまとめて扱ってはいけないという考え方が、戦後民主主義神話のなかでまったくの正論となっている。」(同上、p222)

 

 もちろん、このような学校、教師の責任の強調というのは、諏訪の議論の大前提である、「責任ある教師」の実態から踏まえれば当然であり、この部分は差し引いて考えるべき点でもある。しかし、そうであるとしても、上記の引用については、「進歩的文化人」にカテゴライズされる教育学者の議論とは真逆のことを言っているようにしか見えない。これは「集団主義教育」の一つの典型であった旭丘中学事件について、教育学者が軒並み賞讃した点からも明らかである。旭丘中学での実践は明らかに「集団のちから」を重視したものであり、むしろ「個」の方が軽視されていたはずである。

 このように諏訪が議論を誤った背景要因としてはいくつかの可能性が考えられる。

  1. 戦後民主主義言説の中心であった教育学者といった「指導者層」と諏訪がみてきた「現場の教員」の考え方が乖離していたこと
  2. 諏訪がみてきた「高校」のフィールド自体が進歩的文化人の教育の議論の中心であった「小学校・中学校」からずれていること
  3. 80年代以降の「進歩的文化人」の系譜の議論が旭丘中学の時代とは異なる性質を持ち、「個」の思想に傾いたこと

 

 1については、例えば日教組の集会についての新聞報道でも、この手の執行部と現場教員の意見の喰い違いといったものはよく行われていたように思える(※3)。日教組の70年代の「時短方針」がなかなか具体的に効果を得られなかった原因の一つも、実際に教育に教師が関わることが減少すると代りとなる「教育の担い手」が実際には現れないため、現実問題としてやはり教師が包括的に教育に関わる必要性を感じた者が多かったこととも関係ないとはいえないように思う。確かに日教組自体の動きを執行部の思想のみで語るべきではないと思うが、しかし、「戦後民主主義」という括りで諏訪が語っていることからはやはりずれた論点である。

 

 2については、特に教師と生徒の「教育関係」に関して、過去のレビューで取り上げた矢野智司が「教育関係に入る」ことを自明視していたような状況というのは、小学校程度であればまだ百歩譲ってありとするにせよ、高校ではやはり成り立たないだろうというような見方はむしろ自然だろう。特に高校というのは、生徒と教師の個と個の対立を否応なく行わなければならないような状況があり、その意味で諏訪がこのことを強調することもわからなくもない。もっともこれも諏訪が「過去はまともな教育が行われていた」ことを前提としてしまっているために論点としてはずれている。

 

 最後に3についてである。これも過去のレビューでは遠山啓のような事例の存在が気がかりである。やはり70年代にはそれまでの進歩的な教育論というのが変化せざるを得ない事情があり、80年代にはその性質が変化してしまった可能性というのは否定できない。そもそも「止揚」のようなマルクス主義的発想がこの時期には明らかな衰退をみせたことを考えると、転換を行われた可能性は否定できない。しかし、これについてももう少し詳しく検証を行う必要がある論点であると思う。

 

 3のような可能性は結局、諏訪の議論が80年代頃からの教育の議論だけしか捉えておらず、それ以前の進歩的な教育学者の議論そのものを捉えていなかったということであるが、この可能性というのは極めて高いように思う。例えば、次のような「集団」の教育の必要性というのは、全生研が唱えていた集団主義教育の議論と何も相違がないのである。

 

「繰り返すが、生徒たちは相互につながりあう必然性を何も持たずに学校に入ってくる。学校やクラスは彼らが自分の意思でつくったものではない。だから、彼らがそこで生活していくうえで生活規範は教師が生活規範は教師が提示しなければならない。これが管理の必要性なのだ。生徒たちが納得しようがしまいが、望もうが望むまいが、この生活規範は押しつけられねばならない。

ただし、もう少し実践的に語れば、管理は絶対に必要だが、それにとどまるかぎり教育的ではないのである。管理は指導に転化していかねばならない。……管理だけで終わってしまえば、生徒たちは「従う者」「従わない者」「どっちでもいい者」に三分割されるだけで、たいして教育的な意味はないのである。そのとき大切なのは、学校側が一方的につくった生徒集団を生徒たちの自立的な集団につくりかえるように指導していくことなのである。」(同上、p225-226

「いずれにしても、どんなささいなことでも生徒自身の手で決定し、それを実行するというパターンが大事なのである。それを繰り返しているうちに、教師がつくった集団性ではなく、生徒たちがつくっている集団性がほのみえてくる。そういうなかで統制の問題が出てくるから、昨今問題になっているいじめの可能性も出てくるであろう。しかし、これはまた別のレベルで取り上げるべきことである。」(同上、p229)

 

 このような主張は全生研の著書をまともに読んでいればむしろできないはずのものである。全生研の集団主義教育は矛盾を抱えた形で「管理」を正当化していた。その「管理」というのは当たり前のように諏訪がいうような生徒による自治に転化するための「管理」でなければならなかったはずである。このような主張を躊躇なく行えるのは、全生研の議論の系譜に全く触れていなかったからである。そして、この全生研の「集団のちから」の議論というのは、旭丘中学の実践の中にも同一のものとして見出すことができたはずのものであり、やはり「進歩的」な教育の系譜に位置付いているものなのである。

 確かに近代的な「個」の思想というのは理念だけ見ると、欧米的な発想であるというのは間違いではない(※2)。しかし、理念だけでなく、実態、ないしは実際に展開されていた言説までみないとその性質を捉えることはできないのであり、この部分において諏訪は「進歩的」言説を捉え損ねたのである。そして、上記の「集団」教育の議論に見られるように、「進歩的」言説の系譜と全く同じ主張まで展開する結果となってしまうことにもなるのである。「進歩的」言説における「止揚」の発想は否定の産物であり、何かしらの肯定を行っているものではない。しかし諏訪はこの「止揚」の発想を理解しているようで理解しておらず、結果として本書p233のような肯定の言説と捉えてしまう。本書でp135やp173で見られた絶対的な「個」の前提にも同じことが言える。確かにこのような主張は正しいかもしれないが、実際の小浜や芹沢の議論というのはこのような主張にまで至っているのか疑問であり、むしろ徹底的な「否定」に留まっているだけなのではないかと思えなくもない。この見方の違いは極めて近いようで、全く異なる意味合いになる場合がある。それが諏訪のような場合であり、二項図式的に捉えてしまった結果、「止揚」の発想において主張されていた内容の半分しか理解できず、残りの半分の部分を諏訪自らが自覚しないまま「進歩的」な立場の者と同じ主張をしてしまう可能性があるのである。「進歩的」な教育学者の議論を捉え損ねる弊害というのはまさにここにあり、このような批判に留まっていては「進歩的」な立場の者に対する十分な批判にもならないだろうと思う(何故なら進歩的な立場の者が支持する議論しかしていないことになるのであるから)。

 

 

※1 諏訪自身が地域や家庭に教育力がなくなったと主張する(p86)のは、見方によっては彼の現場教師としての実感としてそう語っている可能性も否定できないが、やはり諏訪自身も「構造」を語る人間であるという意味ではそれほど実態を踏まえた議論ではなかった可能性もある。特に高校については進学率が急激に上昇し、「高校に入らなければならなくなった」層の増大、言ってしまえば「学校化」の影響も多大に受けており、単純な教育力の低下によって「言うことをきかなくなった高校生」が増えたのかどうかは議論すべき論点であるように思える。

 

※2 次のように指摘されるどこまでも具体的な位相を失った、抽象的なるものとしての「個」の議論は紛れもなく欧米的な思想のものである。しかし、実態は常にこのような抽象性から離れ、具体的な層に戻ろうとするのであり、その具体的な層さえも否定するところに「止揚」の発想があるのである。

 

「じゃんけんは一個と一個をまったく対等に扱うものであるから、「個」に組み込まれているさまざまな人間的要素を捨象するものである。つまり、人間という具体存在を抽象化してひとつの「個」にしてしまう。そこでは、ひとは完全にほかの人間と対面できる。だからじゃんけんをする際に成立するひととひとの関係は、完全に近代的なものである。」(諏訪「反動的!」1990,p119)

「じゃんけんの本質は行為者のさまざまな属性が捨象されることであり、それは近代市民社会の人間関係そのものである。現在の生徒たちのエゴ中心主義を私は村田のように肯定的には捉えていないし、ひとは他者を媒介にして自分を認識し、自分をつくっていくものだと考えている。そのためには、個性と個性とがぶつかりあう場をつくる必要があるのだ。

村田(※栄一)は、生徒は現在のあるがままの「個」の姿において、すでに価値あるものだと考えている。それはおそらく、村田が戦後民主主義者の習性として、個は個としての価値があり、個が個であることを超えて何らかの普遍性や正義を持ってしまったら、抑圧や戦争につながる危険性があると思い込んでいるからなのであろう。」(同上、p124-125)

 

(2020年8月30日追記)

※3 執行部と現場教師という軸では必ずしもないが、ベンジャミン・デューク「日本の戦闘的教師たち」(1973=1976)では、日教組の組織としての多層性を描いている。デュークによればこれは70年代の産物というよりも、ほぼ日教組設立当初からの固有の問題だったという見方をしているといえるだろう。

 

<読書ノート>

 

P39-40「六七年末から七〇年にかけて全国の大学と一部の高校に学園闘争の嵐が吹き荒れて、学校や教師の権威性はかなりの程度失墜した。もちろん、表面的には学校の秩序や教師の権威性、そして学校での生徒たちの生活がドラスティックに変わったわけではない。だが、根底のところで学校は大きく変質していった。

七〇年前後のさまざまな闘争の根拠は、戦後的な理念の輝かしさとは裏腹に、そうした理念の背後に現実に存在するたくさんの差別性、欺瞞性を告発することにあった。こうした告発はまさに戦後的な建前を教えるところであった学校を直撃したから、学校の権威が失墜しないわけにはいかなかった。

学校は裸にされはじめたのである。聖なるものとしての学校が、大衆の目に見える範囲に入ってきたのだ。そして、学校を支えてきた地域の共同性そのものが、とりわけ大都市周辺で最終的な解体過程に入っていく。テレビの全面的な生活への浸透が消費単位としての個人の自立をうながし、一種の擬似的な主体性を亢進させていく。地域の輝かしい文化センターであった学校の聖性は後退し、テレビの箱に取って代わられつつあった。」

※ある意味では正しいかもしれないが、それでもなお「欺瞞」を維持せんと学校という勢力は力を発揮し続けた、ともいえるのでは。

 

P42-43「このように私は、人間の全体性を否定して受験一点に収斂していくような高校教育は絶対に否定されなければならないと思っていた。そうした私の信念の基準になっていたのが、憲法教育基本法の理念を体現した理想的な人間の育成ということであった。このような思い込みはいまから考えれば一種の錯誤にほかならないが、とにかく受験中心の教育が「教育の荒廃」ということばに象徴される教育そのものの非人間化の元凶であり、何よりも受験体制は資本主義社会に適合した自分勝手な人間ばかり育てていると、私の目には映じていた。

ところが、七〇年代に入ってからの教育批判は、受験教育ばかりで人間教育をしていないという従来の理念的な批判から徐々に転じて、学校は管理ばかりしていて生徒の自由を尊重していない、偏差値で輪切りにして生徒の個性を大切にしていない、何よりもうちの子が大事にされていないというような、実体的な学校批判に変質していった。つまり、受験教育批判という理念的な「教育批判」がストレートで実体的な「学校批判」へと変わっていったのである。国を憂うる「教育の荒廃」論が、個人を圧殺する学校の管理体制への批判に転轍されていった、と言い換えてもいい。

では、こうした教育批判の変質はなぜ起こったのか。

六〇年代末の学園闘争では、大学へ行くことによって社会的上昇を図ることがエゴイズムだと批判され、大学の研究そのものが体制を支えていると攻撃され、大学の研究そのものが体制を支えていると攻撃され、そういう自分一個の利益を求める生き方が体制を維持し、そのことによってヴェトナム戦争にも加担しているのだとリゴリステックニ追及された。日々の豊かさや快楽を求める戦後社会の営みそのものが、東南アジア人民の収奪や抑圧につながっているのだとして、「自己否定」ということも主張された。

そして、これらの闘争の敗北のあとに残ったのは、さらなる物質生活の向上と社会的な連帯感の欠如、つまりシラケ現象と呼ばれた政治的社会的アパシーであった。個人の情念は家庭や身近な友人、あるいが自己の内面に向かうしかなくなり、「教育の荒廃」の内容規定も大きく変わって、個々人のその場での要求・欲望を絶対視する立場からの学校批判が中心になっていったのである。」

P44「戦後理念の良質かつ硬質の部分が皮剝ぎされてしまい、個人の私的利害一辺倒の時代に入っていく。戦後社会がもっていた共通の精神性が喪失し、社会批判の方向性を模索していたジャーナリズムは校内暴力に自らの政治的情念を反映させ、それを一種の政治的反乱のように位置づけて学校・教師に批判を浴びせた。さらに、当時日本に移入されつつあったポスト・モダンの言説を援用するかたちで、「管理社会」化による個人の自由の抑圧、学校での生徒管理の自己目的化、そのような非人間的な管理主義に対する反抗という認識パターンが固定化する。それ以来、学校での生徒管理は「管理教育」と命名され、個々人の自由や人権との関連でずっと批判にさらされてきた。

だが私たちは、管理はそれが外形的な規制にとどまるかぎり生徒たちの内面を傷つけることはあまりなく、校内暴力の引き金となることはあっても、本質的な原因ではないと考えてきた。私たち現場から見れば、中学生たちの校内暴力とは、大量消費社会化、大衆社会化が進む中で、生徒たち全員が能力や適性のあるなしにかかわらず横一列に並んで偏差値競争をせざるを得なくなった情況への、彼らの絶叫であった。」

※この認識、特にジャーナリズムや思想の影響については適切なのか、かなり疑問もある。社会学側からの議論としてはありえるが、例えばかつて管理教育は全生研が賞賛していたものであり、その推移は検討すべき。

 

P62「もともと学校という場は文部省の考えているとおりには動いていないし、文部省がこうしようと思ってもなかなか変わるところではない。……世の人たちは、教師が文部省や教育委員会にとことん管理されていて、無理矢理従わせられているかのようなイメージをもっているらしいが、現実はそんなものではない。

ついでにいうと、学校の内部も多くの場合、お上の意向がストレートに通るようにはできあがっていない。この点についてもイデオロギー的に偏向している人たちが、学校は教師も生徒も満足に息もできないほど管理された場であるという宣伝を繰り返しているので、間違ったイメージがもたれている。」

P64「では、こうしたコース制の設置が意味するものは何だろうか。

それは、ここにきて、圧倒的多数の高校教師が伝統的にもっていた普通科重視という旧制中学的な発想が急速に消失しつつあるということを示している。誤解を受けないようにあわてているのだが、昨今の高校の多様化は、企業側の要請を受けたうえでの政府・文部省による「労働力配分計画」とストレートにつながるものではない。誰もが大学受験をすることを想定した普通科が、生徒たちの実情に合わなくなってしまったのである。」

p86「家庭・地域の教育力が落ちた分、負担は当然、学校にかかってきた。基本的な生活習慣が身についていない子どもたちが陸続と学校にやってくるようになり、学校が知識の伝授以上に生活の指導にかかりっきりになった。下の方の高校にいたときの実感として、生活指導に比べれば、授業などちょろいものである。」

※前段と後段の説明が脈絡がないように思えるが。

 

P102-103「もともと日本的な集団主義は個性を尊重しないとよくいわれていてきた。私は果たしてそうか、という気がしてならない。なぜなら日本的な集団主義のもっている平等観は、ヒエラルキーを欠いたのっぺりとした平等ではないという気がするからだ。できる者はやり、できない者もそれなりにやって、それぞれがそれぞれのところを得ているというのが日本的な調和であろう。しかし、いま流行っている平等主義は、「みんな同じでなければならない」という傾きにおいて個別的な存在性を否定している。つまり、日本的なものではない。そして法的なレベルでの平等意識の現実への適用は、具体存在としての人間を窒息させようとしているのである。」

P105-106「だから、学校ではありとあらゆる会議がひっきりなしに開かれる。基本的なところで全体を確認しておいて、細部については係に任せるという発想がない。逆にいえば、提案者が「みなさんの意見は聞きましたよ」というフェイントをかけ、「私は別にえらい人間ではありません。ただみなさんの意見を聞いて仕事をさせてもらうだけでございます」という恭順の態度を示しさえすれば、たいていの家は通ってしまうのである。そこでは、その案が教育的かどうかなど一切関係がない。

また、これも高校の場合はかなり一般的なのだが、校務分掌の特定の仕事を三年以上やることは禁止されている。特定の仕事を特定のひとがやりつづけるのは何らかの弊害を生むというのが建前的な理由だろうが、本当の理由は違うようだ。それは、誰もが平等であり、みんな同じ態度に仕事ができるとする「共同妄想」にもとづいているのである。」

P107「こうした平等への志向が個人の「権利」の絶対的な擁護に行きつくことによって、学校社会における生徒と生徒の関係性や、教師同士のつながりの質が変容し、腐敗しつつある。

自己を守り、他者を引きずり下ろすことだけに専心するような人間によって構成された集団に未来などあるはずがない。「誰もがみな平等であるはずだ」という感覚が際限のないいじめを生み、教師集団から緊張感をなくして、学校という場を限りなく堕落させていっている。だが、このような人間的危機のありようのついては、誰からも警告が発せられていないのである。」

 

P113「戦後の学校言説の世界に大きな風穴を開けた嚆矢はやはり、一九八五年の小浜の『学校の現象学のために』であろう。私たち埼玉教育塾が八三年発行の『学校をしっかりつかむ』で、現場の教師という限界性を引きずりながら恐る恐る提起したレベルを、小浜は『学校の現象学のために』でいとも軽やかに突破してしまった。「あくまで教育を『のぞきこむ』のであって、教育の中に『はいってゆく』のではない」という小浜の知的スタンスと持続した思考を展開する冷徹な知性が切り開いた教育言説の新しい地平がそこにあった。

私(たち)は、目の前にいる生徒たちへある種の「原罪」の意識と、相手も同じひとであるという「畏れ」の気持をもっていない教師は共に語るに足らずと思っている。だからこそ、学校現象をドライにクールに眺めることができない。」

P113-114「たしかに、小浜のいう「『人を教え導く』というこの世界の根本義の拘束力からどうしてものがれられない」のかもしれない。ただ私には「『人を教え導く』というこの世界の根本義の拘束力」からみずから逃れることができていると信じ、あたかも事実をありのままに把握できていると思い込むこと自体がまた陥弊のように思われてならない。この点は小浜と私との基本姿勢の基本的な差異なのであるが、「『人を教え導く』というこの世界の根本義の拘束力」から離脱した世界もまた、別の謬見ないしは偏見に色濃く塗り込められた世界なのではないだろうか。」

 

P124-125「私は正直いって、小浜の称揚する現場教師の言説を読んでも「実践の構え」すら読みとれなかった。もちろん佐藤通雄の『学校はどうなるのか』で私の『反動的!』から何ヵ所か引用し、賛意を表してくれているのであるが、それらはすべて現状分析的な部分であり、教師と生徒の本質的な関係性などにはあまり興味がないらしく思われた。

いずれにしても、小浜にとって「観る者」の言説の価値は疑いようがないようである。それはお互いの傾向性の相違だからいいとしても、「どんな幻想にも支配されずに」などという美辞麗句で称揚されているのを見ると、果たしてそうかと思わざるを得ない。世の中にあまねく存在する固定観念や既成の常識の偏向性を超えゆく道は、それとが別個の幻想性や偏向性を身につけることだと私は思うからである。事実、小浜もみずからの幻想と偏向とで言説をかたちづくっている。「教師たるものかくあるべし」というタブーを超え出る道は、「教師たるものかくあるべしと思わざるべし」という当為を仮構することを通じて発見されるだろうと私は思う。

無念無想や空や無の境地に達し得る悟りをひらいた達人たちにとってならともかく、私たち凡人に「どんな幻想にも支配されずに」現実を眺め、ことば化することなどできるはずはない。そこでは「どんな幻想にも支配されずに」私は現実を眺めているのだという「幻想」が新たに獲得されているだけなのであり、現実の切り取り方、現実のことば化にはあくまでも当人の思想の党派性が貫かれるのである。」

現象学的な議論をするとまま出てくる論点であり、致命的に重要でもある。

P127-128「私がひっかかったのはもちろん、小浜が「個々の先生というのは、権力者じゃない」と述べたからである。学校において個々の教師が生徒に対して権力者でなければ、いったい誰が権力者なのだろうか。権力が校舎内の宙に浮いていたり、校門かなんかに内蔵されているのであろうか。

おそらく、小浜は悪いのは制度構造(システム)なのであり、教師はその中で動かされているだけなのであるから、個々の教師は悪くないし、ましてや、現在では実態として権力者などと呼べたものではないといいたかったのであろう。

だが、ここで「制度構造」を「教育政策」におきかえてみると、この構図は「進歩的・民主的」教育論者のそれとまったく同じなのである。いまでも「進歩的・民主的」教育論者は教育の諸悪の根源を体制側の教育政策に一元的に帰因させている。そして、教育や学校や教師は本来いいものであり、おかしくなっているのは政府・自民党・文部省のせいであるといいつのってきた。だが、現場の感覚からいわせてもらえば、教育政策も個々の教師がそれを体現しないかぎり現実的なちからとはならない。この事実を問題としないかぎり、制度や政策をいじってもどうにもならないという実感が私たちにはある。教育政策を現実化しているのは個々の教師であり、そしてもっとやっかいなことに、教育政策のすべてが間違っているわけでもない。」

※この前提は正しいという他ない。小浜はこれを暴力的なものに限定してしまっていることを諏訪は小浜を批判するが(p130-131)、これはむしろ「管理責任」のようなものと一体となって権力感を捉えているからこその言明である。

P128「図式的にいってしまえば、教育の問題点をモダニスト(「進歩的・民主的」教育論者)は「政策」のせいにし、ポスト・モダニストは「社会システム」に帰因させていて、構図としては同じだと思わざるを得なかった。」

 

P135「私たちのまわりには共同体の規制やヨーロッパ中世のキリスト教の抑圧に対抗して仮構された「近代的自我」なるものへの信仰が根強い。仮構されたものが実体として捉えられているといったらいいか。とりわけ、マスコミの論調や教師たちの考えの中で、近代的自我の確立を絶対的な目標とする発想は絶対的である。そして、小浜の論を写していて改めて確認したことだが、小浜の頭の中にも同じような感覚ないしは発想があるように思える。後述するが、小浜は「自我の確立」というイメージを「鮮明な言葉」と位置づけているからである。

一方、私は個の意識というものをつねに集団による規制、共同体的な意識の統合作用との相関関係において捉えている。絶対的な個の意識など実体としてあり得ようはずがない。個の意識は家族、地域社会、学校、企業、国家というような共同性による統合作用と対抗的に形成されるものだと考えている。生徒の変容の最大の要因は地域の共同性が解体し、地域(親)からのサポートによって成り立っていた伝統的な教師の権威が崩れたことにある。ということは、教師の権威性によって自己表出を阻まれていた個体の意識(自我)が突出しはじめたということでもあるのだ。」

※教師に対する近代感はなぜ個人主義化するのか?「教育現場では一般的に「自我の確立」なるものは人間形成上最終的な目標として考えられている。」とする(p136)。

P148「「子どもは本来すばらしい力をもっている。それをおとなたちがあれこれといじるからネジ曲がるのだ」とする捉え方は、戦後民主主義教育神話の再現でしかない。芹沢は、「子どもは自分の意志で生まれてくることを選んだわけではない」と書く。私だったら「子どもは」ではなく「ひとは」と書くところである。つまり、芹沢にとって子どもは疑うべくもない「価値ある実体」なのである。おそらくこれは、大事に育てられたであろう氏の幼少自体の懐かしい思い出のせいなのであろうけれど。」

P153「ひとが一人前になっていく過程は、「外部」から人為的にちからを加えることによって成り立つはずである。このちからの加えは、やり方の良い悪いの差はあろうけれど、類としての人間にとっては本質的なものだといってよかろう。ひとが社会的動物である以上、生まれてきた子どもの「内部」のみにすべての可能性が含まれているなどということはあり得ない。」

P153「イノセンスという仮説をたてることによって芹沢が提示した「子ども存在」問題性なるものは、新たな装いをもった「子ども神話」「戦後民主主義教育神話」の復活である。芹沢の子ども論は、子ども論は、子どもたちの「欲望の充足」ということを最大の課題にしているからである。」

 

P159「私が芹沢を戦後民主主義的だと断定するゆえんは、氏の頭の中に「親と子」「おとなと子ども」をパラドックスとして捉える視点がないからである。ルソーは人間に対する歴史的に形成された幻想を相対化するために、「自然人」を仮構したといわれる。すなわち、ルソーの「発見した」子どもとは実体的なものではなく、方法的な概念なのである。

それに対して芹沢の「子ども」はどうかというと、最初は方法的な概念として使用しているような気もするのだが、最終的には、「この錯覚にもとづいて、おとなは子どもに社会の約束を教えようとする。それは同時に、子どもが自らを選びなおすという課題を遂行する機会を奪い、封じ込める」と述べ、おとなの世代の行為を具体的に糾弾することによって、「子ども」存在を実体として固定してしまったのである。

「おとなは教え込み、子どもは選びとる」――これは厳然たるパラドックスである。このパラドックス戦後民主主義とその裏返しであるポスト・モダニストの亜流は現在まで一貫して理解せずに来ている。いわく、管理するから自主性が育たない、自由にすれば個性が伸長する、と。」

P162「こうした芹沢の「子ども論」の根底にはつねにポスト・モダン的な「社会システム」批判の意図が潜んでいることは明らかなのだが、私に解されないのは、それでいて芹沢の言説が「近代」の論理を決して超えていないことである。いや、かえって「近代」の論理にだらしなくよりかかっているといえようか。」

※これは厳密に芹沢が「社会システム」原因論にコミットしているわけではないからだろう。

 

P173「芹沢には、個体に対して何らの強制的なちからの働かない生活空間が、どこかに実体的にあるべきという想定が根底にあるのであろう。あるいは、いまは人間が自由に生きることのできない「時代」であるという先入観念に規制されているのであろうか。芹沢の子どもに対する叙述を読むと、いまの子どもたちはまるで呼吸もできないほどの不自由で非人間的な空間に押し込められているかのような印象さえ受ける。」

※これは言い換えれば「解決が現実的に不可能である」ことが「可能である」かのように語っているということ。

P174「政治批判、社会システム批判の行きつくところは、「個人の自由の尊重」や「人権」の完全な徹底にほかならない。ポスト・モダンを装う戦後民主主義者たちはいかなる意味でも権力や権威や特権を認めることができない。つねにいかなる局面においても、ひととひととは対等であり、平等であることを主張する。共同社会が歴史的に形成してきたさまざまなひととひととの「関係性」は、そこでは一顧だにされないのである。」

※この発想は諏訪のオリジナル??ただ、これが特に積極的な意味での「個性の尊重」に直結するわけではやはりないのでは。

P174-175「これ(※教師が権力を背負っていること)は歴史の強いてきたことであり、教師たちが選択してきた立場性ではない。教育は一定の「文化の型」を子どもたちに強いるものであり、子どもたちの望まない「知」でさえ押しつけることを本質としている。このことが容認できなければ、学校や教育そのものを否定すべきなのである。」

フーコーも参照しながら権力観について示す。

P176「教師と生徒との戦争は、広い意味での「文化」の領域で展開される。だが、それは「文化」の領域で抽象的に行われる戦争ではない。生身の人間である教師が、多数の生身の子どもたちに「文化の型」を押しつけることを基本としている。そこに何らかの障壁を設けなければ、壮絶なエゴとエゴとの闘争になってしまう。

つまり、教師と生徒とは本質的に「戦争状態」にあるから、「殺し合い」のデスマッチにならないように、教師の側に一方的に権力性が確保されているのである。もちろん、このようなことは「法」的にはまったく表現されていない。したがって、法律上の正当性を教師がもっているわけではない。「法」とは別に、学校そのものの伝統的なシステムが、教師に優位性を与えているのである。

このことは近代合理主義者にはまったく理解できないらしく、芹沢も「教師と生徒が共に守れるような規則のみを校則とすべきである」と主張している。だが、世の中というものが「法」だけで解析できると考える方がおかしいのである。「文化」というものは事実上「法」を超えているのであり、「法」はすべてをカバーしているふりをしているだけなのだ。」

※もっとも、このような状態が「法」整備の欠如であり、適切な教育権力関係を構築するための「法」への志向も、「伝統的なシステム」が否定される中では必要なのではないのか。

 

P202「小沢(※有作)の頭の中にはおそらく疎外論かなんかがデンと鎮座していて、その俗流化された一般認識である「おとなは汚いが、子どもは純粋である」がそこから流れ出てきているのであろう。こういう感覚はあんがいと教育関係者に根強く、抑圧しないで自然に育てれば子どもはみずから育つものだという俗信をつくりだしている。そしてこの俗信は、戦前の軍国主義教育で子どもを不自然に育てたという反省と結びついて真実味を帯びている。」

P203「だが小沢にとっては、「子ども」はそれ自体ですでに価値がある完成品のようである。たしかに学校へ入れば「子ども性」は日々潰されざるを得ない。学校はありのままの子ども性を許容するわけにはいかない。そして学校が子どもを生徒にしていかねばならないのは、学校や教師の支配欲から出ているのではなく、子どもを生徒にしなくては市民にすることができないからである。」

P210-211「子どもたちがいじめを止めないのはそれが面白いからであり、いじめがどういうことなのか理解していないからであり、自分とは関係ないからである。

だいたい、いじめが「不正、不当」であると分からせるためには、ことばのレベルでも行動のレベルでも、かなり生徒たちに教え込まなければ無理である。教え込んでも無理な点は残るだろう。だが、そういうことを教え込むためには、まず子どもたちに抑え込まなければならないのである。

W氏に反論すれば、私は逆に「抑え込まれたことのない子ども」に「不当、不正と戦う」などという意識が育つはずがないと思うのである。抑え込まれることによって子どもは、自分の主観ではどうにもならない他者の眼差しを認識し、自分の自由の範囲を限定していく。つまり、自分の主観と世界のまわりの他社の世界とを分離・識別していく。それができていない子どもに、「不当」とか「不正」といった客観的な価値の世界が分かるはずがないのである。」

※W氏は、押さえ込みなしで「不当、不正と戦う」ことができることを前提にしているという(p210)。

 

P216「教育関係が成り立つためには、生徒が自分を「学ぶ者」と限定してくれなければならない。教師に対して、ひととひととして張り合われたのでは、教育は不可能である。だからこそ、生徒の自我の衝動をある程度抑えるための規範性が学校には必要なのだ。髪の長さの制限は、学校においては教育関係を成立させるために「本質的に無意味なこと」ではないのである。」

※校則問題に対する見解。

P223「「一人ひとりの実情に即応した指導」などといかにも教育的で格好よさそうなことをいっているが、教師にとってはまず、一人ひとりの生徒の実情を読み取ることが至難の業である。教師は並の能力をもった普通の人間であることが多く、伝説的な聖徳太子のような芸当などできるわけがない。教師はそれぞれの人間性と観察力の幅の大小によって、自分の認識レベルに合わせて生徒を切り取れるだけなのである。」

※もしくはそれ相応の教育訓練がセットであるべき、というべきか。しかし、そのような議論は存在したか?

P228「「教育の自由」などという理念は、教師の個々人の内面の自由にすりかえられ、要するに、自分の考えることは正しいというわがままな居直りに転化してしまっている。おそらく、「学習指導要領」のような公的な規準・規制がなくなれば、客観性をまったく失った百鬼夜行的な状況になるだろう。

思想的・精神的な立脚点がなくなるということは、判断の規準は個々の教師のそれぞれの内部にあるだけだということだから、コンセンサスというものがきわめて成り立ちにくい。それでもまだ管理職の権威あるところは、管理職の考え方や方向性が座標軸になり得るから、それをめぐっての論戦が成立しよう。だが、ディベートするうえでのそうした基準や土台のないところでは、ただ学校そのものの自然史体系にいぎたなくよりかかって、私的な感情を吐き散らすだけである。」

P233「戦後民主主義は「権力的でない政府は存在しうる」という理念をもたらした。しかしこれは完全に形容矛盾なのだ。なぜそうなのかを説明すれば次のようになる。そもそも「権力的でない」ということはどういうことであろうか。簡単に言えば、これは人々にたいして強制力を振るわないということである。しかし、何らかの強制力なしには、社会に安定した秩序が生じることなどありえない。「話し合い」による説得が成功するためには、まず「話し合い」による説得が成功するためには、まず「話し合い」が成立しなければならない。したがって、そもそも話し合いに応じようとしない者にたいしては、いくら話し合おうとしても無駄なのである。最終的には、秩序は強制によって守るしかないのである。」

※これもある意味飛躍でしかない。正確には「止揚の発想がおかしい」ということである。

P234-235「これまで述べてきたあれもこれも、教育の原基や人間の本質などが不分明である中で、すべてがそれぞれの善意と思いつきで「教育」を語ってきたことから生じている問題ではある。ヨーロッパ近代の夢としての個人の確立や個性の重視のみが、それらをとりまく社会的・歴史的状況を無視して絶対視されているかぎりは、教育の原基や教育の論理は決して明確になっていかないに違いない。」