小川太郎「教育と陶冶の理論」(1963)

 今回は比較的古い文献を読んだ訳だが、これまで読んできた「社会問題」との関連性、その歴史的な議論における位置づけについてはなかなか捉えづらい内容のものであった。一方で「支配的な教育」という形で右寄りの議論の批判を行うものの、他方で日教組的な教育実践についても批判を行っている部分が大きく、当時どのように読まれたのか(この議論がどう支持されていたのか)ということが私自身つかめていないのである。
 70年代以降の議論においては、少なくともここまで露骨に理論としての階級論を押しながら展開しているような論者も私自身まだ見たことがないが、ここまで理論として明確な議論を行いながら、以後消滅していったこと(このような議論が少なくとも明確な形で議論される傾向がなくなっていったこと)を考えれば何かしらの形で批判等がされていったのではないかとも思う。見方によっては「正論」と呼ばれうるのに、なぜこのような論理で語られなくなったのかには理由があるだろうし、それがどう議論されたのか、という点については興味を持った。
このような位置付けは今後できれば行いたいと思うが、今回は本書の内容をまとめつつ、簡単な問題点などを箇条書きで捉えておくに留めておきたい。


・小川はマルクス主義的な教育論を支持することを明確にしている(p277)。「共産主義社会」なり「社会主義社会」なりを目指すべきと本書で直接言明していないものの、それとは違う方向性を持っていると読める部分がない。

・この前提が影響し、資本主義は必然的な悪であり、資本主義社会における教育政策は全て批判の対象にされる。その教育観は「従わせる」ことがモットーであるとされる。

マルクス主義のみが科学的認識をもっているとされる(p16-17)。その発達観は二重の矛盾を介して行われるものとされる(p33-34)。一つは自らの能力が周囲の環境によって規定されており、資本主義社会においてはそれが制約としかならないことを自覚すること、もう一つは「人類と民族の科学・技術・文化的な達成の基礎」を「真実性・順次性・生活性の諸基準によって」系統立てて教え、適切な矛盾を与えることで全面的発達がなされるという見方である。p33の引用ではこれが支配的な教育の批判として展開されている。

・また、このような実践は、子どもと同じように科学的な認識をもった教師によってしか行うことができないとする
(p37-38)。つまり「勤評闘争を正しく強力に闘わない」とそれは達成されず、かつ支配的構図をくつがえす教育の実践についての科学的な見解をもっていなければならないものとされる(p38)。

・学力をもつこと自体は、その性質によっては科学的認識のきっかけとなるものであるから、悪とはいえない(cf.p62)。また、競争についてもクラスの共同性に資するものなら正当化される(p229)。しかし「進学」のためにそれらが用いられることは絶対的な悪であり、批判の対象となる。「進学」とは差別構造そのものであるとみなされる(p65)。しかし、言うまでもないが、このような小川の進学観は、有能な人材を教育しようとする「大学」側の論理を排除した発想である。

・進学の制度は資本家の意図を直接に反映したものと小川は見ているが、そもそも進学の制度を定めるのは大学や国(文部省)といった機関である。そのような機関と資本家の関係性については本書で議論されることなく直接それらの機関は資本家に従属し、資本家の意図通りに制度を作っているものとみなされる。なお、資本家が誰なのか(本当に存在するのか)にも何ら言及されない。

・部落問題を資本主義的な制度の産物とみなしている(p94)。これは「差別」を抽象化しすぎているために、身分的な差別問題と、進学における差別問題を同一視してしまっていることが原因である。そもそも資本主義体制においても教師が身分的差別を助長しているなどと主張されることはない。問題は、「民主的な方法でなだめる」(p93)とはどういう意味かということである。これをもって小川は差別を助長させているとみなしているようだが、これを積極的な身分差別を助長する行為と結びつけること自体に無理がある。小川の論理では「彼らに学力がないことが差別の原因になる」という言い方しかできない。このように絶対的な「支配的な教育」と「身分差別」の対応関係を立証できないにもかかわらず、部落差別の問題が永続することを自明のものとして語っていると読むほかないかと思うが、このことは小川自身が、この身分差別の構造に加担していると解釈されてもおかしくはないように思う。結局、小川は資本主義的な教育では何も解決しないことありきで議論を進めているからこそ、部落問題も資本主義の論理では何も解決しないものと決めつけるのである。しかし、それは論理的には明らかに矛盾した説明を小川自身が行っているのである。

・小川はマカレンコの教育実践に注目し、ピオネールの教育活動が日本では「学校ぽい」班活動として解釈されていることを批判し、ピオネール的な班づくりを行わなければならないとする。しかし、そもそもピオネールについての理解は小川の「色メガネ」(これは恐らく「教師が教育の担い手でなければならない」という規範価値に基づくように思う)によって曲解されているために、ピオネールにおいては、その教師による教育とは対峙した子どもの自律的な組織として成立しているものととらえてしまっている。このようなピオネールの理解は、小川の理論には非常に都合がよい。特に「教師と子どもの要求の一致についての信念」というのが何よりも科学的な教育実践において重要視されており(cf.p130-131)、二者関係によるシンプルな議論にピオネールの事例も組み込まれてしまっている。しかしそれはソ連での実態とはかけ離れたピオネール像である。そしてそうすると、そのようなピオネールの「学校ぽくない」性質を達成できるのか、そもそも子どもの自律性なるもので成立しうる組織なのか、といった問題を別途考察すべきであるように思う。

・小川のいう「科学」と「学問」の関係性には注意する必要がある。少なくともこの「科学」は政治性をそのまま組み込むべきものとされており(p173-174)、ヴェーバーの議論していたような学問の見方をむしろ否定した上で成立するような性質のものであるといえる。合わせて、「科学的な教育」についても「学問」の体系への適合性はむしろ無視され、社会の状況なりをふまえた形での加工をした上で「科学の教育」が行われることが予定されていると言ってよい。しかしこれは、いわば「社会(科学)」の役に立たない「学問」など不要であるという価値観を帯びた議論を行っているようにも思える。しかも、「社会の役に立つ」の定義は非常にあいまいであり、恣意的な解釈がされてしまうだろう。
 ヴェーバーはこの両者の分離をある意味で擁護した上で「学問」の問題を取り扱った訳だが、実際の「学問」の位置付けられ方については、このような切り離しをむしろ有害であったり、「学者」が「社会」に対して無責任な態度を取っている、社会から逃避しているに過ぎないといった批判は、小川以外にも、特に戦争との関連では多くの論者が指摘してきている論点のようである。これについては今後のレビューでも紹介することになるかと思う。


(読書ノート)
p16-17「全面的発達という概念は、マルクス主義教育学の中心的な概念である。
全面的発達の教育ということを、知的・道徳的・美的・身体的・技術的の各方面にわたっての調和的な発達をはかる教育という意味にとるならば、それは教育学のかなり普遍的な理念であるといえよう。しかし、それらの人間的な価値の内容に立ち入ると、立場による見解の相違は大きいし、また、そうした調和的な発達を妨げている条件や、それを可能にする道が何であるかということになれば、マルクス主義のみがその科学的な認識をもっているといわねばならない。
マルクス主義の見解で重要な点は、人間的能力の調和的な最大限の発展は、知的労働と肉体的労働の分業の廃止によってのみほんとうの実現されるということである。……全面発達の実現のためには、階級対立のない社会、人間による人間の支配と搾取のない社会が実現されなければならない。」
p17「しかし、全面発達は無階級社会で実現されるというだけでは十分でない。知的労働と肉体的労働が極度に分裂させられる資本主義社会において、すでにその止揚の道が現実に準備されているという事にも注目しなければならない。……このような生産力の発展の客観的な必要と、そしてそれに照応する労働者階級と人民の教育要求の結果として、国民の普通教育が普及向上し、学校の教科組織が近代化してきた歩みは、肉体労働にたずさわるものの知的な向上、したがって、全面発達への前進の一面をあらわしている。」

☆p33-34「これ(※支配的な教育)に反して、科学的な発達観は、未熟な能力と環境との間の矛盾を、社会の矛盾の中で成立する矛盾としてとらえ、これに適切に働きかけることを考慮する。社会の矛盾が、子どもの現代的要素とこれをおさえる環境条件との矛盾として子どもの中にあらわれることに注目して、子どもの要求を育て、自覚させ、これと環境との矛盾の認識をふかめさせる。そして、矛盾の認識と要求の組織によって、子どもの中に矛盾を働きかける積極的な態度と能力を育てる。これが、未熟の能力と環境・教育の条件・要求との間の矛盾を克服して発達をとげるための、主体的な構えをつくるのである。
他方では、人類と民族の科学・技術・文化的な達成の基礎を、教育科学的な配慮によって教育的な系統として編成し、その学習を子どもに要求する。この要求は、真実性・順次性・生活性の諸基準によって、子どものそれぞれの発達段階における能力水準や興味との間に適切な矛盾をつくり出すように構成されているので、子どもの側では教育課程の要求と自己の学習の課題と化することができ、かくして、客観的な要求ち主体的な能力との矛盾が、主体内の課題と能力の矛盾に転化する。そこに、主体的な学習が成立し、その結果子どもの主体的な達成として発達が成立するのである。」

p33「しかし、そこ(※支配的な教育)で用いられる発達の概念は二重に観念的である。第一には、一定の年齢段階における能力がすでに環境と教育によって規定されたものであるという点を無視し、あるいは、軽視している。たとえば、アニミズムを越える年齢を、環境と教育を度外視して固定的に決定したり、歴史意識の意図的な形成を怠った結果にほかならない子どもの歴史意識の発達の程度を、歴史意識の発達の宿命的・法則的事実とみなしたりする観念性である。第二には、発達が矛盾を克服する達成であるという、発達の主体的な本質をみることができず、発達を生物学的な生起としてしかとらえない。このことは、社会の矛盾の反映としての子どもの矛盾と、未熟な能力と環境との間の矛盾が重なり合って、子どもの中につくられている矛盾が克服されていく過程が現実の発達であるという事実を見逃すことと関係がある。つまり、発達を子どもの歴史的な達成としてとらえない観念性である。これらの観念的な発達観は、支配的な目的にしたがう教材を子どもに注入するための技術として、子どもの発達をおくるための口実として、あるいは、発達の歴史的方向性を無視する児童中心主義的な教育の理論的根拠となることによって、支配的な教育に奉任している。」
※ある意味でトートロジックな教育観に基づいている。

P37-38「もっとも基本的なことは、「教育者が教育されなければならない」ということである。教育者は、勤評闘争の過程でかなり大きなはばとふとさとふかさについて自己変革と成長の歩みをとげた。権利を守るために団結して闘う人間として成長し、支配権力の実体についての認識を深めた。国民と教師の間につくられている見解の相違を見、両者の要求の本質的な同一性がわかるようになった。民主主義と真実と平和の価値にほんとうに目ざめた。……
この法則は、勤評闘争を正しく強力に闘わなかった教師のばあいには、民主主義と真実と平和の教育の実践を行うことができないという帰結に導く。」
※この見方はもちろん、「困難に直面し、かつ克服する」という状況に出くわさない限り、民主主義的実践を行う教師になれないことを「断言」しているものであると言わねばならない。
P38「それならば、闘争を通して自己変革をとげ、支配に対する保塁を築くことのできた教師たちの職場では、反動的な教育そのものに対する闘いがただちに実践されると結論してよいであろうか。事実は必ずしもそうはならない。勤評闘争によってかえって自由の拡大した学校でも、反動的に改訂された指導要領にもとづく教科書がそのまま教えられるという可能性がある。教育実践そのものにおいて支配と闘うためには、闘争を通して自己変革をとげた教育労働者が、教育そのものを貫く支配の意図を正確に認識し、それをくつがえす教育の実践についての科学的な見解をもつことが必要である。つまり、教育労働者は教育科学をものにしなければならないのである。」
※いまいち理解ができないが、認識レベルでの問題と教育科学の実践の問題は別物であると言いたいのだと思う。しかし、そうすると前者は「反権力・反支配」という純粋なイデオロギーによる主体化でしかない。

P39「基本的なことは、現代の生産技術の発展の客観的な必要に応じ、それを反映する国民の普遍的な要求にこたえて、すべての国民の教養を後期中等教育の段階の程度にまで高めるということである。」
※なぜこれが高等教育ではなく、後期中等教育でなければいけないのか、一言も説明されない。
P40「次に重要な点は、支配的な教育においては、過去においてもつねにそうであったように、今度の改革においても、生産力のための教育と生産関係のための教育とが互いに矛盾しており、そして、労働者階級と人民の教育要求はこの矛盾を廃止しようとすることによって、支配的な教育と対立するということである。資本家の立場は、その利潤の拡大のために、生産力を――したがってその要素として労働力の質を――全面的にではないとしても、ともかく発展させる必要をもっている。こんどの改訂にあたって学力向上がうたわれたのも、新しい技術の発展の段階におけるその必要から出ている。けれども、労働力の質——すなわち学力——の発展、その結果としての労働者の教養の向上は、資本主義的生産関係に批判の目を向ける知性を労働者の中に育てる。そのうえに、資本主義のもとでの生活の現実は、そのような批判的な認識をますます発展させているのだから、支配的な教育はこの危険な傾向に対して重大な考慮を払わざるを得ない。」
※まずもって教育が資本家に支配されているという事実は、国家自体が資本家そのものに支配されていることを大前提にする。しかし、ここでいう国家は国民から選挙された者の代表によって成り立つこと、また官僚主義を持ち出すにせよやはり彼らも資本家との関連性が自明でないことから、その関連性を立証することからはじめるべきなのに、それは行っていない。

P43「こうした強い傾向に対して、学校をしんに国民のものにするために闘うには、労働こそが――とくに、肉体的労働こそが――「人間社会のすべての物質的・文化的な勝利の源泉である」ことを、すべての子どもに教えなければならない。」
※労働=生産の強調。
P45「また、強制を排すると称する児童中心主義的・経験主義的な教育は、主観的な経験の教育的価値を絶対視し、しかもそれを現実の矛盾から洗い清めることによって、子供を科学と現実からしめ出すという強制を行なうのである。」
※またこのような教育「のみ」と述べている。
P48「かなり多くの教師が、賃金のほかに田畑からの収入やアルバイトの報酬を得て生活を営んでおり、そうした副収入による問題の個人的な解決のために、団結して闘い取る行動には消極的である。教育界での小さな出世と保身を考えて、組合活動に積極的でないものも少なくない。……日教組が独自の教育研究運動を組織しても、集団の意識で自覚的にこれに参加するのではなく、お義理で参加するものが少なくないという現象もある。」

P50-51「第一に整理しておかねばならないことは、支配的な階級によって統制される教育は、それ自身矛盾をもつということである。それは全体としては支配的な秩序の維持を目ざすものであるが、要素としては積極的なものもふくんでいる。そしてこの積極的なものは、それ自身価値があるだけでなく、つねに全体の消極的な性格をくつがえす力として働いている。……だから、そうした学校教育が普通に行なわれるように協力するということは支配に奉仕するだけだとばかりは、けっして言えないのである。」
P51「無批判に受動的に、定められた時間割にしたがい、与えられた教科書を教え、校長の指示にしたがって動くという姿勢は、もっと積極的なものに向かって変革されなければならない。」
※少々危うい説明と言える。ここで問題となるのは支配的な教育はまず何を行ってその抑制を行うかという点にあるが、しかし、小川のような論理によれば、生産的な側面を全面的に否定しようとすれば、いわば資本家階級側も困るのである。そのため、完全な抑圧は取れないということになる。では、何が問題になるのだろう?ある意味で支配者側の論理がどうであるかどうかはほとんど重要性を持っていないのであり、結局教育の担い手である教師がいかに教えるのか、という論点しか、小川の論理では真の意味で問題とはなりえないのではないか?

P55「現実の支配的な教育は、人類と民族の科学的・技術的・文化的な達成の基礎を、一部分は比較的正しく(数・自然)、一部分は大いに歪めて(社会)、子どもに伝える。そしてそうする中で、子どもの人間的な力を一面では発展させつつ他面では発展させず、発展させるさいにもそこに制限をもうけ差別をつくる。そうすることによって、支配的教育は歴史の発展をおしとどめる役割を果たす。」
※社会とは何を指すのか?
P29-30「支配的な教育においては、教科における矛盾を支配的な体制に順応する世界観の形成の方向に融和しようとする努力は、教科外において日常の行動を支配の規則に順応せしめようとする指導と相応じて、その目的をとげようとする。これに対して、社会の進歩と人間の全面発達を目ざす労働者階級と人民の立場からの教育は、教科における学力と科学的で民主的で統一的な世界観の形成の仕事を、教科外における日常の行動の指導における生活の諸矛盾の認識と子どもの主体的な要求の組織の仕事と結合し、そうすることによって、人間の全面発達に向かい社会の進歩を達成する人間を形成しようとする。これが、教科と教科外の指導の相互関係のあり方をめぐる、闘争の本質である。」

P56「支配的な教育は、民主主義の形式化、技術革新の下での利潤の維持と増大、民族の従属体制の持続、冷戦の継続と核戦争への準備のために、科学・技術・文化における人類と民族の達成の基礎の中から、右の目的に照して必要なものを抽出してこれに必要な形を与え、そして、子どもの生活・関心・能力についても右の目的に適合する限りで考慮を払い、かくして、教材の非科学的な系統を編成し、教育課程においては教授と学習の統一を破壊し、子どもの主体的な取り組みを不可能にし、習得が達成とならず、成長が歴史の発展にそわないような、そのような発達の道を子どもに歩ませようとする。そうすることによって、支配的な教育は国民を内外の独占の支配にしたがわせ、歴史の進歩をおしとどめる役割を果たす。」
※解釈が難しいが、ここでの「歴史の進歩」とは資本主義とはことなる共産主義ないし社会主義的進歩を指すものだろう。成長自体はするが、それが資本主義社会の発展に寄与するような成長の仕方を行うという意味で批判されている、と読んでしまってよいように思う。しかし、そうすると何故小川が善とするような社会でなければならないのかが疑問となる。端的にはそれが子どもの主体性に寄与しないこと、という答えが残るが、そもそもここでいう主体性という問題が資本主義的か、そうではない社会目指すものか、で違いの出るものなのか。結局それは階層性いかんにかかっている。しかし、これも結局教育によって上位の階層にいけるという担保はされていると見るべきである。とすると問題はむしろ階層性が存在していること、そのものに向かう。そうすると再度このような社会志向が主体性とどう関連付いているのかについて積極的な意味付けがされなければならないのではないのか?

P62「そして、このような科学的学力観は、その学力が子ども個人の将来の幸福のためのみならず、同時に、民族と人類の幸福へ向かっての進歩に貢献すべきものであるという、歴史的な課題の自覚によってささえられている。民間の教育研究サークルや日教組の教育研究推進の運動は、だいたいこのような学力観に立っているといえよう。」
※仮にこう科学的な方針を定めたとして、これが何故支配的な教育と異なるのかを説明することはできないのではないか。アトム化は方策の一つとなり得るが、完全に利己主義的な目的意識を与えてしまっても厳密な意味で生産的な方策として合理的かと言われると微妙なのではないのか??

P62-63「教師と学校の子どもの学力に対する責任を、進学という目的に従って考えるこの傾向は、資本主義の社会体制そのものに根ざし、そのイデオロギーと心理に由来する、必然的な頑強なものである。けっして教師の教育的・道徳的な識見だけの問題ではない。この傾向を批判し嘆く教師や学校といえども、それに抵抗するにはよほどの確信と勇気の団結の力を必要とするような、困難な問題なのである。だから、そのような学力に対する責任のとり方の根源とゆがみの本質について、科学的な認識をもつことが必要である。」
※考えると、抵抗の意識付けについては、科学的な識見など関係ないようにも思える。
P63「しかし学力が進学のための学力としてだけ考えられるときには、正当な教育的な内容がゆがめられることになる。というのは、第一には、学力が進学によって個人的な幸福をより大きく達成するためだけの手段となって、民族的・人類的な課題が見失われ、第二には、その課題に従ってはじめて正しくあることができる学力の質がゆがめられるからである。」
※この学力観は正しくもあるが、積極的な側面の評価が妥当かという問題もある。学力を受験の目的としたとしても、それが有用である限り、その後の役に立つ、もっといえば創造的な側面の発揮は期待できるのでは?

P65「そして進学は最後的には有利な就職を目ざしてのことであるから、進学のための学力の質は、結局は、雇い主である資本家の必要によって決定される。こうして真実の学力が見失われ、学力の疎外が行なわれる。」
※見方によってはまともであるようにも見えるが、なぜこのような言説が消えてしまったのか。どこかの時期で、選抜の行為自体がこのような資本の論理と関係ないことを批判した者がいたのだろうか?ここには学問的な意味での有能な人材確保という、大学の論理が全く介入していないのは確か。
P66「進学を目的とする学校の教育の体制は、進学の可能性のない子どもを差別する体制である。このことは、本質的には、貧しい家庭の子どもを差別することにほかならない。……こうして、資本主義の富と貧、搾取と被搾取、支配と被支配の関係が、教育を通して再生産されるのである。」
※小川の論理では、進学体制=差別であり、選抜=差別である。そして教師や学校はそのような「人間の差別を肯定したその体制に順応する人格として形成することによって、(※子どもを)人格の疎外に陥らしている。」(p66-67)と述べられる。

P67「競争一般が人格の疎外を結果するというわけではないが、現実に存在する階級的な差別が学力その他面で子どもに反映している事態において行なわれる競争は、正義にかなった競争であるとは言えない。」
P71「富国強兵のための教育は、一面子どもの能力を発展させながら、他面では天皇制の国家権力の維持と強化・地主と資本家の支配する体制の発展、地主と資本家の直後の利益のために奉仕するように、その能力を使う人間を教育してきたのである。教育勅語と儀式がこの目的の中核的な役割をもち、すべての教科とすべての場での訓育がこの目的にしたがい、そして教育を統制するあらゆる手段がそのために用いられた。」
P74「日本の資本の発展は、極度に貧困な社会の底辺を存続させ、その圧力で低賃金の超過利潤を確保することによって成功してきたのだが、その政策がこのような教育の空白人口を生んでいるのである。」

P88「すなわち、資本主義に必然に伴う貧困は、形式的には平等とされた教育の機会を実質的にはつねに不平等にするのである。」
P88「このような教育の機会をめぐる差別が、教育の階級性の一つの側面である。しかしそれでは、とにかく学校に就学し進学し得たかぎりでは差別は克服されたと言えるだろうか。そうではない。
たとえば、進路別の差別教育ということがある。むかしは小学校の高学年でそれが行なわれた。いまは中学校で行なわれ、それが進学・就職コースという形で制度化され、小学校にもかげをなげている。……そうした差別は、能力による区別であるといわれるけれども、その区別なるものにおいて不利に選別をされるのが貧しい勤労人民の子どもであるという事実は、おおいかくすことができない。資本主義社会では能力による進路の差別と公称されるものが、事実は貧富による差別となるという法則が貫くのである。」
※あらゆる区別にNOと言う発想しかないように見える。

P89「そこで、教育を支配する資本家階級は、教育で伸ばされた能力を、安全かつ確実に利潤をあげる目的に奉仕せしめることを必要とする。そこから、学校を通しての人間の支配が教育の重要な目的となる。それは、労働者階級の団結と闘争が発展すればするほど、かれらの重大な関心とならざるを得ない。」
※かれらとはどちら様?
P90「第二は、個人主義的な競争をあおることによって、子どもたちを分裂に導く教育である。意識的にこの方法を用いるにせよ、事態の必然性によってそうなるのであるにせよ、資本主義の原理である個人主義的な競争が資本主義社会の学校を支配するということは顕著な事実である。」
※時折このような形で、支配的な体系が意図的なのか、そうでないのか明確にされない論じられ方がある。

P90「独占資本の支配する現在のわが国では、その支配の秩序を合理化し、その権力が従属的に同盟を結んでいるアメリカ帝国主義の世界政策に迎合する教育が強行されている。支配階級があらゆる手段を用いて、社会と生活の中の矛盾や労働者階級の闘争とその成果や国民と人類の平和への願望や努力を、教育内容からしめ出そうとしているのは、たんに教育行政に当っている特定個人の反動思想のあらわれなのではなく、独占資本の教育への要求の表現に外ならない。」
P93「かれら(※部落の子ども)は、秩序に順応して支配者の側に出世していこうとする優等生とは正反対の存在である。これをいかにこらしめるかが過去の教師の問題であった。いまは、これをいかにして民主的な方法でなだめるかが、同和教育の仕事であると考えられている。いずれも、秩序に順応する支配しやすい人間の形成が目ざされているのであって、子どもの要求を組織し実現せしめること目ざすものではないという点で、階級的支配に奉仕するものである。」
※具体性に乏しいし、このことはいわゆる身分差別の助長への積極的加担を学校が行わないことを明確にしているように見える。
P93「かれらは、競争の敗者としてはじめから運命づけられているので、競争によってたがいに敵手となるのではなくて、競争事態に対する反抗者となる。」
※繰り返すが、学校では積極的な身分差別を否定する主張をしていたにも関わらず、このように「敗者と運命づけられる」のが何故か、説明されない。見方によっては、小川自身が、運命と断言することで、身分差別に加担しているかのようにも見えなくもない。

P94「支配的なイデオロギーの注入によって、現在の体制を合理的なものと思いこませようとする階級教育は、被支配階級全体に対してと同様に、部落に対しても許しがたいものである。そして、それがいつわりであることは、部落民にとってはあまりに明白すぎる。差別によって自分たちを社会の最底辺においている体制を合理的なものと思いこむことは、かれらにはできようはずがない。そこからも、部落の子どもと親たちの教育に対する不信が起る。」
※このような物言いからは、素朴に学校における「差別」という事実が内面的に「身分差別」を子ども自身が引き受けるという論理しかみえない。ここで奇妙なのは、誰も身分差別に積極的に加担せずとも、部落の子どもが自ら(身分)差別されていると感じ、反抗するという構図である。この奇妙さは、結局労働者は労働者としてしかみなそうとしないという、マルクス主義的階級論固有のものである。一方で、消極的に部落差別を学校が公認し、働きかけようとするという解釈の可能性もあるが、具体性に欠ける。隠蔽性を強調したいのであろうが、結局それは積極的な態度によってしか行えないのではなかろうかと思える。

P95「日本人の民族意識は、部落差別によって傷ついているが、そしてまた他民族の差別と支配によって汚されている。この傷と汚れから清められるのでなければ健康な愛国心はわが国に育つことはできないであろう。」
※なぜ民族問題は資本主義教育に解決できないのだろう?本当ならば民族問題、同和問題は差別解消の根本的な阻害要因たりうるが、学力による差別はそれとは明らかに異なる、理念上は誰にでも開かれた考え方であり、差別の性質が異なると考えるべきではないか?これが違わない判断するのは、学力が低い層というのは、どのような対策をおこなったとしても高い層を上回ることができないという確定した判断をするしかなく、その意味で小川の議論自体がやはり差別的でさえある。

p108-109「さらに考えてみると、高等学校にかぎらず、教科指導というものは、科学・技術・文化の基礎を系統的に子どものものにするという任務をもっているのであるが、そこで、教科外の領域の指導の過程で生み出された一定の具体的な方法、手だてをふくむ生活指導を行なうということになれば、教科の本質にしたがった教材の配列、教授法の選択が、じっさいには軽んじられることになるであろう。小学校の社会科のごときは、とくにすぐれて生活指導の色彩の強い教科であるとされているが、そう考えられているために、社会科学の基本的な概念の系統的な形成が忘れられているといった欠陥が、いま指摘されはじめているのである。」
※このため、小川は教科教育と生活指導の混同(特に「教科の教育を不当に生活化する」p108こと)を批判する。もっとも教科教育における科学的な系統性なるものの具体性は見えない。

P121「すなわち、社会主義における集団主義教育では、社会主義を建設する集団主義的人間の形成の要求と、社会主義集団主義的な環境において成長しつつある子どもたちの要求・能力・態度・関心との間に、適切な矛盾を構成するように、集団主義教育の計画をもつことができる。」
※なお「社会主義においては、集団主義の原理に立つ社会主義の建設という統一的な目的が社会に存在する。」(p120)というトートロジーを展開している。また、「社会主義の建設と共産主義への移行」とも言われている(p239)。

P131「教師がはじめに要求するのは、集団がまだ自己の必要を意識していない段階で、集団に先んじて集団の必要とするものを要求するのであり、つぎに一部の子どもが要求するのは、集団の必要をかれらが集団の全員に先んじて要求するのであり、つぎに一部の子どもが要求するのは、集団自体がその必要を自覚して要求することができるようになるのである。だから、集団の必要と要求ということが究極のものなのであって、それが社会の大目的に照して正しいものでありうるという信頼があり、だからこそ、はじめに教師が要求することが正当化されるのである。」
※この見方は何故か大西忠治的な核作りの実践と考え方が一致しているともいえる。この議論は「教師と子どもの要求の一致についての信念を欠く立場からみれば」従属の波及にしか見えず、マカレンコをスターリン主義であると批判する立場からも指摘されるという(p130-131)。小川はここで「従属」が問題と見ているようにしか解釈できない。では、この従うとはどういう意味なのか。単純には「従わせようとする」ことを指すのだろう。しかし、正当化される命令とは何かを考えると、純粋に「要求する心を持て」という命令とする場合や、具体的な要求内容を内包したとしてもそれが「社会の大目的にとって正しいものでありうる」のであれば許されるという見方もでき、従属の対義にある「従わないで自主的に判断する主体」との関連が曖昧になっている感じもする。どちらに重点が置かれているのか、よくわからない。しかし、否定性を介在せねば主体性は確保できないという立場をとっている以上は、自主的な判断主体の問題は副次的なものでしかないだろう。そうするとここで致命的に教師がどう振る舞うのかが問題の焦点となってくる。

P132「さいごに、規律が日常生活の秩序の範囲でだけ考えられているかぎり、真実の規律とはなりにくいだろうという点について簡単に述べておこう。
先に生活・労働・学習ということを言ったが、労働と学習こそが学級の規律の発展と重要な場面なのである。学習が学校生活の重要な場面であることはいうまでもないが、それが、学級全員による学習課題の達成という共同の目的意識をもって行なわれるようにすることが、学級の規律の発展の主なしごとである。われわれの学校が、ますます強く個人主義的な競争の原理に侵されつつあるときに、学習における集団主義の形成・発展のしごとはいよいよ困難となっているが、それだけにその任務も大きいのである。」
※曖昧な発言。ここでは「強く個人主義的な競争の原理に侵されつつある」ことが自明のものとされている。

P145「ところが、マカレンコからの集団主義の学習は、ともすれば社会主義における集団主義の形を資本主義の学校に移植するという誤りに陥る。」
P149「もともと、わが国の集団主義教育はマカレンコのそれから学んでいるのであり、第一次集団という概念もマカレンコの集団主義教育の基本的な概念である。」
※第一次的集団の議論はむしろC.H.クーリーではないのか。すでにクーリーの著書は1920年代に翻訳され、30年代には国内でも議論の形跡がある。

P153「したがって、このような矮小化された集団主義教育の必然の帰結として、社会から切り離された学級という小集団の中での班核づくりによる規律は、変革の規律であるというよりも、体制順応の規律という性格をもつことにならざるをえない。」
※では、矮小化されていない集団主義教育とは何か。
P154「ところが、わが国では、アメリカの小集団指導の思想にもとづいて、学校を小集団に分けて指導する方法が導入されはじめた。」
※妥協の産物と言いたいのだろう。
P157「ソビエトでは、(※班とは)学級の組織ではなくてピオネールの組織とされ、その活動が学校くさくなることを警戒し、学校のわくの中におさまらない多様な活動を組織するところにその特殊性があるとされている班が、わが国の集団主義教育では、学校・学級の基礎集団とされ、きびしい規律の教育のおしつけで学校くさくされ、子どもの多様な活動を組織するといういう特殊性を失っている。……しかし大切なことは、ピオネールの本質は学校のわくにおさまらない多様な活動の組織にあるのであって。規律と成績の改善にあるのではないということである。」
※班活動を勝手に学業成績向上のための活動と定義付けているのは、小川の方である。もう一つ気になるのは、ピオネールの指導者は存在するのか、存在するなら、それは教師であると言ってよいのかという点。しかし、ピオネールの指導者は一般論ではコムソモールという青年団によってなされるものとされており、すでに教員の指導の枠から外れているのである。ピオネールが学校くさくないのは、基本的に学校外教育(社会教育)のアプローチ基づく組織が、学校内に班として位置付いているからではなかろうか?しかし、小川はピオネールについて恐らく曲解している。

P160「そうであるならば、われわれのところでは、学校の教育と、それとは区別された子どもたちの自発的で多様で豊かな生活を組織する教育——サークルとしての班とその結合によって行なわれる教育——とは、社会主義の国のばあいのように、目的を一つにするとは言えないことにある。」
※ここで小川が強調するのは、「教師と子どもの反体制的な闘いの一致」の問題である(p161)。この関心においては、ピオネールは生徒の自発的組織であるのが自明であるのだが、実際はそう言いがたい(これは日本の班が、概して定数で区切られているのと同じような考えである)。また、指導者はやはりピオネールにも存在する。しかし、小川は班、ピオネールを子どもの自律的な組織ととらえるため、学校での活動とピオネール活動の一致、関連付けを問題とし、それを「教師と子どもの闘いの一致」の問題に還元してしまうのである。さらに小川は「現在学校で行われている誕生会は、学級内のピオネール的な集会であり、学校の学芸会・運動会は学校の規模でのピオネール的な行事となるべきものである。」と明言している(p163)ため、ピオネールが善だと断言し、そのような取り組みを勧めるわけだが、そうすると、ピオネールの教育の担い手の問題を無視できないはずである。しかし小川はそれを無視し、ほとんど教師の態度の問題に還元して、その実践を歪めているのである。悪く言えば、学校外の教育の担い手について、その存在を排除しているのである。

P165「しかし、子どもは他面では、未熟な人間として自己と集団との間の適正な適応関係をまだうち立てていない。自己と環境との間に、未熟であるがゆえの矛盾をもつ。子どもの成長・発達ということは、子どもがこの矛盾を克服して集団の一員としての意識と行動の様式をものにしていくということである。」
※ここでは二重の矛盾の問題が再度取り上げられ、もう一つの矛盾として、「人民の差別と支配の体制とこれに対する人民の解放の闘いが矛盾し対立している環境のもとで、自らも解放の要求をもつ現代の子どもとして、体制と自己との間に矛盾を見出す。」と述べられる(p164-165)。ここで、この発達観的な矛盾と、科学的な創造性のある知識を身につけることが果たして同じものなのかという疑問もありうるのではないか?ここでは子ども目線からの発達が語られるが、それと学術的な真理、科学的な知識の獲得という視点は別の問題として現れるように思う。端的にここでは「資本主義社会の子どもの発達」における「二重の矛盾の克服」に位置付いていないだけではあるが…

p168「基本的には、教育の仕事は、民族と人類の遺産と達成とを子どもに正しく伝えることを通して、子どもの人間的な能力を発展させ、そのことによって、子どもを歴史の進歩に貢献する人間に形成することであると言える。……そのようなものとして遺産と達成を伝えるということが、正しい伝達ということの意味でなければならない。」
※このような主張では、何故資本主義的教育がだめなのか理解ができない。そもそも、選抜とこのような教育の目的のズレは、このような目的を達成できない必然的な根拠とならない。

☆P173-174「こうした中・高校生の社会的な活動は、かれらの本来の学習とは別の「政治的」な行動なのであろうか。そのように考えることは、憲法や歴史は知識としてのみ学習されるべきものであって、その知識の実践への適用は禁止すべきものであるという一般的な結論に導くことになる。
教育を理論と実践との統一として考える立場からは、このような見解は承認することができない。教育と知識を知識としてのみ与えることでおわるとすることと、自然科学の教育は承認することがであろうか。それができないとするならば、同じ理由で、社会についての科学的認識の教育においても、それは承認することができないはずである。政治的な理由で、教育の原則を歪めることを要求することである。生徒の社会的活動を「政治的」として批難する立場そのものが、政治的な動機から教育を不具にしようとするものだといわねばならない。」
※しかし、そうすると、学問において結論ありきの議論しか導き出せないということになるだろう…また、教育の分野における学問を考える際にも、このような批判のされ方が介在することによって教育学の学問的性質が阻害されうることになったこと無視できない。

P174「教育における教科の位置は、教育における理論と実践の統一・結合の原則を貫こうとするならば、生徒の社会的実践の自由をまもるということなくしては正しく性格づけることは不可能である。」
※どう関連付くのだろうか。
P175「これに対して、国民教育が労働と教育との関係を重視する理由は、ほぼ次のようなものである。
第一に、労働こそは社会の存立の基礎であるという意味で、労働の尊厳と労働にしたがう人々の幸福とが正しく理解され要求されなければならない。」
※ここでいう「労働」の言葉の定義と、労働者階級という言葉で用いている「労働」とは同じものと解釈してよいのかがわからない。

P182「教科はそれが関係する専門分野の要素にしたがって構想されねばならないことはいうまでもない。たとえば算数・数学は数学という科学の要求にしたがうのである。しかし、科学の要求をどこまで満たすかということになると、現代の技術の要求を考慮しなければならず、そうなると、独占資本の技術要求と国民の技術要求の水準の矛盾にいき当る。数学教育は独占資本の差別の要求に抗して、「すべての者に中等教育を」「すべてのものに高い科学的教養を」という国民要求にこたえねばならないのである。」
※すでにこのような数学理解が、学問としての数学としての把握としては制限的なものであるようにさえ思える。学問と科学は異なるものとして解釈されているように思える。科学の問題は、やはり社会の発展にどう学問が寄与するのかという問題意識から始まっているのではないか。しかし小川の言い方だと、科学でない学問的な数学という発想自体があらかじめ排除されている。

P197「闘う教育労働者がすぐれた教育労働者となるためには、教育の専門の領域についての、一定の態度・認識・技術を身につけなければならない。それが不十分であるために、すぐれた教育労働者が欠陥だらけの教育労働者であるという矛盾が起こってくる。」
P199「反対に、学校と学級の生活指導が子どもの要求を組織するという原則にしたがって行なわれており、子どもたちが主体的になっとくがいくしかたで、その要求の実現のための規律を創造していくようになっていれば、そこでは授業においても主体的にわかろうとする取り組みが可能であろう。」
P200「こうして、なっとくのいかない支配になれていく結果として、子どものなっとくのいかない生活指導をおしつけるということが起こり、そしてそれが授業においても、主体的にわかるということの意味を見失わせていくのである。」
※しかし他方で、発達論的解釈の枠組みの中で主体性を育てていくという発想もあったように思う。それと、この主体性の喪失とはどう関連するのか。

P207-208「さらに独自の教材をつくる教師の能力が一般的に高まり、そうした実践を貫くだけに教師と父母と結合した力が強化されていくならば、独自の教科書で教えるというとところへもいくかもしれない。……そのような見通しのもとに、当面な可能な範囲で教科書を離れた独自の教材での教育もやっていくということは、あってよいと思うのである。
けれども、それを一般的な方針とすることは非現実的である。なぜならば、そのような能力のある教師は数が少なく、能力のある教師やそのグループでも、現在の教科書を徒とするほどまでに全面的に独自の教材を編成することは容易ではない。そこで、現実的な方針としては、やはり現在の教科書で教えるということになる。」
※「遺産と達成の一つ一つの分野について、伝えるべき基礎的な内容を決定した上で、その伝達がすなわち子どもの発達となるような、内容の教育的な系統の組織が必要である。」(p170)ここでその内容については、個別の生徒の状況に合わせた内容であるというよりは、(一般的な)子どもの発達に見合った内容とするというものである。

P227「このような学力の商品化と売り込みを目ざしての学力の競争は、人間を物にまで転落させ、人間をたがいに敵対的な存在とすることによって人間の共同体を破壊するという意味で、人間を疎外することにほかならない。」
※「褒美を目指した競争」とされることが商品化だということであるが、このような言い方は単純に学歴主義信仰の強化にしかならないのでは?それが本当に褒美なのかどうかに対する問いがここには欠ける。「そしてこうした学力の商品化の現象は、資本主義社会ではごく普通になっている」(p227)などというが、何を根拠に言っているのか。
P228「このことは、成績の順位の公示や褒賞制度だけでなく、たとえば、いわゆる五段階の相対評価についても言えるであろう。五段階の相対評価は、ひとりが上がればひとりが下がるという原理に立っている。そしてその背後には、資本主義社会の階層秩序は合理的なものであって、その階層のはしごを上層に向かって登ることが成功であり、学校はそのための手段であるとする思想がある。」
※これが学校内での疎外の助長であるという点はある意味で正しい。もっとも、それが資本主義のせいかどうかは確かではない。

P229「それでは、競争の正当な位置づけをどう考えるべきであろうか。
結論を先にいえば、集団の共同の目的が確立しているとき、その目的の実現のために集団の成員がその貢献を競うところに、競争の正しい位置が見出されるのだと思う。たとえば、クラスの学力の向上がクラスの共同の目的として自覚され、その目的を実現するためにグループで競争して助け合い勉強にはげむときには、その競争には積極的な意味がある。」
※これは資本主義社会の論理と関係ない。そして、このような議論においては、自己犠牲をどう考えるのか。
P230-231「この原則は、すべての学年を通じて貫くべきものだが、低学年の場合、あるいは集団化の遅れたクラスでは、集団化そのことのための競争が重要視される必要があるだろう。「だれが早く並ぶかな」と一年生の教師が言うとき、それはこのような種類の競争をはげましているのであって、まったく合理的な指導であるということができる。競争心は自我の意識形成と深い関係があることは事実であるが、もし自我の意識の形成が集団の意識の形成と切り離されて、あるいは、集団の意識の形成を妨げるようなしかたで行なわれるならば、その教育はすでに資本主義の人間疎外のわなにかかっているといえないであろうか。」
※この指示が集団化にどう貢献しているのかよくわからないが。「集団でなければならない」という価値が先立つことにしかならず、結局自己犠牲の論理しか含みようがない気がするが。

P241「以上は社会主義社会下の教育と生活の関係の問題である。だから、そこでの問題をそのままの形でわが国の現在の問題とするわけにはいかない。……ただ、わが国での問題の意識化の過程と、その問題の解決のしかたとは、社会主義のばあいとはかなりちがったものになるのが自然である。社会主義の教育から学ぶばあいにも、このことをつねに頭におかないと、発展をぶち切ることになり、木に竹をつぐようなまずい結果になるだろうことを恐れるのである。」
※ピオネールの解釈ですでに小川もこれに失敗している感がある。
P269「資本主義社会ではそがい、共産主義社会では全面発達という論理ではなく、人間を疎外する資本主義の中から人間を回復する「運動」が生まれ、それが結局人間を全的に発達させる共産主義を生む力となると(※マルクスは)みるのである。」
※このマルクスの意見に小川はどう応えているのか?小川は「マルクス主義の理論」は支持しているようだが(p277)、明確に社会主義共産主義を理想とする発言をしている訳ではない。