竹内洋「革新幻想の戦後史」(2011)

 本書は、進歩的文化人を中心にした「革新」の思想周辺の戦後の変遷を追ったものである。
 全体としては多分に実証的な議論に基づいており、「進歩的文化人」の異端さを浮き彫りにするのに一役買っているといえるだろう。以前、大久保のレビューで紹介した「旭丘中学校」問題についても、当時の新聞・資料を用いながら3M教授といった「教育学者」がいかに偏った見解を示してきたのか、その偏りを生みだしたであろう「民主主義的思想」の断片も含めて描いてみせているといえる。
 大久保の議論においては本書で語らせたような政治的な視点からの「旭丘中学校」問題は見いだせなかったが、階層差による支持層の違いや、共産党系教員の多さといった背景が状況を鮮明にしているといえるだろう。また、いわゆる「逆コース」の一環としての教育二法の成立の議論についても、私自身読んできた教育系の本においては、「国家の教育への干渉」という文脈での批判の論調しか読み取れていなかった訳だが、少なからず世論自体がこの「教育への干渉」について共鳴していたという動向もあったのだと理解した(cf.p196)。更に、今はどうか知らないが(少なくとも私が大学院にいた頃はそのような雰囲気の影響を受けずに研究を行うことができる環境にあったが)、教育界における反革新思想に対する排除の傾向が過去にはあったことについてもよくわかる内容であった。当時の教育学が(経験)科学でありえなかったという見方は、ヴェーバーの議論を読んでいた際にも強く感じていたが、そのような見方というのは、かなり前から、明白な形ではないにせよ語られきていたのも本書では示されていた。

 長浜功の著書については、以前私も読み、概ね竹内と同じ感想だった。強いて言えば、長浜が挙げた10数名の教育学者は全て問題があるという結論であったので、長浜の基準で曲がりなりにもよかった例がいなかったのかを検証してもらいたかった。また、結局長浜は戦争に加担した言説は全て悪いし、それについて戦争へ加担したことへの反省の姿勢がないならなお悪いとしていたが、「戦争責任」という言葉について少々煩雑に扱っている傾向もある気がしたので、「責任」とは何なのか、「戦争」が問題があるのならどのような言説を語らねばならないのか、といった建設的な議論をする余地はなかったものかという感想があった。
 しかし、長浜は宗像誠也についてはその中でもかなり好意的に評価している(戦争責任はあるが、その反省についてはしっかり語っており、「まし」な方であるとする)にもかかわらず(※1)、教育界ではそれも無視するという排除的な雰囲気があったことを、本書では長浜から直接聞き取っている(p176)。まだ印象論でしかないが、そして旭丘中の事例においてはそうといえるが、このような「革新」の教育論者というのは、自分に都合の悪い事実について、事実そのものがあたかもなかったかように扱い、何ら内省的態度をとるような様子がないように思う。そういう意味では、長浜の著書についても、同じように扱われたということなのだろう。


○戦後の日本人は主体的たりえたのか?
 本書における竹内の「解釈」は総じて、よく言えば大胆であり、悪く言えば大雑把である。確かにこの大雑把な解釈は実証的なデータでかなりの部分補うことができているために、本書はかなりの良書の部類だと私自身感じた所である。しかし、他方で論点によっては実証的裏付けのないまま大雑把な解釈をしている部分もいくつかあったため、その点について指摘しておきたい。
1つは、p48にある、戦後の日本の敗戦に対する4つの感情論についての議論である。ここで「二十四の瞳」の話を持ち出したが、木下恵介の映画が当時の民衆に受け入れられていたことを考えると、少々この4つの感情論は問題含みなのでないかと思う。
 佐藤忠男によれば、「二十四の瞳」が描き出したのは、戦中期の子どもたちを媒体にした、「徹底的な弱者」像あった。それは、ただの弱者ではなく、「美」としての弱者であったとみている。

「もっとも、弱い者がただ弱いだけであれば、これはみじめだということにすぎない。また、弱い者が強い者に追随しているのであれば、これは卑屈であるにすぎない。感傷的であるためには、弱い者がただ弱い者だけあってはならず、強い者に追随してもいけない。感傷的であるためには、弱い者が正しく美しくなければならないのである。そして、正しく美しい自分が弱いということを、残念がり、悲しまなければならないのである。」(佐藤忠男木下恵介の映画」1984、p171)

 そしてこのような美の描写においては、敵や強者といったものが存在しないような、まさに純粋無垢な弱者を描き方をしているのであった。しかし、ここには、一種の忘却が含まれている。それが加害者たりうる日本人像であったという。

「しかし、こういう弱くて善良なだけの人間であったら、日本は侵略戦争なんか出来るはずもなかった。強くて悪い奴もいたわけである。また、一般的に言えば弱くて善良と言っていいような人たちのなかにも、よく見れば強くて悪い側面もあったであろうし、一見善良そうな人間も戦場では強くて悪い奴に変貌したにちがいない。ただ、この映画では、弱くて善良である面以外は省略され、省略されたことが不自然には感じられないほど、弱さと善良さのイメージが重層的につみ重ねられている。……そのように印象づけられるからこそ、軍国主義教育の実体が省略されても、戦場での教え子たちの侵略者としての姿が省略されても、とくに不自然には感じられないのである。なぜなら、それは本質外のことなのだから。」(同上、p174-175)
 そして、ここで押さえるべきは、このような「弱者」に主体的な態度表明がありえないということ、「個」という概念自体が存立しえないことである。なぜなら、彼らは「個」として生きていくことができない位に「弱者」として描かれているのだから。そう考えていくと、竹内の4つの分類論というのは、この「主体・個」の成立を前提にした上で、戦争をどう感じ、どう今後行動していくのかという議論を行っていた点で、この「二十四の瞳」の「弱者」観とは相容れない発想だということがわかるのである。そして、もし「二十四の瞳」の聴衆が望んでいたことが、この「弱者」たちと同一化し、一種の戦争への浄化にあったとみるのであるならば、これら分類論とは別の非主体的な軸による分類が実際にあったという議論ができるのである。
 もっとも、竹内が分類を行っていたのは、当時の戦争に関連する「言説」をもとにした、メッセージの発信者の態度の分類論としての議論でしかなかった可能性もあるが、当時の戦争受容という観点からすれば、看過できない問題なのである。


○革新思想はエゴイズムの表出が問題だったのか??
 また、もう一点無視できないのは、革新思想の衰退についての理由づけの部分である。P503⁻504に見られるように、竹内はこれを日本人のパーソナリティの変化、エゴイズムの表出として描き、それを革新思想の衰退と結びつけている。これについては残念ながら裏付けされたデータ等は提示されていない。そして、私自身はこの主張についてかなり疑わしいものと考えている。何故なら、このようなパーソナリティの変化は少なからずあったことは認めるとしても、それ以上に、そのようなエゴイズムの思想を問題するような社会的認識の方がむしろ強まった結果だと考えるからである。
 この論点は松下圭一の議論ともかなり密接に関連してくる。松下もまた地域エゴの問題について、70年代はまだ擁護するような態度を見せていたように思うが、次第にこのような議論が通用しないような、利得権益批判に終始するようになった。そしてこのような利得権益批判というのは、むしろ当時の時代背景、丁度二度の石油ショックを受け、日本の景気向上が確たるものとならなくなった時に、そのようなそれまでの行政支援の在り方が見直しをされるようになったことと(少なくとも、パーソナリティの変化よりは)強く関係しているように思えるのである。そして、特に革新自治体の衰退の議論は、このような日本の動向を無視できなかっただろうと思うのである。

「以上のように、革新自治体は、全国の自治体にも国政にも影響を与えたが、一九七九年統一地方選挙の前後から衰退していった。その要因はなんだったのだろうか。
第一の要因は、保守政治勢力による系統的な革新自治体対策である。自民党は、一方で自治省などの国の各省、右派メディアと結束して「革新自治体でのばらまき福祉による財政危機」キャンペーンを七五年から七九年にかけて展開した。他方で、七〇年代後半に民社党公明党との協力関係を深めた。」(渡辺治編「日本の時代史27 高度成長と企業社会」2004、p246)

 また、革新勢力を「エゴイズム」の問題のみにとどめてしまうのは、松下が行った社会教育批判と同じような排除の論理を生むことにもなりかねない。結局「エゴイズム」なるものの具体的な問題系に言及しなければ意味をなさないにも関わらず、エゴイズム批判は「無駄なものを省く」という大義名分の下、具体的検討を省いて機能してしまっていること自体が問題であり、竹内の主張もまた、このような議論に加担してしまうのである。
 竹内自身はこのエゴイズムの問題以外でも、「教育ママ」言説の取り扱いについて、教育ママ言説が流通していることと、実際の親が教育ママではないと言っていることのズレを、「自覚の欠如(=個人のパーソナリティの問題)」として捉えていた(p317-318)。しかし、広田照幸が「少年犯罪の凶悪化」言説において実証しているように、その言説が単なる社会問題の過大表現でしかない可能性もあるのである。特に「社会問題」は、ある一つの、「異常な」事件がマスコミを媒体に伝達される時点で、すでに一種の過大さを持ち合わせているのである。実際の所、実在と言説の乖離がある、という十分な立証はできないものの、だからといって竹内のような解釈をするだけの立証材料も用意されていないのである。

 竹内は本書の後に出た「大衆の幻像」でも、このようなパーソナリティを変化させた「大衆」に対する批判を明確に行っているのだが、このような主張は安易に受け入れるべきではないだろう。

「しかし、一九七〇年代に生じてきた大衆は、常態においても庶民性(吉本のいう「大衆の原像」に近い大衆)ではなく、大衆的大衆である。いい換えれば、大衆人そのものの誕生なのである。では大衆人とはなにか。
『大衆の反逆』を書いたスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、大衆人をこういう。自分の道徳的・知的資産は十分とおもう「慢心しきったおぼっちゃま」であり、自分が凡俗であるのを知りつつ、「敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとする」。「喫茶店の会話から得られた結論を実社会に強制する」ともいっている。」(竹内洋「大衆の幻像」2014,p14-15)


※1 余談であるが、私自身は宗像に対する評価はかなり低かったため、長浜のこの宗像への言及について、ある意味で革新思想を擁護しているのではないかとさえ思った位である。他の論者における宗像評としては、次のような指摘もあった。

「宗像の教育運動概念の特色は次の点にある。まず第一は、教育運動を権力との関係において規定したことである。反権力性こそ、教育運動を教育運動たらしめるメルクメールである。これは、裏をかえせば、権力に連なるような運動は、教育運動の概念から排除される。しかし、反権力とは、「権力の支持する教育理念とは異なる教育理念」を支持することにほかならず、「異なる」か「異ならないか」の判断は、もっぱら宗像の価値観・世界観によって決定されるため、その規定は、きわめて主観的かつ恣意的な要素を含んでいる。自己の意にそわない運動は、恣意的に教育運動の概念から排除される場合もありうるのである。」(岡村達雄編「教育運動の思想と課題」1989、p183)


<読書ノート>
pv-vi「こうしたキャンパス文化のもとでは、よほどの保守的思考の持ち主でなければ、大勢(革新文化)に抗することができない。保守派は、バカ者か変わり者とされ、友人をこしらえるにも窮する。いずれかと言えばという程度の保守的思考であれば、萎縮してしまう。さきの東大生・京大生調査でも「わからない」が学年を上がるにつれて、社会党支持に回っているように、立場を決めかねている者なら、次第に革新文化に同化されてしまう。だから当時の大学キャンパスでは、マルクスレーニンを知らないのは言語道断。いくらかでも異議を唱えればバカ者扱いされた。保守的教授は、学識のいかんを問わず、無能で陋劣な教授に見られがちだったし、左派に同情的な教授はそれだけで話のわかる良心的教授であった。左翼に媚びていると思われる教授も少なくなかった。」
※「というのも、わたしたちの世代、たぶん一九七〇年あたりまでに大学に入学した世代にとって、革新幻想はキャンパスの空気(世論)そのものだったからである。」(piv)特に国立有名大学生にその傾向が強かった(pv)。

P41「悔根共同体とは、敗戦後、戦争を食い止められなかった自責の念と知識人として将来の日本を新しくつくっていかなければならない、という気負いとがないまぜとなって形成された感情共同体である。」
P48「もちろん四つの感情、とくに、「罪悪」と「悔根」、「無念」と「復興」は重なり合うとこが多いが、分析的に区別している。「悔根」は、すでにふれたように、二度とこの過ちをおかさないという感情であり、革新幻想の中核を構成した反戦・平和につながるものである。その極限には革命志向がある。「罪悪」は、あの戦争を日本人の罪として見る見方である。東京裁判史観と相同である。「無念」は、敗戦を口惜しいとする感情から勝者による一方的裁きである東京裁判を呑まざるを得なかったという割り切れなさや遺恨である。「復興」は、実務家や保守政治家に見られるもので、敗戦からの経済的復興と貧困からの脱出による日本人のアイデンティティの再構築に向かう感情である。その極北には、「悔根」の革命と対蹠の皇国再建がある。
このように見れば、戦争で死んでいった人々の思いをくむ再生感情は「悔根」派だけの占有物ではなかったことをあらためて気がつくはずである。」
※他方で、「単一の敗戦感情の造形において、悔根共同体のイデオローグであった丸山眞男言説の与えた影響はまことに大きい。」とみる(p49)。しかし、「二十四の瞳」の受容などは、罪悪や無念に近いのだろうが、主体的判断を組み込んでいないという意味では、この四つの分類に組み込むこと自体が不適切な内容かもしれない。

P53「しかし、世論調査をさかのぼって見ていくと、再軍備反対や憲法改正反対の世論が大きくなったのは、昭和三〇年代からのことである。それ以前の世論調査を見れば、後述する昭和三〇年代以後の世論とはまったくちがっている。」
P53「やがて講和条約が締結されたあとの一九五一年九月二〇日の『朝日新聞』に発表された世論調査にはつぎのようなものがある。「『日本も講和条約ができて独立国になったのだから、自分の力で自分の国を守るために、軍隊を作らねばならぬ』といういけんがあります。あなたはこの意見に賛成されますか、反対されますか」。これに対して、回答はつぎのようである。賛成が七割以上(※71%)である。」

P56「昭和三〇年代から憲法改正反対と再軍備反対が多くなっていく。このような世論の変化を、当時の進歩的知識人は「悔根共同体」の勝利のようにとらえ、「新憲法感覚定着」と言っていた。
しかし、そう言ってしまってよいのだろうか。憲法を改正しないで、再軍備を声高に言わない、なぜなら軽武装で経済が豊かになったのだから、であれば、「これで(現状で)よいのではないか」、といったくらいの意識だったのではないか。「革新」という衣裳をまとった保守である。思想としての保守ではなく、現状維持という生活態度としての保守である。だから、こうした世論の変化の時代は他方では、「保守的ムード」と呼ばれていたのである。まさに第二の戦後にせり出してきた実益優先感情に便乗した憲法改正再軍備への反対(ムードとしての革新)であった。」
p63「無着成恭の教育によって卒業生は社会問題についての批判力を得たが、批判力を得たぶん、肝心要の「現実の世の中をどう生き抜いて行くか」がわからなくなっているがゆえの動揺だとしている。この実践家の苦言はわかりすぎるほそわかるのだが……。」
※松丸志摩三「青年運動と村づくり」の内容から。

P67「『自由』が登場した一九五〇年代後半は。スターリン批判やハンガリーポーランドの民衆蜂起、六全協による日本共産党神話の崩壊などによって、マルクス主義も、一枚岩的な絶対的信仰の対象ではなくなってきた時代である。「進歩的文化人」という言葉が嘲笑的に使用されだしたときでもある。」
P71「反対派は、「(安保改定)反対」だけでは、運動を盛り上げることができない。そんなことから、学者は難しいことばかりを言わないで、「安保と台所をどう結びつけるか、それを研究してくれなくては困る」とされ、そこで、「安保が通ると、お豆腐の値段が五円高くなる」という、いま思えば笑えるような、苦し紛れのキャッチフレーズさえ案出されていた。」
P74「一九六〇年三月の世論調査では、改定された新安保条約を「よくないと思う」三六%が「よいと思う」二二%を上廻っていた。しかし、新安保条約の批准書が交換された約一ヶ月あとの安保改定発効と安保改定反対運動への評価は表2-2の下欄のようなものとなった。安保の発効を「よい」とするものと「やむをえない」とするもので、四九%。「よくない」の二二%よりもかなり多い。」
※何故?岸首相が辞任しただけでこうも違うのは、やはり岸首相の強硬なやり方への反発だけだったということか??ただし、二つの調査は質問の方法が異なるため、そのバイアスもあるのでは。確かによいとよくないの減少幅ではよくないが大きいが、大きく変わったとまで読み取るのは暴論。

P87「話は戦争末期にさかのぼるが、Ⅰ章でふれた当時の外相重光葵や秘書官加瀬俊一、そして山本有三志賀直哉和辻哲郎、田中耕太郎、谷川徹三安倍能成などが集まって、戦争終結のための会合をもっていた。外相官邸でも集まったが、官邸が三年町にあったところから、三年会といっていた。あとで参加した柳宗悦によってこの会は「同心会」と名づけられた。」
P133「三人(※宗像、宮原、勝田)とも、一九五一年の日教組第一回教研からの講師団の有力メンバーであった。かれらの意向によって、講師団の構成が決まったほどである。日教組の教研だけでなく、教科研やその機関誌『教育』を通じて全国の教育学者を組織し、教師の啓蒙活動を展開した。三Mは進歩的教育学者のシンボル教授であり、進歩的教育学者の牙城としての東大教育学部の看板教授であった。」

P170「だから、わたしが当時抱いた教育学への疑問は、 知的廉直さと遠く、「価値判断」と「事実判断」がずるずるべったりになることの無自覚さ――進歩的教育学者はその無自覚さと実践と認識の弁証法的統一と言っていたが――への嫌悪だったように思う。
そういえば、全共闘運動が激しくなったころ、教育学者たちが学生の突き上げで右往左往するありさまを見ながら、姫岡勤先生は、わたしたち院生にこう言ったものである。「教育学は、学問なんかじゃありませんよ、信念を開陳するだけなんだから。それならそれで、もっと信念に殉じる気持ちがないとね……」」
p175「(※長浜の著書について)欺瞞を憎む情熱のゆえだろうか、ときおり見られる激しい文体にはやや抵抗はあったものの、膨大な資料を収集し、同一教育学者の戦前と戦後の言動をつきあわせ、変節を抉る労作であることは間違いないと思った。それで、読了直後に、わたしは先輩の教育学者たちに、こんな本があるのだがと、話を向けた。「あの本ね……」ニヤリとし、あとは言葉を濁されることが多かった。たいがいの教育学者は、この本のことを知っていたのである。知ってはいたが、話題にすべき本ではないという雰囲気は伝わってきた。管見の限り、刊行当時この本について教育関係学会誌での書評や引用はなかった。
『教育の戦争責任』は、教育学者にかなりの範囲で読まれていたようであるが、当時の主流は教育学者についての厳しい批判だっただけに、黙殺されていた。」
p176長浜から直接聞き取った当時の影響について…「最も困ったのは当時の私の大学は修士課程の大学院しかなく、博士課程に進学する際、私のゼミだと分かると門前払い同然の扱いを受けました。辛うじて早稲田大学京都大学が私の推薦状を受けてくれました。」
p176「著書刊行後、日教組から出版社へ抗議の電話があったそうです。編集長から「気をつけた方がいい」という忠告を受けました。」

p192宗像「教育と教育政策」からの引用…「私は、教師の教育権は、教師が真理の代理者たることにもとづく、というほかないと考える。真理の代理者とは、真理を伝えるもの、真理を子どもの心に根づかせ、生かし、真理創造の力を子どもにもたせるもの、というような意味である。」
p195-196「文部省が日教組対策を明確にとりはじめるのは、岡野清豪からである。岡野は大臣に就任すると「終身科の復活」や「教職員の政治活動の禁止」などを文教政策の中心にする談話を発表した。それまでの文部大臣とちがって日教組に対してあからさまな対決姿勢を打ち出し、日教組との会見を断固拒否した。
※在任は1952年8月から。
P196読売新聞1954年1月19日掲載の世論調査、「学校の先生の組合が、再軍備反対とか憲法改正反対などの政治活動をすることについて、あなたはどう思いますか」の質問…
現在の程度ならよい33%、行き過ぎだ34%、もっとやってよい5%、わからない28%。
※評価が難しい。実際の当事者に近い学校の保護者などはどうだったのか。しかし、少なくとも政治活動規制の動きが民意を反映していないと断じることはできない状況なのは確か。

P201「しかし、公述人は(※1953年の国会で)、あくまで「日本教職員組合としては、(中略)さような(※政治活動に関する)決定も行動も指示もしたり指令したりしておりません」と述べた。こんな答弁がなされていたのは、このことは人々の間に日教組組合員の政治活動に対する支持が一定の厚みをもっていたからである。」
※竹内は裏付けとして54年の調査を持ち出すが、実際すべき判断はもっと複雑であるべきでは。
P203「この調査(※東京大学教育学研究室が1953年に実施した平和教育調査、朝日新聞1954年1月28日掲載)見ることができるように、平和憲法擁護や再軍備反対の実践教育に挺身するという「実践型」は、日教組に活動が活況を呈していたときでさえ全体の二割にしかすぎない。「観念型」と「無意識型」で八割近くを占めている。しかし、「反撥型」はごく一部にしかすぎないから、「観念型」と「無意識型」は、「実践型」に引きずられていく傾向が生まれる。そもそも昭和初期の左傾活動がさかんな高等教育機関のキャンパスや戦後の全共闘時代の学生集団においてもアクティヴィストがそう多かったわけではない。アクティヴィストの定義にもよるが、せいぜい一割、多くても二割程度のものであろう。しかし、それに抵抗するだけの反撥集団がいなければ、二割以下のアクティヴィストは同調者を調達しやすい。同調者は同調者をよび、やがて空気がつくられていき、反撥しにくい状態ができる。」

P204「といってもひとつの学校が教員五〇人とすると、ひとりは二%にあたるから共産党教員はひとりもいないのが平均的ということになる。そんなときに、ひとつの中学校に共産党教員が教職員の二割近く、同調者を入れれば三割に達する学校があった。これからみていく京都市立旭丘中学校である。」
P207「旭丘中学校の教育が事件となるのは一九五三年一一月二四日(二三日という説もある)、市庁舎でおこなわれた、定例の二十日会をきっかけとしている。二十日会とは、京都市長高山義三を囲む婦人会指導者の会である。この日は教育問題がテーマだったので、教育委員長や教育長も出席した。その場に居合わせたある婦人がこう発言した。「学区制をはずして下さい。子どもをやりたくない学校があります」。この発言を口火にくだんの学区の婦人から同様な発言が相次いだ。」
P209「具体的には、数学や理科の授業中に軍事基地や再軍備の話をしたり『アカハタ』を読んできかせている、映画鑑賞が「ひめゆりの塔」「蟹工船」「ひろしま」など偏りすぎている、文化祭に「内灘問題」を脚色した劇を演じさせた、などである。」

P216「旭丘中学校については、事件の最中、そして事件後に多くの論評や研究が出された。代表的な研究には『旭丘に光あれ』があるが、ほとんどは旭丘中学校の教育に好意的であり、善良な教師が教育の政治的中立を定める教育二法案などの成立のための政争に利用されたというストーリーが多い。旭丘中学校に共産党員の教員が多く、京教組も共産党に牛耳られていたことなどには、ほとんどふれられていない。京教組は共産党系が主流の戦闘的組織であった。このときの京教組の副委員長や執行委員は一九四九年一〇月のレッドパージーー共産党員とその同調者の追放——にあった元教員であった。」
P224旭丘中学の分裂授業(1954年5月)において、自主管理学校と補習授業を受けた生徒の割合は二対一。
※他方で徐々に自主管理学校にいく生徒が漸増している。
P230-231旭丘中にみる階層問題…「ところが、旭丘中学校では、貧しい保護者や生徒こそ革命の尖兵だとされたから、いまふれたような学校社会学の命題(※反学校論的議論における下層階級の学校への反発)はあてはまらず、反転さえしてしまう。地域名望家によるPTA役員の壟断を廃止させ、寄付行為もやめさせたから、肩身が狭かった貧しい親は喜ぶ。「貧乏人でも卑下せんと教育が受けられる」「家のことでも、何でも心配してくれるし先生大好きや」となる。きれいに着飾った母親に、貧しい家庭の生徒が「おばさんは戦争が好きなんやろ」と言って中流階級文化への復讐が公然となされるにいたる。しかし、こうした物怖じしない生徒は、裕福層の保護者から見れば「行儀がなっていない」「放任」「親に反抗的」「言動が過激」ということになる。また平和教育への専念は、「学力がつかない」のではないかという懸念と不満を生む。」
※実際、分裂授業の支持は下層階級に偏りが認められる(p230、「京都市立旭丘中学校の教育に関する調査」より。ただし、ここでの主張はソースが明示されていない。

P231「事件終熄後二ヶ月あとにおこなわれた保護者調査の「旭丘中学校の教育は片寄っていたといわれていますが、それについてどう思われますか」という質問の回答(「片寄っていない」「やや片寄っている」「片寄っている」)でも階級によって受けとめかたが大きくちがっている。重役・上級職員では「片寄っている」「やや片寄っている」(六〇・〇%)が「片寄っていない」(二〇・〇%)の三倍、公務員・会社員・商工業では「片寄っている」「やや片寄っている」が「片寄っていない」の一・五倍である。逆に労働者・無職・織物業では、「片寄っていない」が「片寄っている」「やや片寄っている」の二倍となっている。」
※出典は森口兼二「旭ヶ丘中学問題に関する調査資料」(1955)。ただし、サンプル数のバイアスなどについても考慮すべきでは。

P235「不活発を打開する生徒会活性策が、一九五二年はじめに顧問の寺島教諭から出された。三年生のあるクラスが提案した生徒会解散案を取り上げ、生徒の投票にかけ、自覚を促すというものだった。同年三月に全校投票がなされた。生徒会解散に反対七四〇、賛成三五四、無効一一で存続が決まった。しかし、投票率は七〇%。賛成と無効、棄権(欠席を含む)を入れると七九五人、在校生の五二%になる。無関心もふくめて生徒会をいらないとする生徒が半数前後いたということになる。
こんな状態では、投票で生徒会存続が可決されたからといって、生徒会を通じて生徒が民主的主体となるという顧問教員や共産党教員の思惑とは遠いものだった。だからであろう。半年ほどあとに生徒会顧問教師は、さらなるカンフル剤を実行した。生徒会委員会は顧問の許可がなければ開かれないことや、委員会で決まったことでも、顧問が反対すれば、効力を失うなどを盛り込んだ生徒会保護法案なるものを提起する。」
※このような煽り行為はマルクス主義的な教育実践においては常套手段であったといえるだろう。
P238「さきにふれた生徒会解散案の可否投票のときの投票率でも、一年生八〇・七%、二年生七七・七%、三年生五三・七%で、三年生はもっとも投票率が低い。半数しか投票していないのである。
生徒会委員や新聞部などの生徒を除いて生徒全体の傾向で見れば、旭丘教育がどの程度浸透していたかは、大いに疑問が残る数字である。」
p239アメリカ帝国主義を前提にした旭丘中の中心的教諭の一人の病理言説…「パチンコの流行や、ラジオ、映画などによる植民地的空気の助長等が生徒の心を蝕み、裏表の少ない子供たちだけに学校で「トンコ節」がうたわれたり、天井裏に上ってみたり、掃除をさぼったりするたいはい的、虚無的な空気が漸次ふえつつあったことは教員を非常になやませ、特に学習意慾減少の傾向は毎日共通の話題となっていた。」
※54年の文章。

P239-240「しかし、暴力を含んだ筋肉主義的・刹那主義的文化は、資本主義にもアメリカ帝国主義の植民地文化にも還元できない「貧困の文化」それ自体に起因する部分が多い。貧困者は家族の構造、対人関係、消費パターン、時間の定位感覚、価値体系などで共通な特有のパターン(貧困の文化)をもっている。にもかかわらず、旭丘中教員は、貧困家庭子弟の行動の荒れをもっぱら体制(資本主義社会)還元的にとらえている。生徒会を活発にし、生徒が民主的主体となることによって解決されると考えてしまっているのである。」
※貧困の文化はオスカー・ルイスを参照している。
P242「生徒会委員は裸の暴力問題を提起している。にもかかわらず、寺島教諭は「とにかく暴力に妨害されるほど委員が働いたら、すばらしいと思う」とのんきなことを言っている。そして、「それはそうとして」と話題をすぐに切り替え、「自分はいやだと思っている人が当選するのは、どうかならないものか」と生徒会委員の選出問題に話題を向けなおしている。暴力問題を軽く見ているからである。」
P242-243「そもそも寺島教諭が熱血先生として君臨することができたとしても、イデオロギーを内面化することで「道徳的服従」をしたには一部の優等生的生徒であって、多くの生徒は、さわらぬ神に祟り無しの「功利的服従」か、あるいは前節のタクシー運転手(もと旭丘中生徒)の発言にあったように、「怖かった」(「強制的服従」)からではないのか。
生徒会の存在によって暴力が追放できると思ったのは、さきほどからふれてきたように、暴力問題は生徒を民主的主体に変革することで克服できるし、そうなるべきだという信仰のゆえである。だから、教員の理解に匙を投げるように、「先生の言はあまり、ぼくたちに通用しませんね」となってしまっているのである。」

p246-247「京教祖と旭丘中学校教職員はなぜ、三教諭免職処分の撤回と旭丘中教諭による授業再開の要求を引き下げて敗北してしまったのか。……
「子どもは子どもらしく」「子どもがかわいそう」「子どもを巻き込むな」「一番の被害者は子ども」という「〈子ども〉性の強調・再認」世論の盛り上がりに抗することができなかったことが大きな原因である。」
※代表的言説として平林たい子を取り上げている(1954年5月17日、朝日新聞)
P250「(※1955年3月頃の200人対象の調査に見るように)日教組組合員の多くさえ「子供がよく闘った」(※5人)と答えるよりも「子供をひき入れることは悪い」(※50人)と答えた方がはるかに多い。旭丘中事件によって子どもらしさの確認がなされ、再認された子どもらしさによって旭丘教育が批判されるという循環がなされたと言える。子どもを巻き込んだ闘争への否定感情とならんで、自主管理授業を応援するために旭丘中学校に林立した赤旗も世論に反感をもたらした。」
※なお、日教組として当然反対していた「教育二法案通過に利用された」(40人)よりも多い。この点で子ども言説の優位がある程度理解できる。

P251「旭丘中学校教員とこれを支援した京教祖の敗北の近因は、分裂授業がはじまった三日目の五月一三日に、左右両社会党が共同声明を発表したことによる。反動吉田内閣がこの事件を教員の政治活動を禁止する教育二法案通過の道具とした陰謀と挑発によるものだが、としながらも、つぎのように発表した。

「学校の自主管理」や「生徒を闘争へ巻き込んだこと」などの闘争手段がとられたことは良識ある市民にさえ事の真相を誤解させ、その上自ら反動政府の術中に陥るものである。このような闘争手段は民主的労働組合の活動としても断じて許されることではない。」
※しかし、これを支持するならば、「子ども」言説は直接的問題提起となっていないということである。これを受け日教組も同日生徒たちをただちに闘争から切り離すべきとした(p251)。他方、日本共産党は支援を続けた(p252)。
P255大田堯による旭丘中評価(戦後日本教育史より引用)…「旭丘中学校は全国的な注目を集めた。当時の数多い雑誌論文で市教委を支持する論調はほとんどなく、勝田守一、梅根悟氏ら九人の学者による共同研究調査は、“旭丘教育”が憲法教育基本法の精神につらぬかれた民主的な教育であったことを学問的に実証した。」
※これだけ曲解した言説をこれら教育学者は平気で行ってきていた事実は直視せねばならない。一体学問とは何なのかを問うしかない。1954年7月下旬に行われた京都市民600人程を対象にした調査では、「偏向教育」「赤の教育」といった否定的見解が41.3%、「平和教育」「正しい進歩的な教育」といった肯定的見解は14.5%にすぎなかったという(p255-256、出典は森口兼二1955)。なお、わからないとしたのは36.5%だった。

P256「進歩的教育学者大田堯が、「当時の数多い雑誌論文で市教委の措置を支持する論調はほとんどな」いと言ったように、旭丘中事件の最中はもとより、事件後も多くの文化人は、旭丘中学校教員の肩をもった。憑きものは、旭丘中学校の教員と生徒だけにとりついたのではなかった。知識人の空気=世論にも入り込んでいたのである。」
※ただし、大田の主張は1978年頃の話である。
P259「しかし、この旭丘中事件以来、坂田教授(※坂田吉雄、旭丘中の保護者会の中心メンバーだった)は保守反動者のレッテルを貼られる。禍はその弟子におよんでいった。弟子の助手にある有名国立大学に転出する話がもちあがったときのことである。坂田の弟子ということは反動主義者だと、人事が流れてしまった。結局、その弟子は京都のある私立大学に就職した。晩年、坂田は、旭丘中事件で自身が保守反動学者というレッテルを貼られたのは甘受するが、そのことで弟子の就職を邪魔したことになったのは申し訳なく、慙愧に堪えないと言っていたそうである。」
※ソースは不明。

P260臼井吉見の引用より…「内灘にしても、旭ヶ丘にしても、現地にいった“進歩的文化人”は僕が書いた程度のことは、わかっていたはずだ。行って見さえすれば、だれにも一目でわかることだ。
ところが、僕より何百倍も常識のあるはずの人々が、事実と全然違ったことを書く。どうも世間の人気や評判を気にして、しゃべっているとしか思われない。問題は、常識よりも一歩手前のことじゃ、ないだろうか」
※1957年の文章「現代の常識 臼井吉見論」より。
P266「「進歩的文化人」が蔑称や揶揄の対象になりはじめる。そのきっかけをつくったのは、よく知られているように福田恆存で、『中央公論』一九五四年一二月号の巻頭論文「平和論の進め方についての疑問」で、岩波書店と『世界』を牙城とする平和問題懇談会に蝟集する文化人を槍玉に挙げたことからである。」

P314「学者先生戦前戦後言質集」(1954年3月、福田論文の半年以上前の刊行)のはしがき部分からの引用…「こゝに本書を編纂して世に問う所以のものは、世間では一かどの学者先生であり、進歩的文化人として普く知られている人々が、よく調べてみると少しも尊敬に値しないばかりか、その発言は読者大衆を誤らせる虞れが充分にあると信じたからである。」
P317「たしかに進歩的文化人批判の高まりは、保守派知識人の団体である日本文化フォーラムの設立や日本文化フォーラムを母体にした総合雑誌『自由』の刊行を生んだ背景にはなっている。しかし、一九五〇年代半ばの進歩的文化人批判は必ずしも進歩的文化人支配の勢いをとめることにはならなかった。」
P317-318「そこで思い出すのが一九七〇年代半ばあたりの教育ママ調査である。「世間に教育ママはたくさんいると思いますか」の回答では、肯定がほとんどである。ところが「あなたは教育ママですか」という問いになると否定が圧倒的多数である。これと同じように、進歩的文化人批判がいくらおこなわれても、多くの知識人は、自分は批判される類の進歩的文化人ではないと思う。だから、進歩的文化人批判は、もともと進歩的文化人に批判的な人々の溜飲を下げるはたらき以上のものにはなりにくかった。
当初、進歩的文化人批判が威力をもたなかったことには、それ以上のもっと大きな理由がある。進歩的文化人批判がのはじまりと進歩的文化人の上昇気流のはじまりとが時を同じくしていたことである。
進歩的文化人批判が広がりをもったのは共産党神話が崩壊したことによるところが大きい。進歩的文化人をつつむ共産党という中心が空白になったからである。」

p341「というのもこの時代、つまり一九六〇年代まだは大学生になるということは、知識人になるということと意識されていたからである。人間像がはっきりしていた。「インテリ」は過ぎし日本の「さむらい」、あるいはイギリスにおける「ジェントルマン」のように、あるべき人間像の役目をはたした。」
p351「しかし(※日本の知識人は、大衆からの距離が少ないぶん模倣の対象になりやすいのと)逆に、大衆文化と区画化された知識人独自の文化共同体の輪郭が脆弱だから、かれらは大衆の動向が気になり、左右されやすいことにもなる。知識人の大衆への「うしろめたさ」や「ひけめ」、そして「擦り寄り」も生まれやすい。「人民のなかへ」を合言葉にしたマルクス主義的知識人が多く輩出し、思索だけでなく行動しなければいけないという強迫感をもった知識人が簇生した所以である。」
※もっともらしい主張にも見えるが、これの立証は比較が必要である。また、これを前提にしてよいなら、ジラール的な解釈も当然可能である。

P364「しかし、一九七七年以後、八二年までは、言及回数は二回にとどまる。これを見れば、小田が論壇におけるスターだった時期が一九六〇年代半ばから一九七〇年代半ばあたりまでだったことがわかる。」
P365-366「小田は、この引用文(※2002年の段階)のすぐあとに、自分自身は右から左に変わったわけではない、「まったく変らなかった」「世の中が変ったのだ」と言っているが、晩年の北朝鮮礼賛の小田と一九六〇年代半ばまでのリベラル左派の小田とはずいぶんちがっていることは否めない。ベ平連活動などで、小田は右から叩かれる、次第に右嫌いとなり、そうして左寄りになっていったということはあるだろう。また運動の退潮とともにそのぶんラジカルになったこともあるだろう。しかし、それだけだろうか。わたしがひっかかるのは、初期の自己批評とユーモアに溢れた柔軟な小田と、後半期の陰鬱で硬直した小田の大きな落差である。」
※これについて、小田のパーソナリティが躁鬱傾向があったのではないかとほのめかす(p368)。

P378「一九六〇年代後半の大学紛争は、スチューデント・パワーとして世界同時性をもって爆発し、先進国の大学に共通した要因をもとにしていた。そのうちの大きな要因は、今ふれた学生人口爆発である。学生人口は、一九五〇年から六〇年代半ばまでに先進国のいずれの国でも二〜三倍に増えた。増加率はフランス三・三倍、西ドイツ二・八倍、アメリカ二・二倍だったのである。」
※日本も1958年からの10年で2.5倍近くになっている(p378)
p391「教科書を確実に売るために、巻末にミシン目を入れたレポート用紙をつけていたのである。単位認定にかかわるレポートを提出するためには、この教科書につけてある専用のレポート用紙を使わなければならない。市販の原稿用紙などに書いても受けつけない(!)のである。」
※このようなことは竹内がとある私立大学教員になる1973年の数年前まではこのような教師はその大学に結構いたそうである(p392)
p394「一九六〇年代後半は完全就職や豊かな社会の到来で、マルクスの言う「窮乏化理論」——プロレタリアートの実質賃金は上昇することはなく、窮乏化どころか富裕化だった。マルクス主義者は言うにおよばず、進歩的知識人は、大衆を煽動するに「窮乏化」論にかえて「疎外」論を展開した。『資本論』にかわって『ドイツ・イデオロギー』や『経済学・哲学草稿』などの初期マルクス作品が関心の的になっていった。」
※これは清水幾太郎も1977年に同じことを言っている(p397)。

P399「一九六〇年代後半の完全就職時代には、サラリーマンの疎外された労働を論じたアメリカのマルクス主義社会学者ライト・ミルズの『ホワイト・カラー』や類書がよく読まれていた。大企業といえどもサラリーマンは働きがいのない職業だというのが学生の一致する意見となっていた。当時、新聞社やテレビ局などのマスコミ産業が極度に人気があった。マスコミの時代になったことによるとも言えるが、それよりもマスコミ労働は疎外された労働から相対的に免れている(のではないか)とううことゆえの人気だった。」
P402「それまで(※第一回学徒出陣の1943年12月)は、大学や旧制高等学校などに在籍する学生は、最高満二六歳まで徴兵猶予されていたが、このときから満二〇歳に達した文系学生は在学途中で徴兵されることになった。」

P411雑誌「世界」1969年9月号に掲載された、同年2月の東大生の意識調査では、「闘争の目標で多いのは、順に「大学民主化」「自己主体の確立」「現行大学制度解体」「自己変革」である。「革命の主体形成」としたものは少ない。」
P436-437「あるとき、ゼミで「これからは実務知識人についてもっと考えることが必要ではないか」と言ったら、ある助教授からは、「実務知識人とはどういう意味か」と怪訝そうな質問を受けた。わたしの説明が稚拙だったせいもあるが、「そんな人たちを知識人というのかね」と一蹴された。ゼミに出ていた大学院生もサラリーマンからの出戻り院生の戯言というような反応だった。知識人とは反体制知識人しかありえないと決めてかかっていたからである。
全共闘の学生たちが、わたしが感じたような当時のそんな知の変貌を感じていたとはとうてい思われないが、伝統的知識人アイデンティティが揺らいでいることだけは感じていたと思われる。だからこそ、かれらは、知識人とはなにか、学問とはなにかを執拗に問いかけ、論壇安全左翼知識人=啓蒙知識人も欺瞞を糾弾することになった。」

p485「この発言(※藤原弘達の「現代日本の政治意識」1958での発言)こそ、草の根革新幻想の在りかを示している。「スマート」や「ハイカラ」という反伝統主義的生活感覚が「社会党」支持というイデオロギーと結びついているのである。」
p488「一九四二年生まれのわたしの世代には、保守と革新が「文化政治」だったというのは実感としてよくわかるものである。中学校から高校のわたしたち若者は気にくわない意見には「封建的だ」というレッテルを貼って批判したつもりになっていたからである。」
p495「戦後教育の理念カリキュラムでは、いやなこと、辛いことに対してははっきり自己主張すべきだ、と言明していた。辛さや苦労に耐え自分を押し殺すのは奴隷道徳であるとか道徳的マゾヒズムであるとさえ教えた。すでに、前節までにふれてきた石坂洋次郎の作品、『青い山脈』の島崎雪子先生や寺沢新子、『山と川のある町』の早川のぶ子などがその代表的人間像である。
しかし、近隣社会や家庭ではどうだったろうか。むしろ、苦悩や苦労を引き受け、耐えていくことに人間としての成長があるという美徳としての苦労人物語が存続した。「これも修養だ」とか「勉強になった」という言葉は、大人の会話ではよく使われていた。「あの人は苦労人だから」と言ったときには人情の機微を解した立派な人という意味が込められていた。」

p496「この非公式カリキュラムの最大のものは「日本人らしさ」だった。……義理人情から世間体、恥、罰にいたる倫理がこれである。こうした倫理は、同時に世間で生きていくための世渡りの術でもあったから、生きる術として浸透しやすかった。こうした日本教は、大人の世間にあったのではなく、学校のクラブ活動の先輩後輩関係などを通じても伝達された。」
※ある意味で「モラトリアム人間」などはこれの体現、それまではあくまで非公式であったはずのものを公式化しようとした企てだったのではないのか?
P498「したがって、一九六〇年代前半までの日本社会論は、欧米を極度に理想化し、美化し、日本にはこれがないとかこんなに劣っているとかの欠如論や自罰論が風靡した。丸山眞男の『日本の思想』などの日本社会論が説得力をもったのも、そういう背後事情のなかのことである。
ところが高度成長を境に日本人論の論調は大きく変化する。人類学者の青木保は、戦後における日本文化論を整理して、一九六四年を「肯定的特殊性の認識」の時代のはじまりとしている。一九六四年は『タテ社会の人間関係』の原型になる中江千枝の「日本的社会構造の発見」が書かれた年である。
かくして、それまで、劣っているとか前近代的だとかマイナスに評価されていた伝統的な制度や意識は、実は日本の急速な近代化に大きな貢献をなしたマジックカードだったとして評価されるようになる。」
※これがどれくらい妥当なのかわからない。当然64年以降も言説としては日本を卑下するものあった訳であるから、逆も然りだったのでは??

☆P503-504「伝統主義である日本教は、万人が万人に配慮関心を注ぐ、相身互いの麗しい倫理という面があるが、周囲に気を遣い、雰囲気を読み、自己主張を抑える論理でもある。苦労が人間を鍛えるといった苦労人物語は、我慢の倫理ともなるが、奴隷道徳でもある。むろん、相互監視や集団への拘束は、人間は拘束がなければ放縦になってしまうという人間の道徳的不完全性を前提とする保守思想的な智恵の賜物ではある。
 そんな智恵の賜物である庶民宗教が充満していたときには、自己主張と個性伸張の戦後民主主義教育の理念(市民宗教)が、対抗力(解毒剤や中和剤)としての意味をもったことは否めない。だが、庶民宗教という非公式カリキュラムが蒸発してしまえば、保守思想の原型である智恵が畏れるような自己主張や権利という名のもとでの露骨な欲望の奔流になる。」
※恐らく80年代の社会学的な議論(欲望的主体論)などを想定しているのだろうが、あまりにも雑な説明である。リースマン「大学教育論」も引用しているが、これについては実証的根拠が何もない。
P508「小浜が言う風潮としての民主主義(※人間はみな平等なのだから、個人は自由に欲望を表出することが許されるという発想)こそ大衆モダニズムと手を結んだ革新幻想の末路ではなかろうか。そもそも風潮としての民主主義のキーワードである「権利」をさかさまにすれば、「利権」である。権利、権利と主張する輩は、ただ自分(たち)の利権を主張しているにすぎない場合も少なくない。」
※感覚的には非常に説得力があるが、特にここは実証性に乏しくもあるように思われる。