ルネ・ジラール「羨望の炎」(1990=1999)

 今回と次回はジラールの著書を扱って、模倣論について考察をしてみたいと思います。
 私自身もジラールの関連文献は去年から10冊くらい読んでますが、その中から2冊を取り上げてみます。この「羨望の炎」ですが、基本的にはシェイクスピアの文学評論という体裁です。が、内容については彼が永らく続けてきた模倣理論の集大成に近い位置づけではなかろうかと思います。
 彼の模倣理論というのは、正直な所、理論と呼ぶには、かなりゆるく、一冊の本で彼の理論を捉える、ということがなかなか難しいです。が、この「羨望の炎」はかなり最近のものであるからか、理論が洗練されている内容になっています。

(読書ノート)
p1−2 「<模倣すること>が一役買っている現象とはどんなものだろうかと考えると、衣服、身振り、表情、ことばづかい、舞台の所作、芸術的創造などがすぐに思い浮かぶ。しかし、欲望がでてくることはけっしてない。そのためわれわれは、社会生活における模倣を、いくつかのモデルが大量にコピーされるときの、おとなしい順応性と集団性を指向する力として受けとめる。
 もしも模倣が欲望においても存在するとしたら、そして獲得し所有したいという衝動を汚染しているとしたら、模倣についての伝統的見方は、誤りとはいえないまでも的をはずれていることになる。模倣は人々を結びつけるだけでなく、引き離しもする。逆説的ではあるが、ふたつは同時に起こる。同一のものを求める個人は、ある途方もない力によって結ばれるため、欲望の対象がなんであるにせよ、それが共有さえるかぎりはよき友でありつづける。そして、共有が不可能になるやいなや、かれらはライバルとなる。」

p30−31 「葛藤の研究者は人間の不和の本質と起源について、模倣的対抗意識をまったく考慮せずに多くの理論を考案する。……かれらはわれわれの遺伝子に組み込まれているかもしれない人間の攻撃性原理を探し求め、ホルモンを調べる。そして軍神マルスオイディプス、無意識の力に訴える。家族やそのほかの社会制度の抑圧的性格を呪いもする。それにもかかわらず、かれらは一度として模倣的対抗意識を口にすることはない。なぜならそれは人間関係における汚点であり、人間関係を楽観的に見る見方と対立するため、たいていはできれば目をつぶりたいと思うからである。われわれが自明とするのは、葛藤が例外であり、人間同士、とくにプローテュースとヴァレンタインのような比類な友人同士にあっては、調和こそが原則だとする発想である。
 悲劇作家の見方はこれと異なる。かれらは大多数がひたすら避けようとするものを避けるのではなく、逆にそれにとりつかれたかのように焦点をあわせようとする。」

p61 「敗北した恋のライバルがみんなそうであるように、彼は勝ちほこる相手によって大いに欲望を媒介されるのである。」
p74−75 「<分身>というのが、こうした関係を意味する模倣理論の用語である。それはラカンが主張するような想像上のものではなくて、来劇的な誤解や悲劇的な闘争の基礎を提供するものであり、まったく現実的である。」
※ここでのラカンの参照がよくわからない。
p78 「「存在」こそ、真に模倣的欲望が追い求めるものなのである。」
※ここでの存在の文脈…「対象物は、媒介者に追いつく手段でしかない。欲望が目ざす相手は、あの媒介者の<存在>そのものである。」(p78、「欲望の現象学」からの引用)
p91 欲望の両価性…「それは欲望の媒介者がモデルとして偶像化されると同時に、克服できない障害物として嫌悪されることを反映しているのである。」

p113 模倣をする肯定的理由…「では、なにかに扮することが楽しいのは、なぜなのか。アリストテレスはこの問いに答えてくれないが、シェイクスピアは答えてくれる。じつはモデルの存在に対する欲望ということである。演技の不可思議な両極端な栄光は、それがまねる模倣的<変身>によるものである。ひとつの役が本当に自分のものになったり、また、正式かつ文化的にそれを演じる権利を与えられたりすると、すぐさま、その役の栄光は失われ、ほかの人の役のほうが自分の役よりも魅力的に見えてくる。その点、ボトムとその友人たちはヘレナとその友人たちに似ている。かれらがだれか栄光あるモデルに<変身>したいと願う。かれらの<模倣>への欲望は、恋人たちの模倣的欲望と同じ存在論的目的をもっている。」

p151−152 「欲望を最初に表してしまうと、それは人目にさらされることになる。その結果、それは、まだ実現されていない欲望にとって、模倣するべきモデルになりかねない。人目にさらされた欲望は、相互にやりとりされるのではなく、模倣される危険をおかすことになる。われわれの欲する人を欲するためには、差し出された相手の欲望をまねしてはいけない。欲望は相互交換されるべきである。しかし、それはたいへん難しい。積極的な相互作用は、模倣的欲望にはない精神力を必要とする。本当に愛するためには、相手の欲望を利己的に利用してはならない。
 もし、ベネディックが最初に口火を切り、ベアトリスが彼の欲望のモデルとすれば、彼女はベネディックの欲望を模倣して、自分の欲望を自分自身へと方向転換することになりかねない。そうなると、ベアトリスは彼よりも自分自身を好きになる。エリザベス時代の人はこれを自己愛と呼んだ。ベアトリスが口火を切れば、ベネディックに同じ可能性が生じる。ベアトリスとベネディックはふたりとも、主人と奴隷の関係という誤ったところに落ち着いてしまうのを恐れている。そうした関係は、どちらであれ、隠されていた欲望が表にあらわれ、それが模倣されるところから生じるはずである。」

p181-182 「葛藤を模倣的対抗意識の過程のせいだと考えたくなければ、善なる男女の主人公の外部に原因を求めざるをえない。そうなると、明らかに悪党とわかる人物の邪悪な性質のせいにするよりしかたがない。このだれにも明らかなもめごとの張本人は、立派な性格の主人公たちの人生を不幸にするが、そうすることが悪人の唯一の人生の目的となる。彼はいわば身代わりの山羊である。彼のおかげで立派な人物たちは、プロットの展開上、必要になるはずの醜い出来事すべてに手を染めないでいられる。」

p191—192 「自由市場においては、価値は需要と供給の法則によって変動するのではなく、その法則に照らして全体的査定がどう出るかについての各投機家の判断によって決まる。これは客観的な法則自体とは大違いである。法則はつねに解釈されるものであり、また、あらゆる解釈は模倣的で自己言及的であるから、法則が直接相場を決定するということはありえない。法則を解釈する人たちは客観的な事実には関心がない。かれらに関心があるのは、市場を現実に形成する力、すなわち、一般大衆の意見の力である。それはじっさいには支配的な解釈となるのである。」
※市場批判として、このような判断決定のされ方自体への懐疑が提出可能である。しかしこれは一種の民意を反映したものである。
p192 「経済学者たちがあつかっているものは、じつは、いわゆる「客観的データ」なるものを呪物崇拝的に信仰するあまり、ほとんど見落とされている模倣のゲームなのである。客観的データは数学的な計算で把握できるかもしれないが、解釈を計算に入れることはできない。」

p195 「模倣的欲望をあつかった偉大なる文学者たちは、フロイトをはじめとする自己についての理論家とはちがって、自己愛の幻想を見ぬき、自己愛の生成と崩壊の模倣的本質をあばく。」
p195 「まさしく、フロイトはみごとな観察者であり、ついには、いわゆる極端な自己陶酔症が、往々にして他者への極端な依存という正反対の兆候と結びつくことに気がついた。そこまでは認めよう。しかしながら、これに関連したテクストを読めば、その両極端のあいだに模倣のきずながあることに気づいていなかったことは一目瞭然である。その結果、同一人物における両者の併存という「逆説」について、満足できる説明ができなかった。彼はいつもきわめて個人的な欲望という観点から考えつづける。そうした欲望は全面的に家系に根ざしていて、ほかの周囲の欲望には影響されないというわけである。けっきょく、フロイトは激しく対立するふたつ以上の欲望に関する決定的な謎を解明できなかった。じつは、そうした欲望はあまりにも一致しているから衝突する、おたがいを模倣しあっているから対立するのである。」

p220 「美はあらゆる聖なるものと同様に、汚れた人間の手で触れることはできない。だから、媒介者のいない欲望という幻想は打ち砕かれる。もし、欲望に本当に媒介者がいないなら、欲望の対象(客体)はなんど楽しんでも、それによって欲望は減じることはないはずである。それは所有という試練のあとにも存続し、成就しても灰と化すようなことはない。」
p221 「欲望を活性化させることができるのは、勝ちほこるライバルだけである。欲望は、とりかえしのつかないほど自己破壊的である。その果てしない暴虐に対して、一気に決着をつけようと思えば、欲望を完全に放棄するしかない。すべての偉大な宗教、すべての偉大な倫理的体系、すべての伝統的な知恵が、そうした戦略を推奨する。」
p223 「欲望はそのモデルが敗北したあとには存続できないということは、欲望は勝利の暁には消滅するということに等しい。……欲望は成就されると消滅するのであるから、永遠の欲望への道はただひとつ、永遠に接近できない対象を選ぶことだけである。」
ドゥルーズガタリ的にはこの解釈はどう映るか?

P230 「パンダラスは若いふたりに、トロイではもちろんのこと、どこの地においてももっとも抵抗しがたい欲望のモデルとして、美しいヘレンを提示する。欲望それ自体ほど欲望を刺激するものはない。……ヘレンがなにに対して欲望をいだくにせよ、それは欲望の対象になりたいと望む全女性にとって、熱心に模倣されるべきものである。」
※一種の変身である。
p231 「広告主はわれわれの欲望をあおるために、世界中の美人がその製品をすでに愛用していると信じさせようとする。もし、その産業に守護聖人が必要ならパンダラスを選べばいい。シェイクスピアは現代の広告の予言者である。シェイクスピアのパンダラスは、得意客になりそうな人の目のまえに、かれらの欲望をあおる威信のある一流の欲望をぶらさげる。」

p255 「シェイクスピアフロイトの決定的な相違点は、シェイクスピアの場合、<同等の人物の人間関係>のほうが親子関係よりも重要であるということではない。両者の相違は、すべての固定した立場、すべての文化的に決定されたライバルという考え方が、自己生産される障害物、模倣する人物に造反する模倣の果実、すなわち、模倣的対抗意識というはるかに強力な考え方にとってかわられるというところにあるのである。」

p294 「われわれがすでに承知していることは、模倣的欲望はフロイト的欲望とちがって経験から学ぶものであること、また、それが学んだことは真実であるということである。欲望の真実は、欲望自体によって歪められ、真実性が高まれば高まるほど、さらにひどい結果が生じ、また、それが体系のなかに組み込まれるために払わなければならない犠牲もますます大きくなっていく。」
p296 「欲望が多くのことを知れば知るほど、挫折した対抗意識によって広められる否定的な信号を、肯定的なものとして先どりして受け入れようとする。それは、初期の段階で、自然かつ唐突に生じる自滅的な結果をますます模倣して、まえもって予測してしまう。欲望は自己の滑稽化におちいる。その結果がパンダラスにほかならない。」

p312—313 「位階は真の神ではない。位階は無力であり、世界の内にも外にもどこにも存在しない。しかしながら、それは神としてのはたらきをもち、それを尊重する者には秩序という悪意を与え、また、反逆する者に対しては無秩序という無差別の暴力をもって罰する。対抗意識の螺旋状の報復が恐ろしい復讐へと変わるのである。」
p313—314 「位階のないところでは対抗意識は増殖する。位階があるところでは、対抗意識は消えはしないが、それほど破壊的ではない。では、なぜ、破壊的でなくなるのか。位階は欲望を非模倣的で自発的なものにすると理解すべきなのだろうか。軍隊の例を見れば、そうではないことがわかる。訓練され優れた素質がある兵士は、だれしも、昇進したくて自分より一段上の階級をめざし、それぞれ、直属の上司を自分のモデルや指導者と見なすものである。このような野心は模倣的欲望の様式である。それは抑圧されるどころか、奨励される。それなしには優秀な軍隊は存在しえない。
 このような野心、このような模倣が、軍隊の規律や伝統を無視して役職や地位、権力を手に入れようとするなら、それは<闘争的>で破壊的なものになる。不従順が頂点に姿をあらわすと、まえに従順だった、下の地位の者はまったく従順にその不従順をまねする。秩序とは一連の徹底した従順な模倣から成り立っているために、無秩序が姿をあらわせば、秩序はそれが感染していくのを助長する。……模倣が位階の規則にしたがって、それぞれの階層の相違と分離を尊重しているときには、それは<よい>模倣になるのである。」
p315 「下の段階にいる者は上の者を仰ぎ見て、かれらをモデルにしがちであるが、それはあくまで純粋に理想としてである。かれらは自分の世界の内部で欲望の対象を選ばざるをえないのであり、対抗意識が生まれることはありえない。模倣者は自分をモデルとする人物の欲望の対象を選ぼうとするが、位階の存在がそれを妨げる。位階が確固として存在しているかぎりは、その規律をおかすことは不可能であり、考えることすらできない。」

p348 「よい媒介と悪い媒介とは、じつは、ほとんど同じように作用する同一の模倣であるということである。ただ、ちがうのは差異そのもの、つまり、位階が存在するかしないかなのである。」
p386-387 「<身代わりの山羊>が全員一致で排除されてしまうと、敵がいなくなり、いわば燃料を欠いた復讐の炎は鎮火する。大混乱を思えばこれは奇跡と映る。激しい抗争とその後の和解に畏れを感じた共同体は、ふたつの出来事の原因は同じものだと考えるようになる。つまりその原因である不幸な犠牲者は、問題を起こす者であると同時に全能の調停者として受けとめられる。こうして基盤となる犠牲者は人に報いたり罰したりする超越的存在となる。聖なる祖先、神聖なる立法者、完全なる神格の模倣的起源とはそのようなものである。」
p394 「模倣的危機において犠牲者を求める欲望は、もともとあてにしていた差異を消そうとする過程とあいまって増大することを、彼は見ぬいている。画一性の増加を背景にして、いかにも大ざっぱな差異だけが、とくに身体的な差異だけがきわだってくる。」→スケープゴートの対象に??

p404 「模倣的暴力とは、共同体の暴力的溶解のなかで最終的には完全な非差異化に転じる虚偽の差異化の原理である。」
☆p405—406 「犠牲のもつ治癒力を信ずることは「理性的」とはいえないが、十分な根拠をもっている。犠牲が若く活性力に満ちているかぎり、それは身代わりの生贄と模倣的暴力を対立させ、そうすることで統一性と同一性という文化的象徴をふたたび生きたものにする。犠牲はもともと人間社会を清練浄化するものなのである。
 儀式は非対立型の模倣的行為、つまり<外的媒介>である。その実践者は、<基盤となる殺害>の綿密な模倣に成功がかっていると感じている。じっさい、ある程度まではそうである。全員一致を初めて可能にしたものはそれがなんであるにせよ、たいていなんどでも成功する。
 原始的な儀式の観点からすると、犠牲が暴力と戦うとき、それは、たんに危機を増大させるだけの通常の暴力ではなく、<良い>暴力を武器とする。そして<良い>暴力は、人を結びつける<宗教>が永続させようとする全員一致を基盤としているため,危機をまねく<悪い>暴力とは異なるように見える。じっさいそれは奇妙に異なるものである。悪い暴力というものはなんどでもかならずあらわれるものであるが、良い暴力を賢明かつ敬虔に行使するなら、悪い暴力の拡大を防ぐことができる。犠牲とは、癒し、結びつけ、和解させる暴力であり、悪化させ、分裂させ、崩壊させ、非差異化する悪い暴力と対立する。」

p419 「犠牲の儀式は、模倣的対抗意識をやわらげ、共同体の宗教的熱情を作りだす過程を敬虔に模倣(外的媒介)したものである。犠牲となる生贄は共同体の一員ではなく、たいていの場合、人間でさえもないという意味において、起源的供犠を緩和し穏やかにしている。
 さらに、生贄を殺すことはまったくないという意味で、劇場は犠牲を緩和し、穏健にしたものである。生贄の死は擬死にすぎず、この擬死の表現でさえ舞台では許されない。この禁止事項は現実の暴力からの離脱を強調する。」
p425 「西欧では劇場は純粋に娯楽のためのものであり、その機能によって主人公の死を劇どこにおくかが決められたのは当然のことである。主人公が劇の終わりまで舞台に居残ることができなかったら、観客は存分に楽しむことができない。……死の表象についてのこうした事情があるため、主人公が劇の最後で死ぬのは、背後に隠された過程が模倣的危機を首尾よく終らせる<身代わりの山羊>の解決法だからなのだと、気づく者はひとりもいない。」

p469 「この劇は、見る者ひとりひとりの視点にぴったりあった姿を、つねに不思議な手段で見せてくれる永遠に回転する物体に似ていないこともない。」
シェイクスピアがこのような作品について、多義的な解釈をさせるのは何故だろうか。一種の共犯関係の発生を防ぐ気がないからか、それとも程よくメッセージを伝える手段として妥当性が認められるからなのか…
p531-532 「福音書においても同じことであるが、キリストの受難は、なにをさておき、まず人間の暴力の啓示として読まれねばならない。完全なる犠牲者キリストは、さらなる犠牲の神の目に完全であるように見える生贄儀式を確実なものとするために死ぬわけではない。つまり、キリストの受難が意味するのは、完全に非暴力的で正しい犠牲者は、暴力の啓示をそのことばにおいて成就するばかりでなく、危機に直面した人間集団の二極対立を通じても完成するということである。この犠牲者の死はすべての犠牲の儀式の暴力と不正ばかりでなく、歴史上たった一度だけその意志が完全に成就された、神の非暴力と正義を明示している。
 福音書はそれまでの多くの宗教的戒律の代わりに、たったひとつ「いかなるかたちにせよ報復と復讐をやめよ」という命令をくだすだけである。これは理想郷の発想でもないし、ロマンティックな改革者が夢みる民衆的無政府主義でもない。供犠のメカニズムが力を保つためには誤解されることが必要だとすれば、犠牲が十分に発現してしまうと、人間集団は犠牲による防衛手段を奪われてしまう。」
ジラールの思想の本質に近い議論であり、かつ、ジラールの弱みも出ている部分。キリスト自身が聖性のかたまりであるということが強調されているといえよう。

p604 「ふたりの人間というものを考えたとき、現実の罪からもっとも遠いところにいるのが幼友達である。」「子羊は<非対立的な模倣>の隠喩である。」
※しかし、ジラールがここで提出する罪ないし原罪といったものが何故成長するにつれ出現するのだろうか?この答えは簡単である。子どもたちは権力の世界とは無縁でいられるからである。何故無縁でいられるか?彼らが守られた存在だからである。

(今改めて読み返してみて)
 ジラールを読むきっかけになったのは、「ミメーシス」というキーワードに惹かれてのことでした。教育がらみで宮台真司の本などをかなり読みこんでいた時期があったのですが、関連した議論をしている本を探していたときに、ジラールの名前を見つけました。
 今回はあまり他の著者の議論との絡みを避けて,彼の模倣理論の描写とその問題について考察することに徹したいと思います。模倣理論を読む上で大きなキーワードとなってくると思うのが3つあり、「欲望の三角形」「外的媒介/内的媒介」、そして「身代わりの山羊(スケープゴート)」をそれぞれ検討します。

・欲望の三角形
 ジラールによれば、主体と対象、そして媒体の三者関係により、欲望が調達される。主体が何らかの対象を欲することは、それら二者間で完結しているものではなく、ライバル関係にある媒体の存在がないと成立しない。
 このような三角形的関係は、フロイトの「父(媒体)・母(対象)・子(主体)」というエディプス三角形にも類似しているが、ジラールはこの点について、家族的なものに回収されることには批判を加えている。

エディプス・コンプレックスとはミメーシス的ライバル関係のひとつの特殊例であって、父親の消失という事態を隠藪することを実際の目的としている偽のラディカリズムによって聖化され神話化されたものである。」(「ミメーシスの文学と人類学」、訳書p102)

 ここでポイントにあるのは、媒体が対象を獲得するための障害になっていることである。これは対象をすでに媒体が持っている可能性もあるし、これから主体が対象を獲得するために媒体と対立する可能性もあるだろう。
このような媒体の捉え方はフロイトにおいても同じことであるが、ジラールはより一般的に模倣的欲望が成立するとして、ライバル関係であることを強調する。これは逆に、主体自身が欲する対象には媒体が介在している、という言い方もできる。
 そして、ジラールの議論で語られるこの欲望の三角形というのは、実在的なもの、現実的なものという視点が確かにある(p74−75)。主体・媒体・対象それぞれが実際に存在していることを前提にしているように思えなくもない(そしてこれがドゥルーズと対立する一因ではないかとも思う)。

・外的媒体と内的媒体(よい模倣と悪い模倣)
 この障害となる媒体については2種類に分類を行っている。両者の違いは位階の有無であり、その位階の差異を尊重しているかどうかにかかっているという。外的媒介においては、主体は媒介の地位を尊重している。一方で内的媒介においては、主体は媒介の地位を無視し、それを転覆しようとする。
 ただ、この媒体の捉え方というのは、シンプルなようで実に難しい。ごく単純なまとめかたをすることも可能なのだが、そうすると、ジラールの議論のどこに意味があるのか、となってしまうからだ。
 この単純な考え方とは、外的媒体をシンプルにキリスト教信仰に結びつけることだ。ジラール自身は比較的熱心なカトリック信者であることが知られている。ジラールの作品中にもこのことが現れている。問題は「位階」の解釈のしかたである。まず、この「位階」はキリスト教的位階として片付けてよいのか、という問題がある。ジラールの読解方法によってはそれも可能である。が、ここではそれをできるだけ回避して議論したい。
 では、それ以外の位階の解釈について、どのようなものが考えられるか。さしあたって、「この位階を修正することはできるか」という問題と「この位階というものは誰の認識によって成り立っているのか」という問題に分けて考えたい。

 まず、最初の問題について。これは「外的媒介」によって何がなされているか、という問題に置き換え可能と思われる。ジラールの議論は基本的に悪い模倣、内的媒介を中心に行っているため、外的媒介に与えられた意味というのは直接見出すのが難しい。ポイントは位階の崩壊というのは許されるものなのかである。ジラールにとって、究極の外的媒介はキリストにあるため、このキリストを頂点とする位階が崩れなければ問題がない、その下部に位置する位階がこのキリスト中心のヒエラルキーに属していればよい、という言い方もできるかもしれないが、この言明には意義がない。
 この問題の解決策のひとつは、位階を定める「ルール」に注目し、そのルールを侵犯せずに位階の転換が行われるのであれば、外的媒介によるよい模倣がなされている、と判断することである。これは一見もっともらしい。先述したベックが、近代のルールに則って素人による専門データ収集を提起したことも、このような捉え方に基づいているものであるといえる。
 しかし、これについてはやはり批判がされるだろう。ベックへの批判の際に、そもそも素人が専門知を集めることの困難さを指摘したが、これはルール自体の改変というのもなかなか回避できない問題である。この問題については、今の私には妥当な提案ができない。

 これに関連してだが、ジラールが内的媒介を批判するとき、決まって混沌と破壊を指摘する訳だが、この指摘は内的媒介の批判となっても、外的媒介の擁護にはなっていない。外的媒介の妥当性は、やはり外的媒介の性質についての考察をしなければならないだろう。そして、ジラールはこれについて、ほとんどまともな立証はしているといえない。


 2つ目の問題「この位階というものは誰の認識によって成り立っているのか」について。ジラールの議論だけを追うと、この論点がうまく見出せない。それは、ジラールが「個人/社会」という区分けをして考えていないからである。ジラールにとっての位階とは、ほぼ確実に社会的なものについて指している。しかし、それを崩そうとする対立関係というのは、基本的に個人間の関係に立脚しているのである(模倣の繰り返しによって社会的なものになるという説明はしているが)。
 この問題をまとめると、ある程度内的媒介と外的媒介の区別が可能となるように思える。ライバル関係の構築によって、主体は欲望する存在となることが回避できない。そして、内的媒介においては、媒介者もまたその主体と同じ欲望に巻き込まれていることになる。では、媒介者がその主体の欲望の模倣を行わない態度をとり続けていれば、主体にとっての外的媒介であり続けることができるのではないだろうか?
 これは村上靖彦の論題であった「治癒」の議論にも結びつく。臨床医と患者の関係は非対称であり、位階が存在している。そこでのカウンセリングの成功用件は患者と臨床医の主客が未分された状態を作りだすことである。このような状態が模倣を可能にする。ここで重要なのは、臨床医は患者がどのような形で接してきたとしても、その位階を全く揺るがさないことだ。確かに主客未分の状態というのは、臨床医側にも求められている訳だが、それは形式的な領域を離れるものではないだろう。実際に揺らいでいるのは患者側だけである。

 ジラール自身は、これをダンディズムに結び付けて、似たような説明を行っている。

ダンディーは、無感動な冷たさへの好みによって定義される。けれどもこの冷たさはストア流の禁欲家のそれではない。欲望をもえあがらせるための計算された冷たさであり、他人に向かって《私は自分だけで事足りています》と絶えずくり返す冷たさなのだ。ダンディーは、自分自身にたいして自分が感じていると自称する欲望を、他人が写しとるようにのぞむ。」(「欲望の現象学」、訳書p180)

 もちろん、このような状態を可能にするにも、一定の条件はある。ジラール自身も意識していただろうが、この関係性の転覆の可能性として、最大のものは暴力の行使である。カウンセリングにおいては対話可能であることが条件である。この状況をまず作り出せる状態でない限りは「治癒」も成立しない。

 このような見方でジラールの模倣論を展開するのは、教育の分野にも可能である。次回にこの点をもう少し考察してみたい。

・身代わりの山羊(スケープゴート
 身代わりの山羊の議論については「暴力と聖なるもの」(訳書1982)に頻出している。簡単に説明すれば、模倣の繰り返しにより、模倣し合った人びとが同一化してしまい、混沌とした状態を鎮めるために持ち出される「犠牲者」のことを指している。
 この「犠牲者」は自らの共同体に属し、なおかつ聖性があることが条件である、とされる。「聖性」がなくてはならないのは、それが混沌を調停するために必要であるからである。それは見かけ上は、われわれの内部にあふれている暴力を全て外にはきだすものである。
 
「人間たちは、自らが分泌する暴力への欲求の排泄過程を、自らのものとしてではなく、絶対的命令として、恐ろしくもまた綿密な、気むずかしい要求をする神の命令と見ることによって、彼らの暴力を排泄することに成功しているのである。現代的思考は、供犠の全部を、現実の外に投げ返すことによって、供犠の暴力を誤認し続けているのだ。」(「暴力と聖なるもの」、訳書p22)

 我々はその犠牲者に関心を持っていることが必要であり、かつ聖性を感じないといけない。そうでないと、内部の暴力を調停する力にならないからである。
そしてこの犠牲者というのは、我々自身が儀式などを通じて捧げる生け贄である。

「聖なるものとは、人間がそれを制御できると思いこめば思いこむほど、それだけ確実に人間を制圧する一切のもののことだ。したがって人々をおびやかすのは、何よりも、しかし副次的に、嵐であり、山火事であり、伝染病である。だが、それはまたなかんずく、たとえはるかに目立たないとはいえ、人間それ自身の暴力なのだ。」(「暴力と聖なるもの」、訳書p50)

 通常、内的な暴力関係においても犠牲は出ている訳だが、この身代わりの山羊はあえて捧げる犠牲である。共同体が皆で捧げる犠牲であるために、それは集合的な場における儀式となる。皆で行ったという一体感が重要な要素なのである。
 これは見方によっては、小さな争いを調停するために、設けられる大きな犠牲であるといえる。大きな犠牲を前にして、小さな争いというのが、大した問題ではなくなり、その大きな犠牲の方に関心がそれていくことによって達成される調停だと言えるだろう。

 このような身代わりの山羊はもともとは人間であり、殺戮を伴ったものだったとジラールは言う。おそらく、その方がより印象的になるからであろう。だが、このような人間を犠牲にすることは次第に回避されるようになり、人間ではなく、動物を生け贄としたり、演劇といった模倣的なものへと転化したりしたようである。暴力を最小限にしながらも、一体的な状態、小さな争いへの脇目を逸らす機能を維持していった儀式というのが、引き継がれていったということのようだ。

 ただ、このような身代わりの山羊は、既存の秩序・位階の維持のために用いられるものであるとされる。そして、本書で述べられているように(p531−532)、ジラールはこの身代わりの山羊の起源をキリストに求めようとしているのも確かである。すると、この身代わりの山羊という概念自体が、ジラールのキリスト信仰を根拠にするために導入されたものではないのか?と言えるのである。キリストの犠牲が身代わりの山羊の根本的なルーツであり、以降の儀式はその模倣に過ぎない、と。

 この身代わりの山羊については、応用が難しいかもしれませんが、次回の考察でも組み込めそうならやってみたいと思います。

理解度:★★★★
私の好み:★★★☆
おすすめ度:★★★☆