石原慎太郎「スパルタ教育」(1969)

 本書は当時のベストセラー(70万部とも言われる)となった石原慎太郎の著書である。教育書と読むか、育児書と読むかは微妙であるが、教育書であれば、日本で最も売れた教育書の一つ、といっても言いかもしれない。100のテーマをそれぞれ2ページでまとめる内容であり、ハウツーものの雰囲気もあるが、まあ読みやすい。
 現在における本書の評価はすこぶる悪い。当然当時も肯定的に読まれたかどうかはわからないが、このような論述のされ方が当時はありえたこと、そして強い反響があったということはまず押さえておきたい。

○「しつけ」における暴力行使について

 本書の最もショッキングな所は、暴力について肯定し、更に男女差別を肯定するかのような議論を行っている点である。これは本書を読む前から書かれていることを知っていたが、実際に読むと、思っていたイメージとは若干異なることもわかった。
 本書で暴力が肯定的に捉えられるのは、2つの場面においてであると考えられる。一つは「子どもをしつけるための暴力の行使」である。しつけについては「しつけは、学校ではできない」(p188-189)で述べられ、ここでも強く暴力行使、折檻の必要性について強く述べている。しかし、「しつけ」とは具体的に何を指すかまでは述べられてはいない。これは本書の大きな問題点ではあるものの、本書全体で暴力行使の2つの場面に限って認めているという前提を置いてよいのならば、特定が可能である。つまり、石原のいう「しつけ」とは「社会で求められている規範を『体得』すること」と言ってよい。これはp40で述べられていたことと重なる。これは見方を変えれば、社会規範に反するもの以外においては暴力行使されることは肯定されていない、という風にも読める。この観点から言えば、理不尽な暴力までは肯定していないように見えるのである。
 しかし、ノートにも書いているように、この態度は徹底していない。社会の規範とされているものに反しても、未成年の飲酒や物損に対してはむしろ肯定的に捉えている。P40で述べた「人間の規範」だとか「社会規範」が具体的に何を指すかについて、石原は態度を徹底していないのである。

 しかしこれは石原の主張を考えれば当然の帰結である。そもそも石原は「価値の転換」に対して非常に高く評価し、それこそが人間の進歩を支えてきたものであり、だからこそ「個性」を強めよ、というのが本書の最大の主張点だからである。個性=創造性の芽というのは「不良性」にもあり、また「物損」という破壊行動にもあると述べている。「社会規範の徹底」と「個性=創造性の育成」はそもそも対立しうる要素なのである。この境界的ケースの一つがp182のような「きょうだいの序列」に関する部分である。石原が述べる通り、きょうだいの序列にこだわりすぎると、競争性が薄れるからよくないとしているが、結局ここでは「きょうだいの順序をはっきりさせろ」とタイトル付けしてしまっている。このことは厳密に言えば妥当でないにも関わらず。


○人間の進歩に繋がる「価値」の捉え方について
 もう少し話を深めてみよう。もう一つ論点として捉えたいのは、石原の「価値」に対する見方である。
 ここでいう価値とは、本書で語られる「個性」のことと言い換えてもよい。そして重要なのは、石原は価値を対峙させることでより良い価値を算出するものだと考えている点である。典型的なのは、p19に見られる「父をしのぐ」という言説であり、家庭というのは、そのような対峙に持ってこいの場であるとみなされている。だからこそ、「父に対するウラミをもたせろ」(p108)という位の言い方をするのである。
 この考え方は以前レビューした全生研の「集団のちから」の議論にも類似するものがある。『ちから』が産出される状況というのは「価値の対峙」の場においてである、という捉え方が同じなのである。ただし、石原は全生研ほど意図的にこれをやれとまでは述べていない。「父に対するウラミをもたせろ」という言い方はそれっぽい節もあるが、このテーマについての論述においては、具体的にどうウラミを持たせるのかよくわからない。強いていえば、社会人としての父と家庭における父を両方見ることによって、そのズレへ苛立ちを持つ時に「ウラミ」に変わるというような言い方はしているといえるだろうが、これは全生研のような積極的なものとは言えないだろう。
 ただし、その価値の重要性を親自身が強く自覚してそれを実践しているという姿を見せることは非常に重要であると考えているといえる。特にp143の言い方、「親が自分の価値観で、あえて行なうという勇気の誇示」が典型的である。このような態度に子どもは「価値」の重要性を学び、そして自分のとっての価値について考えるきっかけを与えることにもなると考えているようである。

 石原の主張において押さえなければならないのは、このような「価値」そのものを子どもに押しつける必要はないと繰り返し述べている点である。むしろ子どもが形成する「個性」を潰すような押しつけは禁止すべきとさえ考えている。P126のような見方がそれを表しているし、子どもに不良性を与えるべきであると述べているのも(p114-115)、不良性を否定する「既成の道徳」が子どもの個性を潰すことになりかねないからである。
 しかし、そうするとやはり「しつけの対象となる社会規範」と「個性の阻害になる社会規範」の違いがよくわからなくなってくる(※1)。当然だが、「個性の阻害となる社会規範」に対してまで子どもを殴って従わせることは妥当であるとは言い難いだろう。この違いがわからない状態というのは、「他人の子どもでも叱れ」(p44-45)とする際に、恣意的な判断で守るべき規範と変えるべき規範を切り分け、制裁として殴るということを意味する。


○「価値の対峙」における暴力行使の正当性について

 この矛盾を解決する方法が本書から提示されていない訳ではない(※2)。それを考えるために押さえておきたいのが、石原が「暴力行使」を認める2つ目のケース、「けんか」を行う場合である。本書においては、基本的に親が子どもに対して行う暴力は「しつけ」として現れているのに対し、きょうだいが学友との対立を暴力として認めるとき、この「けんか」による暴力性が肯定されている。
 この暴力が肯定されるのは、「価値の対峙」がそこでなされているからであると恐らく石原は考えている。「子どもたちには、親の立ち入ることのできない子どもたちの道理があり」(p228)としているのが理由である。つまり石原にとって「けんか」とは、互いの「価値観」のぶつかりあいそのものであり、「自分が正しい」という主張の権化が暴力なのである。これもまた子ども自らの「個性」を育む格好の機会とみなしているのである。これが極まった主張が「暴力の尊厳を教えよ」(p82)なのである。

 ここで問い返さなければならないのは一点に尽きる。「暴力は石原のいうような『価値』を体現していると言えるのか?」である。石原の言い分が正しければ、すべての暴力的対立はそれ自身に価値観をもち、その価値観はそれぞれ人間の進歩に貢献する、ということになる。しかし問題なのは、暴力それ自体は価値を表現しないという点である。石原が言うように、聖的な暴力(極限状態で行使される暴力)行使の場面においては、道徳も言葉も、精神も理念も、飾りへと成り下がり、全て無意味なものとなる。暴力の勝者のもっていた「価値」こそが正しいものとして証明されるものとなる。しかし、その暴力が行使されている場においては、「価値」は何も示されていないのではないのか?暴力の行使の場は暴力の行使以外の何ものでもないのである。「価値」の付与というのは、勝者がその暴力の後で付与したものでしかない。
 これが真の意味で善の意味を持った「価値」と「価値」のぶつかり合いだというのであれば、石原の主張も反対する要素がないかもしれない。しかし、本当に「善」だけがこの極限状態に発露するものなのかは極めて疑問であるし、そもそも暴力を行使すること自体は、「極限状態」になくとも行使可能であるものであることから、石原の言うような「聖性」などそもそもない可能性だってあるのである。
 このあたりの性善説的、楽観論的な石原の語りというのは本書に一貫して存在しているといってよい。子どもの学習プロセスが良い方向に向かうことを確信していることについても、「しつけの対象となる社会規範」と「個性の阻害になる社会規範」についてもそのような良心的な見方で解決しているとみなせなくもない。
 しかし、私がこれまでレビューし、仮説として提唱してきた70年代以降の「社会問題の形成」はこれとは真逆の動きをとったのである。まさに「教育の失敗」が焦点化されている状況においては、暴力の行使もまた失敗事例として取り扱われ、それが暴力に対する否定につながったのであった。これは70年代以前における学生運動だとか、60年安保体制をめぐる国家の暴力行使の場面などを通しても十分に形成されうる論点であったように思えるし、石原が批判しているのも、このような暴力性を否定した当時の人々に対して、「暴力を否定すること自体誤りである」ということなのではないのかと思えるのである。
 もちろん「社会問題」という枠組みが実態を反映しているのかという問いは残るし、その検証というのは必要性があるだろうが、同時に石原の言うような性善説的な暴力の肯定もどれほど「現実的」なのかについて検証されるべきものであったように思う。少なくとも私は石原の暴力論が正当性のあるものとは思えない。少なくとも本書で述べるように美化されるべきではないだろう。


※1 結局、この違いが曖昧だからこそ、暴力行使は恣意的であってよいことになり、※2のような議論の帰結もありえることになってしまう。しかし、石原はあくまでもこの両者は区別可能なものであると考えている節がある。

※2 このように「価値の対峙」を捉えた場合、最終的に「しつけの対象となる社会規範」と「個性の阻害になる社会規範」を予定調和させるのは「けんか」でしかない、という見方は可能である。つまり親と子のけんかで最終的に解決しようということある。本書はこのような状況をあまり想定していないように思えるが、これを認めてしまうと、そもそも両者を区別する意味はなくなってしまう。
 これが極端なものとなると、「親が正しいと思うものすべてについて子どもに制裁を加える」ことに繋がり、子どもに対しては「反発したければ親とけんかしろ」という見方になる。これは親が正しい判断を行っていない場合、子どもが反発そのものをしようとしない場合両方に問題がある見方であるように思えるが、論理的な整合性を優先してとるならこのような見方もできなくもない。本書の抱える問題の一つともいえるだろう。そのような暴力行使に対してまで本書は容認することになってしまっているということである。


<読書ノート>
※表紙カバーの会田雄次のコメント…「戦後日本の精神的荒廃は、自由と民主を合い言葉にしながら、その基盤となる個人が、一片の独立性も持ちえぬ精神的薄弱児だというところに原因する。……個人の確立が、これまでのような借り物の思想での教育で達成できるはずがない。自らの足で立ちうる両親の実践教育によって、はじめて可能なのだ。」
p3「子どもの教育についてまったく素人であるわたくしが、この本を書こうと思いたった理由は、他でもない。子どもの最大の教育者たるべき世の親たちが、自分の子どもの教育について、まったくその責任を放擲し、自信を失っている事実に、不満と失望を感じたからだ。そうした親たちによって、将来、どんな人間がこの日本の社会に氾濫するかと思うと、ぞっとする。
わたくしは、現代の、子どもの教育に根本的に欠けているのは、科学や医学や、教育的な知識や技術ではなく、子どもに対する世の親たちの毅然たる姿勢、厳格さであると信じている。厳格さこそが教育の本質であり、かつ、真実の愛情の表現であると信じている。」

p18「わが家の個性、性格を決めるものは父親である、おやじである。おやじでなくてはならぬと、わたくしは信ずる。」
p18「家の性格、そこに生まれてくる子孫の性格は父親が与えなくてはならない。その父親は現代の慣習、あるいは法律さえも越えた、自分の個性を十全に表現しきる彼自身の人生の法則を持っていなくてはならぬ。それは、その家の家訓となり、家風となり、家族の心と掟ともなる。」
p19「そして、そのおやじの哲学こそが、みずからがその代に主宰する家と家族を、先祖たちにまして、みずからの手で培い、繁栄させ、自分の先代までの祖先ができなかった大きな人間の仕事を、自分でもなし終え、子どもたちにしとげさせていく(※ママ)よすがになりうるのだ。
平凡が美徳のように錯覚されている、この画一化された男が、どこにでもあるような人生観を持ち、どこにでもあるような家庭をつくったところで、それがなにになろうか。たとえば父親が持つその哲学に、子どもたちが強く反発してもいい。そこには、その反発をスプリングボードにした子どもたちの人間的な飛躍がある。」
p19「父親は、その哲学の実践の成果において祖父をしのがねばならず、そして父親の子どもたちは、同じように、その父をしのがねばならぬ。そこにはじめて家族における人間の進歩があり、その進歩を束ねられて、人間社会の発展があり、進歩がある。
人間の繁栄進歩という巨大なピラミッドをつくる、その拠点である家庭の、さらにその無形の拠点ともなる、生きるということへの哲学を、父親は自分という、たとえ平凡に見えながらも、そのじつはかけがえのない個としての存在への強い自覚のうちに持たなくてはならない。」
※農村対学校の図式に見られたような近代の原理との対立についてはどう考えるのだろう?安易な弁証法の導入は実態を無視する。

P20-21「もともと人間の尊厳は、その人間が他に絶対にない個性を持っているがゆえにあるのであって、同じように家庭もまた、他に絶対にない家庭の個性を持つがゆえに家庭でありうる。
 その家庭の個性がいろんな条件で相殺されている現代では、それに抵抗して、家庭から平凡ならざる非凡な人間を育てていくために、親は努めて平凡ならざる家風というものを心がけてつくる必要がある。」
P21「そうした行事、独特の家風によって、まず現代に失われた人間の強い連帯感が家庭において持たれ、昨今、親であり子でありながら欠落している人間の間の強い連帯感が家庭によみがえってくる。たとえば森鴎外の小説『阿部一族』のように、掲げたひとつの家の心意気のために、一族が討死にするということも、はじめてありえてくる。
いつの時代でも人間の社会を変えていくのは、非凡な人間の個性である。そして、それを育てるものはけっきょく、平凡ならざる非凡なる家庭であるということを、親は忘れてはならない。」

P22-23「もちろんその職業を通じて、われわれはいくばくの報酬を得、生活をささえていくのだが、働くということは、決して食うためのものではなく、まして家族を食わせるためにあるものでは決してない。
だから、もし親があるとき、ある場合、その職業を自分の存在、自分の人生のために否定し、拒否し、それによって家族が飢えようとも、子どもや妻は、その親なり夫をとがめることはできない。ということを、子どもはおやじのために強く認識しなくてはならない。」
※「しかしおまえたちが新聞配達ができ、最低限自分で食べていくだけのものを働いて得ることができるようになった瞬間、パパはいまのパパとまったく違う人間になるかもしれないということを覚悟しておけ、と(※子どもに繰り返し伝えている)。」(p23)という点が重要か。

P35「戦前は、国全体の期待する人間像というものがあった。したがって親たちは、手軽にそれに合った挿話を話すことができた。しかし、そこには、父親自身の生き方に対する共感があったわけではない。今日は、期待される人間像の希薄な時代であるが、こういう時代にこそ、人生の真実を伝え、自分を十全に理解させるためにも、親は子どもに、自分が愛する歴史上の人物についてくり返し伝える努力をすべきではないか。」

P38「たしかに人間対人間として、父親と母親は平等であるが、力ということからすれば、父親は母親よりも強いものでなくてはならず、父権は母権よりも、大きいものでなくてはならぬ。わたくしは父権と母権が均衡した家庭というものを理想とは考えない。いわば命令系統の一本化ともいえるし、父親と母親の子どもに対する愛情の形の違いから、そうすべきであるともいえる。」
※何故この力関係の違いが必要なのかについては明言していない。「母親が子に示す愛情は、動物としての本能的なものであり、父親が子に示す愛情の形は、人間として、社会人としての、いわば理性的なものでなくてはならない」らしい(p38)。
P39「子にとって父親は父親でしかなく、母親を兼ねるわけにはいかず、母親は母親であって、父親を兼ねるわけにはいかない。しかし妙な設定かも知らぬが、母子に万一暴力的な危害が加えられたときに、命を賭してこれを守らなくてはならぬものは、だいいちに父親であるがゆえに、父親は母親よりも、家庭で権力を持たなくてはならない。」
※このような考え方からはシンボルとしての父・母は語られる価値がない。そして、ここで語られるべき論は責任論を語るが、その責任を負わない者も同じように扱うべきなのか?

P40「とくに親は、子どもの過失をたしなめることで、子どもが成長し、一人の社会人として生きていくための、さまざまな人間の規範を徹底して教える義務がある。そのために、それをもっとも効果的に教え込む方法として、体罰を加えることが、好ましい。」
※ここでいう「人間の規範」とは?禁酒(p98)、物損(p126)といった例外が与えられている。それらは創造性を理由に例外として認められている。逆に、「歯を見せて笑う男」(p76)に石原は叱っているらしい。これは人間の規範と言い難い。
P41「わたくしは非常に不本意にその体罰を受けたが、しかし同時に、大きな手がほっぺたに炸裂したときのあの畏怖感のなかに父親の愛情を感じたのを、いまだに覚えている。
子どもは、幼ければ幼いほどなぐらなくてはならぬ。なぐることで親は、はじめて親の意思を直裁に、なんの飾りもなく子どもに伝えることができる。その意思こそが愛情にほかならない。」
※『親の意思(暴力による服従要求)を伝えることができる。』ここのタイトルは「子どもをなぐることを恐れるな」。「少なくとも親から子どもに対するメッセージをもっとも効果的に伝える方法は、肉体対肉体の伝達でしかない。」(p40)

p42「どうも日本の親は、子どもの過失を見つけても、叱るのに場所を選ぶ。欧米の親は、子どもの過失を見つけた瞬間、たとえそれが大統領の宴席であろうと、子どもを叱るだろうし、大統領といえども、子を叱る親を見て、とがめはしない。」
p44「自分の子どもは当然だが、たとえ他人の子どもでも、親がその場所にいなかったり、あるいはたとえ親がい合わせても、その親が子どもの誤りを叱らなかった場合には、子どもを強く叱るべきである。それが子どものためでもある。子どもは見知らぬおとなに叱られることで、世間の広さを知り、世間の厳しさを悟れるはずだ。」

p50「ある心理学者は、日本と西欧の親子の関係をくらべて、日本は減点法であり、西欧は加点法であるといっている。つまり日本の場合には親が子に百パーセントの可能性を信じてかかり、その夢がつぎつぎ破れていくことで、親子関係が百パーセントから減点されていく。これに対し西欧では、西欧の近代主義のつくりあげた、よい意味でのエゴイズムから、また虚飾を捨てた一対一の親子の関係、つまり0点から出発し、ことあるごとにそれにプラスを重ねていく。結果、それが五〇点に満たなくとも、それだけのプラスが親子の関係にあったということになる。結果、それが五〇点に満たなくとも、それだけのプラスが親子の関係にあったということになる。」
※これは基本的に信頼関係に関する議論と同じなのではないのか。信頼関係の築かれ方に差はあるのか。

P56「人間が信仰を持ったほうが、その人生において、あからさまにいって、持たぬよりもはるかに得であるということは、有名なパスカルの信仰を賭けとして説いた言葉や、ジェームスの哲学を引かなくとも、自明なことだとわたしは思うが、現在の日本のように、信仰が非科学の象徴であるごとき、おかしな科学信仰が普遍してしまった社会では、親はよほどの見識がないと、子どもにもわかりやすく、神様や仏様について話すことができない。」
※タイトルは「親は、子どもに神について語れ」。
P57「目に見えぬ大きな力の支配を子どもに教えることで、子どもは、自分の将来に対して、いままで以上のあこがれ、おそれ、慎みを持つことができる。」
P57「またたとえば、科学の粋を結集してなし終えた人間初の月旅行からの帰還者が、あの航空母艦上の隔離室の中で、迎えに出た大統領とともに、母艦の神父の導きで神に祈ったあのシーンの厳粛さを子どもに説きあかすことでも、信仰を持たすことができるはずだ。
目に見えぬ力の支配について、さまざまに子どもへ説くことで、子どもは真の創造力を培われるはずである。」
※これが説得材料になると思っているようである。

P58「もしどこかで不具者を指さし、子どもがそれを侮るなり、笑うなりしたら、わたくしもまた、子どもをなぐることにしている。
それは、人間の肉体というものが、いかにもろいものであるかということを教えることにもなる。肉体的な、つまり可視的なもので人間の価値を測ろうとする態度の抑制でもある。」
※タイトルは「不具者を指さしたら、なぐれ」。
P61「欧米の家庭では、経済的な問題は子どものまえで隠すことなく話され、その結果、貧乏人の子どもが金持ちの子どもに劣等感をもち、あるいはまた金持ちの子どもが貧乏人の子どもを理由もなく見くだすということは日本より少ない。……
日本人の貧富に対するものの考え方は、宿命的なものが多いが、それはまちがいであって、子どものころから家庭の経済について打ち明けられていれば、収入というものがどれだけの努力に見合うものであるかという認識を持てるはずである。そうした認識こそが、子どもが長じて、人生に対する積極的な姿勢となってくるのではないだろうか。」

p78「ヨットレースは、一種の極限状況であるがゆえに、人生の縮図でもあって、船の上のことは、陸の上の社会でも、あてはまる。」
p79「男の言葉というものは、すべてその裏に、その男の能力、責任において行なわれる行為というものを裏打ちされていなくてはならない。自分にかかわりない、あるいは自分の能力をこえたことがらについて万言を費やしても、それは意見にも至らぬ、ただのむなしい言葉でしかない。
人間がその人格、うつわを測られるのは、しょせん、その男が、なにを、どれだけできるかということでしかないということを、徹底して子どもに教えなくてはならない。」
※べき論、あくまでべき論。
P81「それは、その戦争をへてここまで成長してきた社会に住んでいる社会人として、同時に、多くの争いによって成長していく不思議な業をもった人間の一人としての責務でもある。」
※無条件の肯定にしか読めない。

P82「まえの項でも記したが、人間の進歩飛躍は、戦いの中にある。それが単に暴力であるということだけで、否定してしまっては、その戦いの中ではじめてありうる人間性の樹立というものまでが失われてしまう。
たとえた話、当節の話し合いかなにかは知らぬが、いきなり町で通りすがりに顔にツバをかけられ、相手をなぐるかわりに言葉でとがめて、相手のハンカチで顔をぬぐってもらっても気が晴れるわけではない。今日のように、平和だとか、話し合いだとかの虚名に隠れて、人間個人の尊厳が平気で傷つけられる時代には、個人の尊厳や自由は、あくまでも個人の肉体的能力の発露としての暴力をもって守らなくてはならぬことが、往々ある。」
※戦争に対する美談でしかなく、具体的にどんな良い影響を与えたのか考察しようとしないことが何より問題。また、ツバをかける行為は暴行罪にあたるのであり、暴力の行使に代わりに警察を経由して罰を求めるべきでは。タイトルは「暴力の尊厳を教えよ」。
P83「人間にとって、道徳も言葉も、精神も理念も、すべて飾りでしかない。なにかのはずみで、それがすべてはぎ落とされたときに、われわれは、自分を最後に守るものは、肉体でしかなく、みずからの肉体的存在を主張するすべは個人の暴力であり、その暴力には、他の暴力と違った、かけがえのない尊厳があるということを子どもに教えなくてはならぬ。相手になぐられて、なぐり返すことのできるような子どもが、その人生の戦いのなかでできることは知れている。」
※このような限界状態においては、人間の尊厳の欠片も存在していないことを確認せねばならない。自己矛盾である。また、「強靭な肉体に鍛えよ」(p213-、第8章)はこの文脈を含むと読むほかない。

P88「人生はしょせん戦いである。そして、その戦いはどんなに幼くても、子どもの時代から始まっている。ならば、子どもといえども、その戦いに勝たなくてはならぬ。
子どもの世界に、いじめっ子といじめられっ子があるならば、わが子を遠い将来、人生に勝ちをおさめる一人前以上の人間に仕立てるためには、まずいじめっ子になれと教えるべきである。」
※「男は世に出た戦場で、絶対に勝たなくてはならぬ。そのための有形無形の準備を、子どものときから築いていくことが、どうしてまちがいであろうか。」(p89)
P94「こうして与える孤独は、とくに自分一人きりで留守をしようとするときには、さまざまな想像力を育て、留守番の多い子どもほど、本を読む気を起こす。できうれば、テレビのある家庭では、子どもに留守番をさせるときには、アンテナの配線を切っておくことが望ましい。」

P96「西欧の家庭では、日本の家庭のように意味もなく八つになったら月いくら、十になったら月いくら、中学にはいったら月いくら、というような小づかいの与え方はしない。たとえどんなに裕福な家庭でも、とくに学校が休みのときなどは、子どもに、子どもの能力でできる労働を与えて、その報酬として小づかいを与えている。……そうすることで、子どもたちは人生というものが労働なくしては運ばない、いかなる収入も労働の報酬としてのみありうるということを悟り、金というものの意味を、理屈ではなしに、体験的に感知することができる。」
P98「子どもに対して酒を、毒薬のごとく遠ざけるのも愚かな話で、水の悪いフランスでは、水のかわりに薄めたブドウ酒を子どもに飲ませるが、たとえ薄めていても、アルコールはアルコールであって、子どものからだにアルコールが働くことにまちがいない。
酒に酔うことが、表現不可能ななにものかをあたえるということを子どもが知っておくのは、悪いことではない。」
※法に無頓着!であれば、そう法を改めないのは何故か?

P101「長じてからは、短所を短所として厳しく指摘することが、それを補う努力を促すことにもなるが、あまり幼いころには、それが逆に、子どもに劣等感をつくり、それ以上の恐怖を与えたり、ノイローゼの原因になったりしかねない。おとなは、その子どもの欠陥が、不具でさえなければ、強くは指摘しなくても、からかったり、笑ったりすることで子どもを促そうとするが、じつは、それもその子にとっては大きな打撃になることが多々ある。
日本の親が、無神経に、子どもの弱点を指摘してしまうのは、その弱点が、同時に自分の弱点でもある場合が多いからだ。……人生に対する積極的な姿勢は、自分の欠点、弱点への認識からは決して生まれない。他の自分の長所に対する自負から以外にはありえないのだ。」

p103「なにもサッカーだけではなく、できるだけ多くの人間とチームワークを組んで行なう激しい競技に、少なくとも男の子は、その少年期、青年期のある部分を費やすように、親は半ば強制してでもしむける必要がある。
それは他の子どもに先んじてピアノを習わせたり、外国語を習わせたりする以上に、後になって、子どものための人生の贈り物になるに違いない。」
※「一人のクルーが、自分の責任をわずかでも怠ることで、みずからの命だけでなく、船全体、乗組員全体の命すらが失われる。そこにはじめてほんとうの責任があり、その責任の遂行のために、本物の勇気が要求され、その勇気を貫徹した人間への新しい友情と信頼が生まれる。」(p103)と「人間は成長し、学校を出、社会人になればなるほど世才ができてきて、人間の本質的な美点を発揮するいろいろな極限状況を、事前になんとなく中和し、すり変え、ごまかしてしまう。」(p102)の対比から主張されているようである。

p108「父親はなんといっても、家庭の核である。しかし、その立場上、子どもに対して、母親よりは遠い。しかし、望ましい家庭をつくりあげていくためには、子どもは母よりも遠い父と、交流することが絶対に必要である。子どもは、だだをこねれば、あいまいに言い分が通りがちな母親と違って、父親に対しては、自分の感情をはっきりと表現しなければ、自分を理解してもらえないということを知るに違いない。」
※タイトルは「父に対するウラミをもたせろ」。
P109「母は単に母でしかないが、父親はつねに家庭にあっても、家庭の外における公人としての肖像をダブらせ、それが子どもたちとの間に、いろいろなわだかまりをつくりあげたが、そのわだかまりを、みずからこわして越えるべきものは、子どものほうであって、またそれを、決して親は、子どもに封じてはならない。」

P114「子どもの不良性のなかには、親が代表する画一的、世俗的な道徳性、通俗性に対する反逆が織り込まれてい、あるいは、親には見られない強い個性の予見がある。」
※信長と水戸黄門を挙げているが、いわゆるガキ大将言説にも通ずるものがある。
P114-115「子どもの不良性は、単に、それが反道徳ということで終わることもあるが、しかし同時に道徳をこえた既成の秩序、既成の価値への反逆をはぐくみ、従来の文明文化の要素をくつがえして変える大きな仕事を、将来子どもがするための素地にもなる。
人間の文明は、いつの時代にもそうした強い個性によってよみがえらせてきたことを忘れてはならない。」
※失敗についてはあまり考えていないこと、これは大きなポイントである。
P115「子どもの不良性を、親がけしかけて育てる必要はないが、しかし、単にそれを既成の道徳を踏まえて恐れ、根元からその芽をつみ取ることは、子どもだけではなく、人間の社会における大きな可能性を、愚かに殺すことでしかない。」

P126「子どもが新しいオモチャをすぐこわすのは、創造本能の発露でもある。もちろん衝動的な破壊本能は、子どもの特性のひとつではあるが、しかし、その破壊本能のかげに、内側に隠されたものをさぐり、その先になにかを求める創造力が働いていることを忘れてはならない。……
まえにも記したが、人間の文明、歴史というものが、つねによみがえり、進歩していくのは、人間の既成の秩序に対する反逆と破壊本能を踏まえた創造性によるにほかならない。親はしょせん、子どもたち以前の世代の人間であり、既成の秩序のなかに安息を感じる人種でしかない。そして子どもたちはそれをこわし、親をしのぐことで、人間全体を進歩させていく。」
p135「親孝行というのは、だれしもがおとなになってから自然にしたくなる徳であって、それを早いうちから期待することは、かえって子どもの特性をスポイルしてしまう恐れがある。」
p136「つまりどんな絵にかぎらず、どんなけいこごとでも、われわれは子どもに決して、いかなる規範も与えてはならない。写実とかリアリズムにのっかって、あぐらをかいていた近代芸術が、現代に力を失ったことが教えるものは、創造力の刺激を失った規範は、すでに人間の規範たりえないということである。」

p142「たとえば、戦後、悪徳とまで考えられなくとも、ある種の愚挙とさえ考えられがちの忠義とか孝行というものが、人間にとっては、時代をいくらへても変わることのない美徳であることを、だれもが知っていながら、どうしてそれをおもてにあらわれてこないのか。」
※そもそも普遍的な美徳と考えられていないからでは。
P143「確かに、社会的な通念は、時代によって変わってしまう。しかし、通念は変わっても、物事のほんとうの価値は変わりはしないということを、具体的に子どもに教える必要がある。
親は、子どもが将来あさはかな流行に振り回されぬ人間、そしてまた、社会の機構によって自分を変節させざるをえない弱い人間に育てぬために、子どものころ、現代、時代おくれとなり、あるいはこっけいと笑われはしても、過去の時代に、それが明らかに美徳であったひとつの習慣を、子どものまえで、あえて見せる必要があるのではないか。
たとえば祝祭日に一家そろっての国旗の掲揚の儀式でもいい。あるいは、坂道では、子どもたちのおじいちゃん、おばあちゃんを親みずから背中に背負うという習慣でもいい。あるいは食事のまえに、目に見えざるものに、感謝の祈りを捧げる習慣でもいい。
要するに子どもたちの目から見れば、当世あまりカッコのよくない習慣を、親が自分の価値観で、あえて行なうという勇気の誇示がいまほど必要なときはない。」
※タイトルは「時代を越えて変わらぬ価値のあることを教えよ」であるが、実際読むと、価値の強要まで行う論調になっていない。

p145「たとえば、子どもの学校の成績の競争、あるいは体育における競争もまた、小さな子どもにとってみれば、自分とクラスメートとの間のひとつの戦争である。そうした競争心があり、敵意を感じればこそ、子どもはもちろん見栄も伴うが、自分の自尊心を守り抜くために、子どもなりに努力をし、知恵のうえでも、体力のうえでも向上があるのである。……
しかし、第二次大戦の体験で、日本人のなかには、戦争というものならば、どのような戦争でも反対であり、たとえ民族的、国家的な屈辱をあえて受けようと、戦いはごめんだというものの考え方があるが、そうしたものの考え方は、しょせん国家、社会、民族を衰えさせ、同時に人間個人をも萎縮させるものでしかないとわたくしは思う。」

p149「偉人を、自我を貫き通し、たとえ社会から疎外されても、孤高な人生を送り通し、彼にしかできぬ仕事を自分の満足で行なった人間とするならば、成功者は、並み以上の個性がありながら、妥協すべきところは妥協し、自我を祈って社会的な成功をかちえた人間ということになる。
望ましいことは、自分の自我、個性というものを折ることなく、かつ社会的に大きな仕事をすることであって、しかし、そういった至福な偉人と成功者を兼ね合わせた人間は、まれでしかない。けっきょくのところ、われわれは、自分の個性、自我に忠実に生きるか、あるいは妥協すること、体よくいえば、他との協調によって、自分の個性を割愛しながら仕事をなすかの、いずれかを選ばなくてはならない。
アンドレジードの『地の糧』のなかに、人間の情熱について記した文章で、美しい一句がある。「ナタナエルよ、きみに情熱を教えよう。わたくしが死ぬとき、満足しきってか、あるいは絶望しきって死にたいものだ。」と。これは要するに、自分の自我を貫き通すことで、偉人と成功者との合体として一生を送りうるか、あるいはなんらの成功を得ることなく、社会的な人間として絶望して死ぬか、いずれにしても、それこそが人間だということだろう。
昨今の子どもたちは、まだ年端もゆかぬうちに、「将来の希望は。」と聞かれ、「平凡なサラリーマンだ。」ということを平気で答えるが、こうした平凡さを美徳として教える家庭の教育は、人間的に明らかにまちがいである。」
※ここからも失敗に関する議論をほとんどする気がないことがよくわかる。

P154「わたくしは、自分の子どもであろうと、だれであろうと、おとなの会話に子どもがはいってくることが、端的に不愉快だ。それは能力、資格の問題であって、おとなと子どもが本気で野球の試合ができないようなものだ。」
※ここでいう子どもの定義とは??
P155「そうしたなれ合いの会話は、子どもに足場のない背伸びをさせるだけであって、ただ有害でしかない。おとなは子どもが口をはさんだときに、おとなの優越感から、当然子どもをほめざるをえない。それはとくに日本的な習慣だが、そうすることで、子どもを、客といっしょになってスポイルすることになるのだ。」

P160-161「いずれにしても、わたくしは、親子がそろいの服を着ているのをながめると、親が自分の選択で子どもを抑圧しているような感じがして、子どもが、いかにも親のペットという感じを免れない。
つまり、そのかぎりで子どもは親の所有物でしかない。これが子どもにとって不本意であることは明らかで、そうした習慣が続けば続くほど、わたくしは、子どもはむしろ下意識に親に対する反発を胸にかさましていくに違いないと思う。
これがなにか、その家に伝わるいわれのある服装ならば、またべつである。」
※なぜ?結局これは家の価値には従えにならないのか?

P162「最近の没個性、要するに無趣味な若者たちには、とうとうヒッピー、フーテンなどのサルまねを飛び越えて、どこぞの国ともわからぬ制服を束になって着込むことに喜びを感じている手合いもいるようだ。制服の味は、ただ一人、その制服をあてがい、多くの人間に着せしめている人間だけが味わう至福さにある。だから独裁者は制服を好む。
※ここに没個性性見出すなども、一見アメリカの反体制論者と全く同じ議論である。
P163「確かに学校で決められた制服を、集団教育の場である学校で着せることは、それなりの意味があるが、しかし、その制服を家に帰り、学校以外のところへ外出するときにまで着せる親は、いったいどういうつもりなのだろう。
教育には、集団教育と個人教育があるのであって、後者を家庭が受け持つかぎり、家庭の教育は、学校で行なわれる教育以外のすべてを行なわなくてはいけない。そのためには、まず与えられる教育の本質の違いを子どもに自覚させるためにも、学校の制服を学校外で着せないことだ。」
※反体制論者との違いはここ。そしてこれをどう評価するかが非常に重要だろう。ポイントの一つは石原のもつ「価値」と「個人主義」が対立する際の両者の捉え方にあるように思える。

P174「あるとき、わたくしが家へ帰ってくると、週一回子どもの勉強を見てくれている学校の先生が帰られるところだった。」
※補習教育の一環?
P175「恐ろしい話だが、いずれにしても言葉づかいは、まず家庭で親が教え、学校で先生が教えるものではないか。昨今えらそうにとりすましている親が多いが、子どもがどんな言葉づかいを他人にしているかを聞けば、親の程度がすぐに知れる。」
※ここでは教師が教えてはならない、という言説になっていない。それは本書全体に言えると言っても良よい。

P176-177「よく日本の親は、子どものいたずらを必要以上に陳謝することを、人間関係のなかでの美徳な方法と心得ているフシがあるが、おかしな話である。たとえば、遊びのなかで、ちょっとしたケガをさせても、子どもは子どもなりの責任を感じる。子どもが相手の子や、その親にあやまったのに、なお親が出ていき、相手の親に大げさにあやまることほど、こっけいなことはない。子どもにとって、いたずらがすぎたり、なにかのはずみで相手にケガさせることは、おとなが盗みやけんかで人をあやめたりする以上に、大きな心理的な衝撃があるのであって、それを彼なりに耐え、それを越えて、たどたどしくも、自分の言葉であやまり、責任をとるところに、子どもの社会人としての情操、精神の芽ばえがあり、成長がある。
実際のところ、ケガをさせられた相手の親にあやまられたところで、あやまられたほうの親だって、どうするものでもなかろう。それで両家の間が悪くなるとすれば、まことに他愛のない交際としか言いようがなく、そんなにもろい人間関係なら、最初から持たぬに越したことはない。
もちろん、子どもに対する親の責任というものは十分にありうる。しかしそれは、子どもが子どものけんか、いたずらで犯した過失に対してではなく、もっとそれが社会的、人間的に意味があり、親自身の人間の尊厳をそこなうということにおいて、はじめて子と親の責任が一体になるはずである。」
※これも過剰な子どもの美化である可能性はないか?

P178「子ども自身の時間の管理を子どもにまかせることと、子どもが彼以外の他人との交渉でもつ時間を厳守させることは、おのずと区別し、徹底させなくてはならない。他人との時間を守るということは、他人との協調のうえに成り立つ社会生活を円滑にすごしていくための、基本的な条件のひとつである。その条件を心得さすために、他の約束についても、そうした習慣を培っていくことが絶対に必要だ。」
P180「欧米の社会では、子どもが不具でもないかぎり、でんしゃのなかで、子どもがすわり、おとなが立っているなどという光景はほとんどない。日本では逆で、親が争って座席を奪い合い、子どもをすわらせて、自分が立ったりする。ここらにも日本の社会が子どもを不必要に甘やかしていることが、わかる。……
子どものおとなに対する敬意という以前に、社会的な立場の違いというものを、電車の中では子どもは立つものだというような規律を厳格に与えることで、悟らせる必要がある。」

p182「きょうだいというものは、生まれた順序が違うだけで、本質的には対等なものであるが、同時に、やはり順序を追って生まれたということに、否むべからざる意味がある。どんな家庭でも、長男は長男の世間的な性格を負い、次男は次男の世間的な性格を負わざるをえないのであって、きょうだいが本質的に対等であるがゆえに、いっそう年齢の差というものが強い影響を与えることになる。
よく親は、自分の考えを徹底させる場合に、上のきょうだいを立て、あるいは上のきょうだいを戒めることで、ほかのきょうだいたちに、それを徹底さすことが多い。しかし、きょうだいもまた子どもなりの競争心をもっているのであって、あまりそれを徹底しすぎると、子ども心に不公平の処置と映るおそれもある。」
※タイトルは「きょうだいの順序をはっきりさせろ」。本書で一番境界的なケースを扱った内容かもしれない。親への服従は強要していないが、兄弟の順位付け、つまり主従は強要しているからである。

p188「現今、教育ママなるものはそこらじゅうにいるが、実際には、すべて学校まかせで、学校で教える教育の内容は問わず、ただ、自分の子がどれだけの成績をとっているかということだけの関心しかない。……
しつけもまた同じであって、本来は、家庭で行うべきしつけまでも、学校の先生にまかせきりにしてしまっている。学校の先生にしてみれば迷惑な話だ。学校の先生は何十人かの子どもたちを十把ひとからげに預かっているのであって、それなりの配慮はしても、そうそう子どもたちの個性に応じた教育をするわけにはいかない。
人間の個性をそれほど重視しない社会主義社会ならばべつだが、人間が個性、能力に応じて仕事をなしうる自由を認めた自由主義の社会にあっては、子どもが運命的、宿命的に負うた能力を、減らすものばすもえ、しょせん家庭の教育であり、学校の教育は、それを補うものでしかない。」
p189「子どもの教育には、いろいろな方法がある。そして、その方法のなかで、肉親しかできぬ方法とはなにか。それは子どもをなぐることだ。昨今では、学校の先生がどんな理由があろうと、子どもをなぐると必ず物議をかもし、先生の方が萎縮して、あえてそれを行なわない。あるいはまた、子どもを閉じ込めること、あるいは子どもをおどすことも、親でしかできない。
親はそういう意味で、子どものしつけ、教育に関しての決定的な切札を持っているもっとも重要な教師であるのに、その切札を放擲し、いったい、だれになのをまかそうというのか。」

p191「今日の多くの教師は、自分が単なるティーチングマシンでありながら、それを教育などという高尚な作業に携わっていることと錯覚し、うぬぼれている。だからわたくしは、東大の紛争のなかで、学生たちが、つるし上げた教授を「ブタ」と言い、「きさまらブタと、オレたちの違いは、きさまらが役に立たぬ知識をたくさん知っていて、オレたちがそんなものを持たぬだけではないか。」とうそぶいたことに、快哉の拍手を送るものである。
今日の日本の悪しき教育制度に抑圧された少年の自我と魂が、その個性の光彩を放って目覚める、その最初の絶対条件は、子どもたちが、できれば親に教えられずに、自分を教えている教師が、人間としてほんとうに一流か、あるいは二流、三流でしかないか、ということを見きわめてかかることにほかならない。
個人的能力と人格を確かめもしないで、相手が先生であるというだけで、親が、やたらに子どもに、先生を敬わせるのは、まちがいである。」
※そっくりそのまま石原の人間論にも返してやりたい言葉。
☆p192「そのとき親が、子どもが教育の内容について異なった意見を述べ、子どもが板ばさみになり、学校の先生と親の意見と、どちらをとるということで、教育の幅が出、子どもに物事の相対的な見方が教えられ、思考に関しての柔軟性というものが与えられる。」
※と言う割にはタイトルは「先生と親の意見がくいちがったときは、親に従わせよ」である。「そしてそのとき(※教師と親に意見の食い違いがあるとき)に、わたくしは、絶対に親は親の意見を主張し、学校で先生がなんと言おうと、自分の意見に子どもを傾倒させるように努力しなくてはならぬ。」(p193)

p197「よく、休日でも平日のように、子どもを起こすことで、子どもに規律の生活を与えているつもりの親がいるが、時間的秩序を徹底させるためには、むしろ、おとなと同じようにひとつの時間的なショック・アブソーバーとして、週末や休日の就寝時間、起床時間を、子どもの自由に与えることが望ましい。」
※石原の論理なら、ここで親が殴りかかってもよいものだが…「子どもはむしろおとな以上に、本能的に時間にそって自分を調節する能力を持っている。」(p196)と見ているのが焦点か。
P222「その家の伝統として、ひとつのスポーツへの熱中が続いているというのは、じつにうらやましい。いままでそうした伝統がなければ、自分の代からでも、そうした習慣、伝統をつくることは、子どもの人生のために、はなはだ意義があると思う。
 といって、子どもになにも、その家の伝統的なスポーツを押しつけることではない。だいたい日本人のスポーツ観は、偏狭で、バカのひとつ覚えみたいに、ひとつのスポーツに集中することが、美徳のように思われている。これはスポーツ力学からいっても、まちがったことであって、いくるかのスポーツを並行して行なうことのほうが、それぞれのスポーツの向上に役立つ。
 しかし、それでもなお、その家の伝統のスポーツを手がけることで、スポーツで本能的に養われるものの考え方、感じ方、行動の姿勢というものを、家族に伝えることができる。」
P228「子どもたちには、親の立ち入ることのできない子どもたちの道理があり、黙約があるのであって、それを片方が破ることで起こるけんかには、親が立ち入る筋はない。」