新堀通也「「見て見ぬふり」の研究」(1987=1996) その2

<読書ノート>
p鄱-鄴「(※教育風土シリーズ発刊の目的の)第二は日本文化論など日本研究への寄与である。今日、日本の国際的地位の高まりから、諸外国では日本への関心が拡まり日本研究が盛んになっているし、国内では日本社会論、日本文化論、日本人論が流行している。
そのさい当然のことながら、教育は一つの有力な資料、材料となり得る。日本の教育には上に述べたような日本全体の風土が影響しているが、同時に日本の教育には独自の風土がある。教育は一方では社会によって大きく条件付けられている。教育、中でも学校教育はタテマエ支配の傾向が強いので、教育を取り囲み、教育をその一部とする一般社会のタテマエ的風土が教育に最も典型的に表れているはずである。その意味で教育を通して日本社会の風土を明らかにすることができる。例えば「日本的」平等主義の風土は、教育の中に集約的に表れているはずだ。
半面、教育は社会から遊離、遅滞しがちであり、わるくいえば閉鎖的、よくいえば自律的である。教師は「世間知らず」であり、学校での常識は世間では非常識とされることも多い。教育には教育固有の風土があるにちがいない。
こうしてわれわれは教育を手がかりにして「日本的」風土に加えて、「日本的」教育とは何かを明らかにしたいと考えている。諸外国との差異を強調するより、類似性、共通性に着目することが、日本研究で盛んになりつつあるが、われわれはなお「日本的」なるもの、現代日本の教育の特徴を重点的に取り上げて指摘したいと思っている。中でも往々にして見逃されている現象の中にかくされた「日本的」なるものに着目したい。」
※本書は教育風土シリーズと銘打ったが、続いた著書はなかった。

P3「日本全体の社会的風土だとは思うが、特に教育の場で「見て見ぬふり」の傾向が著しい。」
P4「「見れどもいわず」の心理的原因は、見れどもいわざる側に勇気や責任感が欠如していること、自己保身や利己主義が働いていることであり、制度的原因はいったところで何の効果もないこと、いわれる側に制度的な身分保障が与えられていることである。
「見て見ぬふり」の中で育つ子どもは善悪適否の判断がつかなくなる。その結果、「指示待ち族」といわれる青年が出来上がる。「見て見ぬふり」の理論的根拠の一つは、おとなが子どもに口うるさく干渉し指示していては、子供の自主性や判断力が育たないから、おとなはできるだけ子どもの自由を尊重すべきだという点にあるが、奇妙なことに「見て見ぬふり」を実行した結果、かえっておとなの指示を仰がなくては何もできない人間が生まれてしまった。」
※制度的原因は「何の効果もない」などと言ってしまってよいものなのか??
P6「子どもだけでなく、教師にも一斉主義が確立している。「親方日の丸」のもとで、教師はいったん採用されると、その能力や努力とは関係なく年をとるとともにいっせいに昇級していく。」
P7「世の中には数多くの教育的迷信がある。例えば「無限の可能性」とは教師が好んで使うコトバだが、有限な人間に無限の可能性はあり得ない。」

P8「学校でどんな教育が行われているかは、親といえどもわが子の報告から推測するだけで、その他に年数回の授業参観や教師との懇談会があるにすぎない。わが子を「人質」にとられた親はどうしても教師に遠慮して「見れどもいわず」という気持ちになるが、そもそもその前に学校側、教師側が「見れども見せず」で自らの実態や欠陥はできるだけかくそうとするのだ。中でも職員室、職員会議でどんな光景がくり拡げられているかは誰も知らない。」
※これは大学も「象牙の塔」として批判されている(p8)。
P13「かつては親が子どもに命令し、子どもが親を恐れたが、今や子どもが親に命令し、親が子どもを恐れる。「民主的」で「理解ある」おとなほど「見て見ぬふり」をする傾向がある。子どもの「自我」や「自主性」を尊重し、子どもの「自由」や「権利」を擁護し、子どもを「欲求不満」に陥れないためという口実がそこに用意されているが、半面そこにはおとなの保身、エゴが働いている。
おとながいいたいこと、いうべきことは、子どもにとっては苦言、忠言、直言に他ならない。おとな自身にとってもそうだが、苦言より甘言、忠言より阿諛、直言より弁護の方が耳に快く響くのは日常の常である。そこで苦言、忠言、直言を呈するには、相手から嫌われた煙たがれることを覚悟しなくてはならぬ。「勇気ある発言」というが、苦言、忠言、直言には勇気が要る。
こうして気の弱いおとな、嫌われまいとするおとな、わが身大事なおとなは、子どもに「ものいわぬ」ようになり、ものをいう場合にも子どもの気に入るようなことをいっておく。もの分かりのよい、子どもの「味方」を装うおとなが増える。子どもをたしなめたり、叱ったりすれば、「分からず屋」「変わり者」「うるさ型」「時代おくれ」というう評判を得、場合によっては子どもから復讐を受けねばならないので、器用で賢明なおとなはそんな愚かしいことを引き受けない。また敢えてそれをすれば、飽食の時代、ゆたかな社会、甘やかしの風潮の中で育ち、カッとなって何を仕出すか分からない。」
※もちろんここには過去の状況そのものがよかったかどうかの検証はなく、にもかかわらず現在を批判している。
P14「かつて教師は信頼と尊敬のまとであった。教師に対してわが子を「人質」にとられた親が告訴したり、学校に抗議を申し込んだりするなど、ほとんど考えられないことであった。かつて教師は地域における最高の学歴をもった知識人であり、学校は唯一の教育機関であった。教師はよかれあしかれ「師表」として言動をつつしんだ。今は親も含めて住民の中に教師と同等あるいは教師以上の高学歴者があるし、学習塾、教育放送、カルチャーセンターなど、学校以外に数多くの有能な教育機関が出現している。親も世間もマスコミも、各種各様、相互に対立する要求や期待を教師に投げかけるので、そのすべてを満足させるわけにはいかない。いじめその他、多くの病理現象が明らかになるにつれ、それを適切に解決できない教師への不満が高まる。今や教師に対しては「外」から遠慮会釈なく非難、攻撃、批判が浴びせられるようになった。」
※ただこの尊敬の議論と戦後までの天皇崇拝体制の話が同じ論理である可能性もある。

P40「学校はその教育的な愛情と信念から、どんな子どもにも「無限の可能性」があり、どんな生徒も切り捨ててはならないと考える。学校や教師には教育と子どもに対するオプティミズムが存在している。また制度的にも義務化し、準義務化した学校ではどんな子どもも受け入れなくてはならず、どんな子どもも退学させたり落第させたりすることはまず不可能である。「きびしい」世の中に対して、学校は「温室」であり、それはとりも直さず学校が生徒に対する統制力を欠くことを意味する。」
P41-42「その一方、過保護、飽食、ゆたかさの中で育ったので耐性に欠け、ちょっとしたことにもすぐにカッとなったり、自殺したりする。」
P43-44「ところが学校はこうした統制力を失うようになった。一つには先に述べた通り学校が義務化、準義務化するにつれて、落第、不合格、退学などというムチを失ったためである。そうした段階の学校、中でも公立の学校ではどんな子どもも拒否することは許されない。校区内の子ども全員を一定期間、受け入れなくてはならない。どんな子どもも落第させたりすることはできない。子どもの方からいえば、どんな成績をとったところで一年経てば全員が進級し、六年経てば全員が進学できる。いわゆるいっせい進級、全員入学の制度がそれである。
こうして制度的に学校から報賞体系が失われ、信賞必罰の実行が困難になっただけではない。もっとそれを困難にしたのは理念的、世論的な背景である。人権尊重、学習権の保障、教育機会の均等などの原理からいっても、教育の論理からいっても、また入試地獄、偏差値体制、輪切り、知育偏重、学歴偏重などの現実的弊害からいっても、「教育」の場である学校がテストや成績で子どもをしめつけ、全人的発達や仲間との協同や連帯を阻害することは許さるべきではない。こうした理念や世論は教師も強く支持するところだから、できる限り学校から賞罰、成績、序列、試験などを追放し、すべての子どもを平等に扱い、のびのびとさせなくてはならないとされる。」
※このような指摘は日本の枠組みでしか教育を見ていないとしか言えないのではないか。捉えられるべきは、そのような権利問題と罰則の対峙においていかなる先進諸外国で差異がありえるか、ではないのか?
P45-46「ところがここでも理論的にも理念的にも世論的にも規則による統制は学校にあってはならないものとされ、ますます不評になっている。細々とした規則を作らなくてはならなくなったというのは、まさに学校が生徒を管理しにくくなったためなのだが、それは学校が「管理主義」「シメツケ」に走っていると生徒からも世間からも総攻撃を受けつつある。校則は生徒の人権無視だとその総点検が弁護士会や教員組合によって行われるし、制服への反対キャンペーンが大新聞の投書欄に繰り拡げられる。校則違反が英雄的行為であるかの如く扱われる。」
※この議論は二重の系譜を経ているように思う。一つは日教組的な管理主義批判として現れたものであり、もう一つはそれとは別のどこから出たであろう校則批判の系譜である。もっともこのような解釈を世間がしていたかどうかから疑問である。新堀の捉える「社会」なり「世間」とは何なのか。

P54「おとな不信の教えを説くおとな自らが認めているように、おとなは貪欲、虚栄、悪知恵、権力欲、物欲、陰謀、残酷、裏切り、嫉妬などを数限りない悪徳をもっている。聖人君子ぶった人間、「えらい」人間ほど、ひと皮むけば醜悪な偽善者だし、世の中には天人ともに許し難く度し難い悪人もいる。子どもにえらそうに説教する親や教師自身、自らを省みて一点のやましさもないと断言できないにちがいない。このおとなは放っておけば何を仕出かすか分からない。そのため法律や世論がこの「性悪」なおとなが悪に走らないよう、いろいろ歯止めを設けている。
ところが同じ人間でありながら、子どもだけは例外とされる。すべての子どもは本来、無邪気で天使のような存在だ。生まれたばかりの赤ん坊のあの愛くるしい姿を見よ。天真爛漫、純真無垢のあどけない幼児を見よ。こうした子どもを「性悪」だなどと考えることは、それこそ子どもへの冒涜だ。世の中には「わるい」おとなはいても「わるい」子は一人もいない。
子ども「性善説」には特に親や教師の信念である。」
p55-56「逆に「性善」であった子どもが「性悪」なおとなになったのは、おとなの行った教育が誤っていたためである(※と子ども「性善説」は考える)。こうして子ども「性善説」に立つと、子どもの非や悪はすべて、おとなに起因するので、おとなは子どもを責めるべきではなく、子どもに謝らなくてはならない。子どもの「落ちこぼれ」は教師の「落ちこぼし」のためであり、子どもが万引きをするなら、それは万引きがしやすいように商品を並べてあるためである。こうして許容社会はさらに進んで弁護社会、謝罪社会となる。子どもは何をしても何をしなくても許されるどころか、何か仕出かしてもおとなが弁護し謝罪し懺悔してくれる。これでは子どもに自己反省も努力も責任感も育つはずがない。
子ども「性善説」にはいくつかの事実誤認と問題がある。その一つは一見、無邪気と思われる幼児の間にも、残酷、悪知恵、嫉妬などが見られることである。人間は完全に独立自足し得る存在ではないから、最初から業とでもいえる悪への傾向性を秘めている。おとな性悪、子ども性善と割り切ることはできない。どんなおとなも見方によっては美しいし、人間万歳を唱えることもできる。
その上、子どもとおとなを画然と分けることはできないのに、子ども「性善説」はその誤りを犯している。学校に在学する限り、子ども「性善説」に固執するが、学校を出たとたんにおとな扱いする。しかし子どもからおとなへの移行は漸進的であり、中学や高校ともなると「性悪」なおとな同様に成長して、甘い「性善説」では扱い切れない子どもが現れるのが現実である。
ところがおとな、特に教師はこの事実を知りつくしながらも認めようとしないので、学校は公約を乱発し、責任過剰、負担過剰に陥り結局は公約不履行に至って教育不信を増大してしまうのである。」
※実際の所、おとなに対する新堀の態度は曖昧である。ここでは悪い大人は仮定であるが、p54の書き方は大人が性悪であると断じているように読めてしまう。仮定の話として語っていないのである。また、三ない運動などの取り組みはむしろ学校外での出来事も学校で受け持つ姿勢から出たものであるし、そのことが批判もされている内容である。

P58「なぜこのような(※病理症状、問題行動をもつ)子どもが増えたのか。原因として大きく二つの条件が考えられる。一つは制度的条件であり、もう一つは社会的条件である。制度的条件とは学校教育の義務化、準義務化をいう。義務化すればするほど、学校には子どもを選抜したり拒否したりする権利はなくなる。以前なら、学校の「手に負えない」ことがあらかじめはっきりしている子ども、つまり学校の当事者能力を越えた子どもは、学校の方でご遠慮願い、お引き取り願うことができた。今でも私立学校とか大学では志願者を何らかの形で吟味し選抜することができる。入学させた後でも、学校が自らの手に負えないことが分かれば、学生生徒を退学させる。また学生生徒の方でも自分の手に負えそうな学校を選び志願するし、手に負えなくなれば自ら退学しても差し支えない。ところが義務化した学校、中でも公立の学校はそうはいかない。」
※正しい義務化の把握といえない。留年の考え方や学校の包摂と義務化は本来全く別問題である。
P58-60「義務教育では子どもを選抜したり拒否したりすることができないので、同一の学校の中に多種多様な子どもが入っている。以前であれば「手に負えない子ども」の一部は就学免除されたり、彼らだけを専門に収容する学校に入ったりしたし、また最初から学校に入ろうとさえしない場合もあった。ところが今や逆である。「手に負えない子」も、「手のかからぬ子」といっしょに入学してくる。
しかもそうした種々様々な子どもが各学級に平均にばらまかれるよう配慮される。学級間の格差が出来ないようにするためである。義務教育では子どもは学校を選択することができないから、学校間格差をなくすという平等の原則が政策公準となり、全国共通の基準に則った教育が行われる。ある学校にはすぐれた教師や生徒ばかりが集まり、他の学校には「問題的」な教師や生徒ばかりが集まるというのでは不公平、不平等である。この平等の原則が各学校内にも適用されるため、どの学級も似たりよったりの編成がなされる。
そこでは学校間格差や学級間格差はなるほど縮少するが、逆に学校内格差や学級内格差増大する。その結果、教育が困難になることは目に見えている。「手のかかる子」にばかり手をかけるなら、「手のかからぬ子」への手が抜かれるという別の不平等、不公平が生まれる。「手のかからぬ子」は扱いやすく、効果も上がりやすいと言うんで、「手に負えぬ子」が無視されるなら、これまた大きな不平等、不公平である。「手のかかる子」や「手に負えぬ子」に対してはどんなに手をかけても際限がないはずだが、彼らだけを相手にするわけにはいかない。彼らだけを例えば一対一で個別指導することはできないので、その指導も中途半端に終わってしまい、それが「手に負えぬ」程度をいっそう大きくする。一対一なら救い得た子どもまで、「手に負えぬ子」になってしまう。こうした制度的条件のため、「手に負えぬ子」が増えるのである。」
※このような発想から学校選択制の議論が出ても不思議ではない。しかもここでの制度的条件は「制度」を曲解しているために、曲解された結論として教育問題を語ってしまっている。
P60「あらゆる人間には平等な人格があり、この人格を最大限に尊重することは、民主主義的な人間尊重の精神から自明当然の要請である。義務教育という制度は、今日誰ひとり否定し得ないこうした原則の上に成立している。」
※この原則こそ、新堀が「社会的条件」と呼んでいるもの。

P64「第一の道が教師の責任放棄だとすれば、第二の道は教師の責任転嫁である。お手上げとなった教師は子どもから手を引いて、他の手に子どもを委ねる。警察に子どもを引き渡し、他校への転校をすすめる。家庭が悪い、社会が悪い、下の学校のやり方が悪いなど、いくらでも責任を転嫁して他を非難する。同一の学校の内部さえ、学級担任の責任だ、生徒指導部の責任だ、校長の責任だなどと、責任のタライ回しをして、その子どもの指導を引き受けようとしない。こうした切り捨て、タライ回しは教師にとって安易だが、当の子どもにとっては、はなはだ迷惑であろう。一人の教師、一つの学校から見離されても、他の教師、他の学校が受け入れてくれるならまだ救いはあるが、転々として預けられるどの教師、どの学校も次つぎに自分を見離し、新しい預け手を探そうとするのだから、子どもの怨みはいっそう深まるにちがいない。特に先に述べたような社会的風潮のもとで、自分にはいっさい責任がないと考え、自己反省の態度を失うようになってしまった子どもにとって、ババ抜きのババ抜扱いされることは自尊心に決定的な傷を与えられるだろう。」
※新堀の中には明らかに教師の教育の責任とは何かが明確にあるから、このような言い方しかできないのだろう。その責任は本当はもっと流動的たり得るのではないか?本当に教師に責任付与すべき問題なのか?そのような問いを不問にしている状況こそ「日本」、正確には「世間」の枠を超えない教育論の致命的な問題点である。なお、ここでいう社会的条件とは平等原則を拡大解釈し、子どもを「王様」扱いすることを指す(p61)。
P65「しかし外的な規則だけで学校が満足するなら大きな見当ちがいである。手に負えない行動はなくなっても、手に負えない心がなくなるとは限らない。行動を改めさせるだけではなく、心を改めさせることこそ教育である。面従腹背の態度を植えつけてしまったのでは、教育は失敗したといわねばならない。」
※これは正しいかもしれないが、結局制度軽視の傾向を生む結果にしかなっていないように思える。結局制度依存の程度を推し量ることができていないのである。

☆P65「以上三つの方法には見てきた通り大きな問題があり真の解決からはほど遠いが、それではいったい妙手があるのと反問されると返答に窮するにちがいない。しかし私見によれば手の負えぬ子をどう指導するかというテクニックではなく、彼らをどう受けとめるかという哲学や姿勢こそが重要である。いやしくも教師が教育に専門家であり、学校が教育の専門機関である以上、手の負えない子どもこそ、その専門性を実証する最も大事なクライエントである。素人の「手」に負えないからこそ、病人は病院を訪れる。平凡な医師の「手」に負えない病人を治すのが名医たるいえんである。手の負えない子が出現し増加し、素人が手を焼いている時代こそ、教育の専門家たる教師の力量を発揮する出番だといってよい。その意味から、この子どもたちは恐怖や敬遠や抑圧どころか、感謝のまとにされて然るべきである。」
※そして結果が教師の「専門性」とは何かを全く問わない形で、教師を専門家として位置付ける発想である。ここにおける専門性は全く際限がないし、本当に専門的なのかどうか、はたはた専門的であるべきなのか、といった問いを不問にしてしまう。制度的観点を無視してしまう精神論に支えられた「教育」論の帰結である。
また、医師との対比も三重の意味で妥当とはいえない。一つは病気は直るべき性質のものであるが、教育行為がそのアナロジーとして適切であるかは大いに議論がある点、二つは医師と一言で言っても多様な分野における「治療のスペシャリスト」がいるのであって、ここで素朴に想定しているような学校内における教師がその多様性に全て応えることさえも要求している点(ある意味で医師よりも高度なものを実際は要求している点)、そして三つは医師と教師では身分保障(給与等)に大きな格差がある点である。このような還元的発想も、「教育」言説固有の「病理」的な精神論の所産と読めなくない。

P68「こうして法律によって自らの立場や主張を正当化し、自らの権利や利益を擁護しようとし、最終的な決着を裁判所に仰ごうとする人びとが増える。何かというと法規をふりかざし裁判に訴える風潮が起きるが、この風潮は教育界の中にも入り込み、学校に対しても向けられる。かつて親が学校を告訴するなど考えられもしなかったが、今や事あるごとに親は裁判に訴えて学校の管理責任を追及し、損害賠償を要求する。教育裁判に至っては学テ訴訟、教科書裁判など枚挙にいとまがなく、法廷闘争は教員組合の最も重視する戦術である。
学校を支配する法律第一主義、最後の決着を裁判所に仰ごうとするこの傾向は今後ますます顕著になると予想されるが、そこにはいろいろな問題が含まれている。」
※根本的に新堀には教育界における法運用に対する不信があるといえる。それこそ日本的である可能性についてはどう考えるのか。また、本当に学校を訴えないという動きが過去の普遍的現象だったと言っていいのか?例えばこの様な過去の記述をどう考えるのか?
 「けれども中には随分困つた代物もないではない。学校長や教員をまるで自分の家の雇傭人同様に、月給を拂つて使つてゐる位に考へてゐる、市町村理事者や父兄、有志の一言一句に左右せられることが多い、時には非常な無理難題を持掛けられて学校長を進退極まる苦境に立たせる事も珍しくはない。」(水木梢「校長学」1922,p136-137)
また、学校に通わせる事自体を潔しとしない農村の父兄の多さがったことも忘れてはならない。新堀の言説もまた当時の「過去を忘却した」教育言説の追随に過ぎない。

P69「国家悪、権力悪を支持する理論や事実はいくらでもあるし、わが国には判官びいき、自虐精神が強いので、敗れた側が「弱者」である場合は、マスコミをはじめ多くの人びとがいっせいに同情し声援する。政府、裁判所、総理など「強者」に対する批判や嘲笑は公然と行われ歓迎されるが、もともと「弱者」である者が裁判で敗れるなら、彼らは「弱者」の上に「敗者」となるのだから、いっそうの同情と声援を受け、悲劇のヒーロー扱いさえされる。」
※「わが国」の特徴の根拠は??
P70「法律優先のもとでの告発頻発風潮がもたすづ第二の問題は人間不信だ。この風潮が強い米国では子どもが親を訴え、教師が生徒を告発する例もまれではない。最も人格的な相互関係をもっているはずの親子師弟の間でさえ、いつ訴えられるか分からないとなると、人びとは安心してつき合うわけにはいかなくなる。
事あるごとに裁判沙汰になる米国では、弁護士は最も繁昌する職業であり、依頼主の弁護に失敗した弁護士を依頼主が契約違反のかどで訴えるので、弁護士の弁護を専門にする弁護士もいるし、弁護の不成功の損害賠償請求をそなえて保険をかけねばならないという。」
※意識調査では信頼関係はアメリカの方が強いという結果がある。しかし他方でこれは確実に法の遵守を強化する方向に作用しているのは事実だろう。
P72「法律第一主義、告発頻発がもたらす以上のような影響について、教育関係者は真剣に考えてみる必要があろう。」
※結局いいだけ批判しておいて結論はこのような精神論しか唱えないのである!!

P94「今日、教育環境が悪化しつつあるのは、誰ひとり否定し得ない世論である。またその世論を裏付ける事実はいくらでもあり、それを立証する調査や統計のたぐいも枚挙にいとまがない。……
環境は大きく自然環境と社会環境とに分けられるが、自然環境でいえばその破壊や汚染が著しく、子どもは自然を観察し自然と交流し、自然の中でのびのびと身心を鍛えるなどということができなくなった。社会環境はといえば、都市部では過密、公害、騒音、危険、誘惑が充満し、子どもが安心して遊べる場所一つない。人間だけは多いが、人びとは孤独で多忙で、自分のことを考えるだけで精一杯だ。住民の連帯意識、地域の教育的統制力は失われてしまった。農村部では逆に過疎に悩み、子どもの数は少ない。モーラリゼーション、マスコミの発達、経済水準の向上は都市的なものの考え方、自分中心主義、物質主義、享楽主義などを農村にも持ち込み、子どもは伝承文化、手づくりの遊びを失っている。」
p95-96「今日の子どもに落ちこぼれ、非行、いじめ、学校ぎらい、勉強ぎらいなど多くの病理現象が生まれていること、それでなくても一般に耐性、バイタリティ、創造性、自主性、社会性、責任感、体力の低下など、これまた数え上げればきりがないほどの欠陥が生まれつつあることは、一致した世論となっているが、それは一にかかって広狭両義の教育環境が悪化したためだと解釈される。
※これは是非とも検証してもらいたい。これに対しては「こうした考え方(※環境悪化論と呼んでいる)が果たして完全に正しいかどうかには疑問がある」とする(p96)。

P97「環境は一方的に子どもに影響するわけではなく、子どもは環境に対して働きかけ環境を内から改善する力をもっているはずなのである。環境と子どもとのこうした相互作用の存在、子どもを環境の構成要素と考えることを、今日の環境決定論は忘れている。」
※実はここでは環境悪化論を否定しているのではなく、環境悪化に子どもが直接影響を受けるという環境決定論のみが批判されている。つまり社会的事実の方は否定していないのである。
P98「子どもといえども環境に対して全く無力、受身であるわけではない。逆境にせよ順境にせよ、これをどう生かすかは子ども次第だといってよい。
それは客観的な環境より主観的な環境——つまり環境を主体がいかに眺めるか、が重要だということを意味する。今日、学問の世界で現象学や解釈学が盛んだが、その理論を環境に当てはめれば、環境の主観的解釈、環境のもつ意味、環境との関係を重視することを主張している。……この心のもちよう、環境の見方、眺め方を作り出すのが教育だとすれば、教育の受け手である子どもは環境に対して無力ではない。環境がよくならない限り、子どもはよくならないというのでは、教育や子どもに独自の力はないことになってしまう。」
※「教育」という名の精神論が色濃く反映されている。
P98「今日の教育環境が悪化しつつあるのは確かだが、それがどうしようもないほど悪化一色と見ることは適当ではない。たとえ客観的に悪化しているにせよ、その悪環境をプラスに解釈し転化することは今述べた通り可能である。」
P99「何よりもまず、教育環境が悪化しているという認識、すなわち環境悪化論が広く行われて、この悪化を防ぎ環境を改善しなくてはならぬと広く考えられている。そのこと自体、今日の教育環境が完全にわるくはない証拠だ。環境が悪化しつつあるにもかかわらず、それに気づかず、それを放置している時こそ、環境は悪化の極にある。
自然環境の破壊、自然との接触の不足が問題とされて、環境庁が設置され、自然保護団体が生まれる。子どものためには少年自然の家、野外活動センター、子ども広場が設けられる。社会環境の悪化に対しては子どもを守る運動、子ども会活動、校外補導などが活発となる。
環境悪化に対する対策だけではない。以前と比べて諸外国と比べても、恵まれていると考えられる環境が数多く指摘できる。勉強したくても学校に行けなかった時代を考えれば、今日の子どもがいかに恵まれた教育環境にあるかは明らかだ。教科書、黒板、鉛筆にもこと欠く途上国の学校とくらべるなら、今日の日本の学校環境ははるかに恵まれている。環境悪化論だけでは律し切れない。悪化に気づかずこれを改めようとしないことが問題であるのと同じように、恵まれた環境に気づかずこれに感謝し、これを活用しない教育にも問題がある。」
※教育悪化論はそのものが褒められたものではないと思うが…ここではどちらかといえば賛美している。そして教育悪化論が本当に改善を図った議論なのかも極めて微妙である。そして、新たな活動はそれ自体相対的に見れば良いと言っている訳でもない。事実の検討ではなく、価値のぶつかり合いの問題にしてしまっているのである。

P105-106「例えば、社会や環境の側には学歴主義、入試制度、遊び場の不足、俗悪なテレビ番組といった数多くの問題状況が存在して、教育や子どもに悪影響を与えていることは客観的事実である。」
※ここでの問題は過去の事実に全く目を向けない点、これに尽きる。比較されるのはあくまで現在の事実(と思われているもの)の良い点と悪い点の比較である。

P117「さらに第三の問題は義務教育がいわゆる「親方日の丸」的体質をもつということである。義務教育は無償の原則からいっても平等の原則からいっても、その圧倒的部分を公立の学校が担っている。すべての国民に平等に教育の機会を保障することが国家の義務になれば、義務教育は国家がある限り永続する。ところがこの「親方日の丸」的性格のため義務教育には危機意識、競争原理、サービス精神、自助努力などが希薄となり、マンネリズムや甘えが成長する。こうした状況が循環的に義務教育への反発を増幅するのである。」
※親方日の丸言説をここで使うのは適切なのかどうか。全く関係ないのではなかろうか?

P122「産業構造の転換、競争の激化は働く人びとにも能力の開発や意識の改革などを要求する。ありきたりの慣行や上からの命令に従っておけば終身雇用、年功序列で生涯安泰だといった状況は消え失せ、創造性、研究心、積極性が求められ、次つぎに導入される技術を習得し、刻々と変化増大する情報を判断し処理する能力が求められる。転職、転業、配転、海外勤務なども頻繁となるにちがいない。こうしたきびしい状況が要求し、またそれに適応するために必要となるのが、生涯学習なのである。」
P123-124「このきびしさの中ではハードな生涯学習が必要不可欠となるが、きびしさの認識は自己へのきびしさを要求する。ところがゆたかさに馴れ甘やかされつづけた人びとはこの要求を回避しようとし、きびしさを認めたがらない。今までは何とかなってきたのだから、これからも何とかなるだろう、自分がやらなくても、他人や国が何とかしてくれるだろうという、一種の無責任な楽天主義にしがみつこうとする。そのため生涯学習といっても自己へのきびしさを基礎とするハードな生涯学習という視点は歓迎されない。きびしさへの対応を誤るなら、ゆたかさも失われ、ゆたかさの中でのソフトな生涯学習など、のん気なことはいっていられなくなる。」
※「もっと真剣でせっぱつまった、かたいハードな生涯学習」(p122)という表現もあるが、要は「ゆたかさの中での、のんびりムードに包まれた、いわば柔らかい、ソフトな生涯学習」(p122)の反対を言いたいだけである。

P127「生涯教育の名のもとに学校外の教育が重視され発達するにつれて、学校による教育の独占はくずれ、学校教師は学校外の教育指導者と比較されるようになる。早い話、学校教師は子供から塾の先生やスポーツ教室のリーダーやテレビの出演者と比較され、その力量を評価されるようになっている。
このように、生涯教育は、教育の責任と権威の分散や拡散をもたらすので、生涯学習体系の実現は決して容易ではない。同時にそれは教育専門家に対する大いなる挑戦でもある。」
※この関係性は明らかに擬似的であり、むしろ逆の関係性である。むしろ教育不信から生涯教育の考えが推されたとみるべきでは。
P132「人間評価という日本語は外国語でどう訳せばよいか。人間評価の定義は何か。ここには日本の教育に顕著な一種の情緒主義、感傷主義とでもいったものが潜在しているように思われる。恐らく人間評価とは一方では、能力、学力、成績その他、人間の部分的な評価ではなく、全体としての人間、全人、人格、人物の評価を意味するし、他方では人間的、あるいは人情的な評価を意味するのであろう。そしてそこには、人間は部分によってひょうかされるべきではなく、数量化、序列化、比較が不可能かつ不適当な存在であること、したがって特に人間を低く評価するなど、人間評価にあるべからざることだ、という暗黙の合意がある。
もっと極端にいえば、人間評価という概念は一種の自己矛盾を含んでいる。人間の部分的評価は可能かもしれないが不当であり、人間の全体的評価は適当かもしれないが不可能である。いや全体的評価にしても、すべての人間が平等な価値をもっている以上、上下優劣の評価をすることは非人間的である。評価基準の適用を許さない評価はあり得ないから、人間評価自体が不可能となる。」
※前段は極めて疑わしい。学生運動の激しさなどは日本は海外の比ではないように思えるが。そして人間評価などという単語自体ほとんど日本語としても使われていないだろう…後段はその通りだろう。
P133「日本人は一方では評価を愛用するが、他方では評価を拒否する。ホンネやウラでは評価が横行するが、タテマエやオモテでは評価は拒否され否定される。仲間うちでの公然たる評価はもちつ、もたれつ、甘えと和を特徴とする日本では歓迎されない。……日本特有の集団主義や平等主義が評価拒否の風土を生む。
ところが他方、日本人は評価、中でも序列付けを好む。後発国として「追いつき追いこせ」をスローガンに出発した日本は、モデルでありライバルであった先進国からの評価をたえず気にしてきた。国内でも人口過密で生存競争の激しい日本、周囲の評判、世間の目を気にし、かげ口、うわさ話の好きな日本人は、自分が他からどう評価されているか、他人は自分より上か下かなどということに極めて神経過激である。自分の属する国、組織、地域、職業などの評価や順位が気になって仕方がない。公然たる評価は拒否しながら、カゲやホンネでは広く評価が行われる。」

p139「学歴による人間評価の特徴としては、上に述べたように個人の一部の属性たる学歴によって当人の全体を評価するという領域的拡散性、人生の一時期に獲得された学歴が生涯を通じて評価基準になるという時間的拡散性に加えて、学歴が個人の評価基準だけでなく、その属する集団や組織の評価基準になるという社会的拡散性が指摘できる。これは集団主義的な日本において顕著である。」
p140「「真の」学力、能力、実力、人物、将来性まですべてを判定できるようなテストが生まれたとするなら、そしてそのテストにすべての人が平等に参加できるようになるなら、そのテストによって低く判定された者には希望も自信もなくなってしまうであろう。学歴による人間評価は不完全であり不合理であるからこそ、人びとに絶望を与えずに済むのだといえるのかもしれない。」
※マイケルヤングを想起したのだろうが、さてこの言い分に何の意味が?結局学歴否定じゃないのか?
P143「事実、一方ではあらゆる差別を否定する平等主義が、他方では個人間、企業間、国家間の激烈な競争を要請する実力主義が、学歴による差別的な給与体系や地位昇進体系を崩壊させつつあるから、顕在的、制度的な学歴主義の衰退を証明することは容易である。公然たるビジブルな学歴主義の衰退にもかかわらず、証拠もつかみにくく攻撃もしにくいインビジブルな学歴主義は依然として(いや、かえってますます)健在であるかもしれない。学歴社会の虚像が主張され、学歴主義への批判が盛んであるにもかかわらず、学歴信仰が広範な人びとの内なる意識に根を張っているのはそのためであろう。」
P144「以上のような学歴の潜在的機能、ウラの学歴主義の強力さは日本的特徴と考えられるが、学歴研究に当たってはこうした日本的特徴に着目することが必要かつ有効であろう。……しかし(※後発効果、官僚制が近代の特徴とするにせよ)例えば家族自体が一つのミニ学歴社会になっているという現象は恐らく日本に特有である。子どもの学歴はその子ども個人の問題というより家族全体の問題であり、家族は子どもの学歴のためにすべてを犠牲にし、受験生たる子どもは一家の主人公となる。……家族とはプライベートな社会だから、それだけウラの学歴主義や学歴意識のホンネをさぐるのに便利であろう。」
※「親の子への犠牲心は日本よりアメリカの方が強い」ことをどう見るか。

P144-145「客観的には同じ日本の社会が、見方や立場によって、全く相反するように解釈され、認識されていることになる。つまり学歴社会のついての、パーセプション・ギャップ(認識のずれ)が存在する。だが、学歴社会論がこれだけ盛んだという事実自体、学歴が日本人の間に、強く意識されていることの証拠であり、その意味で日本は少なくとも意識の面で、学歴社会だといってよい。」
P145「エリートは、企業や政府などのトップを占め、公的な責任をもつと同時に、広い監視の目にさらされているので、だれからも非難されないタテマエや、大衆の支持を受けやすいコトバを口にせざるを得ないが、それには学歴社会など実際には存在しないといっておくのが無難である。」
※学歴社会論は、学歴の不当利益と見る立場とそうでない立場で主張が異なるように思う。
P147「また同じキー・ポジション(※トップの中のトップ)といっても、生存競争が激しい経済界や政界と、「親方日の丸」的な官界や学会とでは、学歴の効果は異なる。しかしいずれの場合も、不利な学歴をもった者は一般に教養の低さ、友人の少なさなどのため、「成り上がり者」的、「なぐり込み」式のあくどいやり方に訴えなければ、キー・ポジションに到達することが難しい。」
P151「以上は学歴研究の今後の課題の若干である。それは今後の課題であるから、ほとんど実証的な研究もないし証明されてもおらず、単なる仮説の提示にとどまる。しかし以上、三つの視点が学歴研究に新しい分野を開くように思う。」
※p141-151までの内容を総括した内容であるが、実際のところ何が課題で何が定めた事項なのか、定かではない。それは日本人論にまで及ぶのだろうか?恐らく、新堀はそうは考えていないように思う。この曖昧さは「理念型」という言葉で逃げを決め込もうとする論者全てに問われる論点である。

P155「ある人びとは、いじめは昔から存在した現象であり、なぜ、いじめが突然急に取り上げられ、注目されるようになったかといえば、いじめが原因で自殺や家出などのショッキングな出来事が起きたからだという。そうだとすれば、いじめもっと前から注目され、論じられ、対策を立てておくべきものであったのに、ショッキングな事件が起きるまでいじめを放置し、注意しなかった教師や教育研究者の怠慢や無能が責められてしかるべきである。」
※なぜ問題を解決しないのかだけでなく、なぜ解決できないのかという問いも必要である。新堀は決まって専門職批判をする。
P156「同じように、いじめは以前にも今と同様に存在したが、いじめとは認められず、単なるいたずらやけんかとして軽く扱われていたのかもしれない。多くの現象がいじめと認められるようになったので、いじめが増えたかのごとき観を呈するのかもしれない。ちょっとした体の不調も病気と認定され、すぐに病院に駆け込む患者が増えるように、いじめ論の隆盛のためにいじめが増える。……それは、病人が増えるから医学が発達するのではなく、医学が発達するから病人が増えるのと同じである。」
P157-158「(※教育論議として)論じられている間は、あたかもそれが唯一最大の問題であるかの如くだが、実はそれ以外にも重大な問題が数多く存在し、潜在することに気づかれていない。
こうしていじめ論の流行は、人びとの目をいじめだけに向けさせる恐れがある。」
※「気づかれていない」とは誰のことを想定しているのだろう。新堀はそれを教育専門家に向けたいようだが…いじめ以外の問題に目を向けようとしない現場などが一体どこにあるというのか?そのこと自体は実証的に語られることはない。結局、「社会問題」というフレームで語られていることにしか目を向けていない。それを超えて想像されるものがあるにせよその範囲はご都合主義的である。

P159「子どものいっさいの言動を知りつくし、いじめ事件を未然に防止しなければ、管理責任を追及されるのだから、学校も教師も一刻の油断もできない。子どもは授業中はもちろん、休み時間も放課後も教師の監視下に置かれる。こうして教師は、子どもの間にいじめが起きないか、「いじめ事件」を親やマスコミから摘発されないかと戦々恐々となるし、子どもは教師からたえず監視され、注意されつづけるので、教師も子どもも息のつまりそうな生活を送ることになる。のびのびとした雰囲気がかえって失われ、びくびく、おどおどした「いじけ」が支配する。
子をもつ親の心配は、さらに大きい。これだけいじめの多発と深刻化を報道するニュースが溢れると、どんな親も、わが子がいじめられるのではないか、いじめっ子になるのではないかと、片時も安心してはいられない。……こうしたニュースに接しつづける親にしてみれば、安心して子どもが学校にやるわけにはいかない。親もまた神経過敏になって、わが子の言動を細かく見守り、ちょっとしたことでも、いじめではないかと疑うようになる。わが子の友達も学校の先生も信用できず、すぐに友達の親や受けもちの教師に抗議を申し込む。」
※これを「一種の管理主義」と揶揄するのだが(p158)、ならどうしろというのか?ここでも教師の専門性の問いが出てくるはずだが…ただただ「萎縮、遠慮」「子どもの生活や学校から生気や活力を奪い去る恐れがある」などというだけである(p160)。
P160-161「教師(あるいは、その背後にある学校や教育のシステム)から子どもへのいじめとして、例えば体罰、校則、テスト、成績、管理主義、偏差値体制などが取り上げられるのである。
その議論に従えば、こうした教師個人の行動や評価、あるいは学校や社会の仕組みが子どもをいじめているのであり、その重圧や抑圧に耐え切れない子どもが、その劣等感や屈辱感のはけ口を、もっと弱い仲間へのいじめに求め、見出しているということになる。」
※いじめ論の定義については加害者と被害者が存在することを想定するのみである(p160)。言い換えれば、教育の場で加害者と被害者と呼べるものはすべて「いじめ」とここではカテゴライズしている。もっとも、この立場はすでに存在する説と位置付けているが(cf.p161)。
p162-163「たった一人の教師が数十人の子どもを静かにさせ、話を聞かせるだけでも、どんなに困難かは明らかだ。それは、子どもから教師へのいじめだといってよいが、教師はメンツにかけても子どもからいじめられたとは公言しようとしない。
かつて子どもにとって学校は、年少労働から解放してくれるところ、好学心を満たしてくれるところ、世の中で活躍するための実力を与えてくれるところであり、野心と能力のある青少年はおやにたのみこみ、苦学をしながら学校に行った。彼らにとって、学校は有難いところであり、教師は尊敬の対象であった。学校が義務化、準義務化されていなかった時代、勉強についていけなければ、容赦なく退学や落第が待ち受けていた。」
※退学の話は何を想定しているのか??

P164「教師から教師へのこのいじめは、二重の意味で、子どものいじめの解消を妨げる。第一に、いじめに限らず、子どもの指導、特に生活指導にとって重要なのは、教師集団の一致協力だが、教師相互の間にいじめが存在することは、この一致協力が欠けていることを証明する。」
※また価値観の押し付けをしている。
P165「いじめはオモテではなくウラで行われるから、オモテにおける「強者」がウラにおいては「弱者」となる可能性がある。オモテで「弱者」扱いされた者が、その仕返し、ふくしゅうとして、オモテでも「強者」をウラでいじめることがあるし、「強者」を「弱者」の水準にまで引きずりおろして、集団の統一をはかろうとすることがある。
この種のいじめにが、「出る杭を打ち」「人の足を引っぱり」「下へならえ」を強要する日本的集団主義や平等主義がその底流にあるように思われる。」
p166「唐突な例だが、日本はその勤勉や貯蓄、質の高い製品によって黒字国になった。われわれ日本人からすれば、「どこが悪い」と反駁したくなるが、その日本が世界から袋だたきに遭って非難され、攻撃され、何かと世界からいじめられつづけている。……いじめには主観や解釈のくいちがいがあるだけに、その定義は困難である。いじめる側がいじめること自体に快感を見出し、いじめられる側に出口や解決がないことが、恐らくいじめの本質であろう。」
※なぜ困難なのか?新堀の定義はあまりにも素朴であるのに、その定義が採用されないのはなぜなのだろうか?
P167「けんかやがき大将といった子どもの世界に特有な現象が最近、めっきり見られなくなった。それだけ子どもから子どもらしさがなくなり、子どもがませた小型のおとななったといえるかもしれない。」
※そして子ども論が持ち出される。
P168「かつて家庭には兄弟が多かったため、けんかのたびに親が出ていかなくても、弟たちのけんかの度が過ぎれば絶対的な力をもつ兄は審判官や仲裁者の役を買って出たり、姉がけんかに負けて泣き出した妹を慰めたりして、けんかを丸く収めた。いや、そもそも同じ兄弟同士、同じ家に住む家族同士なのだから、共通の心の結びつきがあり、けんかをしたところで、すぐけろっと仲直りして遊び合った。取っ組み合いの中に泣き笑いのスキンシップがあった。
今やこうした光景は消え失せた。一人か二人のわが子に「教育ママ」がたえず目を光らせ、兄弟げんかが起こる気配でもあるとすぐにかけつけて止めさせる。ほしがるものは何でも買ってやるし、おやつは山ほど与えるので、おもちゃや食べものの取り合いなどといった兄弟げんかきっかけも少ない。」
※典型的な懐古厨。

P168-169「こうして家庭から兄弟げんかが消失したが、地域社会や近隣社会での子ども同士のけんかもなくなった。かつて路地裏や野原は子どものけんかの舞台、がき大将の活躍の場だったが、今や子どもがのびのびと行動できるそうした空間はなくなった。いや第一、今日の子どもは家庭と学校(およびその代用としての塾)を往復するだけで、地域社会や近隣社会での生活を欠いているのだ。」
※ガキ大将の美化言説。
P169-171「だが実は、けんかといじめとは基本的に異なる。第一にけんかは勝敗を争うので、相手が降参したり泣いたりして勝敗がはっきりするけんかは終結する。勝負がつかずに引分けとなったり、仲裁が入ったりして終結することもある。いずれにしてもけんかは短時間の現象で後くされがなく、けんかが終わると仲直りする。これに対していじめは勝敗という結果ではなく、残忍な過程そのものを目指している。いじめに伴う残忍、相手の苦痛自体が快をもたらすので終わりがない。
それとも関係するが、第二にけんかは勝敗を争うのだから、最初から勝敗優劣が自他ともに明白な場合には起こらないのに対し、いじめはむしろ勝敗が明白な場合に起きる。弱い者を相手にけんかをしても始まらないし、弱い者はもともと強い者にむかってけんかをしようともしないが、いじめは抵抗不能と分かっていている者を相手にする。けんかは原則として一人対一人の形で行われるのに対し、いじめが多数対一人の形で起きるのもそのためだ。……
第三にけんかには一種のけじめ、ルールがあるのに対し、いじめにはそれがない。卑怯なことはしない、降参すれば許してやる、飛び道具などは使わない、などというルールがそれだ。生存競争下にある動物は自らの縄張りを侵した外敵を力で排除しようとし、獲物を独占してけんかするが、相手が尻尾を巻いて立ち去れば、それ以上深追いしない。そこには相手に対する一種の思いやりがある。同じことが子どものけんかにも当てはまる。
第四にけんかは堂々、公然と行われ陽性だが、いじめは陰でねちねちと行われ陰湿である。家庭や学校でおとなの全面的監視下に置かれ、子どもだけの世界や生活を公認されなくなったため、公然たるけんかが追放された結果、それに代わっておとなの目の届かぬ陰の世界にいじめが出現したのだと解することができる。おとなの基準で勝敗優劣をすべて決められる子どもの悲痛な叫びがいじめになって表れている。」
※何と先程述べていたいじめの話からすでに逸脱している!!本書が別々の論考によるものだからと言ってしまえばそれまでだが、それ程言葉も用法を意識していない、というのは紛れもない事実。そして、これが先の「いじめの定義が難しい」ことと関連しているとすればどうだろう?結局定義をしようとする者さえも定義から簡単に逸脱するような議論を展開している可能性がある、ということ。
また全体的にけんかの方を過大評価している点も懐古厨らしい態度である。ルールなどないからかつてはけんかを理由に子どもが死んでいるが、それをどう説明するのか(cf.「少年犯罪データベース」)。更に「けんかからいじめへ」の物語もそう簡単な議論にはならないだろう。これはけんかの賛美が誤りであることから導き出せる結論。

P173「ものはあり余るほど増えたが、それに反比例して、心はますます貧しくなった。経済的なゆとりの増大とうらはらに、精神的なゆとりが失P173「ものはあり余るほど増えたが、それに反比例して、心はますます貧しくなった。経済的なゆとりの増大とうらはらに、精神的なゆとりが失われた。経済の高度成長に伴って、公害、自然破壊、環境汚染などのひずみだけではなく、人びとがかつてもっていた人情、勤勉、自己犠牲、責任感などの徳の喪失がもたらされた。失われたものに対する郷愁念は、特に古い時代に育ったおとなに大きい。
……彼らには先の例でいえば人情、勤勉、自己犠牲、責任感などの徳を信奉して、それを成し遂げたのだという自信と自負がある。その自信と自負を基礎にして「今どきの若い者」を見ると、そうした徳を全く忘れて自分中心主義、享楽主義、物質万能主義に走ってしまっている。慨嘆に耐えないとともに、若い者を叱りつけたい気持ちが湧いてくる。
ところが、「若い者をこんな状態にしたのは誰か」と古い世代がその得意とする責任感や人情を働かせて反省してみると、その責任は自分たちにあると考えざるを得ない。身を粉にし、わき目もふらずに働いて、日本をここまで繁栄させてきたために、こんな若い者をつくり上げてしまったのだ。」
p175「今の子どもの「ないないづくし」のリストを作ろうとすれば、それこそ際限がない。自立心がない、耐性がない、社会性がない、思いやりがない、勉強しない、本をよまない、創造力がない、個性がない、体力がない、学力がない、等々。そして、このリストの重要な一項目として「遊ばない」が加わる。
実際、今の子どもは遊ばないというのは、ほとんど一致した世論であり実感であろう。一昔前、特に人口の都市集中や進学率の上昇が顕著になった昭和三十五年あたり以前と比べれば、子どもたちが日の暮れるのも忘れ、泥んこになって遊ぶといった光景は、全く見られなくなった。」
p175-176「子どもは遊びを通して創造力や耐性や自立心や体力や社会性を養う。例えば縄跳びをやる前に、新しい遊び方を工夫するし、順番を守ったり役割を分担したりという社会生活のルールを学ぶ。体力も鍛えられるだろうし、失敗を乗り越えて努力する態度も養われるだろう。何より大事なのは、遊びは自発的な活動だから、子どもの自発性や個性や積極性を養うのに適しているということである。子どもは、遊びながら、遊びを通して、このように最も重要な能力や態度を学びとっている。その子どもから遊びを奪い、子どもが遊ばなくなっているとすれば、ゆゆしき問題だといわねばならない。
このようにおとなは、遊ばない今の子どもを眺めて、あるいは郷愁から、あるいは教育的見地から慨嘆する。その一方、この遊ばない子どもをつくり上げたのは他ならぬ自分たちおとなだと反省し、子どもは遊ばないのではなく、遊べないのだと自責する。」
※「このため子どもは遊ぶよう、遊べるよう、手厚く保護され奨励される。」「その結果、子どもの遊びの不在と奨励とが現代の特徴となる。」ことで遊びが自発性を失い、遊びが自然性を失う矛盾があるという(p176)。遊びにおいてまで「おとなに依存し管理される」ことで「遊びの教育的意義の大半は失われてしまう」(p177)。

☆p181-182「第二に、今の子どもは遊ばないとか遊べないといっても、すでに述べた通り、おとなが勝手に立てた基準、特に郷愁に基づいて判断していることが多い。例えばパソコンゲームなどは、小さい子どもの間にまで大流行しており、ゲームのソフトを考え出して大もうけした中学生もいるという。おとなは機械オンチ、コンピュータぎらいも多く、そんな子どもを見ると、羨望と同時に脅威を覚える。そして、もっと「子どもらしい」遊びの方が大事だと主張する。
恐らく今のおとなが望ましいと考える遊びとは、個人遊びではなく集団遊び、機械を使っての遊びではなく手作りの遊び、きれいな遊びではなく泥んこ遊び、ナウい遊びではなく伝承的な遊び、頭を使う遊びではなく体を使う遊び、室内での遊びではなく戸外の遊びである。それぞれの対のうち、後者が大事なことはいうまでもないが、それだからといって、前者が望ましくないと決めつけることはできない。パソコンゲームは前者の代表だが、これからの社会ではコンピュータ・リテラシーが大事な資質となる。今の子どもはパソコンゲームを通してコンピュータを学び、コンピュータ社会で生きていく力を得ている。全人教育というが、遊びについても、あれかこれかと考えるのではなく、あれもこれもと考えることが望ましい。」
※一見不可解な主張にも見えるが、結局「子どもが遊ばない」という「事実」に対しては新堀は前提として認めており、そこからどうするかという際のおとなの「価値観」に対して批判をしているということであろう。しかし、その「郷愁」が「事実」にまで侵食する可能性をなぜ考えないのか。また、最後の主張もこれまでの新堀の批判をなかったことにしかねない論点がある。それこそこの再批判はパソコンに対して受動的でしかないという批判しか生まないように思えるし、そうでないとするなら、新堀のいう「主体性」とはなんのことを言っているのか掘り下げねば、その批判の意味が無意味になる。このような擁護の仕方になる理由もまた不可解である。この態度こそが「社会問題に毒されすぎて」いるために社会問題として批判が挙がることに対しても根拠なき再批判を加える態度になっていないか、と思ってしまう点である。
P182「第三に遊びの禁止についていうと、子どもの発達段階、年齢区分による差があまりに激しすぎるという問題がある。この傾向は先に述べた教育ママ的な家庭に顕著だが、学校をも含んで一般に広く認められるものである。
学校での成績、勉強、進学などが気になり出すまでは(一般的にいえば小学校低学年まで)十分遊ばせるが、上級学校入試が近づき、受験準備に没頭しなければならぬと考えられるようになると(一般的には小学校低学年高学年から中学・高校まで)、勉強が強制され、遊びは目の敵とされて追放、禁止の憂き目に遭う。そしていったん、大学に入学し、受験勉強から解放されると、再び一転して遊びが精一杯許容される。」
※新堀はそういう話をしていたのではないと思うが…そもそも昔の子どもは小学校は四年までしか義務となってなかった訳で、それ以後は労働の世界にいたはず。義務教育段階以後の子どもは遊ぶ権利があったかどうか議論すべきところではないのか。

P187「ある人びとは今日の子どもには忍耐心がない、犠牲的精神、公共心、服従心が欠けていると嘆く。たしかにその通りだが、それだからといって、あらゆる不正や不合理を耐え忍び、「公共」「公益」のためといわれればどんな命令にも服従すべきだと考える心を育ててはならない。寛容の心、思いやりの気持ち、助け合いの精神もたしかに美しい。だがそれが一面的に解されて、何でも許し、救いの手を差し伸べて仲間の自助や自立の芽を刈りとってしまうなら、かえって仲間のためにもならない。」
※バランスをとろうとしているのだろうが、新堀の言説そのものにそのバランスが取れているとは言い難い。
P188「逆に普通望ましからぬとされて不人気な心にも、見直されるべき価値が潜在する場合がある。例えば野心や立身出世主義、猜疑心や復讐心。今日、入試競争の激化に伴って子どもの目が血走り、心のゆとりやゆたかさが失われたため、競争心、成功欲はすべて悪であるとされ、特に成績のよい子どもはすべて野心や立身出世主義のかたまりであるかの如く見なされる傾向がある。彼らはエリート主義を奉じ、エリートの卵だとされて肩身の狭い思いを抱かされる場合さえある。
しかし野心や立身出世主義自体を悪だと決めつけるのは早急であろう。他人や社会を踏み台にして自己の野心を実現し立身出世しようとする利己的な気持ちが伴う場合とか、成功という目的のためには手段を選ばず、人格的にいびつな人間になってしまう場合とかに、野心や立身出世主義は否定さるべきであって、よい成績をとり希望する学校に入ろうとすること自体が悪いわけではない。その証拠に、教師は学力の低い子ども対し、もっと高い学力を身につけ進学したいという野心を抱かせようと努力する。実際、今日の子どもに欠けているのは崇高な野心(これを理想という)である。多くの凡人は野心をもつことによって張り切った生活を送り生きがいと努力をかんじる。それなのに今日、本来、理想主義的であるはずの青少年に、その日暮らしの刹那主義やニヒルシニシズムが支配している。向上心が野心や立身出世主義から成長することはまれではない。猜疑心は批判的精神や探究心と紙一重であり、復讐心は失敗にめげず困難に再挑戦するたくましい心に連なる場合がある。」
※具体的に好転させるための方法についての言及はあるのかと言われれば、この後の精神論の言及しかない。
P190「心を育てる教育にとっては、心に訴える教育、心を動かす教育、心と心の交流が極めて有効である。規則、マンネリズム形式主義、事なかれ主義が支配するところでは、人間的な心は育たない。今日の教育や授業には感動や感激といった場面が乏しい。……子どもの心を育てようと思えば、教師や親もまず自分の心を育てなくてはならない。
失われた心を回復するための教育そのもの、教育を行う教師自身の心に欠けているものがある。……よそよそしい表面的なつき合いの中で、子どもの「心理」は分かっても子どもの「心」は分からない。〈心の教育〉より前に〈教育の心〉が失われているのだ。」
※「いくら全人教育や人間尊重を口先で説き、いくら情操教育や道徳教育の時間を増やし、いくらカウンセリングや生徒指導の組織を拡充したときろで、子どもの心に訴えかけ、子どもの心をゆり動かすことに失敗するなら「仏作って魂入れず」である。実際、今日の学校はしうした感動の重要性を忘れ、感動の教育をおろそかにしているのではないか。」(p191)結局精神論である。

P192-193「社会教育でも講演会への「動員」「駆り出し」はあるべからざる邪道とされているが、半強制的に出席させられた人たちが講演をきいてから、「来てよかった」「心が洗われた」などの感想をもつことが少なくない。いやいやながらやり始めた仕事が、やっている間に面白くなってくるという現象を「動機の機能的自律」と称するが、受動から能動へ、強制から自発へというメカニズムを考えるなら、受け身の学習を頭から否定するわけにはいかない。
もう一つ、感動の教育にとって大事なのは、孤独な学習の復活だ。社会性、助け合いなどが強調されるあまり、集団作業や集団学習だけが先行し、それが孤独や無限に耐える力を失わせてしまった。目が外に向くばかりで、内省、思索、沈潜など、自らを見つめる態度が育たない。
これでは人と人との関係さえ表面的、外面的なお祭りごっこ、仲よしごっこになってしまって、心から信頼でき話し合える仲間同士の人間関係から生まれる感動は得られない。」
p193「感動の教育にとって第三の視点は、「等身大の教育」「人間の顔をした教育」とでもいえるももの必要性だ。それは中でも社会科や道徳教育などに当てはまる。
教育課程があまりにも「科学的」「論理的」「体系的」になり過ぎて、社会の仕組みや概念は出てくるが、生きた個人が登場しない。……共感、尊敬、興奮などの感情は、固有名詞をもった人物や劇的な物語を知ることによって生まれるのが、特に子どもの場合、普通である。ところが、このような感動を呼び起こすに有利な教材はなくなって、抽象的な概念や無味乾燥な年号の羅列ばかりになるのだから、子どもは、これを敬遠するようになってしまうのだ。」
※「学習指導要領」とは結局何なのか、という問いに対する重要な見方。体系が整っていないとみるか、そもそもそのような「体系」など不要とみるのかで全然異なる結論となるはずだが、批判はそのどちらかも大いにある。

P200「個を通して普遍を語り、体験によって本質に迫るという、以上のような教育古典に共通の特徴自体に学ぶべき真実が秘められている。芸術は一般に具体的な個を通して普遍的な本質を実現し理解させる。個別的な人物や事件を通して、人間、人生、愛などの何たるやを明らかにする。ひとは往々にして抽象的な一般化に頼る哲学や美学の書物より、文学や音楽の作品に接することによってこそ、世界や美の本質を直感する。人生観、価値観、世界観などを形成し、心の奥深く訴えかけ反省や省察を迫り、生きる意志や喜びを生み出してくれるのは、難解でひからびた概念や灰色の理論ではなく、生きた個々の素材をもってあるがままの真実を鮮やかに描き出す芸術である。
教育が相手にするのはまさに個々の生きた人間であり、教育の基底にあるには個としての人間に対する愛であり関心である。教育とは、規格化と逆の営みである。工場での品質管理は規格通りの製品を作り出し選び出すことを目標とするが、教育は規格通りの人間をつくることではなく、個性を尊重し実現することを目指している。規格に合わない子どもこそ教師にとっては大事である。
自然科学は一般的、普遍的に妥当する法則を見出すことを目指しているが、教育は逆に個を理解し、個に妥当する働きかけを要求する。教育の本質を明らかにし、教育ヘの情熱を湧き立たせてくれる古典が、一般化された抽象的な理論書ではなく、教育小説や実践記録など、科学より芸術に近い形をとっていることは偶然ではない。」
※さて、これを行うのは教師なのか?もっと言ってしまえば、それが「生きたもの」になるかどうかはどこまでも主観論でしかないように思える。
P206「以上のような事実は、教育者とは永遠の理想、「青い鳥」を求めて遍歴する理想主義者、浪漫主義者であることを物語るのかもしれないし、人を教えるなどという大それた仕事を手がける自信は良心的な人間にはなかなか生まれないことを示しているのかもしれない。しかし人間の問題にせよ社会の問題にせよ、理想を求め解決を求めるなら最後に教育による他ないという真理を、彼らはその経歴により理論によって教えているのである。」
※ここで引き合いに出されるのは「過去の偉大な教育学者」と呼ばれる人々に他ならない。
P215「勤務評定の難しさもあり、平等の原則への要求もあり、「親方日の丸」の体質もあり、教師には年功序列制度、身分保障制度が徹底しており、どんな教師も勤務年数に対応して一律に昇給していく。」

P222「臨教審の自由化論議をまつまでもなく、今日、公立学校の「親方日の丸」的体質に対する批判や非難の声が高い。いや、それはむしろ公営事業一般に対する評価の一環だという方が正確であろう。独善、横柄、非能率、税金の無駄づかい、怠惰、マンネリ、お役所仕事などは、学校に限らず「親方日の丸」に与えられるもの世評である。」
※p215のテニュア制度ならわかるが、ここでの議論は親方日の丸的性質批判という言葉、「日本的性質」が批判されているという見方が正しいかは微妙。「「親方日の丸」的な体質や意識を打破すること、これが恐らく公立校の管理職の大きな課題であろう。」(p224)
P223「競争原理、創意工夫、自助努力などを欠いた「殿様商法」となって人びとの反感、反発を招くのも無理はない。「親方日の丸」の国鉄は私鉄に客を奪われ、郵便局は宅配便との競争に敗れた。こうして最近では電信電話、タバコ、国鉄などが民営に移管された。」
P226-227「教育のタテマエ支配と「親方日の丸」のタテマエ支配とがいっしょになるのが、公立の学校である。つまり学校の中でも公立の学校は特にタテマエ支配の傾向が強い。また公立の学校、中でも義務教育段階の小中では、子どもや親は学校や教師を選択するわけにはいかないので、多様な要求や期待が学校に投げかけられるし、公立であるため広い世間からの監視の目が注がれる。そのためにも学校は誰からもオモテ向き非難されないタテマエを掲げざるを得ない。」
※これが日本的というのはあまりにも誤りだろう。それに私立にはこれがあてはまらないことを前提にしている。
P227「タテマエのもとに私利が追求される「親方日の丸」の公立学校では、ホンネを出し合って教師と教師、校長と教員、教師の鬼、教師と生徒とがぶつかり合うという雰囲気が乏しい。一種のよそよそしさと同時に偽善が生まれやすい。思い切ったことを互いにいいにくいかと思うと、タテマエを掲げて有無をいわせぬ要求が出される。」
P228-229「公立学校は私学のように独立採算制をとった自立的組織ではない。人事にせよ予算にせよ、すべては教育委員会に握られており、その点ではまことに弱い立場にある。……自分の学校で個性的、独自な教育を行おうとしても教育委員会におうかがいを立てねばならないが、教育委員会はいっそう広範な監視の目にさらされており、法規や慣例に従っておけば安全という事なかれ主義を奉じがちである。こうして公立学校の自由裁量権は制限され、学校は教員を自由に選ぶことさえできない。」
※あたかも教育委員会があるから不自由、といわんばかりだが、具体的に考えれば必ずしもそうならないこともあるし、そのような観点で考察をしないと意味がない。新堀が行うのは「俗流」のぼんやりした教育批判をそのまま反映しているにすぎない。
P230「学校とは本来、明るく活力に満ちた場であるはずのものである。学校で多数派を占めるのは、若さにはちきれている子どもであり若者である。彼らは無限の将来をもち、希望に目を輝かせているはずである。その成長はおとなとは比べものにならないほど早く、一日一日と新しいことを学びとるのだから、生き生きとその生命を謳歌しているはずである。」
※その本来性はどこから?にもかかわらず「以上のようなことは今さら改めて説くまでもない自明当然のことである」と言い切る(p231)。

P236「学校はもっと新しいことに取り組み、個性的な教育を行うようにと日ごろ主張する世間もマスコミも一転して学校を攻撃する。こうした現実を自ら経験したり観察したりする学校、中でもその最終の責任者たる校長が保身のため消極的となる傾向が強くなる。いやこの傾向が学校といわず一般に官僚的組織、中でもお役所に見られることは、多くの研究が示しているところである。」
※具体的にその研究とは誰のものなのか教えて欲しいものである。「学術研究」として存在するかはかなり怪しい。
P245「戦前の師範教育が視野の狭い閉鎖的な教師をつくったという反省のもとに、戦後の教員育成はいわゆる開放制を採用して今日に至っている。ただその開放制のもとでも依然として視野の狭い、ひとりよがりの閉鎖的な教師が生まれているように思われる。いや開放制のもとで、教職を単なる生活の資と眺めるサラリーマン的教師が増え、教育一筋、使命感、責任感、教育愛に燃えた教師が減ったのではないか。師範学校の教育を貫いたのはまさにそうした教育者的な精神であったのに、戦後の開放制のもとでは、この精神に貫かれた教員養成がどこにも見当たらなくなった。」
※戦前の教育のよいところだけしか見ず、「悪かった所をどう取り除くか」という問いを立てることはないままに戦前の教育を支持する。これでは「意味がない」。なぜサラリーマン教師が悪いのか。熱意がないから。ではなぜ教師に熱意が求められるか?それ教育にとって必要だから。しかしそれは教師「のみ」が行わなければいけないものなのか??そして師範学校の「暴力性」について新堀はなぜ考察しないのか??
P245「自分の利益や権利しか考えず、自分の考えだけを絶対的に正しいとする独善的な人間とは、自分のカラの中に閉じこもって他からの批判や外への責任を忘れた人間であり、視野の狭い閉鎖的な人間に他ならない。自己反省を行うためにはそうした閉鎖性を打破することが必要である。」
※現状認識からそもそも誤りであろうが、サラリーマン教師のどこが問題なのか。なぜこうも教師聖職論にすがるのか。新堀がすがる理由の説明は簡単で、結局過去の教育論を聖典にしているからに他ならない。
P246「しかし教師はよほど自戒し自省しなければ、閉鎖的な職場での生活が閉鎖的な精神を生み出し、しかもそのことになかなか気づかない。」