野村正實「知的熟練論批判」(2001)

 今回は以前小池和男のレビュー後に小池批判を行う著書があるのを知り読んだ野村の著書である。野村はすでに一度小池の「知的熟練論」の理論面での批判を行っているが、私もレビューした遠藤(1999)の提示した人事評価における「仕事表」の捏造の可能性に触発され、理論だけでなく実証面も含めて批判を行い直した、という著書が本書である。


 実際の所、本書のような著書が存在すること自体が憂うべき状況だろう。小池の議論がいかにおかしな事実認識、曲解した解釈をもっているか、そしてそれを支持してしまっている小池周辺の論者に対しても一定の批判を行う内容となっている。本当ならば本書よりも強烈に小池を批判するだけの材料があるように思うが、野村自身、その点はかなり意図的に押さえて論述していることが見て取れる。

 前回小池のレビューで述べた、日本の労働者の熟練を示す指標とされた「多様な職場の経験」を本書では77年から展開していた「キャリア熟練論」の一環と捉えている。確かに多様な職場を日本の労働者が他国の労働者より多く経験するということは実証的に示されている。しかし、このことが能力的な「熟練」に繋がるのか、疑問の呈していたのが熊沢誠であったと野村は述べる。たしかに「日本の熟練」においてもその熟練は間接的にしか提示されていなかったものであり、それを実証するものでは全くなかった。野村はこの壁を超えるために用いられたのが「知的熟練論」であるという。そしてその熟練度を客観的に示す指標として提示されたのが「仕事表」と小池が呼んだものであった。

 この「仕事表」はある企業(日産自動車)のものを想定したとされているが、この仕事表は著書ごとに内容が変わっているという(英訳にされたものさえも改変されている)。抽象化といった目的で改善しているといった理由があるならまだわからなくもないが、そのような意図が読み取れず、「論理的にも、倫理的にも、感覚的にも、私の理解力をはるかに超えている」と野村は言う(p38)。
 また、この「仕事表」の考え方は少なくとももとの日産自動車の評価制度とも大きく異なるとする(p90、中西・稲葉1995「日本・日産自動車の「給与明細書」」に実際の評価制度が示されており、それが小池の仕事表の位置付けと大きく乖離していることを示している)。「仕事表」の活用の性質については、以前小池がこだわっているとみた「二項図式」の考え方が色濃く反映されており、「仕事表を活用しないと熟練は形成されない」とする。

「仕事表が存在しないとすれば、どのような事態になるであろうか。仕事表が存在しないと、「だれも異常や変化に対処しようとしなくなる」し、「知的熟練は形成されず、異常はみのがされてしまう」。また査定において査定者の恣意性を少なくすることができず、「よく働いてもたかく評価されるとは限らず、だれも努めて働こうとしないであろう」。すなわち、熟練が形成されないだけでなく、勤労意欲も消滅してしまう。知的熟練論によれば、仕事表は職場の労働関係の中核である。」(p24、引用は今井・小宮編「日本の企業」1992、p330-332からのもの)

 また、興味深いのは、遠藤(1999)の著書発表後に展開された知的熟練論(本書では刷新版知的熟練論)における「仕事表」の取り扱いである。小池の極端な二項図式論に基づけば、次のような推論はほとんど妥当であるように思えるが、「仕事表はほとんどの大企業が査定の重要な参考資料として用いている」のであった。

「小池は直接明言しているわけではないが、ほとんどの大企業に仕事表が存在しているはずである。というのは、小池は、「大企業ではほとんどが統合方式」であると指摘している。すなわちほとんどの大企業に知的熟練が存在している。したがって、知的熟練を形成する重要な手段である仕事表も、ほとんどの大企業に存在しているはずである。そして、仕事表が査定の「重要な参考資料」である以上、ある会社の中において、仕事表を用いている生産職場もあれば用いていない生産職場もあるということであるならば、ある生産職場では仕事表を「査定の重要な参考資料」とし、別の生産職場では仕事表なしで査定をおこなうことになる。これでは、全社的な査定の公平さが存在しないことになる。」(p216)

 しかし、刷新版知的熟練論段階における小池は、遠藤の指摘を受けることで「2枚一組、定期的改訂、査定の重要な資料としての仕事表が実在することへの信頼性回復は、具体的な仕事表を提示すること以外にあり得なくなった」(p278)。しかし、実際にそれが実在する訳ではないので、妥協する形で「仕事表」が示されることになったのだが、「真の(※経験の)はばをみるには、仕事表だけに頼ってはあぶない」(小池ほか「もの造りの技能」2001,p29)と述べ、野村によれば「具体的にどのような判定プロセスをへて小池は上述の技術評価に至ったのか、フォローすることはできない」(p275)と述べる方法で技能評価を小池は行っているのであった(小池ほか2001,p35)。野村は述べるのを避けているが、これは小池の主観的判断で述べていることにしかならないだろう。そして、あろうことか小池は自らが固執していた「仕事表」への態度を変え、その価値を事実上否定してしまったのである。


○「事実認識問題」についてどう考えるか?
 新堀のレビューの際に取り上げた「社会問題」の捉え損ねの議論の中で、現われている事実自体の誤認と呼んだ論点については触れるのを避けたが、小池の事例はまさにこれに該当するものといえるだろう。この論点を非常に厄介としたのは、この論点は「観察者」の主観に依存しなければいけないようなデータ(事例)の取り扱いをすべき点というのがどうしても出てきてしまうからである。
 この論点については野村の大きな問題と見ており、唯一の解決策として「専門家集団」を取り上げている。

「私は、このようなモラルハザードを防ぐ唯一の方法は専門研究者集団による厳しいチェックである、と考えている。調査報告書が専門研究者集団によって厳しくチェックされると思えば、資料の創作や、恣意的な資料の改変をおこなう気持ちは生じないであろう。したがって問題は、専門研究者集団が調査報告書の信頼性を検証できるかどうかにかかっている。……
もはや、実態調査研究者は発見した事実を歪めることなく報告している、という素朴な性善説を前提とすることはできない。モラルハザードは起こる、と考えなければならない。モラルハザードを起こさせないためには何が必要か、資料の創作にもとづく報告書が公刊されてしまった場合、どのようにしてそれを判別するのかという問題を、実態調査に関係するすべての研究者が考えなければならない。」(p292)

 このような専門家集団であれば、確かに社会調査に対しては事実を歪めずに議論する余地はある。しかし、これでもデータ収集の段階で改変することについては、個人に依存してしまえば防ぐことは難しく限界がある。
 これに代わってデータ採取にあたり「追試可能」な条件を明示していることというのは、科学的には重要であるといえるだろう。その意味では匿名性というのはできる限り避けなければならない。特に社会問題や日本人が素朴に語られる場合はこの匿名性が結果的に強くなり、追試できないことも多いというのが問題である。
 もう一点可能性としてだけあるのは、「全体的な著者の主張をみて、矛盾がないかどうかを検証する」という論点である。小池のケースの場合はデータの虚偽性というのが相当明確なケースであるため、この論点でもそれがほとんど明確になるし、実際野村もこのアプローチで小池の「仕事表」の虚偽性を間接的に示すことができたといえる。

 例えば、小池は言葉の選択する時に、極めて一貫性が欠けており、野村は「同じパラグラフに「保全専門労働者」、「保全の人」、「保全専門者」という3種類の表現が使われていること自体、小池が言葉をいかにルースに使用するかを表現している。」(p124)と評している。新堀のレビューでも「理念型」の場合として述べたが、キーになる用語の概念が定まっていないような議論というのは、曲解に繋がる。たとえ小池にその自覚がなくても、読者がそれを誤解する可能性を減らすというのは分析者にとっては当然必要な点であり、小池はこのような曲解を「仕事表」の提示の中でも繰り返し続けたのである。
 また、虚偽である「仕事表」の89年の登場は、それまでの小池の理論を体現したものとして出現していることを、小池の論述の経過を見ることで確認している。言いかえれば、「仕事表」を実在化させるだけの条件を89年以前にすでに整えており、突然「理論」だけのものであったものが「現実化」したのである。

「ここにおいても(※85年の論文だけでなく、87年の論文においても)小池は、「ふだんの作業」と「ふだんとちがった作業」という概念を「用意した」のは自分であると主張している。そうだとすると、「生産労働者」の作業を「ふだんの作業」と「ふだんとちがった作業」に区分しているのは小池自身である。
 ところが、完成版知的熟練論の時期以後(1989年以後)、「ふだんの作業」と「ふだんとちがった作業」という概念は、小池がオリジナルに考え出した概念ではなくなってしまった。……小池の功績は、会社がおこなっていることを紹介したにすぎなくなった。」(p118-119)

 このように本書で述べられている小池の態度を見ていくと、私が小池のレビューの最後に引用した内容(青木・小池・中谷1986,p34)自体も海外の職場の事例を曲解して示された虚偽なのではないかという仮説も現実味を帯びてくることになる。ただし、小池のケースは特殊であり、ある意味で簡単に議論のおかしさに気付くことができる内容である。小池自身に悪意がある可能性も低いのかもしれない。しかし、これが「悪意」を持ったケースなのであれば、その虚偽を見出すことは困難になりかねない。論者の主張を信頼して性善説的態度をとることは簡単だろうが、野村のとったようなアプローチによって虚偽の可能性を述べるような方法は難しいようにも思う。