杉本良夫/ロス・マオア「日本人は「日本的」か」(1982)

  今回はすでに予告していた杉本・マオアのレビューである。
 本書は「日本人論」の批判の著書である。本書の大きな主張点の一つは、『日本人論は単一な国民性論とみられており、その複数性を考えようとしない』という点である(p69)。ベネディクトの「菊と刀」からすでにそうであると述べられ(p35)、むしろこれはアメリカの論者における議論の方が強いとみているようである(p79-80,p177)。
 これは、前回の土居のレビューでも「甘え」の普遍化を介して単一性を説明していた点に対する批判と言ってよいだろう。土居の場合、「学生運動の担い手」や「病理者」と安易な同一視をされた「日本人(?)」が作り出されてしまうが、それには果たして一般性が認められるのか、他の集団の議論にまであてはまるのか、という視点がないということである。

 もう一つ本書で重要なのは、『日本の日本人論においては方法論が欠落している』と指摘する点である(p155-156)。何をどのような方法で分析した結果見いだされた傾向が日本人論なのか、という見方が足りないというのである。これは大学の教育においてみられるとされ(p121-122)、その背景として日本独特のジャーナリスティック・アカデミズムの存在を示唆する(p120-121)。このような傾向が日本独自なのかは置いておくにせよ、この「方法論の欠落」という観点は極めて重要な指摘である。特に考慮なく対象が無際限に広がってしまうこと、また因果関係についての検討(因果関係を説明する際に他の可能性についても検討すること)も欠如している理由はまさに方法論の欠落だろう。本書がその意味でまず方法論を確立した上で日本人論を議論すべきというスタンスに立っているという点は(あたりまえのはずだが)押さえておかねばならない点である。


○「日本人論」は特殊なのか?
 本書ではp13にあるように国民性をめぐる議論が流行しているには日本独特のものである、という指摘をしている。「自らを絶えずユニークだと主張している」ということをこの特殊性の一端とみているようである。
 しかし、この主張は二重の意味で批判的検討が必要だろう。まず、「日本の国民性論は他国と比べて盛んである」という主張である。これは「日本人論」と「アメリカ人論」や「イギリス人論」を比較した場合には妥当するかもしれない。「日本人は」という主語をもって議論している点においては、まだ妥当性があるようにも思える(根拠はないが)。
 但し、このような「○○人」という枠組みとは異なる形で「自らの国家に属する人間を定義付けるという発想が欧米よりも日本の方が強い」という主張に読み替えた場合、正しいかどうか怪しいのではないかと私は思う。
 
 まずもってそのような比較の枠組みで物事を捉えるという見方はかなり古くからあるのではないかと思われる。かのヘーゲルも「歴史哲学講義」において次のような指摘をしているという。

 
「第一の時代は、……幼児の精神に比すべきものである。そこでは、いわば精神と自然との統一が支配している。私たちはこの統一を東洋的世界に見いだす。……この家父長制的な世界においては、精神的なものはひとつの実体的なものである。個人は単なる偶有的属性として、この実体的なものに附加されるにすぎない。……精神の第二の関係は、分裂の関係である。……この関係はさらに二つの関係に結びついている。第一は精神の青年時代であって、……これはギリシア的世界である。他の関係は精神の成年時代の関係であって、そこでは個人が自己の目的を対自的にもっているけれども、その目的は一つの普遍的なもの、国家のための奉仕においてのみ達成される。これがローマ的世界である。……第四に現われるものはゲルマン的時代、キリスト教的世界である。……キリスト教時代には、神的な精神が世界の中にあらわれて、個人の中に席をしめているので、個人は今や完全に自由で、自己の内部に実体的な自由をもっている。」(上山春平「歴史と価値」(1972)P101-102からの引用、訳者は上山)


 ここで「ヘーゲルは、アジアを世界史の始点、ヨーロッパをその終点とみて、世界史は太陽のように東から西へ進む、などと言っている」(上山同書、p102) と述べているからも、西洋中心的な見方から歴史解釈しているのではないか、という疑念が晴れない。
 また、アメリカにおける対抗文化論の文脈でも、特に「東洋」との比較というのはよく出てくる印象がある。


アメリカの多くの地方に、新しい「自発的原始主義」、つまり原始民族と同じ質素な暮らしをしようとする雄々しい努力が現われたのである。
アメリカのラディカルな若者たちの間では、質素、優しさ、貧乏、共同生活、移動の自由、新鮮な空気、清浄食品、自然との睦み合い、を特色とする新しい精神がますます強調されるようになった。この新しい事態の進展でとくに目につくのは、禅と道教の影響である。アメリカ・インディアンの文化の影響も同様に顕著である。」(シオドア・ローザック「対抗文化の思想」1969=1972、pxvi-xvii)

 仮に「アメリカ人論やイギリス人論は、日本人論よりはるかに少ない」ということが真であるにせよ、ここでむしろ問われねばならないのは、『なぜ欧米には「○○人論」という論法がないのか』という点ではなかろうか。そして仮説として提起する際のヒントがこれらの議論にあるように思う。この手の議論では常に東洋が比較対象とされ(正確には現時点から遠方に置かれ)、そこに何らかの意味が与えられる。基準点はあくまで欧米側にあり、参照点として東洋が定義される。まさにオリエンタリズムの着想であるのだが、「日本人論」というジャンルもまたその「参照点」として日本が提示されているだけなのではなかろうか?日本からの目線と欧米からの目線というのは、結局対称的ではないのである。だからこそ、「○○人論」というのも欧米ではあまり妥当しないのではないだろうか?本書ではこの点についてまともな実証的比較を行っていないことからも(※1)、問われてしかるべき論点だと思う。少なくとも、日本人論の一翼は欧米人によって描かれたものであることは明確であり(※2)、日本人論について日本人自身がアイデンティティ獲得のために議論されているという言い分は全く通らないだろう。


○日本のジャーナリズムは特殊なのか??
 また、上記のような議論が盛んに行なわれる背景に日本の独特なジャーナル界の影響を挙げている点も、本書の注目すべき点だろう。
 確かにこの影響は検討に値する。新聞に限れば日本人は国際的にも購読者数が多いのは事実である。しかし本書で特に重要であるだろう雑誌の購読者、更に言えば知識人が関わるような雑誌について、それが厚い層をなすような購読者がいることが日本独自であるというのは実証的な議論があるようにも思えず、かなり早計な判断であるように思う。比較をしたことになっていないが、少なくともネットで調べた範囲内では、明確に日本のジャーナルの特殊性を認めるほど層の厚さがあるようには読めない。

 というのも、そもそも比較できる資料が新聞に比べ極端に少ないのではないかと思われるのである。国際比較の観点から言えばわずかに海外のwikipediaにまとめたデータが拾えたくらいであった。

“List of magazines by circulation”
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_magazines_by_circulation

少々ややこしいのは、ここで述べられている各国の発行部数の定義も異なっている可能性がある点である(日本では1号あたりの数字を集計するのが標準的らしいが、アメリカにおける数字は半年間の合計部数である可能性がある。
参考:「アメリカの雑誌 発行部数ランキング(2012年)【ABC(部数公査機構)】」http://10rank.blog.fc2.com/blog-entry-51.html)。


 また、こちらではアメリカの雑誌の総発行部数ベースでの数字の経年比較がされている。これもまた発行部数の定義がわからない。

「米雑誌業界の動向をグラフ化してみる(紙媒体編)(SNM2013版)」
http://www.garbagenews.net/archives/2046169.html

 また、上記サイトからわかる傾向として、アメリカのベストセラー雑誌は発行前に購入が約束された定期購読者の方が圧倒的に多く、店舗販売に重きを置いていると思われる日本とは異なる発行形態といえる。このため発行部数と実売部数の差がアメリカの方が有意に少ないことが想定される点も、実態把握を困難にしているように思える。
 いずれにせよ、このような実証的側面からの議論というのは、新聞の議論に留まっている印象が強く、ジャーナルそのものの議論まで至っているとは少し考えづらい。日本においてジャーナル知識人のような層が存在することは確かに事実のように思えるが、だからといってそれが欧米にない考え方だ、というのはかなり早計であるように思える。むしろ、敢えて上記の傾向のみから判断してしまえば、安定した購読者が見込める仕組みはむしろアメリカの方が確立されており、固定したジャーナル言説も形成されやすいのはアメリカの方ではないのか、とさえ思える。実際、国会図書館のデータベースを少し調べた限りでも、このような観点からのジャーナルの研究は確認できず、この点は「未確認」の領域なのではなかろうかと思う。


○「日本人論」における議論の範囲について
 この論点は、「本書で位置付けられている日本人論というのが、誰によって、誰を対象にして議論されているものを指すのか」という問いを立てることで更に説得力を増す。一般的に日本人が受容する日本人論というのは、素朴に考えれば「日本で語られる日本人論」であるように思えるのだが、本書で扱う日本人論は明らかにそれが妥当せず、強いていえば「世界で語られる日本人論」という目線で取り扱われているのである。
 実際、どこの基準での日本人論なのか、本書から読み取りづらい。P19-20の議論はどこでの言説なのかが読み取れない。p31-32を読めばアメリカ基準とも思われるが、p40やp44-45から読むと、おそらく「英語圏」における議論というのを念頭に入れていると思われる。共著者のロス・マオアが何人かにもよるだろう。
 海外で語られる日本人論と日本で語られる日本人論、相互に影響を受けているのは間違いないものの、語られる内容はやはり異なる。「ライジング・サン」で語られた日本人論も若干の違和感を感じたが、やはり何らかの「偏見」がそこに含まれているし、日本における日本人論もまた「社会問題」といった問題意識に支えられてその部分から海外との比較を欠くといった自体を生むことも多い。その意味では日本で語られる日本人論と、海外で語られる日本人論は一定の異なる性質を持ち合わせているようにも思える。これまでの考察の中では、日本で語られる日本人論はその時々の社会問題の影響も受けながら議論されることも多いように思えるが、欧米からはそのような関心(少なくとも日本の「社会問題」)から議論されることはほとんどないようにも思える。
 その意味で本書では二通りの態度がありえることを考慮しているとは言い難いが、両者の違いとして「同質同調論と分散対立論」の論じられ方の違いについて言及されている(p79-80)。つまり、欧米の論理では圧倒的に同質同調論(「すべての日本人は〜である」という論調)がなされているのに対し、日本の日本人論は相対的に言えばその傾向が弱いということである。しかし、本書の態度が日本と欧米を区別せずに議論している節もあるため、この指摘の意味するところはよくわからない。
 

 以上のように、本書の日本人論は確かに「複数性を無視しているこれまでの日本人論の批判」としては妥当するだろうが、本書自体がとる日本人論の立場もかなりあいまいであり、なおかつおかしな論点、従来の日本人論に対する誤解も多分に含んでいるという点でそのまま支持し難い面があるといってよいだろう。本書に限らず日本人論批判の著書においては、これまで私が読んだものについて限れば同じような誤解、もしくは想定する日本人論が著者の狭い目線の中でしか捉えられていない日本人論であるために、総論としての日本人論を捉える場合にこれが誤りであるという点が散見されるのである。
これは、これまでのレビューで取り上げた「日本人論は具体的な海外という『他者』を想定している」という誤解にも現われているといえる。これについては理論的には確かに正しい面もあるが、実際の日本人論として議論されている著書をしっかり読めば、ズレも認められるのであり、そのズレによって見落とされる論点も多分に出てくることになるのである。


○「日本人論」の時代区分について―日本人論の「特殊性」と「普遍性」について

 最後に日本人論における時代区分への言及(p59,p66)について触れておきたい。日本人論の時代区分については、他書では例えば青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などでも議論される(※3)。ただ、青木の論も基本的にほとんど杉本・マオアと同じ見方をしている。
 この時代区分に関して言えば、日本人自身の自己肯定観の有無と、海外から見た日本人の目線(と日本人が認識しているもの)の影響が大きく左右されていると見るべきだろう。P59のような見方はまさにそうで、基本的に日本人の自己肯定観と日本人論を特殊なものとしてみようとする観点は関連すると見ている。
 また、ここで押さえておくべきは、日本人論における「近代化」という見方である。これは土居の議論においても見受けられた「普遍化」の試みとも同じであるが、日本の発展について見ていった時にその原因が日本独自のものではなく、近代国家の段階を基本的にはなぞっているとみなすとき(日本はあくまで従来の先進国から遅れて近代化し、先進国と同じ道を進んで追いかけていく立場にあるとみるとき)、「近代化」という表現されるようである。本書でも1955-1970年の時期を近代化理論による説明がなされていた時期と捉えているが、これは例えばロナルド・ドーアの「後発効果」のようなものを想定したものと言ってよいだろう。青木保の著書では次のような説明もなされる。


公文俊平が指摘するように、七〇年代の日本研究は、それ以前の研究にみられた「西欧近代社会」を準拠点にすることを超えて、「近代化=西欧化」という視点を離れたところに、新たな領域の開拓を試みるようになった。「高度成長」による、経済大国としての世界における地位の向上とともに、繁栄の時代を迎えたこの時期の日本では、一層強く「日本人とは何なのか、その可能性は」という「アイデンティティー」を問う試みがなされるようになる。」(青木1990,p108-109)


 青木の認識もそれまでの近代化路線から日本独自の視点を加えるように研究が進んだのが70年代の傾向であったと言ってよいと思う。ある意味で土居の議論は基本的に「近代化論」の立場をとっていると言えたが、日本の独自性も強調しようとしていた点で、この70年代の議論のはしりと言うこともできるだろう。ただ、私自身はこの70年代の具体的言説について把握できている訳ではない。

 本書と青木(1990)の2冊の著書と私の見解を合わせて、この「普遍化―近代化/特殊化―日本化」という軸と、その時期の日本の状態に対する「肯定―否定」という軸で見た場合に、概ね次のような時代区分が可能になるだろう。


1.1930−1945年(特殊―肯定)
  戦時体制を背景にした徹底的な日本文化の肯定と欧米の否定
2.1945−1955年(特殊―否定)
  戦時体制の反動としての否定的言説
3.1955−1970年(普遍―中立)
  日本の高度成長体制に付随する言説
4.1970−1985年(特殊―肯定)
  世界的に評価された日本の特殊要因を探る言説
5.1985年―(普遍―否定)
  日本バッシングを端に発した批判と日本の体質改善の要求言説


 今後特に問題にしていきたいのはやはり5期である。そもそも5期の言説自体が日本人論的でないように見えるのは、すでにレビューで述べてきたが、「反省要因」としては確実に「日本人論」の語りが継続されており、その要素の改善を要求する言説になっているということなのだろうと思う。
 また、ここに6期目が存在するのかというのこと、又は日本人論という枠組み自体がすでに滅んでいるのではないのか、という見方も検討すべき課題だろう。このような動向についても今後追ってみたいと思う。



※1 本書において注目すべき実証内容として、ヴォーゲルライシャワー、中根、土居の四人の日本人論者の著書の、日本人としての性質の立証方法に注目した比較があるが(p161-163)、これについても、具体的にどのような基準で分析したのか見えづらい所がある。例えば、「自分の権威に依存した主張」とした内容について、中根のケースについてはわかるものの、土居のケースについては、どのような文章がこのような主張とみなされているのか、土居の著書を読んでもよくわからなかった。本書においてもその説明が全くなされていない。このような点からも、かなり中途半端な分析になってしまっているのが惜しい。

※2 筑紫哲也編「世界の日本人観」のように外国人による日本人論の著書のレビューだけで一冊の本になること、またレビューした中ではD.W.プラース「日本人の生き方」などもアメリカ人に対する内省を促す側面の強い著書であったなどからも、このことが言えるだろう。

※3 青木は戦後の日本論の区分として「否定的特殊性の認識」(1945-1954)、「歴史的相対性の認識」(1955-1963)、「肯定的特殊性の認識」(1964-1983、前期後期の区分あり)、「特殊性から普遍性へ」(1984-)という4つの区分を行っている(青木1990,p28)。



(読書ノート)
p12「力点の置き方に違いはあっても、これらの日本人論はいくつかの点で根本的には同じ内容の主張を繰り返してきた。
第一に、個人心理のレベルでは、日本人は自我の形成が弱い。独立した〝個″が確立していない。
第二に、人間関係のレベルでは、日本人は集団志向的である。自らの属する集団に自発的に献身する「グルーピズム」が、日本人同士のつながり方を特徴づける。
第三に、社会全体のレベルでは、コンセンサス・調和・統合といった原理が貫通している。だから社会内の安定度・団結度はきわめて高い。」
※後述する中根ら四人の日本人論を例示する。
P13「こうした日本人論が、姿を変え、形を変えて、日本の言論市場で花ざかりだ、ということ自体注目に値する。自分たちの国民性の特殊さを強調する書籍が、何百冊も出版され、何冊ものベストセラーが登場するという社会は、日本を除いて、おそらく世界に類がない。日本社会そのものがそれほど独特であるかどうかは別として、自らを絶えずユニークだと主張しているという意味でこそ、日本は文字どおり特異な社会ではあるまいか。」
※これも実証してほしいものだが。「オリエンタリズム」という言葉があるように、西洋と東洋を比較して論じた書籍こそ、枚挙にいとまがないようにも思うが…アメリカの抵抗文化の書籍にもそのような記述は山のようにある。

P19-20「年を追うごとに、日本の経済支配に伴う不平等や不公平が問題になりはじめている。一九五〇年代に「醜いアメリカ人」が軽蔑され、六〇年代には「醜いソ連人」が非難を浴びたように、七〇年代には「醜い日本人」が爼上にのぼった。「エコノミック・アニマル」の日本人は、尊大・傲慢・無遠慮で、金もうけの亡者として、全世界を闊歩している、というイメージが、次第に世界の言論の中に定着してきた。」
※これらはどこで、いかに語られたのか。
P25「しかも、大切なことは、日本から海外向けに紹介されている芸術は、ほとんどの日本人の日常生活から切り離された位置にあるということだ。にもかかわらず、特殊な一部の日本人によってたしなまれている古典芸術だけが外国用に輸出されるために、海外ではこうした芸術が、日本の大衆芸術だと誤解されている節がある。ところが、日本に輸入される芸術品目の圧倒的多数は、アメリカ製の流行歌、フォークソング、メロドラマのような大衆文化が中心だ。」

P36「このような文脈に中で、日本人は特殊独特な国民だと主張するいわゆる日本人論も、国際的に見た日本人の文化的幽閉状態に大きな役割を果たしている。このくびきから自由になるためには、日本の歌舞伎やオーストラリアのメルボルン・シンフォニーといったエリート文化の枠を越えて、民衆文化の出会いのチャンスを増やしていく道を採ることだ、と私たちは考える。そのためには、それぞれの社会の中であまり高級だとは思われていないが、生活者のホンネを代弁している面の強い大衆芸術の相互交換が、ひとつの道を開くのではないだろうか。」
※アクセスの可能性という意味で、ネット社会は確実にこれに寄与している。
P31-32「海外における日本のイメージは、戦後ほとんどアメリカから輩出した。アーサー・ウェイリージョージ・サンソム、ロナルド・ドーアなどの例外もあるが、ヨーロッパの日本研究が前面に登場して来たのは、おおむね一九七〇年代にはいってからのことである。七〇年前後までは、文献量から見ただけでも、アメリカがヨーロッパを圧倒していたし、アメリカ製の日本像が、今日でも、最も影響力を持っていることは、間違いない。」
※とはいうが、客観的な証拠は何も示されない。
P32-33「戦前のアメリカ人類学には二つの傾向が強かった。ひとつは、全体社会のレベルで「文化の型」を抽出することである。……もうひとつは、人間の可能性を発見するという関心が強かったことである。その結果、「西洋」が産業化の過程で失ったとされる過去の美しい伝統が、未開社会の中にいまも生きている、というロマンチックな憧れが研究の中に持ちこまれた。そのため、研究対象の社会の理想像と現実像が混乱するという事態が発生する。これらの傾向は、戦後のアメリカの日本研究を考える背景として重要である。
この伝統の中で、九州の農村について分析したジョン・エンブリーの『須恵村』が、一里塚を打ち立てた。しかし、海外での戦後の日本研究に、最も大きな影響をおよぼした本を一冊あげるとすれば、それは、何といっても、終戦直前に出たルース・ベネディクトの『菊と刀』である。」

P35「一方において、日本人は、優雅で丁寧で平和的な、菊をめでる国民である。しかし、他方では、残忍で乱暴で好戦的な、刀を振りまわす国民でもある。この一見矛盾する反対の傾向が、一国民の中にどのようにして同居しているのか、という問題をベネディクトは解こうとした。
日本人にとってはお互いに矛盾しないように見える二つの概念が、何故アメリカ人には対極的に矛盾して見えるのか、という問題は、それ自体おもしろい研究課題をふくんでいる。しかし、より重要な問題は、「菊文化」を持っている日本人と「刀文化」を持っている日本人とは、二組の別々のグループである可能性が、全く考えられていない点にある。……ここに「ひとまとめ主義」のひとつの行きづまりがある。」
※社会問題を捉える際にも、この見方は重要。
P37「もうひとつの流れは、原始的な郷悠という感情を根底に置いて日本を見直す、という立場である。すでに述べたように、このような見方は人類学一般の特徴とも関係があり、この潮流にある人たちは、欧米産業国が近代文明の発達の中で過去の牧歌的・田園的・自然的な何かを失った、と考える。こうした前近代へのノスタルジアを胸に日本を見つめるとき、そこには西洋が失った古い伝統が波打っているように思われるふしがある。」
※もうひとつの「西洋の日本観察者の」流れは、近代化論として、西洋優位を語るものだという(p36、ダグラス・ラミスやロジャー・パルヴァースの指摘として)。

P40「こういった長期展望に立つ解析を集大成しようとする試みが『日本の近代化についての研究シリーズ』全六巻に結晶した。このシリーズは、一九六〇年から七〇年にわたって、英語圏の屈指の日本研究者を動員してまとめられた。しかも、英語出版界では最も権威のあるとされるプリンストン大学出版会から出版されたせいもあって、このプリンストン・シリーズは今日の日本研究にもなお影響力を持っている。」
P42-43ウィリアム・モーレイの引用…「マルクス主義史観は『人間抜きの歴史』として非難をあびてきた。このような史観は日本人には受け入れにくい。日本にはあれこれと過ちもあった。しかし、日本にはあれこれと過ちもあった。しかし、日本は集団の責任・献身の美徳・因縁の意識が人びとの感受性を織りなす国である。そこでは、戦勝国マルクス・レーニン主義者態度よりも、もっと人道的な態度が深く要求されてきた。過去の間違った道程を否定するものではないが、敗戦の大きな溝に橋をかける人道的な歴史が望まれているのだ。このような人道性を発揮すれば、生き残った日本人は共に暮らしていくことが出来、未来の世代は祖先に愛と誇りと、少なくとも理解をもってふりかえることが出来る」
※これは「近代化論にとって、マルクス主義者の強調する日本社会の中の緊張・対立の実態とその意味するものを考えることが、日本研究の中心課題であることを指摘する。」ことに付け加えた議論で、何故か対立関係の分析を無視したコンセンサスを述べたものとしてその「大前提に対しては、ほとんど疑問をはさむことはなかった」と指摘する。

P44-45「この波に乗って、一連の日本のベスト・セラーが、一九六〇年代の後半から七〇年代の前半にかけて、続々と英語に翻訳される。……
この中で一番よく知られているのは、中根千枝の『タテ社会の人間関係』の英語版『ジャパニーズ・ソサエティ』、土居健郎の『「甘え」の構造』、石田雄の『ジャパニーズ・ソサエティ』、イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』などである。」
p45「このような日本人の日本人論が英訳ブームを迎えているのと時期を相前後して、ハーマン・カーンの「日本株式会社」説が登場する。この説によると、日本社会全体が大きな株式会社のようなもので、政府と大企業が重役会を取り仕切り、体臭は忠実にこの会社の従業員として働いている、というのである。カーンは二一世紀は日本の世紀であると予見し、日本独特の社会的な団結性・労使関係の安定・高度の貯蓄志向といった価値観が、日本の経済活動を世界一にする、と主張した。この分析は極めて静態的なものであり、日本人の価値観は過去・現在・未来を通じて全く変化しないものとして考えられている。」
p46「こうした考え方をさらに一歩進めて、それならば、欧米先進国も日本から何かの秘訣を学べるのではないか、という着想が、一九七〇年代にはいって発生した。
この視点を理論的に最も洗練された形で示したのは、ドーアの「逆収斂論」であった。この考え方の最大のポイントは、いままで考えられていたように、世界の国々が工業化と共に欧米社会に近づいていくのではなく、日本社会の型に発展していく可能性を示してみせたことである。」
※「英国の工業—日本の工場」(1973)ではイギリスが日本の方向に向かうのが望ましいとしている、という。

P46-47「同じ年(※1976年)に、ウィリアム・クリフォードは『日本における犯罪防止』を出版、経済の急成長にもかかわらず、日本社会は犯罪率を低く押さえることに成功したと強調した。警察・裁判所・監獄などが一般市民の協力をうまく獲ち得ていること、その成功の原因は日本特有のコンセンサス志向にあることなどを指摘して、日本が犯罪防止における最先進国であることを示唆した。これも、逆収斂説の一種である。」
※原題はCrime control in japan。
P49-50「そのすべてを分析することは時間が許さないが、日本人論が描く日本の自画像は、劣等感に影響されている時代と優越感に影響されている時代とがあり、この二つの間を時計のフリコのように揺れ動きてきたとはいえるだろう。このフリコの位置は、日本が国際情勢の中で占めてきた位置と関係している。」
P52「柳田は西洋の観念や法則を日本社会の分析に持ちこまず、常民の経験を資料とした叙述主義に徹した。そのことによって、彼の研究は今なお日本産の概念や理論を構築するための素材として生き生きした内容を持ちつづけているという面がある。しかし、その意識的な非論理性のゆえに、当時の皇国史観の中に、彼の実証研究が吸い上げられていく、という面も否定することはできない。」
※具体的にどうだったのかは見えてこない。

P55-56「このような潮流の中で、もう少しジャーナリスティックな次元では、「日本人野蛮人論」ともいうべき論説が力を得てくる。連合国占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーの「日本の精神年齢は一二歳の子供なみ」という実現は、この種の流れを象徴する警句であった。今日でもこの底流は生きている。経済や科学技術はとにかく、文化・意識・生活様式などの点で、欧米先進国より遅れている、という主張である。女性の地位が低い。学閥がある。総会屋が暗躍する。逮捕・起訴された元首相が選挙で当選し実力を手放さない。公私混同の社用族がいる。家元制度がある。記者クラブのメンバーには、特定の新聞社の記者しかなれない。これらはすべて、日本の半封建的・非民主的現実の実現である、ということになる。
このような論説の根底には、近代の西欧・北米社会で理想とされた個人主義・民主主義などを制定基準として、日本の現実を裁く、という方法が潜んでいる。このような見解は、いわゆる知米派とか国際通とか呼ばれる人たちによって展開され、日本の伝統の中で望ましくないと考えられる要素を批判する力となった。しかし同時に、このような人びとによって考えられる〝理想″の西洋には、〝現実″の西洋とは必ずしも合致しない面が多い。この二つの間の開きが大きくなると、彼らの日本分析の中に曇りが発生する。私たちはよく「アメリカではこうだのに、日本ではまだまだだ」というような言論が聞かされるが、アメリカで本当にそうなっているのかどうかについて、十分な根拠を持っていない場合が多い。」
※また、「日本人はすべて同一の傾向を持っているという前提」と「欧米社会をひとかたまりとして理念化する方式」は戦前のアプローチと似ているという(p56)。

P59「高度成長・所得倍増・海外進出といった日本経済の発展によって、一九六〇年代後半から、七〇年代にかけて、日本のエリートは自信と楽観を取りもどした。戦後長い間、「封建的日本」対「民主的西洋」という対比図に悩まされた論者にとっても、この時期の日本経済の発展状況は、目を見張るような新事実であった。したがって、その理論的な説明が急務となる。同時に、日本の「海外侵略」に対する批判も強まる。こうした非難をかわすための対応も必要となる。
 このような前後関係の中で、日本人論は一九三〇年代を思わせる日本特殊国民論に先祖返りする。日本教・新風土論・国民性の研究といった見出しであらわれてきた一連の出版物は、日本はユニークな社会だから、その研究には日本にだけあてはまる特殊概念を使う必要がある、という主張を前面に押し出してきた。この立場は、民主化論や近代化論が、「市民意識」とか「産業化」とか、どの社会の分析にも使えるはずの普通概念を中心にして展開されたのとは対照的である。」
p61「新国民性論の最大の理論的貢献は、一時代前の近代化輪に対して有効な反撃を加えた点にある。このことを過小評価しない方がいい。すでに述べたように、近代化論を定式化した試みとして、最も影響力のあったものに社会学者のタルコット・パーソンズのパターン変数がある。この枠組みによると、人びとの行動基準は〝前近代″から〝近代″にむかって移行し、個別主義から普遍主義へ、属人主義から実力主義へ、集団主義から個人主義へと変わっていく、という。
 新国民性論によると、日本社会はこの種のモデルにあてはまらない。パーソンズの図式とは逆に、日本は高度産業社会になっても、個別主義・属人主義・集団主義が根強く残っており、まだまだ普遍主義的・実力主義的・個人主義的な社会にはなりそうにない、というわけである。
 より広く、近代化論が前近代社会と近代社会の集団の特徴と考えている項目を対照表としてまとめたのが、表4・1である。近代化論によると、産業化の進行と共に、集団の傾向はこの表の左側から右側へ移行する。ところが、日本では、その移行が起こらなかった、だから近代化論そのものの中に間違いがあるのではないか、というわけである。」

p66日本社会独特説の時代ごとの価値観的底流のまとめ
※先進国として高い評価をした「国体文化理論」(1930-1945)、後進国として低い評価をした「民主化理論」(1935-1955)、後進国的側面を批判すると共に、先進国的側面を評価した「近代化理論」(1955-1970)、先進国として評価した「新国民性論」(1965-)の4区分。国体文化理論と新国民性論が特殊性を強調し、それ以外が普遍性を強調するという。

P69「戦後四〇年近くにわたる日本人論を鳥瞰してみると、海外でも国内でも共通して二つの傾向がきわだっている。
ひとつは、日本人のどの個人、どの集団、どの関係を取り出しても、全体に共通なパターンが普遍的に存在している、という考え方である。「日本人は一般に〇〇である」とか、「日本社会ではすべて××というふうになっている」とかいう叙述の根底には、日本社会が他の社会と比べて整合された単一体であり、その全体を貫く特性がある、という見方が前提となっている。」
※それこそ一般的には単一を明言しているかもしれないが、例外もあるのでは。理念型の議論を含めると少々乱暴な感がある。また、「日本だけ単一体」で語っている訳ではないのはすでに述べているが。
P70-71日本人の同質同調論の特徴
※基本的に集団主義の話になっている。「従来の日本人論の主流的考え方」とする。
P79-80「同質同調論と分散対立論の分布は、図5・1に示すように、非常に偏った形をしている。同質同調論は、西洋とくにアメリカの学界・ジャーナリズムをほとんど独占しており、日本でも支配的な流派である。これに対して、分散対立論は、海外では非常に少なく、日本では研究の数は多いが、日本人論の中で登場することはまれである。」
※これは立証が必要な案件である。

P95-96「ひとつは、個人のレベルで日本人が集団に献身的だという仮説をおし進めていくと、いわゆる「役割衝突」の問題にぶつかる。二つ以上の異なる役割の要求に応えるために、板ばさみになって進退きわまる状況がそれである。同調論によると、日本人一人ひとりは、まるでたったひとつの集団に属しているかのような図式が考えられているが、現実には、家族、会社、政党、趣味の会、社会運動集団、労働組合などいくつものグループにも所属している方が普通であろう。しかも、これらの異なる集団が同じ方向の要求をメンバーに課してくるとは限らない。」
P100-101「日本人は自分も属する企業、欧米人は自分の属する職業を基準として、自分や他人を分類する傾向が強い」ことの反論として行った高校生調査で「知人、故郷、親友といった情緒的なつながりについて、日本の高校生がアメリカの高校生よりもずっと低い評価を下している」ことがわかった。
※少しずれた論点もある。日本人論的には大学と同じように「一流企業」の名称によって区切るという論点と、職場の中での団結心が強いから会社別意識が強いという議論をここでは混同してしまっている。前者についてはそもそも高校生に聞いているため意味をなしていない。
P103「この表(※イロハかるたをもとにした格言の価値観のタイプ分類)を観察してみると、この民衆の格言集の中に最も強くあらわれている価値観は、経済合理性、反権力志向、忍耐にもとづき努力、自己技能の開発といった要素であり、権力への服従、自我の未発達、集団への情緒的没入といった日本人についてのステレオタイプからはほど遠い。」

P120-121「日本人論がなぜ日本で流行するのかを考えるさいに、日本には、アカデミズムとジャーナリズムの接点に、ジャーナリスティック・アカデミズムとでもいうべき領域が非常に広い幅で存在しているという状況をも無視することはできない。大学の教職にある人たちが、大衆消費用の原稿をマス・メディアに発表したり、テレビ番組に一種のタレントとして登場することが盛んだ。書店主や通訳、官僚や医者といったさまざまな背景の人たちが、いったんマスコミ用の執筆者となると、評論家という肩書きで、学問的な装いをもった論陣を張る、という風習もある。総合雑誌という半アカデミックな雑誌が何種類もあり、しかも相当の固定読者層を持っていることは、日本の読書界のひとつの特徴だといえる。
こうした構造があるために、いったんこのジャンルにいる人たちが、ひとつの説を吹聴すると、それは単に純学問上の論点としてとどまらない。すぐに何万、何十万、何百万という読者や聴視者の中へ飛びこんでいき、増幅増振されて、社会通念を形成する。日本人論の通説の根強さは、このような学界と媒体との相互依存の関係と無縁ではない。」
※これもあたかも日本独特の話と言いたげに見えるが、著者はそう思っていない可能性がある。結局、その文化の特徴の指標(ここでは分野の幅)が何を参照しているのかわからないからである。それは単なる主観かもしれないし、やはり外国の比較なのかもしれない。

P121-122「日本人論のほとんどが思いつきの連続で、確固とした学問的蓄積の上に組み立てられたものでないという実情の背景には、いろいろな要素がからまっている。日本の大学では、社会科学の方法論・方法・論理といった分野での訓練がほとんどなされない。外国の日本研究の学生たちの多くは、地域研究プログラムの中で勉強するため、日本語の勉強と日本についてのバラバラな事実を詰めこむだけに終わっている。このため、日本でも外国でも、ある権威者が日本についての一般抽象命題を提出すると、その命題を科学的な方法によってテストしてみようとするよりは、すぐに信用してしまうという傾向があらわれる。思いつきの上に思いつきを重ねて展開される日本人論をチェックする学問的勢力が、日本国内にも海外にも十分に育っていないのである。
一方、比較の対象となっている海外の社会については、大学よりも企業や政府の研究機関が詳細で最新のデータを握っているという事情がある。こうした団体の研究はどうしても政策立案第一主義になりがちだ。国策や企業の営利という点を中心にして構築される外国像がどのようなゆがみを持つかは、あらためて繰り返すまでもない。」
※実際のところ、メディアの受け手の態度については何も立証材料を提示していない。また、バラバラな事実しか拾えていないという見方も、方法論の欠陥と、その対処能力の欠如とみなせないのか??

P134「例えば、「日本的」という概念の中身は何だろう。あえて日本的という以上、他のどの社会にもない属性か、せめて日本において最も著しい傾向でなければ、その資格はない。ところが、目下流行の日本人論は、日本については詳しいのだが、比較の対象になっている外国社会については、情報も認識も薄っぺらだ、というのが実状である。」
※一見、この主張はもっともだが、実際はそうならない。「少なくとも日本にはこのような問題がある」という意味で用いることには問題があると言い難い。これはむしろルール要請として用いていくほかないだろう。しかも、本書自体にもその傾向がある。
P135「例えば、日本人は「親方日の丸」で権威に弱いとよくいわれるかと思うと、「半官びいき」で弱い、という説もある。このどちらが正しいのかは検証を要する。」

P149-150「もう少しこみいったやり方としては、語源法というべき方法が使われる。例えば、英語の文献でよく出て来るのは、「すみません」という表現である。この言い方はもとを正せば「あなたに対して無限の精神的な借りがあるのだが、これをいくら努力して返そうとしても、それでもう済んだということはない」という意味合いから出て来ているのだ、という。この表現を根拠にして、日本人は対人コンプレックスを持っており、この「すまない」という心に押されて、仕事にはげんだり、勉強に精出したりするのだ、といった種類の言説が登場する。「おかげさまで」という表現は、「あなたの保護・慈愛に感謝する」という意味で、この一言を見ても、いかに日本人が対人依存的かよくわかる……などという議論も、同じ傾向に属する。
しかし、言葉の語源がどの程度現代の使い手によって意識されているかそれ自体大問題であり、一足跳びに国民性の定義にまで発展させられる性質のものではない。だれでも知っている「グッドバイ」という英語は、語源をたどれば「神があなたと共にありますように」という意味である。だから、英語国民はすべて宗教的である、という議論は、いささか滑稽ではないだろうか。」
p152-153「第四に、とくに日本人の日本人論者に多い排他的実感主義が問題である。こういう人たちの間には、日本のことは日本人にしか解らない、という迷信を信じている人が多い。こうした解り方の根拠となるのは、彼ら自身の体験の量なのである。……
しかし、おもしろいことに、今日隆盛を極めている日本人論の筆者である日本人学者・ジャーナリストは「日本人のことは日本人にしかわからない」という前提に立つ一方、比較の対象となっている海外社会については「われわれは外国人ではないが外国のことはよくわかっている」という、明らかに矛盾するもうひとつの前提にも立っている。……
ある国家・社会・文化の正確な把握のためには、そこに生まれ育った人の直感だけがただひとつの頼りだ、という考え方は社会科学の基礎となる比較研究そのものを否定する独善主義の危険があるのではないだろうか。」
※以外とこの論点は俎上に乗る。以心伝心論をこじらせるとこうなるようである。その意味ではこの批判は論点がずれている。

☆P155-156「評論家やジャーナリストが、自らの印象を述べることは自由である。社会科学者も同じことをやればよい。ただし、社会科学者が社会科学者として発言するときには、その発言が、社会研究という自らの日々の営みの中に基礎を持っている必要がある。何となく、これこれこういう感じがするというだけでは十分ではない。その感じをきちんとした方法で調べてみるか、あるいはどうしたら調べられるかをはっきりさせておかなくてはならないだろう。……
パーパーバック用に書かれた日本人論は、大衆消費用のものだから、それを社会科学の方法論だの、実証の手続きだのといって批判するのはおかしいのではないか、という考え方もある。それぞれの学者の学術研究の方法論的基礎は、その学術出版を検討してみるべきだ、という説には一理ある。ところが、実際にそれぞれの筆者の学術書を調べてみると、そのほとんどは日本人論そのものとは無関係か、関係があっても方法論は明示されていないことが多い。
むしろ、日本人論者の中には、一種の相互引用の癖がある。論者Aの本を読んでいると、読者Bがこういっているから、というような論証が出て来る。そこで論者Bの本を見てみると、論者Aの言い分が好意的に紹介されているだけだ、というような循環構造があちこちにある。
物理学者がノーベル賞をもらったとたんに、日本人論の重要発言者になったり、数学の専門家が権威ある賞を受けただけで日本社会研究の専門家のような顔をして論陣を張るという場合もある。……日本社会についての素人談義が大研究の成果のように飾りたてられてまかり通ることができるのは、日本人論があまりにもその方法論的な裏づけについて無頓着であったことと無関係ではないだろう。」
※まさに学術的に重要な論点はこれに尽きる。結局「学者」という役割で生きる人間にはこの程度の要請はあってよいはずである。だが、実証的な指摘とは言い難いものも。

P161-163「この三つの表を詳しく観察してみると、少なくとも、つぎの点がはっきりする。
第一に、四著に提示された命題の大部分は、証拠やデータによって裏づけられることなく書き並べられている。このことは、因果関係や相関関係を示す理論的命題に関して、とくに顕著である。
第二に、証拠が提示されている場合でも、中根、土居が根拠として使っているのは、はっきりした基準にもとづくことなく、勝手気ままに選ばれた実例の類が圧倒的に多い。第九章に述べたように、逸話やエピソードに依存するエピソード主義、特殊な語句に依存するコトバ主義は、同質同調論の常套句な方法論と考えられるが、この傾向は日本人の筆者の場合、とくにきわだっている。一方、ヴォーゲルライシャワーの手法には、こうした傾向とは対照的に統計的データの駆使が目立つ。ただ、表の中にはハッキリとあらわれていないが、ヴォーゲルライシャワーは、いろいろなケース・スタディを引用して議論を進めることが多い。逸話にせよ、ケース・スタディにせよ、これらの情報が「日本社会全体」をどの程度代表しているか、という問題が残る。
第三に、比較の対象となる社会が明示されないまま命題が提出されがちである。四著共、単に何となく日本について書いているのか、それとも他の社会と比較して観察される日本の特徴を議論しているのか、はっきりしない場合が多い。」
※ところで、p162では証拠の累計分布なるもので各著者が根拠を示した場合に何をもって日本人論を展開するかの表がある。中根と土居においてはヴォーゲルライシャワーと異なり、「自分の権威に依存した主張」とカテゴライズされるものがある。杉本・マオアはこの点について特段説明していないが、実際に読んでみれば中根の場合、「筆者の考察によれば」(中根1967:p27-28)「筆者の立場からすれば」(同p32)「筆者の観点からすれば」(同p45)といった記述がされており、これのことを指しているのかと思われる。

☆P165-166「一般に、ある概念を定義するにあたって、その語がふくまない領域をはっきりさせることは、概念提出者の義務である。土居説の場合、「甘え」でない状態とは何なのかが、全く明確でない。「個人の自由」とか「個の独立した価値」とか「集団を超越した何ものかに対する所属感」とかいう語句が、「甘え」の反対の状態を示すらしく、具体的にはキリスト教的道徳に依拠した思考や行動を「甘え」の反対例として使っているところが多いのだが、そうかと思うと、ピューリタニズムも甘えたいのに甘えられない心理体制に根ざしているらしいという記述もある(『「甘え」の構造』一三三頁)。
問題は、「甘え」の意味する範囲が限定されないまま、はっきりした基準なしにあらゆる方向に拡大され、どんな状態でも「甘え」の発現形態である、とこじつけることが可能な議論構造になっているところにある。この意味で、「甘え」は無原則的全包括概念に他ならない。八掛を見る占い師がよく「あなたはかなり心配性である」とか「あなたは心の底では親切心の強い人だ」とかの性格占いをやることがある。こういう描写は、各語の定義があまりにも漠然としているので、その意味をどうにでも受けとることができ、占われる人がその気になれば、必ず的中する。」
※これは本書も似た傾向を示すことがある。そして、土居のケースはむしろ程度問題でしか議論できないものに極概念を付与している、という言い方がより適切な問題だろう。このような論法の問題は、結局何を改善すればよいのかという議論の際にも基準がないため、結果「何をやってもダメ」という結論になりかねない。

P169「中根の立論についていうと、ある所ではこういったかと思うと、別の所ではああいうというふうに、前後対立するのではないかと思われる命題が、あちこちに出てくる。
例えば、経営・管理職レベルほど企業間のヨコの移動がむずかしいという観察が展開される一方、大企業への経営陣への〝天下り″現象が取り上げられ、この二つの命題の関係がどうなっているのかは、あまり説明されていない。内部対立や反権力抗争についての長い議論があるかと思うと、日本人はそもそも服従心が強いという主張がくりひろげられ、この二つの矛盾するように見える傾向の間に、どういう関係があるのかは述べられていない。」
※同じような説明はこのあとも1ページ以上続いている。出典は中根「ジャパニーズ・ソサエティ」。原著において天下りの議論はどこにあるのかわからなかった…
p170-171「日本人の集団倫理はメンバー間の「和」を尊重することにあるという主張がなされる半面(※ママ)、集団の中で地位の低い人が、集団の外部で実力を認められ、評判が高くなると、集団の中にこの人に対するねたみや敵意が高まるという。だとすれば「和」はグループの全員に対して、常時公平に作動している一般的な倫理規範とはいえず、ある条件の下では「和」の尊重度はきわめて低くなる、とも考えられる。」

p173「つまり、土居に代表されるコトバ主義的日本人論の根底には、ある言語表象の存在・不存在が、それに符合する心理的属性の存在・不存在と相関するという前提が内蔵されているわけである。
この前提をうけいれるとすれば、まず「甘え」よりももっと頻繁に使用される語彙を考慮すべきではないか、という点が問題となる。土居は「甘え」という言葉が日本社会できわめて使用度の高い語であるといいながら、その根拠となるデータを一度も示していない。そもそも、「甘」という漢字そのものが教育漢字の中にはふくまれていない。さらに、日本の新聞にもっともよく出て来る漢熟語を調べた菊岡正著『日本の新聞熟語——頻度順最重要一千語——』にも「甘」という字は一度も出て来ない。」
p177「表10・5は、ヴォーゲルライシャワーの叙述・因果命題の基礎になっているサンプルのタイプを調べたものである。この表を見ると、両者とも「日本人すべて」とか「日本全体」について述べていることが多く、この点でも同質論的な傾向がはっきりしている。この傾向は、ライシャワーの方に特に著しい。」
※表は日本・日本人の他に、企業組織、大企業の社員といった表現で分類される。ここでの表現はあくまで「日本人は」という表現に留まるのではないか。必ずしも「全ての日本人は」とか「ほとんどの日本人は」という言い方であるとは考えづらい。

P177-178「一方、日本内部の部分的な観察対象ということになると、ヴォーゲルの論述は、政府機関や企業、特に大企業についての観察が中心である。つまり日本のエリート層の観察から日本全体の特徴づけが行なわれているのである。女性、ブルーカラー、逸脱者、少数民族など、日本の中の〝ナンバー・ツー″またはそれ以下の集団は、ほとんど視野にはいっていない。」
P184「私たちの主張は、同質同調論の理論的内容がすべてまちがっている、という点にあるのではない。私たちのいいたいことは、同質同調論がキチンとした方法論をもとに展開されていないために、その理論的内容が妥当性をもっているかどうかは未決の問題だということである。」

P211「しかしこういうことも考えられるのではあるまいか。日本人は非常に個人主義的で、自己利益が何であり、それを実現するのにどういう方法が有効か計算をしている。また、日本人の人間関係は、形式や書式の整備を根幹としていて、契約主義的である。さらに、日本の社会組織の成り立ちは、管理系統の明確なコントロール主義の傾向が強い。こういう現実があるからこそ、それを中和し隠蔽する機能を果す非現実的虚構が必要となる。その虚構は現実とは逆の特色、つまり集団主義、腹芸主義、コンセンサス主義などを唱和することによって、人びとを暗示にかける機能を負わされる。この種のフィクションの一葉式として、同質同調論的な日本人論があらわれた。」
※社会問題の議論をする場合、このさじ加減が崩壊していることが多い。
P251「学生運動の活動家も、ランダムに発生するのではない。一九六〇年代の大学闘争のころ書かれた鶴見和子の報告によると、いわゆる活動家や学生運動に関心のある学生は、親の仕送りの他に何らかのアルバイトをしている場合が半数近いのだが、無関心層の八割以上は親の仕送りだけを頼りに暮している。経済的な資源の背景が、政治的行動の確率を決める例である。」
※これも因果はどう読むべきか難しいが…