勝野尚行編「教育実践と教育行政」(1972)

 本書は、以前レビューした榊編(1980)と同様、名古屋大学教育学部の関係者により書かれたものである。

 前回、榊編でレビューした際に学校教育をめぐる議論においてなされる「専門性」について少し検討したが、本書はまさにその点を詳しく論じていたため、補足の意味も込め検討する。

 

〇何故「専門性」には具体性が付与されないのか?

 

 前回のレビューでは、学校教育をめぐる「専門性」が無限定的で、その具体性を定義しがたいことを示した。本書の議論からは、教育法学の立場からの「専門性」の議論が、何故そのような性質を持ち合わせてしまうのか、端的に示されている。

 

(1)「専門性」は子どもの全人的発達に応える必要があり、教員にも全人的発達が求められるから。

 

 p28では、いわゆる「無限の可能性」論も意識しながら、学力テストなども含めた数値化された学力そのものを「非科学的」だとし、「聖職的資質と技能的資質を結びつける非合理なもの」と断じている。「全人的発達」というのは「無限」のものであるから、有限的なものとして定義することがそもそも否定されているのである。これに関連して、p28-29では、教員の分業体制についても否定している。そのような分化もまた疎外しか生まず、「教員自身の全面発達の機会を奪う」(p29)ものであるからこそ否定される。

 当然ここでいう全面発達には、p28-29で示される分業体制により確保されるべき「専門性」も当然一教員の手によって(すべての教員により等しくその全ての専門性を)確保されるものであることが前提とされる。p125で斎藤喜博に対し「「教育の専門家」概念は「授業の専門家」に矮小化されている」という評価を下しているのもまさにこの観点からであるといえる。以前斎藤をレビューしたように「授業論」というのは斎藤にとって教師に必要な素質を検討するためにも確立されねばならないものととらえられていた。しかし本書ではそれさえも「必要な専門性」としては足りないと断じるのである。繰り返すが、ここでは端的に「そもそもそのような専門性を確保することが可能なのか」という問いは放棄されるのである。

 

(2)「専門性」には「抵抗」が必要であるから。

 

 本書では専門職集団である教員の自律性は何よりもあたりまえのように存在しなければならないものという教条主義に立つことで、後述するエチオーニの実態に即した「専門性」論さえも否定している訳だが、この理論的要請から、専門性には「抵抗」がないといけないことが明言される。本書で繰り返される「聖職性」というのは、まさに抵抗なき専門性論に対する批判として語られており、本書で語られる「専門性」も端的に「抵抗」があることだけで、専門性が満たされるという言い方も誤りではないのではないのか、と私などは感じる。というのも、「抵抗がない=国家の支配に反論しない」ということであり、国家が教育を語ろうとすること自体を否定し、それを支持しようとする論者には全て「専門性を語る資格がない」かのような言い分で批判を行うからである。p226のような中教審の委員に対しての批判や、p111の山崎真秀への批判、p134やp258での田中耕太郎への批判も全て「抵抗」の観点から批判されているものととらえるほかないだろう。

 

〇エチオーニの専門性論の曲解について

 

 本書ではその専門性論を補うために何人かの論者を取り上げている。最も頻出なのはリーバーマンであるが、リーバーマンの著書は邦訳書が刊行されていない。次点で取り上げられているのがエチオーニで、本書が取り上げている「現代組織論」には訳書(1967年)が存在するため、エチオーニの著書における「専門性」について触れておきたい。

 エチオーニはその著書のなかで、「専門性」と「管理」についての関係性について議論している。本書で指摘があるように、この「管理」というのは、「専門性」とは対立的な関係にあり、管理の側面が強すぎると、「組織の設立目的がそこなわれ、知識が創造され制度化されうるための諸条件(たとえば学問の自由のような)が危険にさらされる」(エツィオーニ1964=1967,p127)と指摘する。しかし、他方で、専門性が強すぎる場合においても、「組織目的の実現が脅かされ、ときには組織の存在さえ危くなる」(同上、p127)と述べる。それは「組織は、その活動の財源を得るために資金を獲得しなければならないし、種々の機能に職員を配置するために人員を集めなければならない」(同上、p127)ために特に営利企業においては、「専門性」は「管理」と適切なバランスをとらねばならないし、費用のかかる資源や補助職員の必要性の増大により、伝統的な専門家も「管理」の側面を考慮しなければならない状況になってきているという(同上、p120)。

 

 では、学校教育における「専門性」についてはどう考えればよいのか。エチオーニはこの点について、素朴に定義しているのは事実であり、大学は当然学問の自由を行使するため、「専門職組織」でなければならないとするが、他方で特に小学校などは最も典型的な「半専門職組織」であるとする(同上、p134)。そして、半専門職である理由としてエチオーニは「知識を創造・応用するよりも、伝達に重きがおかれること」「(教員になるまでの)訓練期間が5年以下であること」「生死の問題を含まない(恐らくは責任の問題と関連付けていると思われる)」「秘密保持の責任も厳密に維持されない」といったことを根拠にしている(cf.同上、p136)これは、私が榊編のレビューで行ったとおり、学校教員における「専門性」を保護者がそこまで求めないのではないのか、という論点とも関連する主張であり、エチオーニの専門職論においても本書でいうような「教育の専門性」は支持されているわけではない。本書でもこの点は了解しているものの、p148においては、小学校においても「専門職組織」であるべきだと強調されるのである。更には、p12にあるように、エチオーニの理論を何故か「対国家的・対行政的な諸権利に関する理論」として位置付けるものの、これについてもエチオーニの議論の本旨に反するものであるといえるのである。

 このような本書に都合のいい部分だけそれとなく取り上げ専門性について「理論」の補強を行い、余計な部分はわざと排除するような態度はエチオーニに限らず、杉本判決に対する態度にも現れているといえる。杉本判決も一方では内的事項・外的事項論の取り扱い方について問題があるものであると指摘していながら(p132)、p134にあるように自らの「抵抗」の専門職論に寄与する部分についてはことさらに強調され、そのような専門職論がすべてであるという、教条主義の立証材料としては都合よく用いているのである。

 

 このような態度の最大の問題については、エチオーニの議論そのものから見いだされるものである。つまり、専ら「専門性」のみを追求した場合には、経済的に非効率となり、いくら経済的資源があったとしても足りないという状況すら生み出す可能性があるということである。エチオーニは専門職組織における財源は寄付や税金により賄われると述べているが(エツィオーニ1964=1967,p141)、その「専門職組織の目的」なるものは、決して外部と無関係ではありえないのである。まさに社会的に善であるとみなされるからこそ財源確保にも正当性が与えられるのであり、そのような正当性は結局理論だけではなく、「実態」についての検討なしには評価のしようがないのである。本書においても、理論だけで終わっているのは明白なのであり、組織の自律性に対する正当性を担保するような議論は行わないことこそ、問題視されねばならないだろう。

 

 

<読書ノート>

☆P5-6「そしてしかも、もしもこれらの問題についての解答を誤るならば、「教職もまた専門職とみなされるべきだ」と主張することの現代的意義は、ほとんどまったくなくなってしまうのである。たとえば、これらの問題に対して、教職とは教育行政職をも含めて教育関係職の総体のことだ、専門職とは聖職ないし専門技術職のことだ、教職もまた専門職とみなされるのは教職従事者に必要とされる資質・能力が聖職的資質と専門的技能だからだ、などと答えたうえでそのような主張をする場合を考えてみえばよい。なぜなら、そのような解答を与える教職「理論」によっては、教育行政職(=教育行政権力)が教職(=公教育教員)の学問の自由ないし教育権を侵害し剥奪している現実(およびそのことから生じているわが国公教育の荒廃した現実)をすこしも批判しえないし、ましてそのような「理論」が公教育現実の「変革の理論」となりうるはずもないからである。むしろかえってそのような教職「理論」は、「国家の教育権」論を補強するイデオロギーとなり、教育行政権力による教員の学問の自由権の剥奪に手をかすことになってしまうからである。」

※はっきり言えるのは、このような教師に必要な資質を問う専門職観そのものが問題であると考えられたということ、それはそのままその定義づけの放棄に繋がったことは容易に推察できること、である。そしてその「理論」が否定される「理論」を展開することこそが、「理論」の地位を引き下げることにも貢献したと言える。この愚行は単純に否定ありきであったためにそれ以外の思考が抜け落ちたがためのもの、という言い方以外に行為の理由説明が難しい。

P9「ではこれら答申が先行させた公教育労働観は何であるか。それこそまさに「国家・資本の利益への従属労働としての公教育労働」観であり「国の教育としての公教育」観にほかならない。そしてこのような公教育労働観に照応させる仕方で「専門職」を観念していればこそ、これら答申の「専門職」の理解はいちじるしく恣意的・独善的となり、結局それを「聖職的技能職」と等置することになってしまったのである。

そうだとすれば私たちは、教職もまた専門的プロフェッションとみなされるべきだということを論証していくために、教育労働は所与の「知識の伝達」労働につきるものではけっしてなく、それもまた労働のあり方への絶えざる研究的接近を要請する専門職労働ないし学問的労働であることを実証し論証していかなくてはならない。子ども・青年の基本的人権=全面発達権としての「〝教育〟をうける権利」の概念内容についての認識をさらに深めながら、そうした「〝教育〟をうける権利」を真に保障し充足しうる教育労働は学問的労働であらざるをえないということをきめこまかに十分に立証していかないかぎり、教職もまた専門職とみなされるべきだということを論証したことにはならないからである。」

※知識の伝達の話は、エチオーニの議論をもとにしている。

 

P11「だから、専門職とみなされるべきだということは、もちろん社会的評価とか社会的尊敬などともかかわって対社会的関係のなかにおいてもいわれうることであるが、大部分の公教育教員が専門職労働者として国家・地方公共団体・私学理事会などに雇用されていることを考えるならば、そのことは主要には対国家的・対行政的な諸権利とかかわって対国家的関係のなかでこそいわれなくてはならない、ということになるのである。

事実、ILOユネスコの『勧告』が教職もまた「専門職とみなされるべきである」というとき、『勧告』は、公教育教員を対国家的関係のなかにすえてこのことをいっているのであり、そこで公教育教員にもまた専門職一般が享受している対国家的諸権利の総体が保障されてしかるべき旨いっているのである。」

※一般的な『人権』に対する解釈一つで議論が変わるような内容では?

P12「以上のようにみてくると、専門職としての教職理論とは、公教育教員の対国家的・対行政的な諸権利に関する理論だということがわかってくるはずである。M.リーバーマン、T.M.スティネット、A.エツィオニ、A.ローゼンタールなど現代アメリカの代表的な教職論者たちが「専門職の自律性」「専門職権限」「専門職の権利」などの諸概念の内容にかなり精力的に論及しているのも、まさにそのためにほかならない。」

※エチオーニに関してはこの指摘はかなり怪しい。国家という枠組みよりも、現代社会に対する目線の方がエチオーニは強いと見るべきでは。

 

P26「たとえば、専門職論には大別すると聖職論、専門技能職論、「専門」スペシャリスト論、専門的ジェネラリスト論などがあるわけだが、中教審の専門職論はそのうちの第三型におおむね属しながらも、しかしそれはその専門職の指揮権を完全に国家・資本に譲り渡した「従属労働としての専門職労働」=教育労働論を前提としている点で、最も後進的なものでしかないのである。専門職とは、一定の科学・学問の論理によってその労働を規律することを要求するものであり、したがって国家・資本その他社会的勢力の不当な干渉・介入に対する自律的運営(権)を強く要求するものであるとするなら、これら二つの鍵的専門職要件をまったく欠落させた専門職論が中教審のそれなのである。」

※この論理を発展させるなら、対保護者の議論でも保護者排除の方向に専門性論を持っていけたはずである。しかしそれはできなかったのである。

P28「たとえば中教審答申は、教員養成の重点目標に専門的資質をあげている。が、その資質とは教育的愛情と使命感と職業倫理でしかなく、また技能的には児童生徒の能力・適性を客観的データーに基づいて合理的に見定め判別していく選別能力=専門的技能なのだとしていること、これは実に聖職的資質と技能的資質を結びつける非合理なものである。なおまた後者の専門的技能に至っては、子どもの能力や発達を固定的・有限的にしかとらえない非科学的発達観に立ったそれでしかないという点で、一層非合理なのである。教育の専門性どころか発達疎外の専門性といったほうが事実にかなっているほどである。」

P28-29「なおまた教員の教育労働管理論としての学校重層構造論や教育機器論なども重大な問題をはらむ。経営層、管理層、作業層などへの教員の職階制化、職務内容に基づく五段階給与体系の移行、教育機器やT.T方式、無学年制の採用による職務内容の細分化と機械化、なおまたそれに見合うプログラマー教員、オペレーター教員、カウンセラー教員、その他アシスタント教員などへの教員の部分労働者化、これら中教審の教育労働管理論は、教育労働をより徹底した資本主義的分業の原理によって再編成し、人材開発と教育効率だけに眼を向けた「労働力商品の生産労働」に転落せしめるもの以外ではありえない。」

※全てが「平凡な」教師志向。「あえていうまでもなく、教員の教育基本権・労働権を欠落させたこのような教育労働論は、実はその教育労働をこそ源泉的契機としていかねばならない教員自身の全面発達の機会を奪う」とし(p29)、「第一に、教育労働は、形式的には全面発達権なる基本的人権の、内容的には歴史的類的存在としての人間的人格の意図的形成労働である、という点で特徴的である。」(p29)と定義(?)する。

 

P34-35「というのは、わが国教育史上第三の教育改革といわれる今回の中教審教育改革構想などは、教職の専門職化を提唱しながらも、それは結局は国家の教育権論に立って教員の教育権を全面否定するような単なる専門技能職でしかなく、教員の教育労働過程は資本の倫理や重層構造職階制原理によってごく一面的な部分労働=従属労働にますます奥深く転落せしめようとしているからである。」

P63「子どもは学問・学習する上で、このような権利主体であるときはじめて、教師の身分的権威や欺瞞から解放されるのであり、逆に教師は、主権者子どもを正当に認めうるときにはじめて、一方的な教化・詰込み・画一教育は学習権を無視した人権侵害教育=加害者教育でしかないこと、つまり逆にいえば、個および集団としての子どもの要求・意見・思考を豊かに自己開花させる教育だけが人権保障教育なのであること、をリアルに認識しうるのである。」

※このような教師批判から集団主義教育の本質である「悪」性が削り取られていったという可能性はないか。

P64「なお以上のような把握は、学校教育の総体が子どもの自治権の下に包括されるようにみえよう。が、実際には教員・父母もそれぞれの立場で教育権・自治権の下に総括されるようにみえよう。が、実際には教員支配となるわけではない。だいじなことは、教員集団・父母集団・子ども集団がそれぞれ自治権の主体者として対等かつ民主的関係を確立することである。教員の生徒管理権・懲戒権を楯に子どもの自治権を全面否定したりそれに著しい制限を加えたりすることこそ厳しく制限されるべきなのである。」

※このタテマエは実際は全否定されている類のものといえるか。

 

P71「教科に関する改訂の基本的な趣旨は、基礎学力の充実、科学技術教育の向上、地理・歴史教育の改善・充実・情操陶冶、身体教育の充実、基本的学習の重点化である。これらは、技術革新および高度経済成長が教科に要請する内容で、いずれも支配層の政治的・経済的意図が反映しているということができる。真実や真理をおおいかくす教科の内容が果して教科の内容になりうるだろうか。すでにそこでは単なる技能のおしつけと虚偽の一方的注入が行なわれるのである。」

※二項図式以上の結論はありえない。

P72「つぎにこの指導要領の問題となる点は、生徒の進路、特性に応ずる教育という点である。就職する生徒には職業科を、そすて家事につく生徒には家庭科を選択するよう示している。こうしたことは、進学する生徒については、英語、数学を中心とした強化を重視し、就職する生徒については職業教育を施すことによって、個々の生徒がより一層望ましい方向に成長するという考えに立っているからだろうと思われるが、しかし、就職する生徒が英語を含む教科を選択することができなくなっていることは、大きな問題であるとしか考えられない。」

※ここでは「同じ教育」に与していないようだが、「同じ教育=選択させない普通教育」を志向していたのはどの集団だったのか。

 

P92「授業における子どもの認識過程は教材を媒介にした知識や技術の習得過程という特殊な認識過程を含むから、そのすべてをかかる一般法則で律することはできないが、しかし授業での認識過程は子どもの全生活での認識過程の一部分である以上、後者過程から切り離すわけにも、また実験、実習などを含めた社会的実践から切り離すわけにもいかない。授業の認識過程にもその根底には認識の一般法則は貫徹しているのである。これが教科指導において教育と実生活の結合の原理を不可避とする認識過程論上の理由である。」

P97-98「では生活指導の本質は「訓育」にあるとして、いうところの「訓育」とは何であるか。事柄の意味内容をより明確にするために「陶冶」と比較していうなら、陶冶が自然、社会、人間に関する客観的な知識・技術を系統的に指導する過程であるとするなら、訓育は陶冶の成果の実践的応用をも含めて、自治的・集団的な実践活動を基礎に子どもが一定の世界観、社会的態度、道徳性、美的・芸術的感覚など、総じて人格的資質を身につけていくことを指導する過程である、といってよかろう。別な観点からいえば、陶冶が子どもの学習権・真理追求権の教育科学的保障を主として問題にするとすれば、訓育は子どもの自治権・社会的実践権の教育科学的保障を主として問題にする、といってもいい。だからこの意味で、訓育過程としては、活動の計画、活動方法の設定、その活動の展開にいたる全行程において子どもが主役を演ずる領域、すなわち教科外活動の領域がいわゆる生活指導の領域としては中核的な位置におかれてくるのである。」

 

P111「このような山崎(※真秀)説は、つぎの三点から批判されてしかるべきである。第一に、国家による国民教育は不適当であり、国家によって国民の教育権を保障するということはそもそも矛盾であるという点から。第二に、国家が分担する教育条件整備は、主権者である国民に対して国家がおう義務以上のものではありえないしそれ以上のものであってはならないという点から。第三に、教育権限が専門職権限であるのに対して、教育行政「権限」はけっしてそのような専門職権限ではありえないという点から。ここでは私はとくに第三の点を強調しておきたい。A.エツィオニが専門職権限と行政権限との関係を問題にしたとき、彼は後者権限を専門職権限とみるようなことはまったくしていない。学校のような専門職組織においては、それは、専門職労働を直接に掌る専門職者がもつ第一次的な専門職権限に対して、それに「従属」し奉仕する第二次的な権限にすぎないといっているのである。そしてしかも、教育権限と教育行政権限とのいずれをも専門職権限としてパラレルに把えることは、専門職プロフェッションという概念の内容を矮小化して、それを教育の専門職ジェネラリストから教育の「専門技術職」スペシャリストにかえてしまうことを意味する。このような教員の教育権限論を基礎にしたのでは、教員の教育権概念の内容をして「教員が教育労働をとおして自己の全面発達を達成していく権利」にくみかえていくことはとてもできないという点で、このような教員教育権限論こそまさに超克と止揚の対象となってくるのである。」

※国家教育に対する前提及びエチオーニ理解が横暴すぎる。

P125「氏(※斎藤喜博)の「教育の専門家」概念は「授業の専門家」に矮小化されてはいるが、授業すること自体は教員にとって重要な任務であることから、氏の教授の「自由」の主張は現在なお一定の意義をもつといえよう。」

※この批判には名古屋大学教育学部紀要15巻の勝野論文が参照にある。

 

P132「もっとも、(※杉本)判決は内的・外的の区分論を採用し、国家が関与するのは教育の外的事項であり、内的事項については「必要最小限度の大綱的事項に限られ」るべきだとし、それ以外では教師の教育の自由を尊重すべきことを説く。このことは、判決が「教育の自由」を「教授の自由」と同義に解していることと関係しているように思われる。また「教授の自由」が教育課程編成権を含むものとするならば、「大綱的基準」といえども国家権力にまかせてしまうことには問題が残るであろう。」

P134「親の教育権と教員の教育権との関係については、先にみてきたように、一般に法論理的には親から教員への信託の関係で把握されている。もちろん、そこには教育の本質論・教職=専門職論が介在しなければならない。そうでないと、国家にも委託されて、教育に一般の代議制=議会制民主主義の論理が適用されることになり、田中氏のように国家にもまた教育権があるとする危険があるからである。教員は「親ないし国民全体」の信託を受けて、教育の本質に従って子どもの成長・発達を保障し、しかも「親ないし国民全体」の「合理的な教育意思」を受けて、教育の本質に従って子どもの成長・発達を保障し、しかも「親ないし国民全体」の「合理的な教育意思」を受けて、「専門性と科学性」に基づいて教育にあたる責務を負っているものである(杉本判決)。そしてこの信託の論理は、同じ国民である親と教師との間にのみ貫徹するのである。かくして、教育においては代議制の論理は排除されるのである。この点、影山氏はつぎのように説明を加える。教員=受託者は、「信託者の合理的教育意思にしたがうのであって、個々の国家意思や政策にしたがうのではない」、その合理的意思は「まさに憲法教育基本法に定着されている民主主義と平和の原則によって規定されている」のであり、しかも「これらは、同時に『親』の教育意思が合理性をもつかどうかの準則として、信託者をも拘束する。それゆえ」「受託者は、ここで意味するかぎりにおいて、個々の信託者の意志から相対的に自律した教育関係の主体」なのであると。」

P140-141「労働が本来その労働従事者の全面発達の契機であるべきであるといわれるように、教員は教育労働を通じて全面発達すべきであり、同時にその教育労働は子どもの「教育を受ける権利」を保障すべき教育実践でなければならなく、そのために教員は「教育の自由」が保障されねばならないのである。」

※論理的にも実際は正しくないし、しかもこの自由の保障は子どもの教育権に対し必然的結果をともなうものと考えることもおかしい。

 

P147「また前節でみた勝野氏の労働権理解からいっても、「学校の自治」が倫理必然的に導き出される。「学校の自治」がなければ、教員は教育労働を科学的認識に基づいて自律的にすすめることができなく、したがって教育労働は全面発達の契機になりえないからである。」

※エチオーニとの議論の違いは無視できない点。

P148「(※エチオーニによれば、)それに対して管理者が異議をとなえる場合でも、その管理的考慮をどの程度とりいれるかは、専門職がみずからの判断で決定すべきであるとする。管理の影響が大きくなり過ぎると、専門職組織の目的そのものがそこなわれ、学問の自由のような知識の創造・制度化のための諸条件が危険にさらされることになるからであるとしている。もっとも、エツィオニは、小学校は半専門職組織であるとしているが、この点は問題がある。現実はそうなっているにしても、本来は小学校もまた専門職組織であるべきだからである。」

 

P201「今日の教育界を支配しているものは産業界特に独占資本である。……そこには、憲法で保障された基本的人権の思想、つまり教育を受ける権利も教育の機会均等の思想も、また教育基本法第一条にみられる人格の完成を目ざす教育もまったくみられない。しかも、このような非人間的な階級的教育理念と制度とが教育界を支配しつつあるということである。これは、悲しむべきこと、怖しいことである。

しかし、われわれ教師および教育学者は悲しんでばかりはいられない。なんとかして人間中心の教育にひきもどし、子どもの夢を育ててやらねばならない。その意味でわれわれの支えになるのは、今日においても、依然として日本国憲法及び教育基本法が守られているということである。」

※このゴリ押しで失われるエチオーニの議論の最大論点は、管理の側面により強調される組織の経済的な自律性である。そしてこの無視は極めて「親方日の丸」的発想であるということもできる。いくら専門性が非効率的な営為であっても公的機関である学校であればその組織が崩壊しないのである。

P209「第二に、教育の正常化が破壊され、人格形成に大きな歪みをつくり出した。すなわち、多くの生徒が縮小された普通科をめざし、そのために中学校が受験教育を激化していった。さらに、生徒は模擬テストや定期テストの点数で理数科を頂点に下は家庭科・農業科、さらにその下は定時制通信制へとふり分けられる。したがって、大多数の生徒は希望に反した学校・学科に入学して、学習意欲を喪失し必要以上の劣等感を植えつけられるなど、人格形成に大きな空洞をつくることになる。

第三に、高校多様化教育そのものが教育学的に矛盾したものであるということである。とくに職業学科や定時制通信制の産学協同方式でみられる現象であるが、一般基礎教育が軽んぜられて技能教育が重視されていることである。その結果、創造的能力をともなわず、そこで得た知識・技術は、当面の企業の要求には役立ちうるが、一〇年後、二〇年後のより高度な技術を必要とする社会には役立たなくなる。このことは、教育の普遍的真理を否定し、あくまでも高校教育政策が企業の当面の利害に基づいてのみ押しすすめられていることを示すとともに、生徒一人ひとりの生活権・生存権などの基本的人権を奪うことを意味する。」

普通科志向自体が反対勢力によっても支持されていたことは日本の教育にとって不幸なことだったのではないか。

 

P216「今日すでに中学校では能力別学級編成が考えられており、高等学校では多様化が実施されている。中学校の能力別指導は学級単位で考えられている。この方法は勉強のできるクラス・できないクラスという形で分けられることになり、いたずらに優越感と劣等感を育て、授業はできるクラスに力を入れることになり、区別→選別→差別の教育につながっていく。また、能力のあるクラスのなかでも、できる生徒・できない生徒の差がでてくる。したがって今日の能力別指導は、実際にはほんの一部の生徒だけの指導に終るにすぎない。同様に高校の多様化教育を、生徒自ら選んだコースではなく、企業からの要求で無理矢理に押し込められたコースであるところに問題がある。」

P226「最後に、答申の成立過程をみていえることは、現中教審委員は教育科学にまったく無知か、表面的な理解に終っているか、間違った理解をしているかいずれかであるということである。教育にたずさわるものは、もっと謙虚に教育の本質をみきわめていくべきであり、そこから生れる科学的成果を教育実践にとり入れていくべきである。」

※「単に」という言い方はあたかも二項図式以外がありえるかのような言い方だが、それはない。中教審委員への批判がそれを物語る。

 

P255「このような「不当な支配」の解釈は、「第一〇条がいましめている当面のものは、まさに国家権力・公権力自体なのであ」り、それゆえに「第一〇条の核心は、公権力自体の教育に対する不当な支配の禁止にあり、そのことは、公権力の教育に対する権限の制限の意味でもある」という宗像誠也のしっかりした明確な解釈と対比してみるとき、いかにもひ弱で消極的な解釈だといわざるをえない。」

※宗像が本質。「当面」の意味は考えなければならない。

P258「なお、「不当な支配」の禁止は抽象的には公権力向けられているとしても、それはより具体的には国民に向けられたものだという、以上みてきたような田中(※耕太郎)氏の教育基本法第一〇条①の解釈そのものの誤りについては、すでに宗像誠也の論文「教育行政(※1966、宗像編「教育基本法」収録)」での明確な指摘もあるし、また、渡辺洋三氏の『法というものの考え方』での「近代法の精髄」論にてらしてみてもその誤りは明瞭なので、ここで詳説するまでもないと思う。」

※細かな話はしていないが、これは「国家への奉仕」につながるから否定されている、というべきか。「国民の学問の自由もまた対国家的関係のなかでは絶対的権利である」(p259)とみなされている限りは。

P264「ではどうして「公の奉仕」が「国民大衆への奉仕」から「国家への奉仕」にすりかえられてしまったのか。その理由を田中氏の教育権論そのもののなかに求めるとするなら、それは氏の教育権論のなかでは子どもの教育を受ける権利および教員の教育権が正当な評価を受けておらず、両親の教育権だけが異常なまでに肥大せしめられていることによる、といってよいだろう。」

※端的に「近代人権思想のこのような欠落」(p266)「近代人権思想をまったく欠落させてしまった田中氏」(p267)とし、「形式的就学権」に教育を受ける権利を解釈することへ批判する(p267)。両親の教育権の議論がことさら強調された点については引用されている訳ではない。

 

P292「にもかかわらず私たちは、現代においては専門職従事者の「プロレタリア化」が急速にすすんでいることをも同時に認めなくてはならない。もちろんここでいう「プロレタリア化」とは、単に現象的に専門職従事者の生活水準とか労働の条件とかが劣悪化してきているということをいうのではなくて、専門職従事者の労働手段とのかつての関係が変化してきて、現代においてはその多数が労働手段から疎外されて被雇用の賃金労働者に転化してきているということをいうのである。」

☆p292-293「つまり私たちの考えでは、もともと専門職プロフェッションとは、この職業に従事する者たちが個人的にも集団としてもこのような諸権利を享受しえているような職業をいうのである。だからこそ専門職の理論は、専門職従事者の専門性論にとどまるものであってはならず、専門職従事者たちの対国家的諸権利、彼らの労働条件、専門職労働の管理組織、当該労働に関する政策形成における彼らの権威、などについて論ずる理論でなくてはならないということになってくるのである。」

※この主張に決して妥協は許されない。決して現実の教師がいかに歪んだ実践をしていたとしても、これがよい教育の必須条件である以上、否定することができないのである。そしてここから具体的な専門性について言及不可能となる理由も、「国家権力に従属してはならない」ことから必然的に導かれるものとなるのである。

P293「だからこそ、「教職は専門職である」ということをくりかえしいいながら、その実そこでもっぱら「専門性」の内容に論及してそこから「専門職の権利」論をまったくもって欠落させているような「専門職」論は、専門技能職論であり聖職論だといわざるをえないのである。」

※善の定義が確定しており、それはやはり具体的な専門性への言及=聖職論と定義付けられる。この部分も含め、本書の主要部は勝野尚行によるところが大きい。