中野雅至「公務員バッシングの研究」(2013)

 本書は「公務員バッシング」という「現象」について、その発生背景について論じた本らしい。「らしい」としたのは、私自身が本書を偶然図書館で見つけ、タイトル及び分量から期待していた内容とは全く違うものだったからである。もちろん私が期待したのは、これまで検討してきた「親方日の丸」といった過去の公務員に関連する言説との関連性の議論も含めた形での、「公務員バッシング」の性質をめぐる考察だった訳だが、残念ながら本書はまともに過去の議論を検討に加えておらず、ただひたすら90年代以降の議論だけで「公務員バッシング」を性質付けようとしている印象しか持てなかったのである(※1)。

 本書の大きな問題点として、「公務員バッシング」という言葉をどのようなものに対して適用して使っているのか全く明確になっていないことが挙げられる。本書を考察する前提としてまずはっきりさせておかなければならないのは、本書のいう「公務員バッシング」とは世間に言説として語られていた「公務員バッシング」とは異なるということである。読書ノートP40で指摘した通り、公務員バッシングという言葉自体はほとんど活字媒体においては世間に流布していない言葉である(※2)。では何を指しているのかというと、90年代後半以降における官僚の不祥事を端に発したとされる公務員批判、中央省庁の組織改革に繋がる批判的言説に対して、そう呼んでいると解釈するほかないだろう。一見このような解釈の仕方は問題がないようにも思えるが、この解釈自体が「荒すぎる」解釈の現われであるように、私には思えてしまう。

 

○読売新聞は「公務員」をいかに語ったか?――社説記事の言説分析から――

 

 本書のどこに問題があるのか具体的に語るにあたり、まず実証的なデータ分析から始めた方が早いように思う。ここでは、読売新聞の社説記事のうち、タイトルに「公務員」を含む、1970年から2009年までの記事、89本の分析を行ってみる(※3)。

 
(1)量的傾向について

 

 まず、89本の記事の時期別の傾向を見てみる(※4)。

1970年~74年 7本

1975年~79年 10本

1980年~84年 9本

1985年~89年 2本

1990年~94年 2本

1995年~99年 10本

2000年~04年 19本

2005年~09年 30本

 これについては、中野も指摘している通り、90年代後半から一気に「公務員」についての議論がさかんになったと言うことができるだろう。ただ、他方で中野は新聞についての評価をp39-40にある通り「報道スタンスが変わったとは考えられない」とも言っており、それに限れば見誤っていると言うこともできるだろう。

 

(2)時期ごとの言説分析

 

 さて、記事で語られていた内容についてであるが、私自身が想定していた以上に、時期によって語られている内容が明確に異なっていたことがわかった。基本的には今回比較を想定する70年代の議論と、90年代後半以降の議論、そしてその中間時期の3つに傾向を分けることができた。

 

(2-1)1970年~1982年までの記事の傾向(計25本)

 

 この時期の記事の特徴としては、主題がとてもわかりやすいという点をまず挙げられる。25本の記事のうち21本は基本的に「人件費削減」に関する内容を議論している。その「人件費削減」の記事のうち、特に前回日比野のレビューでも取り上げた東京都をはじめとする地方自治体を中心とした公務員給与を取り上げたものが9件、人員削減について主題としたものが4件、退職金もしくは定年制について議論しているものが8件であった。

 この時期の議論で確認したい点は2つある。一つは、p610-611で中野がまとめていた「公務員バッシング」の特徴とされた「中央から地方へ」というバッシングの拡大という言い方の正しさに関わる部分である。90年代以降の議論にだけ限れば、このような指摘が一見正しいように解釈する余地があるのかもしれないが、過去の公務員批判と比較した場合、むしろ70年代の主題は次の引用のように「地方自治体」にもかなり向いていたという見方ができ、決してその問題の範囲が拡大していったようなモデルを提出することはできない。

 

「もちろん、地方公務員の給与が、国家公務員を上回ったからといって、一概に非難できるものではない。地方自治体には、地方自治体の家庭の事情もあろう。若干の格差は、あって当然でもある。

 しかし、それが、民間の給与水準を大きく上回っては、やはり問題だろう。民間準拠の原則にも反し、納税者である国民感情を逆なでするものでもある。例えば、格差が〇・一二%と、官民がほぼ同一水準にある鳥取県で、人事委員会が、「国に準じて改定」を勧告しているのは、無責任というほかはない。

 こんなことの積み重ねが、地方公務員の給与に対する国民の根深い不信感を生んでいる。自治省が指示した職員給与の公開制が、住民の強い支持を集めているのも、そのあらわれといってよい。そうした声に、率直に耳を傾けるべきだろう。それは、地方自治の発展のためでもある。」(1981.11.23)

 

 もう一つは、定年制に関する点である。この論点については、90年代以降も「天下り」に関連して論じられているが、定年制と退職金はある意味セットで語られている。それは、勧奨退職制という慣行と合わせて、退職金が多く支払われている点が同時に批判されていたからである。この時期においてもしばしば「天下り」に対する言及があるものの、より直接的には定年制の確立と、高額な退職金制度の是正が語られる。

 

「職員の中立性の観点から、国家、地方公務員法身分保障されている公務員には、定年がない。人事の新陳代謝は、定年にかわる勧奨退職、つまり“肩たたき”によって行われている。東京都を例にとれば、管理職は五十七歳、一般職員は六十―六十三歳が“肩たたき”の対象となる。五十五―五十七歳定年が一般的な民間に比べて、それだけでもかなり恵まれているというのに、この間に退職すれば、退職金に五割のプレミアムまでつく。退職奨励の苦肉の策とはいえ、まさに“役人天国”というほかない。……

 この点にメスを入れたのが横浜市方式だが、それも、六十歳と一か月以上の期間を退職金の対象からはずしたに過ぎない。民間では、常識以前のこの程度のことが、全国自治体の注目を浴びているというのだから、民間と自治体の感覚のズレは深刻である。

 それだけではない。勧奨退職制は、地方自治体の行、財政にさまざまなヒズミを生んでいる。勧奨年限が、慣行的に、実質的な定年となっている管理職では、民間への天下りが正々堂々と行われ、その一方では、一般職員の高齢化が進み、行政能率の低下、人件費の増大、人事の停滞を招いている。

 これを改善するには、人事にケジメをつける以外に方法はない。」(1975.3.20)

 

(2-2)1983年~96年までの記事の傾向(計5本)

 

 この時期は「公務員」に関する記事は少なかったといえる。特に93年~96年までは1本も社説記事にはなっていなかった。5本の記事のうち、1本は週休5日制に関するもの(1986.6.20)、1本は国際公務員の育成に関するもの(1989.10.5)で、残り3本は「人件費削減」に関連する記事だった。しかし、この時期の人件費削減の記事として特徴的と言えるのは、その削減の主題が見えづらく、むしろ「行政の効率化を図れ」という形で主張されている点である。

 

「しかし、(※国家公務員の)職員数は一年前に比べ、減少どころか三百二十六人の増加である。人材の効率的な活用のため求められる省庁間配転は、この一年間で百三人しか行われず、実施決定後の三年間の合計でも、わずか二百七十五人でしかない。仕事そのものを見直しての能率化については、全く行われていない。

 加えて、公務員の高すぎる退職金や、年金の官民格差に対する国民の目は、さらに厳しさを増している。その結果、人勧そのものについても、給与、手当のみの比較でなく、生涯賃金や仕事の能率、身分の安定度も加味した内容とすべきだとの声も出ている。

 こうした諸条件を考慮すると、今年度の人勧は、実施に当たって何らかの抑制が行われても、やむを得ない。経営危機に直面した時の民間労使の対応に照らせば、決して無理な要望ではないと思う。

 ただ、ここではっきりしておきたいのは、われわれは、公務員に低賃金を求めているのではない、ということである。人並み、あるいは、それ以上の高い賃金であっていい。しかし、能率もそれにふさわしいものにしてほしい、ということである。」(1983.8.6)

 

(2-3)1997~09年までの記事の傾向(計59本)

 

 この時期の傾向は更に2つに分けるべきで、「2005年3月から2006年8月」までの13本の記事からなるB期と、それ以外の46本の記事からなるA期に分けて検討する。

 まずA期についてだが、まず押さえるべきは70年~80年代にあったような、給与格差や人員削減の問題がほとんど取り上げられなくなった点である(例外と言えるのは1999.1.27の記事1本のみ)。では何が主題なのかというと、正直な所、簡単に分類を行って主題を語ること自体が困難になっている傾向が認められた。一言でまとめるならば「人事制度の見直し」に関するものなのだが、その内容については重複等も多く、どれを中心にしているかは明確化しづらい。ただ、何故分類困難になったのかはある程度説明できる。この時期に中野の著書でも語られているように、官僚を中心にしたバッシングが確かにあり、それは既得権益に染まった中央省庁、官僚の問題として語られ、それに伴う『組織の見直し』を行うことが求められたのである。そして、結局この『組織の見直し』というのがある意味で「不明確」であったのである。ただ、これは中野がp362-363で言うような、抽象的な批判に終始し、具体的な行動が伴っていないから不明確、という訳ではない。

 

 この不明確さは、特に70~80年代の議論と比較した場合に、大きく3つの意味で説明できるものであるとわかる。1つはこの「組織の見直し」の議論がコスト削減といった量的な問題ではなく、公務員倫理や組織体質改善という質の問題であったという点である。端的にそれは成果指標が不明確とならざるをえず、なにかしらの策を講じたとしても改善につながっているのかどうか評価が困難なのである。そもそも公務員倫理のようなものは、法整備といった対策により効果が期待できるのかという疑問さえ社説の中で語られる。

 

「ただ、こうした改革の方向が、どの程度実行に移されていくのかとなると、かなり心もとない。改革内容の多くが、法律改正といった課題ではなく、現行法の「運用」にかかるからだ。つまりは、公務員の「意識」が変わらなければなにも動かない、という懸念が残る。」(1999.3.17)

 

 2つ目は、この「組織の見直し」として質の改善というのは、多岐にわたるものであり、なおかつ「構造」そのものを改めようとする取り組みでもあった点である。「年功序列、横並びからの脱却、能力・実績主義の導入、早期退職勧奨見直しと天下り是正、定年延長、官民交流、採用試験や幹部育成などキャリアシステムの見直し……。公務員制度改革に当たっての課題はすべて密接に関連している」(2007.8.23)とされるのである。「戦後日本の再建と発展を支えてきた官僚機構にも、次第に組織疲労が蓄積され」(1999.8.11)、端的に言えば「制度疲労」(1999.6.26)、仰々しくは「明治以来の官僚社会の幣を打破する歴史的な課題」(2005.2.6)という形で捉えられる制度の見直しを行おうとしていたものだったということである。容易に数値化可能な量的削減とは次元がやはり違う。

 

 また3つ目として挙げられるのは、やはり量と質の議論と関連して、この問題が必ずしも「親方日の丸」の問題として、言い換えれば民間比較の問題として語ることができなかった点も大きかったのではないかと思う。民間給与や退職金の問題、広義にはコスト削減の議論というのは、民間との比較を行い、「民間でできるのに、官公庁では何故できないのか」が簡単に指摘できた。天下りなどは「勧奨退職制の廃止と定年制の導入」という観点では民間比較が可能だが、天下りの事実自体は比較不能なものである。しかも、天下りの問題は、官民の関係性について切り込むという側面があり、転じてそのような「関係性」そのものの規制を行おうとしていたものであったが、そのような規制が「生きた情報に接することができず、官僚の重要な職務である政策形成などにも問題が生じ」る(2005.2.20)ことや、「統計数字みたいなものだけを相手にする官僚では、反面で独善的行政の弊害が増す懸念も生じる」(1998.2.11)ことが指摘されるのである。特に官僚層については優秀な人材が登用されることにも期待しているのであり、一方的な規制がまずもって支持されていた訳でもないのである。

 

 

 また、70~80年代においても、天下りに関連した定年制の議論は基本的に同じように議論され、それはしばしば退職金ともやはりセットとなって語られる傾向が認められる。しかし、これらがセットになった議論というのは、「退職金の減」ありきではなく、「天下り」といった問題の解決の方により重点が置かれて議論がなされていると言える。

 

 さて、次にB期についての議論をまとめる。この時期に限れば、A期のような『組織の見直し』ではなく、70〜80年代同様、人件費削減の議論が集中している。この議論の発端は2005年3月5日の社説で、2005年度の予算が衆議院を通過したこと、その中で「地方交付税の見直し」が図られる必要性を述べている。70年代には批判の矛先が東京や大阪など、当時給与基準等が高かった大都市の自治体に向けられがちであったが(cf,1974.8.7、1981.5.9)、この時期はむしろ人事院勧告と同様の賃金改善を行った結果、地方(田舎)の民間企業と比べれば、高水準の給与が支払われているという形での批判が目立つようにも見える(cf,2005.3.15、2006.4.11)。しかし、どちらの時期にも逆に官民格差のない状態である島根県が国に準じて増額改定されることへの批判(1981.11.23)、及び大阪市における手厚い福利厚生・手当支給の問題視(2005.3.12)もあり、一概には違いとして言い切れない所もある。

 また、本書でもp610-611にあるように「批判が詳細になった」という指摘あったが、中野も指摘していた2006年の人事院の賃金官民比較調査から対象企業を従業員100人から50人に変更した点なども含め、そのような印象もない訳ではない。しかし、これについても1978年11月4日の社説では、地方自治体の人事委員会が実施している官民比較の調査そのものが(民間賃金を過大評価しているとして)「そう簡単に信じられる数字ではない」と述べられるなど、かなり強い論調で批判を行っているものもある。このような点からは、このB期のコスト削減の議論は70~80年代の議論と異なる特徴がなかなか見いだせないように思える。

 

 

 以上の議論も踏まえ、読売社説の検討を行った結果からみる中野の著書における主張との相違点についてまとめる。

(1)p39-40に見られる新聞への評価は適切ではないこと。

 

 確かに70年代と比べ、「より厳しい批判的論調にはなっていない」という点では正しいが、公務員に向けられる分量は明らかに大きくなっており、その分公務員への批判は強く向けられていたということは、新聞媒体でも言うことができるだろう。

 

(2)p99やp135のような批判対象となる「公務員」の拡大は全く見受けられなかったこと。

 

 少なくとも読売新聞の社説からは、その対象が「国家公務員」「地方公務員」に限られており、それは70年代においても全く変わっていない。地方自治体への注目という意味ではむしろ70年代の方が官僚批判を端に発した公務員批判を展開する90~00年代よりも強かった印象さえある。

 

(3)90年代以降の公務員批判と、その改善についてp362-363にあるように「不明確」として過小評価していること。

 

 不明確化は具体的な案の欠落という訳ではなく、むしろその問題とする「組織」の改善の難しさそのものにある。例えば、「天下り」の実施における承認を人事院ではなく、閣僚(主任大臣)に判断させるという案に対しては「実務的に極めて困難だろう」(2000.11.30)「実際上、不可能と言っていい」(2001.3.30)と実効性を疑問視したりすることはある。しかし、省庁再編(1997.11.15)をはじめ、情報公開の促進(2000.11.30)、人物重視の公務員試験の改正(2002.8.26)、能力等級制の導入(2003.7.5)など、実効性に議論の余地があるにせよ、着実に制度改正自体は進めてきたものであるという点まで否定される筋合いはないだろう。

 

(4)p153の「公務員に関する意識調査」について、中野は90年代以降の変化を念頭においているものの、むしろ70年代以降の公務員批判が与えている影響がかなり大きいと言えること。

 

 読書ノートに記載したように、88年の調査結果ではかなりの割合で「公務員は高級取り」というイメージが確立されており、むしろこのイメージ形成は80年代以前に形成されたものであることが、70年代の社説記事を通しても確認できた。

 

(5)p150のような労働条件改善言説と中野が解釈するものは、人件費のコストの議論には全く結びついていないこと。

 

 P150の主張はあたかも過去の公務員批判言説が弱かったことを印象付けるものであるが、実際はコスト削減の議論がさかんに行われていたものである。これは日比野のレビューでもみた美濃部都知事の70年代中頃からの支持率減少に端的に現われていたものである。また、この週休2日制の議論は公務員批判の軸とは全く異なったものであり、現在においても恐らく「働き方改革」における公務員制度の見直しが図られるのであれば、基本的には肯定的な論調でメディアは受け取るのではないかとさえ思える。

 

(6)「公務員バッシング」について読売新聞社説は批判を繰り返していたこと。

 

 これは、中野の議論で全く取り上げられなかった論点であるが、読売新聞社説では事あるごとに「公務員バッシング」に対しては批判を行っていた。「“官僚バッシング”的な視角からの議論だけではなく、そうした前向きの議論もしてほしい」(1998.2.11)、「「政治主導」を盾にした一部政治家の誤った「役人たたき」もあって、官僚自身も萎縮しがちだ」(2001.2.12)、「参院選に向け、“公務員たたき”で有権者の歓心を買おうという狙いもうかがえる」(2007.4.27)、「今年度のⅠ種試験の申込者数は、2万1200人で、最低記録を更新中だ。……度を越した公務員バッシングや、公務員の将来像がつかめないせいではないか」(2008.7.12)という形で、基本的に中野と同様「公務員バッシング」には批判的論調で議論を行っているのである。

 ここで問題となってくるのが、一番最初に議論した「公務員バッシング」の定義の問題である。世間で言われていた「公務員バッシング」という実際の言説においては、読売新聞は明らかに批判していたことになるが、中野の定義する曖昧な「公務員バッシング」となると、やはり読売新聞も「公務員バッシング」していることとなってしまうのである。しかし、その「公務員バッシング」というのは、中野が言うような不明確なもの、実効性のないものとして片づける訳にはいかないのである。

 

(7)p478のような「公務員から批判がなかった」という主張に違和感があること

 

 最後に、p478の言うような指摘である。ここでいうニュアンスを私は「圧倒的多数の公務員は批判を訴えなかった」ものとして受け取り、また同時に「公務員バッシング批判に対して抵抗していなかった」ということも含んでいる印象を受けた訳だが、これに対しては二重の違和感を覚えた。

 一つは、「公務員一般が抵抗していない=抵抗力として十分でない」という図式を前提にしているように見える点である。これはどうしても社説記事からは成立しているように見えず、「官僚が天下り先確保の思惑から、所管する法人の廃止や民営化などの抜本改革に抵抗している」(2002.2.17)、「省庁と労働側が対立している」(2005.2.6)という状況は、少なくとも読売新聞にとっては明らかに公務員制度改革の「阻害要因」として認めているのである。

 もう一つは、あたかも「公務員バッシング=不必要なバッシング」の図式が前提にある点である。これもまた「公務員バッシング」の定義の曖昧さの問題が影響を与える点である。要するに世間一般における「公務員バッシング」言説は、読売新聞が指摘しているように「政治家の一般大衆への媚売り」であり、あまりまともに相手にする必要さえないという見方もできるが、中野のいう「公務員バッシング」には当然賃金・退職金削減といった問題も含まれてしまうために、「公務員バッシングは公務員自身が抵抗しなければならない要素をもつもの」と思い込ませてしまう性質が与えられてしまっているのである。合わせて、曖昧な形での「公務員バッシング」言説には、かなりの部分「正当性」が含まれている部分がある。これは読売新聞社説で公務員批判を行う際に見られた具体例の例示の中に示されていたものであるが、それが「正当性」のあるものであれば、やはり公務員自身も再批判せず、素直に事実を受け取る可能性に開かれていてもよいはずなのである。中野は、これに関連して、例えばp362-363にあるように、「何故ギリシャのように公務員数の拡大をするように動かなかったのか」という疑問を提出しているが、財政破綻したギリシャの例を挙げること自体がナンセンスで、それこそ「公務員削減志向は方策として正しい(のに、なぜギリシャに倣わなければならないのか理解できない)」という意見を支持することにもなるように思える。これもまた曖昧な定義としての「公務員バッシング」に対する再批判を行わない根拠となるものである。

 

 

 

 最後に、今回の新聞社説の分析とは別の次元で、本書のとるスタンスの問題について触れておきたい。

 一つは、本書が「マスコミ」について言及する際、テレビや雑誌が中心となっているように見える点である。どちらの場合も、「公務員バッシングが激しくなった」ことの立証としていくつかの番組の登場や、記事の紹介は行っているものの、それらは決して「過去の内容」との比較を行っている訳ではないことには目を向けなければならない(※5)。特にテレビにおいては顕著であるが、どのような内容が実際に語られていたのかさえ曖昧なメディアばかりを根拠に、その言説が「拡大した」といった言明を行うこと自体がかなり学術的には問題含みである。端的に追証不可能だからである。言説の拡大について指摘したいのであれば、実際にそのような比較が行えるものを選ぶことが基本となるはずだが、本書では「公務員バッシング」と関連するのか不明確な「公務員」に関する記事の量的拡大のみに着目して、結論付けてしまっている。このようなスタンスの取り方は、どうしても分析そのものが荒いという印象しか受けない。

 もう一つは、「社会問題」を捉える上で、私自身がこれまでのレビューでも問題視してきた「大衆」の捉え方である。本書ではp341などが顕著だが、いつのまにかメディアにおける「公務員バッシング」が国民による「公務員バッシング」と同一視されてしまっている。これは無条件で「メディアで言われていることは国民を代弁している」とみなしているということであるが、これは端的に誤りであろう。これは中野がテレビに依拠したのか、雑誌に依拠したのかによっても評価が分かれてくるかもしれないが、少なくとも「雑誌」による「公務員バッシング」と今回分析した「日本一の読者がいる」「読売新聞の社説記事」における「公務員バッシング批判」、どちらが「大衆」を表しているのか、という疑問を投げかけた場合には、「読売新聞の社説記事」を支持する他なく、本書の捉える大衆観が全くの誤りになる。もちろん、私自身が新聞社説を分析対象としたのはそのことを示すためではない。あくまでもそのメディアが「大衆の目にとまる可能性が高い」程度のもの以上のものではないのである。雑誌で語られていることも、新聞で語られていることも、「大衆」そのものの意思を反映したものとは言い難く、それは断片的なものでしかないのである。本当に「大衆」の意思を確認したいなら、世論調査などによって少なくとも「直接意思を確認する」作業をしなければそうとは言えないのである。中野もそのような調査について触れていない訳ではないが、「公務員に関する世論調査」の用い方同様、本書の問題点の指摘にマッチする形で、調査結果の内容を拾えていないのである。

 

 

※1 ほとんど唯一過去の議論を実証的に比較して述べていたと思われていた「公務員に関する世論調査」についても、読書ノートに示したように、70年代の文脈を押さえた形で議論している訳ではなく、データの取り扱いも適切か疑問が残る内容である。本書が依拠する「過去との比較」は基本的に政府関係者などが90年代以降に語る「過去語り」の中からしか見いだしていない。しかし、このような「過去語り」にだけ依拠するのは、本書を仮に「学術書」として読むなら如何なものかと思う。広田照幸などが指摘したように、「しつけの衰退」や「少年犯罪の悪化」と言った言説もまた、素朴な「過去語り」であるがゆえに、実証的に見れば正しくないことも十分ありえる話である。

 

※2 読売新聞の過去の記事全体から見ても、1998年に「公務員バッシング」という言葉が登場してから現在までわずか十数件しか用いられていない。しかも、後述するように、用いられる「公務員バッシング」は、政治家がこのようなバッシングを行うことに対する批判として語られる傾向も強い。

 

※3 ここで注意したいのは、タイトルでは「公務員」が入っていないものの、記事の中身は公務員について語っているものも相当数存在するという点である。例えば、「天下り」がタイトルに含まれる記事も同期間内で24件ヒットしたが、全体的な傾向は今回の分析のみで十分把握できるものと考える。「天下り」といった言葉の分析の方が、むしろ「公務員バッシング」に繋がる批判的議論が色濃く出ることも想定されるものの、p40にあるように、中野自身が量的傾向として指摘するのがそもそも「公務員」という言葉であるため、本書との整合性は少なくともとれているはずである。

 また、時期設定を1970年代から00年代までとしたのは、本書の分析対象も基本的に2009年までとしている点と、本書のいう「公務員バッシング」言説と比較可能となるであろう公務員批判の言説が、特にオイル・ショック以後の財政見直しの議論がなされた1970年代にあると想定したからである。

 

※4 なお、対象外期間とした2010年~14年までは21本、2015年~19年8月末までで5本となっており、2005年~09年までがピークとなっている。また、以下引用・参照を行う際は、新聞掲載年月日のみを記載する。

 

※5 余談であるが、中野は本書の前に「天下りの研究」という著書を書いている。しかし、この中でも「天下りが世間で如何に語られていたのか」という点について、実証的考察は何も行っていない。

 

(読書ノート)

P19-20「次に第二段階として、時期的には第一段階と接近するような形だが、官と民の労働条件の乖離から一歩進んで、経済成長の鈍化・雇用失業率の悪化などが深刻化していくことによって、税収が減り予算などの形を通じて配分できるパイが少なくなるとともに、財政赤字が累積していくにしたがって、国民の多くは官民の労働条件乖離といったことだけではなく、自分たちの生活状況の悪化・受けている行政サービスの質量などと官公庁・公務員の動向が深く関係していると認識するに至ったことから、公務員の動向に対する関心を広く強く持ち出したということである。わかりやすく言うと、不況で給与が落ち込んでいるにもかかわらず、国民の税金で給与が払われている公務員の労働条件が恵まれたままであれば、官民乖離ではなく、民の犠牲によって官の厚遇が維持されていると映るようになるということである。譬えとして適切かどうかはともかくとして、「他人事の政官業癒着」から「自分事の政官業癒着」に進化したもである。」

※大衆の動きは本書でいかに捕らえられているか?

P37「テレビもラジオも公務員批判を行うことはいうまでもないが、過剰に公務員を批判する傾向が強い印象があるのはテレビである。」

P39-40「次に、新聞・雑誌という紙媒体についてであるが、新聞は言うまでもなく従来から不祥事をはじめとした様々な問題で公務員を取り上げてきており、批判の程度が多少変わったということがあるとしても、バブル経済崩壊前後によってそれほど大きく報道スタンスが変化しているとは考えられない。」

※3行で新聞の説明を終えてしまっているが、これは明らかな認識の誤り。

P40「その一方で、雑誌に関しては様相が異なっている。バブル経済崩壊前後で明らかに公務員に関する記事数やその内容に変化が生じているからである。国立国会図書館OPACによって「公務員」というキーワードで検索してみると、バブル経済崩壊後、特に、2000年以後、公務員関連の記事が増えているからである。」

※しかし、万単位で「公務員」が該当するにもかかわらず、「公務員バッシング」でヒットするのは、20件にも満たない。これをどう考えるか?

 

P61「その一方で、霞ヶ関を中心とする本省の労働時間は国会対応を含めて深夜に及ぶ超過勤務が常識になっていること、楽だと言われる地方出先機関においても、バブル経済崩壊以降は厳しい状況になっているという指摘もあるが、一般の週刊誌がこの問題を取り上げることは少ない。

例えば、大塚実(2007)によると、公務員連絡会が毎年秋に行っている生活実態調査では、本省事務職の国家公務員の場合、平均月の平均値で22.9時間、最高月の平均値で58.2時間の超過勤務を行っている。また、同調査では、同じく本省事務職の国家公務員の場合、超過勤務手当が「50%以下しか支払われていない」者が17.6%の割合となっていて、ただ働きのような存在もいることが浮き彫りになっている。」

P99「次に、批判される公務員の範囲が拡大していることも大きな特徴としてあげることができる。公務員批判と言えば、国家公務員法の適用を受ける一般職の国家公務員と地方公務員法の適用を受ける地方公務員の二者が主に思い浮かぶが、公務員法の適用を受けない者を含めてマスコミの批判対象は拡大している。」

P110「なお、公務員数については総務省のHP上で掲載されている公務員数の国際比較が相当浸透してきたこともあり、国際比較という観点から言えば我が国の公務員数は決して多くないということがようやく理解されつつあるが、「役所の関連団体」と言われる特殊法人独立行政法人等を入れれば、もっと大きくなるという指摘もある。日本経団連の試算では政府と関連の深い団体で働く者は135万人になる。また、国税庁がまとめた2003年の源泉所得税の納税状況をみると、政府部門の就労者に区分される人は893万人になるという指摘(日本経済新聞2005.10.31)もある。」

 

P135「第1章の考察結果を参考にして述べれば、報道量の拡大の1つの要因となったのは、批判される対象が拡大していったことである。公務員に対する批判と言えば、公務員に対する批判と言えば、国家公務員のキャリア官僚というのが一般的だったが、2000年以後に入ってからはその対象が拡大していった。」

※この認識は、少なくとも新聞についていえば、大きな誤りがある。また、第1章でこのことがまともに(特に過去との比較について、実証的に)考察されていたものとは考えられない。せいぜい、まともな考察がなされているのか極めて怪しい大衆雑誌の参照を行なっている程度である。このような認識に至るのは、まさに過去の公務員批判について考察していないからこそ出てくるとさえいえる。

P143公務員を含む雑誌タイトル件数の推移

P146「しかし、1960年代や1970年代における「役人天国」という言葉にはまだまだ牧歌的な部分が残っており、今日のような細々した部分まですべて取り上げて批判するということは少なかった。」

P150「また、1980年代までは公務員の労働条件を良くすることが景気を良くすることにつながったり、民間労働者に波及することで勤労者全体を良くするという考え方が受け入れられていた。公務員に労働条件改善の牽引役としての役割さえ期待されていたのである。実際、様々なステップを踏んで進めてきたとはいえ、公務員の週休二日制については歓迎さえされている。」

※これは拡大解釈にすぎる。別に賃金改善といったものにまでそれが言われていた訳ではない。週休二日制については、かなり例外的な事象である。

 

P153「バブル経済が崩壊する前までは、官民の労働条件の乖離はそれほ大きなものではなかった。……そのため、官民の労働条件が大きく乖離していないどころか、賃金水準については、「公務員の給料はそれほど高くない」というイメージも強かった。

実際、旧総理府が1973年に行った「公務員に関する世論調査」によると、「あなたは、一般公務員の給料は、民間企業と比べて高いと思いますか、それとも低いと思いますか、この中ではどれでしょうか」という質問に対して、「高い」(6.8%)、「どちらかといえば高い」(16.5%)、「同じ」(24.7%)、「どちらかといえば低い」(25.3%)、「低い」(10.9%)、「わからない」(15.8%)という結果になっており、公務員の給料が高いと思っている人は多数派となっていない。」

※ただ、この調査はオイルショック後の自治体批判直前の調査と位置付けるべきものであり、1988年に実施された同名の調査ではすでに回答傾向が大きく異なっている(それぞれの回答の割合は23.4%、20.6%、22.4%、9.5%、4.0%、20.1%と完全に傾向がバブル崩壊前から逆転している)。本書でいう公務員バッシングの文脈を考える上では不適切な議論であるし、なぜこの88年の調査には言及しなかったのかも不可解。また88年の調査で「再就職が容易であることを理由にして、公務員の退職後の生活を恵まれていると考える人は必ずしも多数派でないことがわかる。むしろ、公務員の退職後が豊かだと思っているのは、年金や退職金の手厚さが主な理由だ。」(p154)とし、人事院の「国家公務員に関するモニター」調査における天下りを問題視する人が最も多いことと対比しているが(p151)、そもそも質問の趣旨が異なるため単純な比較で中野のような結論を導き出せるものではない。

 

P213「実際、国家公務員Ⅰ種試験受験者は長期低落傾向にあったが、その中でも東京大学出身者が減っていることはよく指摘されてきた。しかも、東京大学出身者の中でも官僚養成で名高い法学部出身者が顕著に減少していることは注目に値する。」

※ここでは、採用方針として東大法学部集中が1990年代見直された点について考慮せず、データは「採用者数」を示すだけである。

P245「他方で、間接的な理由として、公務員の不祥事を受け止める国民側の意識の変化もあった。1990年代以降の公務員の不祥事は質量ともに大きく変化したが、それを受け止める国民側の意識も、経済変化の状況変化、権利意識の高まりなどによって相当変化していたと思われる。端的に言えば、国民の公務員を見る目が厳しくなったのである。」

※ここでの論点はほぼ全て実証性に欠けることを言っている。せいぜい「国民」ではなく「世論」という表現を使うべきである。

 

P341「その意味では、国民の「自分たちの生活と公務員や官公庁の動向が何らかの形でかかわっている」というのは感情的なものであり、思い込みの要素が強いということである。公務員や官公庁の動向と自分の生活が関連していることを実感する国民が多数派を占めていれば、傍観者的な対応はとらないからである。」

※「国民」を使うからこうなる。本当にこの認識が正しいと言えるのかは何も実証していないのに。

P341「国民の「自分たちの生活と公務員や官公庁の動向が何らかの形でかかわっている」というのは感情的な側面や思い込みの要素が強く、そういう実感がないにもかかわらず、マスコミ主体の公務員バッシングに国民が関心を示し続けたところにこそ、公務員バッシングの1つの特徴が見られる。なぜなら、公務員や官公庁が諸悪の根源ではなく、自らの批判に感情的側面が強いことを自覚しつつも、マスコミが流し続けるバッシング報道に関心を示し続ける不合理や感情的側面が見られるからである。」

※基本的に「社会問題」は多かれ少なかれこの要素がある。繰り返すがこれは「世論」としては妥当だが「国民」については妥当するか実証的に示されていない。

P352「これら他のバッシング現象と比較すればわかるように、公務員バッシングは3つの特徴的な要素を持っている。第一に、マスコミを主体にしたバッシングであるということである。第二に、バッシングによる影響は少ないということである。第三に、バッシングが長期間にわたっているということである。同時に注意すべきなのは、これら3つは相互に矛盾したものだという点である。」

※バッシングの主体がマスコミとされるのは、新聞側から批判さえあるだろう。

P356「マスコミはこのようなポピュリズムが吹き荒れる状況の中で、世論に異見するのではなく、国民の関心が深いから報道し続けるというのでもなく、ポピュリズムに媚びるような形で公務員バッシングを続けたのである。微妙な違いだが、のちに見るように国民自身が公務員制度などで激しい改革要求を起こしたようなことはなく、国民の公務員バッシングに対する姿勢は非常に受け身的だったことから言えば、マスコミは国民の関心が深いからという理由で長期間にわたって批判的な報道を続けたとは考えにくい。」

※マスコミ自体がパッシブであるならば、「政治が公務員改革を続けていった」だけで説明できてしまう理由なのだが…また、「国民」が強い改善要求を求めるような事例とは具体的にどのようにありえる話なのか?

 

P362-363「第三に、公務員の厚遇に対する批判や、一部の人間しか公務員になれないという事例がマスコミ報道されていることを考えると、国民側から「公務員をもっと増やして雇用機会を作るべきだ」といった強い要望が出てきてもよさそうであるが、国民の間からはそのような要望は見られなかった。……

このような日本人の態度は同じ財政状況のギリシャとは対照的である。……

つまり、公務員バッシングは、マスコミを通じて強く批判するが、その批判が具体的な行動に結びつかない(結びつける意識がない)ところに大きな特徴がある。やや極端な言い方をすれば、無責任な批判を繰り返すだけだということになる。」

※これは論点のすりかえでしかない。そもそもが民間並みの給与改善、退職後福利、人員削減政策の改善要求を行なっていただけであり、それ自体はそれなりに達成されていると見るべきではないか。このことに対する説明のp368でしており、なぜ労働条件の改善=公務員改革における改善と思い込んでいるのだろうか?最大限擁護できるとすれば、ここでの公務員バッシングは字義どおりに言説として用いられていた「公務員バッシング」には妥当するかもしれないが、それは90-00年代の公務員批判と改善要求の話とは別の話であり、それを混同すべきではない。

そして、この改善要求が弱い理由を国民との関心との直接的関連性の弱さとして説明するが(p363)、そもそもこの時期の公務員批判が量的批判でなく、質的批判であったという着眼点は欠けている。たしかに当時質的改善の実効性は問うべき余地があるが、量的改善まで実効性がなかったかはむしろ疑問であり、その検証は本書で何もおこなっていない(質的な話に集中してしまっている)。

 

P438「このような状況が進展すると、政官関係は対等な敵対関係から官僚叩きなどのような一方的な関係にまで発展する様相も強くなり、テレビなどのマスコミで官僚を叩けば叩くほど政治家としての人気を増すというような状況さえ現出するようになった。そのような異常な状況の裏返しとも言えるが、第170回国会で麻生太郎内閣総理大臣所信表明演説において、「わたしは、その実現のため、現場も含め、公務員諸君に粉骨砕身、働いてもらいます、国家、国民のために働くことを喜びとしてほしい。官僚とは、わたしとわたしの内閣にとって、敵ではありません。しかし、信賞必罰で臨みます。わたしが先頭に立って、彼らを率います。彼らは、国民に奉仕する政府の経営資源であります。その活用をできぬものは、およそ政府経営の任に耐えぬのであります」と述べている。」

P445「それにもかかわらず、「官僚主導」「官僚支配」あるいは「財務省支配」という言葉は流され続けた。1960年代までのようなわかりやすい官僚主導ではなく、制度面だけなら誰が見ても政治優位の状況であるにもかかわらず、なぜ官僚主導・官僚優位ということが言われ続けたのだろうか。どれだけ権限を与えても政治が機能しなかったという根本的な要因の他に考えられることとして、官僚の力の源泉として指摘されるものの中で1990年代前後で大きく変わったことに注目すると、官僚が影に隠れて権謀術数・情報操作などを行っていることが幾度となく繰り返し宣伝されたことが、その実態の不透明さと相まって虚像を形作っていった一因だと考えられる。」

※本書では官僚の情報操作について、かなり懐疑的な立場である。

P478「しかし、「公務員の立場から考えて反論しないのは当然だ」という説明も判然としないところがある。例えば、公務員自身がコミュニケーション能力の向上を目指したというのは、政府広報への民間経験者の登用を含めて、国民に対して説明を行うことの重要性を認識していたことを示しており、根拠のない公務員や官公庁への批判を全く度外視していたということでもなさそうである。また、実際問題として、公務員労組や個々の公務員の中には公務員バッシングに対して怒りを含めた反論を行っている事例もある。ただし、公務員は人数が多すぎることもあって公務員全体として連帯して組織的に公務員バッシングに対応していないし、個々の公務員がフォーマルにマスコミに反論したりする事例もほとんど見ない。」

※公務員が反論するのは「普通」なのか?そもそも何に対する反論なのか?基本的にここで議論されるべきは「公務員バッシング」への反論ではなく、「公務員制度改革」への反論であるべきである。公務員バッシングは本書が言うほど大きな議論にそもそもなっていない。この議論のおかしさは、「『日本人論』批判に対して日本人が反論しない」という言い方に似た奇妙さにある。

 

P610-611「公務員バッシング」とは何か?に対する答え……「具体的に言うと、第一に批判される対象が拡大していることである。特権階級としてしばしば批判されてきたキャリア官僚だけでなく、地方公務員やこれまで看過されてきた国会職員なども対象になっている。

第二に、批判が詳細で細部に至ることである。これまで見落とされてきたような公務員に特有の労働条件が批判の対象になっている。第三に、主な批判の1つが官民乖離にあることである。これまでも公務員批判の要因の1つは官民の労働条件の乖離だったが、長期不況に陥る1990年代以降はその位置づけがより重くなっている。1980年代までは景気の落ち込みによって、一時的に民間で働く人の労働条件が悪化するという程度だったが、非正規雇用が常態化する1990年代以降はそれとは全く状況が異なるため、公務員の身分保障などが際立つことになった。第四に、批判がセンセーショナルであることである。雑誌記事の見出しや表現には過激なものが多くなっている。第五に、公務員バッシングの擁護者が少ないことである。マスコミ報道あるいはこれを支える世論の強さもあって、客観的な見地から公務員を擁護する傾向はほとんど見られなくなった。第六に、同和問題に典型だが、タブー視されてきたものまでが、公務員バッシングと関連してバッシング対象になっていることである。それだけバッシングの激しさを表していると考えられる。第七に、個人にフォーカスしたバッシングが増えつつあることである。これは典型的には特定の公務員を対象にした懲戒処分に顕著である。官民を冷静に比較分析する、あるいは、懲戒処分発生事由を冷静に分析することなく、とにかく公務員に厳しい懲戒処分を科すべきだというマスコミ報道やそれを支持する世論が強くなっているということである。」

※この中では、第一と第五は少なくとも新聞の記事に明確な反証材料がある。第四や第七も新聞記事にまで十分にその影響は認めがたく、部分的でしかない可能性がある。第六も同じように「国民」との関係の中では具体的な影響力としてどれほどあった内容なのかわからない。