小池和男「日本の熟練」(1981)

 今回は、遠藤のレビューで取り上げた小池和男の著書である。小池が何故人事評価の制度をめぐって「誤解」をしたのか、それを日本人論に対する見方から説明することできるのではないのか、という点を課題としていた。今回は本書と「学歴社会の虚像」(1979、渡辺行郎との共著)及び「日本企業の経済学」(1986、青木昌彦中谷巌との共著)の最初の小池執筆部分のみを読んだ上でのレビューとなる。
 結論から言えば、日本人論の影響も強く受けているが、そもそも「日本の熟練」においても、ほとんどの場合で根拠に基づいた議論を行う際に、それがあまり正当性のある根拠でないにも関わらず、自らの仮説が正しいことを確信し、用いているということができる。遠藤は「日本の熟練」においては、まだ仮説的態度を取っており、「日本企業の経済学」では確信的態度を取っていると評したが、この見解は妥当であると言い難いと思う。

 確かに小池自身「常識」的に語られる日本人論が「無根拠」であることについて強く批判をしており、そのような議論が特に教育の分野に見られることを指摘している。これは無視できない前提である。

「あまりにも事を調べずに「常識」が横行している、というおそれがあった。社会問題のどの領域にも、誤解や調べもしない言説は存在する。なにも教育だけの特徴ではない。だが、こと教育に関しては、それがとりわけ多すぎるという印象をぬぐい去ることはできなかった。「学歴社会」は当然の事実として、すべての論議の前提とされ、どの学校をでたかで昇進がきまるかのごとく思いこまれ、学歴による所得差が大きいと信じられる。
とりわけ我慢がならないのは「日本蔑視」の主張であった。「欧米」は学歴社会でないかのごとき言説であった。社会現象はこみ入っているから、ある国の特徴をいうには、どうしても他の国々と比較しなければつかみ難い。……それでも丹念に追い求めれば、せめて一部分は比較できるのだ。たとえば学歴別賃金格差がそうである。それすら行わず、日本を「学歴社会」ときめつけ、欧米を非学歴社会というのは、経験科学のルール違反ではなかろうか。」(小池・渡辺1979, P182)


 ここでのポイントは、「根拠」の提示のされ方だろう。小池が批判をするのは、まさに「無根拠」の日本人論に対する批判であり、そのためにその批判材料を集めるという作業を行っている。しかしながら、

(1) その根拠というのは、あまり精度の高いとは言い難いものによって示されていることも多く、
(2) 「日本の悪い点」を除去することが優先された形での立論を行うが故に「無根拠」が持ち込まれる部分がありうる

と言える部分があるということを指摘しておきたい。


○「曖昧な根拠」をどのように用いればよいか?
(1) については、学術的な議論を行うという意味では、それ自体で決して悪いものと言い難い。特に小池がいうように「実証性」が乏しい状況における議論というのは、それ自体で貴重でさえありうる。そして、小池にもこのような自覚があるようで、本書p23-24のような主張はまさにその現われである。しかし、このことと「仮説を真として断定」することは全く意味が異なるのである。特に本書p11のような「断言」を行う根拠として、p2で語られている順位「のみ」で語ってしまってよいものか?

 P2-3で語られている業績というのは「学歴社会の虚像」が出典で、渡辺が分析したものである。渡辺は昭和10年から12年生まれの「会社職員録」のデータベースから上場企業の課長職の出身大学の人数を分子とし、各大学の『卒業者』を分母にした形で「課長率」なる指標を作成した。そして3年間分の大学別課長率のランキングを作成したのである。
まず、小池は、「銘柄大学」について、何故か東京大学京都大学に限定してしまっているが、これは分析者の渡辺の見解と異なっている。渡辺はこの結果について次のように傾向を指摘している。

「(1)いわゆる銘柄校がほとんど上位にランクされている。やはりこれらへの指向が強くなるはずである。
(2)それにしても東大、ことに京大の値が意外に小さい。実業界に関する限り、これら二校の優位はそれほどでもないのではないか。
(3)南山をはじめとする、戦後派の非特定銘柄校が上位にあるのが見逃せない。本人の実力さえあれば、少なくとも課長クラスまでは学校銘柄による差別が無視できるのではないか。
(4)総数の順位では低い、滋賀、群馬、福島などの地方大学が浮上している。地方大学はもっと見直されるべきでないか。」(小池・渡辺1979,p129)

 渡辺の分析結果では、3年間のランキングで「慶応」「一橋」は安定した上位校であり、南山大や地方大学もランクしている内容となっており、確かに偏差値による序列がされている通りの順位にはなっていない。しかし、銘柄校(一流校)がどの大学なのかは大きく解釈が異なるものであるし、渡辺の作成したランキングをどう読むかというのは、3年間の結果で順位の変動もある程度認められるが故にかなり困難である。さしあたり渡辺は銘柄校はやはり上位に来たとみたにもかかわらず、小池にはそう映らないらしい。これは「銘柄大学」を東大・京大の「二強」と思われる大学としか解釈せず、それらの大学は順位が低いから、「学歴社会」は成立していない、と言っているのである。ここでは、「学歴社会」の意味さえも極めて狭く解釈しなければならないにも関わらず、小池は拡大解釈、あろうことが普遍的解釈を試みている(いや、断言している)のである。

 続いて、小池は各大学の「卒業者数」が渡辺の調査課長率の分母と言い切っているが、これは誤りである。実際は「就職者数はもちろん、卒業者の数も知ることはできない」ため(小池・渡辺1979,p127)、文部省「全国大学一覧」から入学想定年度の各大学の入学定員に若干の補正をかけた上で(※1)、これを疑似的に「卒業者数」として推定したに過ぎない。このあたりの状況についても小池はなんら言及していないため、あたかも「卒業者数」が確定できたかのように語っている。これについては脚注をつけるべき内容だろう(※2)。


○「無根拠」の導入と「二分法的世界観」が関連する可能性について
 更に、小池はこの議論から極めてきびしい「競争社会」が成り立っている、と述べている点も無視できない。ここでの趣旨は『「学歴社会」が成立している状況では、競争原理ではなく「学歴」が評価指標として作用している故に競争が作用しない』という暗黙の前提のもと、『学歴社会でなければ競争社会である』と言っている点である。これらの想定はその前提自体がおかしい。学歴社会が機能する是非と競争社会が機能する是非が関連性をもつことについて何も根拠を示していないのである。小池は学歴社会が成立していない状況においては、競争社会が成り立つことを確信しているようである。それはまさに「学歴」というバイアスがないからであるから、と見ているようだが、消極的な理由提示でしかない。

 このあたりから(2)の議論が関連してくる。まず、この「競争社会」の意味合いについての確認が必要になる。小池は恐らく「企業内において切磋琢磨する気風がある状況」についてそう読んでいる節がある。というのも、この競争社会の状況がそのまま本書の「日本の熟練」につながる部分にもなっているからである。この「熟練」については、日本の雇用期間が長いということが大きな理由であるようにも思われるが、単に雇用期間が長いだけでは、「熟練」しているかはわからないのである。そこで小池が用いているのは「ブルーカラーが多様な職場を経験する」ことや「評価される場面が職場の数だけ多様である」こともそうだが、「競争を阻害する障壁が少ない」ことも要因としている節がある(cf.p27-28)。本書自体がバラバラの論文をまとめたものであるため、関連性を直接言及している部分はないものの、「健全な競争性は豊かな熟練を生む」という前提も小池は持っているように思えるし、「学歴社会批判」もその文脈に含まれていると思われるのである。

 「規制なき所に競争あり」という前提は小池自身が経済学部教授といった世界にいる人間だからこその発想ではないかとも思うが、いずれにせよこれについては(※5)根拠を提示していない。あれほど「無根拠」を批判しているのに、である。小池の批判は自分自身にはあてはまっていないようである。
 そしてこの理由は、「思い込み」と言ってしまえば簡単だが、より正しくは「二分法的世界観」に捕らわれすぎている、というべきではないかと思う。このような世界観においては、

(ア) 概念の整理ができていないままにキーワードを用いてしまうこと(半ば無理やり二分法に還元してしまっていること)
(イ) AとBを完全な対立概念とみなすことで、「非A」を「B」と取り違えること

が大きな問題となる。小池の場合は「競争社会」と「学歴社会」という二分法的理解がそうであるし(※3)、更に言えば、「能力」と「資格」についても同じような解釈故の誤読が多く見受けられる(※4)。そして、(2)の議論というのは、(イ)を前提にすることにより発生してきている問題なのである。

 また、このような論法を導入を可能にしているのが「日本人論」として位置付けることのできる「学歴社会論」なのであった。小池自身は決して日本の絶対優位の説明を行うために「能力ではなく、学歴で人物評価される」という意味での学歴社会論として「否定的な日本人論」を批判している訳ではない。特に「日本企業の経済学」では雇用の議論を逆に読み、「中長期的な生産減少の状況においては、アメリカのような短期雇用者の解雇ではなく、長期雇用者の解雇となるため、その影響が大きくなる」としていたりする(cf.青木・小池・中谷1986,p37)点からも、状況によっては日本の制度も危うい点を持っていることを認めているのである。しかし、当時の日本の企業制度が注目されているとみている点(cf.p27)からも、小池の中には海外と比べ一定の優れた制度であるという確信はあったと解してよいように思う。だからこそ、誤解されうる日本人論は排除しなければならない。そのような態度がありきで議論していることが種々の議論の曲解につながっているという疑念はどうにも晴れない。


 最後に遠藤の小池批判の妥当性についての話をしておきたい。遠藤が用いた本書の引用部(p30-31)は、小池を過大評価したものと思えるが、同じように、1986年の著書の引用についても小池の言い分を字義通りに受け取っていいのかどうか疑問が出てくる。渡辺の議論を曲解したように、聞き取り調査の内容についても何らかの曲解をもって下記の「査定の用紙」「文書はだれも見ない」という言葉が選ばれている可能性があるのではないか。遠藤の主旨はこのような「査定」が客観的になされており、日本のそれとは明らかに異なること、「査定用紙」は査定される本人も確認するような制度があるため「誰も見ない」などということはありえない、ということだったが、小池のこの主張は主張以前の問題を孕んでいたのかもしれない。本書を読む限り、そのような可能性を否定できないのである。

「私がヨーロッパやアメリカで二十社前後の大企業を短時間のききとりで見たかぎりでは、まず内部昇進優先でないところを見たことがない。内部昇進する場合、つまり課長のポストがあいたら次にだれを上げるかというときに、通常はその下の係長になるわけですが、その際も結局、直接上司の「査定」によるという点ではまったく同じです。査定の用紙というのを見せられましたが、これはどの国でも似たようなものであって、だいたい翻訳しあっているのではないかと思いますが、ほとんどそういう表向きの文書はだれも見ない。結局は感じとか、主観でやるよりしようがない。これも共通のように思われます。」(青木・小池・中谷1986,p34)



※1 正確に言えば、「該当年生まれの課長が大学に入学した年度の当該大学の入学定員を母集団にして計算したものである。ただし、医学部、教育学部はすべて除外し、理学部と文学部は卒業数(入学定員)の四〇%を加えている」(竹内洋「競争の社会学」1981,p101)。つまり、上場企業であることを鑑み、企業就職をしない学部の人数は除外し、企業就職を想定しづらい学部については母数を減にしているのである。このウェイト付けについては、何らかの調査で想定数を決めるべきではなかったかとも思うが、それ自体で悪いとも言い難い。これが仮説的議論であるならば、これをもとに議論を深めていけばよいだけであり、それなりに意味のある内容であったように思う(実際に竹内がこれを追試したように)。むしろ問題なのは、小池のようにこのような不確定な内容をもって、あたかも確定した内容であるかのように結果を取り扱う態度の取り方である。

※2 そもそも論をしてしまえば、渡辺行郎のランキング作成自体に欠陥が存在することについては、竹内洋(「競争の社会学」1981)の指摘がある。分母の数字は大学の入学定員によって算出しているが、私立で想定されやすい水増し入学を取り扱っておらず、更に、非上場企業の課長は含まれていないことも影響があるという(cf.竹内「競争の社会学」1981;p100-103)。これらのバイアスをクリアするため、大学別入社人数を把握できる「会社就職案内」の数字を母数にして比較を行ったところ、就職年や事務・技術職の差が多少あるものの、概ね銘柄大学が有意で高い課長率になることを示している(竹内1981;p104⁻114)。なお、竹内のいう銘柄大学の範囲は旧帝大レベルの国立大と早稲田・慶応あたりに設定している。

※3 実際の所、「学歴社会」という言葉を用いるとき、この「中学・高校・大学」という学校種の格差の議論と、学校別の格差の問題というのがあまり区別されずに議論されていることが多く、まさに小池の主張もそのような節があるということだろう。小池の議論において「中・高・大」の格差が欧米よりも日本が小さいのではないか、としている部分はそれなりに他の論者も肯定しているように思う(有名なものとして、石田浩「学歴取得と学歴効用の国際比較」1999『日本労働研究雑誌』第41巻第10号、p46-68 URL: http://db.jil.go.jp/db/ronbun/2001/F2001050123.html)。しかし、学校別の格差はそうとも限らない。このようなズレがあるからこそ、「なんとなく」用いられている言葉でも、分析する側まで「なんとなく」用いるのは問題がある。

※4 確かに小池の言う「能力観」は部分的には説明が行なわれている(p32,37,38)。しかし、「幅広い経験」が何故他企業での転職によって失われるような性質のものなのかについては何一つ説明を行っていない。結局「一企業に一つの熟練」があることを言いながら、その「熟練される能力とは何か」問うことがなければ、無根拠に「年数を重ねれば熟練度は増す」ことも前提にしてしまっているのである。これも「能力」と「資格」を対比し、「資格」を否定すれば「能力」が保障されると考えているからこそなせる業である。

(5月20日追記)
※5 この二項図式についての見方は、小池個人に極めて強いこだわりがあるということが明らかになったので、消去しておく。


(読書ノート)
p2-3「上場会社の全課長の出身校をしらべた貴重な業績がある。その人数を出身大学関係学部の当時の卒業者数でわった。大学別の課長昇進率をくらべたのである。「学歴社会」なら東大や京大が群をぬいて多いはずなのに、結果は大ちがいで、東大は一〇位に近く、京大にいたっては二〇位あたりにある。……
ここから示唆されるのは、わが国の企業が実にきびしい競争社会だ、ということであろう。「学歴社会」という思い込みとのくいちがいがはなはだしい。雇用問題をとりあつかうのに、「学歴社会」にふれたのは、この甚しいくいちがい――わが国産業社会の「文化」への誤解が、雇用問題を一層悪化させていると思われてならないからである。わが国は「敬老の精神」にみち、役職も年功に応じ、中高年は篤く保護されてきた、という理解。だから、その「過保護」を少しくずしてやや競争的にすることは悪いことではあるまい、という考えが根強い。だが、そうしたわが国産業社会の「文化」への理解は、はたして実態に合っているのだろうか。「学歴社会」が思い込みでしかなかったと同じく、中高年への過保護が誤解でしかないとしたら、いや、わが国がむしろ「超先進的」な競争社会だとしたら、中高年に競争を導入させよとの考え方は、中高年を激しすぎる競争の犠牲にしたうえに、若者を極度に尊重することになりかねない。年来わたくしはこの思いを禁じえない。」
※出典は「学歴社会の虚像」(1979)。この事実が直ちに競争主義に結びつくことは断じてない。むしろ学閥の方がもっともらしいのでは。しかも、過去に学歴社会が根強かったということ自体は事実である(官僚の登用と、それに従属した民間の採用は、戦前期について竹内洋が実証済みである)のに、それをなきものにしようとするような言い分はいかがなものか。

P8「図のしめすものは一目瞭然である。わが国の学歴格差はアメリカよりはるかに少ない。総じて、わが国企業社会の、他国に先んじた平等化傾向、したがって競争性が示唆されよう。」
※出典はアメリカは1960年の国勢調査、日本は1971年の「賃金構造基本統計調査」。なぜアメリカの調査は1960年のものなのかが納得できないが…
P11「わが国の企業社会が競争的であるのは、なにも報酬の面だけではない。昇進にも認められる。この文章のはじめに、学校歴と昇進の関係にふれたのは、まさにこの点を強調したかったからだ。常識に反し、銘柄大学をでていれば、昇進にいちじるしく有利だ、という状況は存在しない。仕事をめぐる激しい昇進競争が示唆される。」
※結論を急ぎすぎていないか?

P11-12「まず、定年直前、最も役職につく割合の高い五十代前半をみよう。旧(※制)大卒でなんらかの役職についている人々は八〇%、旧高専卒八五%、他方、旧中卒の六七%が役職についている。たしかに部長につく割合は旧大卒五〇%、旧高専卒三〇%、旧中卒一〇%弱。しかし、一方旧大卒の六分の一ほどが平職員にとどまっているのに対し、旧中卒の三分の二が役職(※係長以上)につき、課長次長クラスが四二%にものぼる。学歴による差はあるが、決定的なものとはいえまい。
※昭和51年賃金構造基本統計調査が出典。これを根拠に「おそらく学歴をこえた昇進競争がくりひろげられているのであろう。」とする(p12)。学歴社会論が決定論的解釈に基づいていると確信しているようだが、その根拠もない。また、ここでの状況は海外比較がない。また、旧制については初等教育卒の割合がなぜかない。

p16「図?-7をみると、まず常識どおり、勤続一年未満の比重がアメリカできわめて高い。わが国の九%に対し、アメリカは二三%と、実に四分の一近くに達する。その大軍がたえず動いているというイメージがえられよう。だが、これをもってアメリカが流動的と即断してはならない。勤続十五年以上層もまたアメリカがわが国を上回る。わが国の一八%弱に対し、アメリカは二三%近くに達する。
要するに、アメリカには極度に流動的な層が大量に存在する一方、わが国以上の長勤続層がある。定年がわが国より遅いから、これをもってすぐさまわが国より定着的とはいえまいが、長勤続層は明らかにわが国より厚い。」
※同じデータはp118に表でもある。
P20「しかしとにかくも法律の規定があり、なにもない場合よりも保護があることになる。それがさきの勤続構成にあらわれている。その勤続構成からみて、わが国長勤続層は最も競争にさらされているとみるほかない。」
※これは欧米では勤続年数が短い層もいる反面、長い層もいることの説明として、法や制度上の保障を得ているから、という説明である。しかし、日本にはそれがあてはまらないため競争社会だといいたいらしい。

P23「結局くらしの必要から、異質の仕事で出なおせば、長い間つちかった熟練は無駄になる。中高年の職業転換は、本人にとってのみならず、国民経済からみても大きな損失になる。他方、若者の職業転換能力はどうみても高く、したがって失業期間は短くてすむ。なによりも無駄にすべき経験ははるかに少ない。
 にもかかわらず、今日の議論は、政労使ほぼ一致して「受け皿論議」に集中する。中高年の排出やむなしとして、その再就職先の開発に注目する。」
p23-24「わが国は「終身雇用」「年功制」で中高年をあまりにも保護してきた。それを少しくずして競争的にするのは悪いことではない、と。だが、その『大義名分』がいかにわが国産業社会の「文化」の誤解にもとづくかを、よみにくいまでに数字をあげてわたくしは説いてきた。わが国企業はむしろ超先進的な競争社会で、すでに中高年を激しい競争にまきこみ、大きな損失を余儀なくされている。わが国の「超先進国」を「おくれ」と誤解する常識のもたらした傷ましい被害のひとつである。」
※役職別の平等観、学歴別の平等観、勤続年数の誤解などを指摘しているものの、それは競争の激しさの程度を何一つ説明していない。競争の激しさは能力指標がまず明らかにされ、それに基づいて能力による差のある評価がされているかどうかで確認することができるが、日本がこれにおいて主観に基づいていることはむしろ小池が気付けなかった部分であり、逆に日本が客観的だと小池自身が結論づけてしまった部分でもある。

P25「わが国の企業社会は、多くの問題をはらみながら、しかし調べれば調べるほど、すぐれた性質や芽ばえが発見できる。……すぐれた芽をたしかめのばすことが、われわれのくらしにとって大切だと考える。」
☆P27-28「このごろの日本の企業社会は大いにもてはやされるようになった。……同時に、その良さが保てるかどうかという心配も広がってきた。この上なく確実に、また世界に比をみない速さで押しよせる高齢化の影響への心配であり、高学歴化への心配もつけ加わる。
 さしあたり、その心配ももっとも至極であって、評価した理由そのものが、高齢化や高学歴化とぶつかってしまう。普通の説明によれば、おそらく賃金や役職への昇進が「年功的」にきまっており、それによってくらしも仕事もほぼ保障される。その保障によって心安んじて働く、というめざましさがあった。ところがまことに簡単な算術によって、高齢化、高学歴化がこの保障をくずしてしまう。心安んじて働くことがかなわず、日本経済の「活力」が失われるのではないか、という心配である。
 だが、わが国企業社会の持ち味ははたしてそのようなものであろうか。右の通念は、衣食足って礼節を知るという古典的アフォリズムに、あまりにも寄りかかりすぎていないか。衣食足ったが故に礼節を欠くようになったのが、先進国一般の通弊とみる議論さえある。さまざまな国で手厚い保護があれば、欠勤者の著増や、いわゆる先進国病の症候が蔓延するかにみえる。なぜわが国はそうでないらしいのか。
 わたくしは、わが国の企業にはめざましい人材育成の方式があったと考える。それ故に日本経済に「活力」があったし、いまもある、と思う。たんに「心安んじる」だけで、どうして人はよく働き、「活力」をきずき上げえようか。それがあまりにも豊かであったために、空気のようにその大切さに気づかず、結果的におそろしく蔑視してきたのではなかろうか。八〇年代の企業社会を考えるとき、このおそろしく蔑視されてきたものを、改めて確かめる必要がある。さもないと、いたずらに杞憂し、真の問題を見のがすおそれがある。」

P30-31「ある評価評価者がある人を低くDと評価したとしよう。つぎの時期の評価者がその人をAやBと高く評価し、さらにその次も高く評価すれば、さきDと評価した人の目が問われる。こうした過程で一種の相場ができやすい。
全くの憶測だが、この点で欧米の企業とちがいはしないか、そこでは直接上司の評価が決定的で、それ故抜擢もできようが、評価に相場性がやや少なくなり、直接上司との結びつきもかえってつよくなるのではなかろうか。」

P32「情報はひとりでに集まるものではなく、組織内の上下左右の人のつながりを通じてよくなされる。すなわち情報収取能力はすぐれて「人柄」の問題でもある。さらにこれらを結びつけ、人をひきつけるプランを考えだす企画力が必要である。そしてなによりも、その企画を実現している力が大切である。いわゆる根回しがこれに相当しよう。……根回しとは上下左右を見、そこを動かしていくことにほかならず、誰にまずあたりをつければよいかなど、すぐれて組織の内実の察知洞察に属する。総じて、めざましい作戦力・戦闘力をいうのであって、いわば全人格を投入した能力の発現とみるべきであろう。これをよくアンケート調査などにみられる「協調性」や「人柄」といったことばの通常のひびきに解消してしまうのでは、重大なことが見のがされてしまう。他面、これほど全人格的な投入であるが故に、「人柄」としか現わせないともいえる。」
※この指摘は別の著書のこの部分と密接に関連する。
「さて、こうした実力について、企業の側はどのように評価しているかを知る手がかりとして、しばしば引用される日本リクルート・センターの調査を、ここでも利用しよう。それは従業員一〇〇〇人〜四九九九人の三三七社の人事部長に対するアンケート調査である。それによれば、専門性、基礎学力という、前記(イ)にもとづく実力というのは、大卒者が十分に備えていると評価する者はきわめて少なく、逆に、不満を示す回答が四割以上に上るという結果がでている。評価する企業の多いのは、社交性、協調性であって、六割弱を数えている。一般常識にいたっては、評価する企業が五%強にすぎない、という惨めさである。
結局、大学での講義などを通じて育成され、またその育成こそが大学の主要な任務のはずの実力に対しては、多くの企業が低い評価しか与えていない。ただし、この社交性については、多少の注釈を必要としよう。それは、ふつう考えるつき合い上手とか、人をそらさないとかいった能力であることはたしかである。けれども、一流企業のホワイトカラーの間では、企業に蓄積され、また生みだされるいろいろな情報に通じつつ、それらをバランスよく消化し、また、情況に適応していくことをも意味するようである。」(小池・渡辺「学歴社会の虚像」1979,p23-25。なお、この部分は渡辺執筆部分。)

p32-33「もし目先の売上げだけに目を奪われた仕事しか評価されないなら、国家百年の計とはいわないまでも、長期の目くばりを誰がするのだろう。たとえ少数でも、企業内で長期のことを考える人材が再生産されているかどうかは、産業社会にしめる大企業の実際の役割が大きいだけに、由々しい大事である。どうやらその点でもわが国大企業の選抜方式は目をくばっているようだ。
要するに、将棋の駒の肩の地点まで多数が一線で昇進していく。これを「年功制」などと称するのは、およそその内実に目をふさいだ言ではなかろうか。」

P37「わが国大企業のブルーカラーが幅広く経験するとは、このキャリアが広いことをいう。ただし、よく誤解されることがある。幅広くと動くといっても、全く無原則にいろいろな仕事につくのでは決してない。あくまで関連の深い仕事群のなかでの移動である。」
P38「第二に、やや間接的な影響だが、広い視野がこの幅広い経験から導きだされる。よくわが国の労働者は自分の会社にとじこもり、社会的視野に欠けている、といわれる。だが、広い社会的視野を充分にもつのはなかなか難しく、ヨーロッパなら自分の職業しかみないということになりかねない。比較してどちらがやや広い視野をもつかが大切であろう。企業内に幅広いキャリアをもてば、関連する部門をよりよく知る。」

p48「しかし、(※日本的労働慣行は)あくまで前提にすぎず、少なくともわたくしの知るかぎり、確かな資料によって裏づけられたことはない。いや、この前提に疑いをもつ人々こそ、丹念に統計資料をさぐりつづけてきた。」
※批判もまた根拠に基づいている、ということはそのまま受け入れることができない。
P66「企業福祉について、ささやかな国際比較を行ないたい。そこには全く相反する二つの思い込みが存在しているからである。そのひとつは、いうまでもなくわが国に長く君臨してきた考えである。かつて(あるいはいまも?)企業福祉は企業家族主義をあらわし、日本特有と思い込まれてきた。企業福祉の存在そのものが。ときには日本の特徴と考えられさえした。のみならず「自由な市民」を創出するために、暮らしへの企業の手厚い配慮、労働者の企業依存を壊さねばならぬ、という主張が強かった。その暗黙の前提は「自由な市民」からなる西欧では、企業福祉などがあるはずがない、という思い込みであったろう。この思い込みから引き出されるのはつぎの予測であった。わが国が企業福祉に手厚いのは、社会保障が未発達だからで、社会保障が深まっていけば、企業福祉はしだいにその座を社会保障に譲っていくだろう。たとえば、老齢年金十分なものになれば、退職金は少なくなっていくだろう、という予測であった。」

P181-182「よく、わが国の労使関係は家父長制的だ、といわれる。ドア(※ロナルド・ドーア)はこの説明を否定する。……(※パターナリズムを示す)第二のモノサシは、仕事以外のことも重視するか、それとも仕事中心かである。わが国は前者で、企業がくらしの面倒をよくみている。だが、この仕事以外をも重視する点は、パターナリズムとはちがう。パターナリズムのもとでは、くらしの面倒は温情である。ところがわが国のは、制度化され、契約化されていて、パターナリズムの温情とはちがう。第三に、企業への献身がみられるが、それは創立者などの個人への献身ではなく、企業という組織への献身である。パターナリズムとはいえない、とみる。そして、これらの特徴は、イギリスの組織の一部にもみられる。軍隊、公務員、警察である。これらをパターナリズムといわないかぎり、日本のしくみもそうよべない、とドアは主張する。」
※なお、第一のモノサシは世襲の有無。この主張がなぜ正しいのかよくわからない。ドーアがそう言ったようだが。ドーアの出典は「イギリスの工場・日本の工場」。
P192「なぜくどくどと日本男子高年労働力率のめざましい高さを説いてきたか。かかって昨今大いに論議されている六〇歳定年制の意味をはっきりさせたいからである。鉄鋼や私鉄の交渉があり、六〇歳定年制は注目を集めている。だが、それは六〇歳まで働くかどうかという問題では全くない。定年が六〇歳に延長されようがされまいが、人々はもっと高年まではたらいてきたし、いまも働いている。先にみた五五〜六四歳層の、高くそして低下しなかった労働力率が、それをありありとしめす。」
国勢調査のデータからは、1955-1975年の3回の調査で、65歳以上の労働力率は5割を超え、60-64歳も概ね8割を超えているとされるのと全く噛み合っていないという議論。そしてこれはヨーロッパ、アメリカの調査よりも大きい(cf.p190-191)。

P194-195「七八年現在、大企業でもざっと四割の企業が六〇歳までの雇用継続をすでに行なっている。「定年」が六〇歳に及ぶのは二割にすぎないが、再雇用や勤務延長で四割になる。とはいえ、六〇歳をこえるものは少なく、まして六五歳までとなるとわずか一%にすぎない。他方、小企業では、ざっと三分の二近くがすでに六〇歳ないしそれをこえる雇用継続を行なっている。しかも六五歳に及ぶのは、「定年なし」を含め三分の一近くに達する。この数値は企業規模三〇人以上のものであり、もっと小さな企業も多く、実際にはさらに高くなるだろう。」
P208「大企業では周知のように、五七歳前後を定年としている。すでにその後も働きつづける以上、定年制とは、労働市場からの引退ではもちろんなく、大企業からの強制離職、中小企業への強制移動にほかならない。なぜわざわざ強制移動を行わねばならないのだろうか。」
P209-210「高年者であれば、おそらく長年つちかった技能があろう、それを無駄にしているなら、国民経済にとっても無駄となる。」
※このことは何一つ立証されていない。

P219「とりわけ、長年の経験が主に企業内でいろいろな仕事をこなすことによって形成されてきた以上、そこになんらかの企業的特性がのこるのは、むしろ当然の結果であろう。それを充分発揮するには、つとめ先を変更してはむずかしい。それ故にこそ、「同一又は類似」の大半がつとめ先をかえずにすんだ人々なのである。われわれが注目すべき六〇代前半層では、それが一二%ていどにすぎないことが、重ねて注目されねばならない。長年つきかわれた技能のほんの一部しか活用されていない。高年者本人にとってのみならず、国民経済的にももったいないといわざるをえない。」
P238-239日本の1970年調査、ECの1973年調査を見る限り、日本の女子労働力率が低いとはいえず、むしろ「最も高い国のひとつといわねばなるまい。」
※これがEC77年調査になると急激に労働力率があがっており、日本が出遅れる(p245)。これはアメリカも同じ傾向(p247)。
P265府県間の賃金格差は64年から78年の間で大きく縮小している
※これをもって小池は「地方」が貧しいという偏見を打開しようとしている嫌いがあるが、割合のみで見ている問題であることや、事実やはり東京、大阪の収入が大きいという事実からも、相対的に貧しいという見方は可能である。これに対しては生活コストの問題を提示するが、主観の域を超えているのは何故か病床数の比較だけである(p266-267)。