岩本由輝「柳田國男の共同体論」(1978)

 今回は共同体論関連のレビューである。本書で批判を行う共同体論というのは、祭事やより素朴な連帯意識による「共同体」が形成されるべきである、という主張を行うものである。今回はこの主張を岩本の価値観に合わせて「似非共同体論」と仮称して議論していく(※1)。本書の議論をまとめると、以下のようにまとめられよう。

1.まずもって岩本はこのような「共同体」がありえないことを指摘する。その根拠として「共同体」というものを「労働組織」としてのつながりをもとにしたものであるから、とする(p248)。
2.このような労働組織が本源的な形態として成り立つのは、「原始社会」においてであり(p154)、明治以降にその残存があったとしても「その消滅は時間の問題であり」、それは共同体とはまったく異なる別個の次元において成立した近代的な機能集団として考察しなければならないとする(p252)。
3.岩本のいう似非共同体論の特徴の一つとして「景観主義」が挙げられる(p11他)。このような見方は歴史的存在として共同体を捉える視点を欠落させることに繋がるし(p96-97)、「超歴史的」(p150,p185)に捉えようとする姿勢は村の実態に迫ることができないし、しばしば誤った捉え方を行うことに繋がる。特に例として挙げられるのは、「自由」の問題である。これは若者組・娘組をめぐる自由の問題を似非共同体論者は捉えられていないとみる点(p185,p126)や、「不正投票」の問題などを似非共同体論者が捉えられていないのではないかとみる点(p75)にはっきり現われている。
4.似非共同体論者の議論というのは、一種の近代批判を内包させているが、「似非共同体」こそが近代の産物にすぎないことを似非共同体論者は自覚していないため、その近代批判が不毛なものとなっているとも指摘する(p275)。
5.このような議論においてしばしば柳田の共同体論が参照されるが、特に「日本の祭」における共同体観のみを参照することによってなされる誤りであるとみている(cf.p91)。しかし、柳田の共同体論はこの点にのみ集約されるのではなく、むしろ労働組織としての共同体ありきで語っていたのであり、労働組織としての性質をあまりにも自明視してしまったがゆえに(p18)、「日本の祭」では特にそれが語られることなく、その観点のみを取り出そうとする似非共同体論者にも批判を加えている。

 確かにこのような似非共同体論が共同体論全般において有力であったという見方は一定程度正しいように思われるし、この「共同体論」の系譜は、恐らく1980年頃から積極的に議論されている本田和子や野本三吉のような「子ども論」にも繋がっていったものではないかとも思う。私自身も、共同体における「生」の問題を表面化させないまま子ども論を行っていることが問題なのではないかと、高橋・下山田編のレビューで述べたが、さらに掘り起こせば、坂本秀夫のレビューで述べた「実態を介さずに理念だけを取り上げた海外賛美」の問題や、ヴェーバーの理念型の運用問題などでも述べてきたような、実態を適切に取り上げないことによる論点の捉え損ねを岩本が言う似非共同体論も行っているということには同意する所である。
 しかし、岩本の議論は全体的にずれている部分があることも事実ではないのではないかと思う。順に論点を取り上げてみよう。


1.岩本のいう「共同体」と「似非共同体」を区別する意義はどこにあるのか?
 結論から言えば、岩本の批判する「似非共同体」と「共同体」の違いを語ること自体にほとんど意味があるとは思えない。まずもって、岩本がどこにこの差異・価値を見出しているのか。一つ考えられるのは、その共同体が「ありえる」のか「ありえない」のかという違いである。少なくとも岩本は「似非共同体」は共同体でありえないことを確信している。しかし、後述するようにそもそも岩本の言う「共同体」もまたありえるものなのかを考えると微妙な点がある。
 もう一つ考えられるのは、共同体の「安定性」の有無だろう。これは共同体が存立していると言っても、過渡的な状態であるに過ぎず、不安定であるから共同体としていつでも崩壊しうる、という性質があるかのように「似非共同体」を岩本が語るとき感じるものである。しかし、これもよく考えてみると、「安定した共同体」を考えることに何の意味があるのかという問題を残すことになるし、そのことについて岩本は何も答えることがないのである。というのも、この「安定した共同体」について岩本は規範性を与える(理想的な集団像とみなす)ことはないし、結局は否定的な議論に終始しているだけなのである。


2.岩本のいう「共同体」とは何なのか?
 そもそも「共同体」の原型が「原始社会」にはあったものとして岩本は議論しているが、実際に本書を読んでいくとこのような想定は極めて曖昧であることが分かる。というのも、「共同体はあくまで近代以前の社会における歴史的存在でなければならない」(p252)という言い方は必ずしも原始社会である必要はないからであり、近世や中世といった時期における性質の議論がはっきりしなくなるのである。結局岩本が共同体を「原始社会」に原型を求める理由は「個人の自立的な生活が不可能なため、集団を作って生産・生活することを余儀なくされたことから個人の存在の前提として」(p154)存在するものこそ共同体であると見ているからであった。このような共同体は生活のために必用な組織を「一個完結的に持っている」ものであり(cf.p278-279)、言ってしまえば「運命共同体」として集団内ですべてのものごとが解決してしまうのが岩本のいう「共同体」なのである。これが一個完結していないような組織はすべて岩本にとっては「共同体ではない組織」ないし「共同体の崩壊過程にある組織」なのである。
 しかし、このような共同体は少なくとも中世や近世には見出すことができない。これは中世史・近世史を研究する論者からもしばしば指摘されるものである。

「こうした山海型の村落は、漁業や塩業および回船といった海に関する生業に高い価値が生ずるため、山村よりも海村としての活動に高い比重がかかる。しかし農業にも軸足が置かれていたことを忘れるべきではない。もともと漁業には、自給自足の原則は通用せず、背後の村々との農産物などの交換を前提として成り立つもので、とくに山海型では、さまざまな生産活動が複合的に行われていたと考えねばならない。」(原田信男「中世の村のかたちと暮らし」2008、p139

「ここにみられた市庭で交易される商品や貨幣、金融や土木建築の資本は、古墳時代はもとより、弥生期からさらに縄文時代に遡って機能していたと考えることができるのであり、実際、近年の発掘によって詳しく明らかにされつつ縄文時代の集落は、すでに自給自足などではなく、交易を前提とした生産を背景とする広域的な流通によって支えられた、安定した定住生活を長期にわたって維持していたとされているのである。とすると、商品・貨幣・資本それ自体は、人類の歴史の特定の段階に出現するのではなく、その始原から現代まで一貫して機能しており、人間の本質と深く関わりのあるものと考えなくてはなるまい。」(網野善彦「日本中世の百姓と職能民」1998=2003、 p405-406)

 結局岩本が述べる「共同体論」は本人が言うようには「実際」の歴史的変遷に根差しているとは言い難い(※2)。私が見る限り、岩本はむしろマルクス主義的な資本主義観に基づいた観念論的視点から(歴史的段階論的視点から)見ているだけでないのか、という疑念の方が強い。これが顕著なのはp280-281に見られる「資本主義社会における共同」と「資本制以前の社会における共同」という二項対立図式による共同観であり、岩本の議論はむしろこのような観点から資本主義社会における「似非共同体論」を捉えている傾向が明らかに見て取れるのである。そして、「共同体論」を語るときの曖昧さの所在も、先述した「組織としての自己完結性」ではなく結局「資本制」なり「資本主義社会」というのをいつから設定するのかによって区別しているようにしか見えないのである。この場合の区別というのは、「江戸時代(近世)」が一つの基準(過渡期的な取り扱いをしていると思われる)であり、近代に入る明治以降は明らかに資本主義の論理が侵食した状態にあるから「共同体」はまずありえない状況である、という前提を持ち出すことになるのである。もちろん、以上の説明のように「資本主義」についても明確な位置付けを行っているわけでもなく、当然「組織としての自己完結性」がある状態についてもはっきりした考察を行おうとしていない中で、岩本は「共同体」と「似非共同体」の区別を行っているのである。


3.共同体論における実証性とは何か?―「景観主義」の取り上げられ方について―
 一見すれば岩本が批判する「似非共同体論」への批判は鋭いようにも見える。結局共同体論において、どのような価値観を基軸にしてその必要性を考えるのかを議論する際、岩本はほぼはっきり「個人の自由」との比較からこれを述べている。そして合わせて岩本にとってはおそらく「共同体」というのはそのものとしては「規範的価値」がないものとみているように思える。しかし、「似非共同体論者」は同じ前提に立っている訳ではない。
 本書で取り上げられている全ての論者がそうであるとは判断しかねるが、恐らく多くの似非共同体論者においては、「近代」原理が共同体を素朴に後進的なものとみなし、近代の発展というのが自ずと共同体を排除していく状況に対して疑義を呈しているか、もしくは「近代」批判の一環の中で、それとは違う可能性を見出す際に、共同体の良い点を拾い上げようとするのである。例えば、後藤総一郎はそのような態度であろうし(p92-93)、芳賀登についても、近代との対決として取り上げる観点はやはり共同体における可能性である(p242)。もちろんこのような議論においては、「共同体」は一種の規範的価値を帯びたものとして取り上げられていると言える。岩本が批判を行っているのは、このような取り上げ方について、

ア.取り上げられている共同体というのは、負の側面も有しているのであり、その点を考慮しないで議論を行っていること。それが得てして「景観主義的」な見方となってしまっているのに起因すること
イ.そもそもそのような議論における「共同体」というのもまた、近代の産物としての「似非共同体」でしかないため、似非共同体論者の主張する近代批判が成立していないこと

 という2点からであると言える。

 まずア.について。岩本の言い分が正しいのは、結局比較的「現在」の村落を分析する時に景観主義に陥らないような実証性を持って村落の分析を行うべきであるということであり、実際岩本の活動する分野もここにあるのだろうと思う。しかし、このことと「過去」の村落形態の分析は全く別物である。岩本がおかしな前提を提出するのはまさにこの「過去」の村落形態に言及する場合である。そして、その過去の村落形態を根拠にして「現在」の村落形態の分析の誤りを指摘する場合である。
 「景観主義」という言葉に含有されている批判的な意味は二つあるのである。「現在」の分析の欠落と「過去」の村落との比較の二つであり、岩本が誤っているのは、これを一緒にして語ってしまっている点である。「分析の欠落」という意味では確かに岩本の言っていることは正しいようにも思える。しかしそれには実証的側面から誤りを指摘しなければならないにも関わらず、岩本は観念論的な「共同体」を持ち出して批判を展開してしまっているのである。実際の所、本書においては実証的観点からの議論というのは皆無に等しいのである。岩本自身もフィールドワーク等で実証的側面からの研究も行っていると思われるのだが、そのような観点からの見解は本書ではほとんど存在しないということである。この点については、岩本「近世漁村共同体の変遷過程」(1970)が関連しうるのだろうが、(似非共同体論者の引用は山ほどなされるにも関わらず)そこからの引用もないのである(※4)。

4.近代批判の無効化問題について
 イ.についてだが、まずもって「似非共同体」というのは、柳田の「日本の祭」で強調されていたような祭事やより素朴な連帯意識によって形成されるものであり、それが近代の論理を克服ないし近代の問題を解消するものとみなしていたと岩本は考えている。しかし、そのような「似非共同体」というのは、すでに共同体として崩壊過程にあるものに過ぎず、そこには「近代」の論理を内包しているがために、似非共同体論者は批判していたはずの近代を否定できていないというのである。
 このような論理は岩本においては、はっきりと「資本主義」の議論と結びついていることがわかるが、果たして「似非共同体」論者も同じであったかはわからない。つまり、一種の近代批判としては恐らく共通項として成立しえたとしても、明確に「近代=資本主義」とみなし、資本主義批判として展開していたかどうかが不明慮であるということである。本書で取り上げられている数多くの論者の議論を逐一拾う作業は私にはできなさそうであるが、岩本は自身の関心である資本主義の問題に似非共同体論者の議論を結び付けすぎているような気がするのである。似非共同体論者の議論のゴールは本当に資本主義体制とは異なる「別のもの」を志向していたと言えるのだろうか?岩本にとってみればこのような態度でなければ問題の本質を欠いた状態であり、何の問題の解決にもならないとみなすのかもしれないのか、それが正しいかどうかを、「相手の議論が誤りである」ことではなく「自分の主張が正しい」という形での立証なしに議論するのは立場の違いを示すことでしかない水掛け論にしかならないだろう。本書では岩本の望む「規範価値」が何ら示されていない以上、「自分の主張が正しい」という形での立証は一貫して行っていないのである。
 結論としては、近代批判の無効化を主張するのは結構だが、その無効化とは異なる価値提示なしには、それこそその無効化を語ることは無意味なのである。この無意味さはある意味でドゥルーズガタリにも繋がるところがあると言えるかもしれない。


 以上を踏まえ、再び1.の論点に立ち返るなら、私が疑問に思うのはまさに4.の論点にかかる部分との関連で、「似非共同体」と「共同体」の区別が無意味ではないのか、ということである。岩本の論旨からは資本主義的共同体論を展開するのは不可能である(それは「似非共同体」でしかないから)。しかしだからといって、それが「問題のあること」なのかは定かではない。これについては私の読書記録で個人の自由を考える際における「二分法的」解釈の問題として取り上げてきた(エリアス・カネッティを中心に、ジル・ドゥルーズ、ポール・ウィリスのレビューなどの際に論じておいた)。「共同体」を擁護する論点がありうる必要条件は確かにここにはあるが、それについて私は重要性を感じないのである。つまり、資本主義を排斥する必要性を与えるような「二分法的」解釈自体に無理があるのである。合わせて、繰り返しになるが、この近代批判をめぐる議論は、岩本の望むものを何も語っていないという点で、やはり肯定的な差異の意義を語ってはいないのである。


5.柳田共同体論の位置付け方について

 最後に本書における柳田の位置付けに述べておきたい。岩本は柳田の「日本の祭」における共同体論について、
ア.基本的に労働組織なくして共同体はありえないという見方を取っていたが、「日本の祭」における議論は「信仰における共同体」に偏ったものであり観念論的な議論に繋がっているという意味で、柳田に落ち度がある
イ.似非共同体論者は柳田の「日本の祭」の議論から共同体論を展開することがあるが、これは労働組織を介した共同体の議論を無視することに繋がる原因となっている

と評価していると言っていいだろう。しかし、この論点は正しい所と正しくない所がある。この点について、「日本の祭」(1942)を引用しながら議論してみたい。

 まず、押さえておきたいのは、柳田が「日本の祭」という講演を行った背景である。昭和16年秋に大学生に対する講演した内容がもとになっている。そして、分量としては「定本 柳田國男集 第十巻」(1969)においては100頁を超える内容で、複数回の講演内容をまとめたものである。
 そもそも柳田が大学生向けに「日本の祭」をテーマにした理由は何なのか。一つは大学生に対してこのテーマがなじみ深いものだからだという。青年期において「郷里」で学ぶ社会律で顕著なものとして「婚姻に関するもの」「共同労働に関するもの」「祭に関するもの」の三つを挙げている(柳田1969,p172-174)。この中で「祭」を取り上げたのは、これが学生にとって最もなじみ深いからだとする。

「私等が大学の繁栄と増加とによつて、或は断絶してしまふかと恐れて居る日本の伝統は実は斯くいふ所に潜んで居るらしいのである。幸ひなことには婚姻や労働とはちがつて、神祭だけには諸君も経験があり、又楽しい記憶と取止めの無い好奇心を抱いて居る人が多いのみか、或は一種の「語りたさ」をさへ持つて居る人があると思ふ。私はそれを一つの足掛りとして、実はこの講義を続けて見たいのである。」(柳田1969,p174-175)

 そして、もう一点重要なのは、この「祭」をテーマにして、「日本の伝統」について学ぶことができるという点である。岩本も指摘しているように、柳田自身は「日本の祭」においても近代主義者的な見方をもって「日本の伝統」の変化を捉えようとしている。

「当人自身の為から見ても、斯んなことで職業を変へてしまふことは、もとは決して安全な判断では無かつたのである。今とても或は一つの冒険と言はれるかも知れぬ。なまじ本式の大学教育を受けたが為に、家の代々の土地とは絶縁してしまひ、どこに落着きを求めるとも無く、浮世の波の底に埋もれてしまふ人が、近世は可なり目に付くやうになつて居るのである。土地に根をさすことを安全と考へた人々に、さういふ未知の世界が危険視せられたのも無理は無い。ところがその冒険を敢てしなければならぬ必要が、段々と増加して来たのである。つまり世の中は変らずにはすまなかったのである。」(柳田1969,p165)

 しかし、柳田自身はこの「変化」について単純に追随することについても疑問を呈している。これは盲目的な追随を行うべきではないという態度に加え、安直なアンチテーゼとして「変化しない」ことを選ぶべきではない、という態度も合わせて持ちあわせていると言うべきだと思う。

「現代の如きは之に反して、すでに異分子とも言へないほど、澤山の新職業者が群をなし又は組織を作つて、先づ都会を無限に厖大にし、次には一つの上層勢力となつて、地方の古くからあつた活き方考へ方の上に、のしかかつて居るのである。此の如き以前とは全く逆な情勢の下に在つて、果して一国古来の伝統なるものが、持続し保存し得られるかどうかといふことは、その伝統保存の是非を討究する前に、是非とも一応は考へて置くべき問題である。何となれば、仮に一国の伝統は守つて失ふべからざるものであるといふ結論が出たとしても、事実保存し得る見込が無いのだとすれば、それが結局むだな国策に帰するからである。今日我々の耳にする多くの伝統論などは、果して何が確かなる伝統であるかといふことも示していないのみか、それが斯くして伝はつたのだといふ筋路などは説かうとしない。嘗ては安全にそれの持続し得る組織が備はつて居たのが、後には少しずつ弛み崩れ心もと無くならうとして居るのではないかどうかといふことも考へて見ない。ただ有りそうなものだ、有つて然るべきだと思つて居るだけである。そんな気休めの原理だけでは、到底我々は活きて行けない。もっと具体的に考へて見る方法があつてよいと思ふ。」(柳田1969,p168-169)

 結局ここで柳田は伝統論を探究するからと言って安易に伝統を守る態度を取ろうとも、時代の流れに無理に逆らうようなことになるような場合は「むだな国策」にしかならないことを認めているのである。柳田自身もこの問いについては明確に答えられないことを明言する。

「固より是(※祭の伝統)がよいとか悪いとかいふことは、容易に言へることでない。世の中が改まれば斯うなつて行くより他は無いのか、但しは又避けられ得る道が有るのに避けなかつたのか。其点は実はまだ私なども決しかねている。しかし少なくともどうでもいい気遣いだけは無い。世人の無関心は言つて見れば無知から来て居る。自ら知るといふ学問が、今日はまた甚だしく不振なのである。」(柳田1969,p314)

 上記引用が「日本の祭」の最後の文であるが、ここに聴衆である学生に対して、このような「学問」の在り方を問うているのではないか、という推測をしたくもなる。つまり、古いものが当然悪であるとは限らない。だからこそ「学問」がこのことに対する検証を行い、より正しい判断に帰するために発展すべきであるし、聴衆である学生にもそれを担ってほしい、という期待を感じるのである。

 さて、ここでア.イ.の論点の検証をしてみたい。まずイ.の論点であるが、これについては岩本の引用・解釈を見る限りは「似非共同体論者」の主張は柳田の議論を拾っているというよりは、都合よく自分の主張を補足するために柳田を引用しているという印象が強くある。というのも柳田自身は近代化批判に対し、中立的な立場をとっているとみることができるが、「似非共同体論者」は明確に近代化批判の手段として柳田を引用しているからである。
 そして問題はア.の論点である。結局岩本は「日本の祭」においては柳田の共同労働=共同体観が損なわれたことを非難しているが、そもそも「日本の祭」が語られた目的からすればずれた批判の仕方であると言えるように思う。まずもって、共同体の機能として共同労働が重要であることは、すでに「日本の祭」の中でも語られているし、それが「祭」と比べて劣った機能であることも述べていないのである。なお、「日本の祭」においては、共同労働について以下のように述べられている。

「其次に来るのは共同労働に関する法則、この共同には色々の形があって、處を異にして生産する者の交易や交換までが、此の中に含まれて居たかと思ふ。意識してさうしたかどうかはまだ問題だらうが、我邦では特に国民の青年期に於て、一つの時制を備へてこの労働の正義を教へて居た。さうして或は十分以上と言つてもよい程の効果があった。今日の所謂青年団とその前身の若者組、是が前に挙げた婚姻道徳と共に、すべての同時労働の場合の道徳を、徹底的に叩き込む機関であつて、昔の若連中などは幾分か頑固な若い者にも似合はぬ舊弊さをさへもつて古い伝統を守り続けて居た。」(柳田1969, p172-173)

 唯一反論の余地があるのが、岩本も引用していた、「神が我々の共同体の、最も貴い構成部分であり、従って個々の地域の支配者と、一体を為して居るといふ考へはよく窺はれる」(p16)という部分だろう。この引用部分は正直な所、解釈が難しい部分であることを指摘せねばならない。周辺部も含め引用するとこうなっている。

「けだし天然又は霊界に対する、信仰といふよりも寧ろ観念と名づくべきものを、我々は持つて居た。それが遠く前代に遡つて行くほどづつ、神と団体との関係は濃くなり、同時に又祈願よりも信頼の方に、力を入れる者が多くなつて居る。神が我々の共同体の、最も貴い構成部分であり、従つて個々の地域の支配者と、一体を為して居るといふ考へはよく窺はれる。神道の教理にも後世の変化が色々あつて、現在は村々の神社は神代巻以来、何かの記録に出て居る神様を祀るといふことになつて居るが、それは恐らくはト部氏の活躍以後の現象で、少なくとも国民個々の家だけは、先祖と神様とを一つに視て居たかと思はれる。神を拝むといふことが我々の生活であり、又我々の政治であるといふ考へ方は、たとへ今日はまだ私たちだけの独断だとしても、必ずしもさう軽々に看過してよい様な説ではない。仮に神職家に持伝へた記録からは立証することが出来なくとも、少なくとも我々が自分自分の持つて居る感覚の中から、行く行くは是を明らかにし得る望みはあるのである。所謂神ながらの道は民俗学の方法によつて、段々と帰納し得る時代が来るかも知れない。」(柳田1969, p174)

 ここだけ読むと正直な所、先ほど指摘した柳田の「日本の祭」の講演の目的が違うのではないかとさえ思えなくもない所が2カ所ある。一つは「神を拝むといふことが我々の生活であり、又我々の政治である」という考え方に対する見方である。先述はこれを中立的にみていると述べたが、ここでの語り口はむしろ「民俗学的」に神への信仰を行うことが全面的に正しいことを立証できるかの如く述べているようにも読めるのである。
 もう一つは岩本も指摘した「神が我々の共同体の、最も貴い構成部分」という部分である。これは結局「日本の祭」が郷里において最も重要な機能(つまり、共同体の維持においては、共同労働よりも祭の方が重要である)とみなしているかのようにも見えるのである。
 これら二つの点は意見が割れる論点であるので私見となるが、前者については正直解釈しかねる部分であると考える。これをもって柳田の本音が出ている部分であるということを否定することが難しいからである。しかし後者については岩本のような解釈は正しくないと考える。ここの論点は「共同体の、最も」という部分に尽きる訳だが、柳田の指摘するのはあくまで「貴い」部分に限って、つまり共同体の聖性を担う部分において最も重要であると言っているにすぎないと読む方がむしろ自然だと思われるからである。これに対し「共同労働」は共同体において最も「貴い」訳ではないが、最も「重要な機能」を持っていることとは矛盾しないのである(※3)。この点においては、岩本の解釈にはミスリードあるのではないかと指摘したいのである。

  
※1 もちろん、これはあくまで岩本が見る視点からは「似非」でしかない、という以上の意味はなく、普遍的な視点からそれが「似非」であるという訳ではない。ここでは岩本の言う「共同体」との概念分類を行うためにこのような用語を用いているに過ぎない。

※2 読書ノートにも記載したが(p278-279)、もっと言ってしまえば、岩本の言う「共同体」というのが原始時代にあったと言う説もはっきり正しいと言い難い部分がある。集団が完全に独立し、自給自足していた状態というのは想像することがかなり難しいように思う。まずもって集団をいかに分けるのかという問題もあるし、少なくとも、岩本の言う「共同体」には「交易」という概念がなく、全て所有物は集団内で共有化されることになる。このような点から、岩本の言う「共同体」というのは極めて理念型的な発想であるにも関わらず、それを実在するものとして捉えている点が問題であると思われるのである。

※3 もっとも、「日本の祭」からは、共同体における「共同労働」の側面が「祭」の側面よりも重要であるという結論を導くことはできない。これらはあくまで並列に重要性を語ることまでしか「日本の祭」ではしていないとみなすべきである。優劣について検討するならば、柳田の別の論考を読むほかあるまい。


(2018年1月6日追記)
※4 岩本由輝「近世漁村共同体の変遷過程」(1970)を読んだが、内容としては江戸時代における共同体とその周辺の諸アクターの力関係の変化の分析を中心に、漁村の事例を通じて行っていた。しかし、「共同体」の捉え方は本書における見方と全く変わっておらず、いわば「程度問題」としての商品流通の変化を通じた共同体の分化・解体過程を捉えているに過ぎない内容であった。「程度問題」であるということはその原型についての妥当性については全く検証されないまま、素朴に理念型として設定したものをあたかも真理であるかのように捉えているにすぎないということである。
 特に本書における似非共同体批判においては、「共同体」という理念型の検証を全く行っていない状況でその批判の正当性を示すことは不可能なのではないかと思われる。実証性をめぐる問題では確かに「似非共同体論」の議論の問題はあるかもしれないが、岩本が言うように「労働組織と結びついていない」ことを根拠に批判を行うことは問題があるだろう。そもそも労働組織と密接に結び付いた「共同体」なるものが確固として存在することを岩本は立証していないのだから。
 なお、岩本1970は民俗学者のようなフィールドワークは行ったものの成果ではなく、文献研究の域に留まるものであった。


<読書ノート>
p5-6「このように、共同体としての〝ムラ″があるのは、「維新以前」のこと、「旧時代の思想」、「従前の慣習」、「古き時代」のこととみていた柳田は、日本の農業を生産の水準から職業あるいは企業へと引きあげ、農民を自立させる基盤として〝ムラ″を再編成することをもくろむのである。そのさい、柳田の考えている〝ムラ″は、共同体としてのそれではなく、明らかに近代的機能集団としてのそれであった。その限りにおいて若き農政学者柳田は、きわめて意図的な近代主義者であった。それは、柳田の産業組合普及のための啓蒙活動を行なう過程での講演や論考において顕著に現われている。」
服従と保護の関係で成り立つ〝イエ″はすでに徳川時代の中頃から弛み、それが〝イエ″は本家分家や地主と百姓の関係の希薄化、対等化によりもたらされ、「小さいがゆえに不時の「災害」に対する抵抗力も弱かったから、その数が増えるという形で封建的な「社会組織が弛緩し」てきた「徳川時代の後半百五十年間に於て飢饉其他凶作の惨毒の著しかったの」は当然であると、柳田は主張する。」(p7、柳田「定本」第一六巻p85-90)

p11「ここで水を契機として成立する共同体、すなわち〝ムラ″のありようが一幅の名画を想起せしめるような美文によって表現されているが、こうしたところに柳田の共同体認識の特色がみられるのである。いずれにせよ、一見、共同体の非常に的確な把握であり、説明であるようにみえながら、要するに景観主義の域を一歩も出ていないのであって、紀行文としては優れていても、〝ムラ″の実態には迫りえないのである。」
※「柳田の描く〝ムラ″は常に美しすぎる。それは柳田の視界には〝ムラ″で現実に生きている人間の生ぐさい動きが入って来ないからである。柳田の共同体論を検討する場合、この点に対する批判的視角を明確にする必要がある。」(p12)
p13「すでにみたごとく、明治末年の柳田は、〝イエ″を観念的なものとしてとらえていた。しかし、農民史研究を始めた柳田は、〝イエ″をより実態的なもの、すなわち共同体の重要な機能の一つである労働組織としてみようとする方向を示すようになる。つまり、柳田は〝イエ″には観念としての側面と実態としての側面があることをはっきりと認識し、観念としての〝イエ″はあくまで実態としての〝イエ″に規定されてのみ存在しうるものであるころに注目するようになったのである。」

p14「そして、前掲『都市と農村』のなかで、柳田は、「今では本物の親よりも却って長男のことをオヤカタと呼ぶ方言が弘く知られて居るのは、つまり総領が事実に於て、夙に労働長の権能を行って居た名残であった」といい、また「今日の親と子の家庭が始まるよりも前から、子等の間には、オヤといふ唯一の中心が有ったので、それが血縁と年順とを以て定まって居た為に、後自然に今日の親子の意味が限られるやうになって来たのである」と説明する。つまり、柳田によれば、オヤコというのは、本来「賃金の要らない労働組織」としての〝イエ″における指揮する者とされる者との関係を示すことばであったのである。
この点について、柳田は、昭和四年六月の『農業経済研究』第五巻第二号所載の「野の言葉」のなかで、さらに検討を加え、コは「労働組織の一単位の名」であり、オヤは「家長となり、又指揮者の地位を占める」ものを意味することを明らかにし、「少なくともオヤと云う語には、生みの父又は母といふ内容は無かった」と結論づけている。」
p15「かくて、柳田の共同体認識は、〝ムラ″を景観的に捉えていた時点から、そうした〝ムラ″における日常的な営みとしての労働組織を取り上げて行ったことで確かに深化しているが、それがなおみずからのフィールド・ワークを踏まえたものではなかっただけに、かえって景観的な〝ムラ″と労働組織としての〝ムラ″とが安直に結びつけられることになり、共同体の実態把握に成功したとはいえなかった。」

p19「しかし、〝ムラ″や〝イエ″が現実に共同体として機能しなくなり、「氏神」の変化が「既に完結した」ところもあるという当時において、柳田が氏神信仰をその本来の姿にさかのぼって再考しようとしたところに、その所論が単なる観念に流れるゆえんがあったのである。共同体のないところに、共同体の神が存在しえないことを柳田は理屈の上では知りながら、心情的になお、そうした神に対する信仰を捨てえなかったのである。」
※このような解釈が妥当か疑問もあるが…「日本の祭」では、「神が我々の共同体の、最も貴い構成部分であり、従って個々の地域の支配者と、一体を為して居るといふ考へはよく窺はれる」(p16)と述べている。これについて岩本は柳田が労働組織としての共同体を「自明」としていたから語ってないとみている(p18)。
P19「そして、このような欠陥(※上部構造の問題である信仰はつねに社会の土台をなすものの上に立っているのに、柳田が捉えていたそれをなおざりにすれば論理的にも精細さを欠くこと)は、要するに柳田の研究そのものが、この問題に限らず、一つの地域にじっくりと腰をおろした綿密なフィード・ワーク(※ママ)に裏付けられたものでないことから生じたものであるということができる。」

P38マルクスは日本社会をアジア的社会としてよりも、ヨーロッパ中世に近いものとみている
資本論、長谷部文雄訳第一部第四分冊のp1098参照。
P62-63「ただ、ここにおいて、神島が「第一のムラ」=「部落」=自然村=「もとは行政村」といういささか短絡的な〝ムラ″のとらえ方をしているのは気がかりである。われわれの近世研究の結果からすれば、「部落」はたしかに近世の行政村ではあっても、それが、すでに、いわゆる自然村的なもの、または少なくとも共同体的なまとまりをもつものではなかったことが明らかである。しかし、神島ならずとも、近世村落について、この種のとらえ方をする論者が多く、そうしたことが結局、彼らをして共同体としての〝ムラ″の景観主義的な把握の域に留まらせる根本的原因となっているといえよう。」

P75「柳田は、そうした「義理の親子制度」を……(※中略)、「土地によりますと是が一つの勢力とも認められて居りまして、常から目をかけ世話をし相談にも乗ってやる代りに、一朝入用があれば其一令の下に、何でもする何でもさせるといふ、暗黙の約諾のあるものも少なからず、其中には始から計画があって、努めて此関係を広く結んで置かうとする者がある」と述べ、それが「選挙」の「地盤」に利用されるとき「不正投票」といった弊害を生み出すことになるといっているのである。要するに、共同体がその本来の姿である労働組織としての実態を失ないながら、なお労働組織であったときに当然のものとしてあった人間関係のみが利用されるときに生ずる問題点を柳田は指摘しているのであるが、今日の共同体の復権論者や再評価論者に果たしてこうしたところまでの目配りがあるのかということになると、はなはだ心もとないといわざるをえない。」
※もっともこれが不正であると言い切れるかは方法面での問題を孕んでいないか。

P83「昭和四〇年代後半になると、いわゆる柳田ブームなる現象が現われるが、そこにおいて花田清輝の前掲「柳田國男について」にみられる柳田に対する積極的評価をさらに推進する役割を果たした者として後藤総一郎と綱沢満昭がいる。」
P85「つまり、後藤にとって共同体は信仰を基盤とするものであり、「イエ」と「ムラ」とは本来、労働組織として構成された共同体であるという認識は表面に出て来ない。もちろん、後藤は共同体が労働組織としての機能を有するものであることは知っているであろうが、むしろそのことは、「自然村としての村落共同体」という表現からうかがえるごとく、ある意味では自明のこととしてあまり意識されずに、信仰をめぐる共同体のあり方を正面に打ち出してくるところに特徴がある。その点で、共同体を本来、労働組織と考え、信仰をめぐる機能はそうした労働組織のなかから派生してきたものとみる私の共同体の認識のしかたとはかなり異なっている。」
※「この場合、〈イエ〉意識とは、民俗学者柳田國男が明らかにした日本における固有信仰である「先祖」信仰とその意識であって、その意識こそが、古代から近代への発展を一貫して押し進めてきたものである。」(後藤「柳田國男論序説」1972、p183)

p87「後藤は信州・伊那谷の南端、遠山の在村少年として、疎開少年と「ひとつの芋を二人で食べた」ということを「共同体体験」とみなし、「いわば同民族体験」を持ったと称しているが、一体こうしたことが「共同体体験」として説明しうるものであろうか。また相手の疎開少年はこのとき後藤と同じ認識を持ちえたであろうか。」
p92後藤「天皇神学の形成と批判」p245からの引用…「こうした歴史におけるわたしたちの「個」とそして「和」は、共同体の価値基軸である氏神を中心に形成され受けつがれてきたのであった。そこにこそ「個」の幸福と、共同体の「平和」が育まれていったのであった。」
※これは柳田の「日本の祭」を参照しながら議論されているという(p91)。このような共同体の原理、実態を「近代的『個』の析出作業」によって「前近代的な『負』の遺産として」退ける近代原理は「共同体のなかで個性的に形成されたものではなく、画一的な教育という制度的な作業を通して、国家と『個』という直接的ルートで形成されていった」もので「近代的『個』と錯覚しているいわゆる地域エゴイズムが形成されたに過ぎない」と述べる(p92-93、後藤1975:p245-246)。

P96-97「また、後藤のいう共同体は、結局、景観主義的な「ムラ」のなかにみられる信仰をめぐるつながりということになるわけであるが、何度もいうように果たしてそういうものを本来の共同体としてとらえていいのであろうが、共同体をあまりにも現代のわれわれのまわりにみられる現象に引きつけて考察しようとしているのではなかろうか。だから、当面本来の労働組織としての共同体をあわせ持っていた機能の一つにすぎなかった信仰をめぐるそれのみに後藤は執着することになるのであろうが、そのことの限界については柳田が第二次世界大戦前後から信仰をめぐる共同体に重心を移してきたことに対する私の先に述べた批判がそのままあてはまろう。とにかく共同体を歴史的存在としてとらえようとしている視角が乏しいことだけはたしかである。」
P108「このような共同体の機能について、これまでいささか共同体の歴史の研究を進めてきた私はよく知っているつもりである。しかし、それは共同体が人間の生産力水準が低く、個人が社会の基礎単位となりえない段階で、人間生存の前提として構成された集団であり、個人の自由意志で作ったり離れたりすることができる性質のものではないときにはじめていえることなのではないであろうか。生産力水準が高まってくれば、そうした共同体は解体の方向に進むのが必然であり、自我の確立の桎梏となるも当然であった。」

P122「このように綱沢(※満昭)は、柳田のいう「自然に出来た村」、すなわち、いわゆる自然村に村落共同体の実体をみたわけであるが、そのことが結局、共同体を景観主義的に理解する欠陥に綱沢を意識しないで落ちこませることになっているのである。このことは、あとで詳しく述べるが、とにかく、いわゆる自然村というのは、本来の共同体の実体である労働組織としての〝ムラ″と〝イエ″からは大きくかけ離れているのである。しかし、自然村を共同体の実体とみなす立場に立つならば、そのなかであらゆる共同体の機能が一個完結的に行なわれていることが実証抜きにして前提になってしまい、現実の共同体における機能の分化と拡散に状況がつかめないことになるのである。共同体が、自然村という概念からではなしに有賀喜左衛門や中村吉治が示したような同族団あるいは家連合の具体的な実証を通してしか把握できない理由はまさにそこにあるのである。」
P126「このように、かつて婚姻が若者組と娘組との交流の場で行なわれていたこと、およびこれらの組に宿親が介在していたことは事実であるが、こうした事実が果たして綱沢のいうような村落共同体における個人の自立の証明となるのであろうか。たとえば、相手の選択に一定の自由があったとしても、それはおたがいに交流することを許されている部落内の若者組と娘組とに属する者たちの間に限られていたし、また、婚姻の成立にあたって生みの親の規制はなくても、それにかわる宿親の規制は現に働いているのである。社会的な規制者としてのオヤは何も生みの親に限らないことは、柳田のすでに明らかにしているところである。」

P142-143「集落を構成するということも共同体のたしかに一つの重要な機能である。そこでは屋根葺きや冠婚葬祭があるいはいわれるような形で一緒に行なわれるかも知れない。しかし、「田植え、稲刈りも同じである」と色川(※大吉)が片付けてしまうのはいかにも安易すぎる。なぜなら各農民の耕作する田畑は、決して集落の屋並みと同じ順序で配列されてはいないのである。……そうなれば結の構成のしかたも小地域としての部落からはみ出してしまう。現象としての共同をいつでも〝ムラ″にみることは可能であるが、それらの共同はいつでも同じメンバーによって構成されているのではないのである。」
P143「共同体においては、本来の機能である生産面に関するものは生産力の発展につれて比較的早く失なわれて行くのであるが、基本的な生産にかかわりのない部分、たとえば冠婚葬祭をめぐる機能は往々にして古い形のままでいつまでも残るものなのである。」

P144-145「「小地域共同体」のなかには、もちろんこうしたタテの関係だけではなく、「結」や「講」や「若者宿」にようなヨコの関係も存在するわけであるが、それらの関係を具体的に検討すれば、それらは「小地域共同体」の成員すべてを網羅するような組織ではなく、また反対に「小地域共同体」と目されるものからのはみ出しもあり、そのようなものが多く存在することは、結局のところ、共同体の完全さ強固さを意味するものではなく、共同体の機能の分化・拡散、すなわち共同体の解体の状況を立証していると考えるべきものなのである。」
P146-147「しかし、色川のいうように、少なくとも大正・昭和期にはそうした共同体の動きはみられなかった。……色川は、それはその時期の共同体が「〝停滞期の村落共同体″」であったからとみる。私にいわせれば、そうしたものは共同体とは似而非なるもの、しいていえば擬似共同体にすぎないのであり、それが共同体の本来の機能を果たしていたと色川の考える「〝躍動期の共同体″」とは連続しないものである。」
※自衛の兵力さえもった自衛の原理に支えられる共同体の話をしている。

P150鶴見和子編「思想の冒険」(1979)p273からの引用…「それでは、おまえは未来永劫にわたって共同体の宿命下に生きるつもりなのか。人間がほんとうにすべての点において他を犯しあわず共同して生活できると信じているのか。そういう不信の声は必ずおこるであろう。……ところが、人間はあまりにも不完全で、……「性悪」なものだとするなら、止むなく、みずからが選んだくびきを甘受するほかはないであろう。しかし、それはきずから選んだ共同体であるという点において、……『ファウスト』の最後の独白の「地上の楽園」に近づくことになるかも知れない。」
※「これはもはや情念の問題であり、信仰である。このような共同体の歴史性を捨象した超歴史的な共同体幻想は、結局、色川らが批判する近代主義者がヨーロッパ近代にバラ色の市民社会を求めたことと同じく科学的ではない。」(p150)
p154「私は、共同体というのは、人間の生産力が低い段階において、個人の自立的生活が不可能なため、集団を作って生産・生活することを余儀なくされたことから個人の存在の前提として自然的に組織されたもので、自由意志でこれを作ったり、これから離れたりできる性格のものではないと考えており、その最も本源的な形態は原始社会におけるそれであるとみる。そして、その結合原理は血縁意識に求められるが、それは決して生物的な血のつながりを意味するものではなく、呪術・信仰によって生じた擬制的な血縁意識であったのである。だから、色川のように、「農民が血縁集団から自立して地縁集団に所属できるほどに、一人一人の経済力が強くなっていなければ」、共同体はできない、とは思わない。むしろ、その逆である。いずれにせよ、血縁から地縁へというシェーマは共同体を説明するのにあまりにも単純すぎるといわざるをえない。」

p183「しかし、それは私が桜井に対する批判のなかでも述べたように、一定の共同体と目される枠のなかで特定の個人が選びあって結びつくというのは、共同体が強固なものでなくなっている過程を示しているのであって、共同体の本来の姿を示していることにはならないのである。つまり、共同と共同体とは別個のものであり、共同体は歴史的にのみとらえて行かなければならないのであり、何らかの共同があれば、それをそのまま共同体とみるのはあまりにも単純すぎる。」
p184「そもそも共同体というのは、人間の低い生産力水準のもとで、個人の生存を前提として存在する組織である。」
p184「共同体社会の婚姻について、それよりも問題なのは、よしんばいわれるような形での「自由意志による選択」が成り立つとしても、その選択の範囲は村内の「若者組と娘組」との関係に限定されるのであり、他村との縁組の場合には、出るにしろ入るにしろ何らかの妨害があえうとすれば、それはとても「自由意志による選択」などと美化してみるわけには行かない。」
※これは鶴見和子(「思想の冒険」)の「若者宿・娘宿の実態は、共同体が個人の自立と自主性を育んだことは例証する」と「個人の選択原理」を強調する論理の批判である。このような昔の自由意志と今の自由意志の問題を安易に比較すべきでないという意味では傾聴すべき点。

P185「そして、また娘宿が一般に若者宿に管理下にあるという実態を、鶴見はどのようにみるのであろうか。そのような状況でもまったく個人の「自由意志による選択」があったとみなすのであろうか。そのような状況でもまったく個人の「自由意志による選択」があったとみなすのであろうか。それは女性の社会的地位に関する問題にもかかわってくることである。
鶴見は、「第三に、共同体内での衣食住の生活スタイルには、個性の滅却よりもむしろ、個人化と個性化の多様化のプロセスがあったことを、柳田は例証した」とみる。しかし、それは共同体が解体にむかう過程を示すもので、共同体そのものが積極的にそのような方向を進めたものではない。ここでの鶴見の理解には、共同体を超歴史的にみることからする救いがたい勘違いがある。「衣食住の生活スタイル」における「個性の滅却」という点からいえば、それは共同体社会よりも現在の商品経済社会の方がはるかに強いのがあたりまえである。」

p219「中村(※吉治)のこのような見解は、岩手県煙山村における実態調査による裏付けを持っているが、私も岩手県津軽石村や、長野県今井村において「村八分」の発生する時期が村方騒動の頻発する幕末・維新期であることを確認している。とにかく「村八分を共同体存続のための不可欠な慣習」とみることができないことだけは事実である。共同体が本来的に機能しているならば、規制は何も「村八分」のような形をとる必要はなかったのであり、またとることもできなかったのである。そして、そこから、われわれは、本来の共同体はまず何よりも労働組織・生産組織として存在したものであることを知ることができる。」
※「基本的には独立してきた農民が、感情や行事や祭の面で村意識をもっているようなときに、祭の仲間から除外するというごとき村八分が可能となる。」(中村「新訂・日本の村落共同体」p203-204)

p236「ただ、このように芳賀(※登)がECのような組織を含めて、それを「地域共同体」と呼ぶとき、それはもはや本来、労働組織・生産組織として自然的に構成された歴史的な共同体とはまったく異質なものになっており、共同生活圏とか共通文化圏とか称すべきものであるが、芳賀はこうした「地域共同体」を基盤としながら、「民衆史」の確立をはかって行くことになるのである。」
p242「芳賀は、柳田のいう「常民」は「今日での民衆」ではないから、「常民すら解体しているときに、柳田の提言にのみよりそっていて、民衆史を構築できるであろうかという疑いも当然生まれるのではなかろうか」としながら、「経世済民の志をもっても結衆する場がなくてはどうしようもない」のであり、「そのためにはどうしても小地域共同体に人々を結衆させることからはじめねばならない」として、……「民衆は祭りをもちたがっている」のであり、「地域社会の結合、いいかえると結衆の場としてこれを求めている」ことを指摘するのである。かくて、「祭りは、目で見、耳で聞き、肌で感じ、体で表現するものだけに強烈な行動文化でさえある」とする芳は、「この種の文化をみとめないものは、民衆史観をもたぬ人々といって断定してようのではなかろうか」と高唱した上で、「結衆原理」として「地域主義」を掲げ、「近代主義との対決」を目指しているのを知るとき、私はいよいよたじろぎを感ぜざるをえない。」
※このような芳賀の共同体観が労働組織ありきの共同体観と大きく異なることの問題。

P243「しかし、それはあくまで意識の上でのことであって、現実の生産点にある人々と知識人との間には厳然としたへだたりは存在するのである。それをこえようとするとき、知識人はみずから生産点に立つ用意がなければならない。その用意とは、単なる覚悟ではなしび、みずから生産の場としての土地なり労働対象なりにかかわりを持つことである。それなしの意識だけでは、主観的には土地なりとにかく、結局のところ意識の上でそのような考えに共感を持つ人々だけのサロン的な集まりでの、民衆に対する同情だけに留まるのである。」
※ある意味この当事者性の必要性を語るのは正しい部分もある。結局責任の問題がつきまとう以上、それを全うできる立場から語られなければ、常に無責任たりうるからである。

☆P248「要するに、共同体の基本は人と人とのつながりにあることを明らかにすることであり、それはすでに何度も述べているように労働組織としての人と人のつながりであって、そのようなつながりのもとで、人々が生産手段とどのようなかかわり合いを持つのかを明らかにするのが共同体研究の本旨である。なぜなら、人々の生産手段とのかかわり合いが所有であり、所有は生産力の発展に応じた人と人とのつながりの変化によって変化して行くからである。」
p250「ほとんどすべてが「思う」で表現されているところからみて、木村自身の共同体観にはなお確定されていない部分があるのかも知れないが、とにかく「村落共同体」は「政治の牙」を持っていなければならないものという思いこみがあるようである。だから村落共同体は中世後期か近世にしか現われないということになる。しかし、そこには、結局、人間の生産力の低い段階において、生産や労働がどのようにして行なわれなければならなかったかということをみる重要な視点が欠落している。」

p251「村落景観と「政治の牙」だけから説かれる共同体からは、共同体が人と人とのつながりによって成立していることなど決してつかむことができず、図式化された公式論に終始することとなるのである。」
p252「共同体はあくまで近代以前の社会における歴史的存在でなければならないから、明治以降の社会においてその残存がみられたとしても、その消滅は時間の問題であり、今日、現象的には共同体に類似した組織があったとしても、それは共同体とはまったく別個の次元において成立した近代的な機能集団として考察を加えなくてはならない。」
p254「人間社会におけるあらゆる共同はすべて共同体とみることはできない。少なくとも近代共同体などというものはありえない。しかし、人間の生産力が低い段階において人間の生存の前提として自然的に構成された労働組織・生産組織・生活組織は間違いなく共同体なのであり、そこにおける作業や生活がどのような人と人とのつながりにおいて行なわれ、そのようなつながりが生産手段とどうかかわっているかを解明することこそが共同体研究の中心となるべきなのである。」

p264「それゆえそこにおける所有は共同体所有のみで、それは非所有をともなわない所有、あるいは非所有と対応しない所有として端初的には現われるのである。そのような所有はまた個人の生産手段への緊縛であり、それゆえにこそ個人は自立できないのである。かかる所有原理を基底として持つ共同体は近代以前のあらゆる社会の発展段階に存在するものであったが、その本源的な形態は原始社会の共同体であり、そこでの基本的な結合原理は生物的な血縁関係とは異なる擬制的な同血縁意識に求められていた。」
※出典なし。

P273「平山(※和彦)が事例としてあげている「辺名部落における親方の寄付」とか「廻部落における区長の宴会」といった類いは、いわれるような共同体の平等性や平準化の状況を示すものではなく、むしろ共同体がその本来の性格を失っていることからくる親方や区長の統治策の一つにすぎず、しかもそうした過程で行なわれる「部落を一本にしぼる」という形での全会一致、反対はあっても反対することができないようにして行くやり方は、明治以降、共同体としての本来の機能を失ったにもかかわらず、個人の自立を妨げる擬似共同体として国家権力から存在を容認されて十二分に利用されたものにすぎないのである。そこには、親方や区長のおごりにたかる物買い根性があるだけで、「平準化」とか「平等性」とは無縁のものであり、そのようにみるのは、ためにする共同体の美化に通ずるのみである。村ぐるみ、部落ぐるみの選挙違反がおきる原因はまさにこうしたところにあるのである。」
p275「現在の危機といわれるものを資本主義体制の生み出した危機としてとらえるならとにかく、共同体社会から資本主義社会へなってしまったことによって生じた危機と考えるなら、それはもはや世界観の相違といわざるをえない。そして、現在の危機を共同体の見直しによって救済できると考えているとするならば、その主観的意図はどうであれ、資本主義体制にとって痛くもかゆくもないのであり、かえって体制を擁護する皮肉な役割を果たすことになる。共同体の解体を要請したのは資本である。しかし、資本はつねに共同体の解体を一挙におしすすめるのではない。資本の必要に応じて解体をすすめるのである。だから、近代社会において共同体的なものが残っているのもまた資本の要請なのである。資本が前近代的なものを残しておくというのも資本の本源的蓄積の重要な一部をなすのである。そうした資本がいまや残しておいた前近代的なものを解体しなければならなくなったことによって直面している危機は明らかに資本主義体制の危機であるという認識を欠いた心情的な議論が近時あまりにも多すぎることが気がかりである。共同体の見直し論者のなかには現代の人類にとっての危機ととらえて、資本主義も社会主義を超えてという方向にむかう議論を見出すことすらあるが、こうした議論は結局、社会主義を「超え」ることはできても決して資本主義を超えることにはならないのである。」
ドゥルーズ/ガタリの解釈と同じ資本主義観!

P278-279「このような議論が行なわれる背景には、近世の〝ムラ″を確固とした村落共同体としてとらえ、明治以降の〝ムラ″にもそうした共同体の性格が根強く残っているとみる考えがあるのである。しかし、近世の村落共同体は、共同体の歴史からいえば最終的な解体過程にある共同体であり、その機能は最初からかなりの程度に分化・拡散していたのである。それだからこそ、近世の村落共同体は、労働組織とか水利組織とか林野利用組織とか、さらには貢租組織とか商品流通組織とかいうように、本来ならば村落共同体が一個完結的に持っているべき諸機能について、それぞれの機能ごとの共同組織のあり方を通じて別個に解明されなければならなかったのである。また、そこにおいて商品流通組織の存在すること自体が純粋に自治的な共同体社会ではなかったことを物語っている。このことは、要するに近世の村落共同体が、解体期封建社会としての幕藩体制に照応した共同体として、すでにその成立期から一個完結的な機能を有するものでなかったことを示しているのである。」
※流通と自給自足の問題を考えてしまうと、どの点が共同体の時代なのかがわからなくなる。少なくとも石器時代あたりにまで遡らなければならないだろうし(すでに交易が存在することが指摘されている)、そのような共同体が「存在しない」ことも証明できてしまうかもしれない。したがって、岩本のいうような形での「不自由論」もまた不毛であるように見える。

P280-281「かくて水田農業の行なわれている日本において、明治以降、現代にいたるまでみられる水や山の共同利用も、共同体の論理からではなしに資本の論理から説明されなければならない。つまり、人間社会には何らかの形での共同はつねに存在するが、その共同がいつでも共同体であるとはいえないのであり、とくに資本主義社会における共同は、資本制以前の社会における共同とは異なって、生産力の発展にもとづき経済の基礎単位として自立しえた個人によって一定の目的合理性を持って構成された機能集団としてとらえなくてはならない。」
※先述の議論と比べれば、明らかな飛躍がある。この論述は、恣意的な形で資本主義の議論に結びつきすぎている。

P304-305「しかし、橘川(※俊忠)は、「そのことは農本主義が単なる復古主義であることを意味するわけではない」とし、「農本主義は、伝統に名を借りた現状批判であり、擬似的にではあれ革新性をすら有している」ゆえに、「工業の飛躍的拡大を特徴とする資本主義の近代が、新しい形の人間的悲惨を作り出さざるをえない以上、工業批判としての農本主義は、人間的立場に立って資本主義を一見否定するかのようにみえる」が、結局のところ「農本主義の伝統志向は、この資本主義批判を未来へ開かれた批判として展開することをさまたげざるをえない」と指摘する。この橘川の農本主義に対するうけとめ方はやはり現在の思想的状況のもとにおいて重要である。」
P315「もし、村落共同体が本来の機能を一個完結的に持っていたとするならば、村八分のような方法をとらずとも、日常の生産をめぐる機能そのものが共同体成員に対する十分な規制となりえたのであり、むしろそうしたものこそが本来の意味での共同体規制であったのである。」

P369岩本の共同体の定義…「共同体とは、人間の生産力水準が低く、個人が社会の基礎単位となりえない段階で、人間生存の前提として構成された集団であって、個人の自由意志で作ったり離れたりすることのできる性質のものではない」
※この規定が素朴であるという論者のいることに反感を覚えているようだが(p370)、ある意味でそのような岩本への批判は正しい。これだけでは具体性が極めて乏しく、実証的作業による提示により「共同体でないもの」との区別をしていかない限り、かなりの解釈の幅を与えているのは明らか。そして本書でもそのような具体的な議論はない。景観主義の批判は具体性の議論には全くならない。
P375-376「私は、労働組織・生産組織としての機能が失われているところに本来の共同体はありえないと考えており、信仰をめぐる共同体というのはそうした本来の共同体の属性としての機能の一部であり、もはやそれのみしか存在しないというのは、本来の共同体が実態を失なって形骸化している状況を示しているのであって、それを軸としての共同体の再興はありえないという立場をとるものである。」
※あるべき共同体の実像が非現実的なものである以上、この「共同体がありえない」という論法自体に問題があることになる。

P384-385「ここで玉城(※哲)のいう「イエ」と「ムラ」が、人間の生産力が低く、個人が経済・社会の基礎単位として自立できない段階において、人間の生存の前提として構成される集団としての共同体なのである。」
P388「共同体に対する実証があまりにも不足しているそのような状況のもとで、共同体の再評価などをいうのは時期尚早である。それゆえ、現時点において共同体を議論しようとする者にとって、まずその歴史的解明を進めることが不可欠の課題であると私には思えるのである。」
※このような状況のもとで、岩本の共同体観が正しいものとして位置付けられる根拠はあるのか?
P389-390「共同体の問題は、一九五〇年前後から、農地改革の評価とからんで、一時たしかに、歴史学・経済史学・農業経済学・社会学法社会学関係の学会などにおいて、流行的に取り上げられたことはあったが、当時の社会科学研究者のかなりの部分が、こうした問題の取り扱いに関して特定政党の政治路線の影響を強く受けていたために、その政党の政治路線が変るとともに、何らの結論も出されないままに、研究そのものが放棄されてしまった。」

P391「それが今日、共同体は(※かつてのように)否定さるべきものではなく、現代の混迷からの脱却のための組織として復権させられようとさえしているのである。つまり、資本主義化あるいが西ヨーロッパ化という形をとった近代化が生み出した諸悪からの解放の拠点として、共同体が位置づけられようとしているのである。しかし、共同体の有していた歴史的意味を知るものにとって、共同体にそうした新しい性格を付与することはできない。にもかかわらず、共同体の再評価といったことが地域主義といういささか正体不明なものと一部重なりあいながら、このところ、日本の見直しといったことが学会や思想界でも活発である。」
P393「しかし、そのようにして成立した漁村の場合、生産手段である漁場は耕地のように生産者に分割されるというわけには行かなかったから、共同体的所有が貫徹されなければならなかった。かくて海産物の商品化と漁場の共同体的所有の貫徹という一見して矛盾した状況が現出されることになったのであり、そこに近世における村落共同体の性格が凝縮されているということができる。」