遠藤公嗣「日本の人事査定」(1999)

 本書はアメリカの人事制度と日本の人事査定制度の比較を試みながら、現在の日本の人事制度が戦前のアメリカの制度の影響を大いに受けたといえるものの、現在のアメリカの制度とは大きく異なること、また、小池和男青木昌彦により流布している人事制度理解の通説的見解が事実の検証に乏しいまま主張されていることについての批判を行っている。
 人事査定制度を主題としているものの、本書は私がこれまで議論していた日本の教育制度や、日本人論の議論にも非常に示唆的な論点を提示しているように思えた。

 その最たるものは、戦後の不当な査定問題の起源を、教員の査定差別の議論に結びつけている点である。企業の査定差別による訴訟は60年代以降の動きの中で見られるようになってきているが、50年代の特に愛媛県における教員の査定差別の問題に触れつつ、ここで議論された「組合労働者」及び「女性」の雇用者を査定差別するための系譜を、本書は描こうとしているのである。
 もっとも、その関連性については明確となっている訳ではない。なぜ教員の業界で査定差別問題が先立って見受けられるようになったのかという点については、本書で十分な検討を行っていない。私自身も愛媛を中心にした当時の教員査定の実態については色々と調べている所であるが、その範囲でわずかな仮説を提起するのであれば、次のようなものだろうか。日本の女性教員は戦前からひどく差別的な取り扱いがされてきていたのは女性問題を取り扱った文献では出てくるが、第二次大戦頃になると、義務教育段階の教員は、男性教員の割合が段々と減少し、終戦頃にはこの女性教員の方が多かったという統計がある(望月宗明「日本の婦人教師」1968,p45)。戦後愛媛で差別的待遇が問題となったのは、教員の人員整理の必要性から、特に人員が多いにも関わらず、評価が低かった女性に対して実質的な退職勧告を突きつける一環でなされたものと理解することができる。もちろん、ここには組合の力による反対の動きも影響力をもっていた。このような差別的処遇の必要性と、それへの抵抗勢力の存在というのが、先駆的に社会問題化へ繋がった要因と位置付けることは可能だろう。
 もちろん、この先駆的な差別的慣行は「公」の立場からなされたものであり、その手法を「私」側でも容易に利用することができたからこそ、企業でも行われるようになったという見方もできよう。ただ、この見方には根拠がなく、もう少し検証が必要になってくると思われる。50年代から不当な査定がなかった訳ではなく、あくまで私企業ではそれは問題化されるに至らなかっただけだった、とは簡単には言い難いからである。

 もう一点、小池和男の批判に関する議論について。なぜ小池がこのような曲解をしたのか、という問いに対して遠藤は不明としているが、私は(最近の読書傾向から)どうしても当時の日本人論の影響力を感じずにはいられなかった。小池は結局日本の雇用制度が優れていることを示すための議論をしていた訳だが、そこに何らかの「日本観」が先入観として介入したことによって、「アメリカ観」は具体的検証を欠いたされたまま議論されることになった(もしくは著しく軽視される結果になった)ことは、河合や千石の議論にも同じように見られた観点だったことからも、類推したくなる。小池がもし同じような過ちをしているのであれば、どのような「日本観」に基づいていたのかという論点は重要であるように思う。小池の著書も現在少し読み始めているので、また取り上げてみたい。


<読書ノート>
p11「(※労使関係論研究が労働組合による労働条件の規制に注目するあまり)査定制度を重視しなかったことについては、この時期の前2/3期が高度経済成長期であったことは重要であろう。研究関心の欠落が、高度経済成長期における実態としての経済と労使関係によって、いわば隠蔽されていたからである。企業の持続的拡大と毎年の春闘による賃金のベースアップは、昇進昇格と昇給における従業員間の処遇格差を目立たなくした。」
p18「小池(※1981)は査定制度が優れていて、従業員が高度な熟練を形成できたからこそ、日本企業は高生産性と好業績を上げることができたと示唆したのである。」
※もっともこれには独断と偏見、全くの憶測という条件を付している。しかし、小池(1986)からこれがあたかも実証された議論であるかのように扱われるようになったという(p19)。

P68「しかし1990年代の日本では、米国の人事査定制度について、著しく不正確な記述が一部の経済学者の間で通例とすらなっている。その極致の一つは青木昌彦・奥野正寛編(1996:133-134)であろう。そこでは、日本の制度の「客観的で公正な査定基準を作る努力」が強調された後に、「逆にアメリカなどでは綿密な評価基準はあまり作られておらず、人事面での決定は各上司に任される傾向が強い」とされる。」
※しかしアメリカの方がむしろ評価要素は客観的とする(p82)。それは情意的評価や、主観的な側面がある評価要素が用いられる傾向が強いことから示される(p86-87)。
P89米国では分布制限が少ないが、日本では多い

P102「小池が見た「査定の用紙」に「従業員の署名欄」があったとすれば、「ほとんどそういう表向きの文書はだれも見ない。結局は感じとか、主観でやるよりしょうがない。」という小池の認識は「お粗末」としか評価できない。」
P109「日本では、1957年の愛媛県教員の勤務評定をおそらく最初のケースとして、査定制度が差別の道具に意図的に使用されはじめた。日教組(1958:393)によれば、この最初のケースの被差別者は「婦人教師」と「組合活動家」が多かったが、女性と(左派)組合員はその後も査定制度による差別を受け続けたから、最初のケースで誰が主要な被差別者であったかの指摘は、示唆的である。」
※この議論は60年代以降の民間の査定差別に広く見られたことからも関連性を見出しうる(p110)。出典は日教組十年史。

P119「これらの特徴が、現代日本の査定制度の特徴に類似することは、明らかである。あらかじめ指摘しておけば、これらの特徴が戦前の日本に導入され、ほぼそのまま現代まで維持された結果が、現代日本の査定制度の特徴の一つとなったのである。」
※これらの特徴とは、査定が「生産労働者」を対象者としたこと(組合労働者の例外がないという意味?)、コミュニケーション手段という用途がない、主観的評価、正規分布への準拠、査定結果の通知がないこと、の5点である(p118-119)。これらの特徴はアメリカの戦後査定制度では弱まったが、日本では残存しているものであるといえる。
☆p159「勤務評定制度を雇用差別の道具として容易に使用できた理由は、日本の査定制度の特徴にあろう。日本の査定制度は、たとえば、評価要素の主観性が強いにもかかわらず、査定結果は被査定者に通知されず、したがって、査定結果の不満や苦情を処理する機関もなければ、法的な雇用差別救済制度も不十分であるという特徴がある。このような特徴の査定制度は、ひとたぶ査定者が差別意図をもつと、それを雇用差別の道具として使用することは、きわめて容易なのである。」

p217「この点は、米国大企業における学歴別雇入管理の意味と、日本大企業における学歴別雇入管理の意味が異なることを示す。日本大企業では、大学卒と高卒者は別々に雇入を管理する。……ところが米国大企業は、前述のように理解するから、高卒を必要学歴とする職務に大卒者がそのまま雇入されるのである。」
※これも暗に小池の批判である。Exemptの職務=大学卒と考えているから。
P275「日本の労働者が孤立した個として存在し、クラフトユニオンの伝統を欠いていたという指摘は、日本の労働者が、自分が所属する自立した集団内部で、自分たちの間の利害を調整し規律するルールを自主的に作った経験が乏しかったということと、ほぼ同義であると私は思う。もしそうであるとすれば、もたらされた第二次世界大戦後の状況の中で、日本の労働者は、一方では、労働組合を組織し使用者を相手に激しく要求の実現を迫ったとしても、他方では、労働者間の利害を調整し規律するルールを自主的に作ることは、その経験の乏しさから、容易なことではなかったはずである。」
※二村一夫(1984,1987)の出典あり。

P287「企業側は対立的なHUAGA労働組合を嫌悪し、1970年代にはいると、組合員にHUAGA労働組合を脱退するよう圧力をかけるようになった。その結果、1973年10月から、全社的に多数の組合員がHUAGA労働組合を脱退しはじめた。」
P305「実のところは、企業側が自覚しないで偏見を持つことは、企業側によって地労委の審問の場で証言されている。地労委の審問で、K支店の人事管理を担当する課長は「女性従業員に大きな期待はできない」と証言し、女性従業員の「査定分」総額が小さいこと、そして、女性従業員を係長に昇進させないことを、正当化したのである。」
P308「とするならば、彼ら(※小池、青木)が日本の査定制度の公正さを実証もなく主張し、日本の雇用差別事件を無視する理由は何なのだろうか。彼らの研究姿勢、研究方法、あるいは研究理論のどこかに欠陥があるのだろうか。私にはよくわからない。」