千石保「「普通の子」が壊れてゆく」(2000)

 今回は河合隼雄同様、日本人論を経由しながら「日本人の子ども」を論じているが、河合よりも正直な所「ひどい」論調となっている千石保の議論を読み解きたい。本書に対する問題点はかなりの部分読書ノートにもまとめているので、本書の要点と読書ノートの補足をしていきたい。

 まず注目せねばならないのは、千石の社会観である。P66に見られるように、日本は集団依存主義の社会であるという。これは日本では個人が主体性を確立すること(が十分で)なく「ポストモダン」期に差しかかっているという認識であると言ってよいのだろう。ただでさえ規範性が乏しいにも関わらず(p72)、ただただ逃走型の人間を志向する社会となってしまい、それは勝手気ままを奨励するだけなのである(p73)と考えられている。
 当然、ここには河合と同じ「個人主義」のない日本人論の前提が共有されている(cf.p72-73)。もっとも、河合の場合はこのことについて一方的に問題であるとは少なくとも「形式的」には主張していなかった。ところが、千石は明らかにこれを「悪」と断ずる形で「日本人の子ども」論を展開する。その極め付けがp59のような発言である。
 確かにこの「荒れ」が学級崩壊という意味ならば正しいかもしれない。学級崩壊が特段日本で問題となっている原因については別途議論せねばならない所だろうが、偏見を覚悟で私独自の見解を述べるならば、基本的には規範を維持する仕組みが制度上確保できていないことに依拠する部分も大きいのではないかと考える。これまでも教師論の議論(特に斎藤喜博)では繰り返し「教師がしっかりしなければならない」と述べられることで、非行などの問題に対しても学校が(家庭の協力も求めながら)解決しなければならないものと捉え、安易な児童・生徒の排除は教師として問題であるという認識が強かった。いじめの問題にしても、加害者保護の観点が強く、フランソワ・ベゴドーのレビューでみたフランスの学校のように、規範に反する生徒を安易に排除するという発想が、日本の(少なくとも公立学校では)極めて乏しいのがこれまでの状況なのではないのか?
 これは同時に警察との関係性についても同じことが言える。つまり、排除の論理に基づけば、刑法に触れる問題は警察にそのまま預けるのが妥当となるはずだが、何故か千石はp63で警察に安易に預けることは問題であり、むしろこれまでの日本と同じように規範意識に乏しい主体を問題にしているのである(p73-74)。つまり、ここでは「学級崩壊」単体が問題なのではなく、広義的な教育病理という「荒れ」を問題にしているのである。P59の「荒れ」はそのように解釈しなければならなくなるだろう。そして、その教育の理想型というのは、p194のような制服廃止運動といった形での規範の意識化なのである。
 しかし、刑法に触れる・触れないのレベルでアメリカよりもひどくなったというのはどう考えても無理がある。何よりアメリカの学校にはその場で逮捕をすることが可能な保安職員がいるケースも少なくないようである(cf.ゲイル・D・ピッチャー、スコット・ポランド「学校の危機介入」1992=2000、p106)。これはそのような問題が日常的に起こりうることを想定した対応であると言うしかないだろう。また、少年犯罪の件数をネットで調べても、アメリカの方が犯罪が少ないという資料を見出すのは難しい(少し調べたが私は見つけられなかった)。

○日本の子どもはアメリカよりも規範意識に乏しいのか?
 また、日本の子どもの方が規範意識が乏しいという指摘については、一般論として根拠に乏しいと言わなければならないように思うし、悪意のある意識操作まで行っている傾向が認められる。しかも、このことは、千石が関わった日本青少年研究所の調査結果から見出せる論点である。まずもって、「日米を比較すると全体的に日本の中学生の方が規範意識が強いことがうかがえるが、アルコールと公共物に対する態度に関しては、アメリカの学生の方が規範意識が強い。」(日本青少年研究所「中学生の生活調査」1993、p40)としている調査結果があるのである。
 千石は例えば保護者や教師への反抗について「個人の自由」でよいこと(p115)や、性規範に関連するものについても「個人の自由」でよい(p118)と答えている高校生が多いことを根拠に規範の乏しさを強調する傾向があると認められる。
 前者においては確かに規範欠如という意味合いでは正しいが、アメリカが殊更愛国心、そしてそれに関連する家庭の尊重を極めて強く打ち出していることの表れであることも無視できないだろう。どのような規範問題に力を入れているのかについては当然各国傾向があるだろうし、この事実だけでは規範論一般を語れないだろう。
 また、後者については、読書ノートで指摘した調査方法の問題の影響が大きく、日本青少年研究所で行った別の調査結果からは(「高校生の生活と意識に関する調査報告書」2004)、売春などについて、肯定的に捉えた意見がアメリカが多かったという結果が出ている。千石の指摘するp118の調査では、「してはならない」と「本人の自由でよい」の二択で回答していたが、2004年の調査ではこれらに加え、「悪いことではない」「よいこと」の4件法が採用されている。また、アメリカの調査票でも、「Up to the individual」という表現で統一された質問がされるようになった影響もあり、日本が「本人の自由」と回答する割合が比較的大きくても、アメリカは「してはならない」「してもよい」が両方多くなっているという結果となっている。これは千石のp72のような問題意識からすれば、アメリカについても規範性に乏しいという結論をだすほかないだろう。
 更に後者に関連して、日本人は「自己コントロールできない」という傾向を見出しているが(p117)、これも別の調査では日本は85%程、アメリカは90%程が「自分でコントロールできる」と答えている(「21世紀の夢に関する調査」1999)。この99年の調査結果に千石が触れていないのはなぜ説明がされていないのか疑問である。

 そもそも論をしてしまえば、意識調査によって、規範意識の差を問うこと自体が問題になりうるということを千石は全く考えていない。P91のような教師評価と教師の力量の同一視もそうであるが、意識調査はあくまで主観的な価値判断が含まれているのであり、それを客観的に比較することができるかどうかは別途考えられなければならない問題なのではないのか。これについては特に「学校の成績は上中下のどれか」という質問に如実に現れる。日本の中高生はこれに対して大きく外れた回答はしていないのだが、アメリカでは、「中の下」以下の成績であると答えた生徒が1.5%しかいないのである(「21世紀の夢に関する調査」日本ではこの割合が33%あった)。このような結果は日本青少年研究所の調査だけではなく、他の調査でも見られる傾向であるが、この違いの意味についてはもっと検討されてもいいのではないのか?もちろん、そもそもアメリカでは正規分布的な評価体制をとっていないため、「成績が悪い」という概念自体がないという可能性がある訳だが、それが教師や学校への評価に影響を与えている可能性、更には「悪い」という価値観に対して思考しないような、アメリカ人の「心性」が存在している可能性について検討が加えられてもよいのではないのか??千石の議論はそのような点に何一つ触れられることなく、極めて単純な「意識」調査の結果比較に基づいた「実態」の批判に終始しているのである。

 千石の主張には自分の都合の悪い内容については、実態を捉えることを回避してしまうような傾向が本書からどうしても見えてしまうのである。そしてそれは、自身の(日本青少年研究所の)調査の引用の選択にも影響しているのである。「結婚観」についても日米比較の前提がそもそもおかしいのではとノートで示唆しておいたが(p99-100)、これについても別の調査(日本青少年研究所「高校生と家族に関する調査」(1994))で独身時代を長く過ごしたいと考える日本の高校生は2割なのに対し、アメリカは6割であること(p29)など、私の疑念を裏付けるデータが千石の調査そのものから見出されているのに、その事実を無視してそれを家族規範の崩壊と結びつけてしまうのである。千石の本書での議論は結論ありきであり、データは都合よいものだけを引用しているのにすぎないという批判に反論の余地はないように思える。


(読書ノート)
p29「「家出」も普通のことでいきなり型になった。ひと昔前までは、家出はある決心のうえでの行動だった。」
p29-30「家出少年、少女の数は、統計上は減少している。けれども、親が「家出した」と訴えるケースが減少しているだけで、親のもとを離れ、家族にも所在がわからない子どもはむしろ増えている。つまり、子どもが家を離れることに親も子も異常を感じなくなり、家出が普通になったのだ。」
※他の内容でいいだけ実態調査を用いているのに、なぜこのことについては実態調査を用いていないのか。

P47日本青少年研究所「ポケベル等通信媒体調査」の結果
※本人の自由でよいという回答が米中と比べて圧倒的に大きい。また売春、性問題の質問自体はアメリカで禁止されたという(p46)「近代的自我の育っていない日本の子どもには、特に命令、禁止が必要だ」という(p48)
p59「ジャパン・アズ・ナンバーワンから四分の一世紀。どうやら学校の「荒れ」においても、日本はアメリカ並みになった。いや、もうアメリカと逆転しているのかもしれない。」
※これもなぜ実態調査を踏まえないのか。学校内に警察権を行使できる人間を置いているアメリカ並みという感覚が理解できない。

P63「こう考えてくると、子どもたちに理解させるべき問題が二つある。一つは、たとえば警察へ引き渡すことのような、「罪に対する懲罰」をはっきりさせることである。そして、なぜ罰せられるのかという論理的基盤を明示することだ。
二つ目は、「ババア」「殴るなら殴ってみろ」という傍若無人な言動は、「ルール違反」なのだとわからせることである。」
p66「(※千石を批判した)彼の言う「モダン」とは、自我が確立された自立した個人が存在する近代社会のことである。この批判は今でも当てはまる。日本では現象だけはポストモダンだが、本質は集団依存主義である。フランスのドゥルーズガタリがいうことは、日本のことではなく、もう少し自我のある人間たちの社会を前提にしているのかもしれない。」

p71「「学校限界論」はアメリカの教師のスタンダードな姿勢だ。限界の守り方は極端に忠実である。たとえば自分の生徒がスーパーで万引きしているのを見ても、教師は口を出さない。それは学校外でのこと、止めさせるのは親権を持つものの役割だからだ。うっかり言うと、親権侵害で当の親から訴えられかねない。極端ではあるが、子どもに対する責任のもち方は日本とはまるっきり異質だ。」
※出典は当然ない。
P72「日本青少年研究所の「ポケベル等通信媒体調査」によると、だいたい日本の子どもは、「悪いことか」「悪くないことか」はその人その人が決めることだと考えている。いわば善悪の相対化がみられるのだ。これは大変な問題である。
社会の規範では悪いものは悪い。軽い悪さでも悪は悪だ。しかし彼らは何が悪かを自分の欲求との接点で決めている。そして親も、「盗ってくれとばかりに店側が物を並べているじゃないか」「金さえあればいいんでしょう」と開き直ったりする、規範意識の低さをいわれる状況があるわけだ。」
※p47の話をしているとなると、少々言い過ぎでは。しかも親も??

P72-73「フランスやアメリカでは、犯罪を犯したら責任をしっかり取れという論理がある。たぶん、キリスト教の影響だろう。インディビジュアリズム(個人主義)には、悪いことをしたらツケはちゃんと払わねばならない、という価値意識がある。」
※結局この話が千石に刷り込まれているように見える。しかも、個人主義の特徴として悪いことの代償が刷り込まれているのであれば、なぜそれは欧米で機能しないのか、まったく説明できない。
P73「この主張(※スキゾ型人間の奨励)を日本人にそのまま当てはめるのは危険だ。自我意識を欠いた無責任の主体に向かって「逃走しよう」と呼びかけても、勝手気ままを奨励するだけになる。」

P73-74「しかしそこから出てきた教師の知恵は、子どもの人格部分まで全部引き受けないで、手に余ることは然るべき機関に任せる、ということだった。偏執蓄積型教育の問題点をずらしているのだ。が、蓄積型社会の本質は、わが国の教育システムの根幹においてしっかり守られていることも事実だ。」
P74「学習指導要領の達成目標削減が二〇〇二年から実現されようとしている。これには反論も多い。学力低下が問題だ、わが国の生産性が落ちる、大学教育が成り立たないといったもろもろの声がある。
だがこういう考え方こそ偏執蓄積型だ。思うに国民全部をエリートにする必要はない。職人になるのに算数は重要でないというドイツの考え方もあるし、足し算がやっとというアメリカ人が多いことも事実だ。みんな平等にする必要はない。逃走分散型のアメリカは世界一の国、豊かな国ではないか。」
ナショナルミニマムの議論が本書の出た後に先進国中で盛んに議論されていることを考えると、このような見方は事実誤認であり、それはエリート教育とは何ら関係のないものである。エリート教育はむしろそれの否定がされていることに問題視されるべき論点があるのでは?

P76-77「不登校児が全小学生中では〇・三%、中学生では二・三%という数字は世界的にみると少ないのかもしれない。アメリカの一〇%、二〇%という数字に比べると極めて低い数字だ。また、アメリカの中学では貧しさゆえに不登校する子どもが今でもかなり多いといわれる。
不登校をめぐる研究は、個人の病理だけでなく、クラスなど集団の病理や家庭の病理に向けられ、だんだん社会システムの病理として扱われるようになった。」
※これも出典無し。そして日本の不登校を「偏執蓄積型社会からの逃走」という、河合に似た議論を展開する。

P91「科目についての知識はアメリカの教師より高く、教科教育には適しているしすぐれている。学校教育は本来的には社会成員としての基礎を作ることにあるわけだから、この専門性は高く評価されるべきだろう。
しかし、「理解度に応じた教育」ではアメリカよりもはるかに劣る。ここに日本の画一教育の弊害が出ている。一人ひとりの子どもに基礎基本を教え込むのではなく、学習指導要領に定められた目標を達成する、という詰め込み主義教育がみられるのではないか。
このため、「生徒一人ひとりに強い関心をもつ」「生徒とうちとける」「個性を伸ばす」「やる気を出させる」という教育の大切な側面が欠落してしまう。一人ひとりの能力に応じて教育するのではなく、達成すべき目標がひとり歩きして詰め込み主義教育を形成している。」
※この結果はそもそも教師に対する価値観の影響を無視している。むしろそちらを問題視するならわかるが。また、科目に関する知識も、結局は日米ともに大多数は満足していない内容になっている。出典は日本青少年研究所「高校教育〜日米比較」(1993)また、この前提を容認すると、現在の日本の教師と60年代頃までの教師を比較すれば、昔の方が教師の指導力があり、今はなくなっているという評価になるが、それは本当に正しいのか?

P99「一九九三年、日本青少年研究所では「日米高校生ライフスタイル調査」を行ったが、それによると日本の高校生が偏執家庭から逃走したがっている意識が的確に示されている。
晩婚化の傾向は、アメリカと比べるとより明確になる。晩婚・少子は家族のもつ拘束性、子どもを中心とした豊かさの積み上げという偏執蓄積型家族からの逃走を意味している。」
※偏執蓄積型家族とは??それは日本にどう根付いていたと言うのか?
P99-100「特に重要なのは、「家族それぞれ自分のしたいことをする」に賛成した若者がアメリカでは四割なのに対し、日本は六割を超えることだろう。「子どもを持ちたくない」は八・三%の数ではあるが、「結婚するとしても三〇歳前後にしたい」という晩婚化への賛成は半数になろうとしている。事の本質は、結婚し子どもを持った家族になっても、「自分のしたいことをする」にが六割という数字にある。たとえ結婚し子どもを持っても、「自分のしたいこと」のため家族はバラバラでよいという意味だ。しかしバラバラに好きなことをするというのは、人間の集まりとしての家族とはいい難い。」
アメリカの結婚観がそもそも30歳前後に結婚しようかどうか考えているかどうかを無視して自己解釈してしまっている!!また、自分のしたいことも支持も、家族規範を尊重すべきとされるアメリカと相対的な比較をするなら、これが大きな差であるとみなす理由にならないように思える。

P102「これを見るとアメリカの家庭は日本の家庭とは大いに違っていることがわかる。日本の家庭は「父」を越える、というメッセージが強い。いうなれば偏執家庭である。
対して欧米の家族では、子どもは父と母の間に割って入り、母子一体とはならない。父と子どもの葛藤よりは、最初から個々の存在として自立すべき子どもを前提している。
日本の子どもにとって、家族は温かいというより、抑圧者として機能し、偏執的な追いつけ追い越せのプレッシャーをかけられている。」
※どうしてそうなる。むしろ無関心が問題にされたりしてないか?
P102-103「その悲劇(※1977-88年までの親殺しの事件3件を挙げている)は家族内で起きているのが最大の特色である。それは偏執人間を生み出す機能が家族にあったからにほかならない。
しかし家族の機能は批判されず、むしろ家族のしつけが批判されている。」

p106「こういった若い世代の親に育てられた小学生は、「がまんの心」「孤独に耐える心」が足りなくなっている可能性がある。また「人助けの心」「礼儀正しさ」「責任感」も乏しく育てられている可能性がある。もしかすると、小学生低学年の授業中の立ち歩き、おしゃべり、集中のなさなど、ここのところ問題となっている「荒れ」をこの世代の母親を代表する社会的意識が引き起こしているのかもしれない。しかし短絡的に若い世代の親を責めるわけにはいかない。その前に、背景にある消費社会の価値意識を問い、なぜ彼らがそのような価値観をもつに至ったかを考えなくてはならないだろう。」
※よく考えると欧米でもあり得る事象を全て日本的な親の無規範さという「実態」の原因とし、それを更にはシステム論的に消費社会の問題としている。ここにはすでに実態把握のレベルで飛躍しているのだが、どうしても千石にその自覚はない。欧米にも同じような実態があると思われるのにそれを無視し、更に結果としてそれは日本と異なるのかどうかという検証を排除している。そのような形で形成される日本論など意味がないのは明らかだと思うが。

P112「外国人が日本へ来るといろいろなことに驚くようだが、そのうちの一つが信号を待つ日本人だ。朝早くジョギングしたある外国人は、まったく見通しのよい場所で、赤信号が青信号に変わるまでじっと待っている日本人を見て驚いたという。多くの外国人が信号をじっと待っている日本人に驚いている。秩序を守るすぐれた民族なのか、盲目的な自立のない民族なのかわからないという。
赤信号をじっと待っているのは、単に権力に従っているだけと映るらしい。もともと、信号は安全のために存在する。安全のための道具だとすれば、安全が確認できれば、赤でも渡っていい理屈になる。」
※これも実証性に欠ける。相対的な議論として正しいかもしれないが、それを持って日本と欧米の価値観の違いが議論できるかどうかは別問題。しかもこれは規範遵守意識の問題に関連するはずなのに、それについても触れられない。赤信号は「進んではいけない」という禁止規範であり、これはアメリカでも同じはずである。であれば、これは個人の判断で善悪を決めているのと同じでは?なぜ日本は善悪の判断を個人で決めてしまっているなどと千石は言うのか。

P114「実はこの質問の仕方に隠れた仕掛けを作った。質問の選択肢を「してはならない」と「本人の自由でよい」の二通りとしたのだ。正確にいえば正しくない表現である。「してはならない」の反対は「してもよい」である。しかしこれまでの調査経験を踏まえて考えると、日本人は「してもよい」とは答えたがらない。……「本人の自由」という答えはいかにも日本的である。なぜなら自分の判断、自分の意見を言わないで逃げているからである。
アメリカの共同研究者たちと、「本人の自由」と「してはならない」という矛盾を英語でどうかいけつすべきか、という問題になった。アメリカでも同じ質問をして比較する計画だからである。アメリカ側の意見は、acceptableで、「してはならない」には、notを頭にかぶせることでどうか、ということだった。日本と非常に近い表現である。」
※この本人の自由でよいという答えは「そのままアメリカと比較するには問題がある」ことを認めてしまっている(p114)。しかも、「本人の自由」というのも、選択肢で言わせてしまえばそれは本人の意思の有無を問える性質のものではなくなるのに、ここでもアメリカの「実態」は無視される。

P115「もう一つは、親や教師の権威のなさだ。「両親や教師に反抗すること」について「本人の自由でよい」との答えが多い。これは伝統的な権威が大きく揺らいでいることを示唆している。学級崩壊や家庭崩壊を十分裏付ける数値といえよう。そして、これはとりもなおさず偏差値偏執社会からの逃走であるといえる。しかも「本人の自由」という名の無抵抗の逃走であり、赤信号を渡る自主性はない。」
P117「そういうなかで「自己コントロール」についての質問に、アメリカの若者よりかなり少ない回答が寄せられたのであった。この結果は、日本の高校生は耐える、がまんすることより解放をとったことを意味している。蓄積してきた知識や材を後生大事に背負いながら、それによって競争相手を出し抜こうと血眼になっている社会にあって、そこへ参加するための自己コントロールよりは、自分の欲望を解放し、自分に忠実になろうとしたのだろう。
自分をコントロールしないというのは、ここでいう偏執蓄積型人間でいることをやめて、逃走分散型人間になることを公言したともいえる。日本の若者は、アメリカの若者より社会からの逃走型が実に多いのである。」
※出典は日本青少年研究所「ライフスタイル調査」(1993)。「自分の欲望をコントロールする」という回答が日本は約六割なのに対し、アメリカは約九割五分であったという(p116)。しかし、公言は言い過ぎあろう。それであれば純粋な「本人の自由」回答に依存すればよい。

P118「「セックスは自分で決める」も「タバコをやめる」も、日本の子どもたちのなかでは賞讃の対象にはなっていない。この辺に自我意識というか個人主義における責任のあり方の違いがある。
日本の高校では、「セックスの自己決定」「タバコをやめる」より、他人と同じであること、援交仲間やタバコ仲間として親近感をもたれることが価値として機能している。」
※規範価値としてみるべきかどうかは議論の余地があるのでは。それを間接的に規定するような性質のものはあるのかもしれないが。
P124「考えることをしないのは、自我が貧しいからだ。アメリカの学校では、授業中質問が次々と続き、授業が先に進まないのは日常的だ。日本では考えられない光景だ。」
P125「同じ行為の繰り返しの上にため込み主義の社会が築かれていた。子どもたちはこういう社会から逃走しようとして、考えもなく、やせるためにスピードという覚せい剤を使い、ブランド品欲しさに援助交際をし、がまんや忍耐のない自由な世界で浮遊したくなったのである。」
※規範不適応ならアメリカの方が強いのでは?

P129「「今をエンジョイし、先のことは考えない」というのは、考えてみると歴史上かつてなかった現象である。将来のことを心配しなくてもなんとかなるという豊かさの心理が、思考を停止させ自我の貧弱さをあらわにしたのである。このような現象は一種のアノミー状態といえる。アノミーとは、これまでの社会規範が社会の変化によって動揺・弛緩・崩壊し、人間の欲求や社会的な行為の空白状態ということである。」
※しかしここでいうアノミーは二項対立的なアノミー論ではない。
P136-137日本青少年研究所「21世紀の夢に関する調査」(1999)の結果
※「人生の目標については、喪失感がより明確に表れている。」(p135)「進歩、向上に背き、社会への関心も極めて低い。」(p138)とされる。後者は「社会に貢献する」意欲がない結果というが、実際の結果比較は明示されていない。しかもp166の「大学生の職業に関する調査」結果を踏まえると、働く目的として「自分の生活」や「能力を生かす」といった項目が日中ともに多く、社会貢献に関する項目をみると両者に優劣は確認できない。

P138「これは明らかにアノミー社会、目標喪失社会を示唆している。もうみんな偏執蓄積型社会から逃走した結果、このアノミー社会に「まったり」身を委ねて、自力で抜け出そうとはない。本当に「生きる力」が求められているのである。」
P142「「TIME」にメッセージを寄せた外国人のなかには、日本のファッションを、日本の古い文化に対する「反抗」だと位置づけている記述もある。しかしそれは誤りだろう。カウンターカルチャーはもう少し理由があった。大学紛争に象徴されるヒッピーカルチャーは、内実の伴わない「権威」と称するものを拒否した。十年一日のごとく同じことを講義している大学教師に「ノー」を突きつけた。理由ある反抗だったのである。」
※時代錯誤的にヒッピーカルチャーと比較しようとすること自体がおかしいように思えるが。

P148「大沢真幸氏はここでいう「他者」は権威をもった者でなければならないし、この権威を「第三者の審級」という。次々に崩れる秩序を前にしたとき、権威ある他者の存在は極めて重要だ。具体的には「第三者の審級」は人間の欲望の「拘束」といえるだろう。しかし近代から現代へと進むにしたがい、欲望は解放につぐ解放で今やほぼ完全ともいえる解放状態となった。欲望の「拘束」は文明と文化の過剰な進化に伴って、溶けるようになくなった。」
※大澤の議論を持ち出すのは結構だが(ドゥルーズ=ガタリもそうだが)、それが日本でしか採用されないのかについて説明がつかない。一応ここでは「身体の比較社会学」が参照されている。

P152「偉くなることを拒否する若者が増えた。責任ばかり重くなって、自分の自由を失うというのである。」
※しかしこれも、単純に国際比較できるような問題ではない可能性もある。そもそも社会がブラックの傾向があるのに、そのような社会で偉くなりたいなどと思うのは健全だというのか?
P164「挑戦的でもなければ技術能力が高くもなく、ただ「おもしろい」「自分の才能が生かせる」仕事を望むのは、「甘えている」ということだ。そのいいかげんさには幼稚性を感じるが、このいい加減さこそ、積み重ねの偏執蓄積主義に対するはっきりした拒否であり、そこからの逃走の姿といえよう。」
※出典は日本青少年研究所「大学生の職業に関する調査」(1999)だが、何故かアメリカが対象となっておらず、日中比較をしている。しかも、中国の大学進学率は1999年ごろは10%に満たない状況でありエリートとの比較をしてしまっている。

P166-167「中国と比較してみると日本の姿がかなりはっきりと捉えられる。日本では「生活のため」にやむなく働くのであり、偏執蓄積型社会からの逃走が色濃く表れている。と同時に、中国と比較して「自我意識」が弱い。中国の大学生は自分の職業生活での目的意識がはっきりしており、慢然と「生活のため」という消極的姿勢はない。」
※この結果も優劣があるかどうか判断できるかどうか疑問。そもそも回答方法が異なるにもかかわらず安易に優劣をつけることを前提で比較したがる。しかも、中国の場合、何故か「無回答」が17%もあるが(日本は0.3%!)、この理由についてなんら述べられていない。これは解釈のしようによっては中国の学生の仕事への無関心を表す、といった解釈だってできるのである。もっとも、実際は質問方法に問題があった可能性が最も高い。

P168「つまり日本の大学生の「やる気」は、多分にお題目にすぎない。「おもしろい」「能力発揮」とは口先だけで内容がない。どうやって生き生きするかを見失っている社会で、ポスト構造主義と同じ袋小路にたたずんでいる。と同時に、日本の大学生には近代的な自我意識がないことも見せつけられた。
この情けない結果を前にして、われわれはポスト構造主義以後の新しい理念を立ち上げる必要がある。でないと、学校からも逃走し、この社会からも逃走して、どこへ行こうとしているのか目標がわからない若者たちは、不透明な社会に漂い続けるのみである。」
※ここでは先ほど中国の大学生を高評価するために用いていた「能力発揮」というワードを「口先だけ」などと断じている。そもそもアンケート自体が口先だけでしか判断しないものであるように思うが、そのような批判の仕方に意味はあるのか。思い込みが激しいと言わないでどう千石の態度を評価できるのか。
P169「しかし、その趣味が一つの能力となり、社会とがっちり結びついた。ほんの一つの例だが、自分の能力の発揮、個性を開発するのに、力を注ぎ頑張って、そして社会と結びつくのはすばらしいことではないか。その充実感を、逃走する若者にも知ってもらいたい。」
※こういうものの評価、量的調査をすべきなのでは??なぜたった一つの事例でこのような態度が優れているなどど断言してしまうのか。

P194「学校の規範から逃走しようとする若者現象が多く見られるようになった。上衣の胸元を少し開ける。ダボダボのズボンにする。髪に天然パーマといえる程度にパーマをかける。校門を出たとたんにルーズソックスにはき替える。こういった逃走児はだんだんと多くなった。生徒指導の先生の多くは服装の乱れは心の乱れにつながるという。非行はここから始まるというのである。
そのうち、制服廃止運動があちこちで起き始めた。生徒会のリーダーが積極的に働いたケースが多い。リーダーは生徒会の決議として制服廃止を決定し、これを職員室に持っていく。すんなり受け入れてくれる生徒指導教師はいない。長い長い話し合いという闘争が始まる。学校側からはいろいろな条件が出され、リーダーは持ち帰って生徒会に諮る。こういう経過は、結果的に生徒たちの「自由化後の責任」を明確にする仕掛けだったといえる。」
※まずもって、この制服廃止運動がいつ頃の話なのかがつかめない。校則廃止の動きはむしろ文部省が動かなければ大きな波及がされなかったものだったのでは?千石のいう解決策はほとんど妄言に近いのではとも読めてしまう。
P195「こうして条件つきではあったが、制服廃止運動は成功を収める。この成功の経過は偏執蓄積型社会からの逃走の許可という性質をもつ。運動に成功をもたらした経過は社会化への歩みでもあった。」