見田宗介「まなざしの地獄」(2008)

 本書は、1973年発表の「まなざしの地獄」、1965年発表の「新しい望郷の歌」が収録されている。おそらく、メインは「まなざしの地獄」であり、その内容を多少補う形で「新しい望郷の歌」が位置付けられているとみてよいかと思う。
 「まなざしの地獄」では、一事例として人物N.Nの「都会」なるものへの意識の異常さを一方で「極限値」と名付け(P17)、同じく当時の転職率や転職理由などのマクロなデータとつき合わせながら、「他者たちのまなざしの罠」(P22)について捉えようとする。

 これまで私がレビューしてきたような「家族」という切り口からは、拡大家族から「マイホーム主義」的核家族への変動として、都会への人口移動が解釈されてきたきらいがあるが、見田はそのような立場からこの都会への移動を捉えてはいない。直接(解説を行った)大澤真幸のような語りこそしていないものの、「マイホーム」さえもてなかった、社会的な排除を受けた存在として、N.Nを捉えているといえるだろう(cf.p116)。
 このような排除された存在がありえたという見方は、決して無視できる議論ではない。確かにこのような、ある意味で都会へ出てきて「失敗」した層というのは、昔からいたものと想定される。例えば、竹内洋は、戦前の「立身出世主義」の実証的研究を行っているが、その中で東京の大学や専門学校(現在の私立大学)などへ入学するため状況してきた「苦学生」たちに焦点をあてて分析している部分がある(竹内洋「立身出世主義〔増補版〕」1997=2005、第7章を参照)。この中で苦学生もまた都会への憧れを持ちながら、田舎を捨ててでも上京したものの、実際に学生となったのはごくわずかであったという内容も記されている。これらの苦学生層は、見田の述べるようなN.Nの議論ともかなり結びつくといえるだろう。

 しかし、である。このような層はすなわちマクロなデータで示された「卒業後3年以内に転職をした層」「転職理由として労働条件が悪い、将来性がない」と回答している層と一致しているかと言えば微妙である。また、その中にある程度N.Nのような状況に似た層がいるにしても、それをどのように位置付けるのかというのは、全く別問題である。大澤の解説からはこの位置付けの問題は放棄された上で、N.Nのような境遇をわれわれも持っている、と安易に結びつけられる恐れもあるのである(※1)。そのような議論はもっと別のマクロデータも用いながら検証していく必要のある論点だと思う。特に竹内のみてきたような戦前の状況と、本書で取り扱われた60年代というのは、また時代背景に違いが認められ、特に60年代には時に批判的な言説として流通していた「マイホーム主義」という言葉自体が、N.Nのような事例を極めてマイナーなケースであったとして捉えているものとみてよいのでは、という見方が可能だからである。もちろん、言説とは別に排除された層の存在はあり得る訳であるので、それについての検証と、そのことを踏まえた上でのN.Nの事例のような「極限値」の捉え方を行っていく必要があるのではないだろうか。

○本書における「極限値」と「平均値」の捉え方について…「理念型」の議論との関連から
 また、本書において大澤が「極限値」を「理念型」であるかのごとく、「動的な傾向性のベクトルの収斂する先」(p104)とする点については問題があることを指摘しておきたい。前々回に「理念型」について整理をした訳だが、確かにその際に用いた理念型α(類的理念型)のレベルにおいては、N.Nの都会的なものへの執着という「特性」は極としての妥当性を持ちうる。しかし、これが理念型β(因果関係)として、「都会」固有の性質と結びつけた上で語ることとなった途端、その極としての性質は論理的に否定されてしまうのである。理念型βとしての「極」性は確かに厳密な意味では成立しないものだが(理念型の性質〔7〕より)、見田の考える「都会」的なものは、明らかに疎外論的な解釈に基づき、そこから疎外される可能性を持ちながら(N.Nのケース)、同時にそれが止揚されることで、「普遍としての新しい<家郷>の創造」(P82)となる可能性もある。都会的なものの影響によってどちらに傾くかは、あらかじめ定義ができないのである。これは言ってしまえば、「極」としての性質を放棄しているとみてしまって問題ないのである(強いて言うならば、二極の間をさまようといった表現しかできないだろう)。もちろん、見田がN.Nのケースを因果的な側面から考察しようとしているのは確かであるから、これを大澤のように「理念型」的に捉えると、当然矛盾するのである。

 このような、止揚を目指すような概念を理念型とみなそうとする際の不都合はすでにチャールズ・ライク「緑色革命」でも言及されている(訳書1971、p382)。ライクにとっては「意識3」が極めて当為論的な(「政治的」な、とも言えるが)性質をもったものであった。「意識3」も止揚的な発想に基づいているため、理念型としてその性質を「定義」付けようとしたとしても、そのような定義とは矛盾するような、新しい性質を付け加えるような状況があらかじめ想定されているのである。これをライク自身は「さらに意識4,5,6などを期待しなければならなくなる」と表現したのである。基本的に大澤が「理念型」として位置付けようとしたことは、このことと同じように説明できるのである。
 見田の「極限値」と、「平均値」との関係性は、見田の本文中からではむしろすっきりとしか解釈がなされていない印象もあり、「収れん」する理念型として「極限値」を見ていないようにも思えるのである(もっとも、見田も本書が出版されるにあたり、関与していることは明らかなので、大澤の意見を否定していない以上、大澤と同じ立場であるということもできようが)。


※1 ちなみに、本書で述べられているような、「都会」の主体化(P60)などは、ジジェクなどに言わせればあまりにも当たり前のことである。何らかの職業につくこと自体がイコールで役割を強要されるような性質を持っているとみなされているからである。例えば、ジジェクの言う「現実」と<現実なるもの>の差異というのは、そのような主体化とは別に存在する、本書でいう疎外を免れた「私」と、「都会」の原理が役割を与えた「私」との差異を指すものであるといえる(cf.スラヴォイ・ジジェク「厄介なる主体2」1999=2007、p63)。そうであるなら、ここでいう「都会」なるものとどのように関係付くのかは、別途議論されねばならない所ではなかろうか。


<読書ノート>
p17「それは日本の近代化の中で、〈都会〉のために、正確には都市の資本のために、安価な労働力をだまって供出しつづけてきた、「潜在的過剰人口」のプールとしての日本の村々、国内植民地としてまずしさのうちに停滞せしめられ、しかもその共同性を風化、解体せしめられた辺境の村々の社会的風土というものが、その当事者の意識のうちに、一つの根源的な裂け目をつくりだし、かくも深い自己嫌悪・存在嫌悪の稟性として刻印づける様であった。
このような社会構造の実存的な意味を、N.Nはその平均値においてではなく、一つの極限値において代表し体現している。一般の流入青少年においては、このような意識の二重化や自己嫌悪やは、より分散してあいまいな出身コンプレックスや、その逆転としての郷党意識とか反東京人意識とか、言語とか服装や髪型などへの自己関心の過敏性とか、関係における特有の内的な彩色などとして、より目立たない形態でかたちづくられる。」
※この極限値の解釈は正直難しい。理念型と解釈すべきという発想もあるが、そもそも都会流入の結果としての理念型と」呼ぶにはあまりにも語弊がある。何の理念型なのかが不明瞭なのである。

P18求人倍率から見る都会の吸引力
※しかし、あまりこの数字が直接的根拠となるかといわれると疑問だが。
P19「一方現代日本の都市は、このような青少年を要求し、歓迎するという。けれどもこれはうそである。少なくとも正確ではない。都市が要求し、歓迎するのは、ほんとうは青少年でなく、「新鮮な労働力」にすぎない。しかして「尽きなく存在し」ようとする自由な人間たちをではない。」
※ここで見田は疎外論を採用していることを無視してはならない。
P22「もちろん少年のがわからみれば、このような「金の卵」としての自己の階級的対他的存在こそはまさしく、一個の自由としての飛翔をとりもちのようにからめとり限界づける他者たちのまなざしの罠に他ならない。
彼らの階級的に規定された対他と対自のあいだには、はじめから矛盾が存在している。」
※さて、では矛盾ではないとは何なのか。

P24「しかし転職はじつはこれらの青少年の中で少しもめずらしくないのであって、たとえば六七年の中卒の就職者のうち、過半数の五二%までが三年以内に転職している(高卒者は五四%)。そしてそのうちの半分近くは、一年以内の転職である。」
P24-25転職理由では、家事都合、仕事が自分に合わない、他に誘われて転職が多い。中卒は素行が悪い、やホームシックの率も1割くらい
※ソースは東京都労働局「学校卒業者の離職状況」、1964年3月卒業の者の状況。
P26一方、労働省「就職後の補導調査」で1964年の年少労働者の転職理由は「自分の体力、興味に合わない」「労働条件が悪い」「将来性がない」などが挙げられる。
※これについては、前者が雇用主から聞いたもの、後者が少年自身から聞いたものであるのが理由であるとする(p25)。

P66-67「否定性は、止揚の不可欠の一契機である。怒り、等々の否定性の感情は、人が今ある存在を実践的にのりこえ、変革してゆくときに不可欠の前提である。しかしこの怒り、等々の感情は、それがあまりにも直接的で、なまなましくわれわれをおそうとき、われわれの超越への意思を緊縛し、あらがいがたい強力をもって、われわれを内在性にひき戻してしまう。」

P32「N.Nの戸籍体験は、多くの都市への流入者たちが、言葉その他で体験したおぼえのある、さまざまな否定的アイデンティティの体験、つまり自分が、まさにその価値基準に同化しようとしているその当の集団から、自己の存在のうちに刻印づけられている家郷を、否定的なものとして決定づけられるという体験の、一つの極限のケースとみなしうる。
彼らはいまや家郷から、そして都市から、二重にしめ出された人間として、境界人というよりはむしろ、二つの社会の裂け目に生きることを強いられる。彼らの準拠集団の移行には一つの空白がある。したがってまた、彼らの社会的存在性は、根底からある不たしかさによってつきまとわれている。」

p60「ところがこの〈演技〉こそはまさしく、自由な意思そのものをとおして、都会が一人の人間を、その好みの型の人間に仕立てあげ、成形してしまうメカニズムである。人の存在は、その具体的な他者とのかかわりのうちにしか存在しないのだから、彼はまったくこのようにして、その嫌悪する都市の姿に似せておのれを整容してしまう。他者たちの視線を逆に操作しようとする主体性の企図をとおして、いつしかみずからを、都市の要求する様々な衣裳をごてごてと身にまとった、奇妙なピエロとして成形する。N.Nのはなしではない。われわれのことだ。」
※ここでいうわれわれとは誰を指すのか??人類皆奇妙なピエロみたいなところはないか??この「われわれ」への言明によって見田は何が言いたいのか?以上、まなざしの地獄(初出1973)の内容。

P82-83「——家郷解体の直接的な結果としては、都会における状態としてのアノミーを昂進も解消もしない。ただ同じ状態が、生活する諸個人にとっていっそう耐えがたい苦悩として意識されるにいたるのである。それは絶望の相互的な増幅によって状態としてのアノミーを二次的に昂進させることもありうるし、逆に新しい〈家郷〉を未来に創造することをとおして、アノミーの克服に立ち向かわせることもありうる。しかしまた、この両者のアイマイな妥協の道として「外の世間」のアノミーをシニカルに肯定しながら、〈群化社会〉のただ中で「小さな家郷」をひっそりと形成する道をえらばせることもある。」
※「新しい望郷の歌」(1965)より。

P103-104以下、大澤真幸の解説…「この論文は、N.Nの犯罪という、これ以上はありえないほどの特異な事件を媒介にして、総体としての日本社会を――当時の日本社会の階級構造の全体を――浮き彫りにする。あるいは階級構造という全体を内側から支える、個人の生の実存的な意味を抽出してみせる。
こうしたことを可能にあいているのは、平均値と極限値の間の相互媒介的な関係である。統計的な手法を用いた数量調査は、平均値こそが、全体を代表するに適しているという考えに基づいている。それに対して、実は、極限値によって全体を代表させることもできるのだ。極限値とは、各個人の心性や行動の内に萌芽的に見られる動的な傾向性のベクトルが収斂する先である。……その特性が発展し向かおうとする先へと向けて、その特性を延長し、強調したときに得られるのが極限値である。極限値は、こうした延長や増幅に相応しい条件を備えた特異な出来事の中にしばしば顕在化する。N.Nの事件もまた、こうした出来事の一つである。平均値の中にあいまいに分散している特性は、極限値を具体化する出来事を媒介して摘出することができる。要するに、例外においてこそ、かえって一般性が見出しうるのだ。」
※社会問題を議論する上で、この方法は「悪」ないし事例における特徴を過剰評価する可能性があり、一般性に当てはめて議論しようとする手口が賢い分析のやり方であるとは思えない。こともあろうか、大澤はこれを「当時の日本社会の階級構造の全体を浮き彫りにする」などと述べる。これはもはや見田に対するえこひいきした評価であるとしない限り、大澤自身の態度を疑わなければならない。また、大澤は極限値を理念型的なものととらえてしまっている。それなら、どのような方向性の先にあるのかぜひ定義してほしい。疎外論的な解釈からは、理論的にそれは不可能である。疎外論は極限の発想を否定することによって初めて成り立つからである。大澤がやっていることはほとんど言葉遊びに近い形で、平均値と特異値を並べているにすぎない。

P115「家郷喪失者の不安が、取りえた対応様式は、論理的にはさまざまであったはずだが、「新しい望郷の歌」で示されているように、一九六〇年代の日本において圧倒的に主流だったのは、一方では、社会総体の普遍としてのアノミーをシニカルに肯定しつつ、他方で、個別としての〈ささやかな家郷〉を再創設するという対応様式であった。〈ささやかな家郷〉〈個別としての家郷〉とは、要するに、「マイホーム」と呼ばれた、日本型近代家族のことである。核家族にまで退縮した〈家郷〉が、都会にあらためて創設されたのだ。」
※どこが日本型なのだろう。見田は、他の可能性として、「絶望の相互的な増幅による、アノミー状況の二次的な昂進」「普遍としての新しい〈家郷〉の創造による体制のトータルな変革」をあげる。片方は不安の増長を生むもの、もう一つはおそらく奥田道大のいう地域社会の4つのモデルのうちの「コミュニティモデル」的なものを想定したであろうものである。しかし、問題は果たしてこのささやかな家郷以外の可能性は本当にありえたのか、という点である。

P116「N.Nが家郷を極端に呪うことになったのは、N.Nの家族が、近代資本制の力による家族の解体の影響を、極限にまで強められた形で引き受けざるをえなかったからである。具体的に言えば、資本制の影響は、極端な貧困、母親が兄妹たちの一部を冬の間置き去りにして生活のたてなおしをはからざるをえなくなるほどの貧困という形態で現れた。こうした家族の出身であるというハンディのために、N.Nの場合には、〈ささやかな家郷〉からも見放されていた。つまり、彼が、都市でそれなりの成功をおさめ、郊外に家を建てて、自分の「マイホーム」をもてた可能性は、ほとんどなかったのである。」
P121「ところが――ここに提起した仮説が妥当であるとすれば――、今生まれつつある、新しい家郷、〈個別としての家郷〉よりもさらに新しい家郷は、これら二条件をともに否定したところで成り立っている。第一に、それは、極端な場合、瞬間的な出会いによって形成されており、時間的な蓄積を経由しない深いコミュニケーションの歴史をもたない。第二に、その関係は、まったく根拠のない恣意的な選択の所産でしかない。言い換えれば、一瞬の出会いが、持続的なコミュニケーションの堆積よりも深い根をもった、原初的なものと感じられ、まったくの偶発的な選択が、選択不可能な必然や与件として感じられたとき、現代の新しい家郷が成り立つのではあろう。しかし、多くの場合、その家郷は儚くて、長くは続くまい。それは、集合的な生活・生存を支える現実的な基盤からは独立した、互いの間の相互的な幻想だけを支えとしているからである。」
※大澤のオタク論の見方からも、このような指摘は必然的か。結局肯定的なオタク論には大澤の議論の前提からは開かれていない可能性が高い。しかも、ここで考察を勝手に打ち切っている。ここからは肯定的な解釈を新しい家郷論か旧来的な家郷論に求めるほかないだろう。