柄谷行人「トランスクリティーク」(2004)

今回もまた資本主義批判の文献です。読書ノートは岩波現代文庫版(2010)のものです。

(読書ノート)
p27 「資本は、たえず、差異を見出し、差異を創出し続けなければならない。それが、産業資本における絶え間なき技術革新の原動力である。それはけっして人々が「文明」の進歩を望んでいるからではない。多くの人々は、資本主義経済の発展に対して、それが物欲や進歩への信仰によるかのように考えている。しかし、それは資本の「欲動」がいかに根強いかを理解しないことである。それは決して自動的に止むことはない。」
フロイト的なものいい。
P29 「第二に、共同体と共同体の間には強奪がある。むしろ、それが基本的であって、商品交換は、互いに強奪することを断念するところにしか始まらない。にもかかわらず、強奪も交換の一種と見なしてよい。というのは、持続的に強奪するためには、被強奪者を別の強奪者から保護したり、産業を育成したりする必要があるからだ。それが国家の原型である。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。」

P307−308 「商品交換が共同体と共同体の間にはじまるとは、何を意味するのか。第一に、それは共同体の中での「交換」とは異なるということである。共同体において、交換の原理は贈与—お返しの互酬性である。たとえば、現在商品経済が最も進んだ国においても、家族の内部に分業はあっても商品交換はない。そこでは「愛」と呼ばれる贈与の互酬性が働いている。第二に、それは共同体と共同体の間の接触において生じる暴力的な強奪とは異なるということである。」
P310 「さらに、もう一つの交換形態があり、われわれはそれをアソシエーションと呼ぶ。これは右の交換形態とは違った原理にもとづくものである。というのは、そこでの交換は、国家や資本と違って非搾取的であり、また、農業共同体と違って、その互酬性は、自発的であり且つ非排他的(開放的)であるから。」
※この非排他的とはただの認識上の問題でしかないのではなかろうか?
P310 「第二に、それは共同体を完全には解体できない。たとえば、それは家族を市場経済化できないし、家族に依存するほかない。また、農業なども資本主義化が完全にはできない。資本制経済は人間と自然の生産に関して、家族や共同体に依拠するほかないのであり、その意味で、非資本制生産を根本的に前提している。ゆえに、これらの形態は、いかに資本制市場経済がグローバライズしても残存する。」
※非資本制生産の領域が生きるなら、なぜ資本主義を批判するのか??

P315 「マルクスが流通に関して、要約すれば、こういうことをいっている。商品W—貨幣G—商品W’という流通過程において、W—G(売り)とG—W’(買い)が分離していること、そのために交換の範囲が時間的・空間的に無限にひろがりうること、しかし、この過程にはつねにW—GまたはW’—G(この過程にふくまれる逆過程としての売り)に「命がけの飛躍」が存ずるが故に、「恐慌の可能性」があること、などである。」
☆P316 「くりかえしていうが、資本とはG—W—G’(G+ΔG)という運動である。通俗経済学においては、資本とは資金のことである。しかし、マルクスにとって、資本とは、貨幣が、生産施設・原料・労働力、その生産物、さらに貨幣へ、と「変態していく」過程の総体を意味するのである。この変態が完成されないならば、つまり、資本が自己増殖を完成しないならば、それは資本ではなくなる。しかし、この変態の過程は、他方で商品流通としてあらわれるため、そこに隠されてしまう。したがって、古典派や新古典派の経済学においては、資本の自己増殖運動は、商品の流通あるいは財の生産=消費のなかに解消されてしまう。産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って「市場経済」という言葉を使う。彼らはそれによって、あたかも人々が市場で貨幣を通して物を交換しあっているかのように表象する。この概念は、市場での交換が同時に資本の蓄積運動であることを隠蔽するものである。そして、彼らは市場経済が混乱するとき、それをもたらしたものとして投機的な金融資本を糾弾したりさえする。まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように。」

P329 「カントは、貨幣は、ある物品を生産する労働と他の物品を生産する労働の取引関係を示すものであると考える。しかし彼は、なぜいかにして違った労働が等値されるかを問うていない。職人の子であったカントは古典経済学者と同様に、商人資本あるいは重商主義を嫌っていた。彼が「綜合的判断」が拡張的であることをいったのは、利潤(剰余価値)がいわば生産過程においてあるべきであり、けっして流通過程における差額をめざした「投機」であってはならないという意味に理解できるだろう。カントが考えていたのは、まだドイツにはほとんど存在していなかった産業資本制生産ではなく、独立小生産者たちのアソシエーションである。その意味で彼が考えていた貨幣は、資本に転化しないような貨幣である。私はそれについて後に述べるだろう。しかし、今貨幣について考えるとき参照すべきなのは、カントの貨幣論自体ではなく、むしろ『純粋理性批判』である。というのも、貨幣はたんなる仮象ではなくて、いわば超越論的仮象であり、われわれはそれを容易に取り除くことはできないからである。」

P334-335 「しかしながら、信用の本質は、基本的に「売り」の危機を回避することにある。それは、現在の危うさを将来に先送りにすることである。なぜなら、あとで貨幣によって決済しなければならないからだ。そして、この時間的な先送りは、資本の運動G-W-G’を、ある意味で逆転させる。「売る」立場の危うさは、信用によってすでに売られたことになっているために、ただちにはあらわれない。それは、決済のときに、貨幣で支払いうるかどうかという危うさに変形されている。信用制度の下では、資本の自己増殖運動は、蓄積のためというよりも、むしろ「決済」を無限に先送りするために強いられたものとなる。つまり、資本の運動が、個々の資本家の「意志」を本当にこえてしまい、資本家に対して強制的なものとなるのは、このときからである。たとえば、設備投資は概ね銀行からの融資でなされるが、資本は借金と利子の返済のためには途中で活動を停止することができない。」

☆P367 「かくして、商人資本がいわば「空間的」な二つの価値体系の——しかもそこに属する人間にとっては不可視な——差額によって生じるのに対して、産業資本は、労働の生産性をあげることで、「時間的」に相異なる価値体系を創りだすことにもとづいている。労働の生産性の上昇は、既存のシステムのなかに異なるシステムを創りだす。したがって、等価交換の外見にもかかわらず、差額を得ることが可能なのだ。この差額はまもなく解消され、新たな水準による価値体系が形成される。だから、資本はその差額を不断に創りださねばならない。このことが、産業資本主義時代における、かつてない高速度の技術革新を動機づけ、且つ条件づけている。」
P388 「したがって、ここで、われわれは、高度な産業資本主義社会において、古代的・神話的なものがなぜ機能するのかという問題を、上部構造の相対的自律性ではなく、なぜ高度な産業資本主義化が旧来の生産関係を解体し尽さずに、逆にそれを保存し活用するのかという問題として、すなわち、資本主義に固有の問題としてとらえなければならない。」
P402 「すでに述べてきたように、産業資本を考察するためには、商人資本の範式に遡らねばならない。商人資本は価値体系の差異から剰余価値を得る。だが、産業資本も同様である。ただ、前者が所与の空間的な差異から剰余価値を得るのに、後者はそれを時間的な差異化によって得るのであり、新たな空間的差異を作り出すことによって得るのである。しかし、そのことは産業資本が商人資本的な活動をすることを妨げるものではない。資本にとって、剰余価値はどこから得られようと構わないのだ。」

☆P418 「アンダーソンは、個体の死を意味づけた宗教が衰退した後に、ネーションがその代理をはたすと指摘しているが、その場合、宗教が具体的に農業共同体としてあったことが重要である。……ネーションは、悟性的な国家と違って、農業共同体に根ざす相互扶助的「感情」に基盤をおいている。そして、それは農業共同体がそうであるように、他のネーションに対して排他的である。しかし、このようにいうことはたんにナショナリズムを感情から説明するものではなく、交換関係から説明するものである。たとえば、ニーチェは、ドイツ語で、罪の意識が経済的な負債に由来するといっている。その場合、ひとが贈与に対して負うような負い目である。いいかえれば、この種の感情の根底には交換関係がひそんでいる。」
p425 「環境問題はそれ自体で産業資本主義を阻止する力にはなりえない。……たとえば、アダム・スミス以来、空気や水は、使用価値はあるが交換価値はないものの代表例として考えられてきたが、今やそれらは商品価値の対象となりつつある。つまり、環境問題は商品経済と私有化の一層の深化に帰結する。その結果、環境危機と食料危機は、新たな帝国主義的な国家間の対立を招来するだろう。」
※還元的な見方が明らかに見られる。資本概念の拡大の意味を丁寧に追うことは、この還元論の検討でもある。欲望の議論を交えるなら、この還元性は、商品を求める我々の欲望、という際の欲望の一元性とみるべきか、欲望とそうでないものを区別するべきか。
※排他性とは、私が排他的にされているかどうかによって判断されるものなのか??

P436−437 「『資本論』において、労働者が主体的となる契機は、商品ー貨幣というカテゴリーにおいて、労働者が位置するポジションが変更されるときに見出される。すなわち、資本が決して処理しえない「他者」としての労働者は、消費者としてあらわれるのだ。それゆえ、資本の対抗運動は、トランスナショナルな消費者=労働者の運動としてなされるほかはない。たとえば、環境問題やマイノリティ問題をふくめて、消費者の運動は「道徳的」である。だが、それが一定の成功を収めてきたのは、資本にとって不買運動が恐ろしいからだ。いいかえれば、道徳的な運動が成功するのは、たんに道徳性の力によってではなく、商品と貨幣という非対称的な関係そのものに裏づけられていることによってである。資本の運動に対抗するためには、労働運動と消費者運動との結合が模索されなければならない。しかも、それは現存するたんなる政治的連帯とは違って、それ自体新たな形態の運動でなければならない。」
※この倫理がそもそも排除の可能性を持っていることに何故言及しないのか。ジジェクの議論が十分に有効といえない理由も同じ。
P454 「最後に、くりかえすが、資本と国家に対する内在的な闘争と超出的闘争は、流通過程、すなわち、消費者=労働者の場においてのみつながる。なぜなら、そこでのみ、個々人が「主体」となりうる契機が存するからである。そして、アソシエーションとは、あくまでも個々人の主体性にもとづくものである。しかし、右に述べたようなセミラティス型組織においては、諸個人の意志を超えた、そして諸個人を条件づける多次元の社会的諸関係はけっして捨象されないのである。」
※このようなアソシエーション像は超越論的なものである(私は超越論的なものを基本信じない)。また主体の用法もここでは、他者からの制約を受けていない、という意味合いが強い。「通常の」主体はむしろ他者(それが仮に権力者であっても)との関係性を相互的にとらえる目線があるように思うが、ここではそのような文脈からとらえられない。

(考察)
 柄谷の議論はとても硬派な印象を受けるものの、他方で少なくとも私にとっては新鮮な部分も多く、つまらない資本主義批判をしている訳ではないな、という印象でした。

 今回の検討課題は、本書における「アソシエーション」の実像をとらえることと、そのアソシエーションを我々が選択することの問題の2つである。しかし、柄谷のいうアソシエーションは、本書ではほとんど実体を捉えること等できない状況である。このアソシエーションが、プルードンの確立したものであることはわかるものの、(既存の交換体系の否定として定義付けようとする以外は)ほとんど定義らしき定義はない。
 そこで、必要に応じて比較的最近出版された「世界史の構造」(2010)にも言及していきたい。基本的に「世界史の構造」での論点も、アソシエーションをめぐる話としては本書と全く同じものである、と考えてよいのではないかと思う。ただ、本書よりもはるかに内容が充実しているといえる。

○柄谷の考える望ましい貨幣観とは?「産業資本」と「商人資本」との関連から
 アソシエーションについて考える前に、柄谷のいう資本化されていない貨幣について、その実態をとらえるところからはじめたい。このような貨幣については、カントの話からまず持ち込んでいる(p329)。カントによれば、生産による剰余価値を得ずに、流通過程で剰余価値を得ようとすることに対して批判的である。しかし、柄谷はこのようなカントの貨幣論に修正を加える。そこで提示されるのは、p367にあるような基準である。ここでまずとらえて置きたいのが、産業資本において決定的なのが、「信用」をめぐる問題であるということである。資本において、その自己増殖は「売り」と「買い」が常に剰余価値を高めて(厳密には高める必要性はないが、交換の循環が続くという了解によって)循環していくものとしてとらえることができる(p334−335)。そこでは一見等価交換がなされているが、それは時間的差異を使い先取りすることで価値を高め合う期待のもとに成立しているにすぎない。このような先取りにも清算せねばならない時期があり、その具体的なものが「恐慌」である、と柄谷は言う。
 
一方、商人資本は空間的な差異によって剰余を得るものであるとされた。しかし、そもそも商人資本に立ち返ることが望ましい貨幣のありかたなのか、といわれると、明確ではない。
 しかし、おそらく言いたいことは次のようなところになるのではないか、と思う。商人資本においては、空間を超える商人(売り手)が買い手の望む値段に合わせて、その剰余価値を稼いでいるのではないか、と。柄谷の議論の最大のポイントは、資本の自己増殖が「暴走」することへの危惧にあり、その自己増殖が「資本家」の意志さえも超えてしまう所にある(p334—335)。これの前提にするなら、基本的な望ましい貨幣像は、それが人々個人の意志を超えないようにコントロールされていることが前提になってくる(注1)。しかし、商人が(悪く言えば)買い手のいいなりになるような形でものの価値が設定される、というモデルはいまいち実態にそぐわない。そこで機能する「市場」は機能しているとはいえない。

 残念ながら、「トランスクリティーク」においては、このあたりの議論が限界である。この議論を有効にするにはもう一ひねり必要であり、「世界史の構造」ではこの点をしっかりカバーできている。それは、我々個人の「自由」の問題を絡めることで明確になってくるものである。柄谷はマルクスの議論を借り、産業プロレタリア(産業資本の下に従事する労働者)が二重の意味で自由な人々としてみる(「世界史の構造」、p277)。一つ目の自由は労働契約以外に従属することはないという点であり、これについては、他方でその契約にしばられる「不自由」が生じているとする。そしてもう一つは生産手段(土地)から自由になっている点である。

 「たとえば、プロレタリアは労働力以外に売るべきものをもたないというとき、彼らの貧困性が強調されているようにみえる。しかし、これはむしろ、プロレタリアが生活物資を自給自足せず、購入するほかない存在だ、ということを意味するのだ。奴隷は自分で生活物資を買うことはないし、農奴は共同体で自給自足する。それに対して、産業プロレタリアは自分の労働力を売った金で、自分および家族を養うような人たちである。産業プロレタリアの出現とは、同時に彼らの生活の維持のために商品を買う消費者の出現なのである。産業プロレタリアと奴隷あるいは農奴との違いは、何よりもそこにある。
 産業資本主義経済において、労働者の消費は、資本の蓄積過程と別に存在するのではない。労働者の消費は、それによって労働力を生産および再生産するものであるから、資本の蓄積過程の一環としてある。」(「世界史の構造」p279)
 
 この議論を踏まえると、落としどころが大分見えてくる。ここでは我々はある程度自給自足にも目を向けなければならない。それが商人との交換を行う時にも、絶対的に従属しないための手段となるのである。自給自足の手段が奪われている状態にある以上、我々は労働者/消費者として振る舞うほか方法はない。このような循環を留める方法があるとすれば、我々が自給自足をし、消費者として従順な態度をとることを放棄できる可能性を用意せねばならない、と。
 しかしながら、柄谷の落としどころはこれと異なる。柄谷が言うのは単純に我々が商品を買わない可能性に開かれるべきである、そのよう行動すべきである、というものである。このような落としどころも想定される訳だが、この立場は基本的に他の選択肢が用意されている(他のもので代用可能である)ことを前提にしており、我々が自給自足をすることを放棄していることについては特段否定しない。むしろ「自由」のための前提として評価をしている立場にある。そしてこの選択肢は必須の商品に対しての代用の存在を前提としながら、資本主義を批判する立場にあるため、基本的に「否定的なもの」に依拠しているともいえるだろう。これはアソシエーションのイメージにも繋がってくる問題である。

○柄谷のいう「アソシエーション」とは何か?
 社会学をかじった人であれば、マッキーバーの「コミュニティ」と「アソシエーション」という区別についてご存知だろう。これは端的に言えば「地縁」と「知縁」と言われたりもするが、地理的な要因による連帯意識と特定の目的を持った者による連帯意識という違いがある。おおよそ、世間でアソシエーションと呼ばれる場合も、このような「目的志向性」のある連帯について第一に言われるものであろう。
 さて、柄谷のいうアソシエーションはプルードンの議論をもとに行っている。本書ではプルードンについての話はほとんど出ないが、「世界史の構造」において大分どうとらえているのかが見えてくる。最初のポイントは「自由」を「平等」に優先させることにある。

 「第一に、彼は平等を自由に優越させる考えに反対した。平等は国家による再分配によって実現されるから、それは多かれ少なかれ、ジャコバン主義あるいは国家の強化に導かれる。交換様式でいえば、それは交換様式Cがもたらした「自由」を犠牲にして、交換様式Bを回復することになる。プルードンは、ジャコバン主義的な革命だけでなく、ルソーに由来する政治思想そのものに、自由を犠牲にする思想を見出した。
 プルードンはこう考えた。ルソーの人民主権という考えは、実際は、絶対主義王権国家の変形でしかないのに、そのことを隠蔽するものである。主権者としての国民とは、主権者(絶対王政)に属する臣下として形成されたものであることが忘れられたときに成り立つ、架空の観念である。ルソーは個々人の意志を越えた「一般意志」をもってきて、これによってすべてを基礎づける。しかし、一般意志は個々人の意志を国家に従属させるものでしかない。ルソーのいう社会契約では、個々人は事実上存在していないのである。」(「世界史の構造」、p354−355)

 「世界史の構造」では、「トランスクリティーク」で展開した4つの交換類型「贈与の五酬性」「収奪と再分配」「貨幣による交換」「アソシエーション」(cf.p415)をそれぞれ交換様式A〜Dとも呼んでいる。そして、このアソシエーションの出現をカントの議論も借りながら交換様式Aの「高次元での回復」と呼んでいる。

 「交換様式Dは、普遍宗教を通して開示されたがゆえに宗教に由来するようにみえるが、実際には、交換様式BとCによって抑圧された交換様式Aの高次元での回復にほかならない。そうであるかぎりで、宗教も普遍宗教たりえたのである。
 では、なぜ自由の相互性が「内なる義務」としてあらわれるのか。たとえば、フロイトは、カントがいう義務は「父」に由来する超自我にすぎないと述べた。そして、超自我は内面化された社会の規範である、と。しかし、自由の相互性という義務は、そのようなものではありえない。といっても、フロイトの理論を斥ける必要はない。自由の相互性がなぜ内なる「義務」として執拗にせまってくるのかを合理的に説明するためには、フロイトが「抑圧されたものの回帰」と呼んだ見方が必要なのである。要するに、カントがいう内なる義務」は、抑圧された交換様式Aが意識において強迫的に回帰してくることから生じるのである。」(「世界史の構造」、p346−347)

 このような強迫的な回帰はドゥルーズガタリの「アンチ・オイディプス」においても似たような話があった。前回も言及した河出文庫上巻のp313とp317−318の部分である。ここではD/Gは原初社会からオイディプス問題に触れている。ある意味でD/Gはこの原初社会における家族の関係性について評価する訳だが、それは名としての「父」や「母」といったものから、制度的な「家族」がない状態として、それらとは別の役割を担っていたのである。この関係性をD/Gも一つのモデルとしている嫌いがあるが、これもある意味で自由な贈与の力によって成り立っていた世界への高次元での回復といってよい。
 もっとも、この「贈与」というのは、一貫して社会学の通説的な「贈与」つまり、交換行為としての贈与を想定していることは留意しておきたい(高橋の議論で行った贈与の話とは異なる)。もちろんこのような交換行為においても、社会の序列は形成される訳だが、このような序列自体は柄谷にとっては許容の範囲内なのである。
 しかし、このようなアソシエーションは大枠の国家を否定する訳だが、どのような枠組みによって形成されるのだろうか?「トランスクリティーク」では貨幣の流通に着目し、代替通貨の議論を行っている。そこでLETSという地域交換取引制度が取りあげられている。これは資本化されない通貨という条件を満たしているが、同時に問題点もあるという。

 「にもかかわらず、LETSは大きな困難をもっている。それは、小さな共同体の範囲を出られないということである。それは現在の貨幣経済に対抗するほどの規模で流通することを期待できない。せいぜい資本制経済にとって補完的な役割をすることにとどまるだろう。新たな代替貨幣にとって必要なことは、それが資本に転化しないようなシステムをもつことだけでなく、それが広く流通する根拠をもつことである。」(p502)

 確かに地域通貨としてなら、恐らく代替通貨は実現可能ではないかと私も思う。このような広い流通を行う形の代替通貨の話は、想定しづらい。その理由はおそらく「連帯」をめぐる問題から生じるものなのではないかと思う。マッキーバー的な「コミュニティ」と「アソシエーション」は区分がシンプルであり、その連帯がわかりやすい。しかし、柄谷のいうアソシエーションはこの実態がわかりづらいのである。基本的にこのアソシエーションは目的志向的であるが、何を目的にしているのだろうか?特にユニバーサル化する貨幣に対する代替貨幣を構想するということの意味を詰めると、その根拠はそれを支持する個への立脚は必須なのではないかと思う。それはp454にあるような語り、そして柄谷がカントに立脚していることからそう言える。しかし、問題なのは、このような個の立脚した態度というのが、他者への排除に繋がらないか、という可能性である。

 カントに立脚しているといえば、ジジェクも確かにそうであったが、ジジェクはこのような排他の問題にも関心があったのだと思われる。柄谷のような立場に立ったとしても、おそらくは「幻想を走査する」ことは可能である。それは、マスターたりうる「国家」に対して否定的な解釈を加えることから言える。しかし、ジジェクは共同体的な話については触れることがないまま、主観論に留まった。私はこの論点でいえば、やはりジジェクを支持したい。このようなアソシエーションについて批判を加えたい理由は3つある。

 1つ目は、このようなアソシエーションが超越論を採用していることである。これは柄谷自身も認めている。超越論の採用は、一意的な選択を認めている根拠とはならない。

 2つ目は、選択する問題であるアソシエーションとしての連帯を選ぶことによる問題が発生することにある。この根拠として生の領域の問題があると思うし、それをめぐる議論はこれまでもしてきた。つまり、この資本の動きと我々の生の領域の拡大に強い相関がある可能性である。この可能性が認められるなら、アソシエーションの態度をとることが、生の領域の解体を生むことを意味する。そもそも、相互扶助的な性質をアソシエーションは持ち合わせているが、そのような相互扶助性だけで成立しない剰余領域において分配の構造、大きな「国家」というのが求められるようになったのではなかったのか?その意味で柄谷のような議論は見方によっては楽観論といえる。この点は近いうちにフーコーあたりから議論を進めていきたいと思う。

 3つ目に、どちらの選択肢がいいのか(アソシエーションか、資本主義か)は我々には単純に判別不能な部分もある。資本主義のこの恐慌という問題に対して無自覚であることはある意味問題かもしれないが、この「恐慌」というのがいつ起こるのかというのは基本的に予測できるような性質のものではないはずだ。その恐慌というのは、最終的に我々の貨幣に対する信頼が消失した際に起こるといってよいが、それこそ最終的に人の手によりなされるものであるために、それを予想するというのは一種の矛盾である。このため、壊滅的な恐慌を考えた際に、それが我々の生きているうちに起こるのかどうかという基準で決めることはできない。もっといえば、起こるかどうかもわからない。もちろん、この観点からはアソシエーションの選択をとった方が個々人レベルで見れば都合が良い。しかし、それは消極的な選択である。

 なお、「世界史の構造」では、最終的にアソシエーションのあり方を語る際に、貨幣の話はなされず、「贈与」の議論からアプローチする形をとっている(cf.「世界史の構造」p460-461)。このような貨幣についての考えは変わってないような気はするが、なぜ貨幣からのアプローチを議論していないのかは、気になる所である。

理解度:★★★★
私の好み:★★★
おすすめ度:★★★☆

(注1)これはニクラス・ルーマンの「信頼」(訳書1990)の話を関連させれば分かりやすいだろう。ルーマンの説明は省略するが、つまり柄谷の議論のポイントは信頼構造を「人格的信頼」に留め、「システム信頼」へと変化させることを防ぐことにある、と言い換えられるのではないか。この本も機会があればレビューしたい。