スラヴォイ・ジジェク「厄介なる主体」(1999)

(読書ノート1、訳書2005)
p28-29  「すると、ハイデガーが囚われたイデオロギーの罠が見えてくる。つまり、ハイデガーがナチ運動にある真の「内なる偉大さ」を掲げてナチの人種差別を非難するとき、彼はイデオロギーに彩られたテクストに対して、一歩引いて客観的な見方をとり続けようとする、きわめてイデオロギー的な身ぶりそのものを繰り返してしまう——そのイデオロギーのテクストの奥にはさらに何かがある、イデオロギーではない核があると主張するのである。……ハイデガーが期待していたのは、ナチ運動が直接「内なる偉大さ」に目覚めることでナチズムそのものを正当化することであった。すると問題は、歴史や存在論の土壌に直結する政治運動は可能であるという、まさにそのような期待のなかに求められよう。ところが、ある運動をイデオロギーによって直接正当化し、その正当性を「内なる偉大さ」(歴史および存在論的な本質)から切り離してしまう裂け目が本質的な要素であること、つまり、そのような裂け目は運動が「機能する」うえですでに存在すると認められた条件であることを理解しないと、このような期待は本質的にはきわめて形而上学的であるといえる。ハイデガーの後期の用語を用いるならば、存在論的なものを洞察する能力は、存在的レベルになると必然的にその洞察力は失われ、過ちを犯すこととなるが、また逆に、存在的レベルでの洞察力は、存在論的には盲目となることを意味する——すなわち、存在的レベルで「有効である」ためには、存在論的な枠組みを切り捨てなければならない(この意味で、ハイデガーが強調するのは「科学は思考しない」ということであり、しかも、そのような科学の限界とは裏腹に、その思考できない性質こそまさに科学が進歩する原動力となることである)。」
p33 「死へと先駆する決意によって、正しい存在のあり方に到達し「みずからの運命を自由に選択し」ようとする個々の<現存在>は、投げ入れられる/投げかける「被投的な企投」という状態にあり、そして、そのような状態から<民族>という人間共同体へと移行する。やはり<民族>も、過去にあった存在のあり方を反復するものとして、先駆的に決意をすることで自分たちがいだく歴史の<運命>を忠実に背負い込む。このように、個人から<民族>へのレベルの移行が根拠としているものは、現象学的な枠では十分にとらえられない。というのも、集団として存在することをしめす媒体が、うまく使われていないのである。……このように、個人と集団をつなぐ回路を不正にもショートさせてしまうところに、ハイデガーが魅了された「ファシズムへの誘惑」の根源がある。」

p38−39 「そのため、ハイデガー存在論は事実「政治的」だといえよう。ハイデガーは従来の存在論を打破しようとし、「存在の意味」を探る鍵として、「企図/投げかけ」を取り入れようとする人間の決意を主張する。……つまり、<現存在>という歴史のかたちを選ぶことこそ、ある意味「政治的」なのであり、それは、どんなに普遍的な存在論の構造をまったく根拠とせず、計り知れない決意という力のなかにある。」
p42 『存在と時間』の不完全性…一断片だという主張がこの本の完結性(閉じた状態)を隠蔽しているのでは?
p50 「なぜハイデガーが超越論的想像力に焦点をあてるのだろうという疑問は、いまならはっきりと理解されよう。想像力にある固有の特徴が、受容性/有限性と自発性という、二項対立を突き崩すことにあるためである(ここでいう有限性とは、人間が経験にもとづく存在として、現象的な因果関係に囚われていることを指す。自発性とは、自由な主体として、つまり、もの自体の世界にいる自由の選び手として、人間が自発的な行為をするという意味である)。ようするに、想像力は受け入れと措定の力があるので、「受動的」であると同時に「能動的」であるといえる。」
☆p74−75 「図式化された時間のなかでは、ほんとうに新しいものは何も現れない——すべてがつねにすでにそこにあり、もともとそなわった潜在能力をたんに備えているだけである。これに反して、<崇高>とは何か——すでに存在し、さまざまな状況をつなぐネットワークにも関わってこないような、何か新しいもの——が<無>から現れる契機を示す。……<崇高>の感情は、象徴でつながれた因果関係の網の目を一時的に機能停止にさせてしまうひとつの<出来事>によって、引き起されるのである。」

p125 スロヴェニアの抗争運動の例にみる三つの段階…「第一の段階、それは抵抗のための抵抗の段階であり、自前の価値観を現体制にぶつけて批判する段階であった。」
p126 「抵抗側が、悔しいが敵方の指摘もごもっともと認めるの契機(※ママ)として、抵抗は第二の段階を迎える。それは国家権力の手が届く範囲の外にあると見なされた自治的な「市民団体」の領域を創出しようとする抵抗であり、かれらの態度は次のように変化する。われわれの求めているのは権力ではない。ただ国家権力や政治権力の手が介在しない自治領域を欲しているだけである。」
p126 「こうして抵抗は最終の段階である第三段階へと進む。その抵抗は人びとを奮い立たせ、われの為すことは高潔ゆえ権力など欲しはせぬと言い張る見せかけの態度に替わって、権力側へ臨む姿勢を一変させる。」権力を欲することになる。

P128 「ゆえに「即自態」から「向自態」への移行に働いているのは、反復の論理となる。ある物事が「向自的」へと変化するときとは、実際には何かが変化しているわけではなく、既にそれ自体に内在していた事柄を繰り返して提示してみせるに過ぎない。したがって「否定の否定」とは、根幹まで突きつめれば反復以外の何ものでもない。最初の行為で何かしらの身ぶりが執り行われ、そして失敗する。だが続いて行われる行為も、ただ最初と同じ身ぶりが繰り返されるだけである。」
p132 「「否定」とは、<美しき魂>が自分を取り巻く社会に向けた批判的な態度である。そして「否定の否定」は、当の<美しき魂>が拒絶しようとしている邪曲な世界に、それ自身が如何に依存しているかを洞察することになる。「否定の否定」とは、魔法のように物事の様態が入れ替わることを前提としているわけではない。単に、主体の目的へ向かう活動がずらされ、くじかれるのは避けがたい事だと知らしめるに過ぎないのだ。」

p170 「措定的反省とは、「存在論」にまつわる側面であり、それは<本質>について、物事を産出する/生成させる力、さまざまな発現を彩り豊かに「措定」する力として概念化する。外的反省は、まったく対照的に「認識論」にまつわる側面であり、主体が知の対象を反省的に洞察し見通すこと——主体が現象という表面を覆うベールの背後にある現象に潜む、論理的な構造の輪郭(現象の<本質>)を把握しようと努力することを表す。「<本質>の論理」全体にかかわる根本的な行きづまりとは、これらふたつの側面、「存在論的」な側面と「認識論的」な側面とが、決して完全にひとつのものに向けて組み合わさっていかないことにある。」
※この「矛盾」状態は、「現実」それ自体にとって究極の「運動の源」でもある(p171)。
P180 「弁証法の過程が進行していく途上では、必然として「失敗の」選択をする必要があることを見事に描き出している概念とは、「頑強な愛着」という概念である。この同時に相反する二重の意味を内包している概念は、ヘーゲルの『精神現象学』のなかを徹頭徹尾貫いて機能している。一面において、それは道徳に基づいて裁定を下す意識によって蔑まれてしまうような幾つかの特別な内容(利益、対象、快楽……)に向けられた病理的な執着のことを意味している。……しかし他方で、それよりもはるかに危険な「頑強な愛着」とは、みずからの倫理基準に病理的に固執し続け、その基準の名のもとにあらゆる行為を罪として糾弾する、不活発な裁定者としての主体の「取り憑き」である。」

☆P182−183 ヘーゲルが軍務強化において機械的に定められた反復教練の不可欠さを説き、ラテン語を学習せよとした意図…「決定的に重要になる核心は、むしろ、このような根底から徹底しておこなわれる外化、言い換えれば実体として内在している精神の内容すべてを犠牲にすることなしには、主体はその<実体>のなかに埋め込まれたままで、自己へ向き合った純粋な否定として立ち現われることができないことにある——この意味のない形式としての教義について真に思弁的に見越すための意味は、ワタシの精神世界という「内なる」実体としての内容すべてを徹底的に放棄することにあり、まさしくそのような放棄を介してのみ、ワタシはもはや既成のものとして立ち塞がるいかなる秩序にも縛られることなく、また特定のいかなる生活世界にも足を絡め取られることのない、純粋な「ワタシ」と言明する主体として現れ出るのだ。ゆえに、フーコーと同様にヘーゲルもまた、フーコーとはわずかばかり違った解釈を添えてはいるものの、規律と主体の形成との緊密な結びつきを主張しているのである。つまり規律に基づいた行為を実践することによって生み出された主体とは、「魂が身体の牢獄となる」主体ではなく、むしろ厳密には——思い切ってこのように表現しようと思うが——魂のない主体、「魂」の深淵を剥奪された主体なのである。」

p233 「彼(※バティウ)は「多数の真理」という考え方に徹底して反対し、次のように主張する。<真理>とは偶然である。それは、具体的な歴史の状況しだいで決まるのである。<真理>とはそのような歴史の状況にある真理のことを指すが、具体的かつ偶然のあらゆる歴史的状況のなかには正真正銘の<真理>があり、そのような<真理>は一度でもはっきりと言葉で表現され宣言されてしまうと、<真理>そのものの指標として、また<真理>によってくつがえされた場合には偽の指標として機能するのである、と。」
p248-249 「それにもかかわらず、バディウはこの真偽を区別する精密な基準をもちこみ、<出来事>はそのさまざまな事情、つまりそこから発生する「状況」と関連があるという方法をとる。そして、真の<出来事>は状況の「空虚」から現れるのだという。<出来事>とは状況に属しているものの、みずからがもつ余分な要素、すなわち状況のなかには適切な場をもたない徴候的な要素に付着しており、それに対し<出来事>のまやかしものにとっては、その徴候とは関係がないとする。」

p277-278 「主体とは、普遍的なものと個別のものとのあいだにある存在論的な裂け目——存在論的に論証できないこと、つまり<ヘゲモニー>もしくは<真理>を、実定とされている所与の存在論的な項目から直接引き出すことはできないという事実——と緊密な相互依存の関係にある。「主体」とは行為であり、所与の多なるものという実定的なものから<真理=出来事>/<ヘゲモニー>へわれわれが移動するための決定である。このように不安定な主体の立場は、現実は「すべてではない」。つまり存在論的に完全なかたちで構成されているのではないというカント流の反宇宙論的な洞察に依拠しているため、存在論的な一貫性をそなえた外装を得るには、主体の偶発的な身ぶりという補足が必要となる。」
p279 「主体とは、存在論的な裂け目であると同時に、主体形成の身ぶりでもあり、その身ぶりは<普遍なるもの>と<個別のもの>をつなぐことによって、この裂け目にぱっくり開いた場を癒すのである。「主体性」とは、このように還元不可能な循環の動き、すなわち、外部の抵抗力(たとえば、実体をともなった所与の秩序)に逆らうことのないなんらかの力に対してつけられた名称であるが、同時に、絶対的に内在する障害でもあって、究極的にはその障害こそが主体それ自身ということなのである。別言すれば、裂け目を埋めようとする主体の努力こそ、時間をさかのぼってこの裂け目という被害を経験することであり、またそれを生みだすということなのである。」
p286 「存在論的に構築された現実という領野、すなわち<存在の秩序>は、基本的に全体としてまとめることができず、一貫して<全体>としてみなされることができないが、なぜなら、その存在が主体の有限なあり方と固着しているからだ、と。したがって、自由のもつ超越論的な自発性は、現象的な現実でもなく、実体をしめす<もの自体>の世界でもない、第三の領域として現われるのである。」

p333 まやかしの中流階級
p348 「現代の「シミュラークルの蔓延」で失われてしまったのは、確固とした存在がある、本物の、シミュレーションが介入しない<現実>ではなく、まさに発現そのものの方なのである。ラカンの用語を当てはめてみるならば、シミュラークル想像界のもの(幻影)であるのに対して、発現は象徴界のもの(擬制) なのだ。象徴としての発現が支えている特有の次元が崩壊しはじめると、<想像なるもの>と<現実なるもの>は、ますます識別ができなくなってしまう。」
p364 「民衆による抗議行動について、一般的な事例を思い起こしてみれば、その運動の矛先が向いているのは、至極個別な要求に過ぎない——しかし、この特殊な要求が、<やつら>すなわち、権力の座にある者たちへの包括的な抵抗という意味が凝縮したひとつのメタファーとして機能しはじめるようになったとき、この状況はポリティクスへと転じ、その結果、その抗議運動は事実上もはや前述のような要求に拘泥するだけのものではなくなり、それら特殊な要求に共鳴する普遍の次元を争うものとなるのである。」
※このメタファーの議論は重要である。個別に困窮している者がこのメタファーに対して違和感をもつことさえありうる。ポスト・ポリティクスの課題はこの普遍的メタファーを個別化しようとすることである。

P375−376 「こうしてわれわれは、一歩また一歩と出口のない自閉空間の奈落階段を下っていき、そのなかで、あらゆる事柄を上滑りさせて進ませてしまうリベラル=民主主義型資本主義のグローバル<新秩序>という出来事ならざるものと、一時的には凪いだ資本主義の大洋に波を起こすような原理主義的な<出来事>(局地的にファシズムの息吹が聞こえ始める、など)の両極を振り子のように行ったり来たりすることしかできなくなるのである——このような環境に投げ出されたならば、ハイデガーがナチズムの革命という擬似的<出来事>を、本物の<出来事>と見誤ったのも無理からぬことではないか。今日に生きるわれわれが、かつてないほどに訴えていかなくてはならないのは、ある<出来事>を浮上させる道を開く唯一の方法として、グローバル化に付随して特殊化されていく悪循環を断ち切るため、<普遍性>の次元を資本主義のグローバル化に対立させるよう(再)提示することなのだ。」
※このような主体の揺らぎ方の危険性と資本主義を結びつける形で、コントロール不能の危機との関係で説明をする。感覚的にはもちろん理解できるが、これの回避が最適解という保証はどこにあるのか?

P389 「われわれはもはや、社会を想像する地平の果てに、資本主義がやがては崩壊の時を迎えるというイメージを抱いて、あれこれと思案に耽ることができなくなってしまったがゆえに——誰もが口には出さなくとも、資本主義がこれからも君臨し続けることを認めてしまっている、といってしまっても差し支えなくなってしまったがゆえに——批評するエネルギーは本来の噴出口を失い、文化的な差異について激論を交わすことに終始することで、資本主義体制の世界システムが創りだした、根幹からの均質化については、手つかずのままに残されてしまっている、というのが否定できぬ実状である。」
※私はむしろ、このような終焉の可能性は覚悟の上で、資本主義という選択をしている層が一定程度あるようにも思える。もちろん無自覚な層もあるだろうが、別の層は想像不能になっているのではなく、一つの選択をしっかり行っているように思う。
p393—394 ポストモダン時代の移民する主体の二極化を踏まえて…後者のごとき主体にとって、かつて自分の住んでいた伝統的な生活様式の土壌から引き抜かれてしまうこととは、その者の存在一切を揺るがしてしまうトラウマ的衝撃なのである——かれらに向かって「君は自分が雑多な混ざりものであること、ひとつに定まったアイデンティティなどもたずに日々の生活を送っていくこと、現実に自分の存在は移住生活のなかにあり、決して何かに同一化することなどありえないということ云々を、無上の喜びをもって享受するべきだよ!」と告げようとする態度には、ドゥルーズガタリの(俗流版の)スキゾ的主体、つまりリゾーム状に分散した存在で、ひとつのものに執着したアイデンティティが閉じ籠もるパラノイア的な「ファシズム色」の甲殻を粉砕するという主体を手放しで礼讃する態度に生じるのとまったく同じシニシズムが漂う。」
ジジェクはあくまで個に立脚する。

P397 「われわれの為すべきことは、みずからについて偏向をもたず、イデオロギー対立のレベルより脱していて<法>の規定を遵守して活動していると表明するリベラルな<中道>に抗して、<法>という中立領域棚上げする必要性を説く古き左翼運動の主調を再び主張し直すことである。」
P399 「<右翼>は<倫理的なもの>の棚上げを正当化するため、反普遍主義のスタンスを用いる——つまり、道徳や法といった、あらゆる普遍的な基準を押さえつけてしまう、みずからの特殊な(宗教的な、愛国的な)アイデンティティに言及する——のに対し、<左翼>は、<倫理的なもの>の棚上げしようとする行為を、まさに対照的に、真なる<普遍性>の到来の布石と位置付けるのである。……左翼の視点においては、社会のなかで生きるには、根底からぶつかり合う二極の対立関係——つまり、ポリティクス——を避けることなどできないと承知した上で、「どちらかの立場に付くことを明言する」必要性を認めること、それが本当に普遍的な立場を維持するための唯一の方法なのである。」

P425 「真正なる<主人>にたいして皆が心酔する理由は、他でもなく、最後の最後にすべての責任を引き受けるという、誰にも絶対に為し得ない立場を表明し、誰もが手をつけたがらない政策を履行し、システムを瓦解の危機から救う手だてに着手するに躊躇すらしない態度である。」

(読書ノート2、訳書2007)
p10 「フロイトと同様に、ラカンが幾度も繰り返して強調点を置くのは、倒錯症がつねに社会の枠組みに準じて産みだされている症例あるのに比して、ヒステリー症者の方こそは、社会を混迷に陥れること甚だしく、社会を支配するヘゲモニー構造に脅威を及ぼす存在だという事実である。」
p12 「倒錯症者は、すでに自分が求めている答えを知っているがゆえに、あらかじめ<無意識>を排除してしまうのであって、彼は自分自身の答えに疑念を抱かず、その姿勢に揺るぎはない。対照的に、ヒステリー症者は悶々と懐疑し続ける——この特長によって明らかになるのは、彼女が際限なき疑問の投げかけに身を置いており、さらに疑問を投げかけ続ける姿勢そのものが、彼女自身を創りあげる要素として不可欠なものとなってしまっている点である。いったい<他者>はワタシに何を欲しているのであろうか、はたしてワタシは<他者>に何を欲しているのだろうか、と……。」
p12−13 「後期資本主義の市場制度と結びついた主体とは、まぎれもなく倒錯症的であるのに対し、「民主主義的な主体」は、その本性としてヒステリー症的なのだ。」

p17 「倒錯症の哲学者と呼ぶのに異論を挟む余地のない哲学者ミシェル・フーコーにとって、禁止と欲望の関係とは、相互が補完的に組み合うことで成り立ち、一切の外的要因を排除している事象のひとつである。権力と抵抗(反力)は、お互いが相手の前提条件を設定し、またお互いが自分の相方を産出する——つまり、是認され得ない欲望を分類し、規制しようとする禁止の手段そのものが、実際には当の欲望主体を産みだす源泉になっているのだ。」
p23 「要するに、フーコーセクシュアリティに対して規律を賦課し、徹底管理しようとするディスクールについて説明するとき、彼の考慮の枠から漏れてしまっていることがらとは、権力のメカニズムそのものが、エロスをかき立てる道具に成り下がっていくプロセス、つまり、権力が「抑圧」しようと躍起にあっている対象によって汚穢されてしまうプロセスなのである。」

p26 「このような議論の建て方は、一見したところ、ヨーロッパ中心主義的な態度をもって「被植民者たちは、帝国主義に抵抗する身ぶりを通じ、あろうことか当のヨーロッパ帝国主義の思考様式を反復してしまっているではないか」と糾弾する議論のように思えてしまうかもしれない——だが、そのような解釈とはまるで正反対の議論として読むことも可能であろう。もしわれわれが、帝国主義を振りかざすヨーロッパ中心主義に対し、過去のエトノス的アイデンティティを形成していた意識に存する核心物に目を向けなおすことで抵抗を試みようとするならば、それは意図せずして、近代化に呑み込まれ喘ぐ犠牲者、帝国主義の触手に弄ばれる餌食という立場を、みずから進んで容認する態度と同義になってしまう。しかし、われわれ自身が、みずからの為す抵抗について、残忍な帝国主義が闖入し、かつて自己内充足していたアイデンティティを侵害した結果として生まれ出た「過剰」であるとの認識に至るならば、われわれの踏みしめる抵抗の土台は、これまでよりも一層堅固なものになるだろう。」
p28 「実のところ、われわれが傾注すべき点とは、権力のメカニズムは自己のあり方を自身で統制することができないばかりか、権力自体のまさしく核心部分に、もっこり隆起した猥褻な痼りに依存しなければならない、という事実の方なのだとしたら、どうであろうか。言い換えるなら、<権力>が管理の手を伸ばすものの、その掌からどうしてもすり抜けてしまうものとは、<権力>が支配下に置こうと欲している外部の<即自的なもの>などではなく、むしろ<権力>自体の作動を内部で下支えしている汚らわしき補遺物に他ならないのだ。」

p47 「「激しい愛着」の外部に、主体など無い。主体が自己を主体であると叫ぶためには、決して完全なかたちで「止揚される」ことのない自己の立脚点から、ある程度の距離を取るしかない。とはいうものの、原初に横たわり幻想として立ち現れる「激しい愛着」によって、主体が社会的・象徴的な存在となるために抑圧/否認のもとに組み伏せられているさまと、まさしくこの社会的・象徴的秩序に従属することで、主体がある一定の象徴的地位に「叙任」される(呼びかけの声を認識する/声を同一化する場を得る)さまを区別することは、理論的にも、また政治的にも極めて重要である。」

p62 「決して表象のなかに取り込まれないリビドーとして「存在している」この身体なき器官とは、徹底して「どちらかの性に偏らぬもの」——男性的なものでも。女性的なものでもなく、両性が象徴宇宙のなかで性を弁別されていったとき、どちらも等しく失ってしまっているものなのである。……ラカンにとって、ふたつの性が大文字の<一なるもの>になるために欠落しているものとは、自身を補完してくれる喪失の半身ではなく、どちらの性にも偏らぬ第三の対象なのだ。その対象の特徴は、<同一>と呼ぶものに他ならないとも述べることもできる——だが、ここでいう<同一>とは、「性別が同じ」という意味での同一体を指すのではなく、あくまで性がいまだ弁別されざる時分に想定された<同一>、いまだ性的差異の切断が認められていないリビドーなのである。」
p63 「ここでわれわれは、ラカンの説く現実と<現実なるもの>の相違に直面している。すなわち「現実」とは、生身の人びとが相互に触れあい、生産過程に携わる社会生活上の現実性のことであるが、他方で<現実なるもの>とは、その社会生活上の現実世界の行く末を決定してしまう<資本>という名の、人間味を全く欠いた亡霊のような「抽象」原理のことなのである。」
p63−64 「このように、空虚な象徴の形式と偶発的に決定された具体的な内容とに明快に線引きされる区分を曖昧にぼやかしてしまうもの、それこそが<現実なるもの>である。」
※内的媒介によってなされたものは悉く失敗している、という議論にも見える。

☆P69 「つまりは、こういうわけなのだ。外部に存する社会規則と内部に存する<道徳法則>の対立とは、現実と<現実なるもの>とのそれに等しい。諸々の社会規則は、なおも社会間共存に資するとの客観的必要性から正当化する(ように見せかける)ことが可能であるが、<道徳法則>からの要請は、状況を問わず常に絶対であり、理由づけの余地はない——「成しうるなり、成さねばならぬゆえに!」と、カントが表現するように、この事由により、社会規則は平和のうちに共存可能なものであるが、反対に<道徳法則>は、その共存関係を打ち砕く外傷的な命令なのである。ここで誰しもが、さらに一歩踏み出して、「外的」な社会規範と内的な<道徳法則>との関係を、反転させてみたくなる気も起きてくることだろう。では、もし主体が<道徳規則>の堪え難き圧力の下から逃れんがためだけに、外的な社会規範を創りあげるのだとしたらどうなのか、人間存在の心の奥底に棲む親しみなき異形の身体、外-密的な<主人>を保持するよりも、いっそのこと外部の世界に<主人>を担ぎ出して、かれを巧く丸め込んでしまった方がはるかに簡単だし、かれと最低限度の距離をおくことで、プライベート空間を維持できるのではないのか、と。このように内なる<法>という外-密的な強迫力、「君に宿りし君以上の存在」が外在化していく様態、これこそまさに<権力>(主体にとって<外部世界>から圧力を加え、自分のやりたいことの足を引っ張り、目的の達成を阻害する強制力と経験される作用)を定義する最低限度の必須要因に他ならないのではなかったか。」

p70 「繰り返し述べるのが、決定的に重要となるポイント、それは、この内なる<法>への服従が、単純に外的圧力の「内的伸展」や「内面化」なのではなく、むしろ外的圧力の機能停止、「自由なる内面世界」を創りだしている自己内部への引き蘢もりと密接な関わりを持っていることである。そのポイントは、われわれを根源幻想をめぐる問題構制の場に立ち返らせてくれるだろう。根源幻想が演出するものとは、まさに主体の「内なる自由」を下支えしている構成的恭順/服従の情景なのだ。」
p70 「ドゥルーズによって詳細に分析されたように、マゾヒズムとは、厳密に見てみるならば、すでに<エディプス>的な象徴的現実の枠組みを拒絶するという、根深き策謀の姿勢を内包している。マゾヒストが苦痛に喘ぐ姿とは、痛みそれ自体が何らかの倒錯した快楽であることを証言している状態なのではなく、あらゆる事柄の一切をただ快楽にのみ奉じ、費やしている身ぶりなのだ……。」
☆p71 「根源幻想が主体に与えるのは、生きモノとしてこれ以上切り詰められぬ最小限度での構成であり、それは主体の生存在を支える支持体として機能している——手短に表現するなら、その欺きかけとは、「ねぇ見てごらん、ボク苦しいよ、だからボクは生きている、あぁ存在しているよ、生きとし生けるものの一部なんだ」という身ぶりなのだ。ゆえに、根源幻想において焦点となっているのは、罪への自責でも、そして(あるいは)快楽でもなく、存在そのものであり、さらに言えば、われわれが「幻想を走査する」作業によって振り払おうとしている対象こそ、まさしくこの根源幻想の欺きなのである。幻想を走査する作業を経ることによって、主体は自己の非存在性という虚空を受け入れざるを得なくなるのだ。」

p76−77 「だが、いったい<無意識>とは、そのような事実の、いかなる部分に存しているのだろうか。この場にて出くわす<無意識>、原初に横たわる誘惑の光景のなかの<無意識>とは、大人(両親)の<無意識>であって、子どものそれではない。……<無意識>の始源的な出会いとは、<他者>の不整合性との出会いなのであり、(親という)<他者>が、実際には自身の所為と言葉とを制御しきっているわけではなく、かれの口から発せられるのは、かれが本当の意味に気がついていないサインであり、かれが為すのは、かれの手がそのリビドーの向かう本当の目的には決して届かない行為であるという事実との出会いなのだ。」
☆p85 「根源的に開いた裂け目について考えるさい、それが子どもと<母>の近親相姦的な二者関係結実を阻止するべく、子どもを象徴的去勢/隔離の次元へと追いこむ、父権的な<法>/<禁止>の干渉からもたらされた産物と理解する安直は退けなければなるまい。この裂け目、「バラバラに寸断された身体」という経験は、あらゆる物事に先だって存在しているのだ。それは死への衝動が産み落としたもの、快楽原則の円滑な運用を停止させる何らかの過剰/トラウマ的な享楽が侵入した結果の所産であり、そして父権的な<法>は——鏡像との想像的同一化とは異なり——この裂け目を飼い慣らし/安定化する試みのひとつなのである。忘れてはならないのは、ラカンにとって<エディプス>的な父親の<法>とは、突き詰めれば「快楽原則」に服し、それに資するためだけに存在している点である。」

☆p97 「しかしラカンが主張するに、「幻想を通りぬける/精査する」とは、衝動から欲望への変遷と厳密に等価になるわけではない。われわれが根源幻想を徹底的に検討したのちであっても、いまだひとつの欲望、幻想に支えられてはいない欲望が留まり続けているのであり、いうまでもなく、その欲望こそが分析者の欲望——分析者になりたいとの欲望ではなく、分析者という主体的位置に適う欲望、「主体の欠乏」を経てのち、排泄物のごとき除外者の役割を受け入れた者の欲望、「ワタシのなかにワタシ以上の存在がある」との幻想観念を紡ぎだす欲望、ワタシを<他者>の欲望の的にしてくれる秘宝なのである。」
p98−99 「その一方で衝動とは、主体が永遠に<目標>へ到達することを妨げ続けられているものの、幾たびとなく目標の対象を見失い続け、ぐるぐる彷徨い歩いてしまう連環運動そのもののなかに充足感を見いだしうるというパラドクスに彩られた可能性を表している。こうして、欲望の必要不可欠な要素として憑きまとっていた裂け目の箇所は塞がれ、円環状に繰り返されていく運動という自己内閉鎖したループ空間は、無限に充足を模索しつづける努力に置き換えられることになる。」
p99 「衝動がいわば「副次的産物」であるとの事実もまた、この用語が今日の合理的行為に関する理論にて獲得した意味の厳密な射程のなかに包含されるべきであろう。確固とした意図を根底においた態度と特徴づけしうる欲望とは対照的に、衝動とは、主体が自分の意に反しながらも巻き込まれていく事態なのであり、言うならば、自律運動の反復にのみ固執し続ける「無頭」の推進力なのだ。」

p112 「衝動の反復とは、失敗の反復のことなのである。」
p113 「欲望の主体は、その不可欠な構成要素としての欠如を基底に成り立つのに対し、衝動の主体は、剰余を必須の素地として成立している。つまり、われわれの眼の前に広がる現実のなかに、何らかの<もの>が、本質的には「あり得ぬもの」であって、この場に存してはならないはずであるにもかかわらず、過剰なる存在感をたぎらせて押し迫るのだ——この<もの>とは、もちろん。突き詰めたところ主体そのものに他ならない。」
p114 「欲望がみずからを主体として浮上させるとき、欲望が主体を表現するものと想定されているとき、そこに数多くの言葉が溢れ、淀みなく流れ始めるが、それは主体がついに欲望を認知し、それを主体の象徴宇宙の一部として組み入れてしまえるからに他ならない。対照的に、衝動がみずからを主体として浮上させるとき、主体がみずからについて死を招き寄せる<もの>と同一視するとき、このもうひとつの主体の前景化は、欲望の場合とはまるで反対に、突如とした沈黙の開始によって知らしめられることになる——浮いては消える享楽の乱痴気な言葉の泡沫は遮断され、主体は衝動の還流から自分の身を引き上げるのだ。衝動が主体として前景化することとは、まさにこの離脱行為、ワタシを自分自身の存在と等しき<もの>から引き剥がす行為、そこに居る怪物こそはワタシ自身であると眼に見えるかたちに実現する行為なのである。」

p153−154 「今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである——それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。」
※一種のスケープゴートとなっているのか!?
P176−177 「「象徴的効力」とは、このように、象徴的な制度という<他者>が、「おまえさんはいったい何を信じるって言うんだい? 自分の目ん玉か?それとも、このオレ様の言葉か?」と二者択一を迫ってきたとき、ワタシは何も躊躇もなく、自分の眼が証する事実を切り捨て、<他者>の言葉を選んでしまう局面に連関しているのだ。」

P193 「問題なのは、危機が本当に存在するのか、そうならはどの程度の規模なのかを確実に切りうるための客観性に富んだ科学、あるいはそれに類する手段が存在していないことである。われわれはこの問題について、営利搾取しか眼中にない企業や政府機関が、危機的事象を不当に低く評定しているだけという単純な結論に帰結し得ない——実際のところ、確たる証拠を提示してリスクの規模を算出する方法など誰も持ち合わせていないのだ。」
P199 「市場とは、まったく予測もつかない仕打ちをもって、実直な労働者の努力を水泡に帰すこともあれば、自堕落な投機家を大金持ちに仕立てあげることも可能である不可入性のメカニズムなのだ——投機の流れが最終的にどのような結果をもたらすのか、誰にも見定めることはできない。しかし、われわれの行為が不即の事態を招き、意図せぬ結果を導くかも知れぬといえども、それらの行為は、かの悪名高き「市場の見えざる手」、すなわち、自由市場イデオロギーの基本前提によって秩序良く統制されているとの思いこみは、依然として生き続けていく。」
P202 「伝統的な近代主義パラダイムに、なおも囚われつづけている人びとは、自分を正統的に<知っていると想定された主体>の位置へ引き上げてくれる力を持った者,何らかの方法でみずからが選んだ選択肢を保証してくれるような新たな媒介者を、どんな手を尽くしても探し求めようと躍起になっている……。」

P208−209 「もし、公空間で(「父権制的」な)象徴権威が凋落していく事態の代償が、より一層強力な隷属状況をもたらす「激しい愛着」によって支払われて(あるいは、補填されて)いるのだとしたら、どうなのだろうか——ちょうどレズビアンのSMカップルが、その<主>/<奴>関係について厳格かつ厳密に設定したプレイを通じ、次第にパートナーシップを深めていくさまに象徴されるように。……われわれが取り組まねばならないのは、むしろ、パートナーシップを築くために<主>/<奴>という形式が自発的に取り入れられ、そのことが底知れぬリビドー充足をもたらすように変容するという、真正なるパラドクスの方なのだ。」
※主と奴の関係性はそのままにした、ルール変更の問題にリンク。
P210 「ヒステリー症において、欲望を満たすことの不可能性は、満たされないことへの欲望、つまり、欲望それ自体は満たされるままに維持し続けることへの欲望に再帰的な転回を遂げる。」

☆P239 「主体は、大文字の<他者>がもはや存在しない事実を喜ばしきこととして受け容れるどころか、まるで反対に、この<他者>が機能不全におちいり、まったくもって無力な不能者となってしまった点を咎めだてるのだが、そのさまはあたかも大文字の<他者>の非存在という事実自体がすでに立派な失態であり、不能者ゆえに効力を及ぼしたくとも果たせずにいることなど弁明の理由にならないとでも言わんばかりである——大文字の<他者>は、みずから何ひとつ為しえなくなった事実そのものについて責任をとらなくてはならないのだ。主体の構造が「ナルシシズム的」になればなるほどに、主体がますます激しく大文字の<他者>を責めたてるようになり、その結果として大文字の<他者>に依存している自分の存在を愁訴する。「不平の文化」の基本的な特徴とは、大文字の<他者>へ向けて呼び声をあげ、介入の手を差し伸べ、物事の道理をとりもどすように訴える点にある——それがいかに解決されるべきかについては、ここでもまた、倫理・法分野の各種「策定委員会」に依託されている課題に他ならない。」
※乳児の状態と共犯関係。本当に権力の服従者なのかどうかもわからなくなってくる。

p248−249 「ここで強調されるべきパラドクスは、まさにこの<道徳法則>によって当然のごとく賦課される<禁止>の性格のなかに存している。<禁止>とは、そのもっとも基本的な性格において、<法>に抵触する恐れのある実定的な行為の遂行を差し止める力なのではなく、「実定することのかなわぬ」<法>と、すでに実定されている象徴的な命令や(あるいは)禁令との混同を戒める禁止、すなわち、いかなる種類の実定規範をもってしても、唯一の無二の法としての地位に就かせてはならないという自己に向けられた禁止なのである——結局のところ、<禁止>が意味しているのは、<法>そのものの座する場は、いつまでも空虚な状態のままにしておかなくてはならないという命令なのだ。」
P250 「われわれがカントを精神分析の用語をもって読み解くのであれば、自己創出された規制と、その規則の根底に横たわっている<法>との裂け目とは、われわれが(前意識であることを意識しつつ)服従する規則と無意識としての<法>との相違に他ならない。<無意識>とは、そのもっとも本質的な性格について見るならば、法にとって許し難いゆえに「抑圧されている」欲望の豊饒なのではなく、あらゆるものの基盤に据えられた<法>そのものであるという見解こそ、精神分析が教える解釈のイロハなのだ。」

P259-260 「その相違点をいくぶんか簡素化して説明してみるならば、伝統的な切除行為は<現実なるもの>から<象徴なるもの>へ向かう移行をはたしていたが、ポストモダン的な切除行為の方は<象徴なるもの>から<現実なるもの>へ逆方向に移行しているのだと表現しうる。……言いかえるならば、今日の「ポストモダン」的な身体切除は、象徴的な去勢の刻印となるべく機能しているのではなく、それとは正反対の意味——社会的・象徴的な<法>への服従に対し、身体的な抵抗を試みていることを示している。」
P278 「そのような状態にあって、なおも「ラディカル」な存在であることを 望むのであれば、われわれは遅かれ早かれ、根源的な<悪>あるいは悪魔的な<悪>の誘惑する、妄想と欺瞞に彩られた甘美な世界の魅力に抗いきれず、その懐に堕ちてしまうことになる——そのような状況を脱するための唯一の方法とは、倫理的な行為の領域と<善>とを毅然として分離し、完全に別個になるまで引き裂き続けることである。」
P291−294 ラカンのふたつの死の狭間の議論に関連して…超自我の快楽、怪物めいた<もの>、享楽の機械的なものと、不死の次元から逃れようとする試み。「愉楽をつかさどる愚かしき超自我的な死への衝動から抜けだす唯一の方法は、幻想を走査するという破壊的な次元における死への衝動を選び取り、わが身に完全に受け容れることである。」

(考察)
 ジジェクの批判は、端的に言えば、資本主義的考え方と共振する(=2つの目的の異なるはずだったものが同調する)「激しい愛着」に向けられている。しかし、それは全面的なものといえない。彼の言い分は感覚的にはよくわかるものの、実際何を言いたいのか、どのような方向性をもっているのかをまとめるとなると私には十分に説明できそうにない。ただ、あえて一番腑に落ちている説明を挙げれば、「想定できる資本主義への同調の可能性を全て否定してみせる」ということになるだろうか。これはドゥルーズガタリも行っていたが、精神分析な見方を用いながら、なぜ共振を避けることが困難なのかを、深くまで掘り起こそうとしている点が大きく異なるといえるだろう。ただし、この説明は、否定でしか定義できない「方向性なき方向性」である。
 とりあえず2回に分けて、ジジェクを読むためのいくつかの切り口を提示しながら、考察を加えていきたい。なお、どちらの本を引用したかは便宜上、「1、2」ではなく、「上、下」としておく。


○2つの「主体」像の設定
 ジジェクは本書で一貫して、2種類の「主体」を定義している。上p180の説明にはじまり、「衝動と欲望」(下p98−99)や「<悪しきもの>と<更なる悪しきもの>」(下p294)といった形で対比させる。どちらの主体も上p277−278、上p279のような普遍的なものと個別的なものとの間にある「裂け目」であることは変らず、個別な事象だった問題がメタファーとして(一種の変形を伴いながら)機能し、普遍の次元に還元されていく(上p364)。問題はこの普遍化が資本主義的なものと共振しているのかどうかである。
 ジジェクハイデガーのナチズム支持の議論を再解釈し、ナチ運動の中に「内なる偉大さ」を感じてしまったのは仕方ないことだったのではないかととらえる(cf.上p28-29、上p375-376)。我々もまたそのような擬似的<出来事>と本物の<出来事>を混同しかねない状況にあるとする。このために我々は「幻想を走査し」なければならないのだと主張し、資本主義から距離を置く「主体」を支持する。


○この「主体」は個に向かっているのか、それとも集団に向かっているのか?
 カントを支持するジジェクは一方で個別的な「主体」を支持する。下p69などに見られるように、議論の的となっているのは、個人が自身を律するための内的な<道徳法則>と「外的」な社会規範であり、この<道徳法則>を放棄する形で社会規範を求めようとすることに対して疑義を提出する。しかし、個々人がそれぞれに固有の<道徳法則>を持つ状態も望ましいと考えているとも言い難い。

 「ポスト・ポリティクスが未然に防ごうと躍起になるのは、まさしくこのような特殊な欲求が、メタファーの力で普遍性を纏ってしまう事態である。ポスト・ポリティクスは専門家集団、ソーシャル・ワーカーなどを駆使して巨大な装置のように動員配置し、ある特殊な集団によって提出され社会全体に波及しかねない欲求(不満)が、単なる当事者限りの要求に留まって個別的な意味しか持たないように枷をはめ枠で囲ってしまうのである!」(上p364)

 この記述からは、個人的な<道徳法則>が個人で完結することは、むしろポスト・ポリティクスに都合の良い結果となってしまうことが指摘される。そうするなら、個々の<道徳法則>は支配的(<善>)な規範とは異なる倫理的な行為領域として機能させながら(下p278)、一定の行為領域の合意を伴う集団性も必要であることが必須となるといえないか。このような集団はネグリのいうマルチチュードによる<共>のような領域ともいえるかもしれない。それでもジジェクは基本的に集団ありきの議論をしているというよりは個人に立脚した議論を進める。


○「享楽せよ!」といった働きかけへの批判は文字通りそのような「語り」に対する批判か、それとも「法」に深く入り込むものか?
 ジジェクがよく批判を加えているのは、享楽(ジュイサンス)を追求するべきである、と「社会」が語りかけることに対してだ。例えば、上p394では、上層階級の人間と貧困層の人間がグローバルな世界に投げ入れられている状態に対して、その越境性について賞讃することが全く違う意味合いを持ちうることを指摘している。この例えは少々極端ではあるが、基本的には、私自身が「自発性」を強調する一部の論者に対して違和感を覚えたのと同じく、そのような「今を楽しめ!」という要求が支配的イデオロギーに組み込まれることへの危惧であるといえるだろう。
 しかし、ジジェクが批判を加えるのは単純にこのような言説が語られる際の問題といえるだろうか?おそらくはそうともいえないのではないかと思う。この主張は「法」に対しても有効である(注1)。「法」はこれまで模倣論で議論してきた我々が従うルールそのものだ。我々はこの「法」に対して了解するにせよ、それが意識しているものか、無意識に了解しているのかわからない。要は「法」に対する懐疑を持つことをジジェクは指摘していることとなる。
 では、「法」を徹底的に懐疑せよと言っているかといえば、そうではない。内なる「法」に従うべきという主張をしている以上、この「法」遵守は全否定されない。問題とされているのは、「根源幻想」(cf.下p70)のマゾヒズムが欺きの役割を演じることについてである(下p71)。ここではマゾヒズム的な快楽の問題も挙げられているが、ジジェクはそのような快楽が本質ではなく、むしろ存在そのもの問題としてとらえている(下p71)ここでの「存在」という言葉は昔ネグリの「<帝国>」をレビューした際に私が違和感を覚えていたと書いた「存在論」の話と同じであると思っている。ラカンの言う欲望というのは、決して達成されることのない欲望である。もしわれわれの「存在」したい欲望があるとすれば、現に「ある」ことはある意味虚構であるにすぎない。これは我々が実際にこの世界に生を受けているという意味での「ある」とは異なるものとして考えられている。しかし、「ある」ことが前提にされた上での語りがされる状況について、それがマゾヒズムの根本には潜んでいることをジジェクは指摘し、批判を加えるのである。「快楽」を問題の要点とし、それを徹底的に避けること、禁欲でいることが問題の解決になる訳ではない。その禁欲もまた過剰であれば快楽へと転じてしまうのである(注2)。


○真の左翼を語るジジェク…高橋の議論に関連して
 4章において、ジジェクは左翼運動の主調を主張しなおすことの重要性を指摘する(上p397)。
 「法」への固執、そして大文字の<他者>というマスターの要求といった話は、高橋が指摘した体験選択の負の効果である「屈折した帰還」の話に一致するだろう。「法」への固執やマスターの要求はどちらも「閉じた」状態として解釈することができる。ジジェクもまたこの閉鎖性に対して批判していることとなり、これに関連して語られるのが「真の左翼」思想であると思われる。「法」を宙吊りにすることこそ左翼の考え方なのだ、ジジェクは強調する。

 しかし、ここで改めて閉じた状態が何故駄目なのだろうかを問いたい。ジジェクの主たる答えはそれがファシズム的なものに通じているからだという。そして、ジジェクによれば、p389に見られるように、資本主義を支持する者はこのことを「盲目的に」承認しているかのように語る。
 確かにこの問題の根底にはいかに多文化主義を語ろうとも、「均質化」された我々の生き方が設定され(上p389)、我々がそのような生き方を望もうが望むまいがその均質化へ向かうような動きに回収されているといえるだろう。
 しかし、この盲目性、および均質化の問題視は絶対的なものとはいえないだろう。前者についていえば、あえて資本主義を選択するというアクターが一定程度いるように私には思えるからである(私がそうという訳ではないが)。積極的にこのことを議論している者がいれば参照したいが、私自身このことを体系的に論じている者を見つけられていない。後者については、確かに一種の「永続性」から見ればファシズム的な状態を危惧すべきだが、もしそれが「平等であること」の対価と呼べるものであるなら、明確に否定できるようにも思えない。

 この問題は次回も議論が進められそうなら掘りおこしたい。次回はジジェクのとらえる「主体」に注目しながら議論をすすめたい。

(注1)ただし、この論点については、ジジェクの議論から直接は引き出すことができなかった。恐らくはそのような示唆をしている部分もどこかにあるのではないかと思う。
(注2)高橋の議論していた贈与の話にとてもよく似ていると思う。幻想を走査することは、贈与が交換へと転じることを避け続けることと同じ根、つまり「贈与が贈与であると認識しない」のと同様、「欲望を欲望であると認識しない」ことが求められているといえる。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★☆
おすすめ度:★★★★☆