メラニー・クライン「メラニー・クライン著作集2、4」

 今回は謎だと言っていたクラインです。クラインの著作集は1巻と2巻、4巻を読みましたが、2巻と4巻が彼女の精神分析の手法を理解する上で重要だと感じました。どちらかが欠けるとよくわからなくなるので、両方レビューの対象としました。

(読書ノート2巻、訳書1997)
p123 神経症を子どもの発達の中でなからず見られるものととらえる。
P114 「食事習慣の非常に顕著な障害や、とりわけ夜驚症やあるいは恐怖症の形態であれ、不安の顕在化は、一般に明確な神経症的な現れであると認識されている。しかし幼い子どもの観察は、不安は非常に多様で偽装された形態をとり、2〜3歳の早期の年齢においてさえ、抑圧の非常に複雑な過程を示す修正された不安を示す。」

P156 「分析家に馴染みの深い、多量の尿によって洪水を起こしたり破壊したりする幻想や、もっと一般的に知られている火遊びとおねしょの関連も、排尿に付着したサディスティックな衝動の、単にもっと視覚的な、あまり抑圧されていないサインである。……これらの尿道期的なサディスティックな幻想は、男根に残酷な道具の無意識の意義を与えたり、男性における性的能力の障害をもたらすことに基本的な関与をしている。」
P158 「さらに早期分析において、私たちは口唇期的欲求不満は、両親が相互的な性的快楽を楽しむという無意識的な知識を生じさせ、その性的快楽が最初は口唇期的なものであると観念を生じさせるということを見出した。自分自身の欲求不満の圧迫の下で、子どもはこのような幻想に対して羨望でもって反応し、交替に両親に対する憎しみを再強化する。……フロイトは、子どもの性的理論は系統発生的な遺伝であることを示した。そして言われていることは、それ以上に、私には両親の性的な交渉についてのこの種の無意識の知識は、それに関連した幻想とともに、すでにこの非常に早期の発達の段階に生じるように思われる。口唇期的な羨望は、両方の性の子どもを、母親の身体に対して向かって行くようにして、それに伴った知的願望を起こさせるような動機となる力の一つである。しかし、彼らの破壊的な衝動は、母親に対して向けられることを止めて、父親にまで拡大される。なぜならば、子どもは父親の男根が母親によって口唇期的性交のときに合体され、彼女の内部に残存すると想像し、それで母親の身体に対する攻撃は、内部にある父親の男根にも向けられる。」
※問題は、2者関係に内包される3者関係の存在を、子どもは見抜くことができるのか、という点。

P160 「また子どもは、危険な武器であると感じられている彼らの性器や排泄物によって、両親がお互い破壊し合うという幻想を抱く。これらの幻想は重大な影響を与え、非常に多彩なものである。つまり母親の中に合体された男根が危険な動物に変わったり、爆発物を積んだ武器に変わったり、膣も、危険な動物や毒を仕掛けたネズミ取りなどのように、死の道具に変わったりするという観念を含んでいる。」
※クラインは子どもの乳房に対するサディズムと、排泄物におけるサディズムを同一視・統合してしまう。更にはこれを、性交におけるサディズムとも結びつけてしまう。

P174−175 「排泄物は今では毒物を表し、そして幻想の中では、子どもは排泄物を、対象に対する迫害的な機関として使い、秘密裏にこっそりとある主の魔法によって排泄物をそれらの対象の肛門や他の身体の切れ目に押し込み、そこに残しておく。結果的に、子どもは自分自身の排泄物を、自分の身体に危険で害のあるような実体よして怖がりはじめ、対象の合体された排泄物を恐れる。」
P175 「そして、尿道期的なサディスティックな衝動の結果、子どもがまた尿を何か危険なものや、燃やしたり切ったり毒の害を与えるものと考えるという事実は、子どもが無意識に男根をサディスティックな危険とみなし、自分の中にある父親の危険な男根を恐れる準備をさせる。」
P177 「私の見解によると、取り入れられた対象に対する子どもの恐怖は、外界に対してその恐怖を投影するように駆り立てる。これを行うにあたって、子どもは器官と排泄物と事物のすべての様子を等価にし、同様にその内的な対象を外的な対象と等価なものにする。そして子どもはまた、外的な対象に対する恐怖を、対象をそれぞれ等価物にすることによって、多くの対象に分配する。
 多くの対象に対するこの種の関係は、部分的には不安に基づいているが、対象との関係性と現実への適応の確立においてさらなる前進である。なぜなら子どもの本来の対象関係はたった一つの対象しか含んでいないからである。つまり彼の母親を表象している母親の乳房である。しかし、幼い子どもの幻想の中においては、これらの複数の対象は破壊的リビドー的な傾向や目覚めつつある知識に対する願望の主な目的であるその場所——つまり彼の母親の身体——に置かれている。サディスティックな傾向が増大し。子どもが幻想の中で母親の身体の内部を所有するにつれて、母親のその部分は対象の表象になり、同時に外的な世界と現実を表象する。もともと、〔母親の〕乳房によって表象されていた〔子どもの〕対象は、外的な対象と同一のものである。しかし、いまや彼女の身体の内部は、より拡大された意味における対象と外的世界を表象する。なぜならば、彼の不安のより広範な分布のために、母親の身体はより多種の対象を含んでいるような場所になっているからである。」
※母親のお腹の中にはいろいろなものが入っていると考えた症例に準じる。

P182 「私たちが知っているように、そしてアブラハムが指摘したように、子どもの対象関係の性質と性格形成は、その優勢な固着点が口唇期的吸乳の段階か、あるいは口唇期的サディズムの段階にあるかによって、強く決定されている。私の意見では、この要素は同様に超自我の形成に決定的なものである。優しい母親の取り入れは、友好的な父親の対象表象の形成に影響を与える。それは乳房を男根と同等化するためである。」
※乳房と男根の同等化自体はアブラハムの引用がある。ただし、これがどれくらいの時期の子どもに見られるようになるのか、の論点は抜けている。

P197 「子どもの罪悪感は、その尿道期的あるいは肛門期的サディズム傾向と結びついているが、サディズムの活発な段階において、それが子どもが母親の身体に対して行う幻想上の攻撃から引き出されることを私は発見した。早期分析においては、子どもが、母親から盗み出した排泄物と子どもを返すように要求する悪い母親に対する恐怖を知ることになった。それで子どもに対して清潔にするように要求する実際の母親(あるいは乳母)は、ただちに恐怖の人物に変る。つまりその排泄物を子どもに諦めるように主張するが、その恐ろしい想像が子どもに教えるように、強制的に子どもの身体を裂いて、そこから排泄物を取り出そうと意図するような人物である。」
※ここでは基本的には退行現象の存在を前提にしている。クラインの議論においてはこの退行はあたりまえのものである。つまり、退行現象として観察されるおねしょによって、その人のサディスティックな幻想は現象が起きた以前においても、子どもの中で抱かれていたものであったとするのである。
 サディズムによる記憶の断片化、および再統合というのは、認めてよい(これは基本的に悪い模倣であり、溶解体験である)。ただし、問題なのは、その断片化と再統合が「いつ」行われたのか、という問題なのである。クラインはこれを乳児期(口唇期から肛門期にかけての時期)からあったと指摘しているのであるが、私はそれを認めない。もっとあとの時期になってからではないだろうか(少なくとも、1歳の中頃以降)と考えるのである。この論点は、個人的無意識と社会的無意識の違いを考える上でも重要。
 しかし、乳児期などの記憶が我々には想起できないのはなぜなんだろうか?これが今あるような記憶の仕方で乳児期を過ごしていなかったから、といった説明は可能である気がする。

P288 「少年の幻想の中では、彼の母親は父親の一つの男根あるいはむしろその幾つかを、彼女の中に合体する。彼の現実の父親——あるいは、より正確には父親の男根——との関係と並行して、彼は幻想の中で、母親の身体の中にある父親の男根との関係を発展させる。」
P288 「母親の身体から、父親の男根や排泄物、子どもを強制的に手に入れることは、報復の強い恐怖を生じさせる。奪うことに加えて、母親の身体の内部を破壊してしまったことが、さらに母親に対する非常に深い恐怖の源泉になる。そして彼女の身体に対する想像的な破壊がよりサディスティックであればあるほど、対抗者としての母親に対する恐怖がより強くなっていく。」
※これらの議論もまた、乳児にまで退行させて議論しようとする。ここで乳児は、母親の中にある父親の男根を理解できる人間となっている。これは正しくは、母親のもつイマージュとの対話ができるということであるが、そんなことができるのだろうか?このことは彼が母親の望むように振舞う能力を持っていることと同等である(これが母親から所有物を奪う行為を意味している)。
P294 「私が示そうとしてきたように、母親の身体も父親の男根を含んでいるという子どもの確信は、‘男根を持った女性’の観念に導く。母親が自分自身の女性的男根を持っているという性理論は、幾つもの危険な男根に満たされ、危険な性交をしている両親で満たされている場所としての母親の身体に対する、もっと深層にある恐怖の置き換えによる修正の結果であると私は考えている。‘男根を持った女性’は、父親の男根を持った女性であることを意味していることを私は言うべきである。」
P354 伝統的なフロイトの分析は言語的なものであってが、クラインのプレイセラピーはそのような言語を介さないものから無意識的な意味を理解しようとする技法であり、その点画期的といえる(訳者解題より)。

(謎解釈集)
p45−46 「彼女(※エルナ、6歳)がこれらの魚を切り刻んでいるときに、彼女は突然便意を催した。そしてこれは魚が排泄物と同等化されていることを表し、一方でそれらを切り刻んでしまうことは、排泄行為と同等のものと見なされていた。」
p201 「しかし彼(※ジョーン、5歳)は、まったく同じ場所にそれら(※おもちゃ)を戻すことができるために、それらが以前どこにあったかを正確に知りたかっただけでなく、おもちゃの数を確認するために何度も何度も数えた(つまり大便の断片、父親の男根、子どもたち)。」
p210 「母親の内部の男根や排泄物、子どもの性質や大きさ、数についての情報を得たいという、強力で満たされることのない根源的な子どもの願望は、計測したり、加算や数を数えることなどの強迫に変ってしまった。」
p235 「女の子が父親の男根に願望の対象として向かうときには、幾つかの要素がその強さを決定する。彼女の口唇期的吸乳衝動の要求は、母親の乳房によって苦しめられてきた欲求不満によって高められるが、乳房と違って、父親の男根を終わることのない口唇期的な途方もない喜びを彼女にもたらすことのできる器官として、彼女の中に父親の男根の幻想的な図を作り上げる。」
p235注 この議論はドイッチュの話をクラインが再解釈することによる…「私の意見では、早期の男根と乳房の同等化は、早期の子ども時代に乳房から苦悩を与えられた欲求不満によって導入され、同時に彼女に強力な影響を与え、彼女の発達の全体的な傾向に大きな影響を与える。私はまた、乳房と男根の同等化は、実は‘上部から下部への置き換え’をともなっているが、早期において女性器の口唇期的で受容的な特質を活性化し、男根を受け入れるよう膣を準備させると考えている。」
p320 「彼(※B氏、30代半ば)の同性愛的態度は次の事実によって非常に強くなった。つまり、彼は人生の非常に早期に——だいたい彼の1歳頃——彼の2歳上の兄であるレスリーによって誘惑されたという事実である。彼のフェラチオの行為は、これまで飢餓状態にあった口唇期的吸乳の願望を満足させたので、この出来事は男根のい対して彼が過剰に固着する結果になった。
※基本的に口唇期的吸乳の話などが女の子の場合と同じようにたどった、という説明をする。
P321 「彼は‘悪い’男根に対するサディスティックな衝動を、この兄(※もう一人の、4歳上のデービッド)に対して表出した。この兄に対しても彼は、早期幼児期に性的関係を持っていた。そして同時に、その兄を危険な父親の男根が含まれている危険な母親とみなしていた。彼の兄弟は、わかると思うが、彼の父母の代理であった。」
※誘惑したこと、性的関係にあったことの具体的な記述がない。どのようなことをもってそう解釈したのかわからない。もし、それを認めるにせよ、それが乳児期のものとはいえないのではないか。
P325−326 「このようにして、男根を修復する彼の能力に対する信念は、彼の精神的な安定性の基礎でもあった。以下のことは彼に起きたことである。つまり数年前に、彼の愛するレスリーが探検旅行の途中に命を落としてしまった。彼の死は、B氏に非常に深く影響を与えたが、彼は精神的に破綻はしなかった。彼はこの打撃に耐えることができた。なぜならば、それは彼に罪悪感を起こさせず、彼の建設的な万能に対する確信をそんなに強く損なうことはなかったからである。彼にとってレスリーは、魔術的な‘良い’男根の所有者であった。そしてB氏は、彼に対する信頼と愛情を代理者としての誰かに転移することができた。しかし、いまや彼の兄のデービッドが病気になった。B氏は、彼の病気の間、彼に心を砕いた。そして彼に対する強力で好ましい影響の行使によって、彼の回復をもたらすことを望んだ。しかし彼の望みは絶たれ、デービッドも死んでしまった。」
※転移が可能であったこと、はそもそもレスリーへの愛情も転移であることから説明可能なものとなってしまう。


(読書ノート4巻、訳書1985)
p9 「欲求不満と不安の状態で、口愛的サディズム的食人的願望はさらに強化されるが、そうなると乳児は、乳頭と乳房を粉々にして取り入れたように感じる。したがって、幼い乳児の空想のなかでは、良い乳房と悪い乳房の分離にくわえてさらに、口愛的サディズム的な空想のなかで攻撃をくわえられた欲求不満を引きおこす乳房が、断片化されたものとして感じられる。その一方で、〔母乳を〕吸い込むリビドーの支配下で取り入れられる満足を与えてくれる乳房は、完全なものとして感じられる。この最初の内的な良い対象は、自我の焦点として働く。またそれは分裂と消散の過程に対抗して、統一と統合の方向に向かうように働き、自我の形成を助ける。しかしながら内部に良い完全な乳房を持っているという乳児の感情は、欲求不満と不安で揺がされる。その結果、良い乳房と悪い乳房を分離したままでいることが困難になり、乳児は良い乳房もまた細分化しているように感じるだろう。
 自我が内的対象、外的対象それぞれを分裂させることは、自我の内部にそれに対応する分裂が起こらなければ不可能であるように思われる。それゆえ内的対象についての空想と感情は、自我構造に重大な影響を与える。
※乳児に形成された内部の良い完全な乳房は外部のそれと関連を持つものになるといえるのだろうか?これは観察者から見た物言いでしかないのでは?乳児はその内部の良い乳房と実際の乳房の区別が付けられているといえるのか?そのための記述はない。

☆P11−12 「空想のなかで母親になされる猛攻撃には、主として次の2つの場合がある。1つは母親の身体のなかにある良い乳房を吸いつくし、噛み砕き、えぐり、奪い取るといった口愛衝動が顕著な場合である。もう1つは攻撃が肛門的および尿道的衝動から生じ、危険物(排泄物)を自分のなかから追い出し、母親のなかへ追いやろうとするものである。憎悪をもって追放されたこれらの有害な排泄物と共に、自我の分裂排除された部分もまた、母親の上に投影されるというよりはむしろ、母親のなかに投影されるというべきだろう。これらの排泄物と自己の悪い部分は、対象を傷つけるばかりか、対象を支配し対象を手に入れることにもなる。母親が自己の悪い部分を含み持つ限り、母親は分離した個体として感じられず、むしろその悪い自己として感じとられる。」
p12注 「このような一次過程を記載する時、大きなハンディキャップに悩まされる。なぜならこれらの空想が生じるのは、乳児の未だ言語で思考する以降の段階であるからだ。このような状況であるため、たとえば「もう一方の人のなかへ投影する」といった表現を私は用いる。なぜならばこのような表現こそ、私が記載しようとしている無意識の過程を表わす唯一の方法と思われるからである。」

p14 「自我と内的対象を分裂させるさまざまなやり方から、自我が細分化してしまうという感情が生じる。そしてこの感情は解体の状態にまで達する。ただし、正常な発達で乳児が解体を他見するのは一過性にである。別な諸要因のなかで、とりわけ外的な良い対象から与えられる満足は、再三再四にわたってこれらの分裂的状態を切り抜けるのを助ける。一時的な分裂状態に打ち勝つ乳児の能力は、乳児の心の強力な柔軟性と弾力性に一致している。自我が分裂とその結果生じる解体に打ち勝つことができなくて、余りにもしばしば、そして余りにも長くそのような状態が続く場合には、私の見解によれば、それは乳児における精神分裂病性疾患の徴候とみなさなければならない。そのような疾患の何らかの指標は、生後数ヶ月の間にすでに見いだせるといえよう。患者が成人の場合、離人状態と精神分裂症性の解離は、このような乳児期における解体の退行と思われる。」

p17 「分裂的な対象関係におけるもう一つの典型的な特徴は、乳児の取り入れと投影の過程からひき起こされる自己愛的な性質である。私がすでに示したように、自我理想が他の人物のなかに投影されると、その人物は自己の良い部分を含むことになることになるために、もっぱら愛され賞讃される。同じように、自己の悪い部分を他の人物のなかに投影することに基礎をおくその人物との関係もまた、自己愛的な性質を帯びている。なぜならばこの場合にも同じように、対象は自己の一部を強く担っているからである。同一の対象に対する2つの型の自己愛的な対象関係は、いずれもしばしば強度の強迫的な特徴を示す。周知のように、他の人びとを支配しようという衝動こそ強迫神経症の本質である。他の人びとを支配しようとする欲求は、自己の部分を支配しようとするゆがんだ欲動として、ある程度説明できるだろう。他の人びとのなかにこれらの部分が過剰に投影されると、投影された部分はその人びとを支配することによってのみ支配されうる。このようにして強迫的機制の一つの根源は、乳児の投影過程から生じる特殊な同一視のなかに見いだされるだろう。」
※分裂的な状況と、他者の支配の欲求が一致する状況の想定…すでにそこには、分裂的な状態はないともいえる?

P50 「私の見解では、幼児の喪失に対する恐怖のこれら主な2つの源は次のようなものと思われる。すなわち1つは子どもが自分の欲求の満足と緊張軽減のために母親に完全に依存しているということである。この源から起こる不安が客観的不安と呼ばれるものであろう。その他のもう1つの主な不安に源は、幼児のサディスティックな衝動によって自分の愛する母親が破壊されてしまったか、あるいは破壊されるという危険にさらされるという幼児の心配から起こるものである。」

P61 「精神分析の手技が患者の無意識の中にはいり始めるにつれて、患者の過去が徐々に再生されていく、ということこそが精神分析の手技に特有なのである。そこでは、幼児期の体験、対象関係、そして情緒を転移させたいという患者の願望が強化され、それらは精神分析家に焦点化されるようになる。このことは、患者が幼児期における状況で使っていたと々防衛機制を使って、再び活性化された葛藤と不安に対処していくことを意味する。」
P63—64 「生後4ヶ月から6ヶ月の間にこうした感情(※悪い乳房に対する攻撃衝動と願望とが良い乳房に対する危険として感じられるようになる感情)は強化される。というのは、この段階において幼児は徐々に母親を一人の人間として知覚し取り入れるようになるからである。そして、抑うつ的不安は強化される。というのは、幼児は、自己の貪欲さと制御出来ない攻撃性で対象全体をこれまで破壊してきた、あるいは破壊していると感じるからである。さらに、自己のさまざまな感情を徐々に総合することによって、こうした破壊衝動が最愛の人に向けられていることを、幼児は感じるようになる。そして同様の過程が父親および他の家族成員との関係においても働く。こうした不安とそのための防衛が‘抑うつ的態勢’を作り上げ、それは生後1年の中頃に最高頂となる。そして、その本質は最愛の内的および外的対象の破壊と喪失に関係する罪悪感と不安である。」

P102 「早期のエディプス段階にみられるもう一つの側面は、幼い幼児の心の中で母親の‘内’と自己の‘内’とが果たす重要な役割と強く結びついている。破壊衝動が優勢だった前の段階(妄想的—分裂的態勢)では、幼児は、母親の体内に入り込みその内容を我が物にしようという衝動に駆られる。このような衝動は口唇期的、肛門期的なものである。そしてこの衝動は、それに引き続く段階でもなお活発に働いているが、性器期的欲求が強まると、よりいっそう父親のペニスに対して向けられる。幼児は父親のペニスは母親の体内に含まれていると感じる。同時に口唇期の欲求も父親のペニスに向けられ、それによって父親のペニスは内在化される。」

P128 「一部の赤ん坊は、哺乳びんが用いられるようになるときに強い不満の感覚を体験する。彼らはそれを最初のよい対象の喪失のように感じるし、また、‘悪い’母親によって課せられた愛情の剥奪として体験する。」
P129 「別な赤ん坊たちは、これほど腹を立てないで新しい食物を受け入れる。このことは、剥奪に対してもっと大きな現実的な耐久力があることを意味している。つまりそうした耐久力は、ただ見かけ上この剥奪に屈服してしまうのとは違う。むしろ母親に対する比較的安定した関係から生まれるものであり、乳児は母親に対する愛情を維持しながら、この新しい食物(および対象)に向かうことが可能になる。」
※母親の配慮がないと、うまくいかない?耐久力とその配慮の直接的連関を認め、それ以外の可能性には否定的?

P153 「つまり、私の結論はこうである。哺乳びんもうなりごまも、母親の乳房を意味している。そしてまた、うなりごまが分解したとき、この出来事は彼に母親の乳房の破壊ひいては母親の身体の破壊をも意味していた。こう考えると、うまりごまが壊れたことに対する彼の不安、罪悪感、悲嘆の情緒を説明することができる。
 私は、壊れたうなりごまと、壊れたコップ、そして哺乳びんを結びつけて考えたが、実はもっとより早期の結びつきを考えなければならない。……したがって、壊れたコップやグラスに対する不安は、彼の怒りと破壊的衝動に対する罪悪感の表現であり、本来それは、母親の乳房に向けられたものである。したがって、象徴形成によって子どもは、乳房からおもちゃ、哺乳びん——グラス——カップ——うなりごまという一連の対象に彼の興味を置き換え、さらに、人間的な関係や怒り、憎しみ、迫害不安、抑うつ不安、罪悪感などの情緒を、これらの対象に転移したのである。」
※欲望論的は、転移が発生することが重要であるが、クラインは別の所で欲望論と離れている。

P184-185 「母親の乳房との最初のかかわりにおいておこる攻撃的な衝動と幻想は、たとえば乳房を吸い上げて空になるまで吸いつくしてしまうといったものだが、これは間もなく、母親の中に入り込みその身体内容物を奪い取るといった幻想にさらにつながっていくことがわかってきた。と同時に幼児は、その排泄物を母親のなかに押し入れることによって彼女を攻撃するという衝動と幻想を経験する。このような幻想においては身体の生成物と自己の諸部分は分裂・排除されて、母親に投影され、彼女のなかで生存しつづけるものと感じられる。この幻想はすぐ父親や他の人間へと拡大する。私は、こうした経緯から、口唇的、尿道的、肛門的な各サディズム衝動から発生する被害的不安と報復への不安とは、パラノイア精神分裂病の発展に基礎である、と主張してきた。」

(考察)
 これまで、クラインの精神分析の議論は深入りをせずに行っていたが、この著作集を数冊読む中で基本的な概念と体系理解のための、十分な説明はあったように思う。逆に、これまで読んできたクラインの解説や引用というのが断片的であり、説明が不十分だったとも言える。彼女の提出する概念は退行にはじまり、投影・転移、サディズムの出現とその統合といったものをトータルに理解しないと、意味をなさないように思う。

 フロイトも同じではないかと思うが、クラインを理解するキーワードの一つとして「無矛盾性」が挙げられるだろう。明確な状況証拠がない中で加えられる説明というのが無矛盾であることで、立証とする方法である。ここにはもちろん、実証性が不十分にならざるを得ない、そして実証自体が難しい分野を扱っているという前提を含んでいる。
 クラインは早期オイディプスの議論を行っており、オイディプスの発生をフロイトのエディプス期よりもはるか前(抑うつポジションの形成期、生後6ヶ月だとか1歳だとかいう)にあることを提示しようとする。エディプス期(フロイト的には、3歳以後)以前において、エディプス的な状況(欲望の三角形、そして『三者関係』の形成)が発生することは示されると言っていいと私も思うが、これを1歳未満のレベルにまで巻き戻す点については反対である(し、クラインは説得力のある説明をしているとは思えない)。

 クラインの議論する諸概念から、それを検討してみよう。まず「退行」についてである。ドゥルーズの「意味の論理学」でのクラインの引用及び主張そのものにもリンクするが、基本的に妄想—分裂ポジションと抑うつポジションの発生は1回きりのものであり、それ以後の精神異常は、その最初の発生の繰り返しにすぎないと主張される。ライフステージのどの段階に精神異常が発生しようとも、乳児期の症状に立ち帰れるとされるのである。
 退行についての根拠はフロイトにもあっただろうが、これが両ポジションを乳児期まで巻き戻せるような形で立証していたかは知らない。少なくとも、クラインを読む限りでは、両ポジションを乳児期まで退行可能なものとして支持できる証拠はひとつもない。また、クラインは内的・外的という言葉をあまり強く意識せず使用しているように思えるが、そもそも乳児がこの外的なものと内的なものについて十分理解しているのか疑問に思える。これも、乳児にはありえないが、それ以降のライフステージにおいて形成されていたものが、退行現象による説明の上で、隠蔽された形で持ち込まれた概念ではなかろうか。「謎解釈集」で特に見られる性の話もそのような印象である。

 次に、投影やサディズムの統合の話について。クラインは乳児期のサディズムについて、口唇的なものと尿道・糞便的なものを説明する。各サディズムの話自体はさほど大きな問題はない。しかし、クラインは2つのサディズムを統合した形で説明を試みようとしている(2巻p177、4巻p11−12)。ここでは尿・糞便というものが、母親の全体を理解するための手段として用いられている点に注目したい。クラインの欲望論的な議論は最初、良い乳房を求めるところから始まるが、欲望論として見れば、ここでの欲望の対象はあくまで乳房そのものにあり、母親にある訳ではない。乳房という対象から母親全体への統合的理解、という部分には飛躍が見られてしまうのであるが、クラインは欲望論にこだわりながら分析しようとする。そのための手段がこの糞便なのである。乳房から入り込んだ(4巻p12注にあるように、クラインはこれを投影された、と表現する)イマージュとしての糞便は、単に母親を攻撃する手段として用いられるに留まらず、母親の身体全体の理解のための手段ともなる。2巻p174−175にあるように、体の各部分に入り込んだ糞便に対して乳児は糞便が投影される母親の身体も恐怖を介して理解し、母親全体の理解に繋げるのである。
 この説明方法自体はとても面白いが、この統合自体が乳児期に見られる根拠はない。もともとこの議論のきっかけは、(詳しい年齢は忘れたが)幼児が母親のお腹の中に子どもや糞便など、様々なものが入っていると話していたことにある。この状態において確かに幼児は2つのサディズムの統合を行っていることの説明が可能な訳だが、これらのサディズムが存在していたこと、及び両者が統合されたことを退行によって説明可能であるかはかなり疑わしい。仮に口唇的サディズムと糞便的サディズムが個別に観察されようと、乳児がそれらを統合していたと言うことはできないのである(統合の時期はもっと後だともいえる)。

 さて、私の批判のポイントは何かというと、クラインが2者関係の議論の中に3者関係を見いだそうとすること、この点に集約できる。特に気になるのは「男根を持った女性」の議論である。クラインのペニスという用語は、ラカンのいうファルスとどれくらい関連するかわからないが、乳児というのは、母親のもつ男根を母との同一化の中で見いだすこととなり、その男根を奪おうとする(2巻p288)。この男根は父親のそれであるとされるが、これは何を意味しているのか。これは、子−母親という二者関係から父親という三者関係を、母子の一体化から擬似的に見いだしている、ということである。ジラールの議論においても、二者関係から欲望の三角形を見いだすことは可能であり、ジラール自身もこのことに言及していた。

 「性的欲望においては、その欲望を三角形的なものとして性格づけるのにライバルの存在は必要ない。愛される側の存在が、恋する男の視線のもとで対象と主体に二分されるのだ。…あらゆる三角形的欲望と同様、性的欲望もやはり伝染性のものだ。伝染ということは、原型となる欲望と同じ対象を対象とする第二の欲望を必然的に意味する。自分の恋人の欲望を模倣することは、その恋人の欲望のおかげで、自分自身を欲望するということだ。」(ルネ・ジラール「欲望の現象学」、p117)

 母親に見いだされる男根は、父親の実際の男根でもなければ、実際の父親にも直接結びついたものであるとも言い難い。それは母親の中にあるイマージュとしての父親でしかなく、したがって乳児が見いだすのも同じイマージュである。そうすると、母親の中にある別の<他者>の存在を乳児は自覚することができ、自らその<他者>を理解している、ということになる。
 この問題は私が「意味の論理学」で議論していた「個人的無意識」と「社会的無意識」という2つのカテゴリー自体の差異を無効化することになる(だからこそ私はクラインを支持しない、という言い方もできる)。私が「個人的無意識」という形で区別しようとした、個人間の関係性では社会的なものの理解ができない、という主張の批判となるからだ。クラインの議論において、両者は全く同じものとなりうる。このような他者認識が本当に抑うつポジションにおいて見られると考えてよいものか?これについても、過剰な退行現象の説明の中に入るものなのではないかと思う。この点については、発達心理学の話をもう少し読んで確認したい。

○欲望論の扱い方から考える
 4巻p153はシンプルな転移についての説明である。欲望の対象(よい乳房)を獲得できない困難さがこの転移を生むが、クラインは哺乳びんへの転移がうまくいくために母親との安定した関係が必要であるとする(4巻p129)。この辺りでの語りはどうも精神分析的でなく、普通の発達心理学的なもののように感じる部分が強い。ここでは、糞便による統合の議論は無視され、母親の愛情というのが強調されすぎているのだ。このクラインの著作集は巻数が進むにつれ新しい論文が収録されているが、4巻の内容は2巻の内容に比べ生温い印象を受ける。

 この転移現象は、すでに抑うつポジションを経たあとの、フロイトエディプス・コンプレックスの話にあったような内面的な罪悪感による「法」の形成を含んでいるといえる。クラインはフロイトの「法」の形成の話をそのまま引き継いで語っている(cf.4巻p63-64)。つまり、自分が良い乳房を求めることがよくないことであると認識するということである。このことを前提に転移が起こるということは、転移の対象というのが、もともとの乳房を求めることが回避された結果欲望の対象となったという説明となるだろう。
 これはジラールのいう良い模倣の話と考えてよいのではないか。この「法」の形成は、その「法」はもはや侵されることがないという主張を含む。そしてこの「法」は侵されないものの、転移という形をとることで一種の生成を続けることになるのである。そして、悪い模倣というのは、この「法」を冒すことを志向していたはずだ。

 しかし、この議論を欲望論としてしっかり見直すとどうか。このような説明において、何故良い乳房は放棄されたのか?ここにはまず、良い乳房が手に入れられないかもしれないという不安が前提としてある。つまり、良い乳房それに対して攻撃的になっていたことで、その良い乳房が失われるかもしれないという不安が感じるようになるのだという(4巻p63−64、攻撃対象であったものが最愛のものだったという理解)。このため転移の現象は発生するが、別に良い乳房を手に入れることを完全に諦めた訳ではない。良い乳房が良い哺乳びんへと対象を切り替え、グラス、カップ、うなりごまへと切り替わる(4巻p153)。ここの議論のポイントは、良い対象は良い対象であり続けるし、悪い対象も悪い対象であり続けているのだ。破壊的衝動は原点に立ち返る。

 しかし、抑うつポジションにおける受容という問題を考えるのであれば、欲望論に忠実ではないもう一つの解釈が可能ではないだろうか?それは、「良い乳房は悪い乳房と同じものだった」と考える方法である。つまり、良いことと悪いことが両価価値的なものとしてとらえることだ。これは先程の「法」の形成に寄与することのない考え方であり、シンプルに転移することを考えることができないものでもある。いままでにも説明した上位ルールと下位ルールの話を援用するとわかりやすい。上位ルールという「法」の形成は確保しながら、下位ルールは自由に構成可能なものとするのが、シンプルな欲望論的解釈になるが、特に資本主義批判の立場からこのルールの「ずらし」には批判が多かった。しかし、この両価性理解という方法は、「法」の形成に直接寄与するものではなく、「法」の形成を宙吊りにする。このような理解が何を生むのか。両価性を理解した上であえて良い乳房を支持するかもしれないし(結果「法」の形成と同じような状態になる)、両価性の理解で乳房自体に興味をもたなくなり、結果別のものに興味をもつ、という転移とは言い難い説明もありうる。
 この主張を支持する根拠は良いものの代表を乳房に確定させている点からもいえる。なぜ乳房から乳を吸う状態以前に良いものを見いだすことをしないのか?これを胎児としていた状態に遡るような説明がなぜ考えられなかったのか?転じて、分裂的状態のルーツを出生時の乳児の泣き声に求めなかったのはなぜだろうか?欲望論的アプローチは基本的に循環論でしかないが、このような説明もありなのではないか?

 この両者の違いは、次回ジジェクをレビューする際にも改めて考察します。

理解度:★★★★☆
私の好み:★★☆
おすすめ度:★★★☆(入門書などよりもこちらを読んだ方が明らかによいという意味で)