高橋由典「行為論的思考」(2007)

 今回は、作田啓一の「溶解体験」議論の流れを汲んでいる、高橋由典の著書を取りあげます。

(読書ノート)
p4−5 「先ほどもふれたように、体験選択は意図的な選択ではない。この選択はふつうの意味での選択(行為選択)を行おうとするときには、いつでも「すでに終わってしまった選択」(選択以前の選択)として姿を現す。だがこの選択以前の選択の主体がその人自身であることは確実である。防衛体制を解除してしまうのは、ほかならぬ当人なのだから。ここでは詳述できないが、この選択が行為選択よりも一層確実に当人に帰属されるべき選択だということはたしかである。にもかかわらず、体験選択はしばしば受動態によって表現される。……当人に帰属されるべき選択なのに受動態が用いられるのは、この選択においては、通常の意味での主体、すなわち知性や理性の担い手としての主体(行為選択の主体)が実効的な働きをなしえていないからである。」
※例として、普段仕事をしている人が衝動的に山に行っていたことを挙げる。
p7 「制度の指示とは独立に動く次元(体験選択)があることを認識すること、このことが決定的に重要である。繰り返しいうように、体験選択は行為選択以前のプロセスである。しかし体験選択が制度の指示から自由であるとするなら、それに依拠する行為選択が制度の指示に回収されないものとなったとしても、驚くにはあたらない。行為はこの場合、制度の指示の結果というよりは、明らかに行為者による選択の結果である。受動態の選択(体験選択)が制度の指示を超えた行為選択を生み出している。」

p20 「溶解体験は周知のように主客区分の廃棄という経験そのものに焦点を合わせた概念であり、体験選択の方はあくまで行為が認識関心の中心である。そこで重要なことは「主客区分の廃棄」という経験そのものではなく、その経験が事後的に行為選択にどう影響してくるかということになる。行為選択の場を前提にすると、「主客区分の廃棄」はその主体と客体の「つながり」を表象されざるをえない。「主客区分の廃棄」であるはずなのだが、行為選択の現場においては再び主客は分離され、その上で「つながり」(選択)として把握されることになる。」
p22−23 「行為選択の場に視野を限定している限り、体験選択と嗜好、好みのちがいは析出されない。両者は似たようなものだ。ただ体験選択は、その起源をこの空間内に収まりきれない出来事(防衛体制解除)にもっている。この動的な次元に接続している限りにおいて、単なる静的な「つながり」表示とは異なる内容が含まれてしまう。認識者が行為選択の場の外に視野を広げることによって、体験選択と嗜好、好みの質的なちがいが明らかになってくる。」

p27 「だが(※ベルクソンのいう記憶において)現在の過去への繰り込みは、単純な量的加算を意味しない。それは加算のたびごとに全体の質が変化してしまうような加算である。一つまみの塩が料理全体の味を変えるように、あるいは、少量の触媒が全体に化学変化をもたらしてしまうように、加算が質的変化を引き起こしてしまう。これが純粋記憶における加算の意味である。つまり純粋記憶という全体は、現在が過去に加算され続ける限り、一種としてやむことなく変化し続ける何かなのである。「一瞬としてやむことのない変化」を表示するのに、「流れ」という比喩を用いることもできるかもしれない。ともかく純粋記憶は動性をその本質としている。」
※データベースとは異なること(を説明しようとしていること)はわかるが、どう異なるのかよくわからない。

P72 「「人格全体による決定」の予見不可能性を指してベルクソンは「自由」と呼んだ。自由とはこの場合、あらかじめ与えられた選択肢に関する選択の自由なのではない。」
P139 「社会学や人類学が第一義的には制度の学である以上、規則の発見に認識の焦点を合わせるのは当然だろう。またそこで問題となる規則とは、具体的には、返礼とセットとなった限りでの贈与、すなわち交換についてのものであった。贈与研究においては贈与とはすなわち贈与交換のことなのである。贈与が「集団間あるいは集団内の連帯や統合」と結びつけて考えられている以上、交換が主題化するのもまた当然である。」

P162−163 「すなわち開いた社会概念の根拠が当事者の生の実感にあるという点である。開いた社会の当事者たちは、閉じた社会の住人としては経験しえない濃密な生をこの社会において経験するのである。
 開いた社会すなわち「体験選択に固有の社会性」を経験する人は、その架空の社会の方にこそリアリティを覚えるのだった。その事態がつづく限り、そうした経験に無縁な人に比べ、その人は自身の所属する社会(閉じた社会)の行動パターンにはより弱くしか拘束されない。」
p164 「状況の変化に影響を与えることが何一つできないとき、人のとりうる最も合理的な反応は無為だろう。何をしても無益ならば、何もしないに越したことはない。時間にもエネルギーにも限りがあるのだから、無駄なことはしたくない。たしかにこの反応は合理的だが、これがありうる反応のすべてではない。場合によってはまったく正反対のことも起こりうる。すなわち何をしても無駄ではあるが、まさにそうであるが故に最大限のことをしようという反応である。最愛の人が病で死にゆくときのことを想像してみれば、こうした想定がある程度現実的なものであることが了解されるだろう。」
※逃走における基本的な着眼点?

P168 「贈与行為の核心は無目的な贈与・放棄にあるというのが筆者の考えである。贈与行為に関する行為論的思考を積み重ねていくと、どうしても無目的な贈与・放棄を問題にせざるをえなくなる。」
※問題はこの無目的化をいかに達成するか。
P176-177 「すなわち彼(女)は主客区分の明瞭な場で、コルトレーンの音楽と自らの間に閉じた系を作り上げ、この音楽を「自尊心の根拠客体」としてしまっている。コルトレーン以外のジャズあるいはロック、Jポップなどは、その系の中に入れない。この人はコルトレーンの音楽によって心開かれ、同じコルトレーンの音楽によって排他的になっている。自分がその音楽に魅了されているという事実は、明らかに彼(女)の誇りなのだ。自尊心が強化させることは、行為選択の世界における生存の条件の強化につながるだろう。つまりここでは体験選択という経験が、そのまま行為主体の「自己保存の傾向」の強化に貢献している。開いた魂の経験が閉じた魂の強化に役立っている。こうした事態がここで「屈折した帰還」とよぶものである。」
※ここから単純に開かれた状態が望ましいと考えることができないことが、根本的な問題なのである。部分的にはアレントの議論における批判が妥当するか。より重要なのは、開かれた主体というのがこの議論では標準化されてはいないか、という問題。閉鎖性をそんなに簡単に否定してしまってよいものか。
P179 「体験選択における対象の作用は、「鍵」の比喩を用いて表現するのが妥当だろう。鍵によって扉は開かれる。それと同じように対象=鍵によって意識の緊張は開かれ、主体は防衛とは無縁な地平へと連れ出される。このことを根拠に以下では体験選択における対象を「鍵対象」とよぶことにしたい。これに対し、通常の行為論において想定されている対象、すなわち主体の欲求に対応した対象のことを「欲求対象」とよぶことにしよう。」

P187 「欲求対象化した鍵対象を以下では鍵対象=欲求対象と表記しよう。この対象も鍵対象である以上、主体の防衛体制解除を実現する。だが上に述べたことで明らかなように、まさにこの解除機能それ自体が自身の欲求対象化を促進してしまう。したがって鍵対象=欲求対象においては、鍵対象をめぐる社会関係に固有の特徴が、欲求対象に対する関係の形式の中で変形されて実現するといった事態も生じてくる。」
P188 「所有は他者を排除して成立する。したがって「無警戒」の度合いの高さは、そのまま排他性の度合いの高さである。鍵対象=欲求対象においては、「無警戒」の度合いが高くなればなるほど、主体と鍵対象で作り系はますます排他的になる、という現象が生じうる。また所有を強く欲するということは、他面からいえば、それだけ強くその対象に依存しているということでもある。つまり鍵対象=欲求対象においては、「無警戒」は極大化した依存をも意味する。「無警戒」になればなるほど、欲求対象に対する関係の形式としての依存の度合いも昂進してゆく。所有欲望と依存の極大化によって、閉じた系としての「主体—鍵対象=欲求対象」関係はますます強固な境界をもつことになるだろう。」

P189 鍵対象=聖…「同じように鍵対象の作用を受けたのち、行為選択の世界においてその経験をより知的に定着させると「聖化」となり、より感情的にすなわちより純粋記憶に近いところで定着させると、「無警戒」な社会関係になる。」
※自己という領域の違い。
P190 「欲求対象化と聖化という二つの方向は、意味変容の現実の中からいわば理念型的に抽出されたものであり、個々の変容においては、当然この二つの方向が併存している。……つまり主体がその対象を所有する可能性の高さは、欲求対象の聖性の微弱さを意味し、逆に聖性の強さは所有可能性の低さを意味すると考えよう。」
※ 利己と利他(他という明確は対象はないが)と同じ区分?

P201 「だが贈与の関しては事情が異なる。A・W・グールドナーに従って互酬性の規範を普遍的に考えるとすると、どのような社会においても贈与は必ず返礼の義務とセットで制度化されているはずである。単体としての個人行為者に注目するだけだと、この「セット」の部分が視野からすり抜けてしまう。これが贈与交換の制度記述に固有の困難である。」
P205 「どのような動機によって動くにせよ、彼らの頭の中にクラの環全体のイメージはない。「社会的な絆を作りたい」と彼らが思ったとしても、その絆とは、両隣にいる直接の交際相手とのことでしかない。クラの環を構成するメンバー全体との絆は、最初から彼らの視野から排除されている。ところが面白いことに、個々のメンバーが両隣との友好しか念頭にないとしても、環全体を見渡す地点(マリノフスキーの立っている位置)から見ると、環を作る彼らのふるまいは全体として「恒久的な平和」とでもいうべき友好関係を作っているようにみえてしまう。つまり彼らの身体の動きは、総体として、彼ら自身の意図とはまったく無関係に「恒久平和的な友好関係」という状況の定義を産出してしまうのである。彼らはみんなで協力して「友好関係」というドラマを演じているかのようだ。」

P221 「バタイユはポトラッチにおける財産の破壊が一種の供犠であると考えた。つまり彼の目には、カヌーや毛布や銅板の破壊は何の目的ももっていないと映った。財産の破壊は「精霊や神」の返礼への期待ゆえに行われるのではなく、破壊それ自身を目的として行われる。贈与という言葉を使うなら、この資源放棄=贈与は一切の交換の期待を排除した贈与、贈与のための贈与にほかならない。またそうであるが故に、この贈与は、通常の贈与が必然的に産出してしまう一切の共同体的仮構ともまったく無縁である。財産を破壊する人間は、「精霊や神」といかなる意味においても共同体を構成しない。バタイユの考えに従うなら、ポトラッチにおける財産の破壊は、制度論的アプローチの限界から免れる贈与行為の例を提示しているといえそうである。」
P222−223 「右に述べた議論が正しいとすると、バタイユ的な議論はたしかに制度論的な構図の外部に届いていることになる。だがこの議論が、制度論の限界を超える贈与行為の全体をカヴァーしているかといえば、必ずしもそうとはいえない。バタイユは制度の制御を超える経験(内奥性)が、行為(供犠)の結果として出現するという事態を想定した。これとは別の方向で同じ問題を考えることはできないか。つまり制御を超える経験が、事前にすなわち行為選択以前に出来し、贈与行為そのものがその結果として行われるという可能性である。」

(考察)
 溶解体験というのは、主客が未分な状態となるような状況のもとで、むしろその対象を乗りこえた何ものかとの結びつきという体験であった(cf.作田1993,p93)。しかし、この溶解体験の議論自体が善いものと密接に結びついており、この点についてジラールの「悪い模倣」の話から批判を加えたのであった。

 体験選択は、行為選択と異なり、その選択を行う主体が欠いているという意味で「受動的」である。そして、主体に内在されている制度的なものを回避することが可能となりえ、このことで交換を前提としないような贈与の議論に結び付けることができる。
 しかし、体験選択の「受動性」には脆弱さが認められる。基本的にこの選択は外部に対する防衛体制の解除を伴う。このことが逆に自尊心の強化(自己保存の傾向)の強化に繋がることで、「屈折した帰還」を行う可能性もある(p176−177)。

 この「受動的」という表現は面白い。この受動性はこれまで議論していた無意識の領域に踏み込むことを可能にする。ここでいう無意識はベルクソンの言う純粋記憶の領域といってもよい。ただし、ベルクソンのこの純粋記憶は高橋の著書から実体がつかめない(ただの比喩しか用いてない)。ベルクソンにも興味が出てきたので、今後追記したい。

 さて、ここで問題にしたいのは、体験選択を経た上で議論される「開いた魂/閉じた魂、鍵対象=聖/鍵対象=欲求対象」といった区分の仕方である。高橋は前者について肯定し、後者について否定的である。これについて、今まで行ってきた良い模倣・悪い模倣と上位ルール/下位ルールの議論を交えて捉えてみたい。

○模倣理論の体系の把握
 ここで考察対象にするのは、ジラールドゥルーズガタリドゥルーズ)、ウィリス、高橋の議論してきた溶解体験をめぐる語りである。
 まず、ジラールをベースにしている良い模倣・悪い模倣の善悪の区別は「支配的なイデオロギー」から見た場合の判断であるといえる。支配的イデオロギーから見て望ましい模倣が良い模倣であり、望ましくないものが悪い模倣である。
 そして、上位ルール/下位ルールに対する見方は、基本的には上位ルールが支配的な社会のルール体系であり、下位ルールはそれを隠蔽しうるルール体系として、ジラールを批判するドゥルーズをベースに提起したものだった。ドゥルーズは模倣について、ウィリスの言う<耳穴っ子>と同じように規範を真似するだけと捉えたが、これはジラールの模倣の話とは異なるものであった。これは溶解体験を想定しているかどうかという問題だった(ジラールは溶解体験を前提にしていた)。この両者の考えをまとめた考え方がこの上位ルールと下位ルールというものだった。下位ルールにおいては、ルール改変を含めた溶解体験が許されるが、上位ルールはその溶解体験の影響下にないような領域でなお作用する、という捉え方であった。
 ただ、この見方もウィリスの議論で若干変更が必要になったといえるかもしれない。学歴主義の上のレベルにある能力のある者への評価、というように、より上位のルールを想定していくと、「ルール(制度)」の枠組みとは別の「価値」に関わる部分が現われる。本質的には「価値」の変更を要求しないと、支配的イデオロギーの変更可能性もありえない。イデオロギーもまた、価値の注入であるからだ。
 これに加え、その価値への洞察力、つまり、支配的イデオロギーに対する自覚の必要性もウィリスは指摘していた。これは、ジラールのいう良い模倣における上位者への尊重という所にも若干関連してくる。

 よって良い模倣は、
A.規定ルール内での競争を行うかどうか(上位者を超えようとするかどうか)
B.(結果的に支配的イデオロギーを破壊しない)ルール改変を行うかどうか
C.上位ある価値(ルール)に対して自覚的かどうか
という形でカテゴリー化することができるだろう。

 一方、悪い模倣は支配的イデオロギーに対する否定を前提としている。これは、「価値」そのものに対する批判を含んでいるという考えもできるが、ウィリスの<野郎ども>がこの価値の問題に達することが困難ではないのか、という形で問題提起したように、「価値」について見抜き、反抗することができず、「ルール」レベルでの反抗に留まる可能性もある。この悪い模倣においても
A.規定ルールを無視した形で上位者を超えようとする意志があるか
B.(支配的イデオロギーに反抗する)価値・ルールの改変を行うかどうか
C. 上位にある価値(ルール)に対して自覚的かどうか
という要素が鍵になってくる。

 例えば、ウィリスの指摘した<耳穴っ子>は良い模倣Aのみに関連するし、ジラール的な意味での悪い模倣は、ここでの悪い模倣のA+Bにあたる(Cについては不明瞭)。ジラール的な良い模倣は、A〜Cを網羅していると解釈しているが、これはジラールの想定する神(キリスト)が非人格的であると考えた場合である。もし神が人としての扱いをされていれば、この神は位階の一番上にいる存在であると考えられるため、良い模倣Aについては実質上放棄されることになる(神を尊重する態度がジラールの前提にあるため、我々は神よりも上位に立てない)。しかし、神が非人格的なものとされるなら、神はルールであったり、価値であったりに内包されるものとして捉えられることになるため、我々が位階のトップにいても問題はなく、良い模倣Aも正常に機能させることが可能となる。


 さて、高橋のいう体験選択の議論はどこに結び付けることができるだろうか。先に説明が難しい「鍵対象=聖」の話からしたい。基本的に高橋の議論はAやCの議論にコミットすることはなく、Bの領域についての話をしているが、これを良い模倣の話を見るべきか、悪い模倣の話と見るべきか難しい。というよりかは、どちらでもないと考えた方がよさそうである。つまり、支配的イデオロギーに肯定的に応答したり、否定的に応答したりするのではなく、そこから外れることにこそ意義を見いだしている。制度から外れるような贈与の検討、高橋の贈与の話がまさにそれであった。少なくとも、贈与がなされた時点においては、制度から外れているために良いか悪いかの判断も不可能である。このような贈与による模倣を(あまりいい言葉ではないが)「純粋模倣」と呼んでおこう。
 純粋模倣はドゥルーズが「意味の論理学」で言っていたヘラクレス的な表面の生成と同義といってよいだろう。この表面は制度も含めた形式的な諸セリーを横切るものであった。それはセリーからずれているものだ。
 よって、純粋模倣もまたドゥルーズの議論でみてきた脆弱性を含んでいるといえる。つまり、純粋模倣は「良い/悪い」の価値にタッチしないものであったが、支配的イデオロギーの対象として取り込まれる可能性を孕んでいる。基本的にはそのイデオロギーに組み込まれると考えるため、悪い模倣とは言えず、良い模倣として再構成される可能性があるといえる。
 この脆弱性を解決しようとしたのがドゥルーズガタリの議論であった。D/Gは純粋模倣の状態から更に一捻りする。支配的イデオロギーに対する意識は強く持つ必要があることが強調されるのである(Cの話)。D/Gの理想的な分裂症的状態はAのような上位者への奪回は含まない。それを行うのはパラノイア的な状態にある場合である。また支配的イデオロギーから見て「悪い」立場からのまなざしを必要とすることから、これが悪い模倣B+Cの状態をとっているようにも見える。D/Gは本来的には純粋模倣を志向しているが、純粋模倣の問題を解決しようとするために、悪い模倣B+Cへ、もしくは悪い模倣A〜Cへという姿勢に(二重に)揺らぐ可能性を持っているのである。

 もっとも、Bの領域というのが、最初から良い・悪い模倣に区別することが難しいのではないかという議論(良い模倣B、悪い模倣Bの領域自体の曖昧さ)もあるだろう。この部分はまだ十分に考察できないが、このような区分を行う意味はある程度あるように思う。


○「閉じた状態」は非難されるべきか?
 次に、高橋の言う「鍵対象=欲求対象」側の話だが、恐らくは悪い模倣Bに位置付けることができるだろう。依存傾向の増大と所有による排除の増大は基本的に私有化であり、支配的イデオロギーには反しているといえる。

 ところで、悪い模倣Bでは、価値とルールを両方含んで定義した。価値まで変更するような悪い模倣は支配的イデオロギーに完全に対抗できるが、反抗的ルールの改変に留まる場合は、支配的イデオロギーに対する根本的な変更がされることがないため、結果的にルール改変が「良い模倣」とも呼べるのではないのか、という可能性が出てくる。悪い模倣によるルール変更により、支配的イデオロギーの意向には沿わないようなルールの並列を行うような状況が発生する訳だが、そのルールをうまく操作される可能性が含まれているからだ。
 まず、反抗者は自らが改変したルールを逆方向に戻すようなことは基本的にはしない。このため、支配者はこれとは別の方法を用いて、この一見調和しないルールを組み込むことで対応することになるだろう。ここで反抗者は高橋が批判したような形でルールに固執し、閉じた態度を取るように見える。しかし、このルールへの固執がそれまで「支配者」から受けていた不利益を改善するルールに対するものであるのなら、それに非難する根拠はどこにあるだろうか?

 また、この議論で厄介なのは、悪い模倣Bによるルール改変は1度きりで終わるとは限らない点である。一度で終わるものなら、閉じたものとして確定するが、これがさらに反復され、ルール転換がされる場合は、開かれるという表現も妥当性が出てくる。この「開かれた/閉じた」反復の状態はその上位にある「価値」の領域の変更までなされなくとも、支配的イデオロギーに対する十分な反抗とみなすことができると言えるかもしれない。ただし、その価値に対する意識がないと、十分に反復が意味をなさないといえるだろう(結果悪い模倣B+Cに落ち着く)。この場合も問題含みといえるのか?

 高橋の議論においては、素朴に1度きりの悪い模倣を想定している印象が強い(ただし、反復状態が想定できない程ではない)。この議論については、次回か次々回にスラヴォイ・ジジェクをレビューする際にまた検討したい。ジジェクの「激しい愛着」の議論というのが、この閉鎖性にも大きく関連するように思う。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★★