ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」(1977=1996)

今回は、ジラール「地下室の批評家」で言及した、ウィリスの本を扱います。ページ数はちくま学芸文庫の訳書のものです。

(読書ノート)
p31 「ジョウイ ……教師はおれたちを処分できる。教師はおれたちよりもえらいんだ。やつらにはおれたちよりもでかい組織がひかえてる。おれたちのはタカがしれてるけど、教師はでっかい制度を味方にもってるものな。」
p32 教師がよりものごとを知っているのではという筆者の問いに対してジョウイ…「まあそうだね。でも、だからといっておれたちよりも身分が上ってことにはならないよ。おれたちよりちょっぴりかしこいってだけじゃないか。」

p92 「暴力の社会的意味こそが重要なのである。暴力は、インフォーマルな集団秩序への最後の参入儀礼であり、集団のうちに一定の地位を引き受ける最終的な意思表明なのだ。集団内部の「栄誉」——その名に値するか否かはともかくとして——は暴力にもとづいて配分される。だから喧嘩は、裏の文化を生きる少年たちにとって試練の瞬間なのだ。そこで挑戦を拒んだり、素人っぽい戦いかたをすれば、仲間うちでの地位は危くなり、男としての尊厳も台無しになってしまう。」
p109−110 「<野郎ども>の考えによれば、<耳穴っ子>には余分の現金に対する欲望もなければ、因襲的な道徳観も疑ってみる想像力もなく、もちろん、盗みをやりとげるに足る敏捷さも悪知恵も持ち合わせてはいない。」
※現金に対するこだわりは資本主義に従順な態度である。

P146 「どの学校にも反抗的な生徒グループは存在するものだが、反学校の文化がとりわけ労働階級の少年たちの場合に独特の鋭さや手強さを示すのは、彼らが学校の外に広がる労働階級の文化に安んじて依拠できるからである。学校への反抗が、彼らの場合には、いずれ労働階級にふさわしい職場に入る体験的予備訓練としても生きてくるのである。あらゆる形態の制度的組織体に、インフォーマルな内部組織が寄生することはまぬがれがたい。その意味ではおよそどんな社会層の学校であっても対抗的な文化はかならず発生するのだが、しかし<野郎ども>の対抗文化は、学校制度への反抗が労働階級の文化の水脈と底で通じ合うことによって、特別の性格と意義を帯びることになる。」

P163 「そこで理念化されている教育行為とは、公正な交換関係の維持を意味する。交換される基本的な一対の項目は、尊敬のみかえりに知識を、順応のみかえりに指導を、である。知識は希少価値をもつ品目であるから、この交換関係において教師は道義的な優位を確保できる。ここにこそ今日の教育を支配する理念的な枠組みがある。それは個々の教師を越えた次元の枠組みでありながら、教師たちが児童を正当にコントロールする力として働く。」
P181 「現場の教師たちは、さまざまな課題に直面して、次々に提案される教育技法のレパートリーのなかから当面の役に立ちそうなものを選択する。しかし、斬新な技法も相変わらず教育の理念的な枠組みの維持を志向している。学校の物質的な下部構造はほとんど手つかずなのであるから、それが唯一可能なことにみえてしまうのである。「新しい」教授法のなかには真に革新的な発想に立つものもあったかもしれない。進歩主義の名誉のためにそれは認めておかねばならない。だが、それらが実践に移される場は、ちっとも変わりばえのしない旧態依然たる環境にあった。新しい技法が革新的にみえたとしたら、それは、革命前の問題にたいしてまさに革命後の解決策を示したからにすぎない。そこで、現実の学校で実践に供された場合には、それは、管理の新しい道具となり果てるか、すでに実行されているあれこれの方策を正当化したり合理化する口実となったのだ。」

P184 「しかし、労働階級の居住区では、学校に寄せる生徒の信頼がぐらつき始めた瞬間から、階級感情の巨大な貯水池である地域が少年たちの依拠する場となる。街頭や労働階級の若者文化を象徴するたまり場などが、反学校の文化に養分を与え、逆に反学校の気風がそういう地域の雰囲気をいっそう強めるのである。両親を含む家族がまた、労働階級文化の重要で強力な担い手であることはいうまでもない。家庭では、職場の文化が、職場の出来ごとや仕事仲間に共通する態度などが、なかでも職制にたいする態度が、話題になる。家族の間の会話に労働現場の文化が、さすがに罰当たりな言葉は濾過されるとはいえ、にじみ出てくるのである。家庭にはまた特徴的な性別分業があり、男性の優越がある。」
P254 「精神労働は、まさに学校がそうであるように、ひとのこころの侵されたくない内奥へ、ますますいとおしく思われる私的な領分へ、遠慮なく入りこんでくる。精神労働に特有の組織機構は、自由であるべき自我の内面を他人の支配にゆだねるようにつくられており、それが不公平な「等価交換」の組織であることを<野郎ども>はとうに知りつくしている。そういう精神労働に従事することは、屈服と体制順応への言いようのない奇妙な圧力にさらされつづけることを意味する。逆に精神労働への抵抗が権威への反抗と結びつくことは、少年たちが学校的な価値に反撥する過程で学びとったことなのである。」

P265 「職場文化の見習工時代がひとしきり終わるころ、すなわち、不快な環境で他者の利益のために骨身を削る生産労働の実績がよりくっきりと見えてくるころ、かつて学校がそう見えたように、職場は牢獄の観を呈しはじめる。かつての生気にあふれた<野郎ども>は、二重の意味でその牢獄にはめこまれたのだ。皮肉なことに、職場が牢獄のように見えてくればそれだけ、教育こそがそこからまぬがれる唯一の脱出口であったという事情が了解される。だが、もはや手おくれなのである。」

P296−297 「資本主義が一掃されるあかつきには労働階級の文化がきたるべき生活様式に具体的な内容を与えるだろう、と主張する人びとがいる。けれども、そう主張したところで期待どおりの結果を約束できるわけでもなく、階級文化に約束させるわけにもゆかない。労働階級の文化や意識を社会主義の合理性に向かう一大運動の前衛とみたてて楽観的に描き出すことは大間違いである。この本全体のモチーフは、むしろ逆の事情を明らかにすることにある。労働階級の文化のなかには、とりわけ学校における対抗文化のなかには、なるほど未来に連なる合理性の要素が確実に存在する。しかし、まさにその同じ要素が、現在の社会構造と複雑に絡み合う客観的な過程で、その文化が未来に向けて十全な展開をとげる妨げにもなるのだ。階級の文化の先明と見えるものが階級の現在の暗黒をもたらすのである。」
P298 「労働階級は、この社会を支配するイデオロギーに与するいわれをなにひとつもたない。抑圧者の素顔を民主主義の仮面でおおう必要もない。中産階級はといえば、自分たちの優位をもたらす社会構造に存在も意識も根ぶかくとらえこまれている。」
P298 「とはいえ、ここで再び限定を加えておかなければならない。神秘化された関係を白紙にもどす力は、いかに力づよくともそれだけでは新しい関係を予示する能力とはなりえない。そのためには階級文化そのものの構造的な自己革新をまたねばならない。」

P309 多様な合格証明が現実の服務の多様さを反映しているわけではないし、産業労働の大部分が基本的に無意味であり、同質であって選ぶところがないにもかかわらず、公認のイデオロギーに同調して職務を生きがいにしないといけない、といったことを<野郎ども>は見抜いており、そこには鋭い洞察がある。(要約)
P359 「社会という建造物の地底には、だれもその存在に気づこうとしないが、ひとつの堅固な礎石が埋めこまれている。みずから進んで肉体労働を担おうとする人びとが存在するとおいう事実、これこそが土台石なのだ。そして、社会のこのような成り立ちこそが、それを否定してみせるイデオロギーの流行にもかかわらず、地表に現象する社会的地位の優劣関係のなかをあぶくのように浮かびあがろうとする「新興階層」を次々に生み出すのである。」
※仮にそのような土台の者がいることを前提にしたにせよ、それが労働者階級にいる<野郎ども>を指すと言うべきだろうか?すでに労働者の考え自体が近代の産物であり、それ以前の第一次産業に携わる者たちに対しての方が妥当する話ではないだろうか。
 また、そのような存在なしに労働市場を成立させることも不可能ではない。確かに均一的な者が揃うことによる弊害は認められるが。

P378 「少年たちの洞察は、ただ労働の必然性を言いあてる水準をこえて、この社会が労働を組織する現実のありかたに向かってはいるのだが、その肝腎のところは常識に埋もれてしまう。反学校の文化の<洞察力>は、そに一面性や限界をぬぐい切れないで化石化する。常識の作用が、現存するものとは別のより平等で合理的な生産組織への探索を阻害しているのである。」
P396-397 「「われら」の文化が——インフォーマルな領域に立てこもり、そこでこそしたたかではあっても、それゆえに政治的な実践への願望を欠く「われら」の文化そのものが、イデオロギーを招き入れたのである。反抗の文化としてのしたたかさそのものが、イデオロギーとの同居を許しているのだ。ひとたび侵入したイデオロギーは、文化の側の洞察の一面を強化しながらも他面をねじ曲げてしまう。そのようにして、目的地の「われら(アス)」が、ひとつの集団として、自己主張をする主格としての「われら(ウィ)」に成長することを妨げる。そのかわりとして、イデオロギーが主格の「われわれ(ウィ)」を僭称するようになる。この幻影の主格を前にして、人びとは個々別々にみずからの主体性をひっこめる。自分ひとりを例外として、その他の国民全体が単一の国家主権を形成しているという幻想が定着する。」

P415 「つまり、国家諸制度の多くの分野で公認のイデオロギーが一義的に浸透するなら、あるいは同じことの言い換えになるが、インフォーマルな対抗文化の再生産が根絶やしになるなら、そのときは社会の再生産それ自体が危殆に瀕することになろう。たとえば、教室から職場へという「実社会への巣立ち」の問題を考えてみればよい。労働階級の少年たちが、自己実現とか労働のよろこびとか職業人としての自覚とかの学校当局のいう金科玉条をかりにもほんとうに受容し内面化したなら、就職戦線は一大混乱に陥るはずである。「実現しべき自己」の観念を真に受けた若い志願兵の群は数少ない有望な職種をめざして殺到することになろうし、たいがいの使用者は新兵の意気ごみが無意味な労働の場面からあふれ出さないように万策を講じなければならなくなるだろう。」
※ウィリスは日本の事情は詳しくない??
P437 資格主義については、「無意味であり、混乱を助長するだけ」と一蹴する。

(今改めて振り返ってみて)
 ウィリスを読むのは今回で3回目でした。3回とも異なった読み方をしています。
 1回目は学部時代だったと思いますが、文化的な再生産の一つの実証として、エスノグラフィー的な研究手法を用いた著書という位置づけで読みました。ひとつの実証の型という印象で、あまり内容自体に強い印象はありませんでした。
 2回目は院にいた時ですが、ここではイデオロギーの作用の話を中心に読んでいました。学校を統制するイデオロギーの影響を直接的に<野郎ども>は受けることはないが、彼らのいる反抗文化との相互的影響により、意図とは異なる形で支配関係に「自発的に」従属する構造の描写の部分です。
 そして今回ですが、根本的なレベルでウィリスは何が言えて、何が言えなかったのか、というのが中心的な問いになります。

 ウィリスの描く<野郎ども>は日本によく見かける再生産の議論とは異なるように思えます。一つは訳者のあとがきにもあるように、日本においては、学校教育においての平等感がウィリスの分析したイギリスの状況と制度レベルでは明らかに異なるという点です。日本の場合、60年代後半までに高校進学という選択肢が常習化されることになりますが、そこまでの進学段階で制度的には複数の学校体系がほとんどありません(かつ多数が普通科という扱い)。イギリスでは、生徒の主に学力に応じて学校の名称が異なり、トラッキング構造が内包されています。このトラッキングにおいては、一般に生徒の進学意欲を冷却させる効果があると言われています。(注1)
 ウィリスの描く<野郎ども>は強い反抗文化のもとに成り立つ集団であり、それには学校と地続きで「リアル」な労働文化が関わっている必要があります。この点については印象の問題かもしれませんが、ウィリスがいうような文化の流入は日本の今の学校教育に欠落してきている感じがします。学校側がそのようなものを排除する傾向を強めたのか、そのような労働者文化そのものがか細くなってきているのかはわかりませんが。

 これらの事情は「文化」を軸にして(自発的な)再生産の話をする場合の(日本とイギリスの、もしくは70年代と現在の)相対的な違いとして説明可能ですが、これらの事情を差し引いてみても、ウィリスはこの文化の話を過大評価しているといえます。
 通常であれば、学校での選抜過程の描写、親の影響力(資本的なもの、ないし遺伝的なもの)などをふまえて、下位層の生徒がこの労働者階級に組み込まれるというのが教育の再生産論といえるでしょうが、ウィリスの目線はまず労働文化ありきであり、その文化の影響力(<野郎ども>が実際にその文化に触れること、もしくは親がそのような文化に親和的であり、そこから社会化されること)から、労働者階級の参入を説明している。
 このような説明の仕方で得られるメリットは、学校教育の価値そのものを宙吊りにすることが可能となる点といえるだろう。ウィリスは基本的に仕事が同質的であり、どれを選ぼうと変わらないし(そこに差異を見出すのは我々の思いこみのせいである)、資格についても無意味であるとする。しかし、全面的にそう思っている訳ではないようであり、労働者階級への自発的参入は後悔を生むことも認めているようだ(p265)。


 さて、ここで想起したいのは、前回批判を加えた、ドゥルーズの二分法の話である。ウィリスの場合にも、全く同じ二分法の語られ方が<野郎ども>と<耳穴っ子>で、ないしは労働階級と新興階級でみることができる。<野郎ども>は支配的イデオロギーに直接結びついた形で主体形成される訳ではなく、そこから距離を置いた存在として、それを批判的にみる洞察力がある。そして彼らは社会変革のための潜勢力をもった存在ともみなされている(cf.p309)。
 もっとも、<野郎ども>については現状それが十分に機能しているとはいえない、ともウィリスは言う。この原因としては、常識の作用(p378)とか、政治的な実践の欠落(p396−397)という説明をしている。ここでしっかり問うてみたいのは、何故このような一種の妥協が生じるのか、ということだ。

 何故彼らは自発的に労働文化に参入したのか。ウィリスが挙げる最大の理由は、彼らは労働文化の中でやっていけることを、彼らなりの合理的な考えで知っていたというものだ。学校で成功せずとも、職場で稼いでいくことができることを知っている。学校で成功せずとも、自分達は生きていくことができる。学校教育が示す進路とは別の理に適った進路が彼らにはあったのである。この進路の「存在」がまさに分岐を可能にし、労働階級への参入を可能にした理由ではなかったか。
 しかし、この理由が仮に彼らの不十分さを説明するものであるならどうだろうか。学歴社会という制度に対して、概ね<野郎ども>はその制度から「退出」する選択肢をとっているといえる。もしこれを転換させるのであれば、制度そのものに「反発」をする必要がある(注2)。
 学校の機能が有効になるためには、ジラールの「地下室の批評家」のレビューの際に議論したように、「直接的な抵抗を避ける行動をとること」が必要であった。ウィリスのいうしたたかな態度(p396−397)というのも、この時に指摘した「おまえはおまえ、わたしはわたし」という形での、直接的な攻撃が回避された分断的な共存状態を指しているといってよさそうである。
 <野郎ども>は学校に対して攻撃的な態度をとることも時にはある。特に授業の妨害という形でそれは現われる。しかし、ウィリスの記述の中で中心的なのは、むしろ授業に対するシニカルな態度の取り方、つまり教師に対してジョークなどを飛ばしながら、集団で冷笑している描写である。やはり「反発」よりも「退出」が勝っている。

 極端な「反発」の想定をしてみよう。仮に学校制度を破壊するような行動を全面的にとったとしょう。そのような行動として、どのようなものが考えられるか?学校の中における教育の機能を不全にするような活動をすることが考えられるだろう(授業を不成立させるような妨害、学校施設の破壊など)。しかし、学校の中で作用するものだけでそれが解決するのだろうか?学校を一つ不全にした所で、学歴主義という考え方を修正するような自体にはならないだろう。また、学校外での入学試験などを大規模に妨害した所で、それでも全面的に学歴準拠の考え方を放棄することにはならないだろう。そのような制度が機能するのか、という問題はその制度を活用することと直接にリンクするとは限らない。制度の活用には恣意的な解釈を加えやすい。
 そもそも学歴主義の本質は有能な人材の採用にあるといえるだろう。学歴主義にさえこだわる必要はない。学歴主義を崩壊させる事象が起きようとも、代替策を考えればよいのである。

 さて、極端な「反発」を考えると、学校の枠内では到底収まらない制度に目を向けなければならなくなる。そんなことが<野郎ども>にできるといえるんだろうか?仮に彼らが何らかの妥協をしないとしても、難しいのではなかろうか。問題の所在がそもそも学校外にあり、その外部を攻撃するようなことが彼らにできるとはとても思えない。
 これは「地下室の批評家」のレビューで議論した「上位の位階と下位の位階(以下では位階をルールと読み替える)」の話における、上位ルールに目を向けることの難しさそのものである。そもそも、上位ルール自体が一定の枠組みを越えると、制度としても機能しないような、価値に対する我々(お望みなら、支配者でもいいが)の目線を無視できなくなる。価値自体を破壊することは不可能である。直接的に破壊可能な対象は、価値に基づく制度や実体を伴ったものにすぎない。
 ただし、制度などを決定する政治的なものが暴力的(恣意的であることにより、不当性が認められる)であれば、その暴力性を解除することは可能である。それが能力に関することであれば、それに基づいた不当性を批判できる。

 本来徹底的な「反発」を考えれば、学校教育に関していえば、この能力観による評価の全面的否定が必要である。これが最高の上位ルールと認められるからである。しかし、これを許容するのであれば、もはや「反発」には効力が事実上なくなる。仮に政治的レベルでの、制度の決定に批判を加え、別の選択肢を提示するならば、同じような批判を受けかねない。だからといって、別の選択肢を提示せず、批判のみ行う姿勢が正しいのかと言われると、かなりの疑問もある。

 話が戻るが、ドゥルーズの二分法の議論における、「批判される側」の立場、ウィリスのいう<耳穴っ子>は何故批判者たりえないのか?何故彼らは支配的なイデオロギーに服した者とみなされるのか?もしこれに理由があるとすれば、そこに「甘んじる」だけの事情があるというだけではないだろうか?これには二つの方向で批判が可能である。1つは<野郎ども>もまた、同じように彼らの文化の中で「甘んじて」いることが観察されていること、もう一つは、ジラール的なよい模倣の話に関連するが、<耳穴っ子>を単に化石化した知を注入された者だと(少なくとも全面的には)みなすことは明らかな誤りで、彼らも変化を作る主体と十分になりうることが挙げられる(注3)。ウィリスの<耳穴っ子>に対する目線というのは<野郎ども>と同じように、一種の偏見を含んでいるといわざるをえない。

○立ち返って、資本主義批判の議論について
 ウィリスにせよ、ドゥルーズガタリにせよ、似たような立ち位置から資本主義批判を加えていることがわかる。しかし、ここで問いたいのは、どのようにすれば、資本主義とは別の形の社会のありかたを提出できるのかである。このためには、資本主義とは何かということを確定させねばならないだろう。私自身はあまり詳しくないので、これから検討していきたいと思うが、今あるイメージで少し考えてみる。
 資本主義とは、と言われるとよく聞くのは(1)私的所有の承認(2)主従関係による非対称的交換の成立(3)交換価値の一元化、あたりだろうか。(1)から(3)それぞれが批判の対象にある訳だが、最も批判されやすいのは、(2)であるように思う。ただ、この主従関係のルールを変更する要求を行うことが最も上位のルールなのだろうか、という微妙である。そもそも主従という状態自体が私的所有を前提にした上での議論であると考えられるため、むしろ(1)が上位ルールにあたるともいえる。
 (2)が解決されればよいだろう、と考えることも可能であるが、少なくともドゥルーズガタリは(1)についても、「私」を前提しようとしない議論をしているということから、回避しようとしているといえるだろう。ただし、(1)のみを批判するような態度をとると、(2)の関係性の存在を隠蔽してしまう可能性もあり、再批判されることも考えられる。また、(2)の議論は先程述べた「能力観による評価」も対象に含まれているといえるかもしれない。

 また、もう一点無視できないのが、「資本」という概念が拡大してきているのではないのか、という問題である(注4)。例えば、森林などの自然に対しても、資本的価値があるとして「自然資本」と呼んだり、人間関係も資本になるとして「社会関係資本ソーシャル・キャピタル)」と呼んだりする。この拡張された資本も「資本主義」批判と関連するのだろうか?これについてはいかに資本という概念が結びついたのかを丁寧に追う必要があるだろう。


理解度:★★★★☆
私の好み:★★★☆
おすすめ度:★★★★

(注1)この点については竹内洋「日本のメリトクラシー」(1995)が参考になります。この本も今度レビューするかもしれません。
(注2)この「退出」と「反発」はハーシュマン的な議論を連想させるかもしれないが、ハーシュマンのいう「発言(ここでいう反発に関連)」は、組織に対する忠誠の話も含んでいた。ここでは、この忠誠の議論は無視しているため、ハーシュマンの議論とは異なると思われる。
(注3)ネグリの論点だった「貧者」は決して階級などの話を前提にしたものではなく、ウィリスとは異なる見方をしているといえる。
(注4)諸富徹「環境(思考のフロンティア)」(2003)が詳しい。