ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、宇野邦一訳「アンチ・オイディプス」(1972)

 ようやくですが、ドゥルーズガタリの考察に入ります。次回もドゥルーズの「意味の論理学」をレビューする形で考察は2回に分けます。訳書は河出文庫のものです。

(読書ノート、上巻)
p38-39 「分裂症者はひとつのコードから他のコードへと移行し、すばやい移動のうちにあらゆるコードを攪乱し、提起される質問に応じながら、日々同じ説明を与えることがなく、同じ系譜を引き合いにだすこともしない。また、同じ出来事を同じ仕方で登録することもしない。オイディプス的な陳腐なコードを無理強いされても、いらだっていないときには、このコードを受けいれることさえある。ただし受けいれるといっても、もともとこのコードが排除しようとしていたあらゆる離接を、このコードの中に詰めこむ。……分裂者は、いつも足元をぐらつかせ、よろめいている。その理由は簡単である。あらゆる側面、あらゆる離接が、等価であるという、それだけの理由なのだ。」

p56 「私たちは、現実的対象が外的な因果関係と外的メカニズムとによってしか生産されえないことをよく知っているが、この知識も、次のように考えることを妨げはしない。たとえ、非現実的な幻覚あるいは幻想の形においてであっても、欲望の内的な力は、欲望自身の対象を生みだし、このような因果関係を欲望自身のうちで表象する。欲望によって生産されるものとしての対象の現実は、それゆえ心理的現実なのである。」

p73 「あらゆる機械は、機械の機械である。機械が流れの切断を生産するのは、ただこの機械が、流れを生産するとみなされる別の機械に接続される限りにおいてのみである。そしておそらく、今度はこの別の機械がまた現実に切断を行うのである。」
p74 「要するに、あらゆる機械は、その機械が接続されている他の機械との関係においては流れの切断であるが、その機械も、それに接続されている別の機械との関係においては、流れそのものであり、流れの生産である。……いたるところに流れ−切断が生起し、欲望はそこから発生し、それこそが欲望の生産性そのものであって、たえず生産の働きを生産物に接木してゆくことになる。」
p82 「欲望機械においては、すべて(※三つの切断様式がある)が同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発する只中において、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和において作動するのである。」

p141-142 欲望の中の欠如の導入「この共通な、超越的な、不在な何かは、ファルスあるいは法と名づけられ、それがシニフィアンを指示するのである。」
「こうしてオイディプスは<3+1>の形式をもち、超越的なファルスという<一者>をそなえ、これなしには当の各項は三角形を形成しえない。」
p148 「精神分析において、フロイトにおいて、いたるところで、この排他的離接への傾向を、私たちは見いだした。ところが、思うに分裂症はオイディプスの外にあるものについて特異な認識を開き、離接的総合の未だ知られざる力を、もはや排他的、制限的ではなくて、まったく肯定的、無制限的、包含的な内在的使用を発見したのである。離接はあいかわらず離接的ではあるが、しかし離接の諸項をすべて肯定し、諸項の間の距離を超えてこれらの諸項を肯定し、諸項はたがいに制限しあうことも、排除しあうこともない。」
p149—150 「分裂症者は、生者または死者であって、同時に両者であるわけではない。むしろ、彼は、両者の距離の一方の端において、両者のうちのいずれかであり、この距離を滑りながら一方から他方へ飛び移る。……分裂症者は、離接的総合を矛盾の総合に代えるのではない。そうではなくて、離接的総合の排他的、制限的使用をその肯定的使用に代えるのである。彼はあいかわらず離接の中にあり、そこにとどまっている。彼は、もろもろの矛盾を深めることによってこれらを同一化し、離接の働きを消滅させるのではない。反対に彼は、不可分の距離を飛び移りながら、離接の働きを肯定するのだ。」
☆p153—154 「オイディプスは二つのことをもたらすのである。区別を命じること、そして未分化状態に陥るこというわけで私たちを脅すこと。オイディプス・コンプレックスが三角形化の中に欲望を導入すること、そして三角形化の各項によって欲望が満足することを禁止すること、これらは同じ運動の中で行われる。」
オイディプスと未分化はなぜ一致するのか?

p224 欲望的生産をめぐる本書での2つの主張…「社会的生産と欲望的生産とは一体であるが体制を異にし、したがって生産の社会形態は欲望的生産に対して本質的な抑制を行使する」「欲望的生産(「真の」欲望)が、潜在的に社会形態を吹き飛ばすような何かをもっているということ」
p229−230 「したがってオイディプス・コンプレックス、またオイディプス化は、この二重の操作の成果である。抑制的な社会的生産が、抑圧的家族によって代行されるということと、抑圧的家族が、欲望的生産の置き換えられたイメージを与え、このイメージが、抑圧されたものを家族的、近親相姦的欲動として表象するということ、二つは一つの運動の中で起きる。
P232 「したがって、いわゆる抑圧は、現実の欲望的生産を抑圧することでは満足せず、抑圧されたものに、外観上の置き換えられたイメージを与え、欲望の登録を家族的登録によって代えてしまう。欲望的生産の集合はただ、欲望的生産が家族に翻訳される場合に、周知のオイディプス的形象をとるのだ。」

p238 「分裂者が苦しむのは、分裂した自我でも、破壊されたオイディプスでもない。逆に自分で棄て去ってきたすべてのものに連れ戻されるということを苦しむのである。零度としての器官なき身体にまで強度が低下すること、これが自閉症である。現実に対する彼のあらゆる備給をせきとめるものに反抗する手段が、彼にはないのだ。」

p263−264 「欲望的生産は、始めから存在しているものでもある。社会的な生産および再生産が存在したときから、欲望的生産はもう存在している。しかし、資本主義以前の社会的機械は、きわめて厳密な意味で、欲望に内属しているということも確かである。これらの社会的機械は、欲望をコード化し、欲望の流れをコード化する。欲望をコード化すること——、そして脱コード化される流れに対する恐れや不安——、これがまさに社会体の関心事である。後に見るように、資本主義自体は唯一の社会的機械であり、このようなものとして、脱コード化された流れの上に構築され、それはもろもろの内在的コードのかわりに、貨幣の形態をもつ抽象的量の公理系を設けるのである。」

p313 「私たちは性急に進みすぎている。あたかもオイディプスが未開の大地機械の中にすでに確立されているかのように、私たちはふるまっている。けれども、ニーチェが良心の呵責について語っているように、このような植物が成長するのは、この地の上ではない。なぜなら、精神医学や精神分析に固有な家族主義の枠において理解される「家族的コンプレックス」としてのオイディプスを生みだす諸条件は、もちろんまだ与えられていないからである。未開の諸家族は、縁組と出自とに関する実践、政治、戦略を形成する。これらの家族は、形式的に社会的再生産の動力をなす要素であり、表現的なミクロコスモスとは何の関係もない。父、母、姉妹は、これらの家族において、常に、父、母、姉妹とは別のものとしても働いている。」
☆p317−318 「ほんとうは、スデンブ族の分析は決してオイディプス的ではなかった。つまり、この分析は、直接的に、社会的な組織や組織解体にかかわるものであった。性愛そのものが、女たちとの結婚による、欲望のある種の備給であった。両親は、ここでは刺戟(※しげき)の役割を演じていたのであって、族長やその形象によって引き受けられる集団の組織者の役割を演じていたのではない。あらゆるものが父の名や母方の祖父の名の上に引き下ろされるのではなく、むしろその名は歴史上のあらゆる名前に開かれていた。あらゆるものは去勢というグロテスクな切断に投射されてしまうのではなく、あらゆるものは族長支配や家系の植民地化といった無数の流れ—切断の中に分散していた。関係の数千の流れ—切断の中に分散していたのである。人種、氏族、縁組、出自のあらゆる働き、歴史的、集団的なあらゆる漂流。こうしたものは、まさしくオイディプス的分析の対極にある。」
※結局今どうすればよいのか、に付き合わせてとらえたい文脈。関係性の外部からその関係性についての命令があることが問題?

p323−324 「ここには、極限に関してきわめて異なる二つの発想がある。一方はそれを根源的な母胎とみなし、他方は構造的な機能とみなしているからである。私たちは、まさしく二つの方向で、普遍的なものを「解釈する」ようにうながされている。なぜなら、オイディプス潜在的な現存は、オイディプスの明白な不在を通してのみ現われ、それは抑圧の効果と理解されるからである。あるいはさらにいえば、構造的な不変項は、想像的なヴァリエーションを通じてのみ発見されるのであって、それが必要に応じて象徴的排除(空虚な場所としての父)を示すからである。普遍的なものとしてのオイディプスは、あの古い形而上学的操作を再開しているにすぎない。」
p326−327 「まず始めに抑圧されるものは、オイディプス的表象なのではない。抑圧されるものは、欲望的生産なのである。この欲望的生産から、社会的生産や再生産の中に無秩序と革命を導入するもの、欲望のコード化されないもろもろの流れである。逆に、欲望的生産から社会的生産に移行するものは、この社会的生産を直接に性的に備給するのであり、それは象徴システムの、またこのシステムに対応する情動の性的な性格を抑圧することもなければ、またとりわけオイディプス的表象にはかかわりをもつこともない。」
p332 「分裂症は絶対的極限であるが、資本主義は相対的極限なのである。」

p351 「欲望は交換を知らない。欲望は、ただ盗みと贈与だけを知っている。」
p371−372 「負債の廃棄が行われれば、これは各人に大地の配分を保全して、新しい大地機械の登場をさまたげる手段となる。新しい大地機械は、場合によっては革命的なものとなって、農地問題の全体にたち向かうことになるのである。再分配が行われる別の場合には、債権の循環は、国家が設定した新しい形態——つまり貨幣の下で維持される。……商業において貨幣の演ずる役割は、商業そのものよりも、国家による統制に依存するのだ。商業と貨幣の演ずる役割は、商業そのものよりも、国家による統制に依存するのだ。商業と貨幣との関係は綜合的であって、分析的ではない。基本的には、貨幣と商業は一体ではなく、国家装置の維持費としての税金である。支配階級がこの装置と区別され、自分らの私有財産のためにこの装置を利用しているところでは、貨幣と税金とのきずなは眼に見えるはっきりとした形で現われている。
※テンプレ乙。
P373 「すなわち国家にかかわる居住や領土性は、脱領土化の大規模な運動を開始し、これがあらゆる原始的出自を専制君主機械に従属させる(農地の問題)。また負債の廃棄と、負債を計量可能な形態に変えることは、国家への果てしない奉仕の義務に道を開き、国家はあらゆる原始的縁組をみずからに従属させることになる(負債の問題)。」

(読書ノート、下巻)
p18 「もはや国家は、超コード化するひとつの統一体を生み出すのではない。国家自身が、脱コード化したもろもろの流れの中に生み出される。」
p27 「資本主義的生産機械が組み立てられる以前でさえ、商品と貨幣は、その抽象作用によって脱コード化の働きを行っている。しかし、それは資本主義の場合と同じ仕方においてではない。」
p28−29 「要するに、資本主義機械が始まるのは、資本が縁祖資本であることをやめて、出自資本となるときからである。資本が出自資本となるのは、金銭が金銭を生み、価値が剰余価値を発生させるときからである。……私たちは、もはや量や量カテゴリーの領域の中にいるのではなく、連接の働きとしての微分的関係の領域の中にいるのであって、これは資本主義に固有の内在的社会野を規定し、以上のような抽象作用に、現実に具体的な価値や、具体化への傾向を与える。」

p38 「おそたく資本主義機械は、学者たち、例えば数学者たちを、彼らの領域において「分裂症化」させ、そこに社会的に脱コード化したもろもろのコードの流れを交通させる。こうした学者たちは、いわゆる基礎的な研究の公理系において、流れを組織するのである。しかし、真の公理系はそこに存在するわけではない。真の公理系とは、社会的機械そのものの公理系であり、この公理系は古いコード化に代って、科学的技術的コードの流れを含むあらゆる脱コード化した流れを組織し、資本主義システムを支持し、このシステムの目的に流れを奉仕させる。」

p47−48 「資本主義の公理系には何という柔軟性があることか。資本主義は、たえず自分自身の極限を拡大する準備をそており、それ以前の飽和したシステムに新しい公理をつけ加えようとするのだ。」
p52 「すなわち、彼(※マクルーハン)は、もろもろの流れを束縛し超コード化するひとつのシニフィアンに対立するものとして、脱コード化した流れの言語がどのようなものであるかを指摘したのだ。まず非シニフィアン的な言語活動においてはすべてが許される。つまり、この言語においては、どのような音声的、文字的、身振的流れも、特権をもたない。」
p53−54 「情報による生産のこのような格子状管理があらためて明らかに示しているのは、資本主義的生産の本質が、ただ記号の言語を通じてしか作動せず、これを通じてしか「語ら」ないということである。商業資本、つまり、市場の公理系が、この本質に記号の言語を強要するのだ。」

p60−62 「しかし、資本主義の流れと分裂症の流れを、欲望の流れの脱コード化という一般的な主題の下に同一化することは、大きな誤りであろう。……私たちの社会は、ドップのシャンプーやルノーの自動車と同じように、分裂者たちを生産するのだ。ちがうのは、彼らは売れるものではないということだけである。それなら資本主義的生産が分裂症的プロセスを停止して、このプロセスの主体を監禁される臨床実体にしてしまうことをやめないことは、どう説明すればいいのか。あたかも資本主義的生産は、このプロセスにおいて、内から到来する自分自身の死のイメージを見いだしたかのようなのだ。……その理由は、私たちがすでに見たように、資本主義がまさにあらゆる社会の極限であるという点にかかわっている。つまり資本主義は、他の社会組織体がコード化し超コード化してきた流れの脱コード化を完成するからである。ところが、資本主義はあらゆる社会の相対的な極限であり切断であるにすぎない。なぜなら、資本主義はもろもろのコードの代りに、きわめて厳格なひとつの公理系を採用しているからである。この公理系は、流れのエネルギーを、脱コード化した社会体としての資本の身体の上に縛られた状態に維持する。この社会体は、他のあらゆる社会体と同じく、いやそれ以上に冷酷な社会体なのだ。これとは逆に、分裂症はまさに絶対的な極限であり、これは、もろもろの流れを、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行させる。
※この厳格な公理系というのが、秩序そのものを認め、ルールの改変を認め続けるという説明に奇妙に一致してしまう。D/Gはこの公理をどうとらえているだろうか。あくまで資本主義的にみえるが、これはすでに国家と一致しており、位階そのもの、という状態とも一致している状態になってしまっている。

☆P69-70 「私たちは資本主義において、それが外部の極限をもたないということ、またそれが外部の極限をもつということを同時に語っている。資本主義は、分裂症という極限をもっているからである。すなわち、それはもろもろの流れ絶対的な脱コード化である。しかし、資本主義は、この極限を拒み払い除けることによってしか作動しない。だから、また、資本主義は内部の極限をもつと同時に、それをもたない。」
※ここで、分裂症は位階の破壊者を意味しないだろうか?資本主義が行うことのコード化/脱コード化の流れの極限というのは、位階そのものの維持であると。現状の資本主義は極限に至っているかどうかはともかく、少なくとも資本主義の超えられない部分は位階そのものであるという主張は真と呼んでよい。
P74 「もう一度いえば、この公理系を発明したのは資本主義国家ではないのだ。なぜなら、この公理系は資本そのものと一体であるからである。逆に、この国家はこの公理系から生まれ、この公理系から由来し、ただこの公理系の調整を保障するにすぎない。」
※資本とはどのようなものだったか?それは万物の交換尺度であり、私有化を許され、主従を規定するものだったではないか。

P79 「要するに、理論的な対立は、支配階級と非支配階級との間に存在するのではない。……対立は、階級と階級外との間、機械の手下たちと、機械を爆破し、歯車装置を爆破する人びととの間、社会的機械の体制と欲望機械の体制との間、相対的な内的極限と外的極限との間、お望みなら、資本家と分裂者の間にあるといってもいい。」

P90 「ここで私たちは、対立するかに思われた先の二つの結論を保持する権利をもつことになる。すなわち、一方で現代国家は、<内在的になること>、流れの普遍的脱コード化、コードと超コード化にとって代わる公理系などを完成するという点で、専制君主国家に対して、真に前進し、切断を形成している。ところが他方では、いまだかつて唯ひとつの国家しか、つまり<原国家>、アジア的専制君主の組織体しか存在したことがなかったのであり、これが後退しながらも、全歴史に対して唯一の切断を構成している。なぜなら、現代の社会的公理系は、<原国家>を二極の中の一極として甦らせることによってしか作動しえないからである。……民主主義にしろ、ファシズムにしろ、社会主義にしろ、比類なき規範としての<原国家>に憑かれたことがないものがあっただろうか。」

P115−116 「つまり無限の退行によって、私たちは父の優位を前提とせざるをえないが、この優位は常に相対的仮定的なものにすぎず、絶対的に最初である父の位置にまで飛ばないかぎり、これは私たちを無限に退行させることになる。ところが、この退行という観点は明らかに抽象の産物である。私たちが<父は子供より先である>というとき、それ自身としては無意味なこの命題が具体的に意味していることは、社会的な備給が家族的な備給より先であり、後者は前者の適用や折り重ねから生まれるにすぎない、ということである。父が子供より先であるということは、まさに欲望の備給がまず第一に社会野の備給であるということである。」
P116 「なぜなら、後者(※母親がする養育の欠如からくる子供の食料不安)において備給されるものは、すでに社会野のひとつの規定つまり、女性たちの稀少性であり、これは子供たちも成人たちも、同じく「女性たちを警戒する」ということを説明するものなのだ。要するに、子供が幼児期の経験、母親の乳房、そして家族構造を通じて備給されるものとは、すでに、社会野の全体における切断と流れの状態であり、女性と食物の流れであり、登録と分配とである。」
※これは別に家族構造そのものを必要とはしないことに留意。そしてこの幼少期の体験と社会野の話を結びつけることの問題にも注意。

P138−139 「モル的な機能主義は全て偽りである。なぜなら、有機的あるいは社会的機械は、それが作動するのと同じ仕方で自己形成するわけではないし、また技術的機械は、それをひとが使用するのと同じ仕方では組み立てられないがからだ。技術的機械は、自分自身の生産活動と、これと異なる自分の生産物を分離する一定の条件をまさに前提としているからだ。自分自身が作動するのと同時に自分を形成しえないもののみが、ひとつの意味、また目標や意図をもつのである。逆に、欲望機械は、何も表象せず、何も意味せず、何も言おうとしない。欲望機械は、まさにこの機械自体からひとが作り上げるものであり、この機械によって作り上げるもの、機械それ自身において機械が作り上げるものなのだ。」

P150—151 「こうしてひとは、まったく去勢から外に出ないのである。単にここで去勢は、雄の性とみなされる性の原理(切断されて上空を飛翔する偉大な<ファルス>)である代りに、女性とみなされる性の結果(吸収されて埋め込まれたペニス)になるにすぎない。だから、私たちは、去勢こそ、性愛を人間形態主義的かつモル的表象にする根拠であるというのである。……去勢の神話を保存しながら、性の非人間的な本性を、例えば「大いなる他者」を規定しようとする努力は、すべて始めから破産している。」

p164 「実際に私有財産という形態こそが、脱コード化した流れの連接を決定し、つまりひとつのシステムにおける流れの公理化を決定している。このシステムにおいて、資本家の財産としての生産手段の流れは、労働者たちの「財産」としての、自由と称される労働の流れと結びつく(したがって、私有財産の実質や内容に対する国家の統制があるとしても、これは私有財産という形態になんら影響しない)。」

p208 「この分子的連鎖は、欲望の記号からなるのであるから、やはりシニフィアンである。しかし、すべてが可能である包含的離接の体制の下にあるかぎりにおいて、欲望の諸記号は、もはやまったくシニフィアンなどではない。これは任意的性格の点であり、抽象的な機械状の形象であり、器官なき身体の上で自由に働くのであるが、構造化された布置をまだ何ら形成しない。」
☆p210−211 「ところが器官なき身体と、部分対象としての器官との間に、じっさいに対立は存在しない。唯一の現実的対立は、この両者の共通の敵であるモル的有機体との間にあるだけである。欲望機械の中には、不動の推進機によって鼓舞される同じ緊張症患者が見つかる。この推進機に強いられて、彼は器官を廃棄し、固定し、沈黙させ、また自律的なあるいは紋切り型の仕方で機能する作動部品にうながされて、器官を活性化し、器官に局所的な運動を吹き込んだりする。問題は、機械の異なる部品であり、それらは異なりつつ共存している。あるいは共存そのものにおいて異なっている。それゆえ生の欲望に質的に対立する死の欲望について語ることなど、無意味である。死は欲望されてなんかいない。ただ欲望する死があるだけだ。器官なき身体あるいは不動の推進機として。そしてまた欲望する生もあるのだ。作動する器官の名において。ここには二つの欲望があるのではなく、機械そのものが散逸することによって、二つの部品が、欲望機械の二種類の部品が存在している。」
☆p211 「反発は機械の作動条件であるが、吸引はその作動そのものなのである。作動がその条件に依存しているということは、まったく明らかである。それは調子を狂わせなければ、うまく作動しないからである。こうして、このような進行や作動の正体が何なのか、語ることができる。要するに欲望機械の循環の中では、死のモデルを、死の経験というまったく別のものにたえず翻訳し、転換することが重要なのである。内部から出現する死を、外部から到来する死に変換するということが。」
※資本主義と生の管理の問題が重なる??

p212 「死の経験は、無意識にとって最も普通の事柄なのだ。なぜなら、それはまさに生の中において、生に対して成立し、あらゆる移動、あらゆる生成において,移動と生成としてのあらゆる強度において成立するからである。」
p212−213 「あらゆる強度は、固有の生のうちに死の経験を営み、これを内包している。そしておそらく、あらゆる強度は最後には消え、あらゆる生成は、それ自身、死への生成となる! こうして死は現実に到来する。ブランショは、まさに、このような二重の性格、死の還元しがたい二つの様相を区別している。ひとつは、外観上の主体が、<ひと>として生き続け、旅を続けるという様相である。「ひとはたえず死ぬことをやめず、いつまでも死に切らない。」もうひとつは、この同じ主体が、<私>として固定され、実際に死ぬ、すなわちついに死ぬことをやめるという様相である。なぜなら、最後の瞬間が実際に到来することによって、この主体はついに死にたえ、この瞬間は、こうした主体を<私>として固定し、強度を解体し、強度が内包するゼロにまで強度を返すからだ。」
ハイデガーも似たようなことを言っていた気が。

p217 「フロイトが死を超越的原理としているのは、彼によれば、死はモデルも経験ももたないからだ。したがって、死の本能を拒否した精神分析家たちは、これを受けいれた精神分析家たちと同じ理由から、そうしたのである。前者は、無意識の中には、モデルも経験も存在しないのであるから、死の本能は存在しないと主張した。後者は、モデルも経験も存在しないことを理由に、死の本能は存在すると主張したのである。私たちは逆にこう主張する。無意識の中には死のモデルも経験も存在するのであるから、死の本能は存在しない、と。こうして、死は欲望機械の一部品であるが、これはそれ自体、抽象的原理としてではなく、機械の作動と、そのエネルギーの変換体系との中において判断され評価されなければならない。」
※経験というものの解釈にかかっている。結構重要?しかし、無意識も法も同じようなものではないのか?依存的?

p230 「けれども、体制上の差異にとらわれて本性上の同一性を忘れてはならない。基本的には、二つの極が存在するのである。しかし、この二極を単にモル的組織体と分子的組織体との二元性として示さなければならないとしたら、私たちはこうした示し方に満足することができない。なぜなら、それ自身モル的組織体の備給でないような分子的組織体は存在しないからである。社会的機械の外部に存在するような欲望機械は存在しない。欲望機械自身が、大きな規模ではもろもろの社会的機械を形成している。欲望機械が存在しなければ、社会的機械も存在しない。欲望機械は小さい規模で社会的機械の中に住み込んでいる。したがって、モル的なコードや公理系からなるブロック全体を横取りして、これを再生産しないような、分子的連鎖は存在しない。」
※この部分から、定義のし直しを始める。

p273 「私たちは、この意味で、社会的生産がいかに病める分裂者を生みだすかを見てきた。脱コード化した流れは、資本主義の根本的傾向あるいは絶対的極限をなすが、資本主義はこの脱コード化した流れの上に構成されるものでありながら、それ自身は、この傾向に逆行し、この極限を追い払い、これを内部の相対的極限によって、また流れの公理系によって代える。資本主義は、内部の相対的極限をたえずより大きい規模において再生産するし、流れの公理は、資本主義の根本的傾向を専制主義や、最も厳重な抑制に従属させるのだ。」
※どうしても資本主義に何らかの価値を見出そうと躍起になっている気がする。この言説に何らかの意味はあるのか??
何が最もおかしいか、を説明するなら、おそらくそれは極限の扱い方なのだろう。極限を定義しておきながら、そこに有限を挟みこんでしまっているのである。そのことで最初に議論し、定義された「相対的極限」「絶対的極限」(この2つの極限の設定も議論の余地有りかもしれないが)における「極限」という概念が無効化される。よって、定義そのものが崩壊する。
ただ、これを数学的な概念の乱用ということは難しいかもしれない…数学自身も同じようなおかしなことを言っているようにも私には思える。

P301 欲望を唯一の原因とする分裂、因果関係の断裂→革命的潜在性
「原因の秩序なしには不可能なものでありながら、分裂が現実的なものとなるのは、別の秩序に属する何かを介してなのだ。その何かとは<欲望>であり、つまり欲望—砂漠であり、革命的欲望の備給である。そしてまさに、これが資本主義を掘り崩すのである。」
p334 「欲望機械は、私たちの頭の中や想像の中に存在するのではなく、社会機械、技術機械そのものの中に存在する。私たちと欲望の関係は、発明の関係でもなければ模倣の関係でもない。……これは繁殖の関係である。私たちは技術的社会的諸機械の中に欲望機械を繁殖させるのであって、これ以外のことはできない。ここで同時に二つのことを言わなければならない。まず技術的社会的機械とは、欲望機械が、歴史的に規定されたモル的状態の中に結集したものでしかないということである。次に、欲望機械とは、社会的機械と技術機械とが、欲望機械の分子的状態に戻されたものであり、この分子的状態こそが他を規定するということである。」

p344-345 「欲望機械のエネルギーであるリビドーは、階級や人種などのあらゆる社会的差異を性的なものとして備給する。それは無意識における性的差異の壁を保証しようとする、あるいは逆にこの壁を爆破し、非人間的な性においてこの壁を廃棄してしまおうとする。欲望機械は、それ自身の暴力そのものにおいて、全社会野が欲望から受けるひとつの試練なのだ。この試練は、欲望の勝利に終ることもあれば、またそれを抑圧する力の勝利に終ることもある。」

(考察)
 本書ではアンチ・オイディプスのための議論として、「分裂症者への着眼」「フロイトエディプス・コンプレックスとその周辺の議論」「歴史的な観点(資本主義にまで至る流れ)」などを着眼点に展開する。その問題点などについてはこれまでも随時検討してきたが、今回はこれまでレビューしたもののうち、ドゥルーズガタリ(以下、D/G)の議論を支持する立場のものとの関連を中心に考察したい。ジラールとの議論については次回に持ち越す。

○ナドーとの関連性から
 ナドーの「アンチ・オイディプスの使用マニュアル」をレビューした際に、ナドーはD/Gの議論のメタ視点に立った分析をしているという説明をした。ただ、これは部分的に間違っているといえる。
 つまり、ナドーの解説はメタ視点に立っているとはいえず、D/Gの議論そのものであるという余地があるということである。確かにD/Gは「分裂症的」「分子的」といった言葉から逃走線に関する議論をするためにかなりの部分を割いているが、下巻のp230以降(4章5節以降)はこれに修正を加えている(p210−211の記述もこれと同じ)。これは「モル的組織体の備給でないような分子的組織体は存在しない」と主張する点に端的に現われるものだ。ここではそれまでの単純な「モル的/分子的」といった二項対立図式の修正を行っているのである。この修正の結果、ナドー的な読みに結びつける余地が出てくるのだが、私はやはりナドーのような解釈はできないと考える(それはメタな視点でしかないと思う)。

 D/Gの場合、「分子的組織体の話をする時には、モル的組織体の備給は回避できない」と言っているのであり、両者の不可分さを強調している。しかしナドーの言うモル的な「バックスバニー」と分子的な「ロードランナー」というのは、全く分かれたものを想定しており、そこを往復するイメージとして描いている。この解釈が正しければ、両者の態度の取り方は全く異なることになる。
 この修正については、私が読むかぎり、それまでの彼らの議論を全てつぶすようなもののように思えなくもない。「極限の扱い方」がそれであり、二項対立図式を崩すことで現われる「器官なき充実身体」とでもいうべきものをめぐる議論において、資本主義批判を行うことやオイディプス批判を行うことが的を得ているのか、という問題が出てくるのではないかと思う。D/Gの目指していた逃走線の重要性を訴える議論の先で行き着いたものと、資本主義的な「脱領土化/再領土化」に差異を認めることはできないのではないか?

 ただ、この「分子的」「モル的」なものの共存は解釈の仕方によってはまだ議論を続ける余地もあるように思う。もしこれを(永久的に)共存し続けるものとしてとらえるのであれば、すでに述べた通り、資本主義的なものとの差異を説明できないだろう。しかし、これをプロセスとしての共存としてとらえたらどうか。D/Gはこの逃走の困難を1枚岩ではいかないことを説明しているし、プロセスであるとも言及していたと思う。もしこれが逃走線を志向したものであり、実際に現れる状態が「分子的」「モル的」の共存であるというなら、これと資本主義的なものとの差異の検討も可能だろう。これはまた議論したい。
 

アントニオ・ネグリとの関連から
 D/Gの議論は政治的側面を持ち合わせているが、ネグリの議論というのは、より現実における政治的側面を強く示しているといえる。ただ、基本的には同じ路線の上にあるのではないかと思う。本書でいう「分裂症者」はマルチチュードという言葉で読み替えることも可能だろう(「<帝国>」p433−434参照)。
 マルチチュードは端的に「貧者」である(p205)。D/Gの議論からこの「貧者」の概念を無理なく導入できるだろうか。これは「資本主義による脱領土化によって、分裂症者が生産される」という表現をもって可能となるものである。
 しかし、ネグリにおける「<帝国>」批判というのは実に両価価値的であった。<帝国>における統治の問題を取りあげながらも、「<帝国>」p490にあるように、<帝国>というのは、マルチチュードの力により作られたものとさえ言っているのである。それに引き換えD/Gは資本主義やオイディプスに対しては批判的な立場が強いように読めるのである。


○私が読解困難だった部分…「法(ノモス)」と「死」の解釈
 本書の中で理解がまだできてない部分もある。精神分析的な意味での「法」の問題と、「死」の解釈についてだ。
 この「法」の批判というのは、D/Gがオイディプスのなかった原始的社会にはなかった「法(ノモス)」が原父の殺害を通じて形成される、というフロイトの見解を前提にしつつ展開する。つまり、原始的社会には「法」は存在しないとする。
 これに対する再批判の仕方はいくつかあるだろう。ジラール的に言うならば、そのような「法」のない社会を想像してどうするのか、という見方になるだろうし、そもそも「モル的組織体を内包した分子的組織体」の話はすでに「法」を前提にした議論をしているため、この言及には意味がない、ということもできる。しかし、ここで議論したいのはそれとは異なる論点で、この「法」の形成が実際にどのように我々になされているのか、というものだ。

 「法」の形成された状態というのは、我々が(原)父に届くことができないような状態に陥っていることを意味するといえるだろう。これは極めて三角形的なものであり、かつそれが文字通り超えられない障害になることを意味する。
 このように考えた場合にできるひとつの説明の仕方は、この「法」が形成されていない状態というのは、間接的に我々に関与する者が不在の状態であることを意味しているという言い方である。原始的には我々は直接的な(家族などの)関係性のみとの関わりの中で生きていたが、それが何らかの制度化を介することで、間接的な関与が生成されることになる。この制度化の固定がつまりは「法」である、という説明。
 とてもわかりやすくはあるが、あまり精神分析がとらえようとしている「法」には沿ってなさそうな説明である。

 もう一つ、うさんくさくなってくるが、「障害」の発生について注目した場合に、一種の剥奪(注1)の経験からこの問題を考えることができるように思う。つまり、幼児が母親から切り離されたと感じる瞬間の話である。乳児(幼児)の欲求が満たされていない状態というのは、それがすぐには剥奪にならないだろう。おそらく「私」がそれを「所有」していたという考えに至っていないからだ。「奪われる」ためには、私がそれを持っており、なおかつそれを他人がもっていく必要がある。自他の区別というものが乳児の中で形成されている必要があるのだ。
 この形成過程を村上靖彦は「視線触発」と呼んでいる(「自閉症現象学」、2008)。村上的に考えれば、この視線触発のプロセスを踏んでいない限りは、剥奪も起こらない。
 そして、奪う他者の存在もまた必要である。これは端的に「父」という説明をするよりも、「母」という説明の方が納得できる気がする。メラニー・クラインの乳離れの話はその意味でとてもわかりやすい。いわずもがな、乳児はひとりでは生きることができず、誰かに頼る必要がある。これは誰でもよいのだろうが、とりあえず母親にしておこう。視線触発を受ける中で「私」と「母」の区別ができるようになった子どもは、一時的ではあるが、「母」を「私」の所有物とする。しかし、それはわずかな時間でしかないだろう。母は私に付きっきりで面倒を見る訳ではないし、更には私のニーズに応えることもできない。乳離れの話は三角形をしている。私が主体、母が媒体、そして乳が対象である。ここでのポイントは私が求める母と実際にいる母は異なっているという部分だ。
ただ、これが「法」と呼べるものなのか、よくわからない。

 いずれにせよ、もう少し精神分析の話に詳しくなる必要がありそうだ。今後の課題である。


 最後に「死」の話について。下巻のp210〜217あたりの部分の話だが、これもよくわからない。生権力の話における「生」の確保の問題(資本主義は生を欲望させるが、死は欲望させない)とリンクしているように思えるが、この部分ではもっと本質的なものであるかのように語っている。哲学の話における死の扱いについてはいつもうさんくさいと思いながら読んでますが、これも今後考えられたら議論したいです。

(注1)ここでの「剥奪」は精神分析の用語のそれとは異なる。また、以下精神分析的なものの言い方をしているが、私自身が精神分析にはまだ詳しくないので、言葉の誤用については勘弁されたい。

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