ユルゲン・ハーバマス、長谷川宏訳「イデオロギーとしての技術と科学」(1968=2000)

前回、「専門性(科学)と政治」についての論点を保留していました。今回はハーバマスが似たようなテーマで書いた本も参考にしながらこの点を考察してみます。今回読んだのは、平凡社ライブラリーのものです。

(読書ノート)
p70−71 「技術的な規則や戦略の妥当性が、経験的にただしい命題か分析的に正確な命題の妥当性に依存するのに対して、社会的規範が妥当するかどうかは、その意図するところが相互に了解されているかいなかにかかっており、規範の拘束力が一般に承認されるとき、はじめてそれは安定したものとなる。」
p76 「資本主義的生産様式は、マルクスシュンペーターがそれぞれに提起したように、目的合理的行為のサブシステムの永久的な拡大を保証しつつ、伝統的社会に見られた、生産力にたいする制度的枠組の<優位>をくつがえす機構と、とらえることができる。資本主義的生産様式こそ、世界史上はじめて自律的な経済成長を制度化したものであり、はじめて工業主義をうみだしたものであった。」
p86 「ところで、国家の活動が経済システムの安定と成長に向けられているかぎり、政治は独特の否定的な性格をおびる。政治のめざすところは機能障害の除去とシステムをおびやかす危険の防止であり、したがって、実践的な目標の実現ではなく、技術的な問題の解決である。」
P87−88 「ふるい型の政治は、そもそも実践的な目標と関係することによってしか、支配を正当化することができなかった。<よき生活>の解釈は人間相互の行為連関をどうするかにむけられていた。ブルジョア社会のイデオロギーについても、なおそのことはあてはまる。これに反して、こんにち支配的な補償プログラムは、ある制御システムを働かすかどうかに関係するのみである。実践的な目標は排除され、それとともに、民主的な意思形成をおこなおうとするときにのみ可能となるような、規範の採用の可否にかんする議論も排除される。……他方、社会の制度的枠組はつねになお、目的合理的行為のシステムそのものとは異なっている。制度的枠組をどう組織するかは、依然としてコミュニケーションにむすびついた実践の問題であって、科学をどう考えようと、科学に導かれた技術の問題として片付けられはしない。」
アレントと同じような、昔の政治がよかったという一種のノスタルジアにならないか?
 民主主義の立場からすれば、これは当然だが、それが多様のものを拾えるかぢうかは別問題。技術的なものに依拠する方がむしろそれを可能にすることもありえる。ベックはこの点をうまくミックスしようとした考え方ともみれる。
P138−139 「政治行為の最終的な根拠は、合理的なものではなく、決断は、確固たる根拠もないままに、議論の拘束うけいれないでせめぎあう、価値秩序や信仰の権威のうちのどれかをえらぶ、というかたちをとる。専門家の実証的な知識によって合理的管理や軍事的防衛の技術が決定され、かくて、政治的実践の手段さえも科学的規則にしたがって強制されるとは反対に、具体的な場面での政治的決断が、理性によって十分に正当化されることがますますすくなくなっていく。」

(考察)
 まず、ベックとハーバマスの立場の違いから見ていきたい。
 ベックの特徴はサブ政治という、専門性と政治相互の領域の境界が解体し、脱中心化された、単一な議会に必ずしも拘束されないような政治であった。一方、ハーバマスはかなりシンプルな議論をしており、安定をもたらすのは、「規範の拘束力が一般に承認されるとき」とし、民主的な意思形成を重視する。
 どちらについても科学に対する強い懐疑が見られる語りがなされるものの、ベックは科学に対して一定の評価も与えていた、そこが大きな違いである。しかし、他方でベックはわれわれ人間がどのように生きるべきかということを考えなくてはならないとする(p37—38)。ここで矛盾が生じている。「どのように生きるべきか」は科学の放棄の可能性もそこに含まれているからである。そこでベックは最終的には自身の立場を曖昧にしながら、著書の最後では割と安易な形で3つの進むべき選択肢を提示するという形をとり、どれが優位かを述べるのは避けたのだといえる(p442−460)。
 ベックは自己内省的な近代化は「民主主義の高度な発達」と「科学化の貫徹」両方があって初めて成立するものだとする(p315)この道を「民主主義」だけの道でもなく、「科学化」への道だけでもない「第三の道」として提示する訳だが、ベック自身はこのような近代化にどんな意味を見出していたのだろうか?
 その根拠となるのが、私の読書ノートではほとんど扱わなかった本書の第二部(p135—310)の部分なのであろう。産業社会は危険を生み出したが、同時にかつての階級・階層構造を解体していく過程でもあったのである。

 「そこで不平等が新たに作られたにせよ、以前の不平等が新たに作られたにせよ、以前の不平等が温存されたにせよ、全体として、収入も増え、教育程度も上昇し、移動性も権利も知識も大衆消費も増加した。その結果、サブカルチャー的な階級アイデンティティと階級の結びつきは、弱められるかあるいは消滅してしまった。同時に、生活情況やライフスタイルの個人化と多様化が進行し、社会階級や社会階層のヒエラルキーモデルを裏から破壊し、その現実性を疑わせるようになった。」(p145)

 私自身が第二部の部分をノートにほとんど記載しなかったのは、別に一部と三部の内容が濃かったからという訳ではなく、その内容がありきたりなものだったからだ。ただ、内容的には後期近代の特徴と問題点についてかなり網羅的に、正確な語り方をしていたものだと思っている。確かに、昔と比べれば階層が解体されてきたが、その問題も残り続けているし、新たな問題も発生していることを述べている。


 さて、科学と政治の問題に戻ると、まず、ハーバマス的な民主主義的決定に絶対的な価値がないことは明らかだろう。これは民主主義的決定の手続きの方法云々のレベルではなく、科学の採用自体に対立関係が発生せざるを得ない状況が見られるからである(前回の切り口2の話)。もちろん、このような対立関係がないような科学の採用もあるかもしれないが、少なくともそこに本当に対立関係はないのか、という考察の手を加える必要はあるのではないか、と思う。
 われわれの合意によって、しかもそれが手続き上の問題なしに行われたことを想定しても、民主主義的な決定に瑕疵が発生してしまうのは、そこに科学を介在させたときに、利益と危険が同時に発生しうるからである。そしてその利益と危険は個人の判断によってどちらを選ぶのか異ならざるを得ないし、それぞれの対象が非対称的な場合もある。この両価値性が民主主義のパラドックスを生んでいるのだと考える。その状態で何かしらの民主主義的決定を行っても、必ず妥協が発生しており、決定の参与者によって不利益が発生してしまっているということである(注2)。

 では、どのような決定の方法をとるのが望ましいのか?「その時の気分で」決めるようなやり方が最大幸福なのかもしれないが、少なくとも、徹底した民主主義をとらない方法というのも考えられるだろう(注1)。平たくいえばベックのやり方をとるしかないようにも思えるが、細かな部分についてはベックのやり方だと危険性もあることも前回指摘した。
 ただ、ここで議論していた「科学」というものはもう少し掘り起こしてもいいような気もする。私自身も最近まであまり深く考えてなかった分野だったので、今後その可能性についても考えてみたいです。

理解度:★★★☆
私の好み:★★☆
おすすめ度:★★★


(注1)余談だが、東浩紀先生が「一般意志2.0」で提示しているような方法はかなり斬新だと思う。こういう方法論をもっと考えてみるのがいいのかもしれません。

(8/29追記)
(注2)このパラドックスの解消のために、最終的な決定権を個人に帰すようなやり方(自己責任)が考えられるだろう。しかしこの個人的選択への依存は民主主義的な方法の放棄でしかなく、民主主義の立場からは矛盾した語りをしていることにしかならない。