黒石晋「欲望するシステム」(2009)

前回、アレントの議論で「欲求と欲望」に関することをコメントしてましたが、今回はこの差異について考察していた本をレビューします。
去年度読んだ本だったので、今回はほとんど当時の読書ノートのままで、一部用語の説明などを加えました。

(読書ノート)
p4 「〔定義:欲望〕欲望とは、未分化な心的エネルギーである」
p4 「ここでいう<エネルギー>とは、「システムを作動させる能力」のことであり、心とは、それが人間の精神の中にある現象であることを示す。つまり、<心的エネルギー>とは、ヒトの心の中にあってヒトというシステムを動かす原動力である。」
p4 「そして、欲望においては、それら<心的エネルギー>が「未分化」である。「未分化」とはつまり、典型的な欲望はまず《何かが欲しい(したい)、でも何が欲しい(したい)のか分からない》という、漠然とした不定形の力として湧き起きるということだ。」

p9 欲望は、「特定のもの」がプル力となって、エネルギーを高めるのではない。「欲望とは、具体的対象によって、それを求めて初めて出来するのではなく、それ以前に、すでに有機体に備えられる根源的な潜勢力であり、それゆえにこそ本来対象未定の未分化な力(フロイトの<リビドー>)なのである。」
p11 衝動買いの例…「これは端的に、未分化な<欲望>(動因)がたまたま出会った<商品>(誘因)によって特定化された購買行動となって顕れたものであり、どう考えても「欠乏の充足」(満足)ではない。」
p12 「欲望は、限りなく「何か」を欲望する、果てしのない過程なのであり、”安定均衡”とか”満足”というのはほど遠いものだ。」
※存在と生成、という軸しか安定した軸が見出せないのでは…?

p13 「欠乏充足による<欲求>は、その当該の欠乏を目的として(プル力として)目的論的に立論することができる。これが必要であり、これを求めるからである。しかし発出付加の動機(プッシュ力)による<欲望>の場合、そこに具体的目的を立てることができない。欲望は、これが必要とは限らずこれでなくともよいからだ。これが「未分化」という性質かくる欲望の帰結である。」

☆p15 「<欲求>とは、それまでの生き方を継続していく上で“必要なもの”を求める営みであり、そのエネルギーである。ということは、<欲求>には当該の“コレ”を求めねばならぬ死活の必然性(vital necessity)があるわけで、そこには選択の余地がない。これに対し<欲望>は、“必ずしも必要のないもの”、“余計なもの”を求める営みであり、そのエネルギーである。したがってそこには、“他のもの”を求める可能性、という意味での選択の余地がある。」
p17 「逆にいえば、欠乏を自覚しそれを求めるのは、すでにそれを知っているからこそである。かかる機制は、それを”欠乏動機”と呼ぶにしても、絶対的欠乏ではなくせいぜい<相対的な欠乏>である。絶対的無知ではなく、少なくともその存否を知っているのだから。」
→既に知られている欠乏による欠乏動機を欲求と呼ぶ(p18)。
※一方で、未知の欠乏動機が人間の本性、ととらえることには疑問もある。一つはこのような姿勢が必ずしも自由の実践ではないこと。絶対知が存在しないにも関わらず、欲望を上位にとらえることにメリットは存在するのか?また、その欲望の発生はのちの貨幣の議論の変奏(パラフレーズ)から、個々人の意思の反映の結果と呼ぶには暴力的な状況もあるかと思われる。

p18 「以上に述べたような<相対的欠乏>は、さらに踏み込んでいえば、それ自体がすでに知や本能の中に既知化され“プログラム化された”欠乏である、ということが理解されうるだろう。だからこそまた、欲求は目的論で論じうるのである。目的とは、既知のものだからだ。これに対し<絶対的欠乏>とは、プログラムそれ自体が欠けている欠乏(未知・無知)のことなのである。だからそこには、プログラムされるべき対象など、もともと存在しえない。だからこそ欲望は、具体的対象を持たぬ未分化なものなのである。そして未知なるものは、それを目的とすることができない。欲望に目的がないのは、このことによる。」

☆p19 「個体レベルの人間の欲動一般の中で、無の地平から最初に発動する、もっとも根源的な<付加動機>とは何だろうか。
 それは、結論を言えば、人間固有の<知の欲望>つまり知識欲である。知識欲は、絶対的欠乏、絶対的無知の状態(例:出生直後の嬰児)からでも、付加動機によって出発できるのだ。」
p22 「同様に、単に「生きる」だけならば欲求の充足(必要の充足)だけで十分だが、それ以上に、それを越えて、「ヨリ美しく生きる」となれば、そこには欲望による付加(不必要の付加)が欲せられているわけである。
 つまり、欲望(付加動機)は、欲求(欠乏動機)の根拠をなすとともに、欠乏動機を超えた高度なエネルギーをも付加する、より包括的なメカニズムなのである。」
※無意味性を持ち合わせている欲望。これが個人から生み出されるものととらえられるべきなのだろうか。心理主義的なものもやはり感じる。

p30 「いうまでもないが、欲望する生産は、資本主義の社会において、これを動かしていく主要な動機となるのである。」
自己模倣とは??システム論のいう正フィードバック、「欲望とはまさしく、すでに(意識・無意識を問わず)知られ、自分のものになっている快楽が、さらなる快楽を欲する、正フィードバックの付加作用なのである。」

p46-47 「既存の価値体系(社会プログラム)に飽き足らぬ若者たちの欲望の発出は、時に彼らをして不可解で未熟な行動へと駆り立てる。……ところが当の若者たち自身はしばしば、当該行動の<目的>を問われても答えられない。これは彼らの言語表現力が未熟だからではない。目的など、もともと存在しないのである。それは、未分化で潜在意識下にある欲望の不合理な発出だからなのだ。」
p47 「したがって本書においての急務は、まず何といっても、<欲求>という概念を相対化し、ヨリ根源的な<欲望>の概念を社会理論に導入することである。」
※ヨリ根源的である根拠は?
p48 「欲望にもとづく理論構築のためには、合理的な個人主体を解体しなければならないからである。方法論的個人主義の科学観からすれば、「未分化の欲望」なぞ、何をするかも定まらぬ優柔不断で主体性のない衝動であり、およそ措定するべからざる範疇なのではあるまいか。
 だが、集団レベルの考察ではそれが威力を発揮するのである。未分化・無定型の欲望は、集団のレベルで、社会のレベルで、初めて特定の形をとるに至るからだ。」

p53 フロイトの枠組み引用
p59 「したがってヒトがある行為をなそうとする場合、その行為が当該の欠乏状態(目的)をどの程度充足しうるか、という“充足の度合い”を予想することによって事前の充足水準を評価することができる。それゆえ欲求の行為理論は、<事前選択>の観点から記述されうるし、またそうすべきものである。」
p60 「このように事前選択が存在しないとすると、無定型の欲望が何らかの形をとるとすれば(分化するとすれば)、それはもっぱら行為が繰り返され、事後選択され記憶される過程で洗練されていくことになる。」
※ここでいう洗練とは果たして何なのだろうか。欲望の行為は事前評価できないものだという。したがって事後選択しかありえないのに、「洗練」されるようである。
 これはヘーゲルが与えた「弁証法」の二重性に関連しているといえよう。マルクスヘーゲル弁証法の片方を取り上げることで、この「歴史的」弁証法を説明しようとしたが、おそらくその考え方に一致した記述のように思える。なお、もう片方は「欲求」をめぐる事前評価の弁証法であると(一部の本では)説明されているようである。
p61 「すなわち、行為はすでになされているわけだから、爾後、それを“存続させるか抹消するか”、“許容するか許容しないか”、という二者択一の選択をするしかないのである。したがって、かりにある行為が事後選択されたとしても、それに積極的な存在理由はない。そこには「抹消されなかった」という消極的な理由しかないからである。」
※事後評価は「やってみてよかった」という主体的評価によって事後的に選択される場合をいう(p60)。この起点から続いて行う行為というのは、果たして欲望の範疇にあるものといえるのだろうか。これが「洗練」の問題と関連してくる。
 ジラールの議論を見る限り、欲望の反復(特にそれが対象を変化させ続ける動力となる場合に)はひたすら障害を突き崩す、既存の秩序を崩し続けるような形でしか作用はしない。そのような状況から安易な「洗練」の概念を見出すことは出来ない。

p121 「近・現代における我々の貨幣社会では、集合的欲望が長い年月をかけて開拓され」ているという。
※循環論は、まさに社会的なものに焦点をあててしまうために、個々の事例についての検討、そこから循環を生み出していく細かなプロセスを無視した議論になりやすい。ここでも同じ状況があるのでは?
「貨幣が(ワレワレの)欲望を生成する」という命題と「(ワレワレの)欲望が(ユ二バーサルな)貨幣を生む」という命題の違いが大きいのではなかろうか。つまり後者の命題において、我々を扱う際にそれが「(全員という意味での)総意」なのか「(一部の者の)恣意」なのかの区別の必要性を問いたいのである。循環論的には、起源を問うのはムダという回避を通常行うものの(本書でも実際にしている)、別にこの問題は循環の起源を問う必要もない。この循環は貨幣における場合はその純度を高めながら生成されていくものである。その純度が高まるポイントに置ける考察、というのが必要なのではないだろうか。
ここには循環論が連続性を認めたがる傾向がある(本当にそうなの?)という問題、また(それが最終的個人に帰するような形をとるのにも関わらず)「欲望が貨幣を生む」という命題を真といいたがる(それは真偽の判断ができてないまま流用されている!!)問題もある。いずれにせよ、そのような循環論はただの暴力であり、「雑な議論」であるだけである(さら趣味の悪いことに、これを無意識の所産などということもあるし、本書もその流れを受け継いでいる)。
 このような雑な議論はジラールにも同様にいえることであった。が、ジラールの場合は無意識といった問題に帰着するのではなく、ミメーシスというものが人間にとっての本質だと言っている所でとどまるため(フロイトの無意識は批判的であったため)まだ議論を進めやすい。
一方で、貨幣がエネルギー媒体となっている(器官なき身体CsOとなっている)という議論は正しいだろう。

p116 「貨幣の場合で言えば、貨幣が貨幣である個人主義的な根拠など必要なく、貨幣を個人合理的・個人主体的に基礎づける必要もない。」
p177 「だがむろん、現実の社会−経済では、ヒトの行為・システムの作動は一般に<欲動>によって引き起こされるのであり、欲求による欠乏の充足だけでなく、欲望による新しい行為が付加されていく。」
ドゥルーズの主張が資本主義批判として成立しているのかという疑念と、ヘーゲル的主体形成が自由を体現しているものなのだろうか、というのはパラフレーズなのかもしれない。ヘーゲルの主体の議論も資本主義に従属しているのではないか、という疑問がある。
p187 欲望が貨幣を生み、貨幣が商品を生むの構図?
p251 筆者のリゾーム理解について…「もともと自由であるからこそ、商人は別の取引相手とも接続できる。そして別の相手と接続すべき積極的理由がなければ、そのまま結合を続けていく…、かかる消極的な結合は、大きく見るとかえってリゾーム特有の柔軟な構造帰結する。すなわち、ある特定の接続が絶たれたとしても、それはシステムにとって致命的な損傷とならない。」
p282 貨幣をめぐる西洋人の統治の説明??中国人が西欧人以上に銀を歴史的に“好き好んだ”(欲望した)ことに対して、「換言すれば、欧州人は、中国人が自分たちよりも銀を珍重することを逆手にとり、中国人の欲望を弄んだのだ。洋の東西を問わず、歴史の新旧を問わず、他人の欲望を弄び操作して自分の欲望に寄与させるというのがもっとも滑稽な蓄財の手法である。」

(今改めて振り返ってみて)
 本書から展開できる議論はかなり多岐にわたる気がします。今回は欲求と欲望の関係についてに絞って考察します。

 本書では欲求よりも欲望を優位においている点について何を根拠にしているか。これは、p19にあるように人間の知の探求、とりわけ未知なる知への探求がキーとなる。動物には欲望という性質は似合わない。欲望するのは、まさに人間だからなのである、とされる。
 しかし、前にレビューした東であれば、これを「動物的」と呼んだかもしれないのではないか、という疑念が生じる。このねじれはすでに考察したように、生産/消費を循環論的に説明するか、しないかで生じるずれである。

 それでは、どちらの主張がもっともらしいか、という問題が生じてこよう。私の立場は、読書ノートにもあるように、循環論には懐疑的である(少なくとも、本書の循環論はこの手の本にありがちな中途半端な説明しかしてない)。

 この議論の致命的な問題点は、この循環性を人間の本質とすること、これに尽きる。これを人間の本質とすることで、われわれ個々の欲望も本質的なものとして正当性を与えてしまう可能性が生じるのである。
 本書での論点は基本的には、集団とか、社会とかにある訳で、厳密には個人に焦点を当てた議論ではない。この点を混同して解釈した場合、個人レベルでは往々にして存在する主従構造だとか、東のいうような「知らないことを望む心性」をうまく説明できなくなる。
(まあ、循環論批判は集団レベルでも批判したい点はありますが)


 また、ここで議論されている欲求と欲望は不安定な概念となっていないだろうか。著者自身もあまり一貫してこの両者の違いを説明できているようにも思えない。これは、端的に欲望と欲求の説明をうまく統合できていないことを意味しないか?

 p15の記述がわかりやすいだろう。ここでは単純に欲求と欲望を「生きるために必要かどうか」で判断される。そこから付加されるものというのが、欲望の範疇にある。
 しかし、「知」をめぐる位相においては、この前提が完全に異なっている。つまり、既知に属するものは「欲求」にすぎず、非知に属するものは「欲望」に該当する、というものである。何故、既知のものが「生きるための必要なもの」と関連するのか。

 これは1章と2章の議論において出てくる問題でもある。1章では欲求はその必要性から選択の余地がないものとして扱われていた(p15)が、2章では、事前に与えられた情報により行為するものにも適用可能であるとされている。ここにも、「生」の相と「知」の相でのズレが確認できる。
 何が問題かといえば、「絶対的無知、絶対的欠乏の状態では、欠乏動機が作用しえないのである」(p17)と説明する点に現れているように、「知」と狭義の「生」の問題は異なった系の問題である、という点である。

 ただ、動物は知をもたないが、<本能>における相対的欠乏に対する充足動機もまた<欲求>と呼んでいる(p18)。ただ、これをp15に見たように「死活の必然性」に組み込むとすれば、「生」の議論もまた広義になる。
ここでは生殖の問題も遡上に上がっているが、ここでの「死活」性は個人(個体)のレベルを越えた、「種」に対する死活問題として扱われることとなる。
 しかしそれでも、未知か・既知かの問題というのは、個人のレベルを無視して議論してしまってよいものだろうか?「何を根拠にして、死活問題とするか」は判断可能なものとなるのか?確かにこれの例示においては、もっともらしく説明されているものの、そのチョイスは「知」の話と「生」(もしくは本能)の話を二枚舌で使い、ごまかしている感じもある。欲望の議論ありきであるために、欲求の実態がよくわからなくなってくるのである。 
 本書での説明(例示)はやはり最終的に個人に帰している部分が多い気がする。そうするとやはり個人と集団の混同が生じているように読めてしまう。
 
 「知」の側面からも欲求と欲望を検討しよう。既知と未知という違いは中野の「自発性」の話ともよく噛み合っている。が、この未知はどうも我々が「求めたもの」なのかどうかよくわからない、「不必要なものの付加」という考え方が欲望の性質としてあったことを思い出したい。それは果たして「動機」などと呼べるものなのだろうか?これは「我々の欲望が貨幣を生む」の議論で気がかりだった部分に同じである。
 未知への欲望というのは、要するに欲望の非連続性を意味するように思う。それは少なくとも、我々が「探求」するようなものではないのではなかろうか?この非連続性はどのように生じるか?
 我々が衝動買いをするのは「何故」か?衝動買いは基本的に憂さ晴らしであり、そこにはすでに「憂い」がある。その憂いとは、衝動買いとは全く関係ない事象における不満が起因したものである。連続性の存在した欲求(?)が充たされないからこそ、われわれは非連続な欲望へと流れていくのではないのか?そんなことを考えるのである。これはルネ・ジラールの欲望論を取り上げる際にもう一度検討したい。

 ただ、私自身はこのような形で描かれている「欲望」というものを設定すること自体に懐疑的である気がします…

理解度:★★★★☆
私の好み:★★★☆
おすすめ度:★★★☆