ハンナ・アレント「人間の条件」(1958=1994)

東先生がアレントに言及していたので、昔に戻ってアレントを読み返します。
当時もまた新自由主義の話に関心はありました。ただ、問いの立て方は異なっており、「現代において、公共空間をいかに確保することが可能か」というものでした。

訳書はちくま学芸文庫版です。長々としたレビューになります。

(読書ノート)
p15 「労働の枷から解放されようとしているのは労働者の社会なのであって、この社会は、そのためにこそこの労働からの自由を手にするのに値する労働以上に崇高で有意味な他の活動力についてはもはやなにも知らないのである。」

p19 「労働とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行い、そして最後に朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。」
p19-20 「仕事とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。」
p20-21 「活動とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間ではなく、多数の人間であるという事実に対応している。……多数性が人間活動の条件であるというのは、私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きている他人と、けっして同一ではないからである。」
※ここで単純化するならば、この三つの活動力というのは、私自身の生のためにあるもの、物のためにあるもの、他人のためにあるものという区分が可能だろう。

p21 「また、労働と仕事と活動は、未知なる人として世界に生まれる新来者が絶えず流入することを予定し、それを考慮に入れ、彼らのために世界を与え保持する課題を持っている。……この三つの活動のうち、とりわけ活動は、出生という人間の条件と最も密接な関連をもつ。というのは、誕生に固有の新しい始まりが世界で感じられるのは、新来者が新しい事柄を始める能力、つまり活動する能力をもっているからにほかならない。この創始という点では、活動の要素、したがって出生の要素は、すべての人間の活動力に含まれているものである。」

p27 「労働も仕事も、自治的で真に人間的な生活様式bios)を形成するのに十分な威厳をもっているとは考えられていなかった。というのは、労働と仕事は、必要かつ有益なものに奉仕し、そういうもんを生みだすものである以上、人間の必要や欲望と関係のない自由なものではありえなかったからである。」

p50-51 「歴史的に見ると、都市国家の公的領域の勃興は、家族の私的領域を犠牲にして起こったように思える。しかし、炉にたいする古くからの神聖視は、ギリシアでは、たしかに古代ローマほどではなかったが、まったくなかったわけではない。ポリスが市民の私生活に侵入するのを防ぎ、それぞれの財産を取り囲む境界を神聖なものとして保持していたのは、私たちが理解するような私有財産への敬意のためではない。そうでなく、家をもたなければ、人は、自分自身の場所を世界の中にもつことができず、そうなれば、世界の問題に参加することができないからであった。」
※「私有財産への敬意」は資本主義を強く意識しているといえる。

p51 「これに反して、ポリスの領域は自由の領域であった。そして、この二つの領域の間になにか関係であるとすれば、当然それは、家族内における生命の必然〔必要〕を克服することがポリスの自由のための条件である、という関係にある。」
※「これに反して」の部分は次の点にかかる。「人びとが家族の中で共に生活するのは、欲求や必要によって駆り立てられるからである。家族の領域の特徴がここにははっきりと現われている。この駆り立てる力生命そのものであって……それは、個体の維持と種の生命の生存のために、他者の同伴を必要とする。個体の維持が男の任務であり、種の保存が女の任務であるというのは明らかであって、この両方の自然的機能、つまり栄養を与える男の労働と生を与える女の労働とは、生命が同じように必要とするものであった。」(p51)

p53 「このため貧しい自由人は、定期的に保証された仕事よりは、日々変わる労働市場の不安定のほうをむしろ好んだ。定期的に保証された仕事は、毎日自分が好む通りのことをする自由を制限するから、すでに奴隷的と感じられ、多くの家内奴隷の安易な生活よりも、むしろつらく苦痛の多い労働のほうが好まれたのである。」
※従者であることと、生の確保。の問題について。

p71 「近代の共同体はすべて、たちまちのうちに、生命を維持するのに必要な唯一の活動力である労働を中心のするようになったのである。……だから社会とは、ただ生命の維持のためにのみ存在する相互依存の事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ結びついた活動力が公的領域に現われるのを許されている形式にほかならない。」

p87 「もともと「欠如している」という観念を含む「私的」という用語が、意味をもつのは、公的領域のこの多数性にかんしてである。完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」ということを意味する。すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との「客観的」関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する。」
※公的領域ありきの定義。

p91−92 「もともと、財産とは、世界の特定の部分に自分の場所を占めることだけを意味した。したがって、財産というのは、政治体に属すること、つまり、集まって公的領域を構成した諸家族のうちの一つの長になること以上のことではなく、それ以下のことでもなかった。私的に所有された世界のこの断片は、それを所有した家族と完全に一致していたので、市民を追放する場合、単に彼の資産が没収されただけでなく、建物そのものが実際に取りこわされた。外国人や奴隷の富は、どういう事態になっても、このような財産の代替物ではなかった。逆に、ある市民の家族が貧困だからといって、その家長が、世界におけるこの場所を奪われたり、この場所を占めている結果生じている市民権を奪われることはなかった。しかし、市民がなにかの理由でたまたま自分の場所を失うようなことがあると、彼はほとんど自動的に、その市民権と法の保護をともに失ったのである。」
※これを、私生活の神性さとか、私有財産の神聖さと呼ぶ。

p93 「この壁である法は神聖であったが、しかしただ囲い込みだけが政治的であった。囲い込みがなければ公的領域が存在できなかったように、財産を取り囲む垣がなければ一片の財産もありえなかった。」
p93 「たしかに、政治的であることは人間存在の最高の可能性を手にすることを意味した。しかし、ひるがえって、奴隷のように、自分自身の私的な場所をもたないことは、もはや人間ではないことを意味したのである。」

☆p94 「同じ自由人でも、私有財産を売り払い、奴隷と同じように主人として振舞えないような自由人の場合、やはり、貧困によって「強制される」ことがあった。貧困のため、自由人でさえ、奴隷のように振舞ったのである。したがって、私的富が公的生活に加わる条件となった。しかし、それは、その所有者が富の蓄積に従事したからではなく、むしろ、富によって、その所有者が自分で使用手段と消費手段を得る仕事にたずさわる必要がなくなり、公的活動力の自由が確実に保証されたからであった。明らかに、公的生活は、生命のもっと緊急な欲求が満足させられた後になって、はじめて可能となるものであった。生命欲求に満足を与える手段は労働であり、したがって人の富は、しばしば労働者、つまり所有された奴隷の数によって計算された。」
※ここでいう欲求は、厳密に欲望と区別せねばならないものだろう。つまり、生命の維持のために必要なのが労働という見方の方がより正確。

p96 「私たちが前に社会的なるものの勃興と呼んだ事柄は、歴史的にみると、私有財産をただ私的なものと考える態度が、財産を公的な立場から考える態度に変わったことと同じくしていた。……この財産所有者たちは、自分たちには富があるのだから当然、公的領域に入る権利があると要求したのではなかった。そうするかわりに、彼らはむしろ、もっと多くの富を蓄積するために、公的領域からの保護を要求したのである。」

p97 「共通世界は、必ず、過去から成長し、未来の世代のために永続するものと期待されるが、これにくらべると、私的所有物の方は、本質的に、永続性がなき、所有者が死すべきものである以上、その死によって滅びる。」

p98 「公的なるものは私的なるものの一機能となり、私的なるものは残された唯一の公的関心となった。このため、生活の公的な分野と私的な分野はともに消え去った。」
※そして現れたのが、社会的なるものである。

p102 「隠されたものの領域が、親密さの状況の下では、いかに豊かであり、いかに多様であるかということが発見されたのは、ようやく、近代になって、社会にたいする反抗が起こってきてからであった。」
p103 「近代のはじめになると、「自由な」労働は家族の私生活の中に隠れ場所を求めることができなくなった。そこで労働者は、犯罪者と同じように、共同体から高い壁の背後に隠し去られ、隔離されて、たえず監視されることになった。」
※ここでの隠された領域への評価はどうすべきか?単純に言ってしまえば、隠された領域のため、現代に奴隷は必要とも読める。アレントは奴隷をどのような人間としてとらえているのか?というと、むしろ人間ではないという(p93)。

p137 「後になると事情は変わるけれども、古代の奴隷制は、安い労働を手に入れるための仕組みでもなければ、利潤を搾取する道具でもなく、実に人間生活の条件から労働を取り除こうとする試みであった。」
p139 「近代は伝統をすっかり転倒させた。すなわち、近代は、活動と観照の伝統的順位ばかりか、<活動的生活>内部の伝統的ヒエラルキーさえ転倒させ、あらゆる価値の源泉として労働を賛美し、かつては<理性的動物>が占めていた地位に<労働する動物>を引き上げたのである。」
p140 「近代において労働が上位に立った理由は、まさに労働の「生産性」にあったからである。」
p156 「人間の肉体が世界を清潔にし、その衰退を防ぐために従事する日々の闘いには、英雄的行為に似たものはほとんどない。昨日の荒廃を毎日新しく修理するのに必要な忍耐というものは、勇気ではなく、またこの努力が苦痛に満ちているのは、それが危険であるからではなく、むしろ、それが容赦なく反復しなければならないものだからである。」
p165 「苦痛に満ちた体力の消耗と喜ばしい再生とおう定められた循環の外側に、永続的な幸福はない。」
※ところで、ここでは欲望の議論がさしあたってなされているように思うが、欲求の問題はどうか?

p176ー177 「労働の生産物、つまり、人間による自然との新陳代謝が生み出す生産物は、世界の一部分になるほど十分に長く世界に留まっていない。そして労働する活動力そのものは、もっぱら生命と生命の維持に専念して、世界のことを忘れ、無世界的となる。<労働する動物>は、肉体の欲求によって突き動かされるので、<工作人>が最も原始的な道具である手を用いるように自由に肉体を用いることはできない。プラトンが、労働者と奴隷はただ必然〔必要〕に従属して自由を得ることができないだけでなく、自分自身の中の「動物的」部分を支配することができないと示唆したのはこのためである。」
※これを「世界からの追放」の状態であるとも言う(p177)。

p236 「労働過程を支配し、労働の様式で行われるすべての仕事過程を支配しているのは、人間の目的ある努力でもなければ、人間が欲している生産物でもなく、実に、この過程そのものの運動であり、それが労働者に押しつけるリズムなのである。……<労働する動物>が機会の世界に生きるようになった理由は、彼らが世界を建設するために道具や器具を用いているからではなく、まさに、自分自身の生命過程の労働を安楽にするために道具や器具を用いているからにほかならない。」

p242 「いいかえると、道具制作者である<工作人>が道具や用具を作ったのは、世界を樹立するためであって、少なくとも人間の生命過程を助けるためではない。したがって、問題は、私たちは機会の住人であるのか奴隷であるのかということではない。むしろ問題は、機械は依然として世界と世界の物に役立っているのか、それとも逆に、機械とその過程の自動的な運動は、世界と物を支配し、破壊し始めてさえいるのではないかということである。」


p267 「言語を材料とする詩は、おそらく芸術の中で最も人間的で、最も非世界的な芸術であり、最終生産物である作品が、それに霊感を与えた思想に最も親密な関係を保っている芸術であろう。詩の耐久性は圧縮によって生まれ、したがって、あたかも、最も濃縮され集中されて語られる言語は、そのまま詩であるかのようである。この場合、記憶、すなわちミューズの神々の母であるムネーモシネーは、直接記録に変形される。そしてその変形を達成する詩人の手段は、リズムであって、リズムのおかげで詩はほとんどそのまま記憶の中に固定される。詩が残り、印刷され書かれた書物の外部においてもその耐久性を保持することができるのは、このような生きた記憶との親密さのおかげである。たしかに、詩の「質」そのものは、さまざまな標準によって判定されるだろう。しかし、それがよく記憶されるかどうかという、その「可記憶性」は、それが永遠に人類の記憶に定着されるチャンス、すなわち、その耐久性を必ず決定するであろう。」
※生成の議論っぽい話である。

p268 「思考の活動力は、生命そのものと同じくらい情容赦なく、また反復的なものである。そして、思考にいくらかでも意味があるかどうかという問いは、生命に意味があるかどうかと問うのと同じように、答えられない謎である。思考過程は、人間存在の全体に密着して浸透しているので、その始まりと終りは、人間の生命そのものの始まりと終りに一致する。」
p303 「芸術作品は、偉業や達成を称賛し、ある異常な出来事を変形し、圧縮して、その出来事の完全な意味を伝える。しかし、行為者と言論者を顕にするという、活動と言論に特殊な暴露的特質は、活動と言論の生きた流れと解きがたく結びついているから、この生きた流れは、一種の反復である模倣においてのみ、表現され、「物化され」る。」

p320 「正確にいえば、ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではない。むしろ、それは、共に活動し、共に語ることから生まれる人びとの組織である。そして、このポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るというこの目的のために共生する人びとの間に生まれるのであって、それらの人びとが、たまたまどこにいるかということとは無関係である。」

p345 「古代の奴隷解放の場合、一般に奴隷は、奴隷の地位を脱すると労働者でることを止めた。したがって、どれだけ多くの奴隷が解放されようと、奴隷制が労働の社会条件であることに変わりはなかった。これと対照的に、近代の労働の解放は、労働の活動力そのものを高めることが意図されていた。そしてこの意図は、人格としての労働者が人格上の市民権を与えられるずっと以前に達成された。」

p486ー487 「このような議論の背後に隠れて、あるいは、もっと興味の薄いさまざまなエゴイズムの神聖視や自己利益の強力な浸透力……の背後に隠れて、もう一つ別の原理が見られる。その原理は実際、苦痛=快楽計算以上にはるかに大きな能力をもつ原理となっている。それは生命そのものの原理である。苦痛と快楽、恐怖と欲望が、このようなすべての観念体系の中で実現すると考えられているものは、けっして幸福ではなく、個体の生命の促進、あるいは、人類生存の保証である。もし近代のエゴイズムが本当に、誤って幸福と呼ばれている快楽を無慈悲に追求しているとするなら、そこには、真実の快楽主義的観念体系なら欠くことのできない議論の要素、すなわち自殺を根本的に政正当化する議論が含まれていなければならないはずである。これが欠けているということだけをとってみても、私たちがここで扱っているのは、実際は、最も野卑で、最も無批判的な形式の生の説学にすぎないことがわかる。結局のところ、一切のものが関連づけられている最高の標準は、常に生命そのものである。そして、個人の利益とは個体の生命のことであり、人類の利益とは種の生命のことであるとして、常に利益と生命が同一視されている。まるで、生命が最高善であるのは当然であるかのようである。」
p491ー492 「ともあれこのキリスト教的不死は、地上に誕生することによりユニークな生命を始める人格に与えられており、結果として、超世界性を一層はっきりと強めただけでなく、地上の生命の重要性をも著しく高めた。肝心な点は、キリスト教が、異教徒的、グノーシス派的思弁を別にすれば、生命はもはや最終的な終りをもたないけれども、依然として明白な「始まり」をもっているということを常に強調したという点である。地上の生命は、永遠の生命の最初の最もみじめな段階であるにすぎないかもしれない。しかしそれは、やはり生命であって、死において終わるこの生命がなければ、永遠の生命もありえない。これが、個体の生命の不死が西洋人の中心的信条になったときにのみ、すなわちキリスト教の勃興によってのみ、地上の生命も人間の最高善になったという明白な事実を説明する理由であろう。」
※やはりこれは一面的な説明ではないのか?
p492 「キリスト教が神聖さを強調した結果、<活動的生活>内部における古代人の区別や明確な仕切りが均質化される傾向が生まれた。つまり、労働、仕事、活動は、等しく現在の生命必要に従属するものと見られるようになったのである。」
p494 「ともあれ、近代は、世界ではなく生命こそ、人間の最高善であるという仮定のもとで生き続けた。」
※ポイントはこの根拠をキリスト教になぜ求めたか?だ。
p490 「それまで政治の活動力は、最大の原動力を世界の不死にたいする熱望から引き出していた。しかし今や政治は、必要に従属する活動力という低い次元に沈み、一方では人間の罪深さから生じる結果を改め、他方では地上の生命の正当な欲求や利益を満たすためのものになり下がった。」

(当時の関心による考察)
 当時の論点は公共性をいかに確保するのか?という問いであった。
 アレントはこれをポリスの中から見出すことになる。よって、このポリスの性格をどのように描いているのか、というのが専らの関心であった。簡単に言えば、公的空間においては、自由な討論が可能であり、そこに主従関係は存在しなかった。また、十分な議論が可能であるため、その討論がそのまま法であり、ポリスの壁にさえなったという。そして、そのような議論を可能にしたのが、世界に対する見方であり、その永続性の追求にあったといえる。

 ここで実際のポリスがアレントの言う公的領域に見合ったものだったのか、という論点は野暮なので取り上げない(といいつつ、私はポリスの歴史に関する本を何冊か読みましたが)。なので、あくまでアレントのいうポリスは架空のものであり、そのような見方をした場合には一定の完成度のある文学であるように感じた。
 アレントの他の著作も数作読んでいたが、多くが直近の社会問題を扱っており、どうしてもリアリティを求めざるを得ない。そのため、アレントの主張はその議論に意味があるのか、と感じることが多かった。しかし、本書はそれほど直近の問題を扱っていなかったため、あまり違和感を(当時は)感じずに読んでいた。

 しかし、それでも、この架空性について合意できなかった点がある。奴隷とポリスの市民の関係性についての部分である。アレントは両者の関連性についてはほとんど触れていない。p51においてポリスにおける私的領域の重要性が説かれているが、当時はこれの解釈がいまいちできなかった。
 アレントは別の著書で子どもに対するパターナリズムを認めている(「過去と未来の間」、訳書1994)。公的領域においては、常にフェアな関係であるが、このパターナリズムは子どもに格下の地位を与える代わりに、公的領域からの保護も認めるものとなる。この話かと最初思ったが、今読み返すと、そうでもない気もする。
 ここでは欲求を満たすために他者を要する、という点だけである。ここではむしろ性の問題の方が大きい。そして、この私的領域を克服しているのがポリスであるとさえいう。

 しかし、この克服は何を意味するのかについては、アレントは肯定的な解釈しかしていない。アレントはポリスの市民の生の確保が多数の奴隷の使役によって成り立っていた点について何も語っていない。
 これは東の言ったことがかなり的を得ている。人間はずっと公的領域で議論をしていただけでは、生を確保できない。が、ポリスの市民はその生の確保は自らで労働することで行う必要がなかったのである。これは議会に参加した際の報酬や、奴隷の使役によって得た余剰などによって支えられていたものである。公的領域においては主従がなかったが、それは、私的領域における主従により成り立っていた。この点は多少アレントは言及していたが、ずれた議論を展開していたように思う。

 そうすると、アレントが理想とするような公共空間を現代に再生させようとすることなど、ある意味馬鹿げている。この議論を進めた際に出てくる極端な論点は、「第三世界は第一世界の奴隷として使役されることが認められる」とか「現在の秩序をそのまま受忍しろ」といったものにしかならないのではないか?このような議論を回避するための主従関係なしの討論であるとはされるが、間接民主制をとる日本では、理念的にもそれが達成できそうにない。
 
(今改めて振り返ってみて)
 当時関心を持っていた論点以外にもいくつか興味のある点がありました。
 何より一番の印象は、彼女が資本主義を目の敵にしているというものでした。随所に現在の労働観/資本主義に対する、あるいは、マルクスに対する批判があり、どれだけ嫌いなんだ…と思いました。

 その中でも、最後に言及されていた「生」の問題は、彼女も言及していたのかと、ビックリして読んでました。ただ、この生の標榜の根拠をキリスト教に求めようとするのは、あまりに恣意的ではないでしょうか。どうもポリスのあった時代にはキリスト教はなかった、という事実から出てきた結論のように思えてしまいます。
 先述のように、アレントの主張を鵜呑みにすれば、既存の秩序への受忍を強いられてしまうように思われます。これを解放するための「自由」であり、それは、その秩序の受忍を認めることができなかった者、ポリスにおいて「隠されていた」奴隷たちの運動だったのではないのでしょうか?
 ただ、これは「生」を確保するための活動が、奴隷により独占されていた状態をも解放し、それが労働を顕著に目立たせるようになったのではないのでしょうか?

 もちろん、これはただ漠然と「生」を語っているとよくわかりません。そこで、少しこの「生」を考察します。

 通常、「生」の問題は「それがないと死に直結する」ものと、「生活を送る上での不自由さがある」という2つの論点から語られると思いますが、今回は前者にしか焦点をあてません。

 このような「生」の危機にはどのようなものがあるか。
 一番シンプルなのは、食の確保。次に、生命の危機を生む疾病。先天的にやってくる障害も一部含まれるでしょう。そして、天災と人災。
 境界線にあるのは、住の確保あたりでしょうか。ホームレスでもなんとか生を維持できていますが、住所のないことは現在の法からの保護も受けられないことに繋がります。ただ、やはり間接要因と呼ぶべきでしょう。
 あとは、自殺。純粋な自由意思を認めればこれは危機の問題として扱われることはないでしょうが、社会的要因により規定されると解する場合に危機とみなされます。

 では、このような「生」の危機に対して、我々はどのように対処してきたか?まず、ミクロな視点でみれば、それは相互扶助によりなされていたと言えるでしょう。
 マクロな視点でいえば、技術の発展によって、それが確保されたもの、そして技術的であるとはいえないが、手厚い福祉により確保させるもの、である。

 ここで、技術的であるものと、ないものとでは何が異なるでしょうか?そうすると、ほとんどが食の問題といった、ごく日常的な事象であることに限り、さほど技術的なものが要求されていないといえよう。ただし、相互扶助や福祉について言っても、技術の発展があってこそ「生」が確保できるという側面もある。
 
 ここで言いたいのは、「生」の確保する領域というもの自体が、近代が進むにつれ拡大してき続けているとみなすことができる、という点です。疾病を克服するための医療の発達、天災を予期し、それに対処するための技術の発達、そして人災を回避し、福祉を充実させるためのの政治・法・規範の整備といった点に原因を求めることができるでしょう。問題はアレントの言うようにこの「生」を批判する立場に立つということは、これらの技術や法などを全て否定するということを意味するのか、という点です。
 アレントの批判というのは、結局コインの一面(それも裏側)を見ているにすぎないのではないでしょうか。それを表から見れば通常このような説明でその正当性が説明されるはずでしょう。(このコインの構造自体の解明、というのは今後の私の課題でもありますが…)

 アレントが結局なにを志向しているのかと言われると、とても曖昧で、しいていえば、フェアな対話に留まります。
 なおかつ、「生」に対する扱いも曖昧です。アレントの場合これは「安楽さ」「無世界的」「動物的」といった言葉には結びつきますが、今回考察した側の「生」の問題も無視できませんし、この指摘の本質を「世界か人間か(永続性)」という問題だとすると、すでに述べたように、ポリスに理想型とすることに問題はあると思います。

 しかし、私自身もこの「生」への懐疑を持っているため、この点でアレントには同意できます。ただ、私もこれに反論ができない。単純に生の至上主義への批判、というのは容易いが、具体的にこれはどのような批判として現れるのかがわからないのである。 


 おまけにもう一点、バーリンの消極的自由の議論と関連でですが、アレントの議論とはどう結びつくか。バーリンは端的にパターナリズムを批判するし(つまり、大人も子どもも同じように扱うべきだと考える)、なおかつベンサムの言葉を借りつつ、生きている人間のみの絶対的優位を指摘している。
「個々人の利害が唯一の真の利害である……現に存在している自分よりも存在していない人間の方を好むほどに、またまだ生まれていない、いや決して生まれてこないかもしれないひとびとの幸福を促進するという口実のもとに、現に生きている人間を苦しませるほどに不合理な人間がいるなどと考えられるであろうか。」(アイザイア・バーリン「自由論 2」訳書1971、p389ー390)

 アレントは「永続性」に関する議論の中から、パターナリズムを認めるし、おそらくはまだ生まれていない、将来的に生を受ける人間に対しても開かれた自由を志向しているように思える。もっともな話だが、そうすると「我々は自己犠牲すべきである」という問題が出てくるし、未来の議論をどうするのか、という問題も出てくる。また、同時にこれは「死者の人権」問題とも関連してきてもよい話である。日本国憲法は確かに死者にも、胎児にもなっていない者の人権も認めておらず、これを貫けば自動的にバーリンの言い分と結びつく。

 今回はこんな感じで。

理解度:★★★★☆
私の好み:★★☆
おすすめ度:★★☆