アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート「<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」(2000=2003)

中野論文を読んでからまず興味をもったのは、新自由主義的な「統治」の性質の問題でした。フーコーなども読んでましたが、「自発的」な主体がどのようにして従者として組み込まれていくのか、そのメカニズムを追った本をよく読んでいました。
その中でも最も印象に残っている本の一つがこのハートとネグリの本でした。
先に「マルチチュード」(訳書2005)を読んでいましたが、いまいち何がいいたいのかよくわかってませんでしたが、ネグリとハートの評価もこの本で随分変わったものです。

今回は久しぶりに本書をパラパラ読みながら、必要な部分を追加で引用記述しつつ、ノートにしました。というか今回はほぼ全部引用です。

(読書ノート)
p41 「生権力とは、社会的生に密着しつつ、それを解釈し、吸収し、再分節化することによって、内側からそれを規制するような権力形態のことである。権力は——それが、あらゆる個人によって自発的に受け入れられ、再活性化を施されるような生気にあふれた統合的機能となるときにのみ——、人口を構成する住民の生全体に対して実効的な指令を及ぼすことができるのだ。」
P43−44 「管理社会と生権力というこれらの概念構成は、ともに<帝国>の概念の中心的諸側面を描き出すものである。<帝国>の概念は、そのなかで諸主体の新たな普遍的混在性が理解されなければならない枠組みであり、新たな権力パラダイムをめざしている目的である。まさにここにおいて、国際法のさまざまな旧い理論的枠組み(契約という形態および/または国連という形態をとった)と、<帝国>の法の新たな現実性とのあいだの、真の裂け目が開かれることになる。〔<帝国>の法的〕プロセスを構成するあらゆる媒介的要素は事実上脇に押しやられてしまい、そのため国際秩序の正統性はもはや媒介を通じて構成されるよりも、そのすべての多様性において無媒介的に把握されなければならないものとなるのである。」
P34 「超国家的な法の現代における変容をとおして、<帝国>の構成プロセスは直接的または間接的に所々の国民国家の国内法に侵入し、それを再編することへ向かっているのであり、またそのようにして、超国家的な法は国内法を強力な仕方で重層決定しているのである。
 おそらく、こうした変容のもっとも示唆的な微候は、いわゆる介入の権利の発展であろう。この権利はふつう、世界秩序の支配的な諸主体が協定の履行を保証したり、平和を押しつけたりすることによって人道上の諸問題を解決しようとして、他の諸主体の領土に介入する権利ないしは義務とみなされている。……だが、この権利の現代における再編は、質的な飛躍を表しているのだ。もはやかつての国際的な秩序立てのもとで行われていたような、個々の主権国家または超国家的な(国連の)権力が、自発的に結ばれた国際協定の適用をもっぱら保証したり、強要したりするために介入するような事態は見られなくなっている。いまや、法権利によってではなく、合意によって正当化された超国家的な諸主体が、あらゆるタイプの緊急事態を上位の倫理的諸原理の名のもとに、現に介入を行なっているのだ。」

P111−112 「哲学者たちは、このような媒介がどこに据えられ、またそれがいかなる形而上学的水準を占めるのかということを、さまざまに論じはしたけれども、しかし、そのさい根本的に重要なのは、人間のあらゆる活動・技芸・連合にとっての避けられない条件として、媒介を何らかのかたちで定義するということにほかならない。人文主義の革命的思想を歳出するさいの母体となった力強さー欲望ー愛という三幅対に、以下にあげる独特の媒介からなる三幅対が対置されたのである。すなわち、第一に、現象というフィルターをとおしてのみ、自然と経験は認識可能であるということ。第二に、知性の反省をとおしてのみ、人間の知識は実現可能であるということ。そして第三に、理性の図式化をとおしてのみ、倫理的世界はコミュニケート可能であるということ、これら三対の媒介である。ここで作動しているのは、媒介の形態、またはもっと正確にいえば、反省的な回帰と一種の弱い超越性なのだ。このような弱い超越性は、経験を相対化し、人間の生と歴史のなかに現れる無媒介かつ絶対的なものの審級をことごとく廃棄するものである。だが、それにしても、なぜ、このような相対性が必要とされるのか?なぜ、知と意思がみずからを絶対的なものであると主張するのを許すことができないのか? その理由は、マルチチュードの自己構成的な運動のすべてを、あらかじめ構成された秩序に服従させることが必要であったからであり、また、人間たちがみずからの自由を存在のなかで直接的に確立することができると主張することは、秩序をかき乱す妄想だと決めつけていたからである。これこそが、ヨーロッパの近代性というヘゲモニー的概念が構築されるさいにみられる、イデオロギーの移り変わりの本質的な核をなすものである。」

P205「局所化できない唯一の名、あらゆる時代において純粋な差異をあらわす「共通名」とは、貧者という名である。貧者は窮乏し、排除され、抑圧され、搾取されている——それでもなお、生きているのである! それは生の共通の分母なのであり、マルチチュードの礎なのである。」
P206「貧者たちはただこの世界のなかにいるだけなのではなく、貧者たち自身が、まさにこの世界の可能性なのである。ただ貧しき者だけが、窮乏と苦痛のなかで、アクチュアルな現在の存在を根源的に生きているのであり、したがってただ貧しき者だけが、存在を再生する能力をもつのである。貧者のマルチチュードがもつ神性はいかなる超越性にも向かうものではない。反対に、この世界のこの場所で、この場所においてのみ、貧者という存在において内在性の領野は差し出され、確認され、ひとつにまとめられ、そして開かれるのである。貧しき者とは地上の神なのだ。」

P215「あらゆる超越的な権力からの人間の解放は、自らの政治的制度を構築し、社会を構成するマルチチュードの力にもとづいているのだ。」
P216 ネットワーク的権力について…「言いかえれば、この新たな主権が拡大するとき、それは直面する他の諸権力を併合したり破壊したりするものではなく、逆にそれらに対して自らを開き、それらをそのネットワークのなかに取り込むのである。」
P243−244 市民的秩序と自然的秩序のあいだの主権の弁証法は、純粋な自然の消失により、終焉を迎えてしまっており、また、公私のあいだの弁証法も、公共空間の私有化が進むことによって意味をなさなくなっている。外部が存在しなくなってきている。

P247「<帝国>とはどこにもない場所なのであり、あるいはもっと正確にいえば非ー場なのである。」

P251「さまざまな人種の階層秩序は、それらの分化がもたらす効果として、換言すれば、それらの文化のパフォーマンスにもとづいてただ後天的にのみ決定されるというわけである。したがって、<帝国>の理論によると、人種的な優位性と従属性は理論的な問題なのではなくて、自由競争の結果として、または、一種の市場法則に則った文化の能力主義の結果として生ずるものなのである。」
P330「第三世界から逃れ、仕事や富を求めて第一世界へと向かう労働者たちは、それら二つの世界のあいだの境界をその根元から掘り崩すことに貢献している。」

P387「二〇世紀における福祉国家の興隆と没落は、こうした公的・私的な領有の循環的進行における、いま一つのサイクルであった。福祉国家の危機が意味したのは、何よりも公的な資金によって構築されていた公的な補助と配分の構造が私有化され、私的な利益のために徴用されているということであった。エネルギーやコミュニケーションの民営化〔私有化〕に向かう現在の新自由主義の傾向は、この危機の進行におけるさらなる契機である。……共有のものは、かつては公共的なものの基礎と考えられていたが私的利用のために収用され、誰も指一本動かそうとはしない。公共的なものはこうしてその概念においてすら解体され、私有化されてしまった。というより実際は、公共的なものと共有的なものの間の内在的な関係が、私有財産権という超越的な権力にとって代わられたのである。」

P419「管理社会への移行に伴って生産されている主体性は、アイデンティティにおいて固定されたものではなく、異種混交的で、変調する主体性なのである。近代的諸制度の効果を規定し分離していた壁がだんだんと崩れて行くにつれ、それと同時に主体性は、多様な結合状態、配合状態のうちにある数多くの制度によって生産されるものとなっていく。」
P420「異種混交的な主体とは、工場の外での工場労働者であり、学校の外での学生であり、監獄の外での被収監者であり、精神病院の外での狂人であり、同時にそのすべてなのだ。それはいかなるアイデンティティにも帰属せず、かつあらゆるアイデンティティに帰属している——言いかえればそれは、諸制度の外部にありながらも、規律の論理によっていっそう強力に支配された主体性である。<帝国>的主権と同じように、管理社会の主体性もまた混合的構成をもつのだ。」

P429 「近代国家の正統化と行政管理にとっては行政管理活動の普遍性と平等性が再優先されたが、<帝国>の体制において根本をなすのは、個別特殊な目標に対する活動の特異性と適合性である。」

P433−434「<帝国>の指令はもはや、近代国家の諸々の規律的様態を介してではなく、さまざまな様態をとる生政治的管理をとおして行使される。さまざまな様態をとる生政治的管理の基盤と目標は生産的なマルチチュードにあり、厳格な組織化も規格化も受けつけないそうしたマルチチュードを、その自律性を認めながらも統治しなければならないのである。<民衆>という概念は、もはや指令のシステムによって組織化された主体として機能することをやめている。その結果、<民衆>のアイデンティティマルチチュードの可動性、柔軟性、永続的な差異化に取って代えられている。こうした転換は、権力の正統性という循環的性質をもつ近代の観念——権力がマルチチュードから単一の主体を構築し、その主体が今度は当の権力を正統化する、という観念——を脱神秘化し、破壊する。この洗練された同語反復は、もはや有用性を喪失しているのだ。
 マルチチュードは、ポストモダン的資本主義システムの諸機関によって、また実質的に包摂された社会的諸関係の内側で統治されるのである。マルチチュードは、生産、交換、文化のなかの内在的媒介にそってのみ——言いかえれば、マルチチュードの存在をめぐる生政治的文脈においてのみ——統治されうる。しかしその脱領土化された自律性という点で、マルチチュードのこの生政治的存在は知的生産性をもった自律的大衆へと、絶対的なデモクラシーの権力へと——スピノザのいう意味で——変容を遂げうる潜勢力をもっている。もしこの変容が生じたならば、生産、交換、コミュニケーションに対する資本主義の支配は転覆されてしまうだろう。このような事態を阻止することが、<帝国>の統治の第一の、かつ主要な課題である。しかし<帝国>の政体構成がまさにみずからの存在そのものを、このような脅威をもたらす諸力、自律的な生産的恊働の諸力に頼っているということは銘記されねばならないだろう。それらの諸力は管理されねばならないものだが、破壊されてはならないものだのだ。」

P435「貨幣は絶対的管理のために。第二のグローバルな手段である。世界市場の構築は何よりもまず、以下の点にかかっている。通貨による国内市場の脱構築、国家的そして/あるいは地域的な通貨管理制度の解体、市場の金融権力の必要性への従属、国家的な通貨制度が主体的な性格を喪失するにつれ、それと入れ替わりに<帝国>の政治的・金融的中枢である諸々の世界都市に集約される新しい一方向的な再領土化がうっすら見えはじめている。」

P478 「さらにいえば、アメリカは<帝国>の危機と衰退を取り除くことも回復することもできない。アメリカは、ヨーロッパ的あるいは近代的とすらいってもよい主体が逃がれていき、その不安と不幸を解消することのできるような場所ではない。そんな場所は存在しないのだ。危機を乗り越える手段は、主体の存在論的転位にほかならない。」

P490「<帝国>の構成は、これら新しい諸力の台頭の帰結であって原因ではない。だから<帝国>が、社会的・経済的諸関係のグローバル化という新しい現実に適合した権利の体系を、その努力もむなしく構築できないでいるのも不思議なことではない。この不可能生の原因は、規制の領野が大きく拡大したことにあるのではない。旧い国際公法のシステムが新しい<帝国>システムへと移行することがたんに困難であるからでもない。そうではなく、この不可能生の原因は、マルチチュードの革命的性質に求められる。マルチチュードの闘争こそが、自己のイメージの逆立像としての<帝国>を生み出したのであり、いまや彼らはこの新しい情勢のなかで訓致できない力、いかなる権利と法にもおさまらない価値の過剰を表現しているのだ。」

P495「<帝国>にできることは、孤立させ、分割させ、隔離することだけだ。<帝国>の資本は倦むことなき断固たる決意で、マルチチュードの移動を攻撃する。<帝国>の資本は海と国境をパトロールし、各国の内部では、分割し隔離を行なっている。労働の領域ではそれは人権、ジェンダー、言語、文化などの亀裂や境界線を強化する。しかしそうだとしても、<帝国>はマルチチュードの生産性をあまりに制約しすぎないように配慮せねばならない。というのも、<帝国>自身もまたこの力に依存しているからだ。マルチチュードの移動が世界中に拡張していくこと、このことは容認されなければならないのであって、だからマルチチュードを抑圧しようとする試みはじつに逆説的なものなのである。つまりそれは、マルチチュードの強さの逆立した表現にほかならないのだ。」

(今改めて振り返ってみて)
統治をめぐる議論をしている本というのはもちろん数多くありますが、その具体性でいくと本書はかなり詳しく、その意味で言いたいことは理解しやすいです(分量は多いですが)。
ドゥルーズガタリなんかも、ほとんど同じことを言っていますが、やはりその辺との違いも具体性にあります。マルチチュードへの着眼もそうですが、「貧者」「資本主義」「主体」といったキーワードに与えている意味もしっかりしており、的を外していない気がします。

ただ、改めて読んでみて、気になる部分は何点かありました。
1.既存の一国家の「法」との関係について
  <帝国>は既存の国家という概念も飲み込んでしまうものとされますが、ただ、それでもなお国家が存在し続け、そこに憲法をはじめとした法規が生き続けている場合、それとの兼ね合いをどうとらえればよいか。
P34で国家の法が浸食されることを示唆する記述がありますが、ここでの例というのは、むしろ国際関係の中での関連という色がとても強く、既存の国家関係を規定する国家間の協定なり国際法なり国連なりを想定している。
ただ、国内で効力を発揮していた法自体に対しては、特に具体的な記述がなかったように思います。
 確かに、国際問題や経済の動きから見ていけば、<帝国>の話はもっともらしく聞こえはしますが、この国家の法との関係で見ると、一種の緊張関係があり、<帝国>化することも制約しているようにも思えます。そして、この問題を解決するには、まさに「国家による法」を全て否定できていないといけない。我々が第一義的に国家により守られているという事実を考えると、やはり気になります(注1)。

2.媒介/無媒介をめぐる問題について(P111−112)
 これについては、「果たして無媒介なものなど存在するのか」もしくは「あったとして、無媒介なものに対する価値は本当にあるのだろうか」という反論を投げかけたい。これは「生成」をめぐる哲学の議論では頻出の議論ではありますが、正直なところ私がうさんくさいと感じているものです。
今後ドゥルーズについても読書記録を上げるので、その際に改めて議論します。

3.存在論による根拠づけについて
 ドゥルーズもまた然りでしたが、ネグリとハートも<帝国>とマルチチュードの議論の最終的な根拠を存在論現象学的なものに見出しているきらいがあります。「存在論の優位性の根拠は何か」という論点も、読み進めてきた部分なので、追って考察したいと思います。


理解度:★★★★
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★★★

(7/4追記)
(注1)この論点については、レッシグの「CODE」にて考察した議論で再考して、批判として成り立たない可能性を示しました。例えば、地方分権という文脈というのも、マルチチュードの手によって、国内法の効力に影響を与える、という可能性は確かにある気がします。