「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間考察

 今回は前回に引き続き、中津川市の教育正常化運動の考察を行う。

 

・小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」(1985)について―丹羽実践の批判から

 

 まず、小木曽の自費出版本の2冊目の内容について、丹羽徳子の実践内容を含む恵那の子編集委員会の9冊の編書に対する批判が語られている点から見ていきたい。小木曽はこれらの著書において「中津川の教育に深く根付いている「生活綴り方教育」なるものが、特定の政治・思想を根底にもつ「社会変革」の手段として利用されてきた」こと(小木曽1985,p96)が随所に示されていることを指摘する。確かにこれは正しく、例えば、中津川の教育実践の中で実践者側のリーダー的存在である石田和雄などは次のように主張する。

 

「さらに目立つことは、教育に関する父母・国民の不安を助長させながら、その鉾さきを民主的な教育と教師に対して向けさせるやり方を(※三木内閣が)しきりにとってきていることです。今年になってから、PTAという形で、民主的な教育と教師へ対置した問題を提出させることが露骨になってきています。 

それは、今までの教育支配が生みだしてきた、子供の人間破壊や、あるいはわからない学習の増加の問題を利用して、民主教育に攻撃を加え、破壊しようと企んでいる、極めて危険な策略とみることができるのです。 

たとえば、高度経済成長政策によって、自然が破壊されたり、公害が発生していることは、誰の目にも明らかで、誰もが高度経済成長政策は駄目だったということを認めるし、その限りでは国民的な合意が成り立っているともいえます。しかし、同じ高度経済成長政策としての人づくりであり教育の問題では、中教審路線が子どもの人間破壊をすすめていくものであることを、私たちを含めて、民主的な人々が、もっとも早くから警鐘鳴らし続けてきたにもかかわらず、今日、子どもの人間的破壊が誰の目にも明らかに映るということになってはいないし、しかも、それがこれまでの人づくり政策による教育支配のせいなのだという点で、国民的なコンセンサスができあがっていないというような、そうした複雑さを教育はかかえているのです。そこに教育問題のむつかしさがありますが、支配はそのむつかしさを巧みに利用して、父母・国民の鋒を民主教育に向けさせ、攻撃を仕掛けてきているのです。 

教育問題のむつかしさということで、いますこし補足しますが、ごく簡単にいって、公害だ、といえば、それは政府の政策が悪かったんだということでの理解が早いのです。けれど、子どもがひどく悪くなっている、ということでは、それは政府の政策が悪かったからだと、直ちに理解されない状況があるのです。子どもの悪さについては、先生のせいなんだというように思われている問題や、子どもの資質や親のせいに考えられている問題が存在していて、これまでの中教審路線としての人づくり政策が、今日のような結果を、子どもの上にもたらしてくるものなのだということもわからないわけではないが、実際にはそのことがなかなかつかみきれないのです。」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p129-130)

 

 この引用での発言の趣旨は少しわかりにくさもあるものの、このような教育問題は、そもそもの体制がおかしいという批判に繋がらないことへの不満として現れているものといってよい。このような「思い込み」に対して、小木曽は次のように反論するのである。

 

「「市議会」での教育論議も「非教育的」になるらしい。

 とんでもない。中津川の教育の中味が、ずっと以前からもっともっと市議会で論議されているなら、中津川の教育の今日、かかえている困った問題の大半は片づいていたといえよう。……

 市議会で市民の声を背景とした教育論議を「非教育的」と決めつける主張が、生活綴り方教育の本に堂々と出てくる。中津川の生活綴り方が、どんな立場の人達をリーダーとしているか、わかるような気がする。」(小木曽1985、p222)

 

 中津川市議会で取り上げられる「教育問題」が「非教育的」であるかどうかは、前回の中間報告で引用した議員の発言からも察することができたのではないかと思う。そもそも議員自体が教育についてわざわざ取り上げることについてためらいさえあったにも関わらず、何故教育問題を議会で取り上げなければならなかったのか。そのような前提から議会での議論を押さえねばならないように見えるのに、「反正常化側」は完全に政治的問題に還元し、これを一方的な政治的攻撃としか考えようとしないのである。

 

 また、丹羽(1982)における反論として、1976年度の坂本小学校における学力問題等を「ウワサ」として片づける態度についても、小木曽は次のように反論する。

 

「次に掲げる文章は、昭和五十一年十月から十一月にかけて一斉に行われた坂本小学校PTA主催の学級懇談会或いは地区懇談会で一般の親からどんな意見が出されたかを学校側で九ページにまとめられた資料から抜き出したものである。これをみれば当時の坂本小学校の授業内容がどんなにひどいものであったかうかがい知ることができ、そういう声が凝縮してその年の十一月六日「会」結成となったことも理解していただけよう。

 ▼算数・国語をしっかりやってほしい。基本ができていないと、中学校の三者懇談会で言われて不安。(十月十九日、六年学年委員会)

 ▼教科書がすすんでいない。学校教育の実態を知ると自習時間が多い。(十月十九日五年学年委員会)

 ▼小学校の高学年や中学校は勉強を主にやってほしい。親達が責任をもって地域はやる、学校はもっと学力をつけてほしい。(十月二十五日、中洗井五、地区懇談会)

 ▼授業時間にやる子ども会の実態や成果を先生はつかんでいるか。基礎学力低下の問題について先生の態度に不満だ。(十一月二日、星が見地区懇談会)

 ▼教科書があるのに、なんで副読本、参考書を使っているか、教科書はぜんぶ教えてほしい。(十一月二日、中切・地区懇談会)

 ▼地域子ども会もこれで三年目だが反省する時期ではないか、できれば地域子ども会は止めさせたい。(十月三十日、深沢地区懇談会)

 ▼坂小の子どもの学力が低いのではないかという不安がある。特に他の学校では教科書を使っているのに教科書が使われていないのは問題だ。(十一月九日、三年二組・学級懇談会)」(小木曽1985、p214-215)

 

 どのような意図で学校側がこの資料を作ったのかは不明であるし、これは多数の親がこう思っていたことの根拠たりえないものの、無視できないレベルの不満があったのは確かである。

 

・小木曽(1980)の内容検証について

 

 前回の小木曽(1980)のレビューでいくつか課題とした点、また根拠がはっきりしていなかった点について挙げたが、これについても確認作業を行った。

 

 まず、「中津川の親たちの「知育」に関する関心の高さには、先般、市が実施したアンケートにも如実に表われている」(小木曽1980、p47)としている点である。これは「広報なかつ川」1979年2月1日号に掲載されている、「市民意識調査」の結果で「特に力を入れてほしい市の仕事」の中で23項目中「教育」が3番目に挙げられたことを指しているものだろう。しかし、この意識調査では、高々8.6%の人が「教育」に期待しているにすぎない。一番力を入れてほしい分野とされた「医療施設の充実」も11.0%であり、この割合だけで、一般市民の関心の高さまでは指摘できるものとは言い難く、この小木曽の主張は適切ではないと言える。

 

 次に、p166-167で語られた「父母の教育要求第一次調査」の結果である。「学力・体力・生活」の3つの中でどれが最も大切な力か、を問う質問に対し、子どもの年齢層により異なるものの、全体では「体力(44.8%)」「生活(29.1%)」「学力(25.6%)」の順番になっている(中津川市学力充実推進委員会「父母の教育要求調査のまとめ」1981,p4)。ただし、このまとめでは、関係者による座談会の内容も掲載されており、「(※一番大切なのは)本当は学力といいたいのだが、生活は、人間が生きていく上において当然のことなので二位になり、三番目に学力が入ったのだろうと思います。」(同上、p18)「親はまず第一番に学力と書きたいんだ。ところが生命あってのものだね、だから、「体力」と書いたんだと思います。なぜ「学力、学力」と言われるかというと、社会にひずみがあるからだと思います。」(同上p21)というように、アンケートに関与した者からもあまり正しい結果だという認識がなかったらしい。言い換えれば、「学力要求の強さ(そしてそれが一辺倒なものである)」という認識が広くなされていたということでもある。

 

 最後に「小木曽が何故現場ではほとんど不安要素がなくなったのに教育懇談会を続けたのか」という問いである。確かに最初の問題提起であった通常の授業の実施という内容はかなり早い段階である程度解決したようであるが、一部の教師による中津川の教育支配に小木曽が不満をもった理由というのは、当時の中津川市全体の教育問題の論調などをみると、いくつか考えられるものがあるといえる。

 一つは、「教育現場は決して褒められた現状にないにもかかわらず、「反正常化」側は『恵那の教育』を讃美し続ける態度を取り続けるのに対し、当事者(にさせられた側)として恥ずかしささえある」という認識が少なからずあったのではという点である。これは小木曽本人が直接語った訳ではないものの、恵陽新聞における他の論者はこのように見ている者も複数おり、このような「根拠のない讃美」というのを、自分たち中津川市民の実践として(反正常化側はこれを「教師の親の連帯」の強調として語っていた)取り上げられることに対する憤りが強くあったものと推察できる。小木曽(1985)の内容が反正常化側への反論に終始しているのがその現われであると私は見る。そういう意味では、単純な現場の改善云々だけではなく、「正義」の問題として、恵那の教育の実践者として自らが巻き込まれることに対する反発心というのが、この正常化運動の前提として存在せざるを得ない状況だったと言うことができる。

 また、これに関連して、複数の現場から偏向教育の実践や、教育活動に真摯に取り組もうとしない教師に対して、改善を求めるような動きを行う必要性について強く感じていたという点も挙げられる。後述するように、当時の中津川市教育委員会は、現場改善に対する機能を失っていた状態であるのは明らかであり、議会や市民運動としてこれを改善要求しない限りは現場が変わらない状況であったことに対し、小木曽は正常化運動を継続していったのである。これらの理由は、教育懇談会を継続するのに十分すぎる理由だといえる。

 

・当時の中津川教育委員会と教育長の問題について

 

 私が榊編(1980)以来、重要な論点として提起してきたのは、教員組織の「自律性」の問題であった。反正常化側はこの「自律性」を「教育支配を一切受けないもの」という意味で捉え続けてきた訳だが、本来的にはこの「自律性」には専門家集団として当然に持ち合わせなければならない「(内省も含めた)自浄作用」、つまり集団内で十分な議論を行うことで時に批判し合い、誤りを正していくという性質もまた欠かすことができないものであるはずであった。反正常化側もこの側面について「専門性の向上」としては言及することがあるものの、「相互批判」という文脈ではほとんど語ることがないし、少なくとも実践のレベルでは皆無であることをこれまで私は指摘してきた。

 これは「恵那の教育」の事例においても変わらない。管見の限り、現在に至るまで、この「恵那の教育」を支持する反正常化側の立場にある論者は、偏向教育の実態に対して何一つコメントをしようとしない。そんな事実はなかったかのように振る舞い、それは「政治問題」として体制側が攻撃している以上のものではないと解釈するのみなのであった。この「コメントをしない」ことこそが、「自律性」の欠如の根本的な現われである。「コメントをしない=クレームを申し立てない」状況はまさに改善を要求していないことと同義であり、それは転じて「コメントをしないこと」は専門家集団内で行ってよいこと、そして傍から見れば「何をやってもよい」という風に見えることを意味しているにも、関わらず、このことを反正常化側は全く理解しようとしていないように見える。次のような主張もまたそのことへの批判の一つである。

 

「煽動教育においては、決して反省はない。すべて自分が正しい、とする。マルクスレーニンの革命主義も同じである。そして不満はすべて政治や社会や学園が悪いからだとするのである。これ、革命主義の革命パターンにも連なる。反省して自分が正しいか正しくないかなど考えていては革命に参加することができないからである。群衆心理を燃え上らせるためには反省は邪魔だからである。

 「一人一人の子供を、こよなく愛し、生活綴方を通しこれをよく見詰めて個性に応じその特質を伸ばす人間教育」というのが、本来の恵那の教育であった。これが民生同活動が進むにつれて、これに利用されて、と言うより塗りつぶされてしまって政党色が強まってきたのを感ずるようになったのは安保闘争以後ではなかったかと思う。これは指導的役割を果してこられた方々の、昭和30年頃の御意見と、昭和50年頃の御意見を比較してみれば明瞭である。そしてやがて党の情宣活動をも果すことになったとわたくしは思う。

 こうした政党的なものを区別しないで、これが恵那の教育だとして熱心に進めている先生方の中には「本来的なねらい」を純粋に信じ、これを教育現場に生かして見える先生方も多い。こうした政党的環境の中で本来的教育活動を進められる信念と勇気には心から頭が下がる。わたくしがさきにきびしく批判した「恵那の教育」は党の情宣活動化している異質的なものを指したのであったが、言葉不足の点お断り申し上げたい。

 わたくしは教育の中に「甘やかし」はあってはならないし、まして「甘やかし」を条件としたような煽動は絶対に避けねばならないと思う。しかも教育の中における煽動による政党の情宣活動は卑劣だとさえ思う。恵那の教育が正当活動とは縁を切り、本来の恵那の教育に立返られることを祈りながら稿を閉じたい。」(恵陽新聞1980年8月30日号、原鏡一の論)

 

 歴史的考察の是非は置いておくとして、ここでも押さえるべきは、やはり「自己批判できる組織」であるかどうかという点であり、それができない状況こそが「甘やかし」と表現されているものである。恐らくはこの組織の中には熱心な綴方教育の実践者もいたはずであるが、その組織の「異分子」(という表現が正しいかは測りかねるが)ともいうべきものがある場合にそれに対して何もいうことができない組織であるならば、組織として問題がある。このことを反正常化側は適切に捉えようとしないで、問題を政治的なものに転化してしまうのである。原鏡一のこの指摘もまたかなりの「配慮」、つまり組織内の多様なアクターの存在とそれぞれが持つ価値の全てを否定する訳ではないという留保がされた論であるが、反正常化側はこのような「配慮」を全て無視するのである。

 

 本来であれば、このような状況について指導する立場にあるのが教育委員会という機関である。教育委員会という組織が存在しているのは、直接的に政治的なるものの影響を受けることを回避するため、専門性の確保の一環のためである。しかし、渡辺春正教育長をはじめとした当時の中津川市教育委員会はこの役割を担うことができていなかった。反正常化側の勢力であった(※1)森田道雄が指摘するように、中津川教委の立ち位置は現場擁護の立場であり、敵対視されていない。少なくとも現場にとって、中津川市教委は自らの活動の脅威にはなりえなかったのである。

 

 「丹羽実践はもちろんこの時期の生活綴方実践は、こうした学校批判の正面からの「攻撃」と、行政的圧力(中津川市教委はこの動きに対して学校を擁護する立場だったが、県教委及びその出先の教育事務所、さらには一般行政の筋はあきらかに攻撃側となった)、さらにはそれから情報を得て書かれるマスコミの記事との「闘い」のなかで行われた。」(森田道雄「1970年代の恵那の生活綴方教育の展開(4)」「福島大学教育学部論集第65号、1998,p21」

 

 さて、この市教委の体制を考える上でやはり無視できないのは、渡辺教育長の立ち位置であろう。まず、彼の経歴について、教育長辞任時に議会挨拶をしているので引用したい。

 

「顧みますというと私は、中津(※ママ)の教育委員会に16年間、指導主事で昭和28年の4月1日から5年間、それから教育次長で吉田教育長のもとで5年間と、教育長を6年間と。なお県の教育委員会の人事管理の仕事を5年間やらせていただいたものですから、戦後教育行政に21年間と。もうほとんど教育行政に当たりまして大変、特に中津川の市民の皆さん方にお世話になったことを改めて深く感謝をし、厚く御礼を申し上げるわけでございます。

 特に指導主事の5年間の中で、県の教育委員会の派遣研究生として、東京大学教育学部教育学科へ1年間やっていただきまして、大変教育学の勉強をさせていただいたわけでございます。そのときの院生、学生さんが、いま名古屋大学教育学部長だとか、あるいは各大学にみんな第一線の教育学者として働いてみえますし、文部省では課長級でたくさんの人が勤めてみえまして、現在も大変お世話になっておることを感謝を申し上げておるわけでございます。」(中津川市議会第4回定例会、1981年6月11日)

 

 同じ挨拶の中で昭和13年から教員をしており、日本教育学会、日本教育法学会、日本社会教育学会の3学会に所属しているという発言もなされている。渡辺が東京大学教育学部に在籍していた時期には当然大田堯がおり、すでにいくつかレビューで取り上げた反正常化側の理論的視座を与える名古屋大学教育学部とも関係性が強い。これだけでも反正常化側とのコネはかなり強くもっていることが推察される。

 また、小木曽(1985)も、教育長退職後の渡辺の動向について次のような指摘をしていることは注目しなければならない。長文となるが引用する。

 

「しかし五十六年六月、任期半ばでご退任なさったあと再びこんなかたちであなたにお手紙をさしあげる機会があろうとは私自身、思いもよらないことであります。でも書かないわけではいられません。なぜなら、去る五十八年三月八日より三月二十六日まで、日本共産党機関紙「赤旗」本紙に連載された、中津川の教育に関する特集記事を読ませていただいたからです。とりわけ、三月十五日付、同紙にあなたの写真入りで報道された、「元教育長の気概」という記事は、中津川の教育に、わが子を託す親の立場からはとうてい黙視でき得ない内容であります。」(小木曽1985、p240)

「「赤旗」にはこう書いてあります。

 「三菱電機の社員の小木曽尚寿さんたちがきたと思います。その後何度かきました。坂本小学校の授業時間割調査結果をつきつけてきましたが、学校側で調べたら会のデーターは実際と違っていました。第一、子ども達を使って授業時間割調査をするなどゆゆしい問題ですよ。それに会が出した高校進学の業者テストのデーターも業者側から“事実と違う”という文書がきています。それをいったんですがなかなか納得していただけませんでしたねェ。」(五十八年三月十五日付赤旗

 渡辺さんあなたは六年も前のことだからなにをいっても市民の皆さんは忘れている、そんなおつもりかもしれません。無責任さにあきれるばかりです。今頃こんなことをいわれるなら、あの時(五十二年一月三十一日)、私どもがあなたに送った「公開質問状」になぜお答えにならなかったのでしょうか。」(同上、p240-241)

「渡辺さん、あなたが市教育長として本当に中津川の教育をとりしきる気概と責任をお感じになっていられたなら、六年もたってから政党の機関紙に“実はあれは間違いでして……”などといわないで親達が必死の思いで書いたあの質問書に真面目にお答えになっておかれるべきであったと思います。」(同上、p242)

「例えば特定政党支持の機関紙「しんふじん新聞」を学校で子どもにもたせることについては誰れが考えても間違っている事例です。市議会で渡辺さんは“申訳ない、今後は……”そういっておられるのに、なかなかその通りにならなかったのは、そのことに一生懸命になっておられる現場の先生が市教育長として渡辺さんがこの「赤旗」記事にに示されているようなお考えの方であることをよく承知されていた、そのことに原因があると思えてなりません。」(同上、p244-245)

 

 公開質問に答える必要性は必ずしもないのかもしれないが、そうだとしても中津川市教委の説明責任は極めて不十分であったことは、2度の学力テストの実施などからも言える。

 

「「しかし学力は高い低いだけが問題でなく、問題点はどこにあるか、またどう是正していくかが一番重要なことだ」と(※教育長は)語っているが、サツパリこの意味がわからない。市の教育部門を担当する最高責任者としての教育長の事がこれでよいのだろうか。今少し市民、子を持つ父兄にわかりやすい解明談が欲しいものだ。」(三野新聞1978年7月2日号)

 

 このような当時の説明責任の不足は、この引用に限らず、議会答弁に対しても類似の評価が与えられていた(三野、掲載日不明)。だからこそオープンな場での議論ではない、後出しジャンケンになるこのような渡辺元教育長の行動こそ、過去の教育論争をなかったことにするための工作として行われていると言われても弁解が難しいだろう。そしてその後の「恵那の教育」実践をめぐる反正常化側の言説がこのような性質を持ち続けてことも否定するのが難しい。

 

・正常化側、反正常化側、どちらが「一部」なのか??

 

 当時の教育をめぐる議論において保護者も含めた一般大衆は正常化側、反正常側のどちらの側についていたのか。これについては榊編(1980)のレビューで提起したように、少なくとも反正常化側の動きに保護者が支持する基盤が欠落していることを述べたし、中間報告で示した内容はそれを裏付ける傾向があった。しかし、反正常化側はそもそもマスコミが語ることこそ偏向であり、大衆の意志の反映である可能性を頭から否定している。

 マスコミの影響及び政治的影響(議会での議論)を排除してなお、残る議論の可能性として挙げられるのは、「夜明けへの道」の製作を中津川市国民会議が承認した際のプロセスが明らかに非民主的であったことと、それへのPTA連の反発、そして小木曽(1980)が広く中津川市民に読まれたという事実およびその評判が基本的に小木曽支持であるらしい(この評判は議会で議論されている意味で政治的影響を排除していない)という事実であった。ただこれらも正常化側が多数だったという事実の裏付けにはまだ乏しさがある。

 

 ただ、一つはっきりしているのは、先述の渡辺元教育長の議論にも見られたような反正常化側の事実の隠蔽工作が認められる点である。例えば2000年に出た恵那の教育に関する資料集では、この時期の状況について、次のように語っている。

 

「そうしたなか、いくつかの記録映画を手がけてきた日本ビデオ・映画製作所から、恵那の教育を記録映画にできないかと申し入れがあり、中津川市国民会議の関係団体や個人の協議と協力をえて、教育記録映画「夜明けへの道」は、一年に及ぶ教育現場や地域での撮影の末に完成し、各地で上映されていきました。また、八〇年に入り民教研は、すでに出版社からも問い合わせが来ていた“七〇年代の恵那の教育綴方をまとめて出版する”ことを決め『生活綴方―恵那の子』全五巻(五冊)・別巻三冊(四冊)を刊行しました(八一年)。

 子どもを見つめ、子どもをつかむ中で発達の芽を見つけ、子どもが自覚的に生活を変革していく力をもつための教育実践が広がり深まっていくなか、中津川の一部の親が起こした“恵那の教育に真っ向から反対する”動きは、背後に企業、行政、政治勢力が見え隠れしながら、執拗につづけられました。

 しかし、子どもの人間的発達を願い、教育をよくしたいとする父母・教職員の運動は大きく広がり、県民大集会や恵那地区教育大集会が開かれるとともに、恵那地域のいたる所で「教育を育てる会」の小集会がもたれるようになり、地域に根ざす教育は高校の積極的なとりくみと共に大きく前進しました。七九年には“子どもと教育に寄せる親の願いを語り合おう”をテーマに「全国親のつどい」が恵那の地でもたれました。」(恵那の教育資料集編集委員会編「恵那の教育」資料集2、2000、p697-698)

「恵那地域にを(※ママ)中心に、「地域に根ざす教育」が広がり深まるなか七六年の秋、中津川市坂本地区で親が子どもをつかった授業時間割調査をもとに「授業時間が片寄っている」「基礎学力が低下している」「文部省の示す教育をせよ」と、真っ向から反対する運動が、坂本地区の一部の親、市内の大企業、保守の市議会議員を含む保守勢力のそれと時を同じくして展開されました。学校長・教育長などに質問状を出したり、市議会での質問を利用した教育攻撃、地元の地方紙に数十回にわたって「生活綴方」教育、地域子ども会活動などに対する批判・攻撃をくりかえし、教員の人事異動に介入する動きまでみせました。」(同上、p706)

 

 この引用を初見で見た読者は少なくとも「恵那の教育」実践が子どもの可能性を広げた実践であったことを疑わないことだろう。また、あたかも「集会」に多くの人が集まり、賛同者として存在していたかのように語られる(※2)。そして、正常化側が政治性を強くもった勢力であったということも真に受けてしまうかもしれない(※3)。しかし、すでに見てきたように、事実はそこまで明るいものだったと、少なくとも当時の一般的論調では語られていないし、政治性に関しては、ごくごく一部の例外(まだ検証できていないが、岐阜県議会の正常化決議などはこれに適合していると言いうるか)を除けばほとんど虚構であると言わねばならない。集会の内容についても、小木曽は次のような批判をしている。

 

「(※「恵那の知で教育を考える全国親の集い」の集会呼びかけ資料を)少し長いがその部分を引用させていただく。

(子供達の自殺、殺人、強盗、家出を深刻な荒廃として)

「子どもたちの、この荒廃のひどさは、取りも直さず、大人達の荒廃のひどさの反映だと指摘されてきています。(中略)

 まことに、今私達の生活は、政治的、経済的、社会的に戦後最悪の危機的状況に落ちこんでいるように思います。有事立法、元号法制化、失業、物価高、増税など、様々な形で生活がおびやかされ、自由がせばめられ、主権在民がないがしろにされ、子ども達の全面的な発達をめざす努力に対しての圧力が加えられたりしてきています。」(以下略)

 続発する子供の非行、自殺に心を痛めない親はない。その原因の一つにいわれるような、大人の暮らしに起因することも理解できる。がなぜそこに「有事立法」が出てくるのだろうか。全く無関係であるとはいい切れないものの、子供の非行も「有事立法」と結びつけて考える親は、極く限られた一部の人達であろう。その人達にとって今問題なのは、子供の非行よりも、政治の流れでありそれにまつわる政党の消長ではありますまいか。

 子供の自殺も心配されておろうが、それさえも、今の政治が間違っている。それをいうための一つの現象として考えられているに過ぎない、こういったら言い過ぎであろうか。

 中津川においても、子供達の非行化を憂い、基礎学力向上を願う多くの親達の声は、政治、思想を越えたところにある。であるのに中津川の教育が、子供の非行と「有事立法」を一緒に考える一部の親と教師によって、長い間リードされて来たこと、ここに問題があったのではないだろうか。

 今子供達を非行の誘惑から守り、生命の尊さを教えるのは、政治と教育の混同を思わしめるような○○集会ではなく、学級、或いは地域での親と教師の率直なひざ突きあわせた話し合いの積み重ねの上にこそよりたしかな効果が得られよう。」(小木曽1980、p52-53)

 

「本日開催された第一回恵那地区教育大集会に教育に関心をもつ親の一人として参加した。

 親、教師のそれぞれの問題報告は日曜日の半分を棒にふってまで来てよかったと思えるような胸をうつなにものもなかった。しかし高校生二人の現状報告はとりあわけ高校生をもつ親にとって考えさせられる内容であった。

 クラスの半分以上の生徒がタバコを吸っている。それを注意した方が仲間はずれにされる。勉強が厳しすぎるあまり、非行に走るものや、無気力、無感動の生徒が多くなっている。高校に売春の噂さえある。

 子どものよりよい発達を願う親ならばこれをきいて平然としてはいられない。私はこれ程、重大なテーマを高校生自らが提起(告発といってもよい)した以上集会がこれをどう扱うか大変興味があった。しかし結果はまたいつものパターンで終った。問題は出されただけ、そのあと壇上に上った親、教師の誰もそのことにふれようとされない。親がききたいのはその生徒たちの訴えに対して、どうするという、専門職である教師としての「診断」とそれに基づいた「具体的な処置」である。」(小木曽1980、p114-115)

「これでは「教育の荒廃」そのものが人を集めるための「みせもの」になっているといわれても致し方あるまい。集会の成功、不成功はその討論の中味ではなく何人集め得たか、その「数」を「力」によみかえ誇示するだけといったら、いい過ぎであろうか。私も含めてそこに集った親達は漠然とした不安と疑問をここでも「増幅」されっぱなしで帰ってゆくだけである。

 これは今回に限ったことではない。もう十数年も前から実行委員会という主体のさだかでない人達で企画される教育の○○集会はいつもこうである。」(同上、p116)

 

「(※恵那地区教育大集会の)会場入口の受付には、学校の先生がずらり並んでおられ、参加者一人ひとりに集会の資料を手渡されていた。会場へ入ってから、その資料をみてびっくり、とんでもないのが含まれている。そのパンフレットはタイトルこそ“保育所つぶしは許さない”、そうなっているが、その記事の内容は政治的偏向いちじるしいとしかいいようのない文章で埋められている。

 その一例をあげれば、生活保護費、児童保護費等の国庫負担率一割カットに関連して

 「法律も無視して弱者をきりすてようとする政府を許すわけにはいきません」

 「私たちは子どもや障害者、老人などを守る運動と連帯して政府の攻撃をはねかえして行きましょう」

 とまあこんな調子の文章である。

 それだけでなく、さらに、ていねいにも切りとって、切手をはればそのまま内閣総理大臣中曽根康弘殿宛の要望書となるようなハガキまで用意されていた。そして集会終了後、主催者側より、参加者に対しこのハガキを出してほしいという呼びかけまであったことは子どもの先生という立場を利用し集めた不特定多数の親たちに政治活動を強いている、そういわれたとき、どう弁明されるおつもりなのであろうか。

 パンフレットに書いてある内容を、政党の機関紙でみるなら一つの見方、考え方として別にどうということはない。しかし、ここは学校の体育館であり、教育の集会であるはず、どうみても不自然すぎる。

 なによりもこのパンフレットが学校の先生によって配布されることは、教育公務員として厳しく規制されている政治的行為にふれるのではないかとさえ思える。

 あげ足をとるともりはない、しかしこのパンフレットが集会資料として配布されることに対し、主催者側内部で“こんな文書を配ることはこの集会が誤解される”、そういう声は起きないのだろうか。

 ここにこそ、この集会が子どもの教育の場を偏った政治活動の手段として利用せんとする、一部の人達に引きまわされている困った側面をまざまざとみせつけていることになろう。

 学校という公の施設で、こうしたことが堂々とできる、中津川の教育にみえかくれするこの陰の部分に、もっと、もっと多くの親が気付いてくれない限り、教室で子どもの授業を通して親の信頼と連帯を……。そういう先生方はいつまでも隅っこに押しやられていることになろう。」(小木曽1985、p164-165)

 

 小木曽の批判点はひとまず置いておくとして、無視できないのは、むしろこの集会の性質である。小木曽の言い分をそのまま支持すれば、ここで議論されているのは「恵那の綴方教育」実践のすばらしさを集会で披露するようなタイプのものではなく、むしろ保護者も含めて教育問題に取り組むことを意図するための集会が行われていたのが実際ではないか、という点である。そうすると、「反正常化側」が述べているような集会のイメージとは少し異なっていることになるのである。あくまでここでの集会は高々中津川市民の教育への関心の高さという事実のもとで行われた集会でしかないのである。この点からも反正常化側は事実を正しく伝えようとしているとは言い難いといえる。反正常化側はあたかもこれを政治的対立図式をもって語っている節があるが、そのような図式は集会参加者層には全く適用されていない内容なのであり、それが適用されるように見える要素というのは、横槍で用意されている政府の政策に反対されている資料などしかないのである。一言でまとめれば、このような集会が行われていたという事実は、反正常化側の支持者が多数いたことの根拠には全くならないということである(これは教師の呼びかけにより参加をしている保護者が相当数いるかのような小木曽の言い方からも認められる)。

 

 今回の現地調査で検討できるのは概ねこのあたりまでである。今後も資料収集を行いながら、より議論を深めていきたいと思う。

 

※1「七〇年代全般にわたって恵那地域の生活綴方教育は、坂元忠芳、深谷鋿作、森田道雄、田中孝彦、その他の全国の研究者の方々に理論的に導かれた部分がたくさんあります」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p9)とされるように、森田はこの時期の主要な反正常化側の論者の一人に位置づけられる。

 

※2 「教育を育てる会」については、実態を十分につかめておらず、今後の考察課題としたいが、小木曽は次のように育てる会についてコメントしている。

 「「中学になればテストに追われ、入りたい高校にも入れず、点数だけで子供の将来を決めてしまう状態です。万引や非行、性の問題で悩む子もいます。親も先生も本当にどうしたらよいのか困ることばかりです。」

 これは市内の小学校で子供を通して、先生から親達に配布された。「民主教育を育てる会」への入会を呼びかける文章の一部である。ここにはいま、学校教育のかかえている、のっぴきならない問題の大半がいいつくされている。

 なぜこれらは「育てる会」では話し合われるのに、PTAの役員会の議題にはならないだろうか、中学に入れば子供の将来が学力で決められることがわかっているなら、そしてそれがどんなに不合理であろうと子供達の、当面する現実がこれであることを先生方も認めざるを得ないならPTAで背骨の曲がっていることと朝、歯をみがいて来ないこと、これらと同じレベルで学力をとりあげられてもいいはずである。

 また、ちゃんとしたPTAがありながら、「育てる会」、「母親連絡会」、「新婦人の会」等の会員拡大に、先生方がこれ程熱心であるということ、これらも中津川の教育のおかれている特殊性を表明していることになる。

 育てる会、新婦人の会等をそんな特別の芽でみることはない……。親と教師が話し合うことはいいことじゃないか。私もそう思いたい。しかし、これらの団体の目的の一つに、先生方の教育運動の一環としての位置づけ、即ち国が標準として定めている指導要領までも、それを守ることを猿芝居として排斥する自由を確保するため、もう一つは特定政党の学校を基礎として基盤として活動するための「かくれみの」として育てられてきた。そう思わざるを得ない事実をみるにつけ、こうした会が先生方や一部の父兄によって、これ程までに大きく学校に居坐ることは子供の教育という面からは好ましいこととはいえない、やはりPTAがあればそれで十分、そういわねばなるまい。

 「育てる会は誰でも入れる、そこがPTAと違う」とよくこういわれる。本当にそうであろうか。現に私は数年前まで熱心な「育てる会」の会員であった。岐阜市で開かれる全県レベルでの会合にも、先生からの「御指名」により何度か出席している。それが三年程前「子供達の基礎学力をもっと大切に。」こんな発言をPTA総会などでするようになったとたんに、「育てる会」の連絡は一切なくなった。そのことを「育てる会」の本部役員にきいてみたところ「あなたは会費を滞納している。だから会員ではなくなった。」こういう返事であった。でも会費はたったの月額十円、それをいつどこで収めるのかこんなことはいつさい知らされていない。私が「クビ」になった理由は他にあり、それは私自身がいちばんよく知っている。このように誰れでも入れるといいながら、その入口ではちゃんと選別がある。これらは育てる会の性格をよく表している事例である」(小木曽1980、p100-102)

 

※3余談に近いが、ここで語られていた「人事介入」についての小木曽の説明も加えおきたい。

  この「人事介入」と呼ばれる内容が初めて明らかにされたのは、渡辺元教育長の「赤旗」記事からであると思われる。

 

 「あれは人事異動の時期で一九七七年二月ころの午後だったと思います。小木曽尚寿氏が市教育長室へきて、私に一枚のコピーを差し出し『これを代えてくれ』といいました。それは手書きで、坂本小学校の教組の活動家の名が五、六名書かれてありました。私が受け付けなかったので、彼はそのコピーを置いて、帰っていきました」(1983年3月15日赤旗・小木曽1985、p242-243)

 

 これに対し小木曽は次のような反論をしている。少なくとも、ここでいう「人事介入」にはそれなりの理由があるが、やはり反正常化側はその事実には触れていない。

 

「私達、親には先生を代える権限もなければ力もありません。しかし私達は市教育長であるあなたのところへかけ込めばきっとなんとかしてもらえる、そう信じて疑いませんでした。

 子どもの授業はいい加減で「有事立法反対」にばかり目の色を変える先生をなんとかしてほしい、親達が教育委員会にそういっていくことが、どうして“人事介入”なのでしょうか。そういう親達の声に耳を傾けその事実を調査し、公教育を進めるに不適当な先生があればそれなりの処置をしていただくのが教育長のお仕事ではないでしょうか、私は自分の子どもの義務教育の先生を塾の先生のように自由に選べない以上、「赤旗」新聞にどう書かれようとも、困ったことがあればこれからも市教委にいって行きます。教育委員会はそのためにあると思っています。ただそれはよくよくのことであり、わざわざ市教委にまで持出さなくても、担任の先生、或いは校長先生の段階で解決できればこれに越したことはありません。当時、私達がこうして何度も市教委へ“直訴”すべき事柄の多かったことは今から思えば結局その根元は、渡辺さん、あなたにあったのではないでしょうか。」(小木曽1985、p244)

 

「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間報告

 今回は70年代後半の「恵那の教育」の正常化の議論を検証していくにあたっての中間報告を行う。

 この報告は中津川市を中心に私が行った資料収集の結果を、時系列で追う形でまず行う。具体的には映画「夜明けへの道」の発表のあった1976年6月から、当時の中津川市教育長であった渡辺春正が教育長をやめる1981年6月までの5年間を対象に、これまでに拾えている議論を捉えていく。今回の報告をもとに、これまでの「恵那の教育」の議論との関連性などの考察を次回行う予定である。

 今回特に資料として重要といえるのは、中津川市に本社のある(あった)二つの地方新聞「三野新聞」と「恵陽新聞」の当時の論調である。両新聞は週1回の発行である。今後また別途岐阜の地方紙にはあたる予定だが、特に恵陽新聞に至っては、1976年7月以降、それまでの一般的な新聞の論調からまるで「教育新聞」であるかのように中津川の教育問題を取り上げるよう新聞の内容を改めている傾向さえあり、1978年11月以降は小木曽尚寿による長期連載も行われている(この長期連載の内容が1980年と85年に自費出版で書籍化している)。

 

・1976年7月20日 中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 前月6月20日(三野新聞報。恵陽新聞では25日とされる)に「中津川教育市民会議」という組織により映画製作が決定された。この市民会議は中津川のあらゆる教育機関(各小中学校、教職員組合、市連合PTA、民生児童委員会等30~40数団体。正確な数字は新聞記事により異なり把握できなかった)により構成された組織である(※1)。この連合PTAの会合の場でこの決定があまりにも「非民主的」手続をとったことが問題となった。恵陽新聞(1976.7.31)では各PTAの意見が次のように取り上げられている。

 

「教育市民会議の性格・構成について、単Pにも通知せず総会をしたが、これはどなたが何の代表で総会をしたか、全く複雑怪奇であり、こんな総会の構成はない。単P会長に連絡したというが、それは直前であり、また総会の出席者は先生が大多数だった。決ってから協力せよでは納得できない。」(落合小P)

「各団体を調べたが通知がない。手違いだけでは済まされない。総会で決めたのは横暴である。」(落合中P)

「何故十六ミリ映画でなければいけないのか。また中津川に立派な教育があるのか。例えば地区外へ行く生徒はいても入ってくるものはない。当市で誇るものがあるか。映画づくりは一部のなんとかよがりと思う。この映画づくりには反対します。」(南小P)

 

 恵陽新聞の社説欄では次のように語られる。

 「会議の母体は団体名が非常に多く羅列されているが、本質は中津川市の教育ボスのひとりよがりの官製ハガキに過ぎないのではないか。教育市民会議という組織の偉い人達がどのようにいおうと市民という言葉を使うのは余りにも押付がましいのではなかろうか。幹事会機関団体とかいう団体の中に現に私の属している団体名があがっているが、私がこの団体に属してからすでに八年にもなるが、いままでに一度も教育市民会議の名すら出たことがない。……本当に民主的に作られた組織であるならば、総会に組織に参加していない一般市民の参加をビラによって集めて総会で決定したなどと無理をしなくてもよいし、映画の制作が決まったという時点で、これ程の反対は出ない筈であろう。」(恵陽1976.7.24、立石道郎)

 

 小木曽も「映画作りが多くの先生と、一部の父兄によって強引に進められてきた」(小木曽1980:p215)と述べていたが、この総会においては、実質的に動員された「反正常化」側の職員らが中心になって決議に関与したことは想像に難くない状況だったといえるだろう。

 結局結論として「中津川の教育を取り上げるのなら、そんなに急がず、もう一度市民会議の上に戻し、教育界全体で判断すべきだと結論が出された」(三野1976.7.25)、「会の意向を市民会議に戻すと同時に単Pに持ち帰り、再度検討することになった」(恵陽1976.7.31)と「差戻し」に近い結論がこの場では出たようである。

 

 PTAをはじめとして保護者側から見ればこの映画騒動は「外から」やってきたものであった。そして、その決定について関与を事後的に議論することとなったのである。この映画に対する最初の印象が良かったなどとはとても言えず、まさに広く中津川の教育に対して「疑念」が湧いてくるような事件だったといえる。

 

・1976年9月18日 再び中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 映画製作に対する説明や、実際の撮影の状況、そして各PTAによる話し合いの結果、実質的にこの日に映画製作が追認されることとなる。ただ、すでに話の前提として「教育市民会議が一方的に決めたとの批判があるが、あくまで総会で決った以上映画製作を進めるのは当然である」との見解が此原久夫P連会長から出ている。

 恵陽新聞(1976.9.25)の記事記載の議事からは、落合中PTAが明確な反対を表明、落合小は説明不足のため保留、坂本中はまだ議論をしており保留としたが、その他のPTAの意見は映画撮影の状況を見て賛成、もしくは問題・一部反対があるがその解消等を目指すことも含め条件付きで賛成と、結果として賛成が多数となり、PTA連として映画に協力することとなった。

 

・1976年10月16日 坂本地区教育懇談会の結成

 

 坂本地区教育懇談会の結成は結局上記の議論の延長線上にある。恐らく上記の決定が出る前後から、中津川の教育そのもののあり方についての内省の必要性が議論され、坂本小での「授業実態調査」がなされたものと言えるだろう(調査は9月28日から行われた)。

 坂本地区教育懇談会の発足時の会員は86名と報道されている(恵陽1976.11.13)。当時の坂本小学校の児童数は正確な数字が見つかってないが、中津川市議会の昭和56年度の第4回定例会の議事にて、約1200人という数字が書かれていた(6月15日議事録)。この数字を見ればそれほど多数の会員がいた訳でもないとみることもできるし、わざわざPTAとは別組織を立ち上げ、それに積極的に賛同する層がこれだけいたとみることもできるだろう。

 

・1976年12月 中津川市議会

 

 坂本地区教育懇談会の実態調査・提言を受け、年末の中津川市議会定例会は教育に関する一般質問が相次いだ。質問を行った10議員のうち、7人が教育に関する質問を行ったという(三野1976.12.19)。残念なことにこの時期の議会議事録の記録が図書館には存在しなかったものの、三野新聞では、篠原孫六議員の質問文を2回に分けて全文記載するという異例の対応をとっていた(三野1976.12.19、1977.1.1)。以下、内容を引用する。

 

「これから述べることは小学校、中学校、また学校によって程度の差はあるが、特に二ツの某学校は異常と云われている。この地域は日教組のモデル地区とも云うべき地位で、年一年と強化して今日に至っている。その名は日本的にも名が知られていて、中央のある雑誌にも紹介されている程で今回の教育映画作成もこうしたルートから手がつけられたものであると思われている。

 組合活動は法で認められているものであるが、待遇改善、勤務上のことは限定されている筈であると思うのにイデオロギーや政治的論争に深入りしすぎている。ある教師は社会科の本は五年、六年、二年間ほとんど考えず、本はまっ新しのままと云ったものも出ている。そして毎日の授業が指導案一つ書かず、思いつきその場限りのもので、生活綴方と地域活動には異状(※ママ)なほど熱を入れ正規の時間に食い込んでいる。コツコツと地味な研究を続けたり研究授業をやることなど大嫌いで、ハデな作文や地域活動と云った表面的なことに浮身をやつしているかに見える。これは今回の教育映画作成にも表われている。父母の大部分が反対していても、あの手、この手で一方的に賛成させた型でやろうとする。このかげの力は一体誰であろうか。この映画の趣意書にはあるところから流された文章がほとんどそのまま使ってあり、どんな傾向のものであるかは想像がつくものである。」

「県内で毎年施行されるところの児童、教師の発明工夫展、その他作品展、音楽会などへ出品も参加もしない。……

 こうした結果として、県下の他地区からその教育が軽べつされ、県下の教育界の孤児となり教育砂漠と呼ばれている。」

「テストは教育効果をためす一手法であって、人間を点数で評価するためのものではない。つめこみ教育反対と云うが、食物でも同じように、精神的栄養である知識をつめこまなければ人間は死んでしまう。ただその分量なり内容方法技術をどうするかをどうするかが教育者に課せられた問題である。

 学校教育にはご存知のとおり智育(※ママ)、徳育、体育の三ツの方向があり、それら三ツが揃ってその人の生活力と人格を形成する。智育を軽視するのは学校教育の否定であり教育的自殺者である。綴方と地域活動さえしっかりやっておれば勉強もできるようになる。」(以上三野1976.12.19)

 

 

「私達は地域重点の教育活動が無意味とは思っていません。そこで得られる人間的なふれ合いは親を含めて必要な事はよく判ります。然しそのことによって失われるもの、即ち学校本来の使命である授業や、学級としてのまとまりが軽視されることに多くの不安を抱き、そのことを適接(※ママ)に学校側にただしたこともありました。しかし学校側からはいつも「やるべきことは」十分やっているという返事をいただいてきたのです。ところがさきに%で申したとおり、地域重点の教育方針によって他の科目時間数は失われております。」(三野1977.1.1)

 

 この事例は一つ、二つの学校だけの問題であればそこまで深刻ではなかったのだろうが、実態はどうもそうではないらしい。次のような記事もある。

 

「新学期が始まった早々に市立第二中学の国語教育に父兄からクレームがつくなどに端を発し、ことし卒業した同三年生の国語教育が卒業生から異口同音に(本社調査)昨年一年国語の教科書は一度も開かなかったといい、先生は使用したという言葉の喰い違いがあるが、いづれにしても補助教材を多用していることは間違いない。」(恵陽1977.5.14)

  

・1977年12月 映画「夜明けへの道」の完成とその反響

 

 極めて残念なことだが、恵陽、三野の両新聞記事からは、この映画上映によって、PTA連を中心に保護者全般がどう感じたかは読み取れなかった。むしろ不可解なのは、事前段階では大騒ぎになった題材であったにも関わらず、上映会に関する記事さえも見当たらない点であった。

 ただ、「一部の論者」と片づけることができてしまうレベルで言えば、酷評しか記録が残っていないのは確かである。

 

 「この映画に対する感想を結論から書いてみよう。「失望」という言葉よりほか何ものもない。……

 秋の運動会を、あなた達は地域ごとに編成し、子供達の手で運動会をつくっていったといっているが、このあなたがたの、いい分については納得いかないものがある。私は子供達は自主的につくりあげた運動会の運営についていうのではない。地域別という方法である。同じ学年のクラスの親同士が一番交流しやすい場を、うばってしまった事になることをきづいているのか。あなた方年二・三回行なわれる型にはまった授業参観では親同士のつながりは不可能でしょう。

 またこの映画の中で地域子供会は、あなた方が育成してこられたようにいっておられるが、数年前まで、あなたたちは地域子供会の組織を拒否つづけてきたのではなかったのか。古い子供会の育成会の役員たちは皆いたいほど知らされている。

 佐義長の行事にしても、夏まつりの、ワッショにしても、多様化してくる社会で押しつぶされそうになりながらも、復活させ、また守りつづけるのに必死になっているのは、あなた達ではない。本当に地域の伝統を素朴にうけついできた親たちであるといいたい。

 あなた達はいつのときでも自分の立場だけでものをいっていることに気付いていない。この映画の中でも綴方教育が今日の恵那の素晴らしい教育基盤を作りあげてきたのだというが、そのかげで毎年三月入試発表の校庭で涙を流す親子があり、小中学生の非行指数も全国平均を上廻ろうとしている現実になぜ目を、おおうのか。親達は今の社会の中でごく普通に生きてゆく事の出来る子供に育ててゆきたいということを願っていることを忘れないでほしい。……

 とも角この映画はあなた達がこうありたいという希望なれば、まだゆるせるが、このように私達がやっているのだとの主張なれば、とてもゆるすことはできない。」(恵陽1977.12.10、白井清春

 

「昨年十二月市議会で、こうした動きを察して数名の議員が一般質問で取り上げ、教育長の善処を促した結果であろうか、少くともカリキュラムの面での改善は可成り進歩したようにみえた。これで中津川の教育が改善されたわけではない。その具体的のあらわれが、最近封切られた「夜明けへの道」という自主映画である。資金を持たないで中津川教育市民会議が自主的に作らせた映画であるだけに、父兄、先生のカンパでできた映画である。「うちの子がうつった、笑った、走った」と、素朴に喜ぶ父兄もいる。しかしそこを貫いている教育理念は、日教組理念であり綴方教育の延長線上にある。「教育の場に政治を持ちこむな」とは、日教組が常に口にする言葉であるが、この映画を見るかぎりに於ては、彼等の主張する政治理念が映画の中にふんだんに盛りこまれ、政治による教育の混乱が一そうはげしくなっていることはいなめない。・記録映画ではなく、傾向映画としサブタイトルを改めてはいかがであろう。」(恵陽1977.12.17、阿木寒子)

 

 また、坂本地区教育懇談会が市民向けに1000部印刷し(1977.12.17付で)配布したパンフレットでは次のように評す。

「「ナマの事実の持ち合わせがない他地区の人々、特に教師にとって中津川の自由な教育実践はきっと評価されるであろう。そのあまりにも自由すぎる教育実践に対しての親の不安と疑問は画面ではすべて打ち消されている。が製作に携わった教師はその過程で「親と教師が見事な合意のもとに素晴らしい教育を進めている」。これとは違う「市民の声」が決して少なくないこともよく承知されておられることと思う。」(小木曽1980,p221)」

「「父母なんかの要求は、いびつな中にもとにかく上の学校へ行かせたいという要望がある。本当に子供をしっかりした人間にするということは、ちょっとすじの違う要求が、手をかえ品をかえ表れると思う。教師はそれを乗り越えねばならない」

 これは画面に出てきた東京大学教授(当時)大田堯先生の言葉である。中津川の教育の歴史のなかで、太田(※ママ)教授がずっと以前から中津川の教育の指導的立場を果たされてきた人であることはよく知られている。はじめから賞讃する立場の人の、しかも「東大教授」という権威をたてに、親の願いを都会で問題になっている進学過熱にスリ替え、「すじの違う要求」として葬ろうとされている。映画を一時中断せしめた程の「市民の声」がこれでも大切にされているといえるのだろうか。」(同上、p227)

「今、問い直されるべきだという意見は結果的に少数意見であるかも知れない。しかし、中津川の学力水準はどうか、学校の特異の授業は、本当に子供のためになっているのか。これらは少くとも「地域」「綴り方」に優先して問われるべき義務教育の本質にふれるテーマである。これが新聞テレビであれ程とりあげられたことにより、多くの子をもつ親は、それを直接、教師に言うか言わないの違いはあっても、もうそこからそんなにたやすく目をそらしはしないと思われる。これこそ映画のもたらした大きな意義ではないだろうか。」(同上、p229)

 

 また、この映画上映にあたりもう一つ議論の種となる事態があった。地元市民向けの映画上映がこの時期なされたのとは別に、全国への普及向けの映画が別に作られていたという内容である。これは公開質問状という形で坂本地区教育懇談会が教育長になげかけ、三野、恵陽両新聞でも内容が取り上げられた(三野1978.4.2、恵陽掲載日未確認)。その映画に対する評は、恵陽新聞で次のように取り上げられた。

 

「一見して驚いたことは、内容が前回に上映されたものと全く異質のものとなってしまっていたことである。いままで父兄や教師の論議の中で教師達が、父兄の説得のために終始言いつづけてきた、いままでの中津川市の教育の点検という、映画作りの基本はその姿を全く消してしまい、とかく非難の多い、当市の綴方教育というものを、我田引水的な論理によって、合理化しようとし、つま先立の必死の背伸びとしか受けとれない映画となってしまっている。そこに何か教師達の心の底をみたようで、私は親達が子供の教育に対する心情を考えたとき、いきどおりと共になんともやりきれない暗い気持になった。

 余りにも、つくられた絵である。この映画の言わんとすることは、始めから終りまで、綴方教育の讃美であり、その上この教育こそがと自画自賛しその芽がいまこのようにでようとしていると、結論づけている。しかし、この映画の製作に当って始めにいった点検は全く姿を消し、父母、市民、教師の協力だとか、地域ぐるみの「子育て」の記録映画だといった基本的な製作姿勢は何処へいってしまったのだ。

 たとえば、昨年の十一月二十日の製作ニュースをふり返って見よう。「秋空の下撮影すすむ」の内で親と子、地域と子どもといった撮影に入ったと告げ父兄の歓心を買うような(現在ではそうとしかおもえない)記事を大見出しで載せているが、改訂版にはその片鱗すらみうけられない。

 この映画には教師諸君のいっていたような、中津川の教育の点検のための製作である、この映画をとおして、親も教師も、子供の教育を考えるすべの市民が明日の教育を考えるためとか中津川の教育の点検であるとか立派なことが言われて来たが、できあがったのは全く“うらはら”な教師達の現在の教育姿勢のどこが悪いのかという、ひらき直った態度さえ見える。父兄、市民への押しつけである。……

 この映画は市民の恵那の中津川の教育の点検という悲願を置きざりにして、私達の手のとどかぬところへいってしまった。」(恵陽1978.5.13、立石道郎)

 

 

・1978年3月 2度の学力テスト結果の公表

 

 小木曽のレビューでも渡辺教育長の反論として取り上げていた学力テストの結果であるが、中津川市立教育研究所「研究紀要 第8集」(1978)の中で確認ができた。これは国立教育研究所の「学力実態調査」と「学習到達度調査」という2つの学力調査結果として示されていた。

 この調査自体は極めて綿密に行ったように見えるものである。試験内容は国語と算数の基礎問題が出題されており、誤答分析も行い、その誤答の傾向も全題示している。

 ただ、気になる点もある。まず、この2つの調査の実施日である。中津川市における「学力実態調査」の実施日が1976年12月10日であり、「学習到達度調査」は1978年1月25日である。コロナウイルスの影響でまだ正確な裏が取れていないが、両調査とも、国立教育研究所が正式な調査として実施した時期よりも後に行っているらしいことがciniiの論文検索を見る限り確認できている。要するに、既出の学力調査について、(おそらくは国立教育研究所の許可を得て)中津川市の児童にも実施したというのがこの2つの学力調査である。

 また、具体的な調査方法については「研究紀要」では何も示されていないが、少なくとも悉皆調査としては行っていない。例えば、「学力実態調査」の方は小学5年生の調査人数は算数が251人、国語276人とされており、中学1年は数学が374人である(国語は未確認)。統計データを確認すると、1978年5月1日時点での中津川市立小学校在籍児童は合計5,197人、中学校在籍児童は合計2,528人であり、1学年800人前後は在籍児童がいるはずなのである。また、同じ日にやった割には小学5年生の算数と国語で実施人数がかなりずれている印象がある点も気になる。

 

 この2つの疑問は「恵陽新聞」の1978年6月3日号でも同じように取り上げられている。

 

「テストの方法が問題である。実施者が公平な第三者でなくて報告者自らのもので、自分が自分を、親が子をテストして公正なものであるというようなものであり、実施したクラスも無作為抽出とは書いていない。一番出来るクラスかも知れないしそのクラスだけ特訓もできるし、予め練習させておく事もできる。必ずしもそうだというのではないが、そう疑われてもしかたのないようなものを公表して市民を納得させうるだろうか。」(恵陽1978.6.3)

 

 これだけ見ると随分と偏見があるように見えなくもない。しかし、やはり基本的に学力低下が深刻なものであるということは当時の記事を見る限り、(小木曽の議論も含め)繰り返し、実証的に示されてきたところもあり、その事実に反するという前提があれば、このようなうがった見方も致し方がないかもしれないとも思える。

 例えば、小木曽も紹介し、岐阜県議会でも話題になったという高校進学模擬テストの経年比較において、中津川市も含んだ東濃地区は過去十年程度は低い基準にあったことが指摘されている(小木曽1980、p242)。新聞でも次のような記述があった。

 

「先日、岐阜日日新聞社が発表した模擬テストの結果は東濃人、とくに中津川、恵那地域の人々にとっては実にショッキングな発表だった。そのテストは県下六地区のうち東濃が最下位、しかも英語は一位の岐阜六一・四に対し三二・八。国語理科、社会といずれも最下位、平均点も岐阜の二七九・七に対し二二二・九という成績である。

 なにも成績のよいことばかりが万能ではないが、せめて平均点ぐらいはほしいものである。東濃の人間は県下で一番頭が悪いということも今まで聞いたことがないし、成績のよい若者も多数いた。それが近ごろなぜこんなに成績が悪くなったのか、教育者も父兄も、いや東濃の人々は真剣に考えなければならない。」(三野1977.2.20)

 

「高校教職員組合恵那支部の「落ちこぼれや非行は受験競争、つめ込み教育」というチラシが各戸に配布された。一読して、去る七月県議会で多治見市選出の古庄三六県議が「東濃は教育の谷間」という代表演説と、これを受けて県議会が「教育の正常化」決議を行ない、日の丸を掲げ君が代を歌おうと決めたことに対する反論とうけとれた

 学力は県下最低、非行は県下一、というあの古庄県議の演説は東濃ことに恵那地区の父兄にとってはまことにシヨツキングな問題提起であった。恵那の教育はこれでよいのか?と幾つかの新しい動きが始まったのも当然である。

 このチラシでは“学力は最低ではない”と国民教育研究所の資料をのせ、古庄県議の資料は一業者の結果だけで然かも受験率などが考慮されていないものだといっている。がたとえ一業者(新聞社)の資料とはいえ九年間も各課目とも最低とはいかにもなさけない

 非行についても「ある一時期の警察に摘発された万引だけを取りあげた」とし非行は恵那だけでなく全国的傾向だとのべている。が一時期にしろ県下一とは誠に遺憾であり等閑に付すべき問題ではない。政府や社会にも問題はあるが、みんなで責任をもち、謙虚に真剣に取り組みたいもの。」(三野1977.9.11)

 

 

・1980年9月・12月 中津川市議会

 

 小木曽(1980)の出版のインパクトが非常に大きかったことが当時の状況からわかる。三野・恵陽新聞でも紹介され、自費出版ながら発行部数は7月から3ヵ月で4,000部売れたという(1980年9月16日中津川市議会定例会議事録)。このうち3,300冊が中津川市で配られたものである。1980年の国勢調査によれば、中津川市の世帯数は14,502世帯(人口52,626人)となっていることから、4世帯につき1世帯近くが本書を手に取っていたという計算になる。9月の議会においても、本書に関連する一般質問が3人の議員からなされた。本書に対する評判については「この本がわずか3ヵ月で4,000部も売れ、その反響のほとんどがその内容を肯定し、この際改善を求める声が強く多いとすれば、議会の立場からもこれを看過するわけにはいかない重大な教育上の問題」(1980年9月16日、千村信四朗議員一般質問)、「これまで私が耳にした本の反響は、内容に対する共感の声が圧倒的に多いことです」(1980年9月16日、市岡廣議員一般質問)という形で好意的な意見が多数であったと述べられている。

 議会の質問内容としては学力低下、非行問題、映画の問題とその監督責任の議論が一通り語られるものの、9月の議会では特に真新しい議論があったとはいえなかった。ただし、12月の議会は少し事情が異なる。12月の議会で市岡廣議員は次のように発言している。

 

「まず質問の第1点は9月にも行いましたが、その関係もありまして少々くどいぞと言われるかもしれませんが、何としてももう一度渡辺教育長さんから明快な見解をいただきまして、毅然たる姿勢で問題に対処していただくため、あえてもう一度ここに取り上げることにしたものです。

 それは教育長さんの学校に対する管理、監督、指導に関するかかわりの問題であります。9月議会の折り、この主題の中で私は次のように渡辺教育長さんに対してご質問を申し上げました。それは学校を中心にいろんな活動が行われています。PTAの活動はもちろんのことですが、育てる会、母親連絡会、さらには新婦人の会などの活動がとりわけ私たちの目に触れております。学校を中心にしたPTA活動以外のこれらの活動は教育の職務を全うする上でどうしても必要な教育活動なのか、はたまた自主的な、任意的な組合活動としてあるのかとの問いかけをいたしまして、具体的な事例の一つとして特に育てる会の位置づけについて申し述べたところであります。さらに育てる会の通信文がいまもって子供たちを通じて各家庭に配布されている事実についても指摘いたしまして、こうした状況のもとでは学校の政治的中立性がないがしろにされる危険性がきわめて大きいと、危惧の念を申し上げてきたところであります。そうしてこれらに対して今後どのように指導をしていくのかをお聞きをしたわけです。

 渡辺教育長さんは私のこれら質問に対しまして、次のような見解を披瀝をされましたし、私自身もこのやりとりを通じてそれなりに理解をしてきたところであります。それによれば、まず育てる会などもろもろの諸団体は教師の本来の任務である教育実践としては異質なものであり、これらは民主団体といった位置づけにあること。この活動は民主団体の構成員の自主的な活動であるべきであり、この面では拘束時間外に活動すべきだ。明確にお答えをいただいたものです。さらに子供たちを通じて通信文を配布することについては決して望ましいことではないので、厳重に注意を申し上げ、これらけじめをつけるよう今後指導したい、このように答弁をいただいたわけであります。

 ……しかし再びこの壇上から同じような問題で質問を申し上げなければならないのはまことに残念だと言わなければなりません。皆さん、私の持っているこの新聞を見てください。この新聞は新日本婦人の会が発行しております新婦人新聞であります。ある特定な読者を対象に発行をされてる新聞であり、私がここでこの新聞を取り上げて話題にすることこそ奇異に感じられる方もおみえになると思いますが、この新聞をこの壇上で取り上げてどうこうするという気は私自身毛頭ありません。むしろ私がここで取り上げたのは9月議会で渡辺教育長さんからの明確な答弁にもかかわらずある特定の学校で、それも特定な先生を通じてまことに堂々とお母さんのもとに届けられたという事実を、この新聞を通して指摘をしたかったからであります。新聞の発行日付は1980年11月6日であります。私が9月議会で一般質問をいたしましたのは9月16日だったはずです。……この縦位置にはあて先のお母さんの名前が印刷をしてあります。その横には子供の学級名が、そして下には小さく子供の指名が印刷をしてあるわけです。発行のたびごとにこの帯封が印刷をされたのか、1度に何枚か印刷をされたのか、あて名書き謄写印刷機を使って書かれております。……まことに淡々と渡辺教育長さんのお達しなどどこ吹く風と、教育の第一線ではこんな事実がまかり通っていることです。これを見て私はある種の戦慄を覚えるものであります。」(1980年12月12日、市岡廣議員一般質問)

 

 さて、この議会後この問題が適切に指導され改善されたかというと、2度の議会質問を経てなお改善されていなかったようである。この点は恵陽新聞の小木曽尚寿の連載からも確認できる。

 

「その際渡辺教育長(当時)は、議会という公的な場で、その間違いを認められて「厳重な注意」を確約された。

 私達はこれでもう、こうした行為はいくらなんでもなくなると思っていた。

 ところがどうであろう。市内O小学校の一部の先生は、それ以後、今日まで(二月二十七日現在)機関紙は堂々と子供の親達に向けて配布されている。子供に持たせなければいいと思われてのことなのか、先生自らが親達に配っておられるケースもあるという。」(小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」1985,p120)

 

 この動きを踏まえ、小木曽らは直接県や国に請願する署名活動を行っていたようである。後日別途考察するが、端的に教育委員会は現場の監督を行うようには機能していなかったというのは事実であり、むしろ共犯者的な立場にいたと言うしかない状況だったのである。

 

・1981年6月 渡辺春正教育長の辞任

 

 小木曽の本の出版により過熱傾向のあった教育問題の議論であったが、翌年渡辺教育長が自動車免許を更新しないまま運転(無免許運転)をした問題に対する責任問題から辞任をすることで、以降沈静化の傾向が確認できている。

 教育長の無免許運転の事件が4月7日にあり、その直後4月9日に「減給」処分が発表された。この対応の速さには「電光石火ともいうべき、早さで市も教育委員会も処分の処理をしたことである。」「この事は市民の中からこの事件を起爆点として新らしく当地の教育批判の出てくることを恐れて、市民の目をそらさせようとする意途があると、みることができるがひが目であろうか。」(恵陽1981.4.18、臼井清春)とのコメントもある。

 また、小木曽も次のように渡辺教育長の辞任をとらえている。

 

 

「ときあたかも、私どもの「小学校の政治的中立を求める請願」は県教委、文部省へ提出されている時期でもありました。中津川の教育の変革を願う市民、親の声は、ひしひしと先生の周りにも届いていたことと思います。

 先生が辞任を決意された動機は、ここにあったのではないでしょうか。

 先生が辞任にまで追いこんだのは一枚の免許証の有効期限なんかではなく、「特定政党支持」の機関紙を、先生が議会であれ程、追求されているのを百も承知で子供に持たせていた、心ない一部の現場の先生方の間違った行動である、そう思えてなりません。

 私がそっとしておけばいい先生の辞任の動機に敢てふれるのは、中津川市の教育を支配するこの間違った、教育と政治の癒着が許されていた時代は終った、そのことを、それを生甲斐としておられるような一部の先生に知ってほしい、ただそれだけの気持ちからです。

 先生がお辞めになったことだけで、中津川の教育の今、かかえているすべての問題が解決できる、とてもそんなふうにはならないと思います。……

 先生の辞任を機会に親達一人ひとりが学校とはなにをするところなのか、いまいちどそのことを真剣に考え直すきっかけとなることを期待して止みません。

 長い間、本当にご苦労様でした。今までの非礼の数々、心からお詫び申しあげペンをおきます。」(小木曽1985、p30-31及び恵陽1981.6.13)

 

(2020年5月20日追記)

※1 森田道雄の指摘によれば、1974年から発足したこの会議体は、112団体が構成団体であったとしており(森田道雄「続・教育行政の地方自治原則と市町村教育委員会」『福島大学教育学部論集』第31巻3号、1979,p18)、この数字が発足当時の数字と読んだとしても、報道と相当の乖離があることがわかる。これは学校数の数え方(例えばPTA連で1団体とするのか、各学校のPTAを構成団体とすることで多く数えているのか)によるのかもしれないが、この組織自体の定義付けの議論としては興味深い事実認識の相違である。

(2020年6月13日追記)

渡辺教育長が1979年に寄稿したもののなかにも構成団体が112とするものがある(藤岡貞彦編「講座 日本の学力4巻 教育計画」1979、p214)一方で、榊達雄の1980年の論文では118団体とされている(榊編「教育「正常化」政策と教育運動」1980、p23)。

小木曽尚寿「先生、授業の手を抜かないで」(1980)

 今回は「恵那の教育」についての検討を行いたい。本書は「坂本地区教育懇談会」の代表である著者が地元中津川の地方新聞「恵陽新聞」(現在は廃刊)に長期連載を行った文章を中心に収録されているようである。本書には1985年に出た続編もあるものの、どちらも国会図書館にさえ蔵書がなく、岐阜まで行かずに本書を手に取ることができたのは僥倖だった。

 坂本地区教育懇談会は1976年10月に結成。この会の結成の一因となった、「恵那の教育」を題材にした「夜明けへの道」が1976年6月に映画化することが発表されている。この会が結成されるにあたり、2つの調査結果を公表し問題提起を行ったことが全国区で話題となった。一つは民間の高校進学模擬テストの結果が5科目で206点、県平均の242点より大きく下回ったとした点、もう一つは坂本小学校五年生の子どもに17日間調査させた学校での授業科目に関するもので、「特別活動」に属するものが時間割では4時間しかないのにも関わらず、25時間近くあり、他の教科の時間数が削られているという実態を示したという点であった。本書ではこれに加えて、現場での偏向教育等の事例に多く触れている。「トヨタに入ると労働強化で殺される」かのような印象を与えるパンフレットを社会科見学の事前資料としたり(p31)、生活綴り方の研究会では日本経済のせいで家庭の破壊、性の荒廃、文化の頽廃が起こったことを自明視する資料が配られたり(p19)、特定政党の機関紙が子供を通して配られたり(p35)、万引をしても綴り方に書いたから、その店に謝りにいかなくてもよいとされたり(p5)といった形で、中津川の教育の問題を列挙する内容となっている。

 恐らく、小木曽の問題の矛先は以前レビューした榊編(1980)で取り上げた「教育権」を獲得しようとする反教育正常化派にあったのはほぼ間違いない。特にp54-55のような議論は、「教育権」を擁護する側の中心的理論である親・教師の共同論に対する明確な反対意見の提起とみてよいだろう。「普通の親」像の考え方については基本的に私が想定していたのと同じである。また、p8-9のような指摘からは、反教育正常化派に欠落しているのではないかと指摘した「自浄作用」を伴うような自己批判の余地のない主張がそのまま批判の対象にされていることがわかる。更にノートに十分に反映できなかったが、非行や学力問題といったものに対して教師たちがそれを体制批判として捉える際に、それが教育現場の当事者としてあるべき姿なのか、現場で問題が起きているのであれば、それに積極的に対処すべきであるのに、政治運動まがいのことしかやろうとしないのはただの無責任ではないのか、という不信感も強く本書には現われていた。

 

 

○「ウワサ」として片づけられる学力問題――恵那の綴方教育と「保護者の立ち位置」の関係性について

 

 本書に関連して、生活綴方:恵那の子編集委員会「明日に向かって(下)」(1982、以下丹羽1982と表記する)では、ちょうど1976年当時坂本小学校で五年生の担任をしていた丹羽徳子による現場の状況が語られている。坂本地区教育懇談会の公表内容が中日新聞で報道されたことについて触れられ、これ以後、「ウワサ」が広くひろまったことを指摘している。

 

「それ以後、地域別PTA役員会、家庭訪問などのなかでは「生活綴方」「地域子ども会活動のあり方」を中心にして、学力低下・非行化についての「うわさ」が、親たちの間でひろまっていることを先生たちはきいていました。」(丹羽1982、p12)


「 (※親の噂話に対し)そこで私(※丹羽徳子)は、
「地域のPTAの懇談会へ出たりしてわかったんだけど、今までになく学校教育への批判が出はじめているの。だけどそのほとんどが、『……げな』『……そうだが』と、事実をたしかめないで、うわさ話にのった問題ばかり。やっぱり自分の子どもを通して考えた自分の気持ちを言わなあかんねえ。子どもたちだって自分たちのやっていることを悪くいわれるのは悲しいから、いっしょうけんめい弁護してくれるんやねえ。でも、日本中の学校がそうだけど、絶対時間割通りやっているばかりじゃないから、ほんとうのことをらくに言える子にしてやらなあかんねえ」といったことでした。
 親と子、親と教師、親と親――子どもと教師、子どもと子ども、教師と教師の信頼の関係をバラバラにしていく刃のようなものをみた思いでした。」(丹羽1982,p14-15)

 丹羽自身はウワサはあくまでウワサでしかないという認識程度しか当時持っていなかったようである。確かに小木曽も当初は本書で書かれていたような偏向教育の実態まで多くの事例を問題提起していた訳ではなかった。また、授業時間数についても、「規定の授業とのズレは現場ではよくあること」程度の認識しか持っていなかった。
 しかし、気になるのは、榊編のレビューで、恵那の教育における論点の一つとしていた「保護者の立ち位置」についてである。少なくとも、子どもについては、丹羽の教育実践について支持しており、学力低下といった「ウワサ」に対してもそんなものはないという反発を強力に行っていることが、丹羽(1982)を読めばよくわかる。しかし、保護者はどうだったかというと、紹介される子どもの記録の中でも複数この「ウワサ」を信じており、子どもは親にも反発するという構図が見て取れるのである。

「あれだけの記事のことで 私とおかあさんの関係が、おかしくなっちゃった。

 私はいきおいこんで 帰って行って

「おかあさん わたしんたあが バカにされた新聞記事が出たに」

と、言ったら おかあさんが、

「先生に攻撃が かかっとんやに」

って 言った。

「そのことは 私たちが バカにされたことやに」

って、言ったら

「ほんとのことやら」

って 言った。

 私は もう この時 なさけないと思った。自分の親なのにやんなっちゃった。

 私のおかあさんだけは、私といっしょに、

「ひどいねえ」

と 言ってくれると思っていた。……

 あの新聞をみて 私のおかあさんみたいに信じちゃう人をいっぱいつくっちゃったと思う。新聞はひどい!」(丹羽1982、p38-39)

 この状況については、70年代後半に名古屋大学教育学部の関係者であった森田道雄「1970年代の恵那の生活綴方教育の展開(4)」(1998、「福島大学教育学部論集 教育・心理部門 第65号」URL:http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000002649/?lang=0&cate_schema=100&chk_schema=100)にも同じようなニュアンスで語られている。保護者は基本的にウワサに翻弄される客体であり、そのウワサというのは結局政治的論争の産物としてしかみなされていない。

「子どもたち以上に、親もまた学校批判の動きにとまどい、むしろ本音が言えなくなっていたのである。事実にもとづく批判ではなく、政治的意図を先行させた「攻撃」であったらばこそ、親を含めて住民の中に深刻な亀裂が走ったのである。」(松田1998,p19)

 しかし、このような態度は「反正常化」を批判する言説に対する適切な評価だったのだろうか。「中津川の子どもの学力が低下していたのか」という命題の真偽、という論点は後述するとして、少なくとも、小木曽がp62-63で指摘するように、それを議会の場で提起しなければ現場での教育における問題が放置されてしまうのであれば、このような方法に訴えるのも「やむなし」なのではないのだろうか?そして、そのような「やむなし」の状況に対して「政治性」の一言で片づけてしまうような態度こそむしろ問題なのではなかろうか?少なくとも、本書で指摘されているように、中津川の教育が「反正常化」側にも相当に政治的であり、子どもを政治に巻き込んでいるのは「反正常化」側だったのではないのか、という疑問が抜けない。それは丹羽の言説にも現われている。そもそも新聞報道について正面から学校の授業で取り入れ、その感想を児童に求め、「反大人」の連帯を子どもに強めさせる実践を行っていることや、松田道雄も本書を読み、反正常化側の問題指摘を認識しているにも関わらず、その実践の非については何一つ語ろうとしないこと、これらを踏まえてもやはり「反正常化」側の「自浄作用」というのは望めないものであるように思えてならない。

 また、「反大人」志向というのは、小木曽も早い段階で指摘していた。p194-195にある内容は1977年1月に渡辺春正中津川市教育長に提出した質問書が出典で、この質問書にもその問題が指摘されている。恵那の教育における綴り方実践において、このような「親の改心」がどの程度意図的に組み込まれていたのか、その実践にどのような社会問題を介した「憎悪」を持ち込み、その憎悪が子どもに対してはどのように影響を与えていったのか、という教育学的検討も興味がある所だが、このような志向を持った状況において、「教師と親の連帯」による「教育権」の確立というのは、更に厳しいものとなったといえるだろうし、そもそも「教育権」の獲得と綴方の実践自体が矛盾しているのではないか、という状況も垣間見ることができた。少なくとも丹羽の著書においては、自らの学級の保護者が連帯して丹羽の実践に協力し、「坂本地区教育懇談会」に対峙していったという図式は作ることができなかった。その連帯は子どもにしか及んでいないのである。

 

○残された「学力問題」についての是非

 

 「教育権の獲得」という形で、第一義的に教育を行う親の信託を得る形で行う教師の教育実践は事実上破綻していたといえるだろうが、他方で恵那の教育をめぐる学力問題についてどう考えるか、というのは別の議論が必要になってくる所である。
 本書が指摘する学力低下の議論については、私が調べた限り現時点で多くて2点明確な反証材料が存在するようである。一つは1976年秋に日教組が行った学力テストというのがあり、そのテストでは中津川の子は平均点を上回っていることを渡辺教育長が主張している(1977年8月12日毎日新聞朝刊3面)。もう一つは本書p237で紹介されている中津川市教育研究所から出たパンフレットに記載されているものである。この両者は同じ結果の掲載かもしれないが、少し気がかりであるのは、小木曽がこのテスト結果について具体的に説明しようとしない点にある。またp166-167にある調査結果の具体的内容にも言及していない。このような小木曽の態度は公平性に欠く印象がどうにもある。数字にこだわるのであれば、あくまで数字を示しながら議論すべきであり、自分にとって都合のいいものだけ数字を示すことには違和感しか感じないのである。


 これに関連してもう一つ気になる点を挙げれば、「坂本地区教育懇談会」自体は当初目的を達成したら解散する組織であるはずだが、p104-105の主張をそのまま鵜呑みにするなら、すでに現場ではほとんど不安要素はないレベルであるが、ごく一部の教師の態度に問題があるから、「坂本地区教育懇談会」は存続を続けている、ということになる。ここではすでに最初に問題提起をおこなったはずの「問題のある教育実践」に関する議論は蚊帳の外にある印象があるということである。本書だけではまだこれらの問題についてすっきりとする程明確な議論の整理はできないだろう。今後も検討を進めていきたい。

 

<読書ノート>

 

P5「少年非行の多発が憂慮されているとき、生活指導の面からも綴り方は有効であるといわれる。しかし、「万引をしても綴り方に書いたから、もうその店に謝りに行かなくてもよい」(前掲雑誌子どものしあわせより)こんな指導が綴り方の成果として堂々と語られていることをどう理解したらいいのか、これでは万引きは悪だという教育が二の次となっているとしか思えない。」

※雑誌は昭和五十一年六月一日付け。

P8-9「「今日の教育体制のなかで強制されている計画は、目前の子どもの実態を深くみつめ、そこに人間としての発達の問題点を探ることもなく、目的意識としての人間像は期待される人間像〈指導要領の到達人間〉にまかせたうえで、指導要領の項目を、単元、教材として割り振ることを、「なに」を「どう」する専門性にすりかえられている。ここには、本当の「なに」をみつけ、選択する必要はないしそれをこそ専門家の特性として探求する意欲が生ずることはあり得ないのである。主観的には「なに」を「どう」のつもりで割りふりをしていても、結局は、指導要領を「どう」効果的に具体化するかという点での猿芝居に過ぎない。」

 これは本年七月、中津川市南小学校、石田和男先生がある機関紙(昭和五十三年五月三十日東濃民主教育研究会発行春季号)の冒頭で「私の教育課程づくり」に関連して述べられているものである。石田先生は今、中津川の教育の指導的立場では第一人者として自他共に許す有名な方である。親にとってはむつかしい理論はわからない。しかし「指導要領をどう効果的に具体化するのか」その実践を猿芝居とされるなら、そこで強調される「私の教育課程」は、いったいなにを基準に作ろうとされるのか、まさか石田先生ともあろうお方が〝やりたい放題やりなさい〟といわれるはずはない。が私達が読んでそう感じられるように、経験の浅い若い先生は「指導要領」を守らないことがいい先生だと錯覚しそうなお言葉である。」

※少なくとも理論を突き詰めた場合は、小木曽の批判は妥当という他ない。石田の主張に他に含みがあるかどうかという論点は残りうるが。

 

P9「石田先生がもし本当に公教育の基本である指導要領をそう思っておられ、更にこうして活字にしてまで訴えられるなら「塾」の教師になられるべきと思う。」

P18「だが私達は三年前から、中津川の「生活綴り方」が、子供の教育のためにというより、むしろそれは教師集団としての、極めて強い「政治改革指向」に利用されてきたのではないかということを具体的な事例によって訴えてきた。渡辺教育長にも親の側の率直な疑問を「質問書」という形で提出したが、ついに回答は得られなかった。私達がそう危惧する根拠はいくつかあるが、その一つとして次の資料をみていただきたい。これは昭和五十一年二月苗木小学校で開催された「生活綴り方合同研究会、小学高学年部会」に提案されている中津川の「生活綴り方教育」の本当の目的ともいえる内容である。もちろん提案された先生から直接説明をきいた訳ではないがこの解説がなにを主題としているかは一目瞭然、なんと生活綴り方で子供達にわからせることは「日本経済が個々の家庭を押しつぶしている」ことにある。

※資料中には「家庭の破壊、性の荒廃文化の頽廃」が自明のこととされ、「問題の奥の日本経済が個の家庭を押しつぶしている様子がありのまま見えるようにするには?」という問いが立てられる(p19)。

P20-21「先生方が個人として、或いは集団としてどんな政治理念、思想をもたれようと親達がとやかくいう筋合いはない。が、特定の政治思想を子供に押しつけることだけは断じて許されない。……

子供達が成人したとき、自らその道を選ぶのなら致し方ない。しかし、小学校時代から「社会変革」の担い手となる教育を期待する親がそんなに多いはずはない。」

P22教育映画「夜明けの道」の一節……「戦前に生活綴り方教育があったら、軍部と大企業が結託しても戦争は起きなかった」

 

P31「トヨタへ入ると労働強化で殺される」大人ならそんな企業がいまどき企業として生き残れるはずがない。それは常識として知っている。が10歳の子供にはそれがない。事実なら致し方ない。それがどんなに暗いことでも、そこから目をそらしてはいけない、そう教えてやって頂きたい、しかし、事実でもないことが、子供達にとって絶対的に信頼をおく先生から、教室で教育という名のもとに教えこまれる。こんなことが許されていいのだろうか、純白などうにでも染めることのできる子供の心に消しがたいシミを残すことになりはしないだろうか。」

※余談だが、小木曽は三菱電機の社員である。これについては教育長から「これは間違っている。今後はこういうことのないよう指導する」と回答があるようである(p31)。

P34「「父母なんかの要求は、いびつな中にも、とにかく上の学校へ行かせたいという要望がある。本当に子供をしっかりした人間にするということとは、ちょっとすじの違う要求が、手をかえ、品をかえて表れてくると思う。教師はそれを乗り越えねばならない。」

これは教育映画、「夜あけへの道」で、中津川の教育の指導的役割を果してこられた、元東大教授の肩書のあるえらい人言葉である。このように中津川の正規の授業を重視しない特異な教育が、人間作りの美名のもとに、大手をふってまかり通り、それを理解しない親は、子供の受験のことしか考えない「悪い親」であえう。こういう風潮があまりにも表面に出すぎている。

たしかに都会の学校では、過熱する進学競争のあおりをうけて、その弊害がいろんな形で出ていることは事実であろう。しかし中津川では問題の背景がまるで違う。学力レベルが、ここ数年常に県下で最低となっていることは、正規の授業が少い、やるべきことをやってない、ここにありはしないか、親がこう考えるのは当然である。」

P35「もう一つ付け加えておく。中津川の教育の特異さは授業ばかりではない。小学校で特定政党の機関紙が、子供を通して親に配られていた。これは全く一部の先生の事例かもしれない。しかし一部にしろ、こんなことが堂々とやってこれたのは全国でも中津川だけだろう。」

 

P47「中津川の親たちの「知育」に対する関心の高さには、先般、市が実施したアンケートにも如実に表れている。今、親達の関心がどこにいちばん集っているかを、十分承知されていながら、敢てそれを避け得ても、「知育」こそ学校の存在が問われる本質の問題であることは、世の中がどのように変ったとしても、このことだけは変るまい。映画作りを契機に、中津川の教育を問い直す機運は確実にたかまっている。」

※詳しい内容は不明。

P52「続発する子供の非行、自殺に心を痛めない親はない。その原因の一つにいわれるような、大人の暮らしに起因することも理解できる。がなぜそこに「有事立法」が出てくるのだろうか。全く無関係であるとはいい切れないものの、子供の非行と「有事立法」を結びつけて考える親は、極く限られた一部の人達であろう。その人達にとって今問題なのは、子供の非行よりも、政治の流れでありそれにまつわる政党の消長ではありますまいか。

子供の自殺も心配されてはおろうか、それさえも、今の政治が間違っている。それをいうための一つの現象として考えられているに過ぎない。こういったら言い過ぎであろうか。

中津川においても、子供達の非行化を憂い、基礎学力向上を願う多くの親達の声は、政治、思想を越えたところにある。であるのに中津川の教育が、子供の非行と「有事立法」を一緒に考える一部の親と教師によって、長い間リードされて来たこと、ここに問題があったのではないだろうか。」

※昭和五十四年五月の「恵那の地で教育を考える全国親の集い」の呼びかけの資料で、「子どもたちの、この荒廃のひどさは、取りも直さず、大人達の荒廃のひどさの反映だと指摘されてきています。(中略)

まことに、今私達の生活は、政治的、経済的、社会的に戦後最悪の危機的状況に落ちこんでいるように思います。有事立法、元号法制化、失業、物価高、増税など、様々な形で生活をおびやかされ、自由をせばめられ、主権在民がないがしろにされ、子ども達の全面的な発達をめざす努力に対しての圧力が加えられたりしてきています。」(p51-52)と言う。物価高なども全部悪とみなされている。

 

P54-55「なお今回の企画には、映画の撮影を担当した「日本ビデオ」も参加されている。が日本ビデオそのものが、中津川の教育をどうみておられたのか、それは代表者である桑木道生氏が、ある雑誌に発表されている次のような文章からうかがい知ることができる。

「しかし、学力が低いと教師たちを攻める親もある。そして数十人で団体を作ってさかんに活動をしている。それは新しい傾向で、親のなかに反対派を育成して親同士を対立させ、混乱させ、〝教育は教師と親の共同作業〟という教師たちを孤立させようという狙いがあるように見える。ベトナムで失敗したあの手口と同じ手口が、こんなところまで応用されている感じだ。」(昭和五十二年十一月十五日発行、雑誌「子どものしあわせ」一〇一ページ)

私にはベトナムの手口とはどのようなものかわからない。

ただわかっていることは、三年前この映画作りが「引金」となって立上った親達の、中津川の教育と子供達の将来を憂う必死の提言が、このようにしか読みとれないとしたなら、中津川の教育に向けられたカメラのレンズの焦点は、はじめから子供には合っていなかったとしかいいようがない。私達は子供達の教育が、親と教師の「共同作業」であるという認識をかたときたりとも忘れたことがない、だからこそ、具体的な事例をもとに、親の願い、期待を率直に学校をPTAに、ぶっつけてきたまでである。」

※教育権に対する根本的な考え方のズレによる意見の相違。しかし、少なくとも教育権擁護論者には小木曽のような立場は理解不可能である。なお、公開質問状を送っているが、それに対する回答もなかったという。やはり対話をする気がないのである。

 

P57「恵那の地で教育を考える全国集会」における映画放映「人間の権利、スモンの場合」における描写…「ところが、観ているうちに、カメラが追う憎悪の対象が、いつのまにやら、自民党政府に移っている。そしてスモン病とはあまり関係のない、大平総理の靖国神社参拝と右翼、こんなのが飛び出してくるころには、これはいったいなんのために作られた映画かわからなくなっていた。」

P62-63「五十一年十二月中津川市定例市議会に於いて、中津川市の教育の「中味」について、とりわけ小学校高学年の学校教育のあり方が問題となったが、このことは、中津川の教育、三十年の歴史のなかに、かつてなかったことだといわれた。

更にそれが発端となって翌年七月の岐阜県議会でも地域的な学力低下の問題等がとりあげられた。

これらに対して、先生方、あるいは革新側といわれる政党、労働団体は、一斉に〝教育に対する政治介入〟として強い反撥を示され、渡辺教育長も、五十三年二月のテレビの取材にお応えされるなかで、教育への政治介入を厳しく指摘された。

だがよく考えてみると、私達庶民にはむずかしいことはわからないが、市議会にしろ、県議会にしろ、進められていく行政に対する市民の不平、不満、疑惑、不正、などを市民にかわって、執行する側に対して、問いただし、間違いがあればそれを改めさせる。市、県政の百年先の大計見極めることと同時に、こうした市民の声を行政に反映させることも、議会の大きな役目であると思われる。」

※教員組織が自律的な改善を行えない組織である以上、議会で問わないでどこで問えばよいのか??

 

P104-105「今、坂本小学校の授業内容は(※坂本地区教育懇談会設立)当時と比較したら、格段の違いである。地域活動にしても綴り方授業にしても、ある節度が保たれている。表面ではともかく、やはり私達の願いはきいていただけた部分も多かったと感謝している。

だったらもう(※会の趣旨として不要となったら解散するとしていたことからも)解散したら……。私達もそうしたい。でも、PTAの総会に現職の教師を議長にしての、国会なみの「強行採決」があったり、ヤジと怒号で相手の発言を封じこめようとするような人達を、PTA会長も、そこにいる先生方も、だれ一人注意できない、こんな現状をみせられては、これからさきもPTAに親の願いが素直に生かされるといいがたい。まだまだ旗をしまうわけにはいかないのである。」

P150「中津の教育は低い、なんていっとるわね。低い、低いって、どこが低い、自分の子供の話でいってみい、いうとありゃせんで。自分の子どもの中に力があんのかないのかわからんのよ」(一九七六年六月一日発行子どもとしあわせ六月号六一ページ・南小学校・石田和男先生)」

※「数値化の全否定」の精神。

 

P165「しかし五十四年四月十九日付「広報なかつ川」は、市民の多くが学校教育に強い関心をもち、なかでも教育方針の改善、教員の資質向上、基礎学力、道徳教育の充実を期待する声が、圧倒的に多いことを報じている。これらは親達が学校には本当のことをいわない。しかし見るべきところをちゃんとみているたしかな証拠である。」

P166-167中津川市学力充実推進委員会一九七九年十一月実施「父母の教育要求第一次調査」の調査票

※調査結果はなぜか紹介しない。

P192「市議会において、さきの授業時間の実態と同様、教育長から事実と相違するという御指摘があった。この点数については私達は絶対にまちがいではないという確信をもっている。そしてここで私達が理解して頂きたいのは、〝中津川の子供達はこれ程のハンデイを背負って高校進学へ立向かっている〟という事実であり、このことを多くの親に認識して頂きたいのである。」

※ここでの議会は、1976年12月の議会を指す。

 

☆P194-195「生活綴り方が、教育長の御見解に示されているように、“暗いものをどう明るくするか、その子の生き方の指導の手がかりとする”これは単なるタテエマ(※ママ)であって、真のねらいは子供達に家庭の内情を細かに書かせることによって、それをテコに社会の、家庭のゆがみを告発するという手段に使われている。だからこそ暗い面、おぞい事を書けという指導に傾くのではないか。

 先生方が雑誌(前掲こどものしあわせ六月臨時増刊号)に発表されている生活綴り方の基本的な考え方の部分を引用させていただくなら、

「(親は)もっと困って、困って、困りぬくとええのよ。困りぬくものを子供が書きゃええの…。」(P・58)

「子どもが家の中のことを書くってことが家庭生活を変えていくきっかけになっていく……。」(P・58)

「世の中の矛盾が生活の一番根拠である家庭に集中しとんでね。だから家庭の中のいろんなことが、たんに家庭の問題だというふうにとらえられておるうちはだめよね。社会の問題なんだちゅうふうに目が変わらんと、親の変革ということをいやでもそこで生みださにゃどうにもならん…。」(P・60)

 私達親にとって専門的な教育理論はわからないものの、学校教育に期待するのは「世なおし」よりも文章がきちんと書ける力を養ってほしいということである。その力も人間性も暗い、おぞいことを書くことでしか育たないという理論があまりにも強調されるところに不自然さと疑問をもたざるを得ない。」

※「こどものしあわせ」は1976年のもの。

 

P237昭和五十三年三月中津川市教育研究所から出たパンフレットで「中津川の子供達の学力水準は、全国レベルを上回る」という実態報告がなされる

P241「「業者テスト(高校進学模擬テスト)の求める学力は差別、選別のための詰め込み学力に重点がおかれ義務教育で必修の基礎学力や生徒が自分でものごとをしてゆくための判断、真の学力に基準を置いていない」(52年7月13日付毎日新聞渡辺教育長談話)」

村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎「文明としてのイエ社会」(1979)

 今回も日本人論として、大平政権にも影響を与えた著書としても知られる本書を取り上げる。

 本書のポイントの一つである多系的発展論の歴史的説明がいかに正しいのかという点は私の能力を超えるため触れないが、欧米的な個人主義や近代化論について一定の批判を加えつつ、更に既存の日本人論とも一定の距離を取ろうとしている傾向が認められる。ただ、「欧米文明」との対比を意識していると述べるものの、本書は一貫して「ヨーロッパ」との対比を想定して日本を論じているといわざるを得ない。近代化論、そして日本人論を語るのに際しアメリカとの対比を無視することはできないはずだが、本書が目指す視点から近代国家アメリカをどう語ることができるのかが全く見えてこなかった。まあ、本書のスタンスとしては将来的な発展が個人主義的になるのか、集団主義的になるのかは明言していないという点からすると、過去の「文化的遺伝情報」(p461)なるものというのはむしろ限定的な影響しか与えないということ解釈をしていることを踏まえれば、あまりアメリカの歴史的連続性について考えなくてもよいのかもしれない。しかし、「近代化論」としてはやはり本書が歴史的連続性を強調している以上、触れて欲しかった論点であるように思う。

 

○欧米の近代化論者は「二項図式的」なのか?――テンニースの事例から

 

 本書ではテンニース、マッキーバーパーソンズという具体名を挙げ、「欧米的近代化の中で育まれてきた社会学的分析においては、個々人を基本的な主体として考える原子論的ないし還元主義的傾向が強い」と述べ(p33)、その二項図式的な近代化の分析に対する批判と、それに応える意味で日本の歴史的発展におけるウジ集団とイエ集団の分析を行う。ここでは、テンニースの著書「ゲマインシャフトゲゼルシャフト」をもとに、この点について検証してみたい。

 この検証を行うにあたり、まずこの二項図式を考える上で、すでに羽入辰郎のレビューで検討したヴェーバーの「理念型」についての基本的理解を前提にする必要がある。理念型というのは、それが社会の実態を捉える上で「分析的」なものとして機能させるためには、むしろ極概念として明確な二項図式として提示した上で、それがどの程度実態にあてはまるのかをみていくためには、ある意味で「還元主義」に基づき定義される必要があった。そのような極概念により、より実態が「対象化」可能なものとして分析できるのである。これをここでは「分析概念としての二項図式(二項図式A)」と呼ぼう。一方で、実態についてある一定の法則性を見出せることが実証できたのであれば、それは一定の事実として二項図式的に示すことが可能となる。これを「実態としての二項図式(二項図式B)」と呼ぶことにする。差し当たり前提として押さえておきたいのは、この二つが混同されてはいけないということである。つまり、本書で二項図式を否定する際には、二項図式Bが否定される筋合いはあるが、二項図式Aの否定は、社会分析にとって自殺行為になるということである。もっとも、本書は流石に二項図式Bこそが批判されるべき「欧米的社会学分析」だとみなしているだろう。

 しかし、更に注意しなければならないことは、この両者の混同というのは、デリダ的な意味での「誤配」に極めて陥りやすい性質を持っているものであると言ってよいように思う。つまり、社会学者(作者)側の意図とは別に読者の側が二項図式A・Bを混同し、特に二項図式A(理論的仮説)をあたかも二項図式B(実態そのもの)であるかのように読まれるということである。結論から言えば、少なくとも本書のテンニース理解というのは、この誤解に陥っていると言わなければならない。

 

 さて、本書における欧米的社会学分析の批判は単に二項図式的であるという主張とは別に、p42のように「前近代的集団」と「近代的集団」の捉え方もまた問題であるという風に主張される。ただし、この点については、「限定的/無限定的」であることと「人為的/自然的」であることについては異論がないようであり、「即自的か手段的か」という点に論点が絞られている。これはテンニースの著書においては、「本質意志」と「選択意志」の違いであるといってほぼ間違いないだろう。テンニースがいう二つの意志に関する定義付けを一言でまとめるのは難しいが、次のような言い方で語られている。

 

「本質意志という概念を正確に把握するためには、外界の事物の自立的な存在からまったく眼を転じて、それに関する感情または体験をその主観的実在においてのみ理解しなければならないであろう。そこで、ここにはただ精神的な実在と精神的な因果関係だけしか存在しない。換言すれば、ただ存在感情・衝動感情・活動感情の同時的存在と連続的継起だけが存在するのであって、これらの感情は、同時に全体として存在している場合でも、継起的な連関において存在している場合でも、かの個性的存在の原初的な萌芽状態から生じてきたものと考えることができよう。……――選択意志はそれが関連する活動に先行しており、活動の外にとどまっている。選択意志そのものは自己の存在をただ思惟のうちにのみ有しているのに対し、活動は選択意志の実現である。両者(選択意思とその実現としての活動)の主体が、身体を外部的な衝動によって運動に導くのである。この主体は一つの抽象物である。それは他の一切の性質をぬぎすてて本質的に思惟する作用だけを営むものと考えられる人間的な「自我」である。」(テンニエスゲマインシャフトゲゼルシャフト上」1887=1957、p166)

 

 

 確かにテンニースの著書においてはあたかもゲマインシャフト=本質意志、ゲゼルシャフト=選択意志が成立しているようにも見える。テンニース自身もこれを対比的に描くし、訳者の解説においても、これを対比的に語っている(同上下巻、p226)。しかし、テンニースがこの二分法を絶対的なものとして取り入れているわけではないことはテンニースの著書を読めば明らかである。

 そもそもこの点の検証においては、テンニースがゲマインシャフトゲゼルシャフトを非対称的なものとして捉えていること、言い換えれば明確な形で対比的なものとして捉えていないことを押さえなければならない。

 そのポイントは2点ある。一つはゲゼルシャフトと商業との関係性が語られる部分である。完全な形での(理想形としての)ゲゼルシャフトとは、個々人が財の交換を行うことで自己の満足度を高めること、より正しくは相互の満足度を高めることができるように財の交換が自由にでき、それのみで完結可能な社会を指す。テンニースの議論にはマルクスの影響も強く受けていると確認でき、ここでのポイントは「個人が独立していること」と「財の交換の実施」にある。そしてゲゼルシャフト的人間の代表格として商人を挙げている点も特徴的である。

 

「一般にあらゆるゲゼルシャフト的関係は、可能的な給付と提供された給付との比較にもとづいて成立するものであるから、明らかに、この関係においては眼に見える物質的な対象との関係が先行し、単なる活動や言葉はただ副次的にこのゲゼルシャフト的関係の基礎をなしうるにすぎない。これに反して、「血」の結合体としてのゲマインシャフトは、まず第一に肉体の関係であり、したがって行為と言葉で表現されるものである。そしてここでは、対象との共同の関係は二次的性質のものであって、これらの対象は交換されるというよりは、むしろ共同で所有され享楽されるのである。」(同上上巻、p115-116)

「各地方は、このような商業地域に発展しうるが、しかし、領域が広くなればなるほど、それはますますゲゼルシャフト的地域として完全なものとなる。なぜなら、それだけますます交換取引が普遍的に自由に行われうるようになり、交換取引の純粋法則が妥当する蓋然性がますます大となり、人物や物品が相互関連的にもっている非商業的な諸性質がますます大となり、人間や物品の領域は最後には一つの主要市場に、すなわち究極においては世界市場に集中し、他の一切の市場がこの世界市場に依存するに至るのである。」(同上上巻、p117)

「そして、貨幣を集めるということが、商人の目ざしている唯一のことがらなのである。商人は、商品の媒介によるとはいえ、貨幣をもって貨幣を買うのである。それどころか、金貨業の場合にはこの媒介すら存在しない。もし同じ量だけの貨幣しか手に入らないとすれば、かれらの行為や活動はゲゼルシャフト的な意味においてはまったく無意味なものであろう。」(同上上巻、p124)

 

 そしてもう一つ重要なのは、「ゲゼルシャフトがないゲマインシャフトのみの世界」は過去に存在したが、「ゲマインシャフトなきゲゼルシャフトはありえない」ことをテンニースが確認している点である。前者は段階論的な語りで次のように述べられる。

 

「事実としても名称としても、ゲマインシャフトは古く、ゲゼルシャフトは新らしい。」(同上上巻、p36)

「したがって、ゲマインシャフト的な民族生活の最高度に発展せるものとして現われるゲゼルシャフトの発展過程も、この経済的領域にかぎって考察するならば、それは、家経済が一般的である段階から商業経済が一般的である段階への移行として現われ、またこれと密接に連関しているが、農業の支配的な段階から工業の支配的な段階への推移として現われる。この発展は、あたかも計画的に推し進められているかのように考えられる。」(同上上巻、p116)

 

 また、後者については、ゲマインシャフトは実在する物的なものを基盤にし、ゲゼルシャフトは観念的なものを基盤に成立しているため、物的なものへの依存からは抜け出せないという形で語られる。

 

「――ところが、ローマ法と並んで、その系統をひけるものとして、近世の哲学的・合理主義的自然法がある。この自然法は、もっとも重要な己れの活動の場所が一部受け継げるローマ法により、一部は因果律によって占められているのを最初から発見した。この自然法固有の活動領域は、公法の構成とされた。かくて自然法は、ローマ法学の歴史的見解がこれに与えようと考えた致命的打撃にもかかわらず、この領域を(ひそかにではあるが)己れの勢力範囲として維持したのである。……近代自然法は、支配者階級自身の発展のために働いた後、今度は被抑圧階級の綱領として展開されるのである。……このような闘争のもっとも一般的な、最も直接的な対象は、土地の自由にして絶対的な私有ということであった。なぜなら、土地所有権の濫用が――「地代」として――もっとも明瞭に人々の眼に映じたからであり、「われわれと共に生まれた」ゲマインシャフト的法の記憶が、ミイラの中の穀粒のように、活動を停止しているがなお発展の力を保持しながら、庶民大衆の心の奥に蔵されているからである。なぜなら、自然法は正義の理念として、人間の精神の永遠なる、売却不可能な所有物であると解せられるから。」(同上下巻、p152-153)

「しかし、その名の示す通り、大都市内部には町が存在しているが――これと同様に一般にゲゼルシャフト生活様式の内部には、たとえ萎縮し、さらには死滅せんとしているにしても、ゲマインシャフト生活様式が唯一の実在的なものとして存続している。」(同上下巻、p199)

 

 しかしここで問うべきは、ゲゼルシャフトゲマインシャフトの後の社会だというのであれば、「ゲゼルシャフトの誕生はいつなのか?」という点である。これについてテンニースは明言しない。上記のローマ法との関連で言えば、かなり古い時代からあった(中世頃にはすでに登場していた)ように読めそうであるものの、「協約」という言葉にも現われているように、基本的にゲゼルシャフトは資本主義的な、近代的主体による交換を行うことで初めて成立するものであるという見方をしており、18世紀か早くても17世紀あたりを想定しているイメージが強い印象である(これは私の印象も多分に含んでいるが)。例えば、テンニースはこの関連で大都市におけるゲゼルシャフトの成立について言及したりもするものの(同上下巻、p208)、商人の存在については、ギルドといったものに対しゲマインシャフト的組織と断じていることもあり(同上下巻、p126)、ここで述べられる大都市とは、何らかの地理的な意味での(単純な都市の規模を述べている意味での)大都市ではなく、シンボルとしての大都市として、例示的に示しているべきではないかと思われる(これは、ゲゼルシャフトがそのような土地といった物的なものから解放された状態であることを意味しているという意味での、機能的な意味で用いていると解釈すべき所である)。

 

 以上の議論を踏まえ、本書で述べられていた「手段的・即自的」の二項図式について考えると、ゲマインシャフトが即自的なものと一致していると考えるのはむしろ不自然であり、手段的要素も含まれていたと考える方が自然である。テンニースは単なる交換行為についてはそれだけでゲゼルシャフト的であるとは述べていないし、より直接的にゲマインシャフトでも手段的でありうる(=選択意志が働く)ことは明言されているのである。

 

ゲマインシャフト的団結体も――その指導者を介して――その意志を選択意志として表現することができる。しかし、分離せる選択意志領域を有する個々の人格以外にはいかなるものも前提としない団結体としては、ゲゼルシャフト的団結体がその唯一の可能な種類である。ゲゼルシャフト的団結体は、次の点で明確に区別される。すなわち、この団結体がその成員の意志に合致した、したがって合法的なものであるためには、この団結体の一切の活動は、一定の目的ならびにその目的を達するための一定の手段に向って局限されなければならない、という点で明確に区別される。(これに反して、生命と同様に普遍的であり、自己の外部にではなく自己の内部に力を有しているということが、ゲマインシャフト的団結体の本質的性格である。)」(同上下巻、p130-131)

 

 また、テンニースの議論が西欧近代化論特有の還元主義的な立場に立っているというのも誤りである。そもそも本書においては、「現在」の社会がゲマインシャフト的かゲゼルシャフト的かという点について明確な判断をしていない。明らかにゲゼルシャフト的になってきているものの、ゲマインシャフトが消失する訳でもないし、どの程度ゲゼルシャフト化しているのもよくわからない。ただただゲゼルシャフト化する社会に対して警鐘を告げるだけである。この点からも先述した「二項図式B」としてゲマインシャフトゲゼルシャフトをテンニースは論じていると言い難いのである。したがって本書がテンニースの解釈を誤っているのは、羽入辰郎ヴェーバー研究者に対して行った批判と同様、テンニースらをそのように解釈した(誤配が作用し理解された)過去の「社会学者」に対してそのように言っている可能性しか残らないのである。しかし、本書ではこのような論者について具体的なものは何も出てこないため、この可能性も「あまりにも素朴に」想定しているにすぎないということにしかならないのである。欧米人の日本人論が二項図式的であるという可能性はまだ否定しないが、少なくともテンニースに対してはこれは全く成り立たないと言わなければならないだろう。

 

○「単系的であること」と「多系的であること」の違いはどれ程重要なのか?

 

 

 本書は多系的発展論を採用し、日本のイエ社会の経営体としての性質を捉えることの重要性を説いた訳だが、このような見方は本当に「単系的発展論」と比べ優れていると言えるのか。すでに本書が前提としていた「単系的」であることの意味合いはずれていることを確認した訳だが、例えば、過去にレビューしたジョージ・リッツアの「グロースバル化」といった概念は、このような多系的発展論的な理解に一定の距離を置き、むしろ単系的であるもの(一般則・普遍則として支持されやすいもの)の地域文化への影響を指摘したものであったように、一定の多様性を許容した上で、近代化を単系的なものとして議論する方法も大いにありえるものであるということはまず押さえねばならない。本書の前提からは、このような議論の可能性を「二項図式論」に還元し否定しまっているのである。

 本書が日本人論全体に与えたインパクトというのは、大著であることや政治的影響の強さがうかがえるにも関わらず、管見の限りはかなり限定的であったように思う。これ以前のアベグレン・ライシャワーヴォーゲルや中根・土居などの日本人論者の引用の頻繁さから比べると、ほとんど引用されていないに近いといってもよいレベルかもしれない。本書が強調する「間柄」の話も本書が出る以前にすでに多くが語られており、あまり真新しさがないこと、また本書が歴史的考察を行っているにも関わらず、現在(将来)の日本人論については、これをあたかも断絶的でありうるかのように捉えていることなどから、参照しづらさの方が大きいからではないかとも思う。

 本書についての批判は河村望「日本文化論の周辺」(1982)や関曠野「野蛮としてのイエ社会」(1987)で紹介されている。河村の場合は少々極端であるが、両者とも批判の主旨は類似しており、単系的であることに対する軽視を行っているものと述べられる。

 

「著者たちは(※文明としてのイエ社会の)、「決定論的歴史主義」や「単系的発展論」に反対するあまり、「よりいっそうの近代化・産業化の進展を人類史の必然的方向とみることにも、大きな問題がある」として、「近代化」概念の混乱を利用して、社会発展の法則性ないし傾向性までも否定するのである。」(河村1982,p250)

 

 また、関の場合はもっとシンプルに、イエ社会における「服従」の側面を強調し、これに倣う形で文化継承される可能性を肯定的に捉えること自体が問題であると述べる。

 

「ところで、イエ集団のおいて血縁の絆は、集団形成のための最も基本的な定礎でありつづけた。しかしこのことは、日本のイエが中国の伝統的な家族制度のように、抑圧的要素と温和で人道的な要素を合わせもつ存在だったことを意味しない。反対にここでは武家としてのイエ文化の勝利と共に、主君と家来の主従関係がますます血縁関係の擬制下で抑圧的、専制的なものとなっていった一方、婚姻関係や血縁関係の中に「社縁」の要素が浸透していったように思われる。主従関係が血縁のそれに擬されることは、たとえ外見上は家族的な親愛感のヴェールをかぶることがあろうとも、現実にはイエ内部の家内奴隷制的支配を正当化するために血縁関係のイメージを不当な、倒錯した形で転用することである。だからこそ本書の著者たちも指摘するように、日本における他人との血縁的な擬制は常に親―子の擬制となり、中国のような義兄弟という形をとることがなかったのである。そしてイエ内部および大イエと小イエの親―子関係に擬された主従関係は、西欧的な結社の原則とは対照的に、無制約的で無期限の全人格的な主君と集団への服従を生み出す。」(関1987,p65-66)

「従って日本における女性の地位の低さ、女性の社会的な威信と影響力の弱さは、儒教や仏教のイデオロギー的影響力に帰されてはならないものである。たとえ儒教や仏教がイデオロギー的粉飾のために使われたとしても、その原因はやはり所有と蓄積の抽象的な単位としてのイエに女性が家族を介して従属していることにある。大イエと小イエや準イエの間の支配と従属の関係は、個々のイエ内部の主従関係に反映される。こうした日本のイエ内部の主人とその妻子の間の主従関係は、中国の家における儒教的な長幼の序などとは区別さるべきものである。」(同上、p68)

 

 もっとも、本書の立場は今後の日本についてのあり方について「中立的」であることを宣言することで、現在における日本の状況についても言及を回避しているため、このような疑念もあくまで「過去のものにすぎない。未来はこれとは別様でありうる」と反論があるかもしれない。しかし、ここでいう「中立的」というのは、あくまで将来的な状況がどうなるかについて回避しているにすぎず、本書が「シナリオⅠ(個人主義傾向への志向)」と「シナリオⅡ(間柄・集団主義への志向)」のどちらがより望ましいかと考えているかは明らかである。個人主義については、p175にあるように(土居健郎個人主義を批判するのと同じように)その「不可能性」から棄却される。一方、集団主義についても、過去と同じような形でそれが用いられることは現実的でないとするものの(p175)、それが改良された形での運用がなされることについては特段否定しているといい難く、その意味で本書はシナリオⅡの方が優れているという価値判断を行っているのは明らかであり、個人主義的価値観の軽視をしている傾向は否定し難い。土居のレビューで指摘したように、個人主義がその信念を貫くことはある意味不毛であるのは確かだが、プロセスの中で与えてきた良い側面まで否定される筋合いはないのである。

 

 正直な所、私としては単系的発展論をとるか、多系的発展論をとるかという問いにあまり意味があるとは考えていない。どちらの理論でも多様性は十分に捉える余地がある。むしろ重要なのは、このどちらかを選んだ際にどのような視点を失うか、そしてそれは実態を踏まえ許容可能なものなのか、といった点であり、それらの問いを深めていった方がよほど有意義であると思う。

 

<読書ノート>

 

P12-13「しかし近代化・産業化のためには、欧米型の「近代的個人」の誕生が不可欠であるという意見は、欧米ではもとよりのこと、非欧米の国々ですら今なお強く、集団主義は一律に批判される傾きがある。たとえば日本でも、少なくとも知識人の間では、日本固有の集団主義型文化が近代化を遅らせたり歪めたりしたという理解が久しく多数意見であった。さらに、単に近代化・産業化への適合性というばかりでなく、歴史の流れとして、集団主義個人主義によって必然的に克服さるべきものだとする、より強い考え方も少なくなかった。既にふれたように、欧米思想の主流は、単系的発展論への反省が強まった今日でも、基本的にはなお個人主義的であるといって過言ではない。

しかし人類史の全体からみれば、個人主義的文化の時代はむしろ例外である。たしかに近代化・産業化の始動にあたって、個人主義的な欧米の文化が決定的な役割を果し、最近数百年の人類史の主要な発展枝となったことは事実である。しかし「つぎの先進段階はそれまでのものとは別の系統からはじまる」とすれば、今後の発展枝の可能性を探るにあたって、欧米型の個人主義的な文化にとらわれることなく、さまざまの他の可能性をも考慮しなければならない。近代化・産業化に限って考えても、以下で日本という特定の事例について示すように、ある種の集団主義は産業化に十分適合する。」

※しかし「単純に集団主義を主張し、擁護するものではない」「われわれの主張するのは、個人主義集団主義とを同じ相対性の光の中におくことであ」るとする(p13)。一方でこのような集団主義批判はいつの話をしているのかわからない。

P16「個々の人間の発達過程を例にとれば、乳幼児の心理では、自分と他人(主として親)とが十分に分離されずある程度融合している。しかし生きることを学習する過程で、親が「他者」であることを徐々に発見し、それにつれて子はその分だけ「自己」を発見していく。つまり「他者」と対置されるとき初めて、自他己前の間柄の中から、「自己」を外在化ないし対象化されるのである。そのようにして、子供は、生物的個体であることを自覚する程度にまで「自己」を発見して、成人となっていく。たしかに、生物的個体であることの習得は、生物としての人間にとって基本的な事実である。しかし人間は生物的存在である以上に社会的存在である。生物的個体としての自立は、必ずしも社会的文脈で「個人」であることをそのまま意味するものではない。」

発達心理学の影響を無視できない。

 

P17「しかし個々の人が、生物的個体として、あるいは集団の構成単位として、さらにあるいは宗教での救済単位としての自覚をもったとしても、彼はただちに完全な意味での「自己」となり、「個人」となったわけではない。個々の平均人は自己完結しえず、つねに他者との交流を必要とする。しかも、他者との交流の作り出す間柄に入ることによって、人はそれぞれ交流以前とは多少とも異なったものに変質し、その意味では間柄は個々の人に刻印を押す。このようにして間柄は個々の人を作り上げていくが、間柄を作り出し維持するものが個々の人であることも間違いのない事実である。また、間柄の性質自体もどんな人がそれに入ってくるかによって、多少とも影響をこうみる。間柄と個々の人のいずれが先でいずれが後かという問題は、果てしもない問いかけにすぎない。間柄と個々の人とを切り離すことは、それぞれを対象物として把えようとする知的作業として可能であるにすぎず、そのときどきの直接的事実としては、間柄と個々の人とは共に在るとしか言いようがないのである。」

※これが前提で、普遍的なものとみる。では、個人主義とはなんなのか?

P19「そもそも他者とは自己と交流可能なものでなければならず、その意味で単なるモノであってはならない。だが、完全な他者とは、交流可能でありながら自己とは完全に異質であり断絶していなければならない。しかしそのような他者は現実の人間としてはありえない。したがって、第三章で改めて取り上げるように、人類史上最も徹底した「自己の対象化」あるいは「個人」概念の確立は、ユダヤキリスト教におけるような絶対的他者としての人格神の概念を経て、初めて実現したのである。そのような絶対的他者は、すべての現実の「他者」を含んでしかもそれらを超えるものであるーー「もろもろの関係の延長線は永遠の汝(神)において交わる(マルチン・ブーバー)」。かくてすべての現実の間柄は、神と人の間柄の不完全な仮象にすぎないものとみなされる。このようにして、個人の概念化がその極に達したのは、宗教改革を経て西方型有史宗教(キリスト教)が徹底化したときのことであった。」

P20「たとえば日本では一千年近くにわたって、一定類型の自立的集団――われわれは後にそれを「イエ集団」と呼ぶーーが存続した。かくて日本では、「間柄」がそれ自体として意識される度合が強かったように思われる。」

※歴史的因果関係の説明部。

 

P30「ほとんどすべての神話的・呪術的要素と協会による媒介とが取り払われたとき、ユダヤキリスト教的価値観は、現世的進歩の思想と個人主義的社会の発展を支える力となった。欧米型社会の発展は、その脱宗教的外観にもかかわらず、依然として「神の栄光を増大させて」きたともいえよう。」

P31「そこからえられる一つのヒントは、個人主義集団主義という対比が十分に適切ではないということであろう。歴史上のほとんどの社会は、個人主義集団主義の何らかの組合せに基いて作られており、その組合せがさまざまの形をとるにすぎない。ただ例外として、欧米型近代社会は、個人主義のみを原則とする社会システム作りの大胆な試みだと理解できる。そしてこの社会の掲げた「近代的観点」からみるとき、他のすべての社会は集団主義的ともみえるであろう。しかしそれは一つの極点からみたとき、他のすべてのあり方が一様にみえたという以上のことではないかもしれない。非欧米的あるいは非近代的諸社会は、より複雑で多様な事例を与えている。」

P32「「主体」はもちろん相対的な概念であって、現実には、十分な主体は存在せず、またまったく主体性のない個人も存在しない。しかしかりにある特定の社会をとって観察すれば、その社会ではある種の集団の方が個人よりも主体と呼ばれるに相応しいことはありうるだろうし、またその反対の場合ももとよりありうるだろう。このようにして、社会の中には、個人という非複合主体もありうるし、また集団という複合主体もありうる。」

※これは立派な価値判断であるが、それに自覚的であると言い難い。

P33「しかしながら、欧米型近代化の中で育まれてきた社会学的分析においては、個々人を基本的な主体として考える原子論的ないし還元主義的傾向が強い。たとえば、集団類型についての有名な議論の例をあげると、テンニスの「共同社会」と「利益社会」の二分法、マキーバーの「共同体」と「結社体」二分法、パーソンズの「ゲマインシャフト」と「オーガニゼーション」の二分法などがある。これらの有名な集団分類には、欧米の個人主義的近代化の経験に基いて、前近代社会と近代社会とを対比させようというねらいが一貫している。このような分類は、少なくとも今後の産業社会のあり方を考えるにあたっては十分に一般的ではないおそれがある。」

※二分法はむしろ欧米に好まれる、という根拠である一方、「分析的」であるためには二分法にしなければならないという矛盾。ただ、ここでの指摘では前者に偏っている。

 

P39「個人主義的観点からすれば、各個人は個性的であるべきであって、彼らの生活全般にわたる姿勢は当然ながらそれぞれ異質であり、そのような彼らの共有しうる集合目標は限定的たらざるをえない。他方、集団主義の観点からして、個々の人々の生存の根拠を集団に求めるとすれば、集団の目標はまさしく成員の生活の全般を牽引するものであることが要求される。ある集団が集団主義的性格をもつか個人主義的性格をもつかの判定は、その集合目標が無限定的か否かの規準によることが最も適当であろうと思われる。」

P42「テンニス、マキーバー、パーソンズその他の多くの有名な集団分類は、近代と前近代との対比を浮き上らせてきた。……つまり、近代的集団が手段的・限定的・人為的であるのに対して、前近代的集団は即自的・無限定的・自然的であるかのように思われてきた。しかし、そのような前近代の理解は、近代についてのおそらくは不当な自負と、前近代への根拠なき憧れとの奇妙な混合物に過ぎない。」

※ここでの争点は絶対的か相対的であるかの議論ではないのか。また、立証の状況を見ると、「無限定的かつ自然的な集団を「共同体」ないしむしろ「原共同体」と呼ぶことはおそらく適切である」といい(p44)、即自的か手段的かという軸に否定的であること(p42)にある。

 

P87-88「このようにして、中世ヨーロッパの封建社会は、少なくとも発生起源においては、異質な二層なら成る。戦士集団としての家士制のシステムが社会の上層を形成し、各々は孤立した(農民の)村落共同体が下層を形成した。そして戦士集団側の領主権が事実上次第に確定するにつれて、高位の領主は下位の家士に封土を授ける慣行が成立し、各々の家士が村落共同体ないしそれらの集まりの領主になることによって、上層と下層のシステムが結合された。……

それに対して、東国日本のイエは同質性を基本理念とし、家長から所従下人にいたるまでの成員が軍事要員であると共に農作業に参加し、彼らの生活様式も程度の差はあるにせよ基本的には同質的であった。戦士と農民とは決定的には分離されず、家長から下人にいたるまでの階統は連続的であり、同質のもの、一体のものとして統合されていた。したがって、イエの内部では契約関係はありうべからざるものであった。そしてイエに属する武士にとって、土地は祖先が自ら汗して開発したものであって、経済的なものというよりもイエ型集団の結合を支える拠り所であり、まさに「名字の地、一所懸命の地」であった。……すなわち日本では、武士がイエの長であり領主であることは、論理的には、鎌倉殿の御家人であり家士であることに先行している。したがって、まったく逆説的なことであるが、人的結合としてのイエの一体感が持続するかぎり、経済的資源としての土地はむしろ二義的な意味をもつにとどまる。かくて後に述べるように、日本のイエ型集団は、ヨーロッパの農村共同体よりもむしろ脱地縁的性格を示しやすいのである。」

※この理解はアメリカについてどう考えるかという論点を曖昧にする。

 

P111-112「そもそも東方型有史宗教と西方型有史宗教の間には基本的なちがいがあった。既に述べたように、東方型有史宗教を支えているのは、宇宙原理理解のための知的(霊知的)作業における緊張である。知的訓練をうけず知的作業の余裕のない一般大衆が、僧侶階層の媒介なしに知的構成をもった救済論を体得することは非常に難しい。……このことは、主知的宗教としての仏教における直接的救済論の試みが、大衆レベルでは緊張なき現世肯定主義につながり易く、宗教的エネルギーを持続し難いことを示唆しているように思われる。

これに対して西方型有史宗教の基礎は、唯一の人格神との主意的関係における緊張にあった。神は最も身近なものであると共に最も畏るべきものであった。そのような神と罪の観念は、宗教改革期の一般のヨーロッパ人たちにとって最も具体的な事実の一つであり、俗人大衆の一人一人にとって自ら対処すべき問題であった。……神と罪の重荷を担った主意的緊張は、当時の俗人大衆にとっての実感であり、彼らをかり立てて勤勉と節約の世俗内的禁欲主義に向わせる力をまさしくもっていた。主意的宗教としての西方型有史宗教は、大衆型の直接的救済を生み出し易い性格をもっているように思われる。」

※宗教と大衆との付き合い方も自ずと異らざるをえないのではないか。

P120「ただし以上の議論は、西方型有史宗教がより優れた宗教であり、能動主義の思想や個人主義の思想がより優れた思想であることを意味するものではない。……いずれにせよわれわれがここでいいうるのは、宇宙論――受動主義・集団主義――的構成をとる東方型有史宗教と、人格神――能動主義・個人主義――的構成をとる西方型有史宗教とが、優劣を離れて相並ぶ二つの途であるという以上のことではない。」

 

P126近代化の定義としての「近代化=産業化」「近代化=欧米化」

P127「以下で述べるように、われわれは「近代化=産業化」という前者の方向をとることにしたいと考えている。……しかしかりに欧米型近代化発展枝が事実上唯一の発展枝であって、他の発展枝はそれに合体しあるいはそれ自体としては枯死するものだとすれば、近代化=欧米化(=産業化)が唯一の意味のある定義となるだろう。要するに、近代化=産業化という定義をあえてとることの意味は、欧米型近代化以外の発展枝の可能性を発見できるか否かにかかってくる。以下の議論はそのような「それ以外の発展枝」は可能であるという考え方に基づいている。」

※同じであるとはどういう状況を指すのかわからない。

☆p128-129「(※産業化により近代化が)十分(※条件)であるという議論に対しては少なくとも二つの基本的な反対論がありうるだろう。第一には、近代化にはそれを支える文化的・思想的な主要動因があり、産業化はその現われの一つにすぎないという考え方がある。そのような思想的動因としてあげられてきたのは、キリスト教、近代科学、進歩の観念、合理主義、個人主義自由主義などの欧米型近代の諸思想であった。……

第二には、近代化とは人類社会のやることのない分化・複雑化の最新局面であり、産業化もその一つの現われにすぎないという考え方がある。……しかし既に第二章でふれたように、人類史は一定方向にだけ分化し複雑化してきたわけではない。分化にはそのときどきでいくつかの発展枝があり、あるものは挫折しあるものは発展する。したがって欧米的経験にみられる機能的分化の傾向が挫折するものか発展するものかは、改めて検討する必要があるだろう。

※理念型として「概ね妥当」という議論がある以上、この批判も近代化=産業化の図式を否定するものと必ずしも言えないのでは。何をもって「概ね妥当」なのかは理念型からは判断ができない。一方で、「この定義は、「近代化=欧米化」という定義を避けることによって、日本を始めとする非ヨーロッパ系社会や、ソ連・東欧型の社会主義社会を含む広い範囲を近代的社会として認定する。」(p129)という消極的言い分もある。

 

P129近代化の定義…「近代化とは産業社会の形成過程をさす。すなわち、産業化それ自体の進展、およびそれを支えるに足る価値観と、それを支えるに不可欠な社会システムの成立も当然近代化に含まれる。」

P132産業化の帰結…「(1)個別化。産業化と共に生産と消費は分化し、生活の全般にわたって帰属すべき集団は、消滅する。それと共に、消費と教育の水準は平均として上昇し、個人行動の選択の範囲が拡大して、個人はあたかも自立的であるかのように意識し行動するようになる。われわれはこれを、信念としての「個人主義」と区別する意味で「個別化」と呼ぶ。大衆消費と大衆教育の水準が一段と上昇し生存に関する脅威が消滅した「豊かな社会」の段階では、個別化も一段と顕著になる。」

※これは産業化に必要な価値観として「個人主義」を必要としていない点(p131)とリンク。

P132「(3)即自化。産業化と共に、手段的行動と即自的行動とが分裂する傾向が生じ、特に前者の価値が優勢となるが、生存に関する脅威がついに消失しいわゆる「豊かな社会」の段階に達すると、長期的・絶対的な生活目標が見失われ、結果として手段的行動・手段的価値の相対的地位がついには低下する。われわれはこれを「即自化」と呼ぶ。」

※近代化=産業化なのに、なぜp42で即自化は否定されたのか?これは、前近代の認識の誤りがあるとp42で指摘していることになるか?だが少なくとも相対的な指標としては了解していることになるような。

 

P158「「個別化」とは、人々が自分自身の事情のみを引照して行動することをさす。つまり、行動上の個人主義化あるいが現象的な個人主義化であり、自己における究極の価値を信じる「個人主義」そのものとは区別される。」

P169-170「ただし産業化、とりわけ個人主義的産業化の下では、バランスのあり方が特異な形をとっていた。生産と消費の分化、職場と家庭の分離の結果として、職場は手段的行為の場となり、家庭は即自的行為の場となるという分裂が生じていた。二つの行為型を結びつけバランスするという社会的課題が、二つの場の間を「通勤」する個々の働き手の内心の問題として処理された。平均的な働き手は、手段的行為への献身と即自的行為の追及の間でーー比喩的にいえばモーレツ社員主義とマイホーム主義の間でーーしばしば内心の動揺を味わう。その不安定の状況に、既に述べた「私化」の傾向が重なる。「私化」は「即自化」によって強化され、「即自化」は「私化」によって強化されて、個々の働き手の「即自化プラス私化」の傾向は急激な変化として現われる可能性が生れる。そしてそのとき、手段的価値の世界と即自的価値の世界は相互に疎外しあう。

しかし、産業化が続く以上、手段的行為が不可欠であることに変りはない。」

※「手段的行為の美徳化はその意味で産業化にとって本質的なものであり、即自化は産業化の基盤を掘りくずす可能性をもっている。」(p170)基本的には、「大多数の人間の即自化を容認するとすれば、分業化のシステムはあちこちで綻びをみせ、自発的な一般の投資意欲は低まり、技術革新の情熱は一般には盛り上らないだろう。」と述べる(p172)。更にエリートと大衆の対立としてこれを語る(p173-174)。かくて手段性の即時性の再統合についての可能性が語られるが、これを個人主義的なアプローチから行うことは、個人主義の信念の不可能性として否定的に見られる(p175)。残るはこれを集団主義的に捉えるものだが、完全な融合までは現実的でないとする(p175)。ただ、だましだましであっても最も可能性として否定していないのは、この集団主義性に対してであるということは可能だろう。

 

P212「かくてイエという言葉は転じて、単なる住居ではなく、生活を共同に行なう経営体を意味するようになる。……われわれは、「イエ」という言葉を、生活を共同する経営体のある種の独特の類型をさすために用いる。

したがって、「イエ」は家族ではなく、それを原型とするものでもない。」

※「しかしイエを家族の何らかの複合的派生体と考える発想は本末を転倒しているとわれわれは考えたい。」(p213)

P418-419「参勤交代は、人間と情報の全国的ネットワークを創出したばかりでなく、各藩財政における藩領外での貨幣支出を増大させ、市場を拡大させた。各藩は年貢米や特産物を中央市場で大量に売却せざるをえず、藩財政とひいては領国経済は中央市場を通じて相互に密接な結びつきをもつにいたっていた。」

 

P458「学歴と年功とを基準とする階層性、終身雇用制、新卒者の採用、企業内教育、企業内福祉制度等を特徴とするこの「日本的経営」は、経営体の系譜性や強固な統合力・分裂増殖力を保存しつつも、メンバー間の結びつきを機縁としての血縁性を大幅に払拭し、イエ原則を機能的に純化したものであり、徳川期の(準)大イエ型経営体を産業化に適合的な方向に組織革新したものとみなすことができる。それは、従業員に強い帰属感を与え、彼らの忠誠心と自発性とを調達することに成功した。とくに稟議制的意思決定方式の採用は、下位者の積極性を開発するとともに、企業内の情報流通を促進し、イエ型企業を活性化する上で大きな意味を持っていた。」

P461「しかし、イエ型主体はともかくとして、徳川日本に支配的であったイエ型の主体組織原則そのものまでが、幕藩体制の消滅とともに一掃されたわけではない。イエ型諸組織の解体後も、イエ原則は、暗黙ながら自明の組織原理として、つまり一種の文化的遺伝情報として、人々の行動様式を事実上規定していた。」

※そしてイエ原則は制度として「動員」されるものでもあった(p462)。

P465「イエ型組織原則が個々の日本人の心の中に一種の文化的遺伝情報として蓄積され、さまざまな個々の局面でそれが再確認され再利用されるということは事実であったにせよ、システムとしてそれが有効に構成されえたかはある一定のレベルに限られていた。」

※この言い方があまり適切であるとは思えない。個々の記憶の中にあるというよりも、その外部に存在し、再導入される類の情報だろう。また、「どれほど機能していたか」の議論を始めてしまうと、過去のイエ制度の民衆への機能についても議論せねばアンフェアだが、支配制度としてはありえても大衆的レベルでの機能を検証している訳でもない。

 

P532「産業化の原則とイエ社会の原則はつねに干渉し合い、時には対立し、時には共鳴しつつ、既に百年の経験を経てきた。」

P533「思想的絶縁状況は(※現在では)いかなる意味でも不可能になっている。」

※このため日本独特の思想や哲学が今後生まれたとしても「徳川期のように作為的な自閉状況の下で醸成されるのではなくて、世界のさまざまな思想配置の中で自らの位置を明らかにするという形をとる以外にない。」(p533-534)

P536「日本社会はあまりにも無批判に欧米文明を受容したとよくいわれる。……しかし、近代化に費やした百年の経験を公平に眺めるとき、日本社会の近代化は、欧米文明と固有の文化とのあいだの激しい闘争と習合の歴史であったといえるだろう。」

※これも絶対的尺度と相対的尺度の問題を抱えている。

P538「このような問題を考えるにあたって避けなければならないのは、欧米的社会分析特有の先入観である。すなわち、適度に分権的で非専制的な社会は、個人主義的文化の下でのみ成立するという考え方である。裏返していえば、集団主義的文化においては、極度に集権的で専制的な社会が必然的に生れるという先入観であり、明治以降の日本人学者の多くがその考え方に大きく影響されてきた。しかし、このような先入観は、集団主義(間柄主義)についての分析の不足に基いている。」

 

P547「このようにして、戦後の日本は、国家のレベルにおいて、欧米型民主主義との習合を果しつつ、イエ型集団を成員とするムラ型社会として運営されてきたといってよいだろう。国家レベルにおける意思決定は、多数決というよりも(多数決の暴力!)満場一致という形(村八分的存在としてのある時期までの共産党を除く)で行なわれるべきものであった。ムラ型社会には本来――たとえばイエ型集団に比べてーー利害の分離を調整する能力が狭くかつ弱く、停滞的になり易いという問題点がある。しかし戦後日本においては、追いつき型産業社会の合意が悲願といえるほどに強化することがなかった。かくて戦後の大連合政治はかつてなく強固で安定的であった。ムラ型民主主義の欠点は一九七〇年代の始めまでは露呈することがなかったのである。」

※「ムラの理念はまさしく平等主義であり、その理念を崩さない暗黙の指導力がムラの政治を支えるのである。」(p547)

P548「しかし現在の形のムラ型民主主義は今後においては欠陥を示す可能性が大きい。日本社会は、これまでの合意目標を失うと共に、しかも依然として国際的な経済競争で落伍することなく、さらに国際関係の中で受け身の立場から脱皮していかなければならない。そのためには、国内のムラ的な平等主義を守って一視同仁の停滞状況に浸っていることは難しい。ある種の産業やある種の利害は整理されなければならないが、それは平和時のムラの原則を乗り越えることを意味している。さらにまた、アメリカというお上を失ったムラ集団日本は、軍事や外交の自主的な意思決定を余儀なくされる。ムラ型民主主義のシステムを温存しようとすれば、これらの課題に機動的に答えることはできないだろう。」

P549「日本での個別化・即自化は欧米におけるほど進行しないかもしれないが、他方、日本人のムラビト的感覚は、お上に抵抗するにもかかわらず自らはお上に代わって決定の責任を負おうとはしないという形で残っている。」

※個々人の問題であるよりも、制度的に無責任である問題を議論すべき。

 

P552-553「このような複合型に進むにあたって、日本社会は欧米諸社会よりもあるいは有利な立場にあるかもしれない。つまり過去百年にわたって、とりわけ戦後四半世紀以上にわたって、日本社会は、制度と運営の二重性、タテマエとホンネの二重性に慣熟した一種の複合型社会だからである。しかし問題の難しさは、これまでのような複合型が、今後において望ましい複合型とは必ずしも一致しないというところにあるだろう。」

※これは対立的な要素の調整という意味で有利という解釈。

P557「一方の解釈をとれば、「保守への回帰」と呼ばれている現象は、政治面でいえば、新野党の形成が新中間層の期待に一歩遅れているところに生じている一時的な現象にすぎない。……

だがここでもまた、もう一つの解釈が可能である。すなわち、新中間層は、石油ショック以降の環境条件の悪化によって、伝統的な間柄への回帰・参入志向を急激に強めつつある。」

※「一方の極には、新中間層の形成は不可避的な現象であり、個別化・即自化の傾向はさらに進んで、以前の方向への復帰はいずれにせよ不可能であるとする見方がありうる。他方の極には、新中間層の形成は、環境条件に恵まれた昭和四〇年代に一時的に生じえた現象にすぎず、環境条件の変化によってたちまち消滅してしまうようなものにすぎないという見方がありうる。」

P559「前章でもふれたように、わが国の新中間層に属する人々は、たしかに何らかの意味で個別化しているとはいえ、欧米と同じような意味で個人主義者となることはないだろう。個人の意味が相対的に高まったり(あるいは低まったり)する可能性は十分に考えられるが、それが欧米におけるほど絶対的な意味を獲得することはおそらくありえない。この点については、有史宗教以来の文化型の差が決定的な力をもつと考えられる。」

※過去の制約から逃れるのは端的に不可能だという立場。しかしそれは本当なのか??

P562「けっきょく、われわれは、何らの政策的奨励策をとるまでもなく、一種の日本的家族の再建が起る傾向にあると予測する。」

勝野尚行編「教育実践と教育行政」(1972)

 本書は、以前レビューした榊編(1980)と同様、名古屋大学教育学部の関係者により書かれたものである。

 前回、榊編でレビューした際に学校教育をめぐる議論においてなされる「専門性」について少し検討したが、本書はまさにその点を詳しく論じていたため、補足の意味も込め検討する。

 

〇何故「専門性」には具体性が付与されないのか?

 

 前回のレビューでは、学校教育をめぐる「専門性」が無限定的で、その具体性を定義しがたいことを示した。本書の議論からは、教育法学の立場からの「専門性」の議論が、何故そのような性質を持ち合わせてしまうのか、端的に示されている。

 

(1)「専門性」は子どもの全人的発達に応える必要があり、教員にも全人的発達が求められるから。

 

 p28では、いわゆる「無限の可能性」論も意識しながら、学力テストなども含めた数値化された学力そのものを「非科学的」だとし、「聖職的資質と技能的資質を結びつける非合理なもの」と断じている。「全人的発達」というのは「無限」のものであるから、有限的なものとして定義することがそもそも否定されているのである。これに関連して、p28-29では、教員の分業体制についても否定している。そのような分化もまた疎外しか生まず、「教員自身の全面発達の機会を奪う」(p29)ものであるからこそ否定される。

 当然ここでいう全面発達には、p28-29で示される分業体制により確保されるべき「専門性」も当然一教員の手によって(すべての教員により等しくその全ての専門性を)確保されるものであることが前提とされる。p125で斎藤喜博に対し「「教育の専門家」概念は「授業の専門家」に矮小化されている」という評価を下しているのもまさにこの観点からであるといえる。以前斎藤をレビューしたように「授業論」というのは斎藤にとって教師に必要な素質を検討するためにも確立されねばならないものととらえられていた。しかし本書ではそれさえも「必要な専門性」としては足りないと断じるのである。繰り返すが、ここでは端的に「そもそもそのような専門性を確保することが可能なのか」という問いは放棄されるのである。

 

(2)「専門性」には「抵抗」が必要であるから。

 

 本書では専門職集団である教員の自律性は何よりもあたりまえのように存在しなければならないものという教条主義に立つことで、後述するエチオーニの実態に即した「専門性」論さえも否定している訳だが、この理論的要請から、専門性には「抵抗」がないといけないことが明言される。本書で繰り返される「聖職性」というのは、まさに抵抗なき専門性論に対する批判として語られており、本書で語られる「専門性」も端的に「抵抗」があることだけで、専門性が満たされるという言い方も誤りではないのではないのか、と私などは感じる。というのも、「抵抗がない=国家の支配に反論しない」ということであり、国家が教育を語ろうとすること自体を否定し、それを支持しようとする論者には全て「専門性を語る資格がない」かのような言い分で批判を行うからである。p226のような中教審の委員に対しての批判や、p111の山崎真秀への批判、p134やp258での田中耕太郎への批判も全て「抵抗」の観点から批判されているものととらえるほかないだろう。

 

〇エチオーニの専門性論の曲解について

 

 本書ではその専門性論を補うために何人かの論者を取り上げている。最も頻出なのはリーバーマンであるが、リーバーマンの著書は邦訳書が刊行されていない。次点で取り上げられているのがエチオーニで、本書が取り上げている「現代組織論」には訳書(1967年)が存在するため、エチオーニの著書における「専門性」について触れておきたい。

 エチオーニはその著書のなかで、「専門性」と「管理」についての関係性について議論している。本書で指摘があるように、この「管理」というのは、「専門性」とは対立的な関係にあり、管理の側面が強すぎると、「組織の設立目的がそこなわれ、知識が創造され制度化されうるための諸条件(たとえば学問の自由のような)が危険にさらされる」(エツィオーニ1964=1967,p127)と指摘する。しかし、他方で、専門性が強すぎる場合においても、「組織目的の実現が脅かされ、ときには組織の存在さえ危くなる」(同上、p127)と述べる。それは「組織は、その活動の財源を得るために資金を獲得しなければならないし、種々の機能に職員を配置するために人員を集めなければならない」(同上、p127)ために特に営利企業においては、「専門性」は「管理」と適切なバランスをとらねばならないし、費用のかかる資源や補助職員の必要性の増大により、伝統的な専門家も「管理」の側面を考慮しなければならない状況になってきているという(同上、p120)。

 

 では、学校教育における「専門性」についてはどう考えればよいのか。エチオーニはこの点について、素朴に定義しているのは事実であり、大学は当然学問の自由を行使するため、「専門職組織」でなければならないとするが、他方で特に小学校などは最も典型的な「半専門職組織」であるとする(同上、p134)。そして、半専門職である理由としてエチオーニは「知識を創造・応用するよりも、伝達に重きがおかれること」「(教員になるまでの)訓練期間が5年以下であること」「生死の問題を含まない(恐らくは責任の問題と関連付けていると思われる)」「秘密保持の責任も厳密に維持されない」といったことを根拠にしている(cf.同上、p136)これは、私が榊編のレビューで行ったとおり、学校教員における「専門性」を保護者がそこまで求めないのではないのか、という論点とも関連する主張であり、エチオーニの専門職論においても本書でいうような「教育の専門性」は支持されているわけではない。本書でもこの点は了解しているものの、p148においては、小学校においても「専門職組織」であるべきだと強調されるのである。更には、p12にあるように、エチオーニの理論を何故か「対国家的・対行政的な諸権利に関する理論」として位置付けるものの、これについてもエチオーニの議論の本旨に反するものであるといえるのである。

 このような本書に都合のいい部分だけそれとなく取り上げ専門性について「理論」の補強を行い、余計な部分はわざと排除するような態度はエチオーニに限らず、杉本判決に対する態度にも現れているといえる。杉本判決も一方では内的事項・外的事項論の取り扱い方について問題があるものであると指摘していながら(p132)、p134にあるように自らの「抵抗」の専門職論に寄与する部分についてはことさらに強調され、そのような専門職論がすべてであるという、教条主義の立証材料としては都合よく用いているのである。

 

 このような態度の最大の問題については、エチオーニの議論そのものから見いだされるものである。つまり、専ら「専門性」のみを追求した場合には、経済的に非効率となり、いくら経済的資源があったとしても足りないという状況すら生み出す可能性があるということである。エチオーニは専門職組織における財源は寄付や税金により賄われると述べているが(エツィオーニ1964=1967,p141)、その「専門職組織の目的」なるものは、決して外部と無関係ではありえないのである。まさに社会的に善であるとみなされるからこそ財源確保にも正当性が与えられるのであり、そのような正当性は結局理論だけではなく、「実態」についての検討なしには評価のしようがないのである。本書においても、理論だけで終わっているのは明白なのであり、組織の自律性に対する正当性を担保するような議論は行わないことこそ、問題視されねばならないだろう。

 

 

<読書ノート>

☆P5-6「そしてしかも、もしもこれらの問題についての解答を誤るならば、「教職もまた専門職とみなされるべきだ」と主張することの現代的意義は、ほとんどまったくなくなってしまうのである。たとえば、これらの問題に対して、教職とは教育行政職をも含めて教育関係職の総体のことだ、専門職とは聖職ないし専門技術職のことだ、教職もまた専門職とみなされるのは教職従事者に必要とされる資質・能力が聖職的資質と専門的技能だからだ、などと答えたうえでそのような主張をする場合を考えてみえばよい。なぜなら、そのような解答を与える教職「理論」によっては、教育行政職(=教育行政権力)が教職(=公教育教員)の学問の自由ないし教育権を侵害し剥奪している現実(およびそのことから生じているわが国公教育の荒廃した現実)をすこしも批判しえないし、ましてそのような「理論」が公教育現実の「変革の理論」となりうるはずもないからである。むしろかえってそのような教職「理論」は、「国家の教育権」論を補強するイデオロギーとなり、教育行政権力による教員の学問の自由権の剥奪に手をかすことになってしまうからである。」

※はっきり言えるのは、このような教師に必要な資質を問う専門職観そのものが問題であると考えられたということ、それはそのままその定義づけの放棄に繋がったことは容易に推察できること、である。そしてその「理論」が否定される「理論」を展開することこそが、「理論」の地位を引き下げることにも貢献したと言える。この愚行は単純に否定ありきであったためにそれ以外の思考が抜け落ちたがためのもの、という言い方以外に行為の理由説明が難しい。

P9「ではこれら答申が先行させた公教育労働観は何であるか。それこそまさに「国家・資本の利益への従属労働としての公教育労働」観であり「国の教育としての公教育」観にほかならない。そしてこのような公教育労働観に照応させる仕方で「専門職」を観念していればこそ、これら答申の「専門職」の理解はいちじるしく恣意的・独善的となり、結局それを「聖職的技能職」と等置することになってしまったのである。

そうだとすれば私たちは、教職もまた専門的プロフェッションとみなされるべきだということを論証していくために、教育労働は所与の「知識の伝達」労働につきるものではけっしてなく、それもまた労働のあり方への絶えざる研究的接近を要請する専門職労働ないし学問的労働であることを実証し論証していかなくてはならない。子ども・青年の基本的人権=全面発達権としての「〝教育〟をうける権利」の概念内容についての認識をさらに深めながら、そうした「〝教育〟をうける権利」を真に保障し充足しうる教育労働は学問的労働であらざるをえないということをきめこまかに十分に立証していかないかぎり、教職もまた専門職とみなされるべきだということを論証したことにはならないからである。」

※知識の伝達の話は、エチオーニの議論をもとにしている。

 

P11「だから、専門職とみなされるべきだということは、もちろん社会的評価とか社会的尊敬などともかかわって対社会的関係のなかにおいてもいわれうることであるが、大部分の公教育教員が専門職労働者として国家・地方公共団体・私学理事会などに雇用されていることを考えるならば、そのことは主要には対国家的・対行政的な諸権利とかかわって対国家的関係のなかでこそいわれなくてはならない、ということになるのである。

事実、ILOユネスコの『勧告』が教職もまた「専門職とみなされるべきである」というとき、『勧告』は、公教育教員を対国家的関係のなかにすえてこのことをいっているのであり、そこで公教育教員にもまた専門職一般が享受している対国家的諸権利の総体が保障されてしかるべき旨いっているのである。」

※一般的な『人権』に対する解釈一つで議論が変わるような内容では?

P12「以上のようにみてくると、専門職としての教職理論とは、公教育教員の対国家的・対行政的な諸権利に関する理論だということがわかってくるはずである。M.リーバーマン、T.M.スティネット、A.エツィオニ、A.ローゼンタールなど現代アメリカの代表的な教職論者たちが「専門職の自律性」「専門職権限」「専門職の権利」などの諸概念の内容にかなり精力的に論及しているのも、まさにそのためにほかならない。」

※エチオーニに関してはこの指摘はかなり怪しい。国家という枠組みよりも、現代社会に対する目線の方がエチオーニは強いと見るべきでは。

 

P26「たとえば、専門職論には大別すると聖職論、専門技能職論、「専門」スペシャリスト論、専門的ジェネラリスト論などがあるわけだが、中教審の専門職論はそのうちの第三型におおむね属しながらも、しかしそれはその専門職の指揮権を完全に国家・資本に譲り渡した「従属労働としての専門職労働」=教育労働論を前提としている点で、最も後進的なものでしかないのである。専門職とは、一定の科学・学問の論理によってその労働を規律することを要求するものであり、したがって国家・資本その他社会的勢力の不当な干渉・介入に対する自律的運営(権)を強く要求するものであるとするなら、これら二つの鍵的専門職要件をまったく欠落させた専門職論が中教審のそれなのである。」

※この論理を発展させるなら、対保護者の議論でも保護者排除の方向に専門性論を持っていけたはずである。しかしそれはできなかったのである。

P28「たとえば中教審答申は、教員養成の重点目標に専門的資質をあげている。が、その資質とは教育的愛情と使命感と職業倫理でしかなく、また技能的には児童生徒の能力・適性を客観的データーに基づいて合理的に見定め判別していく選別能力=専門的技能なのだとしていること、これは実に聖職的資質と技能的資質を結びつける非合理なものである。なおまた後者の専門的技能に至っては、子どもの能力や発達を固定的・有限的にしかとらえない非科学的発達観に立ったそれでしかないという点で、一層非合理なのである。教育の専門性どころか発達疎外の専門性といったほうが事実にかなっているほどである。」

P28-29「なおまた教員の教育労働管理論としての学校重層構造論や教育機器論なども重大な問題をはらむ。経営層、管理層、作業層などへの教員の職階制化、職務内容に基づく五段階給与体系の移行、教育機器やT.T方式、無学年制の採用による職務内容の細分化と機械化、なおまたそれに見合うプログラマー教員、オペレーター教員、カウンセラー教員、その他アシスタント教員などへの教員の部分労働者化、これら中教審の教育労働管理論は、教育労働をより徹底した資本主義的分業の原理によって再編成し、人材開発と教育効率だけに眼を向けた「労働力商品の生産労働」に転落せしめるもの以外ではありえない。」

※全てが「平凡な」教師志向。「あえていうまでもなく、教員の教育基本権・労働権を欠落させたこのような教育労働論は、実はその教育労働をこそ源泉的契機としていかねばならない教員自身の全面発達の機会を奪う」とし(p29)、「第一に、教育労働は、形式的には全面発達権なる基本的人権の、内容的には歴史的類的存在としての人間的人格の意図的形成労働である、という点で特徴的である。」(p29)と定義(?)する。

 

P34-35「というのは、わが国教育史上第三の教育改革といわれる今回の中教審教育改革構想などは、教職の専門職化を提唱しながらも、それは結局は国家の教育権論に立って教員の教育権を全面否定するような単なる専門技能職でしかなく、教員の教育労働過程は資本の倫理や重層構造職階制原理によってごく一面的な部分労働=従属労働にますます奥深く転落せしめようとしているからである。」

P63「子どもは学問・学習する上で、このような権利主体であるときはじめて、教師の身分的権威や欺瞞から解放されるのであり、逆に教師は、主権者子どもを正当に認めうるときにはじめて、一方的な教化・詰込み・画一教育は学習権を無視した人権侵害教育=加害者教育でしかないこと、つまり逆にいえば、個および集団としての子どもの要求・意見・思考を豊かに自己開花させる教育だけが人権保障教育なのであること、をリアルに認識しうるのである。」

※このような教師批判から集団主義教育の本質である「悪」性が削り取られていったという可能性はないか。

P64「なお以上のような把握は、学校教育の総体が子どもの自治権の下に包括されるようにみえよう。が、実際には教員・父母もそれぞれの立場で教育権・自治権の下に総括されるようにみえよう。が、実際には教員支配となるわけではない。だいじなことは、教員集団・父母集団・子ども集団がそれぞれ自治権の主体者として対等かつ民主的関係を確立することである。教員の生徒管理権・懲戒権を楯に子どもの自治権を全面否定したりそれに著しい制限を加えたりすることこそ厳しく制限されるべきなのである。」

※このタテマエは実際は全否定されている類のものといえるか。

 

P71「教科に関する改訂の基本的な趣旨は、基礎学力の充実、科学技術教育の向上、地理・歴史教育の改善・充実・情操陶冶、身体教育の充実、基本的学習の重点化である。これらは、技術革新および高度経済成長が教科に要請する内容で、いずれも支配層の政治的・経済的意図が反映しているということができる。真実や真理をおおいかくす教科の内容が果して教科の内容になりうるだろうか。すでにそこでは単なる技能のおしつけと虚偽の一方的注入が行なわれるのである。」

※二項図式以上の結論はありえない。

P72「つぎにこの指導要領の問題となる点は、生徒の進路、特性に応ずる教育という点である。就職する生徒には職業科を、そすて家事につく生徒には家庭科を選択するよう示している。こうしたことは、進学する生徒については、英語、数学を中心とした強化を重視し、就職する生徒については職業教育を施すことによって、個々の生徒がより一層望ましい方向に成長するという考えに立っているからだろうと思われるが、しかし、就職する生徒が英語を含む教科を選択することができなくなっていることは、大きな問題であるとしか考えられない。」

※ここでは「同じ教育」に与していないようだが、「同じ教育=選択させない普通教育」を志向していたのはどの集団だったのか。

 

P92「授業における子どもの認識過程は教材を媒介にした知識や技術の習得過程という特殊な認識過程を含むから、そのすべてをかかる一般法則で律することはできないが、しかし授業での認識過程は子どもの全生活での認識過程の一部分である以上、後者過程から切り離すわけにも、また実験、実習などを含めた社会的実践から切り離すわけにもいかない。授業の認識過程にもその根底には認識の一般法則は貫徹しているのである。これが教科指導において教育と実生活の結合の原理を不可避とする認識過程論上の理由である。」

P97-98「では生活指導の本質は「訓育」にあるとして、いうところの「訓育」とは何であるか。事柄の意味内容をより明確にするために「陶冶」と比較していうなら、陶冶が自然、社会、人間に関する客観的な知識・技術を系統的に指導する過程であるとするなら、訓育は陶冶の成果の実践的応用をも含めて、自治的・集団的な実践活動を基礎に子どもが一定の世界観、社会的態度、道徳性、美的・芸術的感覚など、総じて人格的資質を身につけていくことを指導する過程である、といってよかろう。別な観点からいえば、陶冶が子どもの学習権・真理追求権の教育科学的保障を主として問題にするとすれば、訓育は子どもの自治権・社会的実践権の教育科学的保障を主として問題にする、といってもいい。だからこの意味で、訓育過程としては、活動の計画、活動方法の設定、その活動の展開にいたる全行程において子どもが主役を演ずる領域、すなわち教科外活動の領域がいわゆる生活指導の領域としては中核的な位置におかれてくるのである。」

 

P111「このような山崎(※真秀)説は、つぎの三点から批判されてしかるべきである。第一に、国家による国民教育は不適当であり、国家によって国民の教育権を保障するということはそもそも矛盾であるという点から。第二に、国家が分担する教育条件整備は、主権者である国民に対して国家がおう義務以上のものではありえないしそれ以上のものであってはならないという点から。第三に、教育権限が専門職権限であるのに対して、教育行政「権限」はけっしてそのような専門職権限ではありえないという点から。ここでは私はとくに第三の点を強調しておきたい。A.エツィオニが専門職権限と行政権限との関係を問題にしたとき、彼は後者権限を専門職権限とみるようなことはまったくしていない。学校のような専門職組織においては、それは、専門職労働を直接に掌る専門職者がもつ第一次的な専門職権限に対して、それに「従属」し奉仕する第二次的な権限にすぎないといっているのである。そしてしかも、教育権限と教育行政権限とのいずれをも専門職権限としてパラレルに把えることは、専門職プロフェッションという概念の内容を矮小化して、それを教育の専門職ジェネラリストから教育の「専門技術職」スペシャリストにかえてしまうことを意味する。このような教員の教育権限論を基礎にしたのでは、教員の教育権概念の内容をして「教員が教育労働をとおして自己の全面発達を達成していく権利」にくみかえていくことはとてもできないという点で、このような教員教育権限論こそまさに超克と止揚の対象となってくるのである。」

※国家教育に対する前提及びエチオーニ理解が横暴すぎる。

P125「氏(※斎藤喜博)の「教育の専門家」概念は「授業の専門家」に矮小化されてはいるが、授業すること自体は教員にとって重要な任務であることから、氏の教授の「自由」の主張は現在なお一定の意義をもつといえよう。」

※この批判には名古屋大学教育学部紀要15巻の勝野論文が参照にある。

 

P132「もっとも、(※杉本)判決は内的・外的の区分論を採用し、国家が関与するのは教育の外的事項であり、内的事項については「必要最小限度の大綱的事項に限られ」るべきだとし、それ以外では教師の教育の自由を尊重すべきことを説く。このことは、判決が「教育の自由」を「教授の自由」と同義に解していることと関係しているように思われる。また「教授の自由」が教育課程編成権を含むものとするならば、「大綱的基準」といえども国家権力にまかせてしまうことには問題が残るであろう。」

P134「親の教育権と教員の教育権との関係については、先にみてきたように、一般に法論理的には親から教員への信託の関係で把握されている。もちろん、そこには教育の本質論・教職=専門職論が介在しなければならない。そうでないと、国家にも委託されて、教育に一般の代議制=議会制民主主義の論理が適用されることになり、田中氏のように国家にもまた教育権があるとする危険があるからである。教員は「親ないし国民全体」の信託を受けて、教育の本質に従って子どもの成長・発達を保障し、しかも「親ないし国民全体」の「合理的な教育意思」を受けて、教育の本質に従って子どもの成長・発達を保障し、しかも「親ないし国民全体」の「合理的な教育意思」を受けて、「専門性と科学性」に基づいて教育にあたる責務を負っているものである(杉本判決)。そしてこの信託の論理は、同じ国民である親と教師との間にのみ貫徹するのである。かくして、教育においては代議制の論理は排除されるのである。この点、影山氏はつぎのように説明を加える。教員=受託者は、「信託者の合理的教育意思にしたがうのであって、個々の国家意思や政策にしたがうのではない」、その合理的意思は「まさに憲法教育基本法に定着されている民主主義と平和の原則によって規定されている」のであり、しかも「これらは、同時に『親』の教育意思が合理性をもつかどうかの準則として、信託者をも拘束する。それゆえ」「受託者は、ここで意味するかぎりにおいて、個々の信託者の意志から相対的に自律した教育関係の主体」なのであると。」

P140-141「労働が本来その労働従事者の全面発達の契機であるべきであるといわれるように、教員は教育労働を通じて全面発達すべきであり、同時にその教育労働は子どもの「教育を受ける権利」を保障すべき教育実践でなければならなく、そのために教員は「教育の自由」が保障されねばならないのである。」

※論理的にも実際は正しくないし、しかもこの自由の保障は子どもの教育権に対し必然的結果をともなうものと考えることもおかしい。

 

P147「また前節でみた勝野氏の労働権理解からいっても、「学校の自治」が倫理必然的に導き出される。「学校の自治」がなければ、教員は教育労働を科学的認識に基づいて自律的にすすめることができなく、したがって教育労働は全面発達の契機になりえないからである。」

※エチオーニとの議論の違いは無視できない点。

P148「(※エチオーニによれば、)それに対して管理者が異議をとなえる場合でも、その管理的考慮をどの程度とりいれるかは、専門職がみずからの判断で決定すべきであるとする。管理の影響が大きくなり過ぎると、専門職組織の目的そのものがそこなわれ、学問の自由のような知識の創造・制度化のための諸条件が危険にさらされることになるからであるとしている。もっとも、エツィオニは、小学校は半専門職組織であるとしているが、この点は問題がある。現実はそうなっているにしても、本来は小学校もまた専門職組織であるべきだからである。」

 

P201「今日の教育界を支配しているものは産業界特に独占資本である。……そこには、憲法で保障された基本的人権の思想、つまり教育を受ける権利も教育の機会均等の思想も、また教育基本法第一条にみられる人格の完成を目ざす教育もまったくみられない。しかも、このような非人間的な階級的教育理念と制度とが教育界を支配しつつあるということである。これは、悲しむべきこと、怖しいことである。

しかし、われわれ教師および教育学者は悲しんでばかりはいられない。なんとかして人間中心の教育にひきもどし、子どもの夢を育ててやらねばならない。その意味でわれわれの支えになるのは、今日においても、依然として日本国憲法及び教育基本法が守られているということである。」

※このゴリ押しで失われるエチオーニの議論の最大論点は、管理の側面により強調される組織の経済的な自律性である。そしてこの無視は極めて「親方日の丸」的発想であるということもできる。いくら専門性が非効率的な営為であっても公的機関である学校であればその組織が崩壊しないのである。

P209「第二に、教育の正常化が破壊され、人格形成に大きな歪みをつくり出した。すなわち、多くの生徒が縮小された普通科をめざし、そのために中学校が受験教育を激化していった。さらに、生徒は模擬テストや定期テストの点数で理数科を頂点に下は家庭科・農業科、さらにその下は定時制通信制へとふり分けられる。したがって、大多数の生徒は希望に反した学校・学科に入学して、学習意欲を喪失し必要以上の劣等感を植えつけられるなど、人格形成に大きな空洞をつくることになる。

第三に、高校多様化教育そのものが教育学的に矛盾したものであるということである。とくに職業学科や定時制通信制の産学協同方式でみられる現象であるが、一般基礎教育が軽んぜられて技能教育が重視されていることである。その結果、創造的能力をともなわず、そこで得た知識・技術は、当面の企業の要求には役立ちうるが、一〇年後、二〇年後のより高度な技術を必要とする社会には役立たなくなる。このことは、教育の普遍的真理を否定し、あくまでも高校教育政策が企業の当面の利害に基づいてのみ押しすすめられていることを示すとともに、生徒一人ひとりの生活権・生存権などの基本的人権を奪うことを意味する。」

普通科志向自体が反対勢力によっても支持されていたことは日本の教育にとって不幸なことだったのではないか。

 

P216「今日すでに中学校では能力別学級編成が考えられており、高等学校では多様化が実施されている。中学校の能力別指導は学級単位で考えられている。この方法は勉強のできるクラス・できないクラスという形で分けられることになり、いたずらに優越感と劣等感を育て、授業はできるクラスに力を入れることになり、区別→選別→差別の教育につながっていく。また、能力のあるクラスのなかでも、できる生徒・できない生徒の差がでてくる。したがって今日の能力別指導は、実際にはほんの一部の生徒だけの指導に終るにすぎない。同様に高校の多様化教育を、生徒自ら選んだコースではなく、企業からの要求で無理矢理に押し込められたコースであるところに問題がある。」

P226「最後に、答申の成立過程をみていえることは、現中教審委員は教育科学にまったく無知か、表面的な理解に終っているか、間違った理解をしているかいずれかであるということである。教育にたずさわるものは、もっと謙虚に教育の本質をみきわめていくべきであり、そこから生れる科学的成果を教育実践にとり入れていくべきである。」

※「単に」という言い方はあたかも二項図式以外がありえるかのような言い方だが、それはない。中教審委員への批判がそれを物語る。

 

P255「このような「不当な支配」の解釈は、「第一〇条がいましめている当面のものは、まさに国家権力・公権力自体なのであ」り、それゆえに「第一〇条の核心は、公権力自体の教育に対する不当な支配の禁止にあり、そのことは、公権力の教育に対する権限の制限の意味でもある」という宗像誠也のしっかりした明確な解釈と対比してみるとき、いかにもひ弱で消極的な解釈だといわざるをえない。」

※宗像が本質。「当面」の意味は考えなければならない。

P258「なお、「不当な支配」の禁止は抽象的には公権力向けられているとしても、それはより具体的には国民に向けられたものだという、以上みてきたような田中(※耕太郎)氏の教育基本法第一〇条①の解釈そのものの誤りについては、すでに宗像誠也の論文「教育行政(※1966、宗像編「教育基本法」収録)」での明確な指摘もあるし、また、渡辺洋三氏の『法というものの考え方』での「近代法の精髄」論にてらしてみてもその誤りは明瞭なので、ここで詳説するまでもないと思う。」

※細かな話はしていないが、これは「国家への奉仕」につながるから否定されている、というべきか。「国民の学問の自由もまた対国家的関係のなかでは絶対的権利である」(p259)とみなされている限りは。

P264「ではどうして「公の奉仕」が「国民大衆への奉仕」から「国家への奉仕」にすりかえられてしまったのか。その理由を田中氏の教育権論そのもののなかに求めるとするなら、それは氏の教育権論のなかでは子どもの教育を受ける権利および教員の教育権が正当な評価を受けておらず、両親の教育権だけが異常なまでに肥大せしめられていることによる、といってよいだろう。」

※端的に「近代人権思想のこのような欠落」(p266)「近代人権思想をまったく欠落させてしまった田中氏」(p267)とし、「形式的就学権」に教育を受ける権利を解釈することへ批判する(p267)。両親の教育権の議論がことさら強調された点については引用されている訳ではない。

 

P292「にもかかわらず私たちは、現代においては専門職従事者の「プロレタリア化」が急速にすすんでいることをも同時に認めなくてはならない。もちろんここでいう「プロレタリア化」とは、単に現象的に専門職従事者の生活水準とか労働の条件とかが劣悪化してきているということをいうのではなくて、専門職従事者の労働手段とのかつての関係が変化してきて、現代においてはその多数が労働手段から疎外されて被雇用の賃金労働者に転化してきているということをいうのである。」

☆p292-293「つまり私たちの考えでは、もともと専門職プロフェッションとは、この職業に従事する者たちが個人的にも集団としてもこのような諸権利を享受しえているような職業をいうのである。だからこそ専門職の理論は、専門職従事者の専門性論にとどまるものであってはならず、専門職従事者たちの対国家的諸権利、彼らの労働条件、専門職労働の管理組織、当該労働に関する政策形成における彼らの権威、などについて論ずる理論でなくてはならないということになってくるのである。」

※この主張に決して妥協は許されない。決して現実の教師がいかに歪んだ実践をしていたとしても、これがよい教育の必須条件である以上、否定することができないのである。そしてここから具体的な専門性について言及不可能となる理由も、「国家権力に従属してはならない」ことから必然的に導かれるものとなるのである。

P293「だからこそ、「教職は専門職である」ということをくりかえしいいながら、その実そこでもっぱら「専門性」の内容に論及してそこから「専門職の権利」論をまったくもって欠落させているような「専門職」論は、専門技能職論であり聖職論だといわざるをえないのである。」

※善の定義が確定しており、それはやはり具体的な専門性への言及=聖職論と定義付けられる。この部分も含め、本書の主要部は勝野尚行によるところが大きい。

 

中野雅至「公務員バッシングの研究」(2013)

 本書は「公務員バッシング」という「現象」について、その発生背景について論じた本らしい。「らしい」としたのは、私自身が本書を偶然図書館で見つけ、タイトル及び分量から期待していた内容とは全く違うものだったからである。もちろん私が期待したのは、これまで検討してきた「親方日の丸」といった過去の公務員に関連する言説との関連性の議論も含めた形での、「公務員バッシング」の性質をめぐる考察だった訳だが、残念ながら本書はまともに過去の議論を検討に加えておらず、ただひたすら90年代以降の議論だけで「公務員バッシング」を性質付けようとしている印象しか持てなかったのである(※1)。

 本書の大きな問題点として、「公務員バッシング」という言葉をどのようなものに対して適用して使っているのか全く明確になっていないことが挙げられる。本書を考察する前提としてまずはっきりさせておかなければならないのは、本書のいう「公務員バッシング」とは世間に言説として語られていた「公務員バッシング」とは異なるということである。読書ノートP40で指摘した通り、公務員バッシングという言葉自体はほとんど活字媒体においては世間に流布していない言葉である(※2)。では何を指しているのかというと、90年代後半以降における官僚の不祥事を端に発したとされる公務員批判、中央省庁の組織改革に繋がる批判的言説に対して、そう呼んでいると解釈するほかないだろう。一見このような解釈の仕方は問題がないようにも思えるが、この解釈自体が「荒すぎる」解釈の現われであるように、私には思えてしまう。

 

○読売新聞は「公務員」をいかに語ったか?――社説記事の言説分析から――

 

 本書のどこに問題があるのか具体的に語るにあたり、まず実証的なデータ分析から始めた方が早いように思う。ここでは、読売新聞の社説記事のうち、タイトルに「公務員」を含む、1970年から2009年までの記事、89本の分析を行ってみる(※3)。

 
(1)量的傾向について

 

 まず、89本の記事の時期別の傾向を見てみる(※4)。

1970年~74年 7本

1975年~79年 10本

1980年~84年 9本

1985年~89年 2本

1990年~94年 2本

1995年~99年 10本

2000年~04年 19本

2005年~09年 30本

 これについては、中野も指摘している通り、90年代後半から一気に「公務員」についての議論がさかんになったと言うことができるだろう。ただ、他方で中野は新聞についての評価をp39-40にある通り「報道スタンスが変わったとは考えられない」とも言っており、それに限れば見誤っていると言うこともできるだろう。

 

(2)時期ごとの言説分析

 

 さて、記事で語られていた内容についてであるが、私自身が想定していた以上に、時期によって語られている内容が明確に異なっていたことがわかった。基本的には今回比較を想定する70年代の議論と、90年代後半以降の議論、そしてその中間時期の3つに傾向を分けることができた。

 

(2-1)1970年~1982年までの記事の傾向(計25本)

 

 この時期の記事の特徴としては、主題がとてもわかりやすいという点をまず挙げられる。25本の記事のうち21本は基本的に「人件費削減」に関する内容を議論している。その「人件費削減」の記事のうち、特に前回日比野のレビューでも取り上げた東京都をはじめとする地方自治体を中心とした公務員給与を取り上げたものが9件、人員削減について主題としたものが4件、退職金もしくは定年制について議論しているものが8件であった。

 この時期の議論で確認したい点は2つある。一つは、p610-611で中野がまとめていた「公務員バッシング」の特徴とされた「中央から地方へ」というバッシングの拡大という言い方の正しさに関わる部分である。90年代以降の議論にだけ限れば、このような指摘が一見正しいように解釈する余地があるのかもしれないが、過去の公務員批判と比較した場合、むしろ70年代の主題は次の引用のように「地方自治体」にもかなり向いていたという見方ができ、決してその問題の範囲が拡大していったようなモデルを提出することはできない。

 

「もちろん、地方公務員の給与が、国家公務員を上回ったからといって、一概に非難できるものではない。地方自治体には、地方自治体の家庭の事情もあろう。若干の格差は、あって当然でもある。

 しかし、それが、民間の給与水準を大きく上回っては、やはり問題だろう。民間準拠の原則にも反し、納税者である国民感情を逆なでするものでもある。例えば、格差が〇・一二%と、官民がほぼ同一水準にある鳥取県で、人事委員会が、「国に準じて改定」を勧告しているのは、無責任というほかはない。

 こんなことの積み重ねが、地方公務員の給与に対する国民の根深い不信感を生んでいる。自治省が指示した職員給与の公開制が、住民の強い支持を集めているのも、そのあらわれといってよい。そうした声に、率直に耳を傾けるべきだろう。それは、地方自治の発展のためでもある。」(1981.11.23)

 

 もう一つは、定年制に関する点である。この論点については、90年代以降も「天下り」に関連して論じられているが、定年制と退職金はある意味セットで語られている。それは、勧奨退職制という慣行と合わせて、退職金が多く支払われている点が同時に批判されていたからである。この時期においてもしばしば「天下り」に対する言及があるものの、より直接的には定年制の確立と、高額な退職金制度の是正が語られる。

 

「職員の中立性の観点から、国家、地方公務員法身分保障されている公務員には、定年がない。人事の新陳代謝は、定年にかわる勧奨退職、つまり“肩たたき”によって行われている。東京都を例にとれば、管理職は五十七歳、一般職員は六十―六十三歳が“肩たたき”の対象となる。五十五―五十七歳定年が一般的な民間に比べて、それだけでもかなり恵まれているというのに、この間に退職すれば、退職金に五割のプレミアムまでつく。退職奨励の苦肉の策とはいえ、まさに“役人天国”というほかない。……

 この点にメスを入れたのが横浜市方式だが、それも、六十歳と一か月以上の期間を退職金の対象からはずしたに過ぎない。民間では、常識以前のこの程度のことが、全国自治体の注目を浴びているというのだから、民間と自治体の感覚のズレは深刻である。

 それだけではない。勧奨退職制は、地方自治体の行、財政にさまざまなヒズミを生んでいる。勧奨年限が、慣行的に、実質的な定年となっている管理職では、民間への天下りが正々堂々と行われ、その一方では、一般職員の高齢化が進み、行政能率の低下、人件費の増大、人事の停滞を招いている。

 これを改善するには、人事にケジメをつける以外に方法はない。」(1975.3.20)

 

(2-2)1983年~96年までの記事の傾向(計5本)

 

 この時期は「公務員」に関する記事は少なかったといえる。特に93年~96年までは1本も社説記事にはなっていなかった。5本の記事のうち、1本は週休5日制に関するもの(1986.6.20)、1本は国際公務員の育成に関するもの(1989.10.5)で、残り3本は「人件費削減」に関連する記事だった。しかし、この時期の人件費削減の記事として特徴的と言えるのは、その削減の主題が見えづらく、むしろ「行政の効率化を図れ」という形で主張されている点である。

 

「しかし、(※国家公務員の)職員数は一年前に比べ、減少どころか三百二十六人の増加である。人材の効率的な活用のため求められる省庁間配転は、この一年間で百三人しか行われず、実施決定後の三年間の合計でも、わずか二百七十五人でしかない。仕事そのものを見直しての能率化については、全く行われていない。

 加えて、公務員の高すぎる退職金や、年金の官民格差に対する国民の目は、さらに厳しさを増している。その結果、人勧そのものについても、給与、手当のみの比較でなく、生涯賃金や仕事の能率、身分の安定度も加味した内容とすべきだとの声も出ている。

 こうした諸条件を考慮すると、今年度の人勧は、実施に当たって何らかの抑制が行われても、やむを得ない。経営危機に直面した時の民間労使の対応に照らせば、決して無理な要望ではないと思う。

 ただ、ここではっきりしておきたいのは、われわれは、公務員に低賃金を求めているのではない、ということである。人並み、あるいは、それ以上の高い賃金であっていい。しかし、能率もそれにふさわしいものにしてほしい、ということである。」(1983.8.6)

 

(2-3)1997~09年までの記事の傾向(計59本)

 

 この時期の傾向は更に2つに分けるべきで、「2005年3月から2006年8月」までの13本の記事からなるB期と、それ以外の46本の記事からなるA期に分けて検討する。

 まずA期についてだが、まず押さえるべきは70年~80年代にあったような、給与格差や人員削減の問題がほとんど取り上げられなくなった点である(例外と言えるのは1999.1.27の記事1本のみ)。では何が主題なのかというと、正直な所、簡単に分類を行って主題を語ること自体が困難になっている傾向が認められた。一言でまとめるならば「人事制度の見直し」に関するものなのだが、その内容については重複等も多く、どれを中心にしているかは明確化しづらい。ただ、何故分類困難になったのかはある程度説明できる。この時期に中野の著書でも語られているように、官僚を中心にしたバッシングが確かにあり、それは既得権益に染まった中央省庁、官僚の問題として語られ、それに伴う『組織の見直し』を行うことが求められたのである。そして、結局この『組織の見直し』というのがある意味で「不明確」であったのである。ただ、これは中野がp362-363で言うような、抽象的な批判に終始し、具体的な行動が伴っていないから不明確、という訳ではない。

 

 この不明確さは、特に70~80年代の議論と比較した場合に、大きく3つの意味で説明できるものであるとわかる。1つはこの「組織の見直し」の議論がコスト削減といった量的な問題ではなく、公務員倫理や組織体質改善という質の問題であったという点である。端的にそれは成果指標が不明確とならざるをえず、なにかしらの策を講じたとしても改善につながっているのかどうか評価が困難なのである。そもそも公務員倫理のようなものは、法整備といった対策により効果が期待できるのかという疑問さえ社説の中で語られる。

 

「ただ、こうした改革の方向が、どの程度実行に移されていくのかとなると、かなり心もとない。改革内容の多くが、法律改正といった課題ではなく、現行法の「運用」にかかるからだ。つまりは、公務員の「意識」が変わらなければなにも動かない、という懸念が残る。」(1999.3.17)

 

 2つ目は、この「組織の見直し」として質の改善というのは、多岐にわたるものであり、なおかつ「構造」そのものを改めようとする取り組みでもあった点である。「年功序列、横並びからの脱却、能力・実績主義の導入、早期退職勧奨見直しと天下り是正、定年延長、官民交流、採用試験や幹部育成などキャリアシステムの見直し……。公務員制度改革に当たっての課題はすべて密接に関連している」(2007.8.23)とされるのである。「戦後日本の再建と発展を支えてきた官僚機構にも、次第に組織疲労が蓄積され」(1999.8.11)、端的に言えば「制度疲労」(1999.6.26)、仰々しくは「明治以来の官僚社会の幣を打破する歴史的な課題」(2005.2.6)という形で捉えられる制度の見直しを行おうとしていたものだったということである。容易に数値化可能な量的削減とは次元がやはり違う。

 

 また3つ目として挙げられるのは、やはり量と質の議論と関連して、この問題が必ずしも「親方日の丸」の問題として、言い換えれば民間比較の問題として語ることができなかった点も大きかったのではないかと思う。民間給与や退職金の問題、広義にはコスト削減の議論というのは、民間との比較を行い、「民間でできるのに、官公庁では何故できないのか」が簡単に指摘できた。天下りなどは「勧奨退職制の廃止と定年制の導入」という観点では民間比較が可能だが、天下りの事実自体は比較不能なものである。しかも、天下りの問題は、官民の関係性について切り込むという側面があり、転じてそのような「関係性」そのものの規制を行おうとしていたものであったが、そのような規制が「生きた情報に接することができず、官僚の重要な職務である政策形成などにも問題が生じ」る(2005.2.20)ことや、「統計数字みたいなものだけを相手にする官僚では、反面で独善的行政の弊害が増す懸念も生じる」(1998.2.11)ことが指摘されるのである。特に官僚層については優秀な人材が登用されることにも期待しているのであり、一方的な規制がまずもって支持されていた訳でもないのである。

 

 

 また、70~80年代においても、天下りに関連した定年制の議論は基本的に同じように議論され、それはしばしば退職金ともやはりセットとなって語られる傾向が認められる。しかし、これらがセットになった議論というのは、「退職金の減」ありきではなく、「天下り」といった問題の解決の方により重点が置かれて議論がなされていると言える。

 

 さて、次にB期についての議論をまとめる。この時期に限れば、A期のような『組織の見直し』ではなく、70〜80年代同様、人件費削減の議論が集中している。この議論の発端は2005年3月5日の社説で、2005年度の予算が衆議院を通過したこと、その中で「地方交付税の見直し」が図られる必要性を述べている。70年代には批判の矛先が東京や大阪など、当時給与基準等が高かった大都市の自治体に向けられがちであったが(cf,1974.8.7、1981.5.9)、この時期はむしろ人事院勧告と同様の賃金改善を行った結果、地方(田舎)の民間企業と比べれば、高水準の給与が支払われているという形での批判が目立つようにも見える(cf,2005.3.15、2006.4.11)。しかし、どちらの時期にも逆に官民格差のない状態である島根県が国に準じて増額改定されることへの批判(1981.11.23)、及び大阪市における手厚い福利厚生・手当支給の問題視(2005.3.12)もあり、一概には違いとして言い切れない所もある。

 また、本書でもp610-611にあるように「批判が詳細になった」という指摘あったが、中野も指摘していた2006年の人事院の賃金官民比較調査から対象企業を従業員100人から50人に変更した点なども含め、そのような印象もない訳ではない。しかし、これについても1978年11月4日の社説では、地方自治体の人事委員会が実施している官民比較の調査そのものが(民間賃金を過大評価しているとして)「そう簡単に信じられる数字ではない」と述べられるなど、かなり強い論調で批判を行っているものもある。このような点からは、このB期のコスト削減の議論は70~80年代の議論と異なる特徴がなかなか見いだせないように思える。

 

 

 以上の議論も踏まえ、読売社説の検討を行った結果からみる中野の著書における主張との相違点についてまとめる。

(1)p39-40に見られる新聞への評価は適切ではないこと。

 

 確かに70年代と比べ、「より厳しい批判的論調にはなっていない」という点では正しいが、公務員に向けられる分量は明らかに大きくなっており、その分公務員への批判は強く向けられていたということは、新聞媒体でも言うことができるだろう。

 

(2)p99やp135のような批判対象となる「公務員」の拡大は全く見受けられなかったこと。

 

 少なくとも読売新聞の社説からは、その対象が「国家公務員」「地方公務員」に限られており、それは70年代においても全く変わっていない。地方自治体への注目という意味ではむしろ70年代の方が官僚批判を端に発した公務員批判を展開する90~00年代よりも強かった印象さえある。

 

(3)90年代以降の公務員批判と、その改善についてp362-363にあるように「不明確」として過小評価していること。

 

 不明確化は具体的な案の欠落という訳ではなく、むしろその問題とする「組織」の改善の難しさそのものにある。例えば、「天下り」の実施における承認を人事院ではなく、閣僚(主任大臣)に判断させるという案に対しては「実務的に極めて困難だろう」(2000.11.30)「実際上、不可能と言っていい」(2001.3.30)と実効性を疑問視したりすることはある。しかし、省庁再編(1997.11.15)をはじめ、情報公開の促進(2000.11.30)、人物重視の公務員試験の改正(2002.8.26)、能力等級制の導入(2003.7.5)など、実効性に議論の余地があるにせよ、着実に制度改正自体は進めてきたものであるという点まで否定される筋合いはないだろう。

 

(4)p153の「公務員に関する意識調査」について、中野は90年代以降の変化を念頭においているものの、むしろ70年代以降の公務員批判が与えている影響がかなり大きいと言えること。

 

 読書ノートに記載したように、88年の調査結果ではかなりの割合で「公務員は高級取り」というイメージが確立されており、むしろこのイメージ形成は80年代以前に形成されたものであることが、70年代の社説記事を通しても確認できた。

 

(5)p150のような労働条件改善言説と中野が解釈するものは、人件費のコストの議論には全く結びついていないこと。

 

 P150の主張はあたかも過去の公務員批判言説が弱かったことを印象付けるものであるが、実際はコスト削減の議論がさかんに行われていたものである。これは日比野のレビューでもみた美濃部都知事の70年代中頃からの支持率減少に端的に現われていたものである。また、この週休2日制の議論は公務員批判の軸とは全く異なったものであり、現在においても恐らく「働き方改革」における公務員制度の見直しが図られるのであれば、基本的には肯定的な論調でメディアは受け取るのではないかとさえ思える。

 

(6)「公務員バッシング」について読売新聞社説は批判を繰り返していたこと。

 

 これは、中野の議論で全く取り上げられなかった論点であるが、読売新聞社説では事あるごとに「公務員バッシング」に対しては批判を行っていた。「“官僚バッシング”的な視角からの議論だけではなく、そうした前向きの議論もしてほしい」(1998.2.11)、「「政治主導」を盾にした一部政治家の誤った「役人たたき」もあって、官僚自身も萎縮しがちだ」(2001.2.12)、「参院選に向け、“公務員たたき”で有権者の歓心を買おうという狙いもうかがえる」(2007.4.27)、「今年度のⅠ種試験の申込者数は、2万1200人で、最低記録を更新中だ。……度を越した公務員バッシングや、公務員の将来像がつかめないせいではないか」(2008.7.12)という形で、基本的に中野と同様「公務員バッシング」には批判的論調で議論を行っているのである。

 ここで問題となってくるのが、一番最初に議論した「公務員バッシング」の定義の問題である。世間で言われていた「公務員バッシング」という実際の言説においては、読売新聞は明らかに批判していたことになるが、中野の定義する曖昧な「公務員バッシング」となると、やはり読売新聞も「公務員バッシング」していることとなってしまうのである。しかし、その「公務員バッシング」というのは、中野が言うような不明確なもの、実効性のないものとして片づける訳にはいかないのである。

 

(7)p478のような「公務員から批判がなかった」という主張に違和感があること

 

 最後に、p478の言うような指摘である。ここでいうニュアンスを私は「圧倒的多数の公務員は批判を訴えなかった」ものとして受け取り、また同時に「公務員バッシング批判に対して抵抗していなかった」ということも含んでいる印象を受けた訳だが、これに対しては二重の違和感を覚えた。

 一つは、「公務員一般が抵抗していない=抵抗力として十分でない」という図式を前提にしているように見える点である。これはどうしても社説記事からは成立しているように見えず、「官僚が天下り先確保の思惑から、所管する法人の廃止や民営化などの抜本改革に抵抗している」(2002.2.17)、「省庁と労働側が対立している」(2005.2.6)という状況は、少なくとも読売新聞にとっては明らかに公務員制度改革の「阻害要因」として認めているのである。

 もう一つは、あたかも「公務員バッシング=不必要なバッシング」の図式が前提にある点である。これもまた「公務員バッシング」の定義の曖昧さの問題が影響を与える点である。要するに世間一般における「公務員バッシング」言説は、読売新聞が指摘しているように「政治家の一般大衆への媚売り」であり、あまりまともに相手にする必要さえないという見方もできるが、中野のいう「公務員バッシング」には当然賃金・退職金削減といった問題も含まれてしまうために、「公務員バッシングは公務員自身が抵抗しなければならない要素をもつもの」と思い込ませてしまう性質が与えられてしまっているのである。合わせて、曖昧な形での「公務員バッシング」言説には、かなりの部分「正当性」が含まれている部分がある。これは読売新聞社説で公務員批判を行う際に見られた具体例の例示の中に示されていたものであるが、それが「正当性」のあるものであれば、やはり公務員自身も再批判せず、素直に事実を受け取る可能性に開かれていてもよいはずなのである。中野は、これに関連して、例えばp362-363にあるように、「何故ギリシャのように公務員数の拡大をするように動かなかったのか」という疑問を提出しているが、財政破綻したギリシャの例を挙げること自体がナンセンスで、それこそ「公務員削減志向は方策として正しい(のに、なぜギリシャに倣わなければならないのか理解できない)」という意見を支持することにもなるように思える。これもまた曖昧な定義としての「公務員バッシング」に対する再批判を行わない根拠となるものである。

 

 

 

 最後に、今回の新聞社説の分析とは別の次元で、本書のとるスタンスの問題について触れておきたい。

 一つは、本書が「マスコミ」について言及する際、テレビや雑誌が中心となっているように見える点である。どちらの場合も、「公務員バッシングが激しくなった」ことの立証としていくつかの番組の登場や、記事の紹介は行っているものの、それらは決して「過去の内容」との比較を行っている訳ではないことには目を向けなければならない(※5)。特にテレビにおいては顕著であるが、どのような内容が実際に語られていたのかさえ曖昧なメディアばかりを根拠に、その言説が「拡大した」といった言明を行うこと自体がかなり学術的には問題含みである。端的に追証不可能だからである。言説の拡大について指摘したいのであれば、実際にそのような比較が行えるものを選ぶことが基本となるはずだが、本書では「公務員バッシング」と関連するのか不明確な「公務員」に関する記事の量的拡大のみに着目して、結論付けてしまっている。このようなスタンスの取り方は、どうしても分析そのものが荒いという印象しか受けない。

 もう一つは、「社会問題」を捉える上で、私自身がこれまでのレビューでも問題視してきた「大衆」の捉え方である。本書ではp341などが顕著だが、いつのまにかメディアにおける「公務員バッシング」が国民による「公務員バッシング」と同一視されてしまっている。これは無条件で「メディアで言われていることは国民を代弁している」とみなしているということであるが、これは端的に誤りであろう。これは中野がテレビに依拠したのか、雑誌に依拠したのかによっても評価が分かれてくるかもしれないが、少なくとも「雑誌」による「公務員バッシング」と今回分析した「日本一の読者がいる」「読売新聞の社説記事」における「公務員バッシング批判」、どちらが「大衆」を表しているのか、という疑問を投げかけた場合には、「読売新聞の社説記事」を支持する他なく、本書の捉える大衆観が全くの誤りになる。もちろん、私自身が新聞社説を分析対象としたのはそのことを示すためではない。あくまでもそのメディアが「大衆の目にとまる可能性が高い」程度のもの以上のものではないのである。雑誌で語られていることも、新聞で語られていることも、「大衆」そのものの意思を反映したものとは言い難く、それは断片的なものでしかないのである。本当に「大衆」の意思を確認したいなら、世論調査などによって少なくとも「直接意思を確認する」作業をしなければそうとは言えないのである。中野もそのような調査について触れていない訳ではないが、「公務員に関する世論調査」の用い方同様、本書の問題点の指摘にマッチする形で、調査結果の内容を拾えていないのである。

 

 

※1 ほとんど唯一過去の議論を実証的に比較して述べていたと思われていた「公務員に関する世論調査」についても、読書ノートに示したように、70年代の文脈を押さえた形で議論している訳ではなく、データの取り扱いも適切か疑問が残る内容である。本書が依拠する「過去との比較」は基本的に政府関係者などが90年代以降に語る「過去語り」の中からしか見いだしていない。しかし、このような「過去語り」にだけ依拠するのは、本書を仮に「学術書」として読むなら如何なものかと思う。広田照幸などが指摘したように、「しつけの衰退」や「少年犯罪の悪化」と言った言説もまた、素朴な「過去語り」であるがゆえに、実証的に見れば正しくないことも十分ありえる話である。

 

※2 読売新聞の過去の記事全体から見ても、1998年に「公務員バッシング」という言葉が登場してから現在までわずか十数件しか用いられていない。しかも、後述するように、用いられる「公務員バッシング」は、政治家がこのようなバッシングを行うことに対する批判として語られる傾向も強い。

 

※3 ここで注意したいのは、タイトルでは「公務員」が入っていないものの、記事の中身は公務員について語っているものも相当数存在するという点である。例えば、「天下り」がタイトルに含まれる記事も同期間内で24件ヒットしたが、全体的な傾向は今回の分析のみで十分把握できるものと考える。「天下り」といった言葉の分析の方が、むしろ「公務員バッシング」に繋がる批判的議論が色濃く出ることも想定されるものの、p40にあるように、中野自身が量的傾向として指摘するのがそもそも「公務員」という言葉であるため、本書との整合性は少なくともとれているはずである。

 また、時期設定を1970年代から00年代までとしたのは、本書の分析対象も基本的に2009年までとしている点と、本書のいう「公務員バッシング」言説と比較可能となるであろう公務員批判の言説が、特にオイル・ショック以後の財政見直しの議論がなされた1970年代にあると想定したからである。

 

※4 なお、対象外期間とした2010年~14年までは21本、2015年~19年8月末までで5本となっており、2005年~09年までがピークとなっている。また、以下引用・参照を行う際は、新聞掲載年月日のみを記載する。

 

※5 余談であるが、中野は本書の前に「天下りの研究」という著書を書いている。しかし、この中でも「天下りが世間で如何に語られていたのか」という点について、実証的考察は何も行っていない。

 

(読書ノート)

P19-20「次に第二段階として、時期的には第一段階と接近するような形だが、官と民の労働条件の乖離から一歩進んで、経済成長の鈍化・雇用失業率の悪化などが深刻化していくことによって、税収が減り予算などの形を通じて配分できるパイが少なくなるとともに、財政赤字が累積していくにしたがって、国民の多くは官民の労働条件乖離といったことだけではなく、自分たちの生活状況の悪化・受けている行政サービスの質量などと官公庁・公務員の動向が深く関係していると認識するに至ったことから、公務員の動向に対する関心を広く強く持ち出したということである。わかりやすく言うと、不況で給与が落ち込んでいるにもかかわらず、国民の税金で給与が払われている公務員の労働条件が恵まれたままであれば、官民乖離ではなく、民の犠牲によって官の厚遇が維持されていると映るようになるということである。譬えとして適切かどうかはともかくとして、「他人事の政官業癒着」から「自分事の政官業癒着」に進化したもである。」

※大衆の動きは本書でいかに捕らえられているか?

P37「テレビもラジオも公務員批判を行うことはいうまでもないが、過剰に公務員を批判する傾向が強い印象があるのはテレビである。」

P39-40「次に、新聞・雑誌という紙媒体についてであるが、新聞は言うまでもなく従来から不祥事をはじめとした様々な問題で公務員を取り上げてきており、批判の程度が多少変わったということがあるとしても、バブル経済崩壊前後によってそれほど大きく報道スタンスが変化しているとは考えられない。」

※3行で新聞の説明を終えてしまっているが、これは明らかな認識の誤り。

P40「その一方で、雑誌に関しては様相が異なっている。バブル経済崩壊前後で明らかに公務員に関する記事数やその内容に変化が生じているからである。国立国会図書館OPACによって「公務員」というキーワードで検索してみると、バブル経済崩壊後、特に、2000年以後、公務員関連の記事が増えているからである。」

※しかし、万単位で「公務員」が該当するにもかかわらず、「公務員バッシング」でヒットするのは、20件にも満たない。これをどう考えるか?

 

P61「その一方で、霞ヶ関を中心とする本省の労働時間は国会対応を含めて深夜に及ぶ超過勤務が常識になっていること、楽だと言われる地方出先機関においても、バブル経済崩壊以降は厳しい状況になっているという指摘もあるが、一般の週刊誌がこの問題を取り上げることは少ない。

例えば、大塚実(2007)によると、公務員連絡会が毎年秋に行っている生活実態調査では、本省事務職の国家公務員の場合、平均月の平均値で22.9時間、最高月の平均値で58.2時間の超過勤務を行っている。また、同調査では、同じく本省事務職の国家公務員の場合、超過勤務手当が「50%以下しか支払われていない」者が17.6%の割合となっていて、ただ働きのような存在もいることが浮き彫りになっている。」

P99「次に、批判される公務員の範囲が拡大していることも大きな特徴としてあげることができる。公務員批判と言えば、国家公務員法の適用を受ける一般職の国家公務員と地方公務員法の適用を受ける地方公務員の二者が主に思い浮かぶが、公務員法の適用を受けない者を含めてマスコミの批判対象は拡大している。」

P110「なお、公務員数については総務省のHP上で掲載されている公務員数の国際比較が相当浸透してきたこともあり、国際比較という観点から言えば我が国の公務員数は決して多くないということがようやく理解されつつあるが、「役所の関連団体」と言われる特殊法人独立行政法人等を入れれば、もっと大きくなるという指摘もある。日本経団連の試算では政府と関連の深い団体で働く者は135万人になる。また、国税庁がまとめた2003年の源泉所得税の納税状況をみると、政府部門の就労者に区分される人は893万人になるという指摘(日本経済新聞2005.10.31)もある。」

 

P135「第1章の考察結果を参考にして述べれば、報道量の拡大の1つの要因となったのは、批判される対象が拡大していったことである。公務員に対する批判と言えば、公務員に対する批判と言えば、国家公務員のキャリア官僚というのが一般的だったが、2000年以後に入ってからはその対象が拡大していった。」

※この認識は、少なくとも新聞についていえば、大きな誤りがある。また、第1章でこのことがまともに(特に過去との比較について、実証的に)考察されていたものとは考えられない。せいぜい、まともな考察がなされているのか極めて怪しい大衆雑誌の参照を行なっている程度である。このような認識に至るのは、まさに過去の公務員批判について考察していないからこそ出てくるとさえいえる。

P143公務員を含む雑誌タイトル件数の推移

P146「しかし、1960年代や1970年代における「役人天国」という言葉にはまだまだ牧歌的な部分が残っており、今日のような細々した部分まですべて取り上げて批判するということは少なかった。」

P150「また、1980年代までは公務員の労働条件を良くすることが景気を良くすることにつながったり、民間労働者に波及することで勤労者全体を良くするという考え方が受け入れられていた。公務員に労働条件改善の牽引役としての役割さえ期待されていたのである。実際、様々なステップを踏んで進めてきたとはいえ、公務員の週休二日制については歓迎さえされている。」

※これは拡大解釈にすぎる。別に賃金改善といったものにまでそれが言われていた訳ではない。週休二日制については、かなり例外的な事象である。

 

P153「バブル経済が崩壊する前までは、官民の労働条件の乖離はそれほ大きなものではなかった。……そのため、官民の労働条件が大きく乖離していないどころか、賃金水準については、「公務員の給料はそれほど高くない」というイメージも強かった。

実際、旧総理府が1973年に行った「公務員に関する世論調査」によると、「あなたは、一般公務員の給料は、民間企業と比べて高いと思いますか、それとも低いと思いますか、この中ではどれでしょうか」という質問に対して、「高い」(6.8%)、「どちらかといえば高い」(16.5%)、「同じ」(24.7%)、「どちらかといえば低い」(25.3%)、「低い」(10.9%)、「わからない」(15.8%)という結果になっており、公務員の給料が高いと思っている人は多数派となっていない。」

※ただ、この調査はオイルショック後の自治体批判直前の調査と位置付けるべきものであり、1988年に実施された同名の調査ではすでに回答傾向が大きく異なっている(それぞれの回答の割合は23.4%、20.6%、22.4%、9.5%、4.0%、20.1%と完全に傾向がバブル崩壊前から逆転している)。本書でいう公務員バッシングの文脈を考える上では不適切な議論であるし、なぜこの88年の調査には言及しなかったのかも不可解。また88年の調査で「再就職が容易であることを理由にして、公務員の退職後の生活を恵まれていると考える人は必ずしも多数派でないことがわかる。むしろ、公務員の退職後が豊かだと思っているのは、年金や退職金の手厚さが主な理由だ。」(p154)とし、人事院の「国家公務員に関するモニター」調査における天下りを問題視する人が最も多いことと対比しているが(p151)、そもそも質問の趣旨が異なるため単純な比較で中野のような結論を導き出せるものではない。

 

P213「実際、国家公務員Ⅰ種試験受験者は長期低落傾向にあったが、その中でも東京大学出身者が減っていることはよく指摘されてきた。しかも、東京大学出身者の中でも官僚養成で名高い法学部出身者が顕著に減少していることは注目に値する。」

※ここでは、採用方針として東大法学部集中が1990年代見直された点について考慮せず、データは「採用者数」を示すだけである。

P245「他方で、間接的な理由として、公務員の不祥事を受け止める国民側の意識の変化もあった。1990年代以降の公務員の不祥事は質量ともに大きく変化したが、それを受け止める国民側の意識も、経済変化の状況変化、権利意識の高まりなどによって相当変化していたと思われる。端的に言えば、国民の公務員を見る目が厳しくなったのである。」

※ここでの論点はほぼ全て実証性に欠けることを言っている。せいぜい「国民」ではなく「世論」という表現を使うべきである。

 

P341「その意味では、国民の「自分たちの生活と公務員や官公庁の動向が何らかの形でかかわっている」というのは感情的なものであり、思い込みの要素が強いということである。公務員や官公庁の動向と自分の生活が関連していることを実感する国民が多数派を占めていれば、傍観者的な対応はとらないからである。」

※「国民」を使うからこうなる。本当にこの認識が正しいと言えるのかは何も実証していないのに。

P341「国民の「自分たちの生活と公務員や官公庁の動向が何らかの形でかかわっている」というのは感情的な側面や思い込みの要素が強く、そういう実感がないにもかかわらず、マスコミ主体の公務員バッシングに国民が関心を示し続けたところにこそ、公務員バッシングの1つの特徴が見られる。なぜなら、公務員や官公庁が諸悪の根源ではなく、自らの批判に感情的側面が強いことを自覚しつつも、マスコミが流し続けるバッシング報道に関心を示し続ける不合理や感情的側面が見られるからである。」

※基本的に「社会問題」は多かれ少なかれこの要素がある。繰り返すがこれは「世論」としては妥当だが「国民」については妥当するか実証的に示されていない。

P352「これら他のバッシング現象と比較すればわかるように、公務員バッシングは3つの特徴的な要素を持っている。第一に、マスコミを主体にしたバッシングであるということである。第二に、バッシングによる影響は少ないということである。第三に、バッシングが長期間にわたっているということである。同時に注意すべきなのは、これら3つは相互に矛盾したものだという点である。」

※バッシングの主体がマスコミとされるのは、新聞側から批判さえあるだろう。

P356「マスコミはこのようなポピュリズムが吹き荒れる状況の中で、世論に異見するのではなく、国民の関心が深いから報道し続けるというのでもなく、ポピュリズムに媚びるような形で公務員バッシングを続けたのである。微妙な違いだが、のちに見るように国民自身が公務員制度などで激しい改革要求を起こしたようなことはなく、国民の公務員バッシングに対する姿勢は非常に受け身的だったことから言えば、マスコミは国民の関心が深いからという理由で長期間にわたって批判的な報道を続けたとは考えにくい。」

※マスコミ自体がパッシブであるならば、「政治が公務員改革を続けていった」だけで説明できてしまう理由なのだが…また、「国民」が強い改善要求を求めるような事例とは具体的にどのようにありえる話なのか?

 

P362-363「第三に、公務員の厚遇に対する批判や、一部の人間しか公務員になれないという事例がマスコミ報道されていることを考えると、国民側から「公務員をもっと増やして雇用機会を作るべきだ」といった強い要望が出てきてもよさそうであるが、国民の間からはそのような要望は見られなかった。……

このような日本人の態度は同じ財政状況のギリシャとは対照的である。……

つまり、公務員バッシングは、マスコミを通じて強く批判するが、その批判が具体的な行動に結びつかない(結びつける意識がない)ところに大きな特徴がある。やや極端な言い方をすれば、無責任な批判を繰り返すだけだということになる。」

※これは論点のすりかえでしかない。そもそもが民間並みの給与改善、退職後福利、人員削減政策の改善要求を行なっていただけであり、それ自体はそれなりに達成されていると見るべきではないか。このことに対する説明のp368でしており、なぜ労働条件の改善=公務員改革における改善と思い込んでいるのだろうか?最大限擁護できるとすれば、ここでの公務員バッシングは字義どおりに言説として用いられていた「公務員バッシング」には妥当するかもしれないが、それは90-00年代の公務員批判と改善要求の話とは別の話であり、それを混同すべきではない。

そして、この改善要求が弱い理由を国民との関心との直接的関連性の弱さとして説明するが(p363)、そもそもこの時期の公務員批判が量的批判でなく、質的批判であったという着眼点は欠けている。たしかに当時質的改善の実効性は問うべき余地があるが、量的改善まで実効性がなかったかはむしろ疑問であり、その検証は本書で何もおこなっていない(質的な話に集中してしまっている)。

 

P438「このような状況が進展すると、政官関係は対等な敵対関係から官僚叩きなどのような一方的な関係にまで発展する様相も強くなり、テレビなどのマスコミで官僚を叩けば叩くほど政治家としての人気を増すというような状況さえ現出するようになった。そのような異常な状況の裏返しとも言えるが、第170回国会で麻生太郎内閣総理大臣所信表明演説において、「わたしは、その実現のため、現場も含め、公務員諸君に粉骨砕身、働いてもらいます、国家、国民のために働くことを喜びとしてほしい。官僚とは、わたしとわたしの内閣にとって、敵ではありません。しかし、信賞必罰で臨みます。わたしが先頭に立って、彼らを率います。彼らは、国民に奉仕する政府の経営資源であります。その活用をできぬものは、およそ政府経営の任に耐えぬのであります」と述べている。」

P445「それにもかかわらず、「官僚主導」「官僚支配」あるいは「財務省支配」という言葉は流され続けた。1960年代までのようなわかりやすい官僚主導ではなく、制度面だけなら誰が見ても政治優位の状況であるにもかかわらず、なぜ官僚主導・官僚優位ということが言われ続けたのだろうか。どれだけ権限を与えても政治が機能しなかったという根本的な要因の他に考えられることとして、官僚の力の源泉として指摘されるものの中で1990年代前後で大きく変わったことに注目すると、官僚が影に隠れて権謀術数・情報操作などを行っていることが幾度となく繰り返し宣伝されたことが、その実態の不透明さと相まって虚像を形作っていった一因だと考えられる。」

※本書では官僚の情報操作について、かなり懐疑的な立場である。

P478「しかし、「公務員の立場から考えて反論しないのは当然だ」という説明も判然としないところがある。例えば、公務員自身がコミュニケーション能力の向上を目指したというのは、政府広報への民間経験者の登用を含めて、国民に対して説明を行うことの重要性を認識していたことを示しており、根拠のない公務員や官公庁への批判を全く度外視していたということでもなさそうである。また、実際問題として、公務員労組や個々の公務員の中には公務員バッシングに対して怒りを含めた反論を行っている事例もある。ただし、公務員は人数が多すぎることもあって公務員全体として連帯して組織的に公務員バッシングに対応していないし、個々の公務員がフォーマルにマスコミに反論したりする事例もほとんど見ない。」

※公務員が反論するのは「普通」なのか?そもそも何に対する反論なのか?基本的にここで議論されるべきは「公務員バッシング」への反論ではなく、「公務員制度改革」への反論であるべきである。公務員バッシングは本書が言うほど大きな議論にそもそもなっていない。この議論のおかしさは、「『日本人論』批判に対して日本人が反論しない」という言い方に似た奇妙さにある。

 

P610-611「公務員バッシング」とは何か?に対する答え……「具体的に言うと、第一に批判される対象が拡大していることである。特権階級としてしばしば批判されてきたキャリア官僚だけでなく、地方公務員やこれまで看過されてきた国会職員なども対象になっている。

第二に、批判が詳細で細部に至ることである。これまで見落とされてきたような公務員に特有の労働条件が批判の対象になっている。第三に、主な批判の1つが官民乖離にあることである。これまでも公務員批判の要因の1つは官民の労働条件の乖離だったが、長期不況に陥る1990年代以降はその位置づけがより重くなっている。1980年代までは景気の落ち込みによって、一時的に民間で働く人の労働条件が悪化するという程度だったが、非正規雇用が常態化する1990年代以降はそれとは全く状況が異なるため、公務員の身分保障などが際立つことになった。第四に、批判がセンセーショナルであることである。雑誌記事の見出しや表現には過激なものが多くなっている。第五に、公務員バッシングの擁護者が少ないことである。マスコミ報道あるいはこれを支える世論の強さもあって、客観的な見地から公務員を擁護する傾向はほとんど見られなくなった。第六に、同和問題に典型だが、タブー視されてきたものまでが、公務員バッシングと関連してバッシング対象になっていることである。それだけバッシングの激しさを表していると考えられる。第七に、個人にフォーカスしたバッシングが増えつつあることである。これは典型的には特定の公務員を対象にした懲戒処分に顕著である。官民を冷静に比較分析する、あるいは、懲戒処分発生事由を冷静に分析することなく、とにかく公務員に厳しい懲戒処分を科すべきだというマスコミ報道やそれを支持する世論が強くなっているということである。」

※この中では、第一と第五は少なくとも新聞の記事に明確な反証材料がある。第四や第七も新聞記事にまで十分にその影響は認めがたく、部分的でしかない可能性がある。第六も同じように「国民」との関係の中では具体的な影響力としてどれほどあった内容なのかわからない。

日比野登「財政戦争の検証」(1987)

 本書は1960年~70年代の美濃部東京都政に対する評価をめぐる議論に関連して、革新自治体に対する批判に加担した政府・自治省を強く批判した本である。美濃部都政の評価に関する議論は今後もできる限り検証していきたいが、今回も論点整理の一環でレビューしていきたい。

 

○本書が指摘する政府・自治省の「世論操作」はどこまで正しいのか?

 

 本書で繰り返し述べられているのは、p76-77にあるように田原総一朗のレポートにあったような、政府および自治省の革新自治体に対する圧力によって、「財政難」が意図的に露呈され、革新勢力の政治的退行を促進させた工作が展開されたことが、美濃部都政の世論批判を生んだという主張である。この田原レポートは、特に「バラマキ福祉」と「水ぶくれ都庁(都職員数の急増)」が批判の的になっていたことについて、他主要自治体の比較から実証的に問題の所在が東京都固有のものではなかったことを示しているし(※1)、複数の筋から意図的な政治的介入があったことを聞き取っている。しかし、それでもなお本書がこの「T.O.K.Y.O作戦」を過大評価していると言わなければならないと考える。

 

 本書から政府・自治省から受けた「圧力」についていくつか取り上げると、

(1)マスコミを利用した世論操作(マイナスイメージの付与)(p80)

(2)地方交付税交付金の操作(p185)

(3)ベースアップ対策債の不許可(p120)

(4)超過課税に対する妨害工作(p131,p132)

(5)予算過大見積の影響による財政悪化の地方への責任転嫁(p111,p111-112)

の5つ程度を主たるものとして挙げることができるだろう。このうち、(5)の判断の正しさについては当時の予算算定段階の経済情勢等に対する状況を把握する必要があり、(本書ではその点について何の言及もないが)これを誤りとするのはその検証が必要であるため取り上げないが、他のものについてそれぞれ検討していきたい。

 

 まず(1)についてである。これについては、少なくとも部分的には正しいという他ないだろう。自らの反対勢力に対して排除し自らを優位にしようとすることは、それ自体は自然である。ただこのような世論操作は以前レビューした国鉄の「反マル生」の動きなどにもマスコミの同調は顕著に現われているように、別に政府側の専売特許ではない。また、その影響力についても本書p78で言うような政府と広くマスコミが癒着関係をもってなされていたとは考え難い(※2)。

 これは当時の新聞の論調そのものを読めばある程度ハッキリする。本書p80でも述べられている通りだが、本当にマスコミが癒着しているのであれば、そもそも政府側の非難をすること自体が不自然である。例えば、次のような主張がなされている。

 

 「地方公務員の賃金引上げをめぐる自治省自治労の人件費論争が、地方自治体の理事者側も巻きこんで再燃する情勢である。

 地方財政の危機が深まるにつれて、人事院勧告なみの地方公務員賃金の引き上げに反対する自治省の姿勢は一段と厳しさを増している。財政硬直化から脱出するためにも、高すぎる地方公務員の賃金水準を、せめて国家公務員に抑制すべきだというのである。

 もっとも、赤字財政の責任は、あげて肥大化した人件費にある、といわんばかりの自治省の主張には、いささかの無理があろう。自治体よりも国に大きなウエートを置いた財源配分、実勢価格を下回る補助金などの国庫支出と、それに伴う超過負担など、地方財政を圧迫する要因は、ほかにいくらもある。

 また、国と違って、警察、消防、教育、清掃など多くの現業部門を抱えている自治体にあって、人件費は事業費そのものといった一面を持つ。国に比べて自治体の人件費率が高く、それが投資的経費を上回ったからといって、一概に非難することはできない。

 しかし、一般に地方公務員の賃金水準が、国家公務員をかなり上回っていることは事実だろう。自治省が比較の手段とするラスパイレス指数に絶対の信を置くものではないが、「県市役所の職員賃金は国家公務員賃金を一〇%上回る」という自治省の再三の指摘に対し、自治体側から説得力ある反論がなされなかったことも確かである。

 もちろん、地方公務員の賃金が国家公務員を上回ってはならない、といったきまりがあるわけではない。組合がいうように、地方公務員の賃金の高いか低いかは、自治体の住民が判断すべきことで、自治省などが口をはさむ筋合いのものではないかもしれない。

 ただ問題は、自治省の人件費攻撃に強い共感を示した住民が、決して少なくなかった点にある。高成長下、財政に余裕のあるのをよいことに、自治体労使がなれ合いで賃金を引き上げてきたのではないか。そうでなければ、民間準拠の人事院勧告にそって引き上げられてきた地方公務員の賃金水準が、いつの間にか、国家公務員ばかりか民間をも上回りかねない状況など生まれるはずもない。

 こんな不信感に拍車をかけるような事例も少なくない。昨年、赤字再建団体に指定された福岡県・豊前市では、職員の六〇%までが課長級以上の賃金を支給されていた。昨年の賃金改正に際しては、自治体の課長補佐と民間の課長を比較して、やっと民間の賃金格差をひねり出した自治体もあったという。

 さらに、ヒラ職員を係長にというように上級職の等級に格づけして昇給させる「わたり」、勤務成績の特に良好なものにのみ適用される特別昇給を、全職員に一律に適用する「一斉昇短」、一定の号俸に達した職員全員に適用する「運用昇短」などは、ほとんどの自治体で、それこそ公然と行われている。まさにお手盛り昇給というほかはない。

 論争を仕掛けた自治省の意図はどうあれ、地方公務員賃金に抜本的改善の要があることは争う余地はない。まずたださるべきは、こうした「わたり」などのあしき慣行であろう。地方自治の今後のためにも、自治省の指導や介入を待つまでもなく、自治体自らが改善のメスを入れねばなるまい。それには、住民のより深い関心と、より厳しい監視が必要なことはいうまでもなかろう。」(1976年8月25日読売新聞社説「再検討の要ある地方公務員賃金」)

 

 この社説記事はこの(1)の問題に対するマスコミの姿勢の一部、及び「世論」を代弁し、問題の全体像をうまくまとめているように私は思う。まずもってこの記事では自治省の主張に一定の無理があり、自治労自治体)側にも正しさがあることを了解している。しかし、それにも関わらず、自治体側でも問題を抱える賃金問題について一定の解決を図る努力をしなければ、住民はそれを許さないだろうという言い方もされるのである。また、もう一点注目すべきは、この社説が都単独の批判を行っている訳でも、革新自治体について批判している訳でもないという点である。単体で革新自治体について批判している記事があるかどうかまでは確認しなかったが(※3)、少なくとも、そのような文脈で批判される中に東京都政が含まれていたということである。

 確かに日比野は財政健全化の議論をしているが、その議論はp103にあるように増税の議論に集中し、この社説で語られるような賃金是正については何一つ触れることがなく、むしろp120にあるような根拠でもって、全く避けようのないものとして語り、その中身については触れようとしないのである。しかし、当然美濃部都知事時代においても、このような賃金問題が存在していたのは事実である。

 

「しかし、労働組合は、特別昇給制度を生活給の一部とみなし、そうである以上、特定の人だけを昇給させず、公平に順番にみんなが昇給できるようにせよ、と職場交渉で局長や部長に迫った。だれが抜擢昇給されたか、それも明らかにされた。こうなると「アメ」のはずが「アメ」でなくなる。仕事ぶりに関係なく、職員のだれもが、五年に一回は三短の、十年に一回は六短のチャンスにめぐまれるのだ。その結果、都に入って実際には十年にしかならない人でも、ほとんどが十三年勤続ぐらいの給料をもらえるようになったのである。組合の力が強いところでは、今度はだれも特別昇給されるかまで、組合との話し合いによって決められる。」(内藤国夫美濃部都政の素顔」1975、p262)

 

 また、特に有能な人材の抜擢を図るために行ったとされる昇任もなかった訳ではないが、管理職の乱立が指摘されており、このような点も人件費上昇に加担していたこと、合わせて効率的な人材配置がそれぞれの部署でできていたのか、といった疑問は当然出てくる批判だろう。

 

「そのいずれもが、知事の「ツルの一声」とその後の強引なリーダーシップで誕生したものだ。そうする必要があるから作ったのだろうが、八年間をまとめてみると、作りすぎだなあ、という感なきにしもあらず。部局の新設は、必然的に莫大な経費増を伴うものだし、役所というところは、新たな需要に応じて部局を新設することには熱心だが、需要のなくなった古い部局を廃止することは、まず、絶対にしないからである。「親方日の丸意識」が身についているのだ。

知事がつくりすぎたのは、こういう部局などの機構整備だけではない。人事に関する第三の基本原則、若手の抜擢につとめるあまり、後輩に追いぬかれた先輩を処遇するための、「次長」とか「技監」、「理事」、「主幹」、「参事」などを、それは気前よく乱造したものだ。」(同上、p61)

「まず、局長級。美濃部知事が就任した四十二年には四十一人だったのが、いま九十五人。八年で二・三倍の増えようである。ついで部長級。四百九十七人から、いま倍近い九百七十三人に。課長職二千六百四十人から一・五倍の三千九百八十三人に。管理職合計で五千五十一人にふくらんだ。そして一般の職員総数は、警視庁、消防庁、教員、区職員を除いても、九万九千八百人から一・一八倍の十一万七千五百余人へ。

この間、都民は、千百八万人から千百六十一万人に。わずか一・〇倍という微増である。都民の数はふえていなくても、都民が要求する都のやるべき仕事が激増した、という言い訳もできよう。現にそういう面も否定はできない。

しかし、それにしても人口増に比べ、職員増、とりわけ部長職や局長職など幹部の増えようは、異常である。」(同上、p65-66)

 

 このような論調をみても、やはり大手マスコミが本書が言うような陰謀論に加担したものとは思えない。それなりに東京都は改善すべき問題を抱えており、それに応えようとしてきているように「世論」から評価されていなかったこと、それが概して「ムダの排除」であったことはそれなりに「世論」側にも正当性がある話であり、これを単なる政府・自治省の「世論操作」という次元で批判すべきではないだろう。

 この観点から唯一批判的議論の可能性があるとすれば、このような「ムダの排除」という態度形成を行おうとする(そして本書で言うような「増税」といった対応を必ずしも積極的に良しとしなかったといえる)日本の「世論」自体が持っているエピステーメーへの批判だろう。そして、この批判にあたりポイントになってくると思われるのは新堀通也のレビューで取り上げた「親方日の丸」言説の用法である。つまり、「親方日の丸」という形で官が批判される時、そこには「民間」が対比されており、「『民間』と同じ手法が使えるものは使うべき」という形でなされる批判が、いわば当たり前となっている状況があるということである(※4)。ただ、この考察こそ、その「日本の『世論』」を対象化し、比較可能にするまでの材料が用意されねばならない所である。

 

 次に(2)についてだが、これは端的に前提がおかしい議論を行っていると言ってよい。そもそも地方交付税交付金の主旨は地方交付税法第1条にある通り、地方間の格差是正のために支払われるためのものであり、「不交付団体」が理論上発生していないと格差是正にならない性質のものなのである。都議会でまで議論されていた「操作」の議論というのは、むしろ行われて当然の話であり、議論すべきであるとすれば「他都道府県の方が東京都よりも不交付団体として妥当である」ことの立証であったはずである。あくまで焦点は自主財源に関連する(4)の議論であり、(2)を批判すること自体が論点ずらし、更には国から金をもらうべきであるという「タカリ」に近いものであると言われても不思議ではない。本書はそれなりに実証的な議論を行っているようにも見えるが、同時に論点がずれた議論も行っている印象がこの例に限らず見受けられるといえる。

 

○財源調達と「国と自治体の役割分担」についてどう考えるか?

 

 恐らく政府・自治省の革新自治体潰しが最も妥当性を持つとすれば、(3)の対策債の起債許可をしなかったことにあるだろう。確かに新聞の論調に言われているように、自治体側の努力を行わない状況においては、追加で借金をすることについて許されるべきなのかという論点はあるものの、当時の財政難は本書が指摘する通り国レベルでも見受けられたものであるし、一時的な景気悪化に伴う起債許可は行われるべきだったのではないのか、という疑問は素朴にあるし、本書の主張も説得力がある。

 ただし、これについても実際どのような議論の上で不許可に至ったかは双方の言い分を聞かねばならないだろう。実際、次のような話は1969年の時点ですでにあったのであり、そこからの「改善」に対する評価なども無視できない点である。自治省による都の人件費に対する批判というのは、かなり前からあったものであると言ってよく、その対応等についての経過は押さえておかねばならない所である。

 

「政府・自治省は「都だけに〝治外法権〟は認められない。法を尊重せよ」と、きびしく、クレームをつけた。それでなくても、都職員の給与水準は国家公務員より平均二五パーセントも高く、高卒・勤続十五年で年間三十万円もの差が出ている、そんなにカネが余っているなら、都民サービスに回すべきだ、という論理である。ほかの自治体に広がることも恐れた。自治省の細郷道一事務次官は都の近藤龍一副知事を招いて「絶対に認められない」との「口上書」を手渡した。もし、それでも強行するようなら都債の許可を取り消し、都の財政実態調査に乗り出す、と警告した。」(内藤1975,p183)

 

 最後に(4)についてであるが、この論点はむしろ「自治体の役割」についても考える必要があるだろう。つまり、自主的に課税を行おうとすること(財源を増やすこと)自体の必要性が国と対比される「自治体の役割」から見てあるのかどうか、という観点である。この点について、本書の記述から少なくとも国(自治省)はそのような必要性を感じていなかったと解釈するほかないし、日比野自身もこのような役割のあり方自体には特に触れることなく、財源調達ありきの議論になってしまっているように思える。仮に地方自治体に必要な役割が部分的であり、国が行うべき役割が大きいと考えるのであれば、そもそもより課税可能な地方税制を整備する必要がそもそもなく、そのような要求はむしろ「ムダ使い」に直結しかねないということである。

 この必要性については高度な議論が必要であるが、一方でこの国の態度の取り方自体が与えた影響については評価する必要も別途あるようにも思える。つまり、地方財政は平等性の強い課税の考え方を強制してきた歴史があることと、中央集権的な日本の制度化は少なからぬ影響があったのではないのかという点、言い換えれば、この時期に東京都が累進課税を課さなかったことは、東京都の繁栄にとっては非常に都合が良かった可能性と、転じて他の(地方の)自治体にとっては不都合な結果になったことを国は促進したことになるのではないのか、という疑問である。

 この問題に対する70年代的解決法は田中角栄の「日本列島改造論」的発想による地方の振興だったのかもしれないが、このような地方分権を促進するインフラ整備を行ってもなおそれが十分でなかったという場合に、この平等的な地方税制自体が悪影響を与えていたのではないのか、と考えることもできるということである。本書ではこのことは「不利益」と評価しているが、将来的な観点から言えばかえって東京は「利益」を得て、巨大都市として繁栄を続けることができた、という可能性もあるのである。そして、そのことはそのような集権的な制度を推し進めていった国側の評価として検討することが可能なのである。

 

※1 但し、田原レポートは後述するように、地方自治体が全体としてマスコミで批判の対象となっていたことについて特段検討しておらず、あくまで東京都のみに批判をなされていた点についてだけ反論しているにすぎない。また、日比野のように美濃部都政についての問題点を無視している訳ではなく、特に緊縮財政に対して対応の遅さが問題であったと認めている(田原1979,p243-244)。

 

※2 この点、田原レポートでも政府・自治省以外の者が具体的にどう関わっていたのかについて明らかにしていない。ただ一点、このT.O.K.Y.O作戦に関わり、その作戦について説明した人物として、「ある大手広告代理店の社員」がいたという話があるだけである(田原1979,p230)。少なくとも、「マスコミ各社」という表現は、日比野が初出である。雑誌まで含めれば、確かに明確な協力関係にあったマスコミはあったかもしれないが、今回引用した読売新聞、そして本書で引用されている朝日新聞などは、直接的に関わっているとは考え難い。

 

※3 今回調べたのは、今後レビュー予定の本の関係で、1970年以降「公務員」という言葉が社説タイトルにつく読売新聞の記事のみである。ただ、その記事に限れば、下記のような例示はあっても、「東京都」「革新自治体」に限定した批判は行っておらず、「地方自治体」そのものが批判の対象として語られている。

 

「地方公務員の給与水準は、国家公務員のそれより平均一〇%高い。しかし、東京、大阪など大都市圏の都市になると三〇―四〇%高というところは軒並みである。例えば東京都下の府中市は五〇%、立川市は四〇%、大阪府守口市、牧方市は四〇%といった状態である。

 これが、こんど、さらに三〇%以上引き上げられるのだから、一般財源に占める給与費の比率は大きなものとなってくる。おそらく五〇%ぐらいになろう。こうなると財源の半分は公務員の給与に支出されてしまうわけだ。住民向けの行政費は、その分だけ食われてしまうことになる。これは地方行財政にとって重大な事態である。」(読売新聞1974年8月7日社説「地方公務員の給与体系是正を」)

 

※4 例えば、次のような形で民間との比較がなされていることが新聞記事からも確認できる。

「しかし、今回のベアに限ってみれば、公務員は民間にくらべて恵まれすぎているといった感じを抱かせる。なぜなら、総需要抑制下で民間企業が行っているような企業努力を、中央官庁、地方公共団体が実行しているとはみえないからである。」(読売新聞1974年10月25日社説「公務員ベアには行政合理化を」)

 

<読書ノート>

※筆者は都職員。

P6「先日急逝された法政大学の小島昭教授は、その著書『自治体の予算編成』で、予算編成における担当部局を中心とする行政過程や政治過程について、実権を持った実務担当者たちが、政府各省、とくに自治省の権力を後盾に、自治体内部の事業部局はもちろん、議会の各派議員やときには首長をも従わせる力を発揮する実態をよく描いている。そしてこの予算担当者たちが、自治体内部の地域住民からもっとも遠い奥の院にあって、自治体がその住民のために政策をどう進めるかというよりは、現行制度のワクの中で、国家財政に依存する財源と税など各種の財源をどうやりくりするかということが、彼らの行動論理になっていることも指摘されている。これは地域住民の存在は後回しにして、中央政府の意向に添うことを優先する予算編成ということになる。そしてこれは、何も予算編成だけとは限らず、税務行政を含めすべての財政運営に共通すると考えられる。これは財政運営担当者の責任というよりは、そのように担当者を機能させるシステム、すなわち地域住民不在のシステムが問題である。このシステムのもとでは、自治体の財政運営は、地域住民どころか、自治体内部の担当者以外のものにわからなくできているのである。」

P27「東都政から引き継いだマイナス面では、一般会計の赤字よりも大変だったのは、当時1日2000万円増えるといわれた都営交通事業の赤字とその財政再建であった。東都政のその再建案は、料金値上げと都電撤去や職員の給与抑制などであり、既述の多党化都議会で、社会・共産両党に公明党も加わった反対により、3回も提案しながら実現できなかった。ところが美濃部知事は、就任早々の都議会にこれとほぼ同じ内容の再建案を提案し、結局社会党自民党の賛成で可決された。ただこれに反対する学生が都庁に乱入して、委員会審議が混乱し、ついには警官隊が導入された。これは保守勢力への譲歩であったが、社共両党だけの少数与党の都議会と自民党政府の下で、革新都政を進める前途の困難を考慮した決断であった。」

※65年からの都議会は社会党が第1党のはずだが。

 

P37昭和47年2月都議会の所信表明より、新財源構想の関連…「ここでいう新しい財源とは、東京の集積の利益をうけているところに求めるというのが基本的発想であります。これによって東京への過度集中抑制や分散の効果もあわせて期待できるでありましょう。またこの新財源は、従来の国と地方の間の財源配分ばかりでなく、そのワクをこえて新しく求めようとするものであります。」

※これを東京都の裁量でやってよいのかは議論が分かれる所。

P44「政府は、48年を「福祉元年」と言って、この福祉拡大を国民に誇示したが、この看板は、その後2年にして、政府自らが、先進自治体の先行福祉批判キャンペーンをやって、あっさり下ろすことになるのである。」

P46「問題は新財源研の報告書のいうように、資本金の一定額以上を大企業として、その大企業だけに税率引き上げ=超過課税をし、それ以外の中小企業は税率を据え置くようなやり方が、地方税法の規定する不均一課税として法的に許されるか否かである。自治省は、この国会論議で、終始そのような大企業だけの超過課税は賛成できないと答弁した。租税法律主義という憲法の原則を持ちだして、都のやろうとしていることは、地方税法に定めている税率構造を変えるものだということも述べた。しかし自治省は、都のやろうとしていることは違法だと言うことはできなかった。そして最後には、参議院地方行政委員会で、社会党の和田静夫議員の質問に対する内閣法制局部長の答弁で、これは法解釈の是非の問題でなく、自治体の政策判断の問題ということになり、報告書の主張のとおりになった。かくて法解釈問題の難関は突破したのである。」

※出典はないが、昭和48年4月25日の答弁による。不均一課税そのものは認めるが、都構想の資本金5000万円以上は認められないというのは、この委員会でも総務大臣は一貫した主張。和田議員は態度が明解でない点を批判し続けているが、ここまですっきりした議論はしていると言い難い。

 

P67「しかし財政戦争となるとどうか。戦争というショッキングな言葉によって、複雑で理解の難しい財政問題を都民=地域住民の生活感覚に持ち込み、その制度の不合理、欠陥が都民の生活を苦しめることを訴える、すなわち都民=地域住民の被害者意識をかきたてようというアイデアはよい。それは従来の自治体の中央集権的財政制度改革についての、いわゆる三割自治論的な批判が、地域住民=国民にとって抽象的で、縁の薄い行政内部のものにとどまっていたところから抜け出し、地域住民=国民の土俵に持ちだそうという狙いが込められている。しかしその面で〝財政戦争〟の言葉を都民や国民の間に広げるには、〝交通戦争〟や〝ゴミ戦争〟のように具体的なものがないだけに、提唱者たる都側にそれなりの努力が工夫が必要であった。しかしそのような努力も工夫もなされなかった。それどころかほとんどの都庁幹部は、初めから財政戦争という言葉を嫌って、知事がいくら財政戦争を唱えても、口にすることはなかったのである。」

 

P76-77「それは美濃部都政終了後1年すこしたった『中央公論』9月号に載った田原総一郎氏のレポート「T.O.K.Y.O作戦の尖兵 鈴木俊一知事」によれば、1974年、田中内閣当時に企画され、期間としては5年ほどをかけ、とくにこの5首長のなかでトップの位置にある美濃部東京都知事を追い落とすことに力が入れられたという。当時の記者仲間にはかなり知られたことのようだが、マスコミが一役買ったものであるだけに、今もってよく明らかにはなっていない。」

P78「このタカ派キャンペーンは、自民党首脳部と自治省の現役およびOB幹部に大手広告社が加わって企画され、マスコミ各社が参加して行われたものと思われる。キャンペーンは、全国の自治体について、その財政運営における乱費の数々を指摘し、それが地方財政危機の原因であるというものであった。この槍玉に上がった自治体のなかで、美濃部都政を筆頭に革新自治体がとくにマークされていた。」

P80「国に責任があることも述べてはおり、美濃部知事がそのため財政戦争を宣言したことにも理解を示してはいるが、この社説は何の論証もなしに、都の人件費や先取り福祉が財政難の原因と断じ、いかにも唐突、性急の感をまぬがれない。私は、この社説の裏に、T.O.K.Y.O作戦の戦機を狙っていた自治省幹部の工作を感じる。」

※キャンペーンの一環なら、何故国の責任を追及するような内容の社説が書かれるのか。なお、社説は朝日新聞1975年1月22日のもの。

P82「このキャンペーンに、マスコミがこれほど大々的、組織的に協力した原因の一つとして、地方選挙と同じ4月に行われる春闘で、労働側の賃金要求を抑え込むことが、経済危機脱出の道を探る政府と不況・インフレで沈滞する財界・資本側に共通する切実な課題であったことがあげられる。」

※そもそも何故マスコミが労働者の敵になったのか考えるべきである。

 

P85-86「昭和50年度の全国自治体の地方税収入は、歳入全体の31.3%であった。これが三割自治の実態である。そして人件費の歳出全体に対する割合は36.9%であったから、平均的な自治体では、税収入よりも人件費が多いのである。税収入から人件費を払うことができる団体は少ないのであって、人件費が税収入の70%以下ですむ東京都のような団体は、その限りでは財政的に良好な団体である。」

※ただし、これは国基準により設置すべきとされ(※国庫負担金等から支出されていた)学校教員等の人件費も含めた数字であり、単純な比較に何の意味があるのかは別途検討されなければならない。

P99「問題は赤字の一定限度というその赤字限度額、いわゆる赤字ラインで、この法律(※地方財政再建促進特別措置法)の施行令で、標準財政規模に対し、道府県は5%、市町村は20%と定められている。どうして道府県と市町村の数字のこんな開きがあるのかが問題であるが、東京都の場合は、市の性格もあるので、この割合が5%よりやや高くなる。」

P99「まだ都に対してベースアップ対策債を不許可にした時点では顕在化していなかったが、その後、国家財政への大打撃が明らかとなり、政府は、50年度の補正予算で歳入規模の20%台の大量国債の発行、すなわち大借金に踏み切った。その後、この借金依存率はますます膨れ上がり、30%台に乗って、40%台寸前に達する。こういう事態の下で、20年前の古い物差しをそのまま持ちだして、自治体だけは、赤字が5%を超えたら破産だと脅かすのであるから、まったく地方自治は無視されていると言わなければならない。」

P103「しかしこの法人都民税と法人事業税の超過課税は、その後も悪化の進む都財政の収入増として寄与した。第2表のとおり、50年度の法人都民税の超過課税収入は63億円に過ぎないが、51年度にはこれが370億円となり、これに法人事業税の超過課税分を加えて671億円となり、一般会計歳出額の3.3%になった。その後の割合は表にみるとおり、鈴木都政になって増大し、いまでは毎年1000億円を超える増収をもたらしている。……これらの数字は、美濃部都政が、都財政を破綻させただけで、都財政の健全化の努力をなにも払わなかったと思っている人びとによくみてもらいたい。」

※第2表を見る限りは、鈴木都政になって一般会計歳出額が圧縮されたようには見えない。

 

P106「ただ美濃部知事が言っていることは、第1図でもわかるように、民生費が増えたといっても、都財政にしめるウエイトはいかにも小さく、これが都財政を危機に陥れたとは到底考えられない。また昭和40年度の都の民生費の歳出総額にしめる3.8%という割合は、同年度の都道府県合計の同じ割合の4.4%に比べても低かった。また53年度の都の民生費の8.3%という割合は全都道府県の同じ割合の6.0%に比べて高い。この割合の差2.3%が、都の民生費の支出水準の他の道府県に比べた高さを示しているといってよい。」

※塵も積もれば…の可能性はまだある。

P108 1975年の東京都による調査で、都の財政難の理由として、「物価高と不況のため 63.4%」「都の人件費が高すぎるため 50.1%」「節約をするなど、都の努力が足りないため 34.0%」

※これをもって「選挙を機会に行なわれた自治体攻撃、美濃部攻撃がかなり都民に浸透してきたことがわかる。」としている(p109)。まず、東京都の世論調査にも「節約」という言葉が登場しだしたことには注目せねばならない。そして、オイルショックに伴うこの「節約」志向が、統一地方選があった1975年と結びつくのかも要検討(これはそのままTOKYO作戦と関連付く)。

P111「すなわち政府は、50年度の地方税を前年度比23.5%、1兆6,893億円増の8兆8,850億円と見積もっていたが、法人関係税を中心に1兆0,632億円の減収が明らかとなり、この穴埋めと、政府の不況対策による公共事業費の追加などを合わせ、地方債1兆2,112億円を増発することになった。地方債は、当初の政府の抑制方針とは逆に倍増することになったわけである。

政府はこの事態について、オイル・ショックによる世界貿易の停滞・縮小が世界不況をもたらしているためであり、日本の経済だけが落ち込んでいるわけでない、これを脱するにはしばらく時間を必要とするなどと説明した。それを否定することはできないが、この不況と併存しているインフレによる物価上昇は、日本ではオイル・ショック以前からの政府のインフレ政策によって、狂乱物価といわれるほどの高騰となり、欧米諸国を上回るものになったのであった。50年度の26.0%増という大型国家予算は、この狂乱物価の後追い対策を強いられたものといってよい。ところがその財源のほうは、政府自らが世界不況と言っている経済情勢なのに、また49年度の税収入の落ち込みがすでにわかっていたにもかかわらず、この歳出の伸びに応ずる大幅な税収入を見込んだのである。これは大蔵省の見積もりの誤りというよりは、地方選挙を前にしての政府自民党の意図的な水増し見積もりであったといってよい。」

※根拠を示していないことを言い過ぎでは。

 

P111-112「この水増し税収で、政府は国家財政の危機を隠し、地方財政の危機だけをクローズアップさせて、その原因が自治体の人件費の使いすぎや、福祉のやりすぎだと、異例の大キャンペーンをやったわけである。とくに不交付団体である東京都や大阪府については、1,000億円足らずのベースアップ財源の不足につけこみ、都財政が破綻したと非難したり、都は財政再建団体になるより仕方がないと脅かしたりした。東京都はなんでも国の10分の1と言われる。ところがこの東京都の財源不足700〜800億円と比べて、国の歳入欠陥は50倍以上である。また財政規模の5%の赤字で再建団体だと脅かす政府が一ぺんに26%以上の倍金をすることになったのである。また東京都や大阪府のベースアップ対策債を不許可にした政府は、国債だけを財源とするこの補正予算で、平気で国家公務員50年度のベースアップを払うことにした。」

P117-118「さて50年度の都の一般会計の赤字は、3,000億円を超え、どうやりくりしても1,000億円の赤字とさかんに財政危機が叫ばれていたが、最終的にはそれほどでもなかった。その決算では、まず都税は、当初予算に対し、1,500億円といっていた減収が、1,096億円にとどまり、約400億円が浮いた。これは49年度の決算に比べ1.3%の減で、国税の同8.5%、1兆2,800億円の減と比べて、この不況による打撃は、都より国の方がはるかに大きかったことがわかる。したがって、当初予算編成の段階で、すでに述べたととおり、都税の13.5%に対し、国税26.0%とはるかに高い見積もりをした政府の責任は問われてよい。」

P120「オイル・ショックによる財政危機が、この4団体でひどかったもう一つの理由は、都道府県の場合、一般の職員の人件費のほか義務教育教職員の給料を支払うことになっており、第7表にあるとおり、市町村に比べて、歳出にしめる人件費のウエイトがずっと高い。当時あの狂乱物価のため国家公務員も地方も30%近いベースアップが決まっていたのであり、税収が伸びないなかで人件費の高騰が財政の重圧となったが、それは地方交付税の交付を受けないこの4都府県にとくにきびしくのしかかったのである。ここに49年度のベースアップ対策債を政府が許可すべき理由もあったのであるが、東京都と大阪府は許可されなかったわけである。しかし許可された神奈川県と愛知県もこれで十分なわけではなかった。かくて50年度に神奈川県、ついで51年度は愛知県、52年度は大阪府地方交付税の交付を受けるようになったのである。」

※もう一つの理由は法人税収入の減。都道府県税は1割減とするが、実際の減額幅(法人税歳入額)は示されていない。単純計算では都税一割は1000億を超え、予算上赤字は賄える計算。しかし、決算ベースでのデータが何故かない。

 

P131「この大牟田市の超過課税は、残念ながら1976年3月の市議会で否決され、実施できなかった。これを見届けて自治省は、同年5月、「固定資産税における不均一な課税について」という通達をわざわざ出し、すべての資産につき一様に税率を上げるのでなく、資産の所有者、種類、用途などを区別して、不均一な課税をすることは、法の予定するところではないとしたのである。……しかし自治省がこの時期にこの通達を特別に出したのは、もはや他にそのような動きもないところから、明らかに都の固定資産税の不均一超過課税阻止に狙いを定めていたのであった。」

P132「都に狙いを定めて出された自治省の通達は、同局のこの姿勢をいっそう頑なにした。同局の消極的な姿勢の理由は、一つはこれから述べる法人二税とは異なる固定資産税の課税技術上の問題であるが、もう一つは美濃部都政をめぐり自治省と都との関係が、法人事業税の超過課税を実施したときとこのときとでは、わずか数年の間に大きく変化していたことであった。ということは、政局はふたたび自民党の党内抗争で混乱していたが、かの大キャンペーンの成功以後自治省の力は強くなり、都庁幹部は、財政戦争の緒戦のとき以上に、知事よりも自治省の意向をより強く考慮するようになっていたのである。」

※技術上の問題に関連して、「ただ土地については、すでに述べたとおり地方税法によって、事業用と住宅用とを区別した課税が行われていたのであり、その実績に立ってやる気があれば、課税技術上の困難は克服できないものではなかった」(p133-134)とする。確かに戸単位だとビルなどは判断が難しい。しかし、一定の基準に従えば、零細企業は住宅用地扱いできたのが地方税法施行令の考え方であった(cf.p145)。もっともこの地方税の問題と固定資産税の議論を一律で見てよいのかはよくわからないが。なお、この議論には職員労働組合も住宅用と事業用を区別することを面倒と感じたとして反対に回ったとする(p134)。

 

P151「この時、『東京新聞』の行った世論調査によると、第1図のように、美濃部知事に対する都民の支持率は、49年度の59.5%から39.1%へと急下降していた。また不支持率は30.5%と支持率に迫っていた。そしてこの不支持の理由のトップが、「財政難をまねくなど行政能力にとぼしいから」で、不支持者の42.6%を占めて、他を圧倒していた。これは2年前の知事選のときの大キャンペーンが今もって都民の心をとらえていること、さらにその後の都財政の危機の対策として、財政戦争の再挑戦は失敗となり、機構改革をはじめとする内部勢力もそれほど評価されていないことを示したものであろう。」

※昭和52年4月25日の調査での推移によると、70年代前半は安定して支持率60%前後だった(p150)。

P157「また同党(※新自由クラブ)は、選挙公約で、地方分権の強化や起債の自由化を主張していたのであって、起債訴訟を支持するのが当然であった。同党がこれを支持すれば、起債訴訟案件は可決されたはずであった。同党が反対した理由として、都議会の新自由クラブの代表であった小杉隆氏が、「都からの働きかけがなかった」と述べたことは、おかしな弁解であった。これについてさきの田原レポートは、同氏に取材し、同氏が、この訴訟案に賛否いずれの態度をとるか悩んで、自治省の石原審議官に何度も会いに行った末、「つまり、美濃部の体質は非常に危険である、と。都庁は、肥大化し、人件費も高いしね……。だから訴訟案に反対した」と述べたことを紹介している。いかにも歯切れの悪い理由である。新自由クラブが、自治官僚の強い工作によって従来の主張を変えたことがわかる。

このとき都議会の自民党新自由クラブは、自治省へ行って、起債許可について、従来の一件一件審査する方式を、一定のワクを決めて、そのワク内では自由に起債ができる方式に改める〝確約〟をとりつけた、といわれたが、ここにも、都の起債訴訟を抑えるための自治省の工作が感じられた。」

※交換条件と見ているようである。

 

☆p159-160「結論的に言うと、当時の都財政の危機は、政府、とくに自治省によってつくられたものであり、美濃部知事に責任があるとすれば、この危機突破策について、同知事の意向でなく、自治省の意向を優先した都庁幹部、都庁官僚たちに対する指導力を失い、彼らの意見に従うほかなかったことにあると考える。」

※結局これが日比野の主論。しかし、根本的に疑問なのは、なぜ自治省に対する批判が結局利害関係者の誰からも出てこないのかである。日比野はなんだかんだで交換条件を出し、自治省が利害関係者を黙らせたと考えているが、それこそ美濃部知事などが語れなかったのかはわからないし、日比野自身の体験談として自治省からの圧力が語られることもまたない。

P167-168「この形式収支の赤字は53年度も続くが、52年度は、都道府県では、大阪府も形式収支が赤字で、その赤字額は71億円と都(※54億円)を上回った。また大都市では、大阪市の形式収支が赤字で、同市では1963年以来、15年連続形式収支が赤字であり、都政で初めてとしても、地方財政としては驚くにあたらない。とくにこの程度の少額の赤字は、決算の段階の操作で黒字にしようと思えば、それも可能という程度の赤字であり、都庁幹部が、都財政の赤字の深刻さを強調するために操作したと思えるのである。」

P176「知事の任期は余すところ1年たらすになったのであるが、5月に実施された『読売新聞』の世論調査で、支持率38.1%、不支持率42.9%と、美濃部知事不支持の都民が支持の都民を上回った。」

 

P185「まずこの報告(※新財源研の最終報告)は、地方交付税について、自治省があらかじめ東京都を地方交付税の交付団体にしないと決めたうえで、その算定を操作していることを明らかにしたのである。そしてそのような恣意的な操作がなければ、都に2,000億円から4,000億円の交付税が交付されることになるという計算を示した。そうなれば都は起債制限団体=財政再建団体に転落するどころか、実質収支でさえ黒字になってしまう。美濃部知事がさんざん苦しんだ都財政の危機はなかったということになるのである。」

P186「自治体側は、総額を増やすために、交付税率の大幅引き上げを要求したが、大蔵省側は国税が不足で、国債大量発行で穴埋めしているのだからこれを認めない。結局この地方財源不足額の約半分は国が資金運用部から借金し、後の半分は、地方債の増額で穴を埋めるという一時凌ぎが毎年のこととなったこともすでに述べた。」

※国が地方に金を出すのは当たり前という感覚のせいか、国債発行批判の議論と矛盾した話をしている。また、これまでの批判の矛先は自治省であったはずが、大蔵省が登場している。地方債の発行権限は自治省のみが絡む話だったのか?

P187「地方交付税はくれなくてもよいが、富裕団体論にもとづくこの不公平な扱いだけはやめてくれというのは、都の長年の要望で、昭和50年度以降の事態でも、都の財政当局の姿勢は変わらなかったのである。」

※この主張も、超過課税の恩恵を受けようとした態度とは矛盾するはずである。

P187-188「問題は、補正係数だけは、国会の議決を経ず、自治省の省令で改定されることである。ということは自治官僚が、国会や自治体、もちろん国民を閉ざした密室の作業で、この数値を操作できるということなのである。」

 

☆p188-189「私たちの調査によって、それは普通態様補正など、この補正係数を切り下げることによってなされていたことが明らかになった。この調査をもとに、新財源研の最終報告は、「各費目について、すべて44年度の補正係数をとって再計算しても、53年度の都の地方交付税は、2,932億円に達する」と分析し、「国は、都を地方交付税の交付団体にしないときめたうえで、需要算定を操作している疑いがある。」という断定を裏付けたのである。」

※これは50年度基準で53年度の算定をしても赤字を埋め合わせるものだという(p189)。都議会予算特別委員会昭和54年2月19日における資料も提示する(p188)。

P189「ではなぜ政府・自治省は、都に対して、このような意図的な算定をしたのか。その第一は政治的理由である。

 政府・自民党は、かの大キャンペーンによって「美濃部都政は、放漫財政のために、都財政を破綻させた」と初めに断定したのである。この断定を正当化するためには、東京都に地方交付税を交付してはならないのである。なぜなら昭和20年代以来、政府官僚は不交付団体=富裕団体として、都などを扱ってきた。ここで都の財政危機状況について正しく評価して地方交付税を交付すれば、都が富裕団体でなくなったことを認めることになり、さきの断定はくつがえるのである。」

※しかし、本書では放漫財政自体を否定する議論はしていない。また、今でもなお不交付団体であることをどう考えるかという問題もある。