菅原潤「「近代の超克」再考」(2011)

 今回は前回の大塚久雄の議論や、日本人論とも関連してくる「近代の超克」をテーマとした著書を検討していく。

 近代の超克をテーマとした著書は2000年代以降それなりの数のものがあるようである。背景としては、3.11という事件以降改めて近代に対する問いへの関心が高まっていること、また同時期からの保守派ナショナリズムの動向に「近代の超克」をめぐる議論の論点と同質の傾向をみてとり、更には「アジア主義」的な観点についての評価を行う動きの中から、戦中期のこの言説の再考を行う動きがあるようである。

 

 本書を読むうえでまず注意しなければならないのは、本書の対象が1942年の雑誌「文学界」における座談会をめぐる「解釈」に向けられた、ある種徹底した言説分析であるという点である。ここでは当時「近代の超克」という言葉が一般的にどう受容されたかという議論はカッコ付けされる。これは菅原自身のスタンスがもともとそうであるということもできるのかもしれないが、それ以上にこれまでの「近代の超克」をめぐる歴史的な議論に対する一種の批判的態度をそのまま表明しているようにも私には思えた。このことについては、今後も検討していきたいと思うが、この「近代の超克」をめぐる議論というのは、それ自体が本書で指摘されているように「適切な理解」というものを欠くものとみなされがちであった。『近代の超克』座談会内における京都学派(鈴木成高西谷啓治)的な「近代の超克」理解というのは、決して本筋であったと言い難い。しかし、廣松渉が典型であるように、京都学派的な理解こそが真の意味で「近代の超克」を体現するかのような主張がなされることも影響力も強かったことを、本書ではその前提としているように思える(cf.p9-10)(※1)。廣松的な歴史観に基づく「近代の超克」論も、その当時の「大衆」がこの「近代の超克」をいかに捉え、それが当時の社会にどのような影響を与えたのか、といった問いは本書においては意図的に放棄され、座談会前後の「近代の超克」がそれを語った各論者の中でいかなる意味づけをされていたのか、ということをその思想的背景も含めて検討することとなる。

 ただし合わせて留意すべきなのは、竹内好以来、この『近代の超克』座談会においてグループ分けされている「京都学派」側の論理と「文学界」及び「日本浪漫派」の論理の系譜について、その思想的系譜の関連性については本書においてほとんど議論がなされない。「京都学派」の議論は、主に鈴木成高高山岩男の文明史観についての議論を中心とし、「文学界」等の議論は、「超克」の意味合いについて着目しながらその系譜を追う作業を行っている。また『近代の超克』座談会に参加していない三木清保田与重郎も含めた議論の系譜も本書では丁寧に追っているが、これは「文学界」側の論理の議論であり、本書ではこのような周辺部の議論はあまり「京都学派」側からはなされていない。本書の関心の問題から、どちらかといえば「文学界」側の系譜に重点が置かれている。

 

〇「近代の超克」とは結局何だったのか?

 菅原は「近代の超克」の「文学界」側の意味合いをめぐる議論について、まずニーチェ理解という観点から読み進め、その初期における生田長江的な理解(p20)と、その後の「シェストフ」的理解との違いについて言及する(p27-28)。そして、「近代の超克」の言説の中心的な立場はシェストフ的理解に基づくものだとする(p33)。この両者の違いは生田が「近代の徹底」としての批判的態度とみなされたのに対し、シェストフ的理解はそれさえも批判する立場にあるとされる。そして、菅原は生田の議論は資本主義・共産主義両方からとる態度であったが、シェストフ的議論は資本主義のみに向けられていたことを強調する。

 菅原はここからシェストフ的な「近代の超克」論が二項図式的な議論に陥りやすく、結果として共産主義的な議論に似通る可能性を指摘している。それは共産主義者の転向においてシェストフが果たした役割を強調し、そのような「近代の超克」の語りが、一度は否定したはずの共産主義の(無意識的な)肯定に結びついてしまうという思想的変遷における帰結であるとされる。しかし厄介なのは、このことが生田的な超克論が二項図式でないという根拠になっていない点である。これは生田が「近代の超克」の意味合いで用いる「超近代」の定義を見れば明らかで、それは「商業主義よりも重農主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を撰び取ろうとする」態度であった(p21)。もっとも、「彼のなかには反近代的な主張と近代に特有な批判精神が混在しており、しかもこの相反する契機が座談会「近代の超克」にも及んでいる」とする(p28)点にも注意する必要がある。ここでの菅原の語りは生田長江の受容のされ方をもって「近代の徹底」とした見方も成立すると述べているが、これがその言説に裏付けられていたものかは、本書の記述からはよくわからない。結局本書から読み取れることは、「近代の超克」の言説はそれ自体「近代の徹底」と「反近代」との間でのせめぎあいそのものを示したものであり、その躓きの連続であるという見方をする一方で、『近代の超克』座談会の話に限れば、「近代の徹底」へ、なおかつそれは近視眼的な内省の態度に収斂していた、という見方が成り立つということだろう(※2)。

 

 またもう一点押さえるべきは、「文学界」の系譜における「超克」という言葉が、半ば無意識的に達成されるべきものであるという性質を持っているという点である。これは「止揚」の発想と対比すると理解しやすい。「止揚」はどちらかといえばそれが意識的な否定のプロセスを経て達成されるものという理解がされやすい。これに対して、「超克」という言葉は、本書でも語られるように(p20,p141)、基本的には「(本人は意識せずに)いつの間にか達成されている」性質のものであるとみなされていた。この意味合いはいくつか考えられるが、本書に照らし合わせれば、それはあくまで一種の「実践」の中から形成されるものであり、意識的にプロセスを経るような「止揚」のような見方は、それ自体が実態をとらえ損ねるイデオロギー的見方を強化するものとして毛嫌いされたものであると、読み取ることもできるだろう。当時のコンテクストから言えば、それは政治から距離をとった「文学」の領域の意義を語る上でも重要な考え方であったと読み取ることができるだろう。このような「文学」的な超克の意義は竹内好などにも強く影響を与えているように思える。

 ただここで少々厄介となるのが、『近代の超克』座談会における京都学派と文学界派の立場の違いをどう理解すべきかという点である。

 京都学派は歴史的普遍性という立場を強調し、「近代の超克」についてもその文脈からなされることを強調していた。それは今の視線からすれば一元的な、欧米の「近代」の影響力を決して無視できない歴史観の上に「超克」をいかに考えるのかという見方を前提としていた。そしてこれは帝国主義的立場、侵略史観に親和的である(p109)。しかしながら、「京都学派」側の近代観についても、安直な「近代の支持」と「帝国主義の肯定・追随」を意味していたわけではない。70年代以降の大塚久雄が強調した態度ともよく似ているが、「新たな中世」思想にもみられるように、文明論的な立場を強調しつつ、そこからの転換の可能性もその論の中から見出そうとする立場が京都学派であったと本書では位置付けている。ただしこの文明論的立場からの問題は、大塚久雄がそうであったと自認するように、「近代なるもの」それ自体は大きな影響力、そして社会の健全な発展に貢献する勢力であることとして(これを終戦前の文脈で言うと、侵略するか・されるかという力関係の議論として)決して無視することはできず、無視すべきではないと考えられていた。本書を読む限り、鈴木成高の基本的態度はまさにここにあったといってよい。ここにおいても「近代志向の揺らぎ」が存在するのである。「文学界」側の「近代志向の揺らぎ」との違いを考えるとすれば、どちらかと言えば「文学界」側はほとんど認識そのもののズレをめぐる争いであった感が強く(このことから各論者が「近代追随」であるか「反近代」であるかは割とどうでもよい感じがする)、「京都学派」側は、物的な状況をめぐるせめぎあいの中でそれが揺らぐものであったという整理はできるだろう。

 

〇何を「進歩」とみなすのか

 本書の主張で押さえておくべきは、この「近代の超克」をめぐる議論のなかで、何をもって「進歩」と考えるべきであるのか、という点について論者によって異なってきていた点である。これをざっくり分ければ2つの見方で整理できる。

 一つは欧米的近代の追随こそ進歩であるとみなす立場である。ただこの見方は基本的には大塚久雄のように近代なるもののエートスの取得こそ重要であるという態度も少なからず含まれていることに注意せねばならない。もう一つは本書でいう林房雄(cf.p165)、竹内好や、これまでレビューしてきた西尾乾二(※3)にもみられる進歩観である。この立場において第一の進歩の立場というのは、安直な欧米の追随であると批判され、(国家・民族などの)「個性」を鍛え上げ、確固たるものとしそれを原動力とすることこそ「進歩」であるとみなされる。ただ、第二の進歩の立場というのは、その「個性」の強調ゆえに、他者との比較について著しい軽視が基本的になされることになる。他者との比較など文字通りどうでもよく(※4)、そんなものはなくとも「進歩」が可能であると信じて疑わないからである。本書ではこの第二の進歩観における右派・左派の奇妙な共通性について強調していることは他書と比べると特徴的でといえると思う(p181)(※5)。

 ただ本書全体の流れの中では、菅原はこのような「個性」の強調がある意味で京都学派の文明史的な読みの可能性を否定するものとなっており、ある意味で極めて近視眼的な近代志向を助長する原因になっているものと考えているように思える。この近視眼的な態度は80年代以降の日本人論として私が指摘してきた改善要求ありきの日本人論の議論と同じ特徴をもっているものであり、そのような態度を「文学界」側が強調してきたという見方も可能である。

 

〇「近代の超克」論と70年代以降の「日本人論」との相違について

 ここで「近代の超克」の議論で語られる日本人論と、これまでのレビューで検討してきた日本人論における議論との異同についても触れておきたい。ここで特に参照点とするのは、土居健郎である。以前私が指摘したように、土居の日本人論が70年代以降の日本人論の一つの典型とみなすとすれば、この「近代の超克」をめぐる議論というのは、それ以前の日本人論として検討することができるだろう。

 まず相違点についてであるが、特に大きな違いは、「近代の超克」論が文明史観について特に強調するのに対して、土居的な日本人論はその文化的側面を強調する。ただ、本書の見解も踏まえれば、「近代の超克」論にもこの両者の強調については幅があり、京都学派は文明史観をより強調するのに対し、文学界側は文化的側面の強調もなされている。しかし、総じて言えば、文明史観が比較的優位な状況にあったことは当時の状況を踏まえれば納得ができる。特に鈴木成高の主張から読み取れるのは(p109,p113)、欧米的な支配する・支配されるという論理があまりにも強力であり、その影響力を無視して歴史を語ることなどとてもできない(支配の論理を無視して歴史を語ることに意味を見出すことができない)という主張そのものは、安易に正当性を否定することはできない論理が含まれている。だからこそ高山岩男の文明論も鈴木に凌駕されてしまったともいえるのである。

 一方で、土居が語る日本人論は、単一的な文明史観をそもそもその前提として受け入れている(それは「社会問題の普遍化」をめぐる主張に集約される)という意味では、この文明史観の延長線上にあるとみなすことが可能である。その単一的なまなざしがそのまま土居の西欧批判、つまり近代批判の起点となっている。しかし、土居の議論は結局文化論的な側面に偏ることとなり、「甘え」の文化の強調へと(少なくとも本人は)結びつけた。土居に見られたダブル・バインドの態度はある意味でこのような「近代」に対する見方の受容が歪んだ形で現れているものと解釈することができる。このような歪んだ態度自体は「近代」をめぐる議論において常にあったものと考えることは可能であり、実際『近代の超克』座談会についてもそのような見方が文学界側からなされたものと読むこともできる。このような近代受容をめぐるジレンマについては、共通・連続したものとして捉えることも可能だろう。但しこれについては土居においては強くみられるものの、その後の日本人論にまで同じようなジレンマがあったかどうかは検討すべき部分である。どちらかといえば、このようなジレンマは精神分析的な側面からの議論(河合隼雄に続く系譜)には(土居と同じ問題を抱えたまま)残存したものの、西尾乾二に影響を与えている類の、70年代後半以降の日本人論には確認ができないだろう。

 結局は、70年代(以降)の日本人論の語りの中においては、すでに「支配するか・支配されるか」という論点は認識されず、「欧米的価値観の確立」という枠組みで理解されるようになったのである。ここにおいて問題は価値観の問題に移行し、そこからの転換の可能性の中で議論を行う余地が大いに出てきたのである。

 

 廣松渉が行ってきた「近代の超克」論が、京都学派の支配史観をあまりにも強調しなされてしまったことはある意味で不幸なことであったのと同時に、近年再評価される「近代の超克」自体がこの反動として、安直に近代の多様性をめぐる議論として語られているように見えるのも果たして妥当なのかという疑問が出てくる。結局このような多様性の強調は、土居的な議論の変奏、しかもそれが特段具体的な議論に向かわないという意味では、逆に劣化したかのような印象も受けるのである。この点はまた別途取り上げたい。

 

〇「近代の超克」のポテンシャルは有効か?

 本書執筆の目的は「近代の超克」の射程とそのポテンシャルを問うものである(p2)が、今後「近代の超克」をめぐる議論を検討する上で確認しておきたい点がある。この「近代の超克」の議論は00年代以後活発になされているようであるが、この議論の可能性について肯定的に捉えることについてどう考えるべきか、という点である。

 ここで参照すべきは加藤尚武の「近代の超克」批判である。加藤は「二一世紀への知的戦略」(1987)にて、「近代の超克」を主張する立場に対し、①それが近代からの断絶にしかならないこと(加藤1987,pi-ii)(※6)、そして②「技術の倫理の対話の場面を切り開」くことこそ重要であると指摘する(同上、piv)。次の主張はこれら2つに応えるものである。

 

「今日の科学が西欧・近代に成立したということは、歴史的事実である。その歴史的事実を科学史という科学が確認している。ところが相対主義者は、こう主張する。「科学はあくまで西欧・近代の科学であって普遍的科学ではない」。それではこの相対主義者は、いかなる科学によって科学史を認識したのか。どのようにして東洋人であるわれわれが西欧の科学を学びえたのか。それに答えることがわれわれの科学論の任務ではないのか。相対主義の観点をとれば「新しい科学」を作り出せると考えるのは、浅はかである。相対主義が正しいとすれば、その「新しい科学」はわれわれの理解の彼方にあるものだからだ。」(同上、p29)

 

 まずここで押さえておくべきは「近代の超克」の言葉の意味についてである。菅原は「近代の超克」の議論においてそれが無意識のうちに克服される性質のものであるという論点を述べた。ただこの「無意識」というのはある意味でご都合主義の言葉であり、①『近代の超克』座談会自体が「近代の超克」を意識的に語るものである以上、無意識的に議論していると呼ぶことが可能なのかという論点と②結局はこれが過去との断絶でしかないのではないのか、という疑問点を残す。加藤の批判はここでいう②について、むしろ論理的に考えて断絶せざるを得ないことを主張するものである。なぜなら、「近代の超克」を主張する論者は近代の産物であった科学について、その性質そのものを語らずそれは「超克後の社会」における科学についても何も語らないものだからである。これは科学に限らず、文化といったものにも同じように述べることができるだろう。結局イデオロギー的なものに還元される「近代の超克」という理念そのものが意味をなさないものであると加藤は強調するのである。

 上記引用においても、加藤は「近代の超克」を強調する相対主義者は「新しい科学」を超克により生みだせるものだと考えていると主張している節がある。もっとも私はこれは言い過ぎであると思う。そもそも「近代の超克」論者は、そのような「科学」を語ることの重要性自体に気付いていないために、このような言説を述べていたと考えられる。もっと言えば、『近代の超克』座談会においては、この「超克」の重要性を述べたのは、文学界からのものであり、それは同時に(「政治」と対峙する)「文学」の可能性についての言及でもあったといえるだろう(※7)。これはそもそも「文学」を語ることが万能であるということに対する問題として議論すべき内容であるのかもしれないが、少なくとも「既存のもの」を如何に変えるべきであるかという議論よりも、「既存のもの」を変えなければならないという意識が先行し、その変えるべき内容については二の次となっていることは「近代の超克」論全般に指摘できるという意味では加藤の指摘は正しいように私には思える。

 

 そして近年の「近代の超克」に対する再評価の動きに関して、この論点は過小評価されているように思えなくもない節がある。この「近代の超克」の議論に限らず、「近代」そのものの問い・批判のなかでしばしば取り上げられるのは、「多様性」についてである。これは近代が単線的な発達史観に基づく、ということも含むが同時に「近代」の機械性が人間性を尊重しないだとか、帝国史観的暴力性が問題であるとか、個の強調がエゴイズムを無視しており問題であるとか、という論点に対抗する原理として「多様性」が用いられる。しかし、「多様性が大事である」で終わる議論は加藤の主張を待たずとも非生産的でありえる。また、本書のように学術的な意味においても「多様性」が尊重されることがあるが、それもまたいかなる意味で有意義であるのかという問いは別に設定されるべきである。このことはまた別の機会に検討を行っていきたい。

 

※1 そもそもの前提として、この「近代の超克」をテーマに何らかの意義を見出す作業をする場合に、当時の状況を捉えるため言説分析の題材として「近代の超克」が選ばれること自体が適切でない可能性もあることも留意すべきであろう。むしろ「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」といった言語群の分析をする方が広く一般的な流通をしていたものであるといえるだろうし、そのような言説群と比べれば「近代の超克」という言葉はそれ自体影響力として限定的である。しかし本書はあえてそれらの主流言説から距離を置き「近代の超克」の哲学的・思想的論点の抽出を目指していることに留意せねばならない(p2)。

 

※2 ただし、合わせて問わねばならないのは、本当に「近代の超克」という言葉がそれを語る各論者にとって意識的に(何かしらの概念に収斂する意味をもちえたものとして)語られていたものなのか、という点ではなかろうか。この「近代の超克」という概念自体、一種のダブル・バインドを容易に要求するものであることは明らかであり、その時々で都合のいい方向にその意味を変化させることもまた容易であることを意味する。「近代を超克」をめぐる議論においては、この論点も非常に重要であると思うが、近年の「近代の超克」をめぐる議論の中で、このことがどのように考えられているのかにも今後注目し検討していきたい。

 

※3 西尾が「ヨーロッパ像の転換」(1969)において、日本の戦前の教育制度をアメリカ由来のものであると、事実と相違する主張を行ったことはすでにレビューしたが、西尾が安直に「アメリカ的なもの」が昔から日本にあったと思い込んだこと自体にも注目してよいかもしれない。つまり、西尾には戦前から存在し、『近代の超克』座談会内でも批判の対象となった「アメリカニズム」の系譜を曲解し、日本の教育制度に当てはめた可能性があるということである。このように見た場合、西尾の議論もまた「近代の超克」をめぐる議論の系譜に位置付けることが可能になってくるのである。

 

※4 しかし逆にどうでもよいという態度は、そもそもの第一の進歩観における「追随」の意味についても軽視する結果となっており、実態についても特に吟味しないまま批判を行うというスタンスが基本となってしまっていることも指摘せねばならない。このことは今後も具体的に言及していきたい。

 

※5 このような議論と高山岩男の「モラリッシュ・エネルギー論」(p108-109)との関連も気になるところである。結局この議論も「近代的なるもの」に対抗するための原理の一つとして行われているものと考えることができる。ただ、この両者の議論は本書においては関連性の議論がなされていない。

 

※6 引用すると、次のように主張している。

「未来技術が近代のそれと通約できない断絶を示すとは考えにくい。……また、未来の人間が技術を廃棄して、近代以前の生活様式を営むという見通しも成り立ちにくい。未来の技術は近代技術の継続という本質をもつであろう。……

 これに対して連続の要素を認めず、未来を近代からの断絶とみなして、未来を「近代の超克」という観念だけで考えようとする思想は根強い影響力を持ちつづけている。未来の文化は近代の限界を超え、近代知の構造とは本質的に異なるパラダイムで営まれるのだという。……そこでは知のパラダイムの変換によって技術の倫理的問題に解決が得られるかのような無責任な幻想がふりまかれる。」(加藤1987,pi-ii)

 

※7 このような「文学」の価値は、竹内好も強調していたところである。この点については、また別途検討していく予定である。

 

<読書ノート>

P9「こうした議論の運び方を見れば、鈴木が「近代の超克」に臨む際に念頭に置いていたことは、古代の立派な文明を備えつつ近代を経由した日本にはモラリッシュ・エネルギーがあることを世に知らせること、あとやや些末な問題だが、自分とともに「近代の超克」に参加する西谷との間のルネサンスの評価をめぐる論争に決着をつけることだと予想される。

 けれども「近代の超克」における鈴木の役割は、近代はルネサンスから始まるという議論の大前提が正しいかどうかを、歴史学者の立場から判定してもらうということに限定されてしまう。孫歌の指摘するようにこのように「イデオロギーを表現するときにそれを学術化しようと試みる」のは「京都学派のお家芸」だからなのだが、「近代の超克」で重要なのは「あなたにとって近代とは何か」ということなのであり、学術的な発言は遮られてしまう。その後鈴木は、中世的なルネサンス観と近代的なルネサンス観をうまく折衷させようとする西谷の発言を受け、西谷に対する弁明を何回か試みるが、その後「われわれの近代」が議論の中心になると、目立った発言をしなくなる。」

P9-10「ここに「近代の超克」と「世界史的立場と日本」の間のすれ違いがある。前者に参加した鈴木と西谷以外のメンバーの多くは、「近代の超克」という共通テーマを与えられたときから最初からヨーロッパと日本の関係しか考えなかったのであり、それゆえ議論は次第に「日本人にとって近代とは何か」、「日本人にとっての古典とは何か」に収斂していくのである。そうなると、日・中・欧の関係を考察する西洋史学者の鈴木の出番はない。

 こうした議論の推移を見れば、船曳建夫が日本人としてのアイデンティティの不安の表明として「近代の超克」を捉えるのは正鵠を射ているといえるだろう。「世界史的立場と日本」と比べれば「近代の超克」には、一般に思われているほど侵略戦争を正当化するような勇ましいプロパガンダを見つけることが難しい。それゆえ広松から始まる昨今の「近代の超克」論は、あまりにも京都学派に結びつけた議論をしており、そもそもの「近代の超克」のテーマに沿った解釈をしているといえないのではないか。」

※最後の議論の例として柄谷行人と町口哲生を挙げる(p196)。

 

P20生田長江のいう超克…「近代的な一切の事物に対する堪えがたき嘔吐感から出発しているだけに、超近代主義は一応近代主義の単なる否定の如く、単なる反対物の如く見えるかも知れない。けれども実際は近代主義からあとへ引き返したのではなくして、さきへ通りぬけてしまったのであり、所謂超克したのである。即ち超近代主義は人性主義精神の単なる否定や反対物であるよりも寧ろそれらの超克されたものであり、従って大抵の近代思想の単なる否定や反対物であるよりも寧ろそれらの思想の超克されたものである。」

※「超近代派宣言」からの引用。

P21「商業主義よりも重能主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を(単なるセンチメンタリズムからではなく、『近代』生活に対する最も深刻な批判の結果として)選び取ろうとするーーこれは超近代的である。」

※同上。否定ではなく、肯定による定義をしている部分。

 

P27-28「もう一つは「超克」をどう考えるべきかという、本書の本質に関わる問題である。河上がシェストフに認めた批判精神は、考えようによっては先に三木と佐藤によってなされた生田長江人道主義者として位置づける見方と合流するように思われる。つまり河上や長江といった、亀井や唐木からすれば「旧世代」に属する批評家は、ニーチェの思想を近代精神の全否定ではなく、むしろヨーロッパ近代精神の健全な発展だと見ていると考えることができる。そのように考えれば、長江が『超近代派宣言』で表明した激烈な反近代的主張も、実は近代の批判精神の徹底だと捉え直すことができるのではないだろうか。

 ここで注意しなければならないのは、長江にとって超近代は、資本主義と社会主義の彼岸に立たされてあることである。これに対して亀井勝一郎の立場は、超近代を社会主義からの転向として、つまりは社会主義の裏面として位置づけている。こうした超近代の位置づけの違いは微妙な問題を随伴する。つまり長江のような超近代のスタンスであれば、資本主義や社会主義は本当の近代が分かっていない浅薄な思想として近代の批判精神から断罪するということが可能になるが、亀井のような立場だと社会主義を批判しながらその用語法、発想が皮肉にも敵であるはずの社会主義にだんだん似通ってくるという事態を巻き起こしかねないからである。」

※これは論理的必然なのかよくわからない。

p32「その長江がニーチェ全集の本邦の初訳者であること、「超克」の語がニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』の訳書にある語であることに留意すれば、「近代の超克」の思想的起源はニーチェにあると言ってよいかに見える。

 確かにこの推論は大まかに言って間違ってはいないが、長江の受容状況を見るかぎり「近代の超克=生田長江ニーチェ」の図式はいささか単純なように思われる。なぜなら、やはり前章で触れたように、昭和期を代表する三木清が長江を、一般的なニーチェ理解にそぐわないヒューマニストとして規定し、長江の直弟子を称する作家の佐藤春夫も同様の意見を示しているからである。……こうなると、生田長江は「近代の超克」の先駆者とは言いにくくなってしまう。」

 

P33「つまり、「近代の超克」の基本的なトーンを規定しているのは確かにニーチェだが、それは長江によりヒューマニスティックに解釈されたニーチェではなく、「シェストフ=亀井」路線のニヒリスティックなニーチェなのである。

 それでは、同じニーチェを解釈するにしてもどうして二つの立場で大きく見解が異なるかが問題になる。ニヒリスティックなニーチェ解釈からすれば、彼らの言うニヒリズムを語る際にどうしても考えることが避けられない、ある思想的な立場が存在する。その立場こそが共産主義である。「シェストフ=亀井」における「近代の超克」には、共産主義からの転向において成立するという特徴がある。」

P37「なぜなら(※シェストフ・ブームが起こったのは)、『悲劇の哲学』が刊行される前年の一九三三年は、先述した小林多喜二の惨殺を受け、さらに共産党の最高指導者である佐野学・鍋山貞親の声明をきっかけに、多くの共産主義者が転向した年であり、共産主義にシンパシーを抱く多くの知識人の心情を代弁するものとして『悲劇の哲学』が受け止められたからである。このシェストフ・ブームを三木清は「シェストフ的不安」と呼び、当時の文壇において不安が大いに話題にされた。」

亀井勝一郎については、「人間の未来を幸福にすると約束した学説」が共産主義と同義だったとし(p38)、共産主義からの転向を正当化する論理をシェストフのニーチェ論から読み取ったとする(p39)。

 

P89「ここまでの三木の議論を見ると、先ほどの高山の議論と同様に三木が民族の問題に関心を寄せていることが分かる。ただし高山が『哲学的人間学』のなかで生命と労働の問題を論じた後に民族と文化の関連で考察するのに対し、三木の『哲学的人間学』では民族は文化との関連ではなく、身体と密接に関わるパトスとの関係で把握されているという違いがある。言い方を換えれば、高山において民族が人間精神の発展過程に媒介されているのに対し、三木の場合は「血と地の結合」というかたちで直接的に要請されているのである。」

※民族は民族として生得的であると見る点で、原始的な国民性論とも言えるか。

P102-103「それでは、特殊的世界史について鈴木はどう考えるのか。鈴木は「地球上には多くの世界史が並存し、それらがやがて「単」なる世界史に収斂せられきったところに、近代の驚くべき世界史的事件がある」と考えている。高山の考え方は世界史的ではなく、高山の前著を念頭に置いて「甚だ文化類型学的」だと批判する。鈴木は高山の考え方が世界史的ではないとする理由として「本来世界史はいくつかの特殊的世界において見出されるのではなく、一つの普遍的世界において見出されるのであるが、しかしかかる普遍的世界の圏外に立って孤立する民族も明らかに存在」することを挙げる。そうした民族は、高山の言う文化類型学的に見れば「卓れた文化をもち、一貫した歴史をもって」いても、世界史の見地に立てば「その歴史は世界史とは別のものと考えられねば」ならず、したがって「歴史には世界史的なる歴史と然らざる歴史が存立している」のであって、文化類型学的アプローチから世界史を捉えることは強く反対するのである。」

 

P107鈴木成高の発言から…「高山君の日本に近世が二つあるというのは大体に於て賛成だ、大体として。(中略)東洋には古代がある、その古代は非常に立派な古代である。しかし如何に古代が立派であっても、程度の高い古代であっても、それは近代ではないんだ。だから東洋には非常に立派な古代があって、高さにおいてヨーロッパと決して劣らない、寧ろそれ以上のものがあるんだが、しかし東洋は近代というものをもたない。ところが日本は近代をもった、そしてこの日本が近代をもったということが、東亜に新しい時代を喚び起す、それが非常に世界史的なことだ。」

P108高山岩男の発言から…「ドイツが勝ったということは、僕はドイツ民族のもつ道義的エネルギーが勝ったことだと思う……よく世界史は世界審判だ、といわれるが、それは何も世界史の外で神様が見ていてそれを審判する、というようなことではない。国民自体が自己自身を審判するということだと思う。国が亡びるということは、外からの侵略とか何とか外的原因に基くのではない。外患などというものは一つの機会因に過ぎない。国が亡びるのは実は国民の道義的エネルギーが枯渇したということに基くんだ。敵国外患なければ国亡ぶというのも、つまりはこの意味だと思う。国家滅亡の原因は決して外にない、内にある。」

※道徳的であると、強国であることが同義で語られる。「ここにいたって高山は、前述の鈴木とのやりとりで示唆した特殊的世界史から普遍的世界史に転換する際の経済・政治的要因の分析を怠り、世界史の転換をランケ流のモラリッシュ・エネルギーのみに求めるようになる。そしてモラリッシュ・エネルギーの強弱の観点から文化の優位性を論じるという、単純な見方に陥っているように見える。」(p108-109)

 

P109「このように見てゆけば、「世界史的立場と日本」の高山は、「世界史の理念」および「世界史の種々の理念――鈴木成高氏の批評に答ふ――」で提示した歴史的世界の多元性と特殊的世界の視点を放棄し、鈴木張りの西洋史的発想の世界史的構想に屈服し、中国侵略のイデオローグに転落したと結論せざるをえない。」

※このような言説になってしまっている事実自体が重要。

P113「こうした高山の議論の推移を見て考えられるのは、ヨーロッパ中心主義から脱却することの難しさである。たしかに近代とはヨーロッパにとって栄光であってもアジアにとっては悲惨であり、ヨーロッパを相対化することの営為が日本というアジアの国から提起されるのは自然の成り行きである。けれども、そのアジアの悲惨さを論じる場合でも悲惨にしたヨーロッパの枠組で議論を展開しなければならず、ヨーロッパを相対化する当初の目論見は挫折せざるを得ない。」

P118鈴木の「近代の超克」で論ずべきテーマとしたものから…「(六)歴史学としては、特に最も関係の深い問題として「進歩の理念」を超克することが問題となり、また歴史学固有の問題として歴史主義の超克が最も大きな根本問題とならねばならない。歴史主義の超克は即ち歴史学における近代の超克である。」

 

P131「けれどもこうした鈴木の遠大な歴史像は、近代以前の西洋に関心を持たない河上をはじめとする文学界グループによって顧みられず、議論は日本人は本当に西洋の近代を理解したのかという方向に進んで行く。この章の見出しに示した「真剣に近代というものを通って来たか」という捨て台詞を吐いたのも文学界に属する作家の林房雄であり、そこにいたるまでの議論をリードしたのも、文学界の同人である小林秀雄である。」

P141「同時に「伝統のない場所で生き生きと哲学を考えた」シェストフとドストエフスキーを重ね合わせれば、小林が前記の発言で「一流の人物は皆なその時代を超克しようとする」と言うことの真意も見えてくる。つまり小林は、通常言われるように近代の西洋思潮を学びそれを手本にすることで日本を近代化することは考えず、広い意味でヨーロッパと考えられるものの近代化という点では遅れたロシアを、同じく近代化から遅れた日本に似た存在と見、ロシア文学の成果ではなくその担い手の生き方を学ぼうとしている。それゆえ小林はロシアないしドストエフスキーの姿に西洋近代そのものを見届けず、むしろ西洋近代を格闘するうちに格闘の対象を凌駕すると考えたのである。したがってドストエフスキーという「一流の人物」が近代を「超克しようとする」という小林の言い方は適切ではない。近代を克服の対象と意識的に見定めそれを乗り越えたのではなく、格闘するうちに自分では知らないうちに乗り越えて「しまった」と言うべきである。小林自身は意識していないが、この事態はかつて生田長江が「さきへと通りぬけてしまったのであり、所謂超克したのである」と言ったのと同義である。

 したがって座談会の議論はいきおい、西洋近代に取って替わるオールタナティブを提示する方向ではなく、むしろなかなか分からない西洋近代をこれからも学ばなければならないという方向に向かって行く。」

※小林は「文学は社会の表現だとか、時代の表現だとかいう」ことに欠陥があるとし、一流の作家は「一般通念との戦いに勝った人」でありかつ「その勝った処を見ない」(p136)。とする。そしてその後「どういう時代の一流の人物はその時代を超克しようとする処に、生き甲斐を発見している」と述べる(p137)。注意すべきは小林は「どういう社会的な或は歴史的な条件がある文学を成立させたかということ如何に調べても、それは大文学者が勝って捨てた滓、形骸を調べるに過ぎず、勝った精神というものを捉えることはできない。」という(p137)点である。これはやはり大文学者自身が明確に意識していないから、という意味だろうか。菅原は「太平洋戦争を正当化するイデオローグとされる座談会「近代の超克」の事実上の結論は、皮肉にも近代主義的なものである。」とする(p143)。

 

P162「このように自由民権運動の明暗を冷静に把握する林の議論は、プロレタリア大衆芸術を規定する際に拠り所になった「遅れたもの」に進歩性を認める彼の複眼的視座に起因するものといってよい。」

※次の主張は林によるもの。「文学者にしても卑俗をにくみ、文学道のほか、なにものにも忠実でありたくないという信念をもって精進をつづけて行く人は、その作品の中に、一行の社会的政治的文句がなくとも、人の心を正しくひらくという点で、自称プロレタリア作家などに十倍する進歩的な役割を演ずる。」(p158)「遅れたもの」という表現が正しいかはよくわからない。

P165「もう一度復習すれば、幕府の開国政策は一見すると他国との交易を求める点で「進歩的」だが、幕藩体制を維持するための政策という点を強調すれば「保守的」であるのに対し、長州藩の排外主義は外国との交際を求めない点で「保守的」であるものの、既存の幕藩体制を打破するという点で「進歩的」である。……ここで林は、ただ海外の文物を輸入すれば事足れりとする平坂な「進歩主義」から一線を画し、見かけ上は排外的だが実は海外との交流を求めるという「保守主義」に媒介された「進歩主義」を長州藩にみていることが分かる。

※ここで「遅れている」とは、あくまで「近代=欧米的価値観の注入」という観点からの議論とわかる。そしていわゆる進歩的文化人批判のコンテクストと極めて似通る。

 

P167「こうしたいわば逆説的な近代のあり方を意識的に追求したのが、他ならぬ座談会「近代の超克」を復刻した中国文学者竹内好である。」

P171「こうした竹内は、今日の経済発展を知る目からすると、奇異に見えるくらい中国の近代における抵抗のあり方を理想的に規定し、これに比べて抵抗せずに易々と近代化を受け容れる日本文化の「優秀さ」を皮肉混じりに批判する。……取り敢えず林房雄との対比で考えれば、日本文化が「革命という歴史の断絶を経過しなかった」とする竹内の診断は林による明治維新における長州藩の「進歩性」の理解とはすれ違っているかに見える。というよりも、ヨーロッパ文化に対する抵抗からアジアにおける近代を捉え続ける竹内からすれば、そもそも西洋文化を易々と受け入れる日本の知識人は唾棄すべき存在としてしか見られないようにすら思われる。」

P173「これらの加藤の発言を総合すれば、日本の伝統は外国からの直輸入であるから、その延長上でフランス文学を直輸入せよと呼びかけるものだと要約できるだろう。これでは従来通りのヨーロッパ文化の猿まねの主張に他ならず、竹内の持論からすればまさしく日本らしい「優等生文化」にのっとったものだとして一蹴されかねない代物である。けれども竹内の眼からすれば、加藤は中国文化と同様に敗北の事実を直視するものと見、その点を高く評価している。」

※竹内は目標点について「日本文学の国民的解放」という目的は「自明」の一致をしているとみる(p173)。

 

P180加藤の意見から…「明治以後の日本についていえることは、必ずしも徳川時代の日本についてはいえない、と思う。鎖国の日本には、外来の思想を次から次へと受けいれてゆく条件がなかった。明治維新以後の日本に、西洋思想との対決がなかったとしても、明治維新そのものは、西洋との対決を通じて決断を迫られた結果であったろう。そのかぎりで、辛亥革命明治維新との竹内流の対照は、私を充分に納得しない。」

※ここで菅原は林房雄のいう「遅れたもの」に対する進歩性が竹内の議論に接近しているとみる(p180)。

P181「既に竹内が言っているように、「ドレイの主人」は近代的原理を性急に学ぶことで自分がドレイであることを忘れるがゆえに、自分がドレイであることを自覚しているドレイよりも一層ドレイ的である。そういう「ドレイの主人」であるヨーロッパと日本が戦い、また加藤の言うように日本の明治維新に一定の評価が下されるならば、ドレイであることを自覚しつつアジアの解放を謳う日本は、ドレイであることを忘れたヨーロッパよりも「革命的」だということになる。他方で中国に対して侵略的な日本は、中国よりも自分がドレイであることを自覚していない点で、中国に比して「保守的」となるだろう。

 この考え方は前章で取り上げた林房雄の『大東亜戦争肯定論』から換骨奪胎して解釈した日朝関係にも通じるものである。その議論を改めて繰り返せば、日本は朝鮮半島に侵略した点で「保守的」であるものの、朝鮮の抵抗の意識を目覚めさせた点で「進歩的」であり、これに対し日本の侵略に抵抗する朝鮮はナショナリズムを国民に注入する点で「保守的」であるが、抵抗をバネに近代化に向かう点で「進歩的」である。

 なるほど二〇世紀前半に限定すれば日本の大陸侵略の要素が際立ち中国と朝鮮の被害者であることが目立つのだが、二一世紀の世界情勢まで念頭に置けば、このように加藤周一の主張を媒介にして、林房雄竹内好も議論を総合することで得られる世界史の進行の理解は、一方的にどこかの国を「保守」か「進歩」かのレッテル貼りを行わない優れた弁証法的なものであり、また今までの議論の経緯を考慮すれば、座談会「世界史的立場と日本」と「近代の超克」の間に高山岩男鈴木成高で交わされた世界史の構想に取って代わるものとして位置づけられるのではないか。」