夏堀睦「創造性と学校」(2005)

 今回は前々回デュークのレビューで取り上げた「創造性」の議論に関連して、夏堀の著書を取り上げる。

 まず、本書が異色の書であることを押さえておきたい。それは「①ネオリベの立場から書かれた②実証的な著書」という点である。①②それぞれの立場から書かれた著書というのはよくある。しかし「①ネオリベの立場」から書かれた著書というのは、既存の議論の批判ありきで書かれていることが多く、実証的な観点に欠くという問題点を抱えていた。過去のレビューで取り上げた黒崎勲などもこの立場として位置づけられるべき論者であり、実証性の乏しさに問題があった。また、「②実証的な著書」についても、基本的にネオリベに対してか、それ以前の政策に対する議論の検証・批判といった観点書かれたものが(こと教育界に限れば)基本であり、基本的にネオリベを支持しないか、明確な反対の意思を持っているものがほとんどである。良く言っても「中立」であるに留まる。

 では、学術書である本書は「中立」ではないのか、という疑問が出てくる。もしかすると、夏堀本人はそう考えているのかもしれないが、残念ながら、そのように評価することはとてもできない。本書はその分析の枠組みの中に、ネオリベありきの議論を含んでいるからである。それが本書における「創造性」の考え方に如実に反映されているのである。

 

〇「創造性」の捉え方について――川喜田二郎の事例から

 本書はまず学校が「創造性」を抑制している場として機能していることを実証的に示す。これは一般の人が考える「創造性」について、学校の場においては道徳性が強く働いていることから抑制されているものと捉える。例えば本書ではこれを一定層の教師における「創造性」のディレンマとして描く(p206)。この物語自体はとてもわかりやすい。本書のスタンスはあくまで「何が欠けているか」ということに関心をもち、この点を問題視している。

 問題はここで欠乏の議論を行い、「創造性」とは何かを問うていないことである。確かに本書では「創造性」について比較的積極的な定義を行っているかのように見える。しかし、この定義付けについては、それ自体で大きな問題を持っており、それが本書における「ネオリベの肯定」と悪い意味でマッチしてしまっているのである。

 

 類似した問題を抱えている著書として、川喜田二郎「創造性とは何か」(2010)を取り上げてみよう。川喜田も前提として、強烈な西欧的な「個人主義」批判を行っていることに注目しなければならない。

 

「ところで、文明とその階級社会が発生して以来、奇妙な個人主義というものが生まれてきた。それによれば、人間の本音は利己がすべてであり、他人のためというのは擬装したおためごかしのように考える。

 いかにも深くうがったように見せるが、人間は「語りつぎ言いつぎゆかん」と思っているほうが、率直な実態だと思う。ともかくこの個人主義の上に、さらに西欧近代風のイデオロギー的な個人主義まで加わってきた。世界中の知識人、とくに日本のそれが、このイデオロギーに振り回されている。」(川喜田2010、p7)

 

「この西欧文明の創造観では、主体=自分のほうは変わらないで、客体=相手だけが作られるという考え方であるから、相手を支配し征服するという支配欲、あるいは権力志向であって、自らもまた、作られるという総合的な思想はまったく無視されてしまうのである。」(同上、p165)

 

 

 一種の近代批判とその行き詰まりを指摘しつつ、かといって二項図式的に望ましい社会像を提示する訳でもない。

 

「これをさらに一歩進めて言うならば、これは資本主義の行き詰まりということでもある。しかし、それならば共産主義も、あんなに行き詰まっているではないかと言われるのなら、私は、共産主義も同じで、物質文明の行き詰まりという点では、この両者にはまったく変わりがないと感じているのである。」(同上、p44)

 

 

 では、創造性をどうとらえているかというと、「新陳代謝」の一種とみなし、我々が生きていく上で不可欠なものとみなしている。

 

「結論を言うと、創造的行為をやっているかぎりでは、個人と組織との間には壁はない。いや、壁はなくなっているということができる。もっとも創造が終わったら、壁はしだいにできてくるけれども、けっして元どおりまで戻ることはなくて、組織と個人はずっと血の通ったものとなっているのである。しかし、ときどき創造的行為を繰り返さないと、個人も組織もやがてだめになってくるのであるが……。」(同上、p171-172)

 

 

 ここでは、これまでのレビューでもみてきた、80年代以降の日本人論における「改善要求」と全く同じことが語られていることに気付く。「改善要求」の言説(そしてこの言説を主導したのはネオリベ勢力であった)に「創造性」が結びついているのである。

 その前提のもとで、川喜田は自己達成感らしきものを「創造性」とみなすにいたる。

 

「創造的行為の内面、それもひじょうに深いところに宿っている不可思議な何かに導かれているのではないかという気持ちは、創造的行為を達成したときの人の心に、自ずから愛と畏敬の念を生み出すのである。」(同上、p114)

「自己変革を目標にするよりも、物を作って、結果的に自分も脱皮するというように考えるべきなのである。

 つまり、人は何か価値を生み出す「ひと仕事」によって自分を変容させていくべきで、それを何らの「ひと仕事」もせずに悟り澄まして、自らを変えていけると思っていることは、結局逃げていることだと思う。」(同上、p143)

 

 

この達成観を感じる主体には川喜田が否定する個人主義的価値観はないものとみなされる。なぜなら、「創造的行為をやっているかぎりでは、個人と組織との間に壁はない」からである(p171)。しかし、この議論がゆがむのは、なぜ、その行為が「創造的」なのかを何一つ説明しないからである。川喜田の言説からは「創造的行為」と「ひと仕事」の違いを全く説明できないのである。

そして「創造性」においてこの違いを説明できないことは致命的に重要である。それが夏堀も分析の中心としている「ラージC」と「スモールC」の違いなのである。

 CとはCreativityの略号であり、どちらも確かに「創造性」という言葉が与えられているが、「創造性=新しさ」というのは、おおざっぱに分ければそれが「個人」にとってのものなのか、「社会」にとってのものなのか、というものである(pⅱ-ⅲ)。ここでこの二分法が強調されるのは「個人」にとって新しくても「社会」にとって新しくなければ、真の意味で「創造的」とは言えないのではないのか?という点にポイントがある。特に心理主義に陥っているとたびたび指摘される教育の議論において、この着眼点を無視することはできない。スモールCのみの充足というのは、それが個人にとってよいことでも、結局「自己満足」で終わってしまう可能性があるということなのである。川喜田の議論は、この「自己満足」の可能性で終わる可能性について、何ら言明をしていないという点で、「創造性」の議論を行っているのかどうか最後までわからないのである。

 

〇本書のラージC、スモールCの用法は「適切」か?――「創造性」を評価するのは誰なのか?

 さて、それではラージCについて、どのように捉えればよいのだろうか?本書におけるこの違いの説明は先述したように単純明快であるようでいて、実際の所はかなり曖昧さが残っており、本書におけるその用法に統一感がない。

 これはなぜかというと、上記の定義付け自体が、やはりおおざっぱであることに起因する。「自己満足」で終わる創造性というのは、狭くとらえることもできれば、相当に広くとらえることもできてしまうという、その範囲の曖昧さに起因している。

 この点について最も厳密に定義しているのが、本書でも取り上げるチクセントミハイのモデルに基づく「ラージC」の定義付けだろう。チクセントミハイは文化そのものが存する領域(domain)、評価者である場(field)、そして実際に創造的行為を行う個人(person)の3領域の関連性によって形成されるとした(チクセントミハイクリエイティヴィティ」1996=2016、p7,p31)。以前ルネ・ジラール「地下室の批評家」のレビューの際に、欲望の三角形モデルを用いて学校教育における「よい模倣」の2つのパターンを示したが、対象(学問)志向的な三角形モデルというのが、ほとんどチクセントミハイの考える理想的な創造性モデルであると考えてもよいように思える。このケースの場合、学問そのもののあり方と教師が考える理想的な学問像は一致しており、生徒に対する「評価」も適切に行うことが想定される。この「評価」という着眼点が重要である。生徒の行為について適切か・適切でないかを判断し、よりよい方向に導くことが職業としての教師には求められているという点も重要だが、それ以上に「評価」なしには「創造性」について判定できないという前提に立っていることも重要である点を押さえておきたい。

 そしてこのような素朴な前提について学校教育でも機能すれば理想なのであろうが、実際はそうはならない、というのがチクセントミハイの重要な主張の一つである。この理由として、学校が持つ規範的なイメージ、もしくは「かくあるべき」というイメージというのが阻害する、とするのが本書の立場である。しかし、実際にこれがうまくいかない理由はもう一つある。それは、「そもそも教師は『創造性』の評価者として適切か?」という問題である。

原則論に立ち返ると、チクセントミハイが評価のフィールドとして設定したのは、その「創造性」の中心にあるべき専門家(たち)であったはずである(チクセントミハイ1996=2016,p31,32)。

 

 ここでおさえるべきは、教師は何らかの専門家であることは否定されないが、具体的な分野における創造性の評価というのは、その分野の専門家にしかできないのではないのか、という「専門性」をめぐる根本的な問いである。本書において、この着眼点が乏しいのは明らかである。なぜなら、本書はこの「専門家による評価」の代わりに「一般人の評価」というのを「創造性」に対する評価であるかの如く示しているからである。本書が対象とするのは児童文学である。ということは児童文学に対する創造性評価であれば、学問的な意味での児童文学の研究家、百歩譲っても児童文学の分野で何らかの意味で「成功」したとされる作家が行うのが適切であるはずである。しかし本書は何の断りもなく一般人が考える評価指標をもって「何が創造的か」を議論してしまっている。私が批判するのは、このような致命的な創造性に対する考え方の抜け落ちについて、現状の学校教育批判、「創造性」に対する見方自体の批判をありきとすることで、着眼点として隠蔽している、本書の分析の構造的な問題である。「社会構築主義」に基づく分析者を名乗り「社会」の分析を行う者は、その分析を行った際の近視眼さそのものについて十分自覚を持っていないと、原則論さえ無視してしまうという、悪い事例の一つであるように思えてならない(※1)。

 本書においては、それが「市場主義」を暗黙に肯定していることにしかならないのである。そして、この「創造性」と金銭的価値の関係性について、素朴に一致するものと通常考えられることは少ないし、チクセントミハイもこれを同一視していない(※2)。

 

 さて、本書がなぜこのような誤りをしたのだろうか?単なる著者の思い込みであるとみなせればよい。実際そうみなすことも可能であるが、一応本書の論理に従うのであれば、このような議論は、「過去の教育心理学における『創造性』をめぐる言説」に対する批判の強調が一因として挙げられるだろう。つまり、初期の心理学的研究では、「傑出」概念(社会的名声)を志向していたことにラージCを目指す方向性が見出せるものの、戦後の研究はむしろスモールCの方向に傾いたという(p6)。しかし、この見方がスモールCの概念自体を歪めている。スモールCの定義として、「個人にとって新しいもの」というものが挙げられているが、本書では「過去の研究の動向」を根拠にし、これに加え「個人に還元される能力観」についてもスモールCであると断じてしまう。これは決して同じものではないことがとても重要である。結局本書では知能指数の測定といったもの自体に対して、それが漠然とした(抽象的な)指標でしかなく、具体的なもの(成果)を測ったものではないことを根拠にスモールCであるとみなしているのである(cf.p67)。しかしこれは必然的ではない話のはずである。IQそのものは創造性を示す指標そのものではないが、創造的な人物である可能性まで否定していないのではないのか、ということである。もう一点、本書がIQをスモールCの指標であるとするのは、それが「個人」の能力観を示す指標でしかないというものがある。つまり、個人の能力に還元される能力観であること自体が問題であるかのように主張するのである。これによっては「社会的な評価を拾うには不十分だ」とされる(cf.p66)。これは、「創造性」の定義に立ち返り、「創造性の評価は専門家を介すべき」という点から言えば正しいが、これもまた本書では「専門家はIQを評価しない」といったことを自明視するために適切な評価ができていない。更に本書の分析は全体としてこの専門家評価自体を無視していることもすでに指摘した通りである。

 類似の話として、学校教師一個人が各児童を評価するシステム自体が極めて抽象的な、本書的な言い方をすればせいぜいのところ「スモールC」しか評価できないのでは、つまり、多元的にありうるはずの「創造性」の評価指標について、教師自身の主観の名の下に、単純化してしまうことにならないか、という考え方も大いに成り立つだろう。本書では結局このような疑義の可能性について、「一般人」の評価を疑似的に「ラージCである」とみなしたうえで教師もおおむねそれに追随していることで否定しようとした訳であるが、そもそも「一般人」の評価を「ラージCである」とみなしえたのは、夏堀の基本スタンスである市場主義的観点からのみ(ただ、厳密に言えば、一般人の言うことが市場主義的価値があるという立論にも無理があるように思う)であって、それは「創造性」と呼ぶべきかどうか、少なくともチクセントミハイとの比較においては無理がある主張である。

 

 しかし、更に考えなければならないのは、本書が注目した「創造性」に対し、過去の教育心理学の系譜自体がそのまま応えようとした訳ではないという点であろう。では何を志向していたのかは今の私には答えられない訳だが、少なくとも、「専門家評価」の問題の回避のために、抽象的な指標が導入されたことは一定の合理性があることは評価されなければならないのではなかろうかと思う。「専門家評価」というのは、然るべき立場にいる人間でないとそもそもできない。義務教育段階にいる子どもの全てにその「専門家評価」を適応すること自体が不毛なことであるとさえ思える。その中で、その専門性についてある程度抽象化し、測量可能とすることで子どもの能力を評価しようという動き自体が存在するのは極めて自然なことであり、その点に対してまで不要な批判が与えられる筋合いはない(本書のような別の価値観、ラージCの考え方について極めてあいまいな態度をとる著書であればなおさらである…)。また、言説分析固有の問題であるが、本書が分析しようとした「教育心理学の系譜」自体がそのまま系譜として妥当であるかについても議論が出てくる可能性もあろう。少なくとも本書の対象領域が恣意的である可能性については何ら言及がない。本書が「学校」そのものの研究をしていることを考えると、それを下支えする領域として教育心理学の系譜が適切であるかというような問題も抱えている。このように本書の分析枠組みには多くの詭弁が存しうる。

 

〇本書の意義と本書が自明視する「児童観=教育される主体」について

 さて、以上の問題点を抱えてはいるが、本書が全く無価値かというとこれも留保すべきであろう。まずもって本書が実証的研究であり、それが最初に述べた、これまでになかった視点から語られている点においてそう言える。留保すべき点は多いものの、本書が示した内容というのは、これまでにほとんど問われてこなかった学校教育の運用をめぐるものであったというのも事実である。

 具体的には、平等主義的な学校における規範的価値の強調に対する問題視である(p179など)。もっともこのことも必ずしも一般的に見て問題視すべきことなのか、というのは議論が分かれる。本書の分析対象は私立小学校であるものの、一般的な公立学校に求めるものとして、「創造性」が主たるものなのかどうか、規範的であることはむしろ「しつけ」といったものと合わせて学校教育に求められているものなのではないのか、という議論の余地も大いにある。合わせて、「規範性」という軸とはずれるが、苅谷剛彦などがいうように、むやみやたらな「個性」の強調を行う教育が義務教育としての基礎学力形成という側面の無視につながることもまた問題点となりうる。本書は少々そのような論点を軽視している感が否めず、「専門家」が介しうる学校教育像についてもかなり楽観的である(cf.p203)。チクセントミハイも「創造性」は学校全般の中で養われるとは見ておらず、むしろそれは不可能であるとさえ見ている印象がある(cf.チクセントミハイ1996=2016、p193)(※3)。その意味で「規範性」と「創造性」との比較でどちらがよいのかという判断は極めて難しい。とはいえ、本書で語られる平等主義的に等しい学習経験を与えることが創造性にとって大きな弊害になるのではなのかという問い(cf.p178-179)や、平等主義的な価値観に違和感を持たない教師が多数派として存在すること(そして、それらの教師は彼らが考える誤った『創造性』を平等主義のもと達成可能と考えてしまう)の問題もそれ自体が問われるべき状況となる可能性はありえるだろう。

                                      

 最後に、本書の分析そのものにおける児童観について押さえておきたい。これは以前矢野智司のレビューを行った際にも確認した教育学の議論における教育の「関係に入る」ことを前提にした議論、すなわち教師は当然のごとく児童生徒を教育可能であるとみる態度を本書でも共有しているという点である。本書の調査では児童文学を児童に創作させ、その内容について評価をする、というスタンスをとった。これが成立するためには、児童自身がこの調査(ゲーム)のルールを守る形で参加しなければならない。作品そのものを児童の現状そのものを見ているからこそ、児童が手抜きをし、まじめに取り組まないこと自体を許さないのである。私自身はその可能性にも開かれていなければならないと考える立場である。本書の調査対象が私立小学校だからという若干のバイアスもあってか、本書の内容を見る限りこの点は調査に影響を与えていなかったように思える(※4)。しかし、日本の小学校全般について同じ見方を行い、同じ調査を行うことで、同じ前提にたった分析を行ってよいものかと問われれば、私には疑問しか出てこない。また、このような見方が「あたりまえ」のものとした上で分析を行っていることも、本書の枠組みが曖昧だと言える点の一つである。

 

※1 もっとも、本書がこの点を完全に無視していたとまではいえないかもしれない。本書が最後に「ドメインに焦点化した研究からの意味づけ」ということを強調したこと(p207)も、専門性領域そのものについての必要性を意識してのことかもしれない。しかし、本書の論調は全体として、この点を無視した内容としか私は読み取れなかった。本書の分析スタンスは、仮に研究手法として確立しているとみなし擁護されようとも、留保なき手法の使用そのものが問題であることを強調しなければならないだろう。

 

※2 

「たしかに、これらの人々は皆、自分たち自身の助言を心に留めていたように思われる。誰ひとりとして金銭や名声を追い求めた者はいない。発明や著書によって快適な生活ができる程度に裕福になった人々もいるが、それが理由で幸福と感じた人は一人もいなかった。彼らが幸福と感じていたのは、自分が楽しんでかかわっていることに金銭的報酬がついてくるということであり、そのうえに、自分のすることが人類を取り巻く状況に役立つかもしれないと感じられることであった。」(チクセントミハイ1996=2016,p139)

「しかし、たとえ自由市場が実在したとしても、私たちの将来の幸福に関する限り、自由市場の決定が賢明であるかは、疑わしい。そもそも、市場の決定は現在指向的である。」(同上、p366)

 

 

※3 一方で、チクセントミハイも早い段階から適切な評価を行う「専門家」と出会うことの重要性は認識している(cf.チクセントミハイ1996=2016,p375)。ただし、それは学校の正課内の活動ではなく、むしろ課外活動の一環として出会うことを想定しているように思える(cf.チクセントミハイ1996=2016,p13,p424-425)。このような創造性の芽の学校教育の導入を考える上では、課内活動における別の目的との兼ね合い等も踏まえれば、課内・課外といった認識の議論も重要であるように思える。

 

※4 ここで問題となるのは、いわゆる「悪ふざけ」の問題である。この悪ふざけについて、本書では児童同士の「同僚性」の位置づけ、及び学校の規範的価値を吸収した上で、そこからずれようとする児童の態度の反映とみた訳だが、本書における児童はいたって素直である印象がみられるが故、このような評価自体は誤りとは言い難いという印象であった。

 

<読書ノート>

Pii「創造性研究において創造性の捉え方は、常に2つの極の間で揺れ動いてきた。2つの極とは、ラージCと呼ばれる「社会にとっての新しさ」をもって創造性とする立場と、スモールCと呼ばれる「個人にとっての新しさ」をもって創造性とする立場である。創造性が心理学の研究対象となり始めた頃、創造性研究は確かに天才研究からラージCの立場を継承してきた。しかし、戦後の創造性研究ではスモールCの立場から研究が蓄積されてきた。そして1980年代以降、アメリカではラージCの復権を主張する動向が一部に生まれてきている。背景には、アメリカでの才能教育が法的に整備され、子どもの才能を伸ばすための個別カリキュラムの開発や実施がなされていることがある。一方、日本においては、依然スモールCを中心とする創造性観が非常に根強く支持されているようである。」

Pⅱ-pⅲ「ここでこの2つの創造性観は、本来二分法で語れるものなのかどうかを考えてみる必要があるだろう。学校でのスモールCは「その子にとっての新しさ」と言い換えることができるだろう。確かに、子どもは将来どのような仕事をし、ぢのような生活を送るのか、全く未知数のあらゆる可能性を持った存在であり、日々何かしらを経験し成長していく存在である。その子どもが何か一歩歩みを進めたことに注目するのが「その子にとっての新しさ」であり、その歩みをもって創造性とみなし励ますことは教師や大人の大事な役目である。しかし、その一歩がどの方向に踏み出されたときに「新しさ」とするのだろうか。その一歩が、単なる移動や変化ではなく、「新しさ」であるとするその判断基準はどこと照らし合わせるのだろうか。ガードナーはその答えを「領域特殊性」と「本物の評価」に求めている。簡単に言うと、創造的であると判断される内容は活動領域によって異なり、その活動の職業的専門性に基づくのだということである。つまり、これはラージCの考え方を拡張したものである。これまで、ラージCは伝記に名を残すような人たちに限られたものと考えられてきた傾向がある。しかしラージCを、職業として身を立てるということ、その領域のプロとしてやっていけるだけの人材として社会的に認められることとつなげて考えれば、子どもの活動や作品を「本物の評価」に照らし合わせて、子どもが一歩踏み出した方向性を検討することができるようになるのではないだろうか。むしろ恐いのは、「新しい」という価値の基準を領域普遍的に抽象化してしまうことでかえって教育現場での多様な解釈が成立し混乱を招き、学校での子どもの創造活動を歪めてしまったり、大人の創造性と子どもの創造性は別物だとして「本物の評価」に出会う前に子ども自身をその活動領域から遠ざけてしまうことではないだろうか。」

 

P1「近年、創造性研究は2つの大きなパラダイムのなかで進められている。1つは、創造性を個人内能力や特性の高低として捉え、創造性の個人差あるいは年齢による発達を説明することを目的とした研究である。この研究は、「〜歳になると〜できる」あるいが「〜といった思考ができる人は〜ができるようになる」といった、主に「個人にとっての新しさ」を創造性として扱う。こうした日常生活における問題解決を創造的活動の到達点として扱う。こうした日常生活における問題解決を創造的活動の到達点とする創造性は、スモールCと呼ばれている。もう一方では、創造性を社会文化的な視点から捉え、芸術作品や科学の進歩、さらには政治的リーダーシップまで含めた「社会にとっての新しさ」を創り出すことを創造性の本質とみる研究がある。この「社会にとっての新しさ」の創出を基準とする創造性は、ラージCと呼ばれている。」

P2「まず第1に、創造性の研究動向として1950年代から主流をなしてきたのは、Guliford.J.Pの創造力の因子説をもとにした、サイコメトリックなアプローチである。Gulifordは創造力を、①問題を受け取る能力、②思考の円滑さ、流動性、③思考の柔軟さ、柔軟性、④独自性、独創性、⑤再構成する能力、⑥完成へ工夫する能力、入念性の6つの因子に分け、さらに個人のモティベーションや気質の違いといった特性が、創造的な仕事ともっとも密接に関係すると主張した。」

 

P6「ここで、1つ問題が生じる。「天才」と「創造性」は違うとする主張が存在することである。特に、日常生活の問題解決能力を想定するスモールCの創造性研究を志向する人たちは、そのように主張するであろう。しかし、ここでは天才研究とラージC研究との接合を次のように図りたい。先に論じたようにラージC研究が事例研究で対象とした人と、天才研究が対象とした人の才能は別物だろうか。……第1章の歴史分析で明らかにするが、創造性研究は天才研究を土台とし、そこから教育による開発可能性や子どもが将来創造的人物になることを予測するための予測可能性が社会的に求められたことと、心理学内部の方法論上の問題から、スモールCを主流とする方向に傾いていった。これに対して、「社会にとっての新しさ」を創造性とするラージCから創造性を捉え直そうという近年の動向は、天才研究と密接な関係である。おそらく天才研究の対象とされる人々が大衆一般への知名度を想定したものであるのに対し、ラージC研究は、ある特定の領域の専門家の間で「創造的」であるとされる人々を対象とするので、天才より広範な範囲を研究対象とすることができるのではないだろうか。」

P8-9「この研究では、「社会的評価の獲得」を創造性とする定義を選択する。それは、具体的には次のように提示されている。「所産あるいは反応が創造的であるのは、ある程度適格な観察者たちがそれが創造的であると自律的に同意した結果である。適格な観察者とは、所産や反応を創造し表現したその領域に通じている人である。」(Amabile,1990)。これは、通常考えられているように、創造性が個人内の能力や特性、あるいは思考といった形で、個人内に潜在的に備わっているものとして捉える創造性定義とは異質のものである。社会的評価の獲得を創造性とする定義では、特定の創造活動の領域で、その領域の専門家や評価者に認められたときにはじめて創作主体である個人に創造性が認められることになる。」

 

P32-33「天才はここでは一般知能指数が120以上ある天才児と定義される。そして天才を扱ううえで問題なのは創造する者としての性格的特徴であり、英才児が他の仲間との社会的適応に欠けず「全き人としての完成」に教師が配慮するよう述べられている。さらに、英才児は異常児童であっても、原則として普通児との混合学級で教育されるが、自由学習や課外活動において才能を伸ばすことが期待されている。ここでは明確に、天才は子どもの問題として論じられるようになり、社会的評価の獲得とは切り離された「可能態」であっても「知能指数120以上」という個人内特性だけで天才の称号が与えられることになる。そして「傑出」の意味は、他の児童との調和を重んじるような教育的配慮が必要な性格としてネガティブに捉えられるようになる。」

※本書ではこの議論と、「個人にとっての新しさ」をスモールCの定義として混同している。

P42「野口(1999)によれば、社会的構築主義の基本的な主張は、「現実は社会的に構成される」というものである。したがって社会的構築主義パースペクティブは、心理学の領域では既存の個人内の特性、思考、認知等の諸条件から現象の因果的説明をするような理論に対し、その「欺瞞」を暴露するような研究に用いられる。つまり、社会的構築主義の発想は、「解放」の実践性とつながるだけでなく、この研究の目的である創造性を個人内的なものと捉えることから、社会的なものと捉えることへの脱却を図ることにも対応するのである。言い換えれば、社会的構築主義は実践性というメタ理論の次元においても、創造性の理論の次元においても、ここでの研究目的を追求するための理論的道具としては最適なのである。」

イデオロギーの表明であるのは構わないが、その研究が片手間で終わってしまっていることには問題しかないことにもなる。

 

P66「1つはある個人がその個人にとって何か新しさを持った解決に到達すればその行為は創造的であるという観点である。もう1つの立場は、それとは逆に新しさとはその創造的所産が創造的になるためには、歴史的に流動的なその時代のある専門家のグループによって受容されることが必要であるというものである(Amabile,1990)。実際、芸術の領域、あるいは科学的な発見、新製品の開発といったいわゆる「創造的」な領域においては、社会的な「評価」の問題は切り離して考えることはできない。」

P67「さらにこの2人の違いは、創造性の「新しさ」の定義の違いだけでなく、創造性を捉える際に、所産なのか過程なのかといった創造活動のどこに焦点化するのかという研究上の立場の違いにも表れている。

※所産に重きを置くのがラージC、過程に重きを置くのがスモールCだろう。認知心理学の研究の系譜としてこの関連を説明している。前者はマスロー、後者はチクセントミハイ

P68「さらに、個人内に焦点化して創造性を考えた場合に、創造性の大きな特徴である「領域特殊性」の問題は、まったく考慮されない。その点を含め現実社会のなかでの創造的と呼ばれる現象とあまり切断されているこれまでの研究内容から脱却し、天才研究が蓄積してきたような振り出し、つまり創造性の「傑出」の意味に戻って「創造的である」ということはどういうことなのかを考えるために、社会歴史的なアプローチが必要になってきたのである。」

 

P70「「特別才能の創造性」よりも「自己実現の創造性」を重視するということは、すなわち創造性の所産よりも創造性の過程を重視することを意味し、完成された作品や偉大な創造的業績といった立場からではなく、工夫やインスピレーションを強調する立場をとることをマスローは明言する。」

※マスローはこれを「健康な人格」の追求によるものだとする(p70)。

P72「マスローが個人の内部で経験され、宗教的、例的感覚と強く結びついた「至高体験」を重要視した創造性理論を展開したのに対し、チクセントミハイは「最適経験」に理論の基礎を置く。最適経験とは、心理的エントロピーと呼ばれる恐れや脅威による意識の無秩序とは反対の状態であり、注意が自由に個人の目標達成のために投射されている状態である。」

※善に対する考え方の問題だろう。なおかつ、至高体験にこそ社会的なるものへの連接を見出しているという節さえある。

P73チクセントミハイの最適経験の8つの構成要素…「課題に達成の見通しがあること、集中、明瞭な目標、直接的なフィードバック、深いけれど無理のない没入状態での行為、自己統制感、行為中の自己意識の喪失とフロー後の自己感覚の強化。時間経過の感覚の変化。」

※ポイントはフィードバック、つまり他者評価の議論とみる(p73)。

 

P75「このモデルは、創作活動に必要とされる過去に文化として蓄積された知識体の集合であるドメインドメインから知識を獲得し変換する創作主体としての個人、個人の所産が創造的である、あるいは創造的ではないと評価するフィールドは3つのサブシステムから構築されている。ドメインは文化に支えられたサブシステムであり、個人の背景には個人的な生育史が存在する。そして、評価機能を担うフィールドは社会のサブシステムである。

 このサブシステムの間の関係性は、1988年の論文では次のような所産の循環によって表されていた。創作主体である個人は、興味のあるドメインの知識を獲得していき、そのうちにそのドメインでの新しい知識を提案する。そして、その新しい知識が創造的であるかそうでないかは、フィールドで考慮され評価される。もし、個人が提案した新しい知識がそのフィールド受け入れられたならば、新しい知識はドメインに加えられることになる。そして、また別の個人がそのドメインから知識を獲得するときに、その新しく加えられた知識もその領域の知識として獲得していく。創造性は、こういった世代間の循環的な関係が繰り返されていくものとして考えられている。

チクセントミハイによるDIFIモデルの説明だが、概ねジラールの欲望の三角形モデルにおける典型的な「良い模倣」のケースに合致する。

P74「「創造性の領域特殊性」という場合の各領域間の区分の次元は、チクセントミハイは学問の領域区分であっても既存の領域間で結合することで新たな領域を形成する例を出し、何を領域の区分とするかは明らかでないとする。チクセントミハイがこのモデルについて、既存の活動領域の境界を超える領域が増えればさまざまな循環も生じるといった場合の「領域」は、小文字のdomainで表記されており、システムを一巡する「領域」を指示しているので、ドメインからもフィールドからも区分される「領域」を想定する必要がある。」

 

P105-106「教示時における子どもたちの反応や課題終了後の会話から、子どもたち自身は破壊的な表現を「おとなに怒られる」「ふざけた」ものであると考えていることが伺える。子どもたちは、学校文化において教師に「良い物語」と評価される物語を「悪い物語」と評価されるものがあることを理解している。そして、破壊的な表現を用いた物語は「悪い物語」として評価されることを推測している。しかし同時に、資料4.3から破壊的な表現を用いた物語は、男子にとっては「おもしろい」ものと考えられていることがわかる。」

P109「しかし、音楽、美術、小説といった芸術の諸領域では、創造性=問題解決という図式は該当しない。つまり、創造性の特殊領域性を考慮した場合、創造性=問題解決という図式は普遍的に用いることはできないし、物語創作領域のように結末を限定してしまい、創作そのものを規制するようはたらく可能性さえあるのである。」

P109「そのほかにも、創造性=個人内特性という図式の問題点はある。創作した物語が、その子どもの性格特性や心理的な問題の反映として解釈される危険性である。これは、破壊的な物語からそのこの攻撃性が高いとか、何か家庭に問題があるのではないかといったネガティブな憶測を招いてしまう。創造性=個人内特性という図式は、所産=個人の内面の投影といった図式へと安易に転換されてしまう可能性がある。この所産を個人と同一視する解釈は、創作者に対する不当なラベリングへとつながるであろう。」

※この議論は重要である。結局本書が「教育の関係に入る」ことを自明視している点において、ここでの個人と社会の差異が消失してしまいかねない点との関連で。これまマズローにおける善の価値観の内包の話ともリンクしている。

 

P110「ここまでのところでは、子どもたちは「先生」や「おとな」が良いと評価する物語と悪いと評価する物語を推測し、6年生になるとそれを参照しながら創作に反映できるようになると考えられる。」

※この「学校の良い評価を意識しあたかも悪い評価となるような作品を書いた」というのは、「教育の関係に入る」ことを前提にしている。しかし、このような作品を書くのは単に「授業に興味がなく(=教育の関係に入らない)、友人達とふざけ合った結果書かれたもの」以上の何者でもない、という解釈も本来ありえるのではないのか。もっとも、本書における作品描写(p96)や児童の態度描写(p104)を見る限りはこのような層はいないようだが。

P112「第1章の歴史分析で明らかになった創造性の2つの意味、「傑出」と「自己超越性」、言い換えるとラージCとスモールCの意味の間で、創造的であるとはどのようなことを指すと社会的に受け止められているのかを明らかにする。」

※ここで傑出とは、基本的に「社会的名声や社会的評価の獲得」(p30)、そしてこの社会的名声は「事後的承認」であり、事前的研究とは異なると強調する松本金寿(1942)を参照していること(p29)を踏まえれば、ここでいう「社会」について、本書ではその極めて曖昧な定義をそのまま受容していることがわかる。「創造性は生産的か」という議論を行った際に、この曖昧な「社会」観ではラージCとスモールCのどちらが生産的か判断できないのである。これを(ある程度)規定するのは「領域特殊性」を定めるドメイン領域に極めて近い「社会」、すなわちその領域における専門家集団と考えるべきだろう。

 

P128「これらのテクニックが恋愛小説やミステリーといった市場性を持つ物語、言い換えれば「おもしろい」「つまらない」という社会的評価が、読者を得られるかどうかを決定する物語で重要視されることは、容易に理解できる。」

※市場性?

P129「学校での創作活動に対する教育は、こうした読者あるいは鑑賞者の評価に対する配慮という点で、市場性を持った物語領域と切り離されていると考えられる。」

☆p130「第4章では、高学年の児童の創作する物語が、物語の展開がより複雑になる傾向とは関係なく、男子では破壊的な物語へ、女子では道徳的な物語へと志向が分かれていくことを示した。そして課題遂行中に男子生徒が自分の創った物語を見せ合う様子が観察されたため、男子の破壊的表現の使用について、評価のフィールドが教師から仲間集団へと代わったためではないか、と考察した。これは仲間集団では非道徳的な破壊的表現が受容されやすく、おもしろいと思われると考えたためである。しかし調査2の結果から、「対仲間」の物語の評価は「対教師」の物語と差がなく道徳性が重要視されていると人々に考えられていることが示された。

 高学年男子に見られる破壊的表現の使用は、むしろ道徳性を重要視する学校内の物語評価そのものに反発する態度として考えるほうが妥当であろう。資料4.2からわかるように、実際に物語創作する前後の状況で、男子児童が破壊的表現を使用した物語を「ふざけた」ものと認識していて、その「ふざけた」物語を創作してもよいかどうかを複数の男子児童が調査者に確認している様子が観察されていた。つまり、破壊的表現を用いた男子児童は、学校内で評価される物語は「まじめな」物語であるが、「まじめな」という評価基準に反発して「ふざけた」物語を創作したということである。……

 学校独自の評価に対する姿勢のなかに、別の文化の生成の可能性を見い出す議論もある(ウィリス、1996)。しかし、破壊的表現はミステリーや怪奇小説といった社会ですでに認知されている物語ジャンルにおいて不可欠な1つの要素でしかない。」

※調査結果の用い方がおかしい。調査2では大卒の青年・中年層に対して「対教師」「対仲間」での評価を「推測」してもらっているが、これは当の小学生そのものの意見ではない。そもそもこの評価調査では因子分析を行なっているが、この調査項目自体に「教育から離れる(ここでいうと物語評価から離れる)」可能性を考慮した回答項目がないように思える。また、ウィリス批判の態度に関しても、離れる可能性そのものを否定し「創造性」の議論に組み込まれることを所与のものとしているのは違和感がある。

 

P135一般人における「天才児」と「創造的児童」の違い…「天才児は理解に優れこれから学習する内容も先取りしてしまうといった「能力観」で示されるのに対し、創造的児童は積極的に質問する、自発的に学習を進めるといった授業への「態度観」で示される。また天才児は「授業を聞いてなくても良い成績が取れる」といった「成果」で特徴づけられるのに対し、創造的児童は「自分なりの問題を見つける」といった「問題発見」までが特徴とされ、課題解決できるかどうかといった学習成果は問題とされない。」

※類似の指摘として「創造的人物の特徴において、成果があまり重視されていない」とされる(p138)。

P135「天才児が文化資本に富む家庭環境と想定されているのに対し、創造的児童の家庭環境は会話が多く円満である。また、スモールCといわれる日常の小さな問題解決能力に結びつくような生活的知識を獲得しやすい環境である。」

※ここでのスモールCの定義は相当に曖昧である。

P138-139「「傑出」の意味が失われた創造的児童観は、社会のなかで創造的であることから切り離されている。つまり、同じ創造的という言葉で表現される状態が、学校のなかで創造的であることと、社会のなかで創造的であることとの間で、異なるものとして人々が受けとめているのである。学校で創造的であるためには、天才概念が内包していた「普通の人ではないこと、普通とは違うこと」を目指すのではなく、他者と協調的であり自発的な態度で学習活動に参加し、家庭も円満で生活的知識が獲得されていることが必要となる。この結果は、戦後文部省編『教育心理』で打ち出された創造性の意味が、社会的に浸透し貫徹していることを示しているのではないだろうか。

 学校で創造的であることが社会で創造的であることと異なるならば、学校で子どもを創造性に富む人間に育成するという教育目標が、非常に空虚で社会的意義を持たないものとなる。」

※色々な部分で詭弁がある。前提としてここでいう社会が「創造性」を定義するという点がおかしいのではないのかという点、同じ意味で学校と社会で「創造性」の優劣はつけられないという点、更に「傑出」の意味が失われたとする言説はあくまでも「心理学界」のものであり、これまた社会とは異なるという点。ここで最大の問題は「社会」の言葉の意味が持つ多義性を利用して、それを過大評価しようとする態度があるのではと見えてしまう所。ここでいう社会的意義をそのままラージCと捉えてはいけないのではないのか?

 

P140「これらの信念が示しているのは、学校での創造性教育がラージC、言い換えると「社会にとっての新しさ」を目指しているのでもないし、スモールC、「自分にとっての新しさ」を目指しているのでもない、ということである。」

P140「確かに高学年が創作する物語は、その構造が複雑さを増す。その反面、男子のなかであるいは女子のなかで、非常に似通った印象の物語しか創られなくなっていく。これは、オリジナリティという視点からすれば、創造性が低くなったと判断せざるを得ない。」

※これは何による判断か?少なくとも何か客観的に示された指標により本書で立証している訳ではない。物語の傾向を量的に示しているのは「問題解決構造による分類」(p91)のみであるが、これを見るとむしろ学年が経るにつれ、問題解決のタイプは分散しているため、これだけならむしろ多様な傾向があるとさえ読める。著者の主観以上のものを指摘する内容ではない。

P140-141「この社会的信念は、児童に対して社会的信念の内容に準拠した行動をとるか、あるいは反発するかの二者択一の態度形成を促す。そのことによって、準拠する場合の物語パターンをなぞるか、反発する場合の物語パターンをなぞるかしか、創作の手段として選べなくなる。その結果、どちらかのパターンに分類できる似たような物語が多く産出される。」

※これはいわゆるダブルバインドの強要と同じ問題点を抱えており、やはり言い過ぎ。そもそもゲームに参加するかどうかという観点が欠けている。

 

P142「学校のなかで評価される創造性は、学校文化に適応的である範囲においてのみ高いと評価されるのであって、それは市場性を持った創造性とは異なる評価基準を持っているから(※小説家として成功するための経験は学校生活から得られないので)ある。」

※あたかも創造性=市場的価値に収斂させる態度自体に問題がある。本書を通じてこの前提は疑われない。

P142「まとめてしまえば、社会一般の人々は、学校というフィールドでは、市場性を持った創造性、職業に結びつくような創造性、つまりラージCは育成されないと考えているといえるだろう。」

※これも厳密に言えば、因子分析をもとに傾向を指摘しており、因子形成における質問項目形成において「市場性」以外のラージCが存在する可能性をあらかじめ否定していること、及び厳密に言えば「市場性」の必要条件しか示していない因子群でしかなく、「市場性」とこれを表現すべきかは議論すべき。(むしろ「おもしろさ」以上ではない)

P168-169「本章ではさらに創作活動における「平等主義」の徹底という教育実践上の価値が問題となった。しかし、創造性の問題に限定した場合、教師のなかには道徳性の強調に対しても「平等主義」の徹底に対しても、学校内で求め伸長の観点からこうした言説を疑問視しているといえるだろう。不一致群の教師たちのこうした傾向は、何を表していると考えられるのか。」

※しかし、この不一致群とされる教師はマイノリティである。どの程度かの判断は難しいが、思った以上に少ない可能性がある。説明が難しいのは「社会と教師の認識のズレ」がそのままこのような説明に繋がるとは限らないという意味においてである。

P171「また、学業成績との関係と副次的特徴では注目すべき特徴がある。挙げられた数の多いほうから見ていくと、学業成績は良く、本をよく読み知識が豊富で、自発的な学習態度で授業に臨み、親とは良好的な関係である子どもが創造的であるとされている。これは、調査4で明らかになった一般成人が持つ創造的児童のイメージと一致している。つまり、創造的児童とは、学校文化に適応的な子どもを指しているのである。」

 

P175「破壊的な表現を使用し不幸な結末で終わる物語4の評価の場合、教師の66%が意味内容を否定した。そして、さらに否定的評価での一致群では、多くの教師が創作者である子どもに心理的問題があることを推測している。これは「認めてあげる」という姿勢の一貫性が失われているばかりではなく、「行き過ぎたカウンセラー」的態度といえるだろう。」

※ただしこのような解釈者も、一致層中半分以下(41%)である。また、逆に不一致層において「いたずら」を示唆する者が半数近くであることも興味深い傾向。なお、逆の層の回答割合はどちらの場合も4分の1程度。

P178-179「主人公がいない劇を体験することは、みんなが参加する学校行事としては意味があるかもしれない。しかし、そのような実践は、教師には子どもの演劇の素養を見出し励ます機会を、子どもには自分の才能に気づく機会を奪っていると考えられないだろうか。スポーツの例にしても、学芸会の演劇の例にしても、誤った平等主義の考え方が浮かび上がってくる。どの子もすべての領域で平等な成果があげられるわけではない。それは学芸会の特定の役ごとに、希望者全員に対してオーディションを実施するといった機会の平等とは異なるはずである。すべての子どもに対してすべての領域で同じ活動量を保証することが平等主義ではないだろう。「みんなができる」ことを強いられれば、才能のある子どもたちは不利益を被ることにもある。創造性は特殊領域なのである。むしろ、創造的活動のさまざまな領域を体験した後は、その子どもごとに才能が見出せたり興味関心がある特定の領域で、プロフェッショナルへの道筋が見えてくるような経験を積ませることが大事なのではないだろうか。」

P179「むしろ、創造的活動のさまざまな領域を体験した後は、その子どもごとの才能が見出せたり興味関心がある特定の領域で、プロフェッショナルへの道筋が見えてくるような経験を積ませることが大事なのではないだろうか。

 「平等主義」の徹底という教育的価値が創造的伸長と葛藤するということは、「社会的評価の獲得」を創造性とする創造性定義からすれば、当然のことであろう。ここで重要なのは、この2つの価値の間で葛藤を感じる教師は、おそらく創造性を「傑出」の意味で捉えているがゆえに、創造的伸長と「平等主義」の徹底がぶつかると感じているのではないかということである。つまり、不一致群の教師はラージCあるいは「社会にとっての新しさ」を創造性として考えていることが推測されるのである。ラージCの概念には「普通からの傑出」という要素が含まれている。これは「みんな一緒に、みんな平等に」という相対評価を不可能にする実践とは相容れないので葛藤を生じさせる。しかし、スモールCは「その子どもにとっての新しさ」に基準を置く到達度評価によるので、「みんな一緒に、みんな平等に」という実践とは矛盾せずに創造性伸長に取り組めることになる。」

※平等主義と創造性の対比。

 

P180「そうであるならば、子どもがもっと多様な物語が創れるように方向づけるためには、教師が道徳性の強調ではない多様な評価軸を用意する必要がある。その点から考えれば、社会的信念と不一致な評価を行う教師の存在は、子どもの創造性伸長に非常に有益であると考えられる。

 しかし、それでも問題は残る。肯定的評価に関して、つまり何を創造的であるとするのか、何を目指して創造的活動を指導していけば良いのかについて、教師のなかに一貫した言説が存在しないのである。「豊かな〜」というレトリックで創造的児童を表現する教師は多かった。では「豊か」にするには何をすべきなのか。」

※それどころか、本書自体が創造性の望ましさについて放棄しているように見える。

P185「おそらく現代の「危機」は、課題として与えられた場合に創作活動自体を放棄することではなくて、自分独自の創造による創作を放棄することなのではないだろうか。教師やおとなにとって、創作活動自体を放棄するほうが「危機」として捉えやすいし、対処を考える必要性に迫られるであろう。しかし、自分独自の想像による創作の放棄は、「危機」としげ認識することすら難しいし、対処がし難い。このようにわかりにくい「危機」を乗り越えることなどできるのだろうか。」

※この主張は主観的前提である、同一的物語の傾向が強まることによる創造性の喪失を前提にしている。ただ、ここでいう「危機」自体を教育可能性の危機として捉え、それがそのまま「創造性」の危機につながる可能性自体は否定されないように思われる。これはまま「創作活動自体の放棄」の話である。結局この論点の違いは「教育可能性」という論点そのものを放棄する形で展開されており、それこそが本書の問題点である。そしてこのことを社会構築主義的アプローチによって展開しようとしてしまう態度そのものの問題にも繋がる。

P187「不一致群の教師は、学校に内在的な価値を越えたところにあるのが創造性であると想定し、ラージCの観点から創造性を捉えていると考えられる。したがって不一致群の教師は学校内で創造性伸長を図ることの困難さを抱えている。」

※これも一種の飛躍であり、本書で定義された不一致群の教師が皆この態度を取っているとは必ずしも言えない。調査結果における不一致の解釈が多義的でありえるからである。本書ではそれを一元的解釈に還元してしまっている。それは、この意味における不一致群の割合がどれだけか、という問いへの解答の難しさと一致する。

 

P188「スモールCの創造性理論は所産、成果といった観点は抜け落ちている。したがって、「態度」で表される一般成人の創造的児童観は、スモールCを強調してきた創造性研究と親和性を持つのだろう。」

※しかし、そもそも学校空間でラージCの取り組みが可能なのかは本書の議論で蚊帳の外ではなかろうか?それはある意味で一般的な教育空間内での教育そのものを否定することになりはしないか??ここでも「学校」「社会」そして「学問(発達心理学)」の諸フィールドの特性を考慮に入れないまま、むしろそれを混同し議論してしまっている弊害はないか。ここには無責任な「個の尊重」と同じ学校現場の実態無視の態度が見受けられる。

P203「創造性において重要なのは、評価なのである。実際に子どもたちが職業的専門家から、専門的な評価基準によって評価される経験が重要なのである。専門的な評価基準は、学校に創造性の多様な評価基準を持ち込み、教師の子どもに対する評価そのものを揺るがすことになる。おそらく、職業的専門家は、教師が「〜が豊かである」というレトリックで創造性の高さを指摘した子どもではない子どもに創造性の高さを見出すことも多いだろう。その専門家の介入によって、学校での評価が多様になることは、ピグマリオン効果がより多様な評価基準に沿って生じることも期待できる。少なくとも、演劇の専門家の指導ならびに評価であれば、子どもの出演機会が均等になることを最優先とし、演劇そのものの構造を破壊するような実践が行われることはないだろう。

 地域と連結して進める総合学習の形態は、「傑出」の意味やラージCの創造性につなげるような創造性教育の実施には好都合であると考えられる。地域に在住する、ある特定の領域で社会的に評価された専門家とのコーディネートを担当する職員を、担任を持たない教員や市区町村の行政機関のなかで設ければ、すべての教員が総合学習の準備に負担を背負うことはなくなり、それにともなう経費も減少するはずである。総合学習で取り上げる領域もセミプロも含めて多様なものにすれば、専門家1人あたりの学校教育に割く時間もそれほど多くはならない。地域在住の専門家には、ボランティアの一貫として学校教育に取り組んでもらうことを要請すれば、高額の謝礼を必要とすることはない。」

※これについても正課内でやるべきものか、正課外でやるべきものとかという論点はあってよいように思える。また、ボランティア論についても、「補習」の性質を持つ教育ボランティアならともかく、「専門性」との関連では報酬の問題を軽視していいのかという論点が気になる。

 

P206「⑤の批判にある教職の専門性ということについては同調できない。確かに、基礎学力に関する教科の教授や、生活指導の面で教師の専門性は見出されるし、保護しなければいけないのかもしれない。しかし、調査で明らかになったように、創造性教育において教師が「何を創造性であるとするのか」という創造性に、創造性教育において教師が「何を創造的であるとするのか」という創造性の評価基準は曖昧なものであり、そこに専門性があるとは考えにくい。また、さらに佐藤(※学)は教師たちが専門家として自律性と見識を形成し合うために、同僚性を構築することを提案している。この点については疑問が残る。調査5での回答のように、不一致群の教師は、一致群の教師に対して自分が「浮いている」あるいは一致群の教師に対して「嫌い」であると感じている。おそらく、道徳性以外の評価基準を形成する可能性があるのは、不一致群の教師たちである。しかし、同僚性の構築は、不一致群の教師も一致群の教師もひとまとめにし、共通の言説を支持するよう機能するだろう。そしてそれは、社会の言説と一致する方向で機能すると予測できる。なぜなら、学校で道徳性が重視されることを間違っているとは、誰も否定できない。道徳性が創造性の単一の評価内容を形成していることは問題として指摘できるが、道徳性が教育現場で価値を持つことを否定することはどの教師もできないのである。」

※繰り返すが、本書自体が創造性を定義する努力を怠っている。また、既存の学校の枠組みを前提にしては創造性に問題が出てくるのをほとんど回避できないとする前提に立つ以上、ネオリベ支持の態度を本書は基本とる。しかし水掛け論以上の論点は本書で提出されているという評価はできない。なお、創造性の定義の欠落について、危機との関連から「ドメインに焦点化した研究から意味づけをされなければ、本当に説明したことにならない」と、一定の注釈は加えている(p207)。