ベンジャミン・C・デューク「ジャパニーズ・スクール」(1986)

今回は、日本人論を意識している「外国人研究者から見た日本の教育」に関する著書を取り上げる。

 

〇「頑張り主義」と「競争」は両立するのか?

 まずもって本書において気になるのは、日本の教育において共有されていた「精神論」に対してかなり肯定的にとらえられ、アメリカの教育に取り入れなければならないという見方をしている点である(p30)。このような見方はむしろ日本では否定的にとらえられることが多いので違和感に近い印象を受けた。これまで私が読んできた言説の中で精神論的であることこそ、能力発揮において非効率であるということが繰り返し言われてきたからであろうと思う。

 また、この「精神論」は学校だけに限らず、あらゆる場所において子どもに影響を与えており、その原点を家庭に見出している(p272,p278)。本書は全体的にこのような「日本的特徴」というのは、日本の教育全体にわたり当然のごとく機能しているものとして考えているようだが、これは実証的な意味で正しいかどうかは疑問がある。例えば、これに関連して、本書では日本の集団主義的立ち振る舞い(役割)を学習する場として「班」を捉えているといえる(cf.p168)。しかし、実際のところはここまで型にはまった役割獲得を行っているとは言い難い。このような実践の典型であった全生研においては、実践に関する著書も多く出版しているが、そのような文献にあたっても、ここまでまともに「役割取得」に貢献するものとして班を捉えているものを探すことは難しいだろう。デュークのこのような議論においては、日本人論としてありがちな「理念」を「実態がそれ同様に機能している」と混同するバイアスがかかっているように思えてならない。

 

 他方で、本書では日本が丸暗記主義であり、創造性・個性を育てない教育を行っていることを批判している(p79,p92-93)。私がここで問題にしたいのは、このことと「精神論」の議論との関連性である。学歴に対する信仰と、結果として学歴獲得のための競争の必要性、それに伴う競争へ寄与する学力への偏りというのは、基本的に循環的な関連性を持っており、単純に「頑張り主義」と「丸暗記主義」は分断できないのではないのか、という点である。

 この分断可能性に対する回答としてこれまでも日本の受験競争批判でも繰り返されたのが、丸暗記主義の試験の改善であった。競争的試験は何も〇×クイズだけで行えるものではない。創造力を評価するような試験問題を作成することは可能であり、そのような試験内容に改めていくべきである、という議論は改善をめぐる議論の主たるものだったといえよう。

 ただ、この議論自体は本来極めてテクニカルな論点を抱えており、私の考察の能力を超えた所で議論せねばならないものである。一つ確実に言えるのは、日本の試験制度批判とその改善をめぐる言説において、基本的にこの議論をテクニカルに論じたものは極めてすくないか、影響力を持った言説の中では議論されていないであろうという点である。例えば一般論として日本の大学入試試験(共通一次センター試験)とSATなどのアメリカの試験を比べれば、SATは「創造的」な学力を問うていることが自明視されている。しかし、実際にいかなる意味でそう評価できるのか、実証的な視点から考察した議論というのは、少なくとも一般には流通していないように思う。より具体的に教科学習をめぐる議論を行っている研究の場であれば、この点についてこの論点についてとらえているものもあるかもしれないが、この確認作業については今後の課題としたい。

 

 また、仮にこの関係性がやはり循環的であるのだとすると、本書のような相対主義的な態度の取り方が適切なのかという問題も出てくるだろう。単純な見方をしてしまえば、デューク的な見方をもって「改善要求」を行ったのがネオリベ的教育政策であるのに対し、これまでレビューした藤田英典苅谷剛彦といった教育社会学者は、むしろこれまでの日本の仕組みを崩すことこそ更なる問題を生みかねないと危惧する立場にあったのである。本書は日本の丸暗記主義を批判する一方、臨教審の教育改革を視野にいれつつ、p79のような批判も合わせて行っている点で教育社会学的な議論に近い態度も行っている。

しかし、デューク的な改善言説で問題となるのは、「基準点」が定まっていないことである。つまり欧米が「どこまで」日本に学び、日本が「どこまで」欧米に学べばいいのか具体性がないという点が問題になるのである。まずもって、このような二重批判は、土居健郎のレビューで批判の対象とした「ダブル・バインド」そのものであり、この曖昧な語りによって、具体的な改善言説そのものも批判されかねない。より正確に言えば、土居がそうであったように、改善要求そのものを放棄していることにしかならない、と言うべきであろう。このようなダブル・バインドの問題を回避するためにも、この改善要求の議論というのは先述の「何が創造的なのか」という議論と合わせて、具体的なレベルで考察しなければならない論点なのである。

 

〇大学教育への批判の強さについて

 本書は基本的に日本の教育を過度に評価している傾向もあるが、他方で大学教育については「学ぶべきものがない」としている点(p109)は注目すべきである。エズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(訳書1979)においても、基本的に日本礼賛をしている内容であるものの(※1)、数少ない例外として大学教育批判を挙げることができるだろう。

 

「日本の教育にも問題がないわけではない。大学は卒業資格を与えるが、学生の教育に身に入れる教授の数はあまり多くなく、学生の勉強ぶりも、大学受験前に比べるとずっと落ちるし、授業中の問題の掘り下げ方も甘く、普段は出席率も悪い。学生一人当たりの大学側の支出は不当に低く、研究室の悪い大学も多く、研究水準にも、その広がりにもばらつきが目立つ。日本の学生の書く論文は独創的なひらめきを示すよりも、どちらかといえば、数えられたことに忠実なものが多い。高校への入試があまりにも熾烈なために、学生の自由な思考は妨げられ、課外活動は限られ、社会性は身につかず、受験に失敗した場合には、精神的に落ち込む者もいる。

 アメリカ人は、日本の教育のこうした悪い面を取り入れる必要はない。しかし、日本人の学ぶことへの意欲、九年間にわたる平均して質の高い義務教育、教育テレビの広範囲な利用といった点では、学ぶべきことが大いにあると思う。」(ヴォーゲル訳書1979、p193-194)

 

 

 ヴォーゲルの批判と本書の批判の共通点の一つは、p112にあるように「大学生が勉強していない」点にある。今後取り上げる予定の西尾幹二も日本の教育について大きく変えるべきは、「大学」であると考え、初等・中等教育段階については、むしろ大学の教育の影響を強く受けるため、副次的なものとして捉えていた。ここではひとまず日本の教育が評価されている著書においても、大学教育について取り上げられれば終始批判が繰り返されていたことを押さえておきたい。

 

 

〇「面の平等」に対する考え方について

 苅谷剛彦のレビューの中で、苅谷が提起した「面の平等」という日本的思想・制度的枠組というのは、それ自体教育改革の対象として重視されてもよいのではないのか、という問題提起を行った。本書ではこの「面の平等」の一側面である「学級」や「班」という考え方について検討の対象とされている。

P164-165に指摘されるような形で日本とアメリカの教育は対比されており、なおかつ日本の班・学級活動の形態が「個々の児童の個性と創造性を抑えこんでしまう可能性」について本書でも否定的ではない(p175)。本書の立場から言えば、個性・創造性に寄与する教育を日本はもっと行うべきであることが基本的態度であることも踏まえれば、このような学級・班のあり方自体にメスを入れるべきであるという議論も、教育改革の議論としてあってよいように思える。

しかし、一方で本書の態度としては、p325にあるように「このような集団主義的実践の習慣は伝統であるから変えたがらない」と「意識的」に否定するだろうという推測を行っているが、この点は支持し難い。

これもまた今後の考察課題となる点だが、管見の限りでは、90年代から00年代にかけての日本の教育改革の議論において、このことを主眼においていた論調は、ほとんどなかったように思われることこそその根拠である。苅谷が面の平等を「意図せざる効果」として形成され、そしてその形態が教育改革をもってなお維持し続けているとみているように、このような日本的特徴は「改善」の対象として意識化されていないことこそ問われるべき論点ではなかろうかと思う。

 

※1 本書に関連した論点でいえば、デュークの指摘していた「創造性」に関する議論も、ヴォーゲルの場合、「個人の創造力」という形で限定的に解釈し批判するにとどまり、集団的な創造性というものはむしろ優れていることを前提にした議論をしている点なども、その一例だろう(cf.ヴォーゲル訳書1979、p276)。

 

 

<読書ノート>

P8「日本の画一的な教育のなかでは、ある特定年齢層の児童の一人ひとりが、日本中で一斉に、ある同じ日にまったく同じ学課をほとんど同じやり方で学んでいる。それと気づけば、いささか空恐ろしい思いがする。その結果、日本の児童は、それぞれが属している小さな集団、もしくは、日本という大きな集団について、みんな一様に、自分たちに特有な、ときには排他的な考え方を身につけて育ってくるのである。もっと広い世界的視野に立つ利益となると、なるほど口先では説いているものの、その実、人類という集団に欠かせない基本的な〝われわれ〟意識については、事実上ないがしろにされている。」

P9「ところが日本の教育制度は、世界の知的生活に積極的に参加できる日本人を、ほとんど生み出してはいない。実情に通じている者ならまず異口同音に、過去四十年間、日本の外国語教育は少しも改善を見なかった分野だと認めることだろう。これは、日本の最大の教育的欠陥を象徴するものといってもよく、きわめて深刻な経済的政治的危険をはらんでいる。」

ライシャワーの序文。

 

P30「日本人は、自分たちが世界の序列において、どのような歴史的な位置づけにあるかを、きわめて現実的に値ぶみし、その結果、なによりも頑張りが必要だ、という考え方が日本の学校を風靡する風潮となった。世界に後れをとっているという立場を逆手に取り、日本の学校は、なんとしても世界に追いつかねば、という切迫感を生徒たちに植えつけてきた。

そういう鼓舞激励こそ、われわれアメリカ人がいま必要とするものなのである。わが国の生徒全体に、切迫感を行き渡らせる必要がある。余裕たっぷり先頭を切っているという自己満足に溺れるのではなく、激しく追跡するという意欲を起こさせなければならない。」

※正しい自己認識をしていた方が正しいかのような言い方。

P31「米国が日本の歴史に学ぶ教訓とは、自己満足に代えて、決意と頑張りを発揮することである。」

 

P48-49「アメリカの学校では、たとえば、生徒たちに毎日午後の下校前、教室や廊下の床を清掃させることは珍しい。アメリカの児童はふつう、ただ机の周りの紙屑を拾ったり、机と椅子を整頓するだけですむ。日本の学校では、長い一日の授業の終わりに、四つんばいになって床を拭き掃除するものが、昔からのしきたりである。それには、校内を清潔に保つという目的のほかに、教育的な狙いもある。同時にまた、用務員の人件費の節約にもつながっている。」

P52「この教師の率直な意見が物語るのは、米国各地のかなり典型的な地域社会で、土地の住民の大半とは言わぬまでも、多くの市民が、学校の学習水準にはそれほどの関心を持ってはいない、という事実である。なるほど、アメリカのどこの社会にも、この問題を強く懸念している人たちがいることはいる。しかし、たいていの者は、読み書きや計算の学力のことよりも、おそらく、規律の乱れとか、麻薬の常用とか、アルコール中毒といった問題のほうを心配している。」

P54「こういう状況は、ふつうなら、日本の大都市地域で生徒非行のもってこいの温床になるはずである。ところが、麻薬、アルコール、性的不品行などが招く生徒の規律の乱れは。アメリカ都市部の多くの学校に比べれば、依然として非常に少ない。校内暴力に関するかぎり、日本人は、明らかにアメリカ人とは別の部類に属する。その点では、さいわいなことに、アメリカ人とは大違いである。

 にもかかわらず、日本の国民は、中学校で起こる非行問題に強い懸念を抱いている。言いかえれば、アメリカの学校に比べるなら取るに足らない状況でありながら、日本の社会は、生徒の無軌道行為が手に負えないものとならぬうちに、力を合わせて未然に手を打とうと決意している。これもまた、学校に対する社会の期待度が高いためである。」

 

P55「アメリカでは、生徒の無軌道行為を大目に見る学校が、あまりにも多すぎる。もし日本でそういうことがあれば、地方行政当局はたちまち責任を取らされるだろうし、中央政府も、糾弾の失面に立たされよう。

 一例をあげると、『わが国学校の無秩序』と題したアメリカ政府報告書によれば、近年アメリカでは、毎月、二八万二〇〇〇人の生徒が学校構内で身体的危害を被っているという。また、月に一〇〇〇人の教師が校内で襲われ、治療を要するほどの傷を負った。身の危険を感じた教師の数は、一二万五〇〇〇人に及ぶ。

 これに対し、日本の警察庁の報告によると、日本の学校で起きた校内暴力事件は、年間二一二五件で、そのうち教師に対する暴行事件は、半数に満たない。日本の校内暴力は、高校入試の受験勉強の厳しさを反映して、事件の九五・七パーセントまで中学校で起きている。」

P56-58「全米の大都市で、多数の学校が深刻な問題に直面している。たとえば、八三年にボストン地区の地方教育委員会が多数の高校を対象に実施した調査によると、教師の半数と四〇パーセント近い生徒が、一年の間になんらかの犯罪の犠牲となっている。ひとつの驚くべき新事実は、一〇人のうち三人の生徒が、学校に凶器を持ち込むと答えたことである。また、一〇人に四人の生徒は、校内でたぼたび身の危険を感じると答え、トイレや特定の廊下には、できるだけ立ち入らないことにしている。

 ニューヨーク地区の高校では、新学期が始まってわずか四ヵ月の間に、生徒から一〇〇〇個の凶器を没収したが、そのなかにはピストル七六丁が含まれていた。フィラデルフィアでは、校長から届け出のあった深刻な校内事件が、年間二四四九件に及んだが、うち三四八件は凶器所持にからむ事件だった。

 首都ワシントン近郊のプリンスジョージ郡の場合も、凶器の隠匿所持と麻薬の受け渡しにかかわった生徒を退学処分に付すことにしたところ、八四年から八五年にかけての学年度に一九六人が退学させられたが、うち一四三人は、銃器を含む凶器を隠し持ったためだった。こういう事態は、日本の校長にはおよそ想像もつかないことである。

 校長を対象にした調査によると、生徒の常習的欠席も、アメリカの学校の大問題である。大都市の学校では、日常の欠席率一五パーセントというのが珍しいことではなく、フィラデルフィアの欠席者数は、日に三万七〇〇〇人に上る。その数はシカゴで七万一〇〇〇人、ロサンゼルスで一〇万人、ニューヨークにいたっては一五万人に達している。これに比べ、東京、大阪、名古屋といった日本の大都市の生徒欠席数は微々たるものだが、それでも次第に関心を集めている。

 何回となくアメリカの高校を訪問するたびに、筆者は、学校に常勤常駐する警官が廊下を〝パトロール〟する姿を見かけた。ある学校では、二階の廊下で起きた襲撃事件をめぐる懲戒について、警官が副校長に〝証言〟しているのを小耳にはさんだ。〝学校警官〟は誰もがピストルをこれ見よがしにぶらさげていた。

 デトロイト市は、学校暴力事件の対応策として、五人一組の警官、数チームを事件続発の高校に派遣し、携帯用金属探知機を用いて、生徒が隠し持つ凶器をチェックした。その結果、凶器所持の疑いある生徒六〇〇人のうち三五人を逮捕し、一二の凶器を押収した。皮肉にも予算的な理由から、市は学校警備の警官数を、なんと二二八人から七〇人に減員した。すると、翌年には一二〇人の生徒が撃たれ、生徒から銃器六〇丁を押収する羽目となった。学校の無軌道問題に関しては、日本人はまことに〝うぶで無邪気(※babe in the woods)〟なのである。」

 

P58「日米を比較するため警視庁の報告を引用すると、日本では、一年間に高校生一三八人、中学生六七人が薬物使用で補導された。アメリカの同種の統計はいま手元にないが、薬物使用のかどで一年間に逮捕される中高校生の数は、大都市ひとつの例を取っても、日本全体の数倍に上ると推定して差し支えない。たとえば、『USニュース・アンド・ワールドリポート』(八三年一一月七日号)の報道によると、「年齢十二歳から十七歳までの若者のうち、推定二〇パーセントは不法薬物を常用している」という。」

P66「日本人は、挑戦することに生きがいを感じ、競争することで富み栄えている。挑戦されれば、敢然と受けて立つ。些細な事柄にも、挑戦の対象を見つけることができる。挑戦を受ければ、意欲を奮い立たせる。そういう国民で成り立つ国、先祖伝来の遺産を誇りとし、祖先が成し遂げた成果に誇りを持つ国は、逆境を挑戦に転じることにかけて、巧みな才能を身につけている。「追いつく」という目標を持つことで挑戦の意欲を奮い立たせ、「挑戦する」ことで、国を挙げての絶えざる前進と向上を続けてきた。

 われわれアメリカ人は、手強い競争者を相手にしている。なにしろ、競争を生きがいとし、先頭走者に追いすがろうと挑戦することで成功している相手である。日本人は、「追う者は、追われる者まさる」という古い警句を金科玉条として、大いに利を得てきた。競争場裡に身を投じたうえは、一心不乱である。妥協や手加減は一切ない。乗るかそるか、いちかばちかなのである。戦後の挑戦は、何よりもまず、産業競争として今日にいたった。その競争は、日本の社会に再生の活力を吹きこんできた。」

 

P74「日本の学校が授業上のなんらかの改革をもくろむなら、どんな方向を目指すにせよ、まず教師ひとり当たりの担任生徒数を大幅に引き下げないかぎり、成果は期待できない。そういう特異な意味で、日本はまず、学校規模について、アメリカとの数字の差に学ぶ必要がある。」

P76「しかし、あとの章でくわしく指摘するように、日本の授業は、生徒の創造性、革新性、独創性のひらめきを探り当てようとする努力に欠けている例が、あまりにも多い。日本の教師には、お膳立てした授業の枠からはみ出しかねない生徒の創造的な受け答え、想像力豊かな思考、独創的な発想をあえて認め、それを刺戟し奨励しようとする者が、あまりにも少なすぎる。

 生徒の間に創造性を培いたいと真剣な関心を示す教師は、決して少なくない。にもかかわらず、不幸なことに、そういう努力をしたくても、時間も機会もあまりに乏しいのである。もっぱら受験準備を目当てに、ぎっしり詰まった日常の授業計画に追われ、多数の生徒ではちきれそうな教室のなかでは、生徒の創造性や個性を伸ばしてやろうにも、教師の限りあるエネルギーを注ぎこむわけにはいかない、という単純なことに尽きる。

 日本の教師は、教え込むことと教え育てる(※instruction,education)ことの違いについて、もっとはっきりと認識する必要がある。教え込むとは、知識を植えつけることを意味する。教え育てる、つまり教育とは、単に知識を植えつけるだけにとどまらない。よくいわれる自主的な思考の育成、人格の陶冶、個性の形成といったものは、いずれも、きわめてとらえどころのない概念には違いないが、教育の本当の意味と切っても切れない一体のものである。」

 

P78「その点で決して思い違いをしてはならないのは、教職というものは、求められるところのきわめて大きい専門職だということである。どこの国であれ、ごく限られた少数者だけが、よくその任に耐え得るのである。」

P79「日本としては、折角の系統立った授業法をみすみす非系統化してしまうような〝改革〟に、手をつけるべきではない。そういうことをすれば、ごく普通の教える力しか備えていない平均的な教師には、卒業生の一人ひとりに必要な基礎学力水準を維持することができなくなり、先端技術時代に実りある生活を送るのに欠かせない、基本的要請に応えることも不可能となる。

 しかし、と同時に、日本の授業があまりにも丸暗記とテストばかりを重視し、生徒個人の創造性と感受性と想像力を抑えつけてしまいかねない点については、ほどほどに改める必要がある。これは、どこの国にとっても、はっきりと焦点を絞りこめずにいる微妙な問題である。しかし、日本はいまだかつて、この問題に本腰を入れて取り組んだことがない。」

 

P87「アメリカの教師が、明々白々な事実として認めているのは、読みの最下位グループに属する児童は、まだクラスの平均水準についていけるほど成熟していないということ、したがって、そういう児童には無理強いをすべきではない、という考え方である。成熟度が遅れている者に対しては、それなりに気を配る必要がある。したがって、生徒の間にある自然な個人差を、そのまま認めるわけである。」

※「日本人は、現代心理学の原理に基づくこうした考え方を頭から無視している。」(p87)

P90-91「アメリカでは、まずどんな地域社会でも、各学校に生徒の学習上の個別の相談、個別指導を担当する複数のカウンセラーを配置するのが当然のこととされ、またそのために、かなりの経費をかけている。これらのカウンセラーは、クラスの授業は担任しないことが多く、正規の授業を受け持つにしても、その分担はごく限られている。

 だからと言って、日本でも専門の訓練を受けた常勤のカウンセラーをひとりかふたり、すべての中学校と高校に配置すべきだ、と求めるわけではない。そういうことよりも、日本人がアメリカの取り組みに学ぶべきこととは、生徒の個別指導の基調をなしている基本理念についてなのである。

 その基本原則のひとつは、民主主義社会においては、勉強のできない生徒といえども、学校で何か価値あることを学ぶ権利を持っている、という考え方である。したがって、学校が本来持つ力の一部をさき、勉強のできない生徒に特別の指導を施し、生徒が学校と社会のなかで自分の居場所を見つけ出せるようにしてやることは、学校として、当然負うべき責任なのである。しかし、日本でこれまで当たりまえのようになっている多人数学級がそのままでは、こういう学校の責任を果たすことはきわめて困難などころか、ほとんど不可能に近い。」

 

P92-93「もっとも、日本がそのような事態(※高い学力水準目標できなくなること)を招くことがあろうとは思いもよらぬことで、その点は、まことにうらやましいかぎりである。しかし、それと正反対のことは、すでに現実のものとなっている。つまりは、高い学力水準を重視するあまり、個々の生徒の特性と個性を育て上げるという関心が、おろそかになっているのである。

 この問題全体の核心は、日本の教育の隅ずみまで影響を及ぼしている試験の役割と、関係するところが大きい。教育というものを、受験準備を唯一の目的として考えるかぎり、学級担任の教師が勉強のできない生徒を相手に、必要な個人指導をすることなど不可能である。」

P98-99「日本の高校は一種の混合型で、圧倒的多数を占める一般生徒に対しても、ヨーロッパの専門課程高校と同じような、少数秀才向けのカリキュラムを課している。その点で、さまざまな生徒の多様な必要に対応しようとしているアメリカの高校と比べると、日本の高校の実情は、柔軟性と多様性に欠けるところが大きい。……

 しかし、それには必然的な代償が伴っている。この高校制度のなかで、成績のあまりよくない生徒に、大きな心理的負担を負わせてきたという代償がこれである。一律に強制する現在の学習水準を和らげ、勉強があまりできない生徒に対応する、もっと多様なカリキュラムを用意しないかぎり、たとえアメリカのような事態を招くことはないにしてみ、いま一部の問題校に見られるような、校内規律の乱れが確実に増加することだろう。アメリカとはまったく裏腹に、要するに日本人は、勉強のできない生徒に対し、あまりにも多くの要求を課しているのである。それでは、反動が起こるのも避けがたい。

 日本の高校は、何よりもまず、教科課程をもっと大幅に多様化する必要がある。とくに数学の場合、秀才向きのコースと、それほど頭が切れない生徒に適したコースとは、分けることが大切である。

 秀才に対しては、もっと〝創造的数学〟に重きを置くべきである。つまり、特異な状況なり条件に対して、数学を応用するという学習である。あるいは、構想豊かな思考を文章で表現できるような〝創造的文章力〟を学習させるべきである。

 しかし、もっと大切なことは、あまり勉強ができない生徒にも必修として課している、きわめて抽象的な数学問題を、大幅に削減することである。そういう問題よりも、日常生活上の必要性を基準にした、もっと簡単な問題を数学カリキュラムの基本にすべきである。成績が上がらない生徒には、その必要に見合う特別コースを設け、高校卒業に最低限これだけは必要というカリキュラムを組むべきである。この改革もまた、多年の懸念でありながら、いまだに手つかずでしかない。」

※結局内容削減の議論になる。

 

P101「いまや、勤勉な日本の教師と生徒を、週末に学校から解放する時が来ている。学校の週休二日制実施は、現在の詰め込み教育偏重の風潮に政府が真剣な関心を持っていることを示す、ひとつの証拠となるだろう。」

P103-104「日本の学校で、試験に備え学習データ懸命な丸暗記を必要としていることは、高校と大学の入試であれ、あるいが学校の期末テストであれ、日本の試験が何目的としているかを示すものである。日本の試験の第一義的な目的は、生徒が莫大な量の知識の暗記力を備えているか否かをテストすることにあるようだ。そのような状況の下では、受験準備に執着するあまり、練習問題と反復学習と模擬テストの偏重を招き、予備校がはびこるのは避けがたい結果である。……

 試験の改革は、アメリカの大学進学適性試験(SAT)に見るように、単なる丸暗記力を試すのではなく、批判的、分析的思考力のテストに狙いを絞り、出題内容を改めることで実現できるだろう。そのためには、試験問題の大半とは言わぬまでも、かなりの部分について出題方針を見直し、単に事実の成否を問うような設問を避ける必要がある。

 むしろ、試験問題の中心部分は、数学と科学も含めて、それぞれの教科ごとに文章形式の設問で構成し、受験生の理解力を問うようなものにすべきである。受験生の論理的な思考力、結論を引き出す能力、推理力、分析力を試す解釈的、分析的な設問は、教科別のテストで文章形式の出題を基本にすれば、作成可能であろう。」

※既存の試験問題についての分析はないが…

 

P109「率直に言って、アメリカ人には、日本の大学に学ぶところがほとんどない。その代わり、日本人には、アメリカの大学に学ぶべきものが多々ある。したがって、日本はアメリカから何を学び得るかというテーマを扱うこの章こそ、大学問題を取り上げるにふさわしい。」

P112「日本の大学は、大改革を必要とする切実な問題を抱えている。何よりも残念なのは、そこに集まった学生が、きわめて学習水準の高い高校で、すぐれた成績を収めた者のなかから選り抜かれた学生だということである。なるほど、その大多数は、とくに入学前の一年かそこら、高校なり、予備校なりで試験準備に追いまくられた〝受験生〟として、文字どおり心身をすり減らしてしまったに違いない。だが、大学の数年間をろくに勉強もせず、漫然と過ごすことは、潜在的自己啓発能力のおびただしい浪費と言わざるを得ない。

 大学が、現実にそういう浪費の場と化していることは、否定のしようがない。」

P115「日本の教室もまた、この新しい役割に対応すべきである。生徒に対し、日本人として、世界秩序のなかで日本が果たすべき新しい役割を認識する必要である、と教えなければならない。単に他国の後に従うのではなく、リーダーらしく、開発者らしく、革新者らしく行動する必要があることを、教えなければならない。それはつまり、教室の授業も、もっと広い視野に立つ必要があることを意味する。

 日本人は、世の中の出来ごとに対し、もっと国際的な視野から考えなければならない。あらゆる分野にわたって、新しい独創的な発想を生むのは、日本人であるべきなのだ。次代を担う世代に対し、リーダーとしての信念を植えつける必要がある。

 同時にまた、リーダーがとかく独善的な自己満足に陥りがちなことを考えれば、リーダーにとって、歴史を学ぶことがいかに大切であるかを知らせなければならない。西側諸国をリードする米国が陥ったような自己満足は、なんとしても避けなければならない。」

※これはいかにもアメリカらしい発想ともいえるか。

 

P152-153「このことは、われわれアメリカ人が日本人にそっくり見習って、工場はもとより、学校制度までつくり変えるべきだ、ということを意味しているわけでは決してない。そんなことをすれば、いたずらに方向を踏み違え、不毛な結果になるのがオチだろう。日本学校そのものが、日本の社会的文化的な類型、何世紀も昔から続いてきた習慣と伝統を反映したものだからである。」

※日本人論と一体化した学校制度。

P164-165「一年生のときから始まって、ずっと続く組意識は、明らかに、その仲間うちに「われわれと彼ら」という強い感情を育てることになる。彼ら、つまりよそ者とは、ほかでもない、そのグループの部外者を指す。日本の子供たちは、遊んでいるときも「グループ外」の者と仲間うちとを区別するために、よく「仲間はずれ」という独特の言い回しをする。……

 日本の小学校の教室、つまり、組という組織の閉鎖的な性格は、アメリカのさまざまな地域社会に見られる一連の教育概念とは、すこぶる対照的である。アメリカの教育といえばすぐ頭に浮かぶものに、オープンクラスルームとか、壁のない教室、無学年制のクラス、あるいはチームティーチングなどがある。

 こういうアメリカ教育界の新制度は、どれも日本の教育とはなじまない。これらの二つの、まったく対極的な考え方は、ともに、それぞれ長所と短所を抱える日本社会の閉鎖性と、アメリカ社会の開放性を反映している。それだけでなく、両国産業の国際競争にも重要な役割を演じている。」

 

P167「たとえば、アメリカの小学校のたいていの教師は、自分の受け持ちクラスの二〇人から三〇人の生徒を、それぞれの読みの能力に応じて、幾つかのグループに振り分ける。そのうえで、教師は授業中、各グループの間を巡回しながら、できるだけ個人的に指示を与えるように努め、生徒がつかえずに読めるようになるにつれ、ひとつのグループから他のグループへと、配属替えをするのがふつうである。

 ところが、日本の教師は、読み方の授業で、四〇人なら四〇人の生徒全員に、同じ教科書を使わせ、全クラス同時に、同じ課を教える。」

P168「アメリカの小学校教師も、クラスを小グループに分けることはよくある。だが、そのグループ編成が、日本の班組織のように長続きすることはまれでしかない。通常、アメリカの小グループ分けは、前述したように、生徒の能力別に応じた読み方グループであるとか、社会科の研究課題に取り組む短期的な共同研究グループといったものである。これに対し日本の班は、明確な構成を持ち、かなり長期間にわたって、生徒の広範な活動分野にかかわる。

 各藩の活動は、まず、班長の選挙から始まる。リーダーの選出には、班のメンバー全員が平等の資格で参加する。やはり選挙で選ばれる組の学級委員はもちろんのこと、この班長はなかなかユニークなポストを占めていて、日本式リーダーシップの微妙なところを身につけなければならない。そういうリーダーシップは、多かれ少なかれ教師から教わるものだが、家庭内で補強されることも、ままある。

 リーダーとして選ばれたとはいっても、あまり出しゃばらない形で仲間をリードするよう、あらゆる努力を重ねる必要があることを、その子は早い時期に学ぶ。謙遜の美徳が尊重されるのが、日本社会だからである。また、リーダーになるとじきに、グループのなかであまり目立ちすぎてはならないことを知る。日本のことわざに言うとおり、「出る杭は打たれる」からである。」

※少なくとも全生研的は班長像とはあまりにかけ離れている。

 

P175「仲間のグループの影響というのは、どんな社会にあっても、若者の間には共通に見られる著しい特徴である。だが、日本の学校では、それはかなりの程度まで、班とクラスの影響という形をとる。それは好ましい感化を与えることもあれば、逆に、よからぬ影響を及ぼすこともある。日本の学校のクラスについて、あまり芳しくないとする内外の批判もある。クラスが個々の児童の個性と創造性を抑えこんでしまう可能性があるというのである。創造性にしろ個性にしろ、容易に測りがたい、とりとめのないものではある。しかし、あらゆる面から観察してみると、この非難もあながち否定できない。……

 しかし、仲間グループが児童の教育に大きな影響を与えるのは、欧米社会も変わらない。このことは記憶されてしかるべきである。ただ、日本の場合、仲間グループの影響は、部分的には組という形で教室のなかに組みこまれている。そのため児童は、アメリカの場合よりも一層じかに教師の影響を受けるようになる。」

P184-185「部でその名を高めるのは、かならずしも、公式の目的として掲げる活動分野で立派な結果をあげるからではない。それよりもむしと、部員が自分の所属する部にどれだけ献身するか、つまりは忠誠心の度合いのほうが密接にかかわってくる。

 日本人にとっては、仕事であれ、学校であれ、遊びであれ、集団に対し全面的に身を委ねるのでなければ、成功などおぼつかない。すすんで自らの運命を託すことが、何よりも求められるのである。」

 

P210「国全体として見ると、「ごくやさしい日常的な読みと、理解のテスト結果から、事実上の文盲と見なせるアメリカ人の成年者は、約二三〇〇万人」という恐るべき数に達している。

 この文盲という定義は、今日の社会で自立して生きていくのに、どうしても必要な求職申し込み書とか、運転免許試験の問題、新聞の求人広告、あるいは、薬の服用指示といったものさえ読み取る力がないということで、これでは〝充実した生活〟など思いもよらない。

米国国会図書館の報告によれば、アメリカの文盲の数は、減るどころか増加しつつあり、中途退学者と移民を含めて、年に二三〇万人ずつ増えているという。」

※日本におけるこの統計はない。

P218「百点法で採点した試験成績は、よく壁に貼り出され、生徒全員が見て比較検討することになる。テストの点は、教師のテスト成績簿にも丹念に記載され、通知表の成績評価を決定するのに使う。そればかりでなく、教師と父母の個人面接の際に、親が確かめることもできる。数多いテストを採点して成績を決め、その一覧表を作成することは、個々の国語教師にとって、時間と労力を要するきわめて重い負担である。にもかかわらず、その必要性に異議を唱える教師は、ほとんど見当たらない。」

 

P224「大学入試にかくも振り回され、数学や英語とともに、読み書きの教科を重視する学校制度にあっては、なんらかのゆがみを生じるのは避けがたい。日本の学校制度もまた、生徒全員の読み書きと数学の学力を、前例のないほどの高水準に引き上げようとするたゆみない努力のなかで、そういうゆがみに直面する機会が、ますます多くなっている。

 この副次的現象は、学校暴力事件の増加傾向のなかに、はっきり現われている。それは、アメリカの学校が体験する暴力事件とは、まったく様相を異にするが、それでも、現在の学校制度をあきたらないと考える批判者から、格好の例証として非難を浴びている。」

※この事実は決して否定されない。アメリカと比較してしまうと、これは随分無責任の発言にしか見えない。

P226「八三年のカリフォルニア州教育局の報告書によれば、「一日当たり二四人の教師が、主に生徒から暴行されている」という。また、「一日平均二一五人の若者が、公立学校の校庭で乱暴されている」という。だが、地元の『ロサンゼルス・タイムズ』紙ですら、カリフォルニア州内の学校暴力を満足にカバーできないほどであった。」

P226-227「たとえば、米国大統領に宛てた『教室の無秩序――教育の敵』と題する政府の報告書は、「米国内の学校施設の破壊がもたらす被害年額は、教科書のために国が支出する経費を上回る」と述べている。

 日本人にとって幸いなことに、この国では、そのような高い記録は思いもよらないところである。にもかかわらず、読み書き水準の場合と同じように、日本人は賢明にも、自分たちの教育上の問題を他国と比較することで、いたずらに小成に安んじたりはしない。それよりも、自ら国内的な比較基準を設け、そのような内部基準に照らして、学校の規律問題が世間の耳目を引くようになったわけである。東京とか大阪のような大都市圏の学校においてさえ、これまでしういう校内暴力問題にあまり直面した経験がないことも、その一因となっている。

 日本の中学校で、学校規律にかかわる事件が増えている裏には、いまひとつの要因がある。過去においては、あまり学業に身を入れない児童というのは、たいていが低所得階層の育ちで、十四、五歳で学業を終え、職に就いていた。

 昔の中学校は大学進学を目指す生徒を、中学校をその準備過程と考える生徒を相手に、教育を施してきた。そういう生徒は、十八歳になるまで中学校で勉学を続けようという、確たる目的を持っており、それほど学習に身の入らぬ者は、中途で退学していった。日本の中学校は、その昔は、要するに潜在的で問題児を相手にする必要がなかったのである。」

※物は言い様とはこのこと。

 

P229「言いかえるなら、日本人が校内暴力の主因として問題視しているようなことは、アメリカ人から見れば、取り組む対象としてはうらやましいかぎりに思えるのである。米国がいま躍起になっている青少年をむしばむ麻薬の流行、アルコール中毒、ふしだらな行為などがもたらす生徒の規律の乱れは、構内秩序の崩壊という重大問題は、日本人とすれば、いまだまともに直面した経験のないものばかりである。にもかかわらず、日本人は、校内暴力が手に負えない問題とならぬうちに、なんとかそれを根絶しようと、国をあげて取り組んでいる。」

P253「日本に昔から伝わる算盤とは、計算の過程を珠の動きで視覚的に示しながら、数を足し引きする計算道具で、児童の暗算感覚を磨くのに役立つ。その証拠に、大人も子供もたいていの日本人は、たとえ手元に算盤や計算機がない場合でも、まるで実際に算盤を操っているかのような指使いをしながら、たくさんの数の足し引きを暗算してしまう。」

※これはどこまで正しい話か??

 

P272「戦後、営々と国家の再建に励んだ逆境のなかで、終始この国の社会を支えてきた、やる気精神の最たるものは、あの「頑張れ!」「粘り抜け!」「あきらめるな!」という叫びが端的に表わしていると言えよう。日本人は、生まれてから死ぬまで、生涯、この頑張れ精神に取り囲まれ、励まされ、そしてやる気を振るい起こしている。

 頑張れの呼び掛けは、まず家庭で始まる。ついで学校が引きつぎ、児童が入学したその日から、教室で頑張り精神の大切さを教えこむ。これは、卒業の日まで変わることなく一貫する。頑張れの声が社会のあらゆる側面を巻きこんでしまう。仕事にも勉強にも、はては遊びやレジャーにさえついて回る。頑張りは、まさに「日本人であること」と一体不離のものなのである。」

P277-278「工業化社会のご多分にもれず、日本の産業界でも、あらゆる部門で非効率性が深刻な問題になっている。なかでも、会社のオフィス部門の非効率ぶりが悪評を買っている。最新のオフィス機器の生産にかけては、世界で一、二を争う国だというのに、皮肉にもオフィスオートメーションのすすみ方は遅れている。しかし、日本の産業界に見られる非効率性は、ふつうどのレベルを取ってみても、仕事に対する自己満足とか、無気力とか、あるいは、のらくらな態度とかのせいではない。

 日本の社会に見られる非効率性は、行動を起こす前に並外れた時間を費して、グループの総意の一致を取りつけようとすることからくる場合がある。あるいは、個人の自発的な創意を生かせば、ずっと能率よく運びそうなときに、グループがそれを抑えつけてしまうせいのこともある。個人があまり強烈なかたちで個性を発揮するような場合には、グループとして強い拘束を加えてしまう。

 しかし、ここで見落としてはならない大切なことは、そういう場合ですら、日本の典型的な労働者は、自分の能率を少しでも高めようと、身を挺して頑張っているということである。会社は、こういう労働者の献身のおかげで繁栄する。」

※肯定的に捉えればこうなるだろうが、根拠は?そしてこれを日本の怠惰と捉える日本人による日本人論についてどう考えれば良いのか??

 

P278「いったい日本の労働者は、強烈な頑張り意識をどこで身につけるのだろうか? それは文字どおり、生まれ落ちたときからのことである。

 両親は子育ての間じゅう、早く歩き方を習わせよう、箸の使い方、自転車の乗り方を教えよう、児童読み物を自分で読めるように仮名文字を覚えさせようと、子供を励ましては、頑張れ、頑張れを、しょっちゅう口にする。子供のほうも、テレビやラジオで昼夜を問わず、頑張りを見聞きする。両親同士でも大人の間の会話でも、頑張りが話題になるのを耳にして育つ。小学校に上がるころには、もうすっかり頑張り精神になじんでいる。

 入学すると、児童は初めてクラスの仲間と触れ合い、組織のなかの競争的な活動に加わる。頑張りがますます大切となり、卒業のその日まで、学校生活のすべてに頑張りが物を言う。」

P288「現在の日本の学校に見る、こうした教え方を示す端的な例は、筆者の息子の二年生用社会科の教科書のなかにもある。この教科書は、例によって文部省が検定し、この地域の小学校で使われているものだ。一年間を通じて中心となっているのは、「いろいろな仕事」というテーマである。

 奇妙なことに、尨大な数の児童が都市で暮らしている中産階級社会でありながら、この教科書には、ホワイトカラーのオフィス勤めのサラリーマンを取り上げた章がひとつもない。そういう仕事よりも、各章が力を入れているのは、やり遂げるのにどうしても頑張りと粘りが基本となる、きつい手作業労働の話なのである。」

※筆者の居住は三鷹(p214)。アメリカではどうなのか??

 

P297-298「この近代的工業国、超経済大国の基盤をなしているのは、このきわめて古い社会の昔からの伝統的価値観なのである。そして、現代日本を基盤から支えている不可欠な要素のひとつに、昔から受け継いできた持続的な頑張り精神がある。近代日本にとって何よりもさいわいなことに、欧米工業諸国の影響がこの国に及ぶ遥か昔から、「日本人であること」の基本的な特性として、頑張り精神が存在していた。

 農村から都市へ、農業国から工業国への急速な、しかも首尾よい移行は、古くからの価値体系が持続したおかげであった。そして、この価値体系を端的に示すものが、「頑張れ!」のひと声である。」

☆P325「しかし、学校制度の核心をなす、教室内の教師と生徒の関係にまつわる問題については、ごくわずかな改革にとどまる可能性が強い。伝統的な教え方は、明日の日本の教室でも、依然として支配的な役割を演じ続けるものと予想できる。日本の学校は、読み書きの基本を十分身につけた、能力が高く忠誠心旺盛な、対応力のある労働者を育てるように、政府とこの国の社会全般から期待されている。この伝統を変えるような〝改革〟は、どんなものであろうと、受け入れがたいことが実証されることになろう。

 したがって、特定の産業で二十一世紀に必要とされる専門的訓練の機会を提供するのは、個々の会社の責任である。訓練計画に利用できるかぎりの最新技術を盛りこむのは、企業の仕事であって、学校の責任ではない。日本の労働者がコンピューターと近代技術に取り組むのは、学校に非ずして、会社のなかでのことなのだ。」

※この議論において、本書の態度は両義的であるように見えてしまう。

 

P341「大学進学志望のアメリカの生徒は、入試の前後と受験中とを問わず、日本の大方の受験生が体験する入試の重圧とはまるで無縁である。そして、まさにその点こそ、アメリカの教育制度をかくもユニークなものにたらしめるゆえんなのである。」

※2020年現在のアメリカの状況は、ここでの状況とずいぶん異なるようだが。

P344「アメリカ人は、おそらく僅差ではあろうが、世界の先端技術をリードし続けることだろう。アメリカの秀才学生たちは、日本と違って、受験勉強の丸暗記ばかりに明け暮れすることのない環境のなかで、のびのびと大学進学に備えている。

 それこそ、アメリカの優秀校のユニークさなのである。アメリカが技術革新の最先端に立つ理由も、おそらくそこにあるだろう。」