角田忠信「日本人の脳」(1978)

 今回は、日本人論の関連で、角田の著書を取り上げる。

 角田の日本人論というのは、恐らくは「最強」の部類だと思われる。通常、日本人論として認められるものというのは、それが「一般的な日本人」について妥当であるかどうかの検証というのが難しく、それ自体がしばしば争点となった。例えば、土居の「甘え」の議論についても、縫田のレビューでも捉えた「歴史性」の証明という観点から、つまり土居のいうような辞書的な意味での「甘え」の用法について、一般的な日本人にどこまで浸透しているのかという点については(その用法が使い古され、日常的に「意味」が与えられているようには使われていない可能性があるといった)議論の余地があった。

 しかし、角田の主張というのは、日本語を用いる者(正確には日本人そのものではなく、日本語に幼少期から精通している者を基本的に指す)は文字通り「全て」当てはまるものだというものである。もし、角田の議論が正しいとするならば、これほどまともな「日本人論」はないと言ってもよいだろう。

 

 さて、角田の理論というのは、いつもの「理念型α、β(類的理念型と歴史的個性体としての理念型、羽入のレビュー参照)」の枠組みで言うと、

 

・理念型α:母音・自然音における認知の左脳の優位が日本人独特のものであること(脳科学認知心理学的問題)

・理念型β:その認知が日本人の創造性に結びつく(国民性論の問題)

 

 の二種類に分けて考えることができる。角田が実際に示しているのは理念型αのレベルの議論にすぎないのであるが、理念型βについても、「飛躍」していることを認めつつも、どうも確信じみたような語り口で日本人論と結びつけて指摘している(p86-87)。

 

 

〇ツノダテストの特徴と問題について

 

 しかし、角田の議論には多く問題があるようである。これは理念型αの議論と理念型βの議論から指摘できる。先に、理念型αに関連する問題について八田武志「「左脳・右脳神話」の誤解を解く」(2013)を足がかりに検討していきたい。八田は80年代に角田の議論の追証実験を行った者としても知られる。

 まず、押さえなければならないのは、角田が理念型αで示した内容について、独自の方法で立証したことである(ここでは「ツノダテスト」と呼ぶ)。ツノダテストは次の方法によりなされた(cf.角田1978、p52-53)。

 

 最初に被験者に対し、右耳から小さな音(母音、子音、バイオリンの音、こおろぎの鳴き声といったものが使われた)を一定の間隔で流す。その後、今度は左耳から右耳の音より大きな音を、しかしそれを遅らせて音を鳴らす。被験者は両方の耳からずれた音を聞くことになるが、最初の小さい音に合わせて規則正しくスイッチを押すよう命じられている。大きな音の方はその音量を次第に大きくしていき、大きな音の干渉のため「スイッチを押す間隔が不規則になった」時点で一度実験は終了となる。

 今度はそれを逆に、左耳の音に合わせて規則正しくボタンを押し、遅れた音が入ってくる右耳の音を大きくして不規則になったタイミングで実験を終了する。

 左右の耳で行った場合で実験終了時の音のデシベル数には差が出てくるが、基本的により大きなデシベル数まで規則的にボタンが叩けた場合、そちらの耳がよりその音に対して「敏感」であったことを示す。

 日本語人の場合、母音と子音の聞き取りは同じ右耳(=左脳)で優位になり、自然音も右耳、楽器の音は左耳(=右脳)で優位になる一方で、非日本語人の場合は子音と楽器の音は日本語人と同じ結果であるものの、母音と自然音は共に左耳優位になるというのが角田実験の結果である(※1)。

 

 八田のツノダテストへの批判として注目すべきは次の2点である。まず一つ目はこの実験の追証不可能性であった。学問的にはこちらの理由でツノダテストは「科学性研究とはならない」という指摘もあったとする(八田2013、p157)。

 特に不明なのは、「スイッチを押す間隔が不規則になった」ことへの定義の問題である。八田の著書からは角田と同じ方法で実験した内容に対する明確な反証が確認できなかった(※2)が、恣意的な操作が許される状況の下で追証を行うことができていないことでその正しさが示されていないということが言われているようである(※3)。この点については、角田のその後の態度の取り方からみても、妥当な批判であると思われる。

 

 八田の言うもう一つの批判は、角田がこの実験の方法を独自のものとして行ったことに理由がない点である。八田によれば、認知心理学の実験において類似の内容を検証する際に行われていたのは両耳分離聴テストと呼ばれるものであった。これについては角田も「キムラ法」として著書で紹介しているが、「実験条件の精度の低いこと、合成手法の不完全さからその結果は十分な信頼性を有していないと癇癪している」としている(p63)。また、別の著書では「キムラの両耳分離聴テストは、言語応答(口頭・筆記)による方法をとっているために、母音以外の言語要素が同時に含まれる。そのために、実験条件によって言語半球が支配的になる」と反証している(角田「ヒトの聴覚系にみられる左右差について」久保田競ら編『感覚と行動の神経機構』1976、p223)。

 この主張の正しさは両耳分離聴テストの内容を説明する必要がある。八田の実験の説明がわかりやすいだろう。

 

「片方の耳からは六桁の数系列を女性が読み上げる声。それと対にして、反対の耳からは「犬の鳴き声」「小鳥の声」「虫の音」「自動車の通る道路騒音」「白色雑音(多くの周波数が混じっている音で『シャー』と聞こえる)」を学生に聞かせるというやり方である。学生には両方の耳に等しく注意を配分するように頼んでおいて、数系列の正答率をペアにした条件ごとに比較している。」(八田2013、p154)

「結果は、右耳から数系列が聞こえる条件は「犬の鳴き声」をペアにしたときも、「小鳥の声」でも「虫の音」でも左耳よりも優れていた。日本人では「犬の鳴き声」「小鳥の声」「虫の音」は左脳で処理されるために、右耳からの数系列の聞き取りが英国人よりも劣るという傾向は決して見られなかった。論文では、環境音の対提示条件における数系列の聞き取りに日本人でも英国人でも違いはないと結論づけてある。」(同上、p154-155)

 

 八田はこの結果について、「自然音が有意な耳から聞き取りを行った方がもう片方の耳での数系列の点数が高くなる(聞き取りにおいて聞き取りづらいノイズがない方が点数がよい)」ことを前提にしていることを、まず押さえておきたい。

 

 さて、この説明で議論せねばならない問題がある。それは「環境音」をどう考えるかではなく、「数系列」をどう考えるのか、という問題である。この実験法を用いた場合、両耳から異なる音を聞くことになるが、それぞれの音が左右どちらの脳に「聞き取りやすい/聞き取りにくい」の性質があるかによって、影響が出てくる可能性があると考えた方が自然である。端的に言えば八田は「数系列」の音の聞き取りにおける脳への影響を無視しているのである。

 基本的に左脳(=右耳)は言語を聞き取る上で有意であることは角田とその他の一般的な研究は一致している。問題は音節としての母音と子音の認識の違いであり、子音は左脳有意であるものの、母音は右脳有意とするのが、角田理論、これが明確でないか、左脳有意とするのが一般の理論である。

 ここで問題となるのは、「数系列」は言語・単節母音・単節子音のうちどれになるのだろうか、という点である。というのも、「数系列」の聞き取り自体が、他方の耳で何を聴こうが有意脳側で聞いたほうが好成績になる可能性を否定できないからである(※5)。

 八田の言うような前提を支持するためには、次のような条件が必要になってくる。左耳で数系列を聴き、右耳で環境音を聞いた場合、右耳ではよく環境音が聞こえてくる。このことが左耳での数系列の聞き取りにも好影響を与え、実験結果も左耳の方がよくなる、という条件である。しかし、この条件を提示するのであればもう一つ考えなければならないのは、数系列自体の聞き取りやすさにおける左右の耳(脳)のバイアスである。

 

 むしろ注目したいのは八田の実験で「日本人学生の成績水準の方が絶対値では勝っていた」と述べている点(八田2013、p154)である。この事実も角田理論の都合のよい方へ解釈することが可能である。まず、右耳(が数系列の場合)の結果については、「数系列」が単節の音に近いものだとすると、母音・子音共に右耳有意であるため、日本人においては右耳の方が聞き取りやすい、という解釈を行うことも可能であるからである。また左耳(が数系列の場合)の結果についても、右耳で聞こえている自然音において、それを左脳で処理する傾向のある日本人は「ノイズが少ない」分、非日本人よりも聞き取りやすくなる、という見方が可能である(もっとも、この結果は道路騒音・白色雑音では差がでないという結論にはなるが)。

 

 この実験から角田理論を立証するには、日本人の場合自然音(環境音)と言語(非日本人の場合は子音のみ)が別の脳(=耳、非日本人の場合は)から受容されることを前提にして、自然音に該当する「虫の音」などは両方の有意に良くなる(もしくは悪くなる)結果になるだろうということだが、八田の実験ではそのような結果を見出せなかった。この実験内容を見る限り、角田側から批判できるとすれば、「「数系列」が母音と子音を両方含んでいるため、十分に認知の違いを確認できない」ということになるだろう。これには一理あるように私には思える。また、このテストでは左右どちらの耳も等しく聞くことが求められるものの、これも被験者の主観の影響を無視することがかなり難しく、個人差がかなり出る印象も受ける。少なくとも、八田が言うような「両耳分離聴テストに問題がないのに、なぜ(※独自の実験手法を)開発しようとしたのか了解しにくい」(八田2013,p147)という主張が成り立つのかは素人目には判断できない。

 更に、八田は両耳分離法テストでは母音は「右脳有意であるという報告が一貫して行われてきた」としているが(八田2013、p143)、角田の参照する(もちろんキムラ法=両耳分離法を用いた)ハスキンス研究所の実験結果によれば、その傾向は一貫していないとする(角田1978、p57)。これについては、角田はそれぞれの結果の出典をほぼ明示しており、八田の分がかなり悪い。このような結果の一貫しない点についても、角田は自身の実験法にノイズが少ないことを理由に優位性を主張している嫌いがある。このような事情からも、少なくとも角田があえて別の方法でこの問題を実証しようとしたことには理由があると私には見える。

 

 以上の議論から指摘できることは、少なくとも八田(2013)の著書から行われる理念型αの批判というのは、ツノダテストの結果そのものというよりも、別の方法による議論の方が強いことになる。PETスキャンを用いた実験においてツノダテストの結果とは異なる結果が導き出されたなどという指摘や(p156)、出所のわからないシンポジウムの場において角田が「(※「スイッチを押す間隔が不規則になった」という定義について)博士課程クラスの基礎がある人なら僕のところで半年くらい習えば判断が可能です」という発言したことなどを紹介するが(p152)、決定的な研究結果を引用できていないのは確かである。

 

〇サピア・ウォーフの仮説、もしくは言語相対論からみた角田理論の問題について

 

 さて、次に理念型βから考えた場合の批判についてみていく。これについては、江村裕文「サピア=ウォーフの仮説について――文化その3―」(法政大学国際文化学部「異文化」第8巻2007、p25-53、URL: https://hosei.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=83&item_id=2989&item_no=1)の内容を参照したい。これらの議論には「強い仮説」と「弱い仮説」があり、前者は「言語決定論」というべきような、言語そのものが思考や文化を決定づけるものであるとみなす。

 例えば、土居の「甘え」の議論もこの議論に位置付くように思えるが、すでにレビューしたように、言語相対論的な影響についてはそれほど明快に議論がされているといい難かった(もっとも、土居自身は「強い仮説」を支持していたと言えるだろう)。

 一方でこの角田の議論は明らかに「強い仮説」の立場にある(江村2007,p34)。彼のいう日本人は全てが同じ脳の傾向を持っていることを前提にしているからである(※4)。

 ただ、問題なのは、角田がこの議論を基本的には日本語に限定している点である。まじめに言語学的なアプローチをする場合は少々偏り過ぎており、一般論として言語相対論が成り立たないとしても、日本語の特殊性まだは十分に考察できていないからだ、と反論されそうである。

 そして再度注意せねばならないのは、角田の実験によっては、理念型βに関わる部分の実証は何一つなされていないということである。このため、角田自身は日本人の脳と同じ傾向を持つ者として、ポリネシア語族について指摘しているものの、「ポリネシア語族の人々が日本人と同じような文化傾向をもつのか」について全く検討しないのである。少なくとも言語決定論的なアプローチを行なえば当然検証しなければならない論点であるはずなのに、「ユニークな日本人」の描写に満足してしまったからか、この点については深入りしないのである。

 角田が理念型βとの関連で議論をするときは、すべて日本人論は「なんとなく」我々に受容されていることを前提にし、それを自らの実験結果と無理やり結び付け、その「なんとなく」の証明材料であると強調するのである。理念型βの証明は何も角田の実験によってのみ導き出せる類のものでは決してなく、それに類する実験等によっても議論されねばならない点である。そして、それらの検証は何一つ示さないまま、角田は日本人の特徴を自らの実験と結びつけてしまっているのである。基本的にこの点について角田の議論は「論外」と呼ぶしかないだろう。

 

 しかし、ここでこれまで私が検討している「日本人論」の議論においてとても無視できない点がある。本書が30万部を売り上げるベストセラーであったのもそうであるが(八田2013、p186)、マスメディアには「純正な科学研究」とさえ評価されていたことや(江村2007,p34)、著名な湯川秀樹らによる肯定的な評価がされていたことである(江村2007,p39)。これは端的に言えばマスコミの「疑う力」の欠如や「「手短に結論だけ」を珍重する特性」の問題(八田2013、p187)が原因であったといえるのだろう。少なくとも、本書が出版された時期における「日本人論」の受容のされ方というのは、極めて疑うことを知らずになされていったこと、このような態度はその後の90年代以降の日本人論的語りの受容にも影響があったということになるのではなかろうか。

 

〇近年の「角田理論再評価」の誤解について

 

 最後に一部界隈で「角田理論の再評価」として取り上げられている、角田晃一らによる“Near-infrared-spectroscopic study on processing of sounds in the brain; a comparison between native and non-native speakers of Japanese”(Acta Oto-Laryngologica 136(6),2016:p568–574, URL:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4898151/

)にも少し触れておきたい。特に本論文が「角田理論」が当初持っていたサピア=ウォーフの「強い仮説」の態度からすると大きく異なる結論を導いていることについては押さえておかねばならないだろう。

 

 まず、大前提としてこの実験で用いられたNIRSという医療機器は、前頭葉のヘモグロビン量の増減により、脳の働きをみるものである。このため、角田理論で強調されていた左脳・右脳の議論とは直ちに結びつかない。Tsunoda et al.(2016)では、この点に配慮し、左脳・右脳ではなくlanguage brainとmusic brainという言い方を行い、2つの脳の使われ方の違いとして説明をまず行っている。

 この実験は、言語(日本の言語)と音楽(西欧の音楽)を聴く時の脳の働き(=NIRSによる測定値)のどちらの傾向が、虫の音を聴くときの傾向で似ているかというのを実験したのである。結果は、言語を聞くとヘモグロビン量は多くなり(language brainの受容パターン)、音楽を聞くと、NIRSによるヘモグロビン量が減る(music brainの受容パターン)ということは共通であったが、虫の音色に関しては日本人と非日本人で傾向が異なる結果となった、というのが本論の趣旨である。

 

 この結果自体は興味深い指摘であると思われる。もっとも暗黙の前提としているNIRSによる観測結果として「虫の音色を聴く際と言語を聴く場合とで同じパターンでヘモグロビン量が変化したということは、言語と同じ仕組みで脳も働いた」というのが正しいのか、といった点は追試等が必要であるように思える。

 

 しかし、Tsunoda et al.(2016)は例外がかなり多く存在している点にも注目せねばならない。まず奇妙なのは被験者選択においてである。被験者候補70人のうちから「顔や脳の手術を行った等の基準」により、過半数の37名を調査対象から外している点である。なぜこれほど対象外とした者が多くなったのかが気になる(そもそものサンプルが相当偏っている可能性が危惧される)。また、特に「角田理論」との関連で重要なのは、「日本人被験者20名のうち16名が虫の音をlanguage brainで受容し、4名がmusic brainで受容したこと」「非日本人被験者13名のうち、5名がlanguage brainで受容し、8名がmusic brainで受容したこと」という実験結果そのものである。これが「角田理論」に基づくのであれば、基本的には「日本人被験者20名全員が虫の音をlanguage brainで受容し、非日本人被験者13名全員が虫の音をmusic brainで受容した」とならなければおかしいのである。

 このことについて日本人の例外4人のうち2人は「豊富な外国経験がある」と例外処理の説明を行っているものの、非日本人側にも5名も例外がいたことに対する説明は特段触れられていない。少なくともTsunoda et al.(2016)は、「角田理論」にあったような絶対的な日本人論ではなく、相対的な日本人論(弱い仮説)にシフトしないと説明がつかないし、いわゆる「角田理論」を追証した研究として紹介するには、様々な誤解を生むことになるだろう。

 

※1 角田の場合、脳の反応の仕方が左右逆のパターンを結果を示す被験者パターンがいることを示している。つまり、通常左脳の機能を右脳が果たす反面、右脳の機能を左脳が果たすような者が一定数いることを指摘している。このような者を「逆転正常型」と呼んでいるが、議論の簡略化のため、以後の「右耳・左耳有意」の議論では「逆転正常型」のケースは取り扱わないことを前提としたい。

 

※2 直接的なのは、1990年の日本心理学会のシンポジウムで、実際にデータ収集する角田の助手の発言で、角田の方法では有意差を示すことができなったというものがあるが(八田2013,p190)、それ以外の内容では角田実験の批判は別の方法論により否定されているにすぎない。八田が行った検証実験(Hatta and Diamond,1981)も、後述する両耳分離聴テストによるものである。

 但し、角田実験の批判として頻出されるUyehara and Cooper"Hemispheric differences for verbal and non-verbal stimuli in Japanese- and English-speaking subjects assessed by Tsunoda's method."(1980)という論文では(原文を読めていないがhttps://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0093934X80900656の要旨を見る限り)、角田実験の追試として行っているようであり、有意な差は存在しないという結論となっている。

 

※3この点については直近に出ている「日本語人の脳」(2016)においても何ら言及がなされておらず、実験方法の恣意性の問題については特に修正を加えないまま角田はその後も同じ実験を続けていたことになる。

 しかもこの点については、むしろ他の実験者が追試した際にその実験方法自体に問題があるかのように指摘している傾向が強い。八田の著書においても「数年間厳密に外国語の使用を禁じる、情動刺激や薬物使用を取り除くという条件統制」をしないと正しい結果が出ないと主張したとされるが(八田2013、p156)、更に不可解なのは、実験時に「被験者の両足うらは常に床に設置する必要があること」を主張した点だろう(角田2016、p315)。このような条件配慮をしていなかったことが追試で行われなかったことについてそれを方法論的欠陥だと明言しているが(角田2016,p24)、まずもって、この批判は最初の批判の焦点である「スイッチを押す間隔が不規則になった」には何一つ回答を与えず、この批判点に対する改善も見られなかったことは注目しなければならない。また、「両足うらをつけること」についても、その方法論的妥当性については他者に委ねたいと思うが、私が読む限りは「日本人の脳」の特徴と関連性があるとはとても思えず、ただツノダテストにおける「誤差の発生(角田理論に反する結果の発生)」に対する説明のために持ち出したものにしか読み取れなかった。

 

※4角田の実験においても「例外」と呼べる者がいなかった訳ではないが、例えば、例外とされた日本人を「病的偏移型」と名付け、「正常者のうちに数%の頻度でみられる、無自覚性の脳微損傷が疑われる興味ある例」 (p74)とする態度がそもそも適切な見方なのか、私には理解し難い。これも※3で述べたような例外処理の苦肉の説明であるように見えてきてしまう。

 

(2020年6月17日追記)

※5 本文以下の記載については誤りであると考えられるため訂正したい。というのも、ここで争点としようとした「数系列」というのは、「言語」として扱うべきであり、「単独母音」や「単独子音」の範疇には入りえないと断言できるからである。本書p84などに記載があるが、「単独母音」「単独子音」というのは1/20秒~1/13秒という極めて短い時間に出される音であり「言語という認識がもてない」レベルのものとされる。言語認識がもてる音声は角田も日本人と非日本人で脳の違いの相違を認めておらず、「数系列」においてもそれを聴くことで日本人・非日本人で差が出ない。

 したがって、ツノダテストはキムラ法と別の方法として行う理由が乏しいという八田の批判も正しいことになる。

<読書ノート>

P85-86「複合音の認知機構の差を直ちに日本人と西欧人との精神構造の差に結びつけるのは甚だ飛躍した考えと受け取られるかも知れない。しかし感性的な音が無意識のうちに論理・知的な言語半球にとりこまれて音認識をする日本人と、無意識のうちに言語半球から閉め出されて音認識をする西欧人の感覚は明らかに異質のものであり、この差が精神構造にも影響を与える可能性は充分に考慮する価値があると考える。

日本では認識過程をロゴスとパトスに分けるという考え方は、西欧文化に接する迄は遂に生じなかったし、また現在に至っても哲学・論理学は日本人一般には定着していないように思う。日本人にみられる脳の受容機構の特質は、日本人及び日本文化にみられる自然性、情緒性、論理のあいまいさ、また人間関係においてしばしば義理人情が論理に優先することなどの特徴と合致する。西欧人は日本人に較べて論理的であり、感性よりも論理を重んじる態度や自然と対決する姿勢は脳の受容機構のパターンによって説明できそうである。西欧語パターンからは人間や自然を対象とした学問は育ち難く、ものを扱う科学としての物理学・工学により大きな関心が向けられる傾向が生じるのではなかろうか? 明治以来の日本の急速な近代化や戦後の物理・工学における輝かしい貢献に比べて、人間を対象とした科学が育ち難い背景にはこのような日本人の精神構造が大きく影響しているように思える。」

P88「さて、我々日本人は学校及び社会を通じて意図的に西欧文化の吸収に勤めており、その生活様式も著しく西欧化され、文明の余慶を受けていることでは西欧諸国に遜色はない。

しかしながら日本人の意識構造は甚だ画一的であり、かつ極めて異質なものであることは、屢々外国人や日本を離れた日本人によって指摘されているところである。私は日本人の画一性は同一言語で統一されていることに由来し、また日本語母音が有意語であるという特異性が西欧人とは異質な自然音の認知機構と感覚をもたらし、自然に恵まれた日本の風土と相俟って独特な精神構造を作りあげたものと考えたい。」

 

P110「日本人の精神構造や美意識を特徴づける「わび」「さび」などで表わされる情緒性や感覚が、脳の言語音、感性音また自然音処理機構の特性として捕え得るものであるならば、日本の伝統音楽は日本人の美意識に適合した形に作られて発達してきたものに違いないし、現代の日本人もまた日本の伝統的な音楽の感覚を身につけている筈である。」

P139「ところで、非言語脳で処理される音は西洋楽器の音、それから純音、雑音などのいわゆる物そのもの、マテリアルのようなものになってしまうのですね。だから、日本人の脳は「心」と「物」というふうな形に分かれるのだろうと思います。

西洋人の場合には、自分の感性も含めた自然界全体と、理性的なものとを峻別している。ですから彼らは言葉を受けもつ左半球の方を主体的に働かせて、自然界の音・虫の声を雑音と同様右半球で処理するわけですからこれらを客体化できるわけです。」

 

P292「日本語の母音の優位性が極めて特殊なものであることはこれまで説明してきたが、日本の近隣諸国に日本語型と同型の言語はないものであろうか? ヨーロッパ系の人々と西欧語圏で生育した日系二・三世は日本語と全く異なった母音の優位性を示すことが知られている。その後、朝鮮語、中国語(広東、台湾)、東南アジアの一部の人々についても優位性を測定する機会があったが、彼らは西欧語パターンを示していて、母音の優位性という観点からみると日本語とは全く異質の言語と考えられた。日本とは文化的に深い関係にあり、言語学的にもアルタイ語系として最も近いといわれる朝鮮語が完全な西欧語型を示すことがわかったことから、日本より北方の言語については日本語型を見出すことの可能性が稀薄であると考えられた。

ポリネシア語の母音の音韻構造が日本語に酷似していることから、以前から検査をする機会をねらっていたが仲々果たせないでいた。」

 

P360-361「創造性の研究というと、日本では多くの外国の著者の引用・紹介・まとめが主な作業となることが多いが、こういう文献を莵集するという作業そのものが既に創造性を無視していることになるから、せいかく、且つ客観的な研究状況の紹介や批判になり得ても、著者の主体性が失われてしまう。しかも現代のように情報過多の時代には、世界中の膨大な研究論文を読破してまとめるということが、既に個人の能力では不可能な作業となってしまった。情報の過多は情報の欠乏にも通じるのである。

さて日本人が過去に行なった創造活動の最も活発であった時期は、日本及び日本人が、周辺諸国と隔絶して、文化の交流が絶たれ、日本人が模倣という精神活動から一時全くつき放された時期、すなわち十七世紀から十九世紀にかけての鎖国時代ではなかったろうか。現代日本の伝統とされている主として芸術の面の大部分は、実は、徳川時代のこのゆるやかな醸酵期間に形成されたものであったといわれる。明治以後の日本及び日本人は、短い第二次大戦中を除いては欧米の影響をまともに受けてきたが、この一世紀以上の間に日本人の頭脳で創造し得た文化の所産となると甚だ乏しいのに愕然とする。我々、日本人はこの一世紀の間に、あるときは過去の日本の土着のあらゆる文化を否定してまでも西洋の文明を受け入れてきた。そして現在の自然・人文科学の領域において、学習に費やされる知識の源泉は、殆どが西欧由来の文化や技術であり、我々はこの西欧化・近代化を進める上の理想像としては、西欧人の理性になり切って自然や事物を考えるという観点に立つことを画いてきたのである。

しかしこのような観点に立ち得たとすれば、それは完全に西欧人の窓枠で物を考えるということにほかならない。他の文化圏を観察し、自然を認識する窓枠は日本人である限り、日本的窓枠から抜け出て西欧の窓枠に組み変えることででき難いのではなかろうか? そしてこのような借りものの窓枠で自然認識を続ける限り、日本人の頭脳で考えた日本的独創というものは決して生れてこないのではなかろうか?」

※一種の日本人論批判。

 

P364-365「心の病気を扱かう精神科領域での日本的独創といわれる森田学説のような神経症理論は西欧的思考法からは生れ難い特徴をもっているし、最近では土居氏の甘え理論は日本人の本質に迫った研究であるが、著者のあげた日本的窓枠とも暗合している。この甘え理論の着想は、患者との面接で、彼らがどういう言葉で自分の状態を訴えるかに注目し、またそれをどう記載することが日本語として正確かという点に心を砕いたことから生れたという。日本の医者が従来行なってきた、病状を限られたドイツ語で記載し、表現できぬものは切り棄てるという、西欧の教科書をモデル化して、日本人の診療に当てはめるという態度は病態を正しく認識する方法ではない。土居氏の着想は日本語で記載し、日本語で物を考えることを徹底して続ける過程からはじめて生れたのである。」

 

P375「創造活動にとって大切なのは、右の非言語脳の働きを妨げないことにあるから、我々が読書・討議・計算・講義をきくなどの左脳の活動をしているときに、論理過程を通して良い発想法が生れるものではない。読書にしても一気に読み切るというよりは、新しい知識を得たときに、一旦本を離れて、両脳を働かせて本の内容以上に考えを発展させるということを教えられなくてもやることが習慣になっている人がいる。こういう時に、言葉の左脳の働きから、両脳の働きにスイッチ機構がすぐに戻る脳を持った人は創造のための機会を多くつかむことができることになる。」

P378「日本人は古くから心を重んじてきたが、現代は心を忘れて物に関心が向けられている時代である。逆に、西欧人は理性中心の態度を反省して、東洋の思想に目を向けはじめている。この東洋の思想というのも実は、日本人の脳のメカニズムのうちに、日本人の文化の窓枠として、日本語が続く限り、宿命として、仕組まれているのである。

西欧文明の危機が叫ばれているが、それは西欧人の窓枠を通しては、新しい時代に即した創造が生れ得ない苦悩の表明ではあるまいか。数ある文明国のなかで、異質の、しかもまだ充分に創造性の発揮されていない文化の窓枠をもつのは、実は日本以外にはないのである。……

筆者は日本人が、日本人の窓枠の異質性にめざめて、借りものでない自分の頭で考え抜くときにはじめて日本人の独創性が発揮され、その所産は世界の文化に貢献できる可能性のあることを信じたい。」