「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間報告

 今回は70年代後半の「恵那の教育」の正常化の議論を検証していくにあたっての中間報告を行う。

 この報告は中津川市を中心に私が行った資料収集の結果を、時系列で追う形でまず行う。具体的には映画「夜明けへの道」の発表のあった1976年6月から、当時の中津川市教育長であった渡辺春正が教育長をやめる1981年6月までの5年間を対象に、これまでに拾えている議論を捉えていく。今回の報告をもとに、これまでの「恵那の教育」の議論との関連性などの考察を次回行う予定である。

 今回特に資料として重要といえるのは、中津川市に本社のある(あった)二つの地方新聞「三野新聞」と「恵陽新聞」の当時の論調である。両新聞は週1回の発行である。今後また別途岐阜の地方紙にはあたる予定だが、特に恵陽新聞に至っては、1976年7月以降、それまでの一般的な新聞の論調からまるで「教育新聞」であるかのように中津川の教育問題を取り上げるよう新聞の内容を改めている傾向さえあり、1978年11月以降は小木曽尚寿による長期連載も行われている(この長期連載の内容が1980年と85年に自費出版で書籍化している)。

 

・1976年7月20日 中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 前月6月20日(三野新聞報。恵陽新聞では25日とされる)に「中津川教育市民会議」という組織により映画製作が決定された。この市民会議は中津川のあらゆる教育機関(各小中学校、教職員組合、市連合PTA、民生児童委員会等30~40数団体。正確な数字は新聞記事により異なり把握できなかった)により構成された組織である(※1)。この連合PTAの会合の場でこの決定があまりにも「非民主的」手続をとったことが問題となった。恵陽新聞(1976.7.31)では各PTAの意見が次のように取り上げられている。

 

「教育市民会議の性格・構成について、単Pにも通知せず総会をしたが、これはどなたが何の代表で総会をしたか、全く複雑怪奇であり、こんな総会の構成はない。単P会長に連絡したというが、それは直前であり、また総会の出席者は先生が大多数だった。決ってから協力せよでは納得できない。」(落合小P)

「各団体を調べたが通知がない。手違いだけでは済まされない。総会で決めたのは横暴である。」(落合中P)

「何故十六ミリ映画でなければいけないのか。また中津川に立派な教育があるのか。例えば地区外へ行く生徒はいても入ってくるものはない。当市で誇るものがあるか。映画づくりは一部のなんとかよがりと思う。この映画づくりには反対します。」(南小P)

 

 恵陽新聞の社説欄では次のように語られる。

 「会議の母体は団体名が非常に多く羅列されているが、本質は中津川市の教育ボスのひとりよがりの官製ハガキに過ぎないのではないか。教育市民会議という組織の偉い人達がどのようにいおうと市民という言葉を使うのは余りにも押付がましいのではなかろうか。幹事会機関団体とかいう団体の中に現に私の属している団体名があがっているが、私がこの団体に属してからすでに八年にもなるが、いままでに一度も教育市民会議の名すら出たことがない。……本当に民主的に作られた組織であるならば、総会に組織に参加していない一般市民の参加をビラによって集めて総会で決定したなどと無理をしなくてもよいし、映画の制作が決まったという時点で、これ程の反対は出ない筈であろう。」(恵陽1976.7.24、立石道郎)

 

 小木曽も「映画作りが多くの先生と、一部の父兄によって強引に進められてきた」(小木曽1980:p215)と述べていたが、この総会においては、実質的に動員された「反正常化」側の職員らが中心になって決議に関与したことは想像に難くない状況だったといえるだろう。

 結局結論として「中津川の教育を取り上げるのなら、そんなに急がず、もう一度市民会議の上に戻し、教育界全体で判断すべきだと結論が出された」(三野1976.7.25)、「会の意向を市民会議に戻すと同時に単Pに持ち帰り、再度検討することになった」(恵陽1976.7.31)と「差戻し」に近い結論がこの場では出たようである。

 

 PTAをはじめとして保護者側から見ればこの映画騒動は「外から」やってきたものであった。そして、その決定について関与を事後的に議論することとなったのである。この映画に対する最初の印象が良かったなどとはとても言えず、まさに広く中津川の教育に対して「疑念」が湧いてくるような事件だったといえる。

 

・1976年9月18日 再び中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 映画製作に対する説明や、実際の撮影の状況、そして各PTAによる話し合いの結果、実質的にこの日に映画製作が追認されることとなる。ただ、すでに話の前提として「教育市民会議が一方的に決めたとの批判があるが、あくまで総会で決った以上映画製作を進めるのは当然である」との見解が此原久夫P連会長から出ている。

 恵陽新聞(1976.9.25)の記事記載の議事からは、落合中PTAが明確な反対を表明、落合小は説明不足のため保留、坂本中はまだ議論をしており保留としたが、その他のPTAの意見は映画撮影の状況を見て賛成、もしくは問題・一部反対があるがその解消等を目指すことも含め条件付きで賛成と、結果として賛成が多数となり、PTA連として映画に協力することとなった。

 

・1976年10月16日 坂本地区教育懇談会の結成

 

 坂本地区教育懇談会の結成は結局上記の議論の延長線上にある。恐らく上記の決定が出る前後から、中津川の教育そのもののあり方についての内省の必要性が議論され、坂本小での「授業実態調査」がなされたものと言えるだろう(調査は9月28日から行われた)。

 坂本地区教育懇談会の発足時の会員は86名と報道されている(恵陽1976.11.13)。当時の坂本小学校の児童数は正確な数字が見つかってないが、中津川市議会の昭和56年度の第4回定例会の議事にて、約1200人という数字が書かれていた(6月15日議事録)。この数字を見ればそれほど多数の会員がいた訳でもないとみることもできるし、わざわざPTAとは別組織を立ち上げ、それに積極的に賛同する層がこれだけいたとみることもできるだろう。

 

・1976年12月 中津川市議会

 

 坂本地区教育懇談会の実態調査・提言を受け、年末の中津川市議会定例会は教育に関する一般質問が相次いだ。質問を行った10議員のうち、7人が教育に関する質問を行ったという(三野1976.12.19)。残念なことにこの時期の議会議事録の記録が図書館には存在しなかったものの、三野新聞では、篠原孫六議員の質問文を2回に分けて全文記載するという異例の対応をとっていた(三野1976.12.19、1977.1.1)。以下、内容を引用する。

 

「これから述べることは小学校、中学校、また学校によって程度の差はあるが、特に二ツの某学校は異常と云われている。この地域は日教組のモデル地区とも云うべき地位で、年一年と強化して今日に至っている。その名は日本的にも名が知られていて、中央のある雑誌にも紹介されている程で今回の教育映画作成もこうしたルートから手がつけられたものであると思われている。

 組合活動は法で認められているものであるが、待遇改善、勤務上のことは限定されている筈であると思うのにイデオロギーや政治的論争に深入りしすぎている。ある教師は社会科の本は五年、六年、二年間ほとんど考えず、本はまっ新しのままと云ったものも出ている。そして毎日の授業が指導案一つ書かず、思いつきその場限りのもので、生活綴方と地域活動には異状(※ママ)なほど熱を入れ正規の時間に食い込んでいる。コツコツと地味な研究を続けたり研究授業をやることなど大嫌いで、ハデな作文や地域活動と云った表面的なことに浮身をやつしているかに見える。これは今回の教育映画作成にも表われている。父母の大部分が反対していても、あの手、この手で一方的に賛成させた型でやろうとする。このかげの力は一体誰であろうか。この映画の趣意書にはあるところから流された文章がほとんどそのまま使ってあり、どんな傾向のものであるかは想像がつくものである。」

「県内で毎年施行されるところの児童、教師の発明工夫展、その他作品展、音楽会などへ出品も参加もしない。……

 こうした結果として、県下の他地区からその教育が軽べつされ、県下の教育界の孤児となり教育砂漠と呼ばれている。」

「テストは教育効果をためす一手法であって、人間を点数で評価するためのものではない。つめこみ教育反対と云うが、食物でも同じように、精神的栄養である知識をつめこまなければ人間は死んでしまう。ただその分量なり内容方法技術をどうするかをどうするかが教育者に課せられた問題である。

 学校教育にはご存知のとおり智育(※ママ)、徳育、体育の三ツの方向があり、それら三ツが揃ってその人の生活力と人格を形成する。智育を軽視するのは学校教育の否定であり教育的自殺者である。綴方と地域活動さえしっかりやっておれば勉強もできるようになる。」(以上三野1976.12.19)

 

 

「私達は地域重点の教育活動が無意味とは思っていません。そこで得られる人間的なふれ合いは親を含めて必要な事はよく判ります。然しそのことによって失われるもの、即ち学校本来の使命である授業や、学級としてのまとまりが軽視されることに多くの不安を抱き、そのことを適接(※ママ)に学校側にただしたこともありました。しかし学校側からはいつも「やるべきことは」十分やっているという返事をいただいてきたのです。ところがさきに%で申したとおり、地域重点の教育方針によって他の科目時間数は失われております。」(三野1977.1.1)

 

 この事例は一つ、二つの学校だけの問題であればそこまで深刻ではなかったのだろうが、実態はどうもそうではないらしい。次のような記事もある。

 

「新学期が始まった早々に市立第二中学の国語教育に父兄からクレームがつくなどに端を発し、ことし卒業した同三年生の国語教育が卒業生から異口同音に(本社調査)昨年一年国語の教科書は一度も開かなかったといい、先生は使用したという言葉の喰い違いがあるが、いづれにしても補助教材を多用していることは間違いない。」(恵陽1977.5.14)

  

・1977年12月 映画「夜明けへの道」の完成とその反響

 

 極めて残念なことだが、恵陽、三野の両新聞記事からは、この映画上映によって、PTA連を中心に保護者全般がどう感じたかは読み取れなかった。むしろ不可解なのは、事前段階では大騒ぎになった題材であったにも関わらず、上映会に関する記事さえも見当たらない点であった。

 ただ、「一部の論者」と片づけることができてしまうレベルで言えば、酷評しか記録が残っていないのは確かである。

 

 「この映画に対する感想を結論から書いてみよう。「失望」という言葉よりほか何ものもない。……

 秋の運動会を、あなた達は地域ごとに編成し、子供達の手で運動会をつくっていったといっているが、このあなたがたの、いい分については納得いかないものがある。私は子供達は自主的につくりあげた運動会の運営についていうのではない。地域別という方法である。同じ学年のクラスの親同士が一番交流しやすい場を、うばってしまった事になることをきづいているのか。あなた方年二・三回行なわれる型にはまった授業参観では親同士のつながりは不可能でしょう。

 またこの映画の中で地域子供会は、あなた方が育成してこられたようにいっておられるが、数年前まで、あなたたちは地域子供会の組織を拒否つづけてきたのではなかったのか。古い子供会の育成会の役員たちは皆いたいほど知らされている。

 佐義長の行事にしても、夏まつりの、ワッショにしても、多様化してくる社会で押しつぶされそうになりながらも、復活させ、また守りつづけるのに必死になっているのは、あなた達ではない。本当に地域の伝統を素朴にうけついできた親たちであるといいたい。

 あなた達はいつのときでも自分の立場だけでものをいっていることに気付いていない。この映画の中でも綴方教育が今日の恵那の素晴らしい教育基盤を作りあげてきたのだというが、そのかげで毎年三月入試発表の校庭で涙を流す親子があり、小中学生の非行指数も全国平均を上廻ろうとしている現実になぜ目を、おおうのか。親達は今の社会の中でごく普通に生きてゆく事の出来る子供に育ててゆきたいということを願っていることを忘れないでほしい。……

 とも角この映画はあなた達がこうありたいという希望なれば、まだゆるせるが、このように私達がやっているのだとの主張なれば、とてもゆるすことはできない。」(恵陽1977.12.10、白井清春

 

「昨年十二月市議会で、こうした動きを察して数名の議員が一般質問で取り上げ、教育長の善処を促した結果であろうか、少くともカリキュラムの面での改善は可成り進歩したようにみえた。これで中津川の教育が改善されたわけではない。その具体的のあらわれが、最近封切られた「夜明けへの道」という自主映画である。資金を持たないで中津川教育市民会議が自主的に作らせた映画であるだけに、父兄、先生のカンパでできた映画である。「うちの子がうつった、笑った、走った」と、素朴に喜ぶ父兄もいる。しかしそこを貫いている教育理念は、日教組理念であり綴方教育の延長線上にある。「教育の場に政治を持ちこむな」とは、日教組が常に口にする言葉であるが、この映画を見るかぎりに於ては、彼等の主張する政治理念が映画の中にふんだんに盛りこまれ、政治による教育の混乱が一そうはげしくなっていることはいなめない。・記録映画ではなく、傾向映画としサブタイトルを改めてはいかがであろう。」(恵陽1977.12.17、阿木寒子)

 

 また、坂本地区教育懇談会が市民向けに1000部印刷し(1977.12.17付で)配布したパンフレットでは次のように評す。

「「ナマの事実の持ち合わせがない他地区の人々、特に教師にとって中津川の自由な教育実践はきっと評価されるであろう。そのあまりにも自由すぎる教育実践に対しての親の不安と疑問は画面ではすべて打ち消されている。が製作に携わった教師はその過程で「親と教師が見事な合意のもとに素晴らしい教育を進めている」。これとは違う「市民の声」が決して少なくないこともよく承知されておられることと思う。」(小木曽1980,p221)」

「「父母なんかの要求は、いびつな中にもとにかく上の学校へ行かせたいという要望がある。本当に子供をしっかりした人間にするということは、ちょっとすじの違う要求が、手をかえ品をかえ表れると思う。教師はそれを乗り越えねばならない」

 これは画面に出てきた東京大学教授(当時)大田堯先生の言葉である。中津川の教育の歴史のなかで、太田(※ママ)教授がずっと以前から中津川の教育の指導的立場を果たされてきた人であることはよく知られている。はじめから賞讃する立場の人の、しかも「東大教授」という権威をたてに、親の願いを都会で問題になっている進学過熱にスリ替え、「すじの違う要求」として葬ろうとされている。映画を一時中断せしめた程の「市民の声」がこれでも大切にされているといえるのだろうか。」(同上、p227)

「今、問い直されるべきだという意見は結果的に少数意見であるかも知れない。しかし、中津川の学力水準はどうか、学校の特異の授業は、本当に子供のためになっているのか。これらは少くとも「地域」「綴り方」に優先して問われるべき義務教育の本質にふれるテーマである。これが新聞テレビであれ程とりあげられたことにより、多くの子をもつ親は、それを直接、教師に言うか言わないの違いはあっても、もうそこからそんなにたやすく目をそらしはしないと思われる。これこそ映画のもたらした大きな意義ではないだろうか。」(同上、p229)

 

 また、この映画上映にあたりもう一つ議論の種となる事態があった。地元市民向けの映画上映がこの時期なされたのとは別に、全国への普及向けの映画が別に作られていたという内容である。これは公開質問状という形で坂本地区教育懇談会が教育長になげかけ、三野、恵陽両新聞でも内容が取り上げられた(三野1978.4.2、恵陽掲載日未確認)。その映画に対する評は、恵陽新聞で次のように取り上げられた。

 

「一見して驚いたことは、内容が前回に上映されたものと全く異質のものとなってしまっていたことである。いままで父兄や教師の論議の中で教師達が、父兄の説得のために終始言いつづけてきた、いままでの中津川市の教育の点検という、映画作りの基本はその姿を全く消してしまい、とかく非難の多い、当市の綴方教育というものを、我田引水的な論理によって、合理化しようとし、つま先立の必死の背伸びとしか受けとれない映画となってしまっている。そこに何か教師達の心の底をみたようで、私は親達が子供の教育に対する心情を考えたとき、いきどおりと共になんともやりきれない暗い気持になった。

 余りにも、つくられた絵である。この映画の言わんとすることは、始めから終りまで、綴方教育の讃美であり、その上この教育こそがと自画自賛しその芽がいまこのようにでようとしていると、結論づけている。しかし、この映画の製作に当って始めにいった点検は全く姿を消し、父母、市民、教師の協力だとか、地域ぐるみの「子育て」の記録映画だといった基本的な製作姿勢は何処へいってしまったのだ。

 たとえば、昨年の十一月二十日の製作ニュースをふり返って見よう。「秋空の下撮影すすむ」の内で親と子、地域と子どもといった撮影に入ったと告げ父兄の歓心を買うような(現在ではそうとしかおもえない)記事を大見出しで載せているが、改訂版にはその片鱗すらみうけられない。

 この映画には教師諸君のいっていたような、中津川の教育の点検のための製作である、この映画をとおして、親も教師も、子供の教育を考えるすべの市民が明日の教育を考えるためとか中津川の教育の点検であるとか立派なことが言われて来たが、できあがったのは全く“うらはら”な教師達の現在の教育姿勢のどこが悪いのかという、ひらき直った態度さえ見える。父兄、市民への押しつけである。……

 この映画は市民の恵那の中津川の教育の点検という悲願を置きざりにして、私達の手のとどかぬところへいってしまった。」(恵陽1978.5.13、立石道郎)

 

 

・1978年3月 2度の学力テスト結果の公表

 

 小木曽のレビューでも渡辺教育長の反論として取り上げていた学力テストの結果であるが、中津川市立教育研究所「研究紀要 第8集」(1978)の中で確認ができた。これは国立教育研究所の「学力実態調査」と「学習到達度調査」という2つの学力調査結果として示されていた。

 この調査自体は極めて綿密に行ったように見えるものである。試験内容は国語と算数の基礎問題が出題されており、誤答分析も行い、その誤答の傾向も全題示している。

 ただ、気になる点もある。まず、この2つの調査の実施日である。中津川市における「学力実態調査」の実施日が1976年12月10日であり、「学習到達度調査」は1978年1月25日である。コロナウイルスの影響でまだ正確な裏が取れていないが、両調査とも、国立教育研究所が正式な調査として実施した時期よりも後に行っているらしいことがciniiの論文検索を見る限り確認できている。要するに、既出の学力調査について、(おそらくは国立教育研究所の許可を得て)中津川市の児童にも実施したというのがこの2つの学力調査である。

 また、具体的な調査方法については「研究紀要」では何も示されていないが、少なくとも悉皆調査としては行っていない。例えば、「学力実態調査」の方は小学5年生の調査人数は算数が251人、国語276人とされており、中学1年は数学が374人である(国語は未確認)。統計データを確認すると、1978年5月1日時点での中津川市立小学校在籍児童は合計5,197人、中学校在籍児童は合計2,528人であり、1学年800人前後は在籍児童がいるはずなのである。また、同じ日にやった割には小学5年生の算数と国語で実施人数がかなりずれている印象がある点も気になる。

 

 この2つの疑問は「恵陽新聞」の1978年6月3日号でも同じように取り上げられている。

 

「テストの方法が問題である。実施者が公平な第三者でなくて報告者自らのもので、自分が自分を、親が子をテストして公正なものであるというようなものであり、実施したクラスも無作為抽出とは書いていない。一番出来るクラスかも知れないしそのクラスだけ特訓もできるし、予め練習させておく事もできる。必ずしもそうだというのではないが、そう疑われてもしかたのないようなものを公表して市民を納得させうるだろうか。」(恵陽1978.6.3)

 

 これだけ見ると随分と偏見があるように見えなくもない。しかし、やはり基本的に学力低下が深刻なものであるということは当時の記事を見る限り、(小木曽の議論も含め)繰り返し、実証的に示されてきたところもあり、その事実に反するという前提があれば、このようなうがった見方も致し方がないかもしれないとも思える。

 例えば、小木曽も紹介し、岐阜県議会でも話題になったという高校進学模擬テストの経年比較において、中津川市も含んだ東濃地区は過去十年程度は低い基準にあったことが指摘されている(小木曽1980、p242)。新聞でも次のような記述があった。

 

「先日、岐阜日日新聞社が発表した模擬テストの結果は東濃人、とくに中津川、恵那地域の人々にとっては実にショッキングな発表だった。そのテストは県下六地区のうち東濃が最下位、しかも英語は一位の岐阜六一・四に対し三二・八。国語理科、社会といずれも最下位、平均点も岐阜の二七九・七に対し二二二・九という成績である。

 なにも成績のよいことばかりが万能ではないが、せめて平均点ぐらいはほしいものである。東濃の人間は県下で一番頭が悪いということも今まで聞いたことがないし、成績のよい若者も多数いた。それが近ごろなぜこんなに成績が悪くなったのか、教育者も父兄も、いや東濃の人々は真剣に考えなければならない。」(三野1977.2.20)

 

「高校教職員組合恵那支部の「落ちこぼれや非行は受験競争、つめ込み教育」というチラシが各戸に配布された。一読して、去る七月県議会で多治見市選出の古庄三六県議が「東濃は教育の谷間」という代表演説と、これを受けて県議会が「教育の正常化」決議を行ない、日の丸を掲げ君が代を歌おうと決めたことに対する反論とうけとれた

 学力は県下最低、非行は県下一、というあの古庄県議の演説は東濃ことに恵那地区の父兄にとってはまことにシヨツキングな問題提起であった。恵那の教育はこれでよいのか?と幾つかの新しい動きが始まったのも当然である。

 このチラシでは“学力は最低ではない”と国民教育研究所の資料をのせ、古庄県議の資料は一業者の結果だけで然かも受験率などが考慮されていないものだといっている。がたとえ一業者(新聞社)の資料とはいえ九年間も各課目とも最低とはいかにもなさけない

 非行についても「ある一時期の警察に摘発された万引だけを取りあげた」とし非行は恵那だけでなく全国的傾向だとのべている。が一時期にしろ県下一とは誠に遺憾であり等閑に付すべき問題ではない。政府や社会にも問題はあるが、みんなで責任をもち、謙虚に真剣に取り組みたいもの。」(三野1977.9.11)

 

 

・1980年9月・12月 中津川市議会

 

 小木曽(1980)の出版のインパクトが非常に大きかったことが当時の状況からわかる。三野・恵陽新聞でも紹介され、自費出版ながら発行部数は7月から3ヵ月で4,000部売れたという(1980年9月16日中津川市議会定例会議事録)。このうち3,300冊が中津川市で配られたものである。1980年の国勢調査によれば、中津川市の世帯数は14,502世帯(人口52,626人)となっていることから、4世帯につき1世帯近くが本書を手に取っていたという計算になる。9月の議会においても、本書に関連する一般質問が3人の議員からなされた。本書に対する評判については「この本がわずか3ヵ月で4,000部も売れ、その反響のほとんどがその内容を肯定し、この際改善を求める声が強く多いとすれば、議会の立場からもこれを看過するわけにはいかない重大な教育上の問題」(1980年9月16日、千村信四朗議員一般質問)、「これまで私が耳にした本の反響は、内容に対する共感の声が圧倒的に多いことです」(1980年9月16日、市岡廣議員一般質問)という形で好意的な意見が多数であったと述べられている。

 議会の質問内容としては学力低下、非行問題、映画の問題とその監督責任の議論が一通り語られるものの、9月の議会では特に真新しい議論があったとはいえなかった。ただし、12月の議会は少し事情が異なる。12月の議会で市岡廣議員は次のように発言している。

 

「まず質問の第1点は9月にも行いましたが、その関係もありまして少々くどいぞと言われるかもしれませんが、何としてももう一度渡辺教育長さんから明快な見解をいただきまして、毅然たる姿勢で問題に対処していただくため、あえてもう一度ここに取り上げることにしたものです。

 それは教育長さんの学校に対する管理、監督、指導に関するかかわりの問題であります。9月議会の折り、この主題の中で私は次のように渡辺教育長さんに対してご質問を申し上げました。それは学校を中心にいろんな活動が行われています。PTAの活動はもちろんのことですが、育てる会、母親連絡会、さらには新婦人の会などの活動がとりわけ私たちの目に触れております。学校を中心にしたPTA活動以外のこれらの活動は教育の職務を全うする上でどうしても必要な教育活動なのか、はたまた自主的な、任意的な組合活動としてあるのかとの問いかけをいたしまして、具体的な事例の一つとして特に育てる会の位置づけについて申し述べたところであります。さらに育てる会の通信文がいまもって子供たちを通じて各家庭に配布されている事実についても指摘いたしまして、こうした状況のもとでは学校の政治的中立性がないがしろにされる危険性がきわめて大きいと、危惧の念を申し上げてきたところであります。そうしてこれらに対して今後どのように指導をしていくのかをお聞きをしたわけです。

 渡辺教育長さんは私のこれら質問に対しまして、次のような見解を披瀝をされましたし、私自身もこのやりとりを通じてそれなりに理解をしてきたところであります。それによれば、まず育てる会などもろもろの諸団体は教師の本来の任務である教育実践としては異質なものであり、これらは民主団体といった位置づけにあること。この活動は民主団体の構成員の自主的な活動であるべきであり、この面では拘束時間外に活動すべきだ。明確にお答えをいただいたものです。さらに子供たちを通じて通信文を配布することについては決して望ましいことではないので、厳重に注意を申し上げ、これらけじめをつけるよう今後指導したい、このように答弁をいただいたわけであります。

 ……しかし再びこの壇上から同じような問題で質問を申し上げなければならないのはまことに残念だと言わなければなりません。皆さん、私の持っているこの新聞を見てください。この新聞は新日本婦人の会が発行しております新婦人新聞であります。ある特定な読者を対象に発行をされてる新聞であり、私がここでこの新聞を取り上げて話題にすることこそ奇異に感じられる方もおみえになると思いますが、この新聞をこの壇上で取り上げてどうこうするという気は私自身毛頭ありません。むしろ私がここで取り上げたのは9月議会で渡辺教育長さんからの明確な答弁にもかかわらずある特定の学校で、それも特定な先生を通じてまことに堂々とお母さんのもとに届けられたという事実を、この新聞を通して指摘をしたかったからであります。新聞の発行日付は1980年11月6日であります。私が9月議会で一般質問をいたしましたのは9月16日だったはずです。……この縦位置にはあて先のお母さんの名前が印刷をしてあります。その横には子供の学級名が、そして下には小さく子供の指名が印刷をしてあるわけです。発行のたびごとにこの帯封が印刷をされたのか、1度に何枚か印刷をされたのか、あて名書き謄写印刷機を使って書かれております。……まことに淡々と渡辺教育長さんのお達しなどどこ吹く風と、教育の第一線ではこんな事実がまかり通っていることです。これを見て私はある種の戦慄を覚えるものであります。」(1980年12月12日、市岡廣議員一般質問)

 

 さて、この議会後この問題が適切に指導され改善されたかというと、2度の議会質問を経てなお改善されていなかったようである。この点は恵陽新聞の小木曽尚寿の連載からも確認できる。

 

「その際渡辺教育長(当時)は、議会という公的な場で、その間違いを認められて「厳重な注意」を確約された。

 私達はこれでもう、こうした行為はいくらなんでもなくなると思っていた。

 ところがどうであろう。市内O小学校の一部の先生は、それ以後、今日まで(二月二十七日現在)機関紙は堂々と子供の親達に向けて配布されている。子供に持たせなければいいと思われてのことなのか、先生自らが親達に配っておられるケースもあるという。」(小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」1985,p120)

 

 この動きを踏まえ、小木曽らは直接県や国に請願する署名活動を行っていたようである。後日別途考察するが、端的に教育委員会は現場の監督を行うようには機能していなかったというのは事実であり、むしろ共犯者的な立場にいたと言うしかない状況だったのである。

 

・1981年6月 渡辺春正教育長の辞任

 

 小木曽の本の出版により過熱傾向のあった教育問題の議論であったが、翌年渡辺教育長が自動車免許を更新しないまま運転(無免許運転)をした問題に対する責任問題から辞任をすることで、以降沈静化の傾向が確認できている。

 教育長の無免許運転の事件が4月7日にあり、その直後4月9日に「減給」処分が発表された。この対応の速さには「電光石火ともいうべき、早さで市も教育委員会も処分の処理をしたことである。」「この事は市民の中からこの事件を起爆点として新らしく当地の教育批判の出てくることを恐れて、市民の目をそらさせようとする意途があると、みることができるがひが目であろうか。」(恵陽1981.4.18、臼井清春)とのコメントもある。

 また、小木曽も次のように渡辺教育長の辞任をとらえている。

 

 

「ときあたかも、私どもの「小学校の政治的中立を求める請願」は県教委、文部省へ提出されている時期でもありました。中津川の教育の変革を願う市民、親の声は、ひしひしと先生の周りにも届いていたことと思います。

 先生が辞任を決意された動機は、ここにあったのではないでしょうか。

 先生が辞任にまで追いこんだのは一枚の免許証の有効期限なんかではなく、「特定政党支持」の機関紙を、先生が議会であれ程、追求されているのを百も承知で子供に持たせていた、心ない一部の現場の先生方の間違った行動である、そう思えてなりません。

 私がそっとしておけばいい先生の辞任の動機に敢てふれるのは、中津川市の教育を支配するこの間違った、教育と政治の癒着が許されていた時代は終った、そのことを、それを生甲斐としておられるような一部の先生に知ってほしい、ただそれだけの気持ちからです。

 先生がお辞めになったことだけで、中津川の教育の今、かかえているすべての問題が解決できる、とてもそんなふうにはならないと思います。……

 先生の辞任を機会に親達一人ひとりが学校とはなにをするところなのか、いまいちどそのことを真剣に考え直すきっかけとなることを期待して止みません。

 長い間、本当にご苦労様でした。今までの非礼の数々、心からお詫び申しあげペンをおきます。」(小木曽1985、p30-31及び恵陽1981.6.13)

 

(2020年5月20日追記)

※1 森田道雄の指摘によれば、1974年から発足したこの会議体は、112団体が構成団体であったとしており(森田道雄「続・教育行政の地方自治原則と市町村教育委員会」『福島大学教育学部論集』第31巻3号、1979,p18)、この数字が発足当時の数字と読んだとしても、報道と相当の乖離があることがわかる。これは学校数の数え方(例えばPTA連で1団体とするのか、各学校のPTAを構成団体とすることで多く数えているのか)によるのかもしれないが、この組織自体の定義付けの議論としては興味深い事実認識の相違である。

(2020年6月13日追記)

渡辺教育長が1979年に寄稿したもののなかにも構成団体が112とするものがある(藤岡貞彦編「講座 日本の学力4巻 教育計画」1979、p214)一方で、榊達雄の1980年の論文では118団体とされている(榊編「教育「正常化」政策と教育運動」1980、p23)。