小木曽尚寿「先生、授業の手を抜かないで」(1980)

 今回は「恵那の教育」についての検討を行いたい。本書は「坂本地区教育懇談会」の代表である著者が地元中津川の地方新聞「恵陽新聞」(現在は廃刊)に長期連載を行った文章を中心に収録されているようである。本書には1985年に出た続編もあるものの、どちらも国会図書館にさえ蔵書がなく、岐阜まで行かずに本書を手に取ることができたのは僥倖だった。

 坂本地区教育懇談会は1976年10月に結成。この会の結成の一因となった、「恵那の教育」を題材にした「夜明けへの道」が1976年6月に映画化することが発表されている。この会が結成されるにあたり、2つの調査結果を公表し問題提起を行ったことが全国区で話題となった。一つは民間の高校進学模擬テストの結果が5科目で206点、県平均の242点より大きく下回ったとした点、もう一つは坂本小学校五年生の子どもに17日間調査させた学校での授業科目に関するもので、「特別活動」に属するものが時間割では4時間しかないのにも関わらず、25時間近くあり、他の教科の時間数が削られているという実態を示したという点であった。本書ではこれに加えて、現場での偏向教育等の事例に多く触れている。「トヨタに入ると労働強化で殺される」かのような印象を与えるパンフレットを社会科見学の事前資料としたり(p31)、生活綴り方の研究会では日本経済のせいで家庭の破壊、性の荒廃、文化の頽廃が起こったことを自明視する資料が配られたり(p19)、特定政党の機関紙が子供を通して配られたり(p35)、万引をしても綴り方に書いたから、その店に謝りにいかなくてもよいとされたり(p5)といった形で、中津川の教育の問題を列挙する内容となっている。

 恐らく、小木曽の問題の矛先は以前レビューした榊編(1980)で取り上げた「教育権」を獲得しようとする反教育正常化派にあったのはほぼ間違いない。特にp54-55のような議論は、「教育権」を擁護する側の中心的理論である親・教師の共同論に対する明確な反対意見の提起とみてよいだろう。「普通の親」像の考え方については基本的に私が想定していたのと同じである。また、p8-9のような指摘からは、反教育正常化派に欠落しているのではないかと指摘した「自浄作用」を伴うような自己批判の余地のない主張がそのまま批判の対象にされていることがわかる。更にノートに十分に反映できなかったが、非行や学力問題といったものに対して教師たちがそれを体制批判として捉える際に、それが教育現場の当事者としてあるべき姿なのか、現場で問題が起きているのであれば、それに積極的に対処すべきであるのに、政治運動まがいのことしかやろうとしないのはただの無責任ではないのか、という不信感も強く本書には現われていた。

 

 

○「ウワサ」として片づけられる学力問題――恵那の綴方教育と「保護者の立ち位置」の関係性について

 

 本書に関連して、生活綴方:恵那の子編集委員会「明日に向かって(下)」(1982、以下丹羽1982と表記する)では、ちょうど1976年当時坂本小学校で五年生の担任をしていた丹羽徳子による現場の状況が語られている。坂本地区教育懇談会の公表内容が中日新聞で報道されたことについて触れられ、これ以後、「ウワサ」が広くひろまったことを指摘している。

 

「それ以後、地域別PTA役員会、家庭訪問などのなかでは「生活綴方」「地域子ども会活動のあり方」を中心にして、学力低下・非行化についての「うわさ」が、親たちの間でひろまっていることを先生たちはきいていました。」(丹羽1982、p12)


「 (※親の噂話に対し)そこで私(※丹羽徳子)は、
「地域のPTAの懇談会へ出たりしてわかったんだけど、今までになく学校教育への批判が出はじめているの。だけどそのほとんどが、『……げな』『……そうだが』と、事実をたしかめないで、うわさ話にのった問題ばかり。やっぱり自分の子どもを通して考えた自分の気持ちを言わなあかんねえ。子どもたちだって自分たちのやっていることを悪くいわれるのは悲しいから、いっしょうけんめい弁護してくれるんやねえ。でも、日本中の学校がそうだけど、絶対時間割通りやっているばかりじゃないから、ほんとうのことをらくに言える子にしてやらなあかんねえ」といったことでした。
 親と子、親と教師、親と親――子どもと教師、子どもと子ども、教師と教師の信頼の関係をバラバラにしていく刃のようなものをみた思いでした。」(丹羽1982,p14-15)

 丹羽自身はウワサはあくまでウワサでしかないという認識程度しか当時持っていなかったようである。確かに小木曽も当初は本書で書かれていたような偏向教育の実態まで多くの事例を問題提起していた訳ではなかった。また、授業時間数についても、「規定の授業とのズレは現場ではよくあること」程度の認識しか持っていなかった。
 しかし、気になるのは、榊編のレビューで、恵那の教育における論点の一つとしていた「保護者の立ち位置」についてである。少なくとも、子どもについては、丹羽の教育実践について支持しており、学力低下といった「ウワサ」に対してもそんなものはないという反発を強力に行っていることが、丹羽(1982)を読めばよくわかる。しかし、保護者はどうだったかというと、紹介される子どもの記録の中でも複数この「ウワサ」を信じており、子どもは親にも反発するという構図が見て取れるのである。

「あれだけの記事のことで 私とおかあさんの関係が、おかしくなっちゃった。

 私はいきおいこんで 帰って行って

「おかあさん わたしんたあが バカにされた新聞記事が出たに」

と、言ったら おかあさんが、

「先生に攻撃が かかっとんやに」

って 言った。

「そのことは 私たちが バカにされたことやに」

って、言ったら

「ほんとのことやら」

って 言った。

 私は もう この時 なさけないと思った。自分の親なのにやんなっちゃった。

 私のおかあさんだけは、私といっしょに、

「ひどいねえ」

と 言ってくれると思っていた。……

 あの新聞をみて 私のおかあさんみたいに信じちゃう人をいっぱいつくっちゃったと思う。新聞はひどい!」(丹羽1982、p38-39)

 この状況については、70年代後半に名古屋大学教育学部の関係者であった森田道雄「1970年代の恵那の生活綴方教育の展開(4)」(1998、「福島大学教育学部論集 教育・心理部門 第65号」URL:http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000002649/?lang=0&cate_schema=100&chk_schema=100)にも同じようなニュアンスで語られている。保護者は基本的にウワサに翻弄される客体であり、そのウワサというのは結局政治的論争の産物としてしかみなされていない。

「子どもたち以上に、親もまた学校批判の動きにとまどい、むしろ本音が言えなくなっていたのである。事実にもとづく批判ではなく、政治的意図を先行させた「攻撃」であったらばこそ、親を含めて住民の中に深刻な亀裂が走ったのである。」(松田1998,p19)

 しかし、このような態度は「反正常化」を批判する言説に対する適切な評価だったのだろうか。「中津川の子どもの学力が低下していたのか」という命題の真偽、という論点は後述するとして、少なくとも、小木曽がp62-63で指摘するように、それを議会の場で提起しなければ現場での教育における問題が放置されてしまうのであれば、このような方法に訴えるのも「やむなし」なのではないのだろうか?そして、そのような「やむなし」の状況に対して「政治性」の一言で片づけてしまうような態度こそむしろ問題なのではなかろうか?少なくとも、本書で指摘されているように、中津川の教育が「反正常化」側にも相当に政治的であり、子どもを政治に巻き込んでいるのは「反正常化」側だったのではないのか、という疑問が抜けない。それは丹羽の言説にも現われている。そもそも新聞報道について正面から学校の授業で取り入れ、その感想を児童に求め、「反大人」の連帯を子どもに強めさせる実践を行っていることや、松田道雄も本書を読み、反正常化側の問題指摘を認識しているにも関わらず、その実践の非については何一つ語ろうとしないこと、これらを踏まえてもやはり「反正常化」側の「自浄作用」というのは望めないものであるように思えてならない。

 また、「反大人」志向というのは、小木曽も早い段階で指摘していた。p194-195にある内容は1977年1月に渡辺春正中津川市教育長に提出した質問書が出典で、この質問書にもその問題が指摘されている。恵那の教育における綴り方実践において、このような「親の改心」がどの程度意図的に組み込まれていたのか、その実践にどのような社会問題を介した「憎悪」を持ち込み、その憎悪が子どもに対してはどのように影響を与えていったのか、という教育学的検討も興味がある所だが、このような志向を持った状況において、「教師と親の連帯」による「教育権」の確立というのは、更に厳しいものとなったといえるだろうし、そもそも「教育権」の獲得と綴方の実践自体が矛盾しているのではないか、という状況も垣間見ることができた。少なくとも丹羽の著書においては、自らの学級の保護者が連帯して丹羽の実践に協力し、「坂本地区教育懇談会」に対峙していったという図式は作ることができなかった。その連帯は子どもにしか及んでいないのである。

 

○残された「学力問題」についての是非

 

 「教育権の獲得」という形で、第一義的に教育を行う親の信託を得る形で行う教師の教育実践は事実上破綻していたといえるだろうが、他方で恵那の教育をめぐる学力問題についてどう考えるか、というのは別の議論が必要になってくる所である。
 本書が指摘する学力低下の議論については、私が調べた限り現時点で多くて2点明確な反証材料が存在するようである。一つは1976年秋に日教組が行った学力テストというのがあり、そのテストでは中津川の子は平均点を上回っていることを渡辺教育長が主張している(1977年8月12日毎日新聞朝刊3面)。もう一つは本書p237で紹介されている中津川市教育研究所から出たパンフレットに記載されているものである。この両者は同じ結果の掲載かもしれないが、少し気がかりであるのは、小木曽がこのテスト結果について具体的に説明しようとしない点にある。またp166-167にある調査結果の具体的内容にも言及していない。このような小木曽の態度は公平性に欠く印象がどうにもある。数字にこだわるのであれば、あくまで数字を示しながら議論すべきであり、自分にとって都合のいいものだけ数字を示すことには違和感しか感じないのである。


 これに関連してもう一つ気になる点を挙げれば、「坂本地区教育懇談会」自体は当初目的を達成したら解散する組織であるはずだが、p104-105の主張をそのまま鵜呑みにするなら、すでに現場ではほとんど不安要素はないレベルであるが、ごく一部の教師の態度に問題があるから、「坂本地区教育懇談会」は存続を続けている、ということになる。ここではすでに最初に問題提起をおこなったはずの「問題のある教育実践」に関する議論は蚊帳の外にある印象があるということである。本書だけではまだこれらの問題についてすっきりとする程明確な議論の整理はできないだろう。今後も検討を進めていきたい。

 

<読書ノート>

 

P5「少年非行の多発が憂慮されているとき、生活指導の面からも綴り方は有効であるといわれる。しかし、「万引をしても綴り方に書いたから、もうその店に謝りに行かなくてもよい」(前掲雑誌子どものしあわせより)こんな指導が綴り方の成果として堂々と語られていることをどう理解したらいいのか、これでは万引きは悪だという教育が二の次となっているとしか思えない。」

※雑誌は昭和五十一年六月一日付け。

P8-9「「今日の教育体制のなかで強制されている計画は、目前の子どもの実態を深くみつめ、そこに人間としての発達の問題点を探ることもなく、目的意識としての人間像は期待される人間像〈指導要領の到達人間〉にまかせたうえで、指導要領の項目を、単元、教材として割り振ることを、「なに」を「どう」する専門性にすりかえられている。ここには、本当の「なに」をみつけ、選択する必要はないしそれをこそ専門家の特性として探求する意欲が生ずることはあり得ないのである。主観的には「なに」を「どう」のつもりで割りふりをしていても、結局は、指導要領を「どう」効果的に具体化するかという点での猿芝居に過ぎない。」

 これは本年七月、中津川市南小学校、石田和男先生がある機関紙(昭和五十三年五月三十日東濃民主教育研究会発行春季号)の冒頭で「私の教育課程づくり」に関連して述べられているものである。石田先生は今、中津川の教育の指導的立場では第一人者として自他共に許す有名な方である。親にとってはむつかしい理論はわからない。しかし「指導要領をどう効果的に具体化するのか」その実践を猿芝居とされるなら、そこで強調される「私の教育課程」は、いったいなにを基準に作ろうとされるのか、まさか石田先生ともあろうお方が〝やりたい放題やりなさい〟といわれるはずはない。が私達が読んでそう感じられるように、経験の浅い若い先生は「指導要領」を守らないことがいい先生だと錯覚しそうなお言葉である。」

※少なくとも理論を突き詰めた場合は、小木曽の批判は妥当という他ない。石田の主張に他に含みがあるかどうかという論点は残りうるが。

 

P9「石田先生がもし本当に公教育の基本である指導要領をそう思っておられ、更にこうして活字にしてまで訴えられるなら「塾」の教師になられるべきと思う。」

P18「だが私達は三年前から、中津川の「生活綴り方」が、子供の教育のためにというより、むしろそれは教師集団としての、極めて強い「政治改革指向」に利用されてきたのではないかということを具体的な事例によって訴えてきた。渡辺教育長にも親の側の率直な疑問を「質問書」という形で提出したが、ついに回答は得られなかった。私達がそう危惧する根拠はいくつかあるが、その一つとして次の資料をみていただきたい。これは昭和五十一年二月苗木小学校で開催された「生活綴り方合同研究会、小学高学年部会」に提案されている中津川の「生活綴り方教育」の本当の目的ともいえる内容である。もちろん提案された先生から直接説明をきいた訳ではないがこの解説がなにを主題としているかは一目瞭然、なんと生活綴り方で子供達にわからせることは「日本経済が個々の家庭を押しつぶしている」ことにある。

※資料中には「家庭の破壊、性の荒廃文化の頽廃」が自明のこととされ、「問題の奥の日本経済が個の家庭を押しつぶしている様子がありのまま見えるようにするには?」という問いが立てられる(p19)。

P20-21「先生方が個人として、或いは集団としてどんな政治理念、思想をもたれようと親達がとやかくいう筋合いはない。が、特定の政治思想を子供に押しつけることだけは断じて許されない。……

子供達が成人したとき、自らその道を選ぶのなら致し方ない。しかし、小学校時代から「社会変革」の担い手となる教育を期待する親がそんなに多いはずはない。」

P22教育映画「夜明けの道」の一節……「戦前に生活綴り方教育があったら、軍部と大企業が結託しても戦争は起きなかった」

 

P31「トヨタへ入ると労働強化で殺される」大人ならそんな企業がいまどき企業として生き残れるはずがない。それは常識として知っている。が10歳の子供にはそれがない。事実なら致し方ない。それがどんなに暗いことでも、そこから目をそらしてはいけない、そう教えてやって頂きたい、しかし、事実でもないことが、子供達にとって絶対的に信頼をおく先生から、教室で教育という名のもとに教えこまれる。こんなことが許されていいのだろうか、純白などうにでも染めることのできる子供の心に消しがたいシミを残すことになりはしないだろうか。」

※余談だが、小木曽は三菱電機の社員である。これについては教育長から「これは間違っている。今後はこういうことのないよう指導する」と回答があるようである(p31)。

P34「「父母なんかの要求は、いびつな中にも、とにかく上の学校へ行かせたいという要望がある。本当に子供をしっかりした人間にするということとは、ちょっとすじの違う要求が、手をかえ、品をかえて表れてくると思う。教師はそれを乗り越えねばならない。」

これは教育映画、「夜あけへの道」で、中津川の教育の指導的役割を果してこられた、元東大教授の肩書のあるえらい人言葉である。このように中津川の正規の授業を重視しない特異な教育が、人間作りの美名のもとに、大手をふってまかり通り、それを理解しない親は、子供の受験のことしか考えない「悪い親」であえう。こういう風潮があまりにも表面に出すぎている。

たしかに都会の学校では、過熱する進学競争のあおりをうけて、その弊害がいろんな形で出ていることは事実であろう。しかし中津川では問題の背景がまるで違う。学力レベルが、ここ数年常に県下で最低となっていることは、正規の授業が少い、やるべきことをやってない、ここにありはしないか、親がこう考えるのは当然である。」

P35「もう一つ付け加えておく。中津川の教育の特異さは授業ばかりではない。小学校で特定政党の機関紙が、子供を通して親に配られていた。これは全く一部の先生の事例かもしれない。しかし一部にしろ、こんなことが堂々とやってこれたのは全国でも中津川だけだろう。」

 

P47「中津川の親たちの「知育」に対する関心の高さには、先般、市が実施したアンケートにも如実に表れている。今、親達の関心がどこにいちばん集っているかを、十分承知されていながら、敢てそれを避け得ても、「知育」こそ学校の存在が問われる本質の問題であることは、世の中がどのように変ったとしても、このことだけは変るまい。映画作りを契機に、中津川の教育を問い直す機運は確実にたかまっている。」

※詳しい内容は不明。

P52「続発する子供の非行、自殺に心を痛めない親はない。その原因の一つにいわれるような、大人の暮らしに起因することも理解できる。がなぜそこに「有事立法」が出てくるのだろうか。全く無関係であるとはいい切れないものの、子供の非行と「有事立法」を結びつけて考える親は、極く限られた一部の人達であろう。その人達にとって今問題なのは、子供の非行よりも、政治の流れでありそれにまつわる政党の消長ではありますまいか。

子供の自殺も心配されてはおろうか、それさえも、今の政治が間違っている。それをいうための一つの現象として考えられているに過ぎない。こういったら言い過ぎであろうか。

中津川においても、子供達の非行化を憂い、基礎学力向上を願う多くの親達の声は、政治、思想を越えたところにある。であるのに中津川の教育が、子供の非行と「有事立法」を一緒に考える一部の親と教師によって、長い間リードされて来たこと、ここに問題があったのではないだろうか。」

※昭和五十四年五月の「恵那の地で教育を考える全国親の集い」の呼びかけの資料で、「子どもたちの、この荒廃のひどさは、取りも直さず、大人達の荒廃のひどさの反映だと指摘されてきています。(中略)

まことに、今私達の生活は、政治的、経済的、社会的に戦後最悪の危機的状況に落ちこんでいるように思います。有事立法、元号法制化、失業、物価高、増税など、様々な形で生活をおびやかされ、自由をせばめられ、主権在民がないがしろにされ、子ども達の全面的な発達をめざす努力に対しての圧力が加えられたりしてきています。」(p51-52)と言う。物価高なども全部悪とみなされている。

 

P54-55「なお今回の企画には、映画の撮影を担当した「日本ビデオ」も参加されている。が日本ビデオそのものが、中津川の教育をどうみておられたのか、それは代表者である桑木道生氏が、ある雑誌に発表されている次のような文章からうかがい知ることができる。

「しかし、学力が低いと教師たちを攻める親もある。そして数十人で団体を作ってさかんに活動をしている。それは新しい傾向で、親のなかに反対派を育成して親同士を対立させ、混乱させ、〝教育は教師と親の共同作業〟という教師たちを孤立させようという狙いがあるように見える。ベトナムで失敗したあの手口と同じ手口が、こんなところまで応用されている感じだ。」(昭和五十二年十一月十五日発行、雑誌「子どものしあわせ」一〇一ページ)

私にはベトナムの手口とはどのようなものかわからない。

ただわかっていることは、三年前この映画作りが「引金」となって立上った親達の、中津川の教育と子供達の将来を憂う必死の提言が、このようにしか読みとれないとしたなら、中津川の教育に向けられたカメラのレンズの焦点は、はじめから子供には合っていなかったとしかいいようがない。私達は子供達の教育が、親と教師の「共同作業」であるという認識をかたときたりとも忘れたことがない、だからこそ、具体的な事例をもとに、親の願い、期待を率直に学校をPTAに、ぶっつけてきたまでである。」

※教育権に対する根本的な考え方のズレによる意見の相違。しかし、少なくとも教育権擁護論者には小木曽のような立場は理解不可能である。なお、公開質問状を送っているが、それに対する回答もなかったという。やはり対話をする気がないのである。

 

P57「恵那の地で教育を考える全国集会」における映画放映「人間の権利、スモンの場合」における描写…「ところが、観ているうちに、カメラが追う憎悪の対象が、いつのまにやら、自民党政府に移っている。そしてスモン病とはあまり関係のない、大平総理の靖国神社参拝と右翼、こんなのが飛び出してくるころには、これはいったいなんのために作られた映画かわからなくなっていた。」

P62-63「五十一年十二月中津川市定例市議会に於いて、中津川市の教育の「中味」について、とりわけ小学校高学年の学校教育のあり方が問題となったが、このことは、中津川の教育、三十年の歴史のなかに、かつてなかったことだといわれた。

更にそれが発端となって翌年七月の岐阜県議会でも地域的な学力低下の問題等がとりあげられた。

これらに対して、先生方、あるいは革新側といわれる政党、労働団体は、一斉に〝教育に対する政治介入〟として強い反撥を示され、渡辺教育長も、五十三年二月のテレビの取材にお応えされるなかで、教育への政治介入を厳しく指摘された。

だがよく考えてみると、私達庶民にはむずかしいことはわからないが、市議会にしろ、県議会にしろ、進められていく行政に対する市民の不平、不満、疑惑、不正、などを市民にかわって、執行する側に対して、問いただし、間違いがあればそれを改めさせる。市、県政の百年先の大計見極めることと同時に、こうした市民の声を行政に反映させることも、議会の大きな役目であると思われる。」

※教員組織が自律的な改善を行えない組織である以上、議会で問わないでどこで問えばよいのか??

 

P104-105「今、坂本小学校の授業内容は(※坂本地区教育懇談会設立)当時と比較したら、格段の違いである。地域活動にしても綴り方授業にしても、ある節度が保たれている。表面ではともかく、やはり私達の願いはきいていただけた部分も多かったと感謝している。

だったらもう(※会の趣旨として不要となったら解散するとしていたことからも)解散したら……。私達もそうしたい。でも、PTAの総会に現職の教師を議長にしての、国会なみの「強行採決」があったり、ヤジと怒号で相手の発言を封じこめようとするような人達を、PTA会長も、そこにいる先生方も、だれ一人注意できない、こんな現状をみせられては、これからさきもPTAに親の願いが素直に生かされるといいがたい。まだまだ旗をしまうわけにはいかないのである。」

P150「中津の教育は低い、なんていっとるわね。低い、低いって、どこが低い、自分の子供の話でいってみい、いうとありゃせんで。自分の子どもの中に力があんのかないのかわからんのよ」(一九七六年六月一日発行子どもとしあわせ六月号六一ページ・南小学校・石田和男先生)」

※「数値化の全否定」の精神。

 

P165「しかし五十四年四月十九日付「広報なかつ川」は、市民の多くが学校教育に強い関心をもち、なかでも教育方針の改善、教員の資質向上、基礎学力、道徳教育の充実を期待する声が、圧倒的に多いことを報じている。これらは親達が学校には本当のことをいわない。しかし見るべきところをちゃんとみているたしかな証拠である。」

P166-167中津川市学力充実推進委員会一九七九年十一月実施「父母の教育要求第一次調査」の調査票

※調査結果はなぜか紹介しない。

P192「市議会において、さきの授業時間の実態と同様、教育長から事実と相違するという御指摘があった。この点数については私達は絶対にまちがいではないという確信をもっている。そしてここで私達が理解して頂きたいのは、〝中津川の子供達はこれ程のハンデイを背負って高校進学へ立向かっている〟という事実であり、このことを多くの親に認識して頂きたいのである。」

※ここでの議会は、1976年12月の議会を指す。

 

☆P194-195「生活綴り方が、教育長の御見解に示されているように、“暗いものをどう明るくするか、その子の生き方の指導の手がかりとする”これは単なるタテエマ(※ママ)であって、真のねらいは子供達に家庭の内情を細かに書かせることによって、それをテコに社会の、家庭のゆがみを告発するという手段に使われている。だからこそ暗い面、おぞい事を書けという指導に傾くのではないか。

 先生方が雑誌(前掲こどものしあわせ六月臨時増刊号)に発表されている生活綴り方の基本的な考え方の部分を引用させていただくなら、

「(親は)もっと困って、困って、困りぬくとええのよ。困りぬくものを子供が書きゃええの…。」(P・58)

「子どもが家の中のことを書くってことが家庭生活を変えていくきっかけになっていく……。」(P・58)

「世の中の矛盾が生活の一番根拠である家庭に集中しとんでね。だから家庭の中のいろんなことが、たんに家庭の問題だというふうにとらえられておるうちはだめよね。社会の問題なんだちゅうふうに目が変わらんと、親の変革ということをいやでもそこで生みださにゃどうにもならん…。」(P・60)

 私達親にとって専門的な教育理論はわからないものの、学校教育に期待するのは「世なおし」よりも文章がきちんと書ける力を養ってほしいということである。その力も人間性も暗い、おぞいことを書くことでしか育たないという理論があまりにも強調されるところに不自然さと疑問をもたざるを得ない。」

※「こどものしあわせ」は1976年のもの。

 

P237昭和五十三年三月中津川市教育研究所から出たパンフレットで「中津川の子供達の学力水準は、全国レベルを上回る」という実態報告がなされる

P241「「業者テスト(高校進学模擬テスト)の求める学力は差別、選別のための詰め込み学力に重点がおかれ義務教育で必修の基礎学力や生徒が自分でものごとをしてゆくための判断、真の学力に基準を置いていない」(52年7月13日付毎日新聞渡辺教育長談話)」