ジョン・W・ダワー「人種偏見」(1986=1987)

 本書は第二次大戦前後の「日本人論」を分析したものである。

 杉本・マオアのレビューの際にも「日本人論」には「日本人から見たもの」と「欧米人から見たもの」の2つがありえることを指摘したが、本書はその両方の議論について当時の言説からその異同について、極めて実証的に語っている。その物量も多く、また当時の雑誌の挿絵等の掲載もしており、非常に当時の状況がわかりやすく描かれているといえるだろう。残念ながら、邦訳にあたり、参考文献のリストについてはカットされてしまったようだが、メインである部分については、それでもなお充分な実証性をもって説明しているといえる内容となっている。

 

○日本人の「ユニークさ」について

 

 特に細かく議論されていた点として日本人の「ユニークさ」が挙げられる。杉本・マオアのレビューではこの「ユニークさ」というのは「日本人側から求められたもの」と明言していたが、本書により日本だけでなく欧米人側からもそのユニークさは必要とされていたことがわかる(p38-39)。まずその奇怪さについては、過去において他の「非白人」言説にも同じように語られていたことを述べる(p12)。死に対する価値観についても連合国側の比較をした場合それが特異かどうかに疑問符をつけている(p15)。

 また、日本が「ユニークさ」を求める理由についても複雑であることがわかる。大枠としては「白人至上主義」のアンチテーゼの強調のために用いていることが、本書を読めば痛い程わかってくる。日本が第二次大戦を「聖戦」とするためのレトリックとして、現在支配的である欧米を批判する必要があり、その結果として非白人的価値観が強調されることになる。これはそれまで西洋化の影響を受けていた日本にとっては「浄化」の実践として現れていたようである(p268-270)。また、この批判に「個人主義=利己主義」が含まれていたことも無視できない。戦後も日本人論の中でこのような価値観の違いが存在するという認識はある意味で素朴に、時には強く内省を求める形で再生産されていった訳だが、そのルーツを遡れば、戦時中においては日本人論をそのように定義すべきものとして、「戦争」を通じて強く政治化した言説として流通していたこと、その影響を現在でも受けうる形で日本人論が語られていることについては強く内省すべき部分であろう。実証性なき日本人論を何となく語ることの問題というのは、本書を読むとよくわかってくることである。

 

○「他者」認識の影響をどう考えるか?

 

 本書において示唆されているのは、偏見等に基づき形成された「日本人論」が当時の戦争での判断に影響を与えていたという点である。これは真珠湾攻撃までの日本の軽視(p137)や、原爆投下の判断(p184-185)といった形でその影響の可能性について言及される。

 また、日本人の他者イメージとしての「猿・ゴリラ」と、欧米人の他者イメージである「鬼」がそれぞれ形成されていたと指摘する一方で、特に「鬼」のイメージの方はその意味が両義的でありえたという指摘も注目に値する(p302)。鬼のイメージに限らず、ダワーは日本の中心イメージのいくつかが多義的でありえた(曖昧であった)と指摘しており(p296-297)、杉本・マオアが指摘していた「欧米人の日本人論が二項図式的であり、日本人の日本人論がその図式が緩和されていた」という見方にもマッチする。この議論の意味についてはより深い検討が必要になってくるだろう。というのも見かけ上確かにこのような違いがありえたかもしれないが、それでもなお日本人・欧米人の「敵視」観というのはその違い程変わらないようにも思えるからである。戦後においてはどちらにおいてもその「敵視」についてのイメージは簡単に抹消されたし、ダワーが言うような「日本人は『鬼』のイメージをアメリカ人に与えなくなった一方、アメリカ人は相変わらず「猿」のイメージのままだった」という議論に対して、「日本人が良心的だった」というような意味を与えることができるのかは微妙であるからである(ダワーがそう指摘している訳ではないが)。

 そもそも、概念の曖昧さというのもまた、それ自体日本人論的には日本の特徴として挙げられるものだが、その実質的意味(つまり、その言説が行動に与える影響力)というのは必ずしもその二項図式と関連するとも限らないからである。また、日本の「鬼」のイメージをそのまま「非人間」としての鬼と同一視してよいかも微妙である(欧米人の「猿」よりは、日本人の「鬼」のイメージは「鬼」そのものではなく、「人」をそのままイメージする傾向も強いのではないかと私などは思う)。

 もちろん、この「言説」と「行動」との関連性も検討の価値があるが、同時に「言説」と「大衆認識」との関連性についてももう少し細かく考察する余地はあるように思う。ダワーはこの点かなり「大衆性」を意識した形で議論をしており、「エリート」向けのものがそのまま解釈される訳ではないことも把握している(cf.p268-270)。ただし、例えば欧米人の日本に対する「猿」という他者イメージも必ずしも普遍的な見方ではなかったとも言いうる。本書でも取り上げられているフランク・キャプラプロパガンダ映画「Know Your Enemy:Japan」はインターネット上でも観ることができたので観てみたが、本映画における「非人間」の描写というのは日本の地形に似た「龍」と、八紘一宇を連想させる「タコ」だけであり、類人猿としての描写は存在しなかったのである。

 ただ、ダワーが言及するそのイメージの変化というのは考察の余地が大いにあるように思えるし、その考察にも大いに意味があるように思えた。私自身も今後この動きを追ってみたいと思う。

 

 

<読書ノート>

Piv「たとえばアメリカ側についていうと、戦争中に日本人を動物化した表現が、最近また「エコノミック・アニマル」として日本人をステレオタイプ化する中に見出される。非白人をいつも子供とか下等な人間として表現する白人至上主義の伝統はいまなお消えずに残っていて、「ちっぽけな」日本人という品位を傷つけるような表現の中にいま見られるのである。しかしながら同時にまた、日本をスーパーパワーとし、日本人を「スーパーマン」としてみる最近の欧米人の傾向は、第二次世界大戦やそれ以前に流行したステレオタイプを再現したものとしてみることができる。」

Pv「一方日本人の側にも、ほぼ同様の傾向がある。たとえばある日本人の社会の中では、アメリカ人のことを、規律を欠いた「雑種」としてひやかすことが流行している。こういう見方がどのようにして生まれてきたかを知ることは、それほど困難ではない。しかし歴史を学ぶ者は、やがて日本に災害をもたらすことになったあの太平洋戦争勃発のときに、同じようなアメリカ人軽視が人種的な宣伝の中心に横たわっていたことに気がつくであろう。

こういう態度のもう一つの側面は――これこそもっと敏感でもっと有害な側面であるが――中曽根首相や他の政府高官たちが民族と文化について日本人の純粋性と単一性にたびたび言及した例にみるように、日本人の自己賛美の風潮が高まっていることである。この本の中で詳しく論じたが、この「純粋性」こそ、第二次世界大戦後のときに日本人のイデオロギーの中心的な民族観だったのである。それがいま、欧米ばかりではなくてアジアの中でも、日本人ではない世界中の人々に対して、新しいスーパーパワー日本という思い上がりとなって再び現われているのである。ここから、日本人の民族思考の中にひそむその他のおもな観念をたくさん引き出すことがでいる。……日本人はユニークであるとか(それは確かに事実であるが、同時に他の民族や文化にとってもまたそういえるのである)、国家や民族間の関係は、個人の場合と同じように階層的なものであるべきで、それぞれ「適所」を受けもたなければならないとか、日本には独特の大和魂があって、これは外国人にはとてもわからないばかりか、他のどの国民やどの文化の民族精神よりもすぐれたものであるとか、日本人はアジアや世界の「指導民族」となる運命をもっているのであるとか――といったことである。」

※雑種言説の所在は定かではない。

 

P11「アジアにおける戦争に伴う人種的表現やイメージは、しばしばあまりにも生々しく軽蔑的なものが多かった。たとえば連合国側は、日本人の「人間以下」の側面を主張した。そのために普通、猿や害虫のイメージがよく使われた。もう少しましなものでは、日本人は遺伝的に劣等の人種であり、原始性、幼児性、集団的な情緒障害という観点から理解されるべきだという言い方がなされた。漫画家、作曲家、映画製作者、戦争特派員、マスメディアは一般にこうしたイメージでとらえた。戦時中日本人の「国民性」を分析しようとした社会科学者やアジア専門家もまた同様であった。

戦いのごく初期に、劣等であったはずの日本人が旋風のようなアジア植民地を進撃し、数十万に及ぶ連合軍兵士を捕虜にすると、また別のステレオタイプが生まれた。すなわち、異常な規律と戦闘技術をもつ超人のイメージである。人間以下、非人間、劣等人間、超人――これらにはすべて、敵の日本人も自分たちと同じ人間であるという観念が欠落している。」

P12「それらは一般的に不平等な人間関係と結びつく原型的なイメージであり、その起源は両陣営ともに何世紀もさかのぼることができる。連合国側についていえば、黄禍感情にはけ口を与えた日本人に対する深い憎悪は、二十世紀以前には主として中国人に向けられていた。戦時中を通した「黄色」人種に対する憎悪の激しさと広がりは、いまとなって考えれば、猿のイメージの広がりと同じくらい大きなショックではあるが、しかし黄禍感情それ自体は何世紀も前から定着していたものであった。日本人の敵である白人たちが、プロパガンダ用にもっぱら用いた戦争と人種に関する言葉――その中核をなしたのは猿、劣等人、原始人、子供、狂人、そして何か特別な力をもった存在というイメージであった――は、アリストテレスにまでさかのぼることが可能であり、そしてヨーロッパ人が最初にアメリカの黒人や西半球のインディアンに遭遇した際に堅調に見られたような、伝統的西洋思想に根をもつものである。第二次世界大戦のレトリックでは非常に「ユニーク」とされた日本人も、実際は欧米人が何世紀にもわたって非白人に適用してきた人種的ステレオタイプを負わされることとなったのである。」

 

P14「相手に「獣性」を見ることは、欧米人のほうが手の込んだ方法をとったものの、いずれか一方のみの属性というわけではない。」

P15「最も基本的な生と死に対する態度でさえ、これは当時の関係者の多くがこの点にこそ日本人の欧米人の間に根本的な違いがあると主張したところであるが、よく調べてみると、それほど大差あるものではなかったことがわかる。多くの日本の戦士たちは降伏よりは死を選んだ。これは単に軍部内からの圧力ばかりではなく、連合国側に捕虜にするという意思がなかったという事情から、他にほとんど選択の余地がなかったためである。連合国側にとっては屈辱的な敗北、大量降伏の第一波を経験してからは、連合軍兵士もまた進んで降伏することはほとんどなくなった。まさに太平洋戦争はやるかやられるかの戦いであったために、どちらの側の戦闘員にとっても、生きるか死ぬかの個人的決断はほとんど無意味となった。確かに日本側の軍事指導者やイデオローグたちは、死を礼賛することにかけてはかなりの成功を見たといっていい。それは戦場でのバンザイ突撃や、戦争末期の神風に代表される特攻隊の創設によって明らかである。しかし欧米人も最後まで苦しい戦いを闘いぬく者をたたえ、場合によっては、ウィンストン・チャーチルダグラス・マッカーサーのような最高指導者たちが、部下の司令官に決して降参するなと命じたこともある。最後の一兵になっても戦う日本人を鼻で笑い、まるで人間ではないかのごとく扱ったアメリカ人でさえ、アラモとかリトル・ビッグホーンとかの敗北の叙事詩は大事にしていたのである。」

 

P26「次に映画は日本人の心についての解説となり、二つのユニークな要素でできているイデオロギーの檻に閉じ込められていると描写した。二つの要素とは、神道と、聖と俗をともにになう神のような天皇に対する信仰であった。この神道天皇の結合から、日本の人種的な優越の礼賛、神聖な使命という観念、さらに日本の屋根の下に世界の隅々まで入れるという目標が生じたのである。」

※映画はフランク・キャプラの「汝の敵を知れ」。

P27「近代化を進める日本は、軍国主義者、産業資本家、政治的エリートによって支配されていた。個人は完全に国家に従属し、全教育システムは、教えられたことをスポンジのように吸収する従順な臣民の大量生産に適応させられていた。学校の無意味な洗脳に少しでも抵抗した異端者や反体制の人々は、警察、憲兵隊、特高、愛国的な結社の自警団員――さらに神道天皇イデオロギーの無数の「亡霊」――によってうちのめされた。」

☆p38-39「敵のステレオタイプと肯定的なセルフ・ステレオタイプの興味をそそる一致は、アジアでの戦争中、文化価値が正反対のものとして理想化されたという点で注目はされるが、こうした理想化が必ずしも現実を反映していたわけではなかった。これに反して『臣民の道』のような古典的イデオロギー宣伝書は、日本の戦時レトリックの階級的な側面をはっきり露呈しているため、特に興味深い。実際には、日本人が均質的で仲がよく、個性に欠け完全に集団に従属していたのではなく、日本の支配グループが絶えず自国民に対して、そうなるよう熱心に説いていたのである。それどころか政府は、この種の厳粛な正統派的信念を精密に立案し普及させる必要があると考えていた。なぜなら支配階級は、大多数の日本人が天皇のもとでの忠誠と孝行という伝統的な美徳を大切にせず、相変わらず民主的な価値や理念にひきつけられていると確信していたからである。『臣民の道』は、このことを率直に述べていた。換言すれば、欧米人の圧倒的多数が抱いていた日本人像と、日本を支配するエリートたちが望んでいた日本人像とは一致していたのである。

このステレオタイプとセルフ・ステレオタイプの一致の最もよく知られた例は、英米と日本の解説者が一様に日本人の「ユニークさ」を執拗に強調したことである。」

※重要な指摘。

 

P41-42「第一の、暴虐のかぎりをつくしたドイツ人以上に日本人が憎悪の対象となったのはなぜかという問いに対する答えが、人種的要因に負うところが多いのは確かであるが、しかしそれは見た目よりはもっと複雑な背景をもっている。ドイツ人の残虐行為は古くから知られ非難されていたが、そうした中でも、良いドイツ人と悪いドイツ人は明確に区別されており、連合国側は残虐行為を「ナチ」犯罪と称し、ドイツ文化や国民性に根ざす行為とは見なさなかった。それ自体は合理的姿勢であったといえるだろうが、首尾一貫していたわけではなかった。というのは、アジアの戦場における敵の残虐行為は常に、単に「日本人」の行為として伝えられたのである。こうした歪んだ見方がきわめて根強かったために、日本軍の行為がドイツ軍に倣ったものだと報道されてもなおそのまま人々の記憶に残った。」

※ドイツではナチと非ナチで責任の区分けを行なっている。

 

P86「かなりの人数の日本兵が捕虜になった場合もあるにはあったが、たしかにジャングルや太平洋諸島での戦いにおいては、日本兵の大部分は、殺されるまで戦うか、あるいは自ら命を絶った。それには多くの理由があった。その大きなものは、天皇および国のために自らを犠牲にせよという教えと、降伏はするなという上官の命令であった。日本人は、この戦いは鬼のような敵に対する聖戦であると教えられ、そして実際多くの者が崇高な目的のために命を捧げると信じて死んでいった。そうした姿は、敵側から見れば「狂犬」であったが、彼ら自身からすてば神聖なる献身であり、また日本国民の目からすれば英雄であった。集団心理や集団逆上は、たしかにこうした死を煽り、バンザイ突撃に一種の陶酔感さえ与える一因であったが、同様に、使命、栄誉、従順という日本の風土に深く根ざした要素も、その一翼をになった。すなわち、日本兵は、ただ国や支配者がそうしろというから命を捨てたのである。またある者は、自分が降伏すれば家族が村八分になると信じて、最後まで戦った。

しかし見過ごされやすいのは、他の方法がなくて見絶えた日本兵が数えきれないほど多い、という事実である。一九四五年六月付の報告書の中で、戦時情報局は、尋問を受けた日本兵捕虜の八四パーセントが、捕虜になったら殺されるか拷問にかけられると思っていたと述べた、と記録している。情報局の分析家たちはこれを典型的なものと称し、「武士道」よりも降参したあとに起こることへの恐れこそが、戦場で追いつめられた日本兵たちが死を選ぶ大きな動機であるとしている。そしてそれは、他の二つの大きな要因に匹敵するもの、あるいはたぶんそれらを超える要素であろうとしている。その他の二つとは、家名を傷つけることへの恐れと、「国、祖先、神である天皇のために死にたいという積極的な願望」である。一方、たとえ投降の意思があったとしても、それは容易なことではなかった。たとえば、終戦直後に戦時情報局用に作成された概要報告書を見ると、日本人捕虜に関する書類には、降伏を試みて、しかも撃ち殺されないためにはどうしたらいいかに関して、捕虜たちが知恵をしぼった話がたくさん記載されている。すなわち、これは連合軍側が「捕虜をとることに難色を示したために、降伏が実際に難しい状況にあった」ことを示すものである。

アメリカの分析家たち自身認めたように、こうした日本側の恐れは決して不合理なものではなかった。戦場では、連合軍兵士も司令官も多数の捕虜を望まない場合が多かった。これは決して公式の政策ではなく、場所によっては例外もあったが、アジアの戦場においてはほとんど常態であった。」

※なぜこのような捕虜感になったのか。本当にアメリカ人だと違う認識になるのか?

 

P99「敵として一方では「ナチス」、他方では「ジャップス」とすることは、重大な意味をもっていた。というのは、「良きドイツ人」を認識する余地は残されていたが、「良き日本人」の余地はほとんどなかったからである。」

※「たとえば一九四三年はじめ、アメリ海兵隊の月刊誌「レザーネック」は、ガタルカナル島の日本人の死体の写真にGOOD JAPSという大文字の見出しをつけ、「良きジャップスは死んだジャップス」を強調するキャプションをつけた。」(p100)

P107-108「しかし、記者、諷刺漫画家を問わず欧米人によって一番よく描かれた日本人の戯画は、なんといっても猿または類人猿だった。……一九四二年一月なかば、イギリスの名高い諷刺雑誌「パンチ」は、「猿の一族」と題する全ページの戯画にまったく同じ紋切り型のイメージを使い、頭にヘルメット、肩にはライフル銃をかけた猿どもが、ジャングルの木々にぶら下がっているさまを描いた。」

P111「戦時中よく知られたアメリカの戯画の一つは、一九四三年四月、ドゥーリットルの飛行士の何人かが処刑されたというニュースが公表されたあと出版された。それは日本人を「アメリカ人飛行士の殺人者」というラベルをつけて涎を流しているゴリラ――「文明」という巨大なピストルがその頭を狙っている――として描いた。それは、動物イメージが日本人の残虐性と密接に関係していたというアメリカ陸軍の説明を、具体的に図解したものと受け取ることができる。とはいえ、この説明は単純すぎる。日本人の残虐性についての報告は、欧米人が日本人を獣として認識する大きな要因となったことは疑いない。が、猿の擬人化は、こうした連想とは関係なく存在していたのである。これは白人至上主義者が、非白人を卑しめるため伝統的に用いたあらゆる隠喩の中で、最も基本的なものであったかも知れない。それは有色人種というものを、野蛮というよりばかげた存在として描く際、しばしば使われた手法だった。それが欧米人にすっかり取り憑いていた人種主義の原型であったことは、戦争の漫画を見わたせばすぐにわかることである。」

 

P124「一九三〇年代の日本の村落について、古典的な研究論文をものにしたアメリカの人類学者ジョン・エンブリーは、「日本と日本人は他の国々と違っている。というより、日本のナショナリストたちが言うように、『世界の人々や文化の中でもユニーク』である」と述べた。」

※エンブリーの著書は日本人論ぽくなかったが…

P132-133「こうした独善的な過信によって事実をおおい隠したことは、注目すべきである。偏見が事実を装ったのである。しれは無数の取るに足りない、多分経験だけに頼る知識に基づいていた。欧米人は、日本人のことを単に軍事的に無能であるとして、考えもせず片づけてしまったわけではなかった。彼らは日本人が重大な脅威ではないことを「知っていた」のである。なぜなら日本人は、射撃も、操船も、操縦もできないと繰り返し報じられていたからである。日本が一九三七年以降、中国を屈服させることができないとわかると、こうした事実が再確認されたと決め込んだのも無理からぬことだった。中国の広漠たる国土における厖大な兵站業務とか、中国人の思いがけない頑強な抵抗というような現地事情については、詮索するに及ばないのである。」

P134日本軍が無能である理由について…「第一の仮説によれば、日本人はたいてい近眼であるのと同じく人種的に内耳管に欠陥がある。これが彼らにバランス感覚を失わせているが、パイロットにとっては許されない欠陥である。

第二の解釈は、武士道および個人の生命を無価値とする日本人の掟に責めを負わせている。飛行機がきりもみ降下したり他の面倒なことに巻き込まれると、日本人は胸元で腕組みをして大日本帝国の栄光のため嬉々として死んでいく傾向がある。一方、個人の存在について一段と鋭い意識をもつ欧米人は、全力をあげて機体の障害を取り除こうと努めるか、土壇場になってパラシュートで脱出する。」

 

P137「日本が攻撃した当夜、シンガポールの空襲警戒本部に誰一人いなかった一つの理由は、あの運命の日の直前にイギリス空軍の将校が空襲監視員たちに、日本人は暗がりでは飛行できないと告げていたためであった。科学的な説明の中で特に巧妙な試みは、日本人が広範囲に及ぶ内耳の損傷に苦しんでいるというものだった。何が原因か。日本人の母性、というのが西洋のある権威の見解で、先天的に欠陥のある「管状器官」のせいだとするプラットの解釈を退けていたのは明らかだった。赤ん坊を母親の背中にくくりつける慣習は、頭を飛び跳ねさせ、バランス感覚を永久に損なうと説明されたのである。」

P138「彼らの精神は「前ギリシャ的、前合理的、前科学的」と評されたーーこれらのレッテルは女性の劣等性に関する話の中でも、よく使われたものだった。時によっては、この同一性がはっきりと示された。「日本人の精神は、女性の精神がそうであると考えれているように、より初歩的な動き方をするーー分析や論理的演繹に従うというより、本能、直感、懸念、感触、感情、連想によって動くのである」とオットー・トリシャスは書いた。

こうした受けとめ方が肯定的な形を変えたものは確かにあった。それは多くの日本人や他のいっそう神秘的な傾向のあるアジア人によって助長され、東洋人の「直観的」または「精神的」な能力を賛美していた。英米中流階級向け雑誌の読者たちは、禅およびその「常識」への挑戦に漠然とながらなじんでおり、西洋への禅の最も能弁かつ多作な解説者、鈴木大拙の著作は、日本人が概念の操作よりむしろ直観に頼ることについて、いつでも引用するのに役立った。鈴木が信奉した禅の教えは、第二次大戦後、西洋の人々にさかんに取り入られたが、彼の主著の大部分は、一九二〇年代と三〇年代にすでに英訳されていた。」

 

P152「戦争は、超人のイメージをつくりだしはしなかったが、それを表面化させた――日本人に関する過去の印象のプールからではなく、むしろ西洋の他者についての伝統的なイメージの大きな貯水池から呼び起こしたのである。というのは、獣のしるしやヒトより下等な存在に与えられた多数の特徴のように、恐怖や危機の際には「超人的」という特質までもが、たいてい見さげたアウトサイダーに帰せられたからである。」

P153「猿とか他の人より下等な動物は、それ自身が脅かす存在ではない。「劣等人」もそうである。こうした軽蔑的なレッテルを貼られたものが、突如として思いもよらない挑戦の態度をとり、実行できるとは考えられなかった行動をやってのけると、人は特殊な能力を捜しはじめる――そして必ず見つけ出すのである。」

 

P172「一九四四年までには、かなりの数の社会科学者と行動科学者が、このように日本を研究していたが、いずれにせよ日本人の行動を理解するうえで「未熟」という概念が核心であることに大方は同意した。」

P173「ニューヨーク会議の参加者たちは、日本人のきめられた行動様式への順応がたいてい私的または個人的な信念を欠いており、この「信念なき順応」が、ある政治学者の言ったように「青年期の完璧な臨床例」であることで意見が一致した。会議に招かれた数人の精神科医の一人は、日本人の行動が「いくつもの違った態度、異なる感情的な諸反応、幻想の使用、個性の分裂といったものの間での優柔不断」のような青年期の未熟さの「臨床例」に一致することを指摘した。彼は、西洋と日本の育児慣習の違いに注意を促す一方、国民性の構造の差異は人類の発展段階の差異を反映し、「日本人の不良性は、少年期の発育段階に特有なものである」という考えも述べた。」

P177「(※ウェストン・)ラベアは、ゴーラーの草分け的な分析を知らずに論文を書いたが、専門諸分野における例の初期の研究の幅広い影響を受けた驚くべき誤りがあった。ゴーラー同様に彼も、日本人の脅迫的性格を発育の肛門期に関係づけ、「そこで子供は最初の満足感を捨てさせられ、文化的に着色された括約筋の調節を身につけさせられる」と述べたのである。」

 

P184-185「日本人の原始性についてえせ歴史的、えせ人類学的な概念が広まった結果、野蛮な敵という認識は戦場以外にもひろがっていった。つまり、その認識を国民、人種、文化の全体に当てはめ、そうすることにより自らの報復および懲罰という野蛮な行為を、合理化、正当化したのであった。たとえば、開戦後間もない一九四二年一月の覚え書の中でレーヒ提督は、「日本の野蛮人と戦う際は、かつて戦争ルールとして認められていたことを、すべて放棄しなければならない」という巷間伝えられていた信念を引用している。戦争が暴力的な結末に近づいた頃、トルーマン大統領はポツダムにおいて原爆実験の成功を知り、それを日本に対して使用することを直ちに決意した。彼は日記に、このことは遺憾ではあるが必要なことなのだ、なぜなら日本人は「野蛮人であり、無慈悲、残酷、狂信的」だからと記していた。」

P190-191「この文章は、実は十六世紀はじめにスペイン人が、新世界のすべてのインディオに対する蹂躪を正当化するため書いたものである。そして最初の引用のカッコに入れた「英米人」は、原文では「スペイン人」となっている。われわれは、歴史上のもの現代のものを問わず、似たような手品をすることができる――「日本人」を、他の人種や国民とだけではなく、非キリスト教徒、女性、下層階級、犯罪的な分子といったものと差し換えることができるのである。これは単なる手品師のトリックではない。むしろ、何世紀にもわたり、男性優先の西洋のエリート連中がになってきた、他の人々を認識し扱うための基本的なカテゴリーを示している。獣のしるしのように原始人、子供、精神的、情緒的に欠陥のある敵というカテゴリー――第二次世界大戦中は、とりわけ日本人に当てはまると思われ、新しい知的な解明も当然、日本人に特有のものと見なされたが――は、つまり西洋の意識に記号化された基本的には決まりきった概念であり、日本人専用のものでは決してなかったのである。」

 

P206「黄禍は、もともと幻想や安直なスリルを混合させたくだらない考えであり、三文小説、漫画、B級映画、それに煽情的ジャーナリズムに似つかわしい話題だった。しかし幻想と煽情主義は、多くの点で世論を形成し、大方の学問よりはるかに大きな影響を及ぼしたことは疑いなかった。また東洋からの真偽の疑わしい脅威を、強い衝撃を与えるように言いたてる人々がたくさんいた。その中にはハースト系の新聞のように、日本に率いられた「黄禍」を早くも一八九〇年代に警告し、その後の半世紀にわたり揺るぎない反東洋論の編集方針を維持したところもあった。空想的な軍事評論家ホーマー・リーのように、日本が突出する運命にあるという予想をしたため、日本人自身がうぬぼれてすぐさま翻訳にかかったという例もあった。」

P230-231「戦時中アメリカ向けの日本のプロパガンダが、人種差別を強調して、非白人の注意をひこうと試みたのは事実であるが、黒人世論に真の衝撃を与えたのは、秘密活動や敵のラジオ放送ではなかった。それは戦争の本質そのものであった。ドイツ人と日本人に対する戦いは、たいてい支配民族説に対する攻撃を伴っており、したがって白人至上主義やアメリカの差別的な法律と慣行の根元に向かって挑戦していた。……

と同時に、日本人の攻撃も黒人にとってはきわだった象徴的な面をもっていた。日本のプロパガンダが白人の人種主義の実践を繰り返し強調してはいたが、多くの非白人の世界観を本当に変えたのは、日本の言葉ではなくて行動であった。日本人は、支配的な白人体制に毅然と立ち向かった。彼らの緒戦の勝利は、欧米に忘れがたい方法で恥辱と与えた。つまり白人の全能という神話、あるいは白人の実力うという神話さえ永久に打ち壊したのである。日本人の勝利は、非白人が現代世界の進んだテクノロジーを発展させ、使いこなす能力のあることを実証した。黒人指導者ロイ・ウィルキンズが言ったように、真珠湾の大惨事は、少なくとも幾分かは、白人がすべての非白人国家を見下す愚かな習慣のせいであった。」

 

P235-236「人種的な意識が、他者に対する地位や権力の表現――階級意識ナショナリズムや大国意識、それに男女の性差による尊大さなどに比較されるが――としても理解されるとき、はじめて真剣な比較研究の対象となることが明確になる。

こうした研究には、西洋が近代の政治経済学を支配してきたという事実に由来する、先天的なアンバランスがつきものである。工業化した世界は、外部から多くを取り入れることをしなかった。日本のような後発の国は多くを取り入れた。日本は西洋に倣ったため日本人の他者に対する態度は、混じり合ったものになっている。たとえば彼らは、欧米人を見下すことが決してできず、「小さな連中」とも呼べなかった。彼らは欧米人を、猿と本心から呼ぶことはできなかった。なぜなら日本人は、西洋のような大航海やのちの進化論の体験を経ていないためである。欧米人は当初、彼らより強く、多くのことを教えたから、欧米人を子供と特徴づけるのは、意味のないことだったろう。欧米人を嫌悪したり侮辱したりするのを妨げるものが何もなかったものは確かだが、慣用句は、強くて威嚇的で、有用で邪悪で、ピッタリあてはまるものでなければならなかった。それは「鬼」に決まったが、人間の顔を持つ鬼であった。」

P241「第二次世界大戦中の日本人と欧米人との間の民族的、人種主義的な考え方の相違を説明するため、どのような理由を挙げようとも、すべてを包含する一つの一般化は難しいように思われる。つまり西洋における人種主義は他の人々を侮辱することにきわだった特徴があったのに対し、日本人はもっぱら自分自身を高めることに心を奪われていたのである。日本人は、他民族をみくびり、軽蔑的ステレオタイプを押しつけることにかけて下手ではなかったが、「日本人」であるということが真に何を意味するのか、いかに「大和民族」が世界の諸民族と諸文化の中でユニークであるか、このユニークさがなぜ彼らを優秀にしたか、といった問題と取り組むことにより多くの時間を費やした。

この激しい自己への没頭は、結局は手の込んだ神話的な歴史の普及となり、日本の皇統という神授の起源と日本国民の異例な人種的、文化的な均質性を強調することになった。近代日本にとって歴史は、人種的な優越性を断定するための手段として、西洋における科学や社会科学に匹敵するような役割を果たしたのである。そして優越性の本質と言われたのは、要するに道徳主義的なものであった。日本人は、肉体的にも知的にも他の人々よりすぐれていないが、本質的に徳があると言明していた。この道徳上の優越性は、神々しく継承されてきた日本の皇統のもとで、忠孝という最高の美徳を称揚する決まり文句の形で頻繁に言い表わされたが、こうした特質それ自体がより崇高な美徳である「清浄さ」を反映していた。日本人は無敵の方法で自分たちのことを他の人々より「純粋」な存在――古代の宗教的な意味と現代の複雑な効果をあわせもつ概念――であることを示した。」

 

P259「清野(※謙次)もまた西洋人の肌の色についての偏見と、彼らが白にどれだけ近いかを評価の基準として用い、黄色人種は比較的色白だという単純な理由で黒人よりも高く評価されていることを、読者に思い起こさせた。もし西洋的な考え方を論理的に推し進めれば、白兎は黒兎より進化しており、鷺が色だけの理由で鳥よりすぐれていると極論することになろうと、清野は皮肉っぽく述べた。これとは反対に、あらゆる人種が長所と短所をもっていることを認識するのは必要なことだった。互いに補足し合って完全になるよう世界の諸人種を結び合わせることは、壮大な試みというべきだった。

こうした理想主義的な考えから、清野は各人種をその能力に応じて「適所」に置き「適当なる職業」につかせる壮大な事業として、大東亜共栄圏を空想的に描くことにとりかかった。彼は「優良民族」に保護を加え、その人口を増やすよう奨励すべきであると強調した。この点に関して彼は日本政府の公式政策と完全に一致しており、要するに最優良民族とは日本人のことであり、その「適所」とは絶対的な指導者の任務であった。」

P260「こうした理論に接してもなお、中島知久平のような教育程度の高い日本人でさえ、世界の「指導民族」としての運命は、遺伝学的に決まっているばかりでなく、神の力によっても定められていると公言してはばからなかった。この点に関する政府の教条的な教えは、漠然としたあいまいきわまりない言葉で言い表わされることが多く、文化的な諸要素に大きな注意を払ってはいたが、正統的な学説が生来の人種的優越という考え方を奨励していたのは間違いなかった。たとえば、日本人であるということが何を意味するかについて公式の考え方を述べた『国体の本義』は、日本人が「西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる」と明言し、彼らが他のアジア人よりすぐれている理由についても説明していた。日本人を他の人民と峻別するものは「根源」であり、それは神の子孫である日本の天皇に対する崇拝と不可分に結びついた忠孝の精神から成っていた。さらに清浄さという主要な特性に触れることなく、この根源について述べることは事実上できなかった」

 

P264「アメリカ人は自らのぜいたくを保つため戦っているのに対し、日本人は自衛自存、大東亜解放、世界新秩序建設のため戦っていると(※徳富)蘇峰は明言していた。この三大目的は三つの同心円のようだった。つまり日本は、まず自国、次いでアジア、そして究極的には全世界を英米人の抑圧から救わなければならなかった。」

P268-270「知的に難解であるにもかかわらず『国体の本義』とか『偉大な神道の清めの儀式』といった論文や京都学派の著作、討論は、戦時中の日本で多くの読者をもっていた。『国体の本義』は、二百万部以上が出版され、学校では必修読本となった一方、京都学派のおもな公開討論の場の一つは、大きな発行部数をもつ月刊誌「中央公論」であった。しかし当時、平均的な市民が「浄化」とは何かと尋ねられたら、あまり抽象的ではない言葉で答えたであろうことは間違いない。日常レベルにおける浄化は、(1)外国の影響の抹消、(2)質素な生活、(3)天皇のために戦い必要とあらば死ぬことを、を意味するものと理解されていた。

これらの訓令の第一は最も単純で、商品、ジャズ、ハリウッド映画といった大衆文化的な流行から「危険思想」まで及ぶ「西洋の」諸影響の追放カタログまで含んでいた。西洋思想の中で独特の堕落した特徴の最たるものは、自己つまり個人への没頭で、より大きな集団への帰属とは対照的であるとされた。この自己中心主義および個人主義から近代の不幸の大部分が生じたのである。すなわち功利主義、物質主義、資本主義、自由主義社会主義、そして特に共産主義である。こういうすでに見てきた無数の公的、私的な言明は、堕落や腐敗による諸影響を日本から追放する理論的根拠を説いてはいたが、戦時漫画ほど大衆レベルでのキャンペーンを簡潔に表現しているものはない。」

 

P272「一例を挙げれば著名な評論家である長谷川如是閑の一九四三年の論文は、日本人が生まれつきもっている性格の本質として「痩せ我慢」を挙げていた。如是閑は、これが侍気質の核心であると次のように述べた。それは道徳上の理想であるとともに実際的な力でもある。その独特の象徴的な表現は、精神的、肉体的な浄化の達成を表わす神道の「禊」に見出される。「痩せ我慢」は、インド、中国、ギリシャの宗教や哲学に見られる「精神的な忍耐力という消極的な性質」とは反対の積極的な態度である。戦時中の日本の英語プロパガンダで極めて人気があった慣用句で言えば、それは日本の「雄々しい国民性」の真髄であった――時には「民族的活力」という言い方もなされた。如是閑は同じような調子で日本の読者向けにも書き、その雄々しい資質が社会の全階層に行き渡っているという点でも日本はきわだっていると指摘していた。」

 

P292-293「この記事が現われるまでに「鬼畜米英」とか「米鬼」という慣用句が、日常の戦争用語として定着していた。そして純粋かつ神聖な故国が、獣のような悪鬼のようなヨソ者として危殆に瀕していることが、あわせて明瞭に描かれていた。清浄さ、不浄、けがれ、獣性、悪鬼信仰といった語彙は、すっかり社会に溶け込んでいた。教室には「米鬼を殺せ」と生徒に呼びかけるポスターが貼られ、一九四三年には、学童を巻き込んで敵を儀式的に絶滅するというユニークな機会があった。アメリカの慈善団体から親善の意思表示として一九二七年に日本の学校に寄贈された約一万二千の青い眼の人形が、ほぼ全部破壊されたのである。サイパン陥落後のプロパガンダの高揚した狂信主義には、こうした背景があったのである。そして純粋な自己および鬼のような他者というレトリックは、壊滅が避けがたいというビジョンと不可分のものとなった。」

P296-297「連合軍の進撃が日本の上に影を落とし、通俗的なマスコミでさえ彼らの雄々しき兵士が草や土を食べていると率直に報ずるにいたると、より劇的なイメージを見つけ不撓不屈の抵抗を描くことが必要になった。「日の出」は、こうしたイメージを古い観念の中に見出した。すなわち「護国の鬼」である。このため同誌は、「鬼神」とする日本の物語も載せた。ここには悪鬼のような敵との矛盾の感覚はさらさらなく、目的のためには恐ろしい力が必要とされる時代があり、明らかにいまほど危機的な時代はありえなかった。しかし、この自己にあてはめた鬼神イメージは、当時の中心イメージのいくつかが、いかに意味深長でとらえにくく融通性のあるものであったかを明らかにしている。」

 

P302「というのは、桃太郎にせよ鬼のような他者にせよ、確実不変のシンボルとなっていなかったからである。われわれは敵を鬼と呼ぶことが、西洋での狩りとか害虫駆除という隠喩に匹敵する、絶対主義者のレトリックの出現を許したことを見てきた。しかし桃太郎の教科書版のように、その一九四五年の映画は鬼のような敵に慣れるようにするため、あまり血なまぐさくないモデルを示した。実のところ同映画の注目すべき特徴は、桃太郎と敵対者の白人がともに人間の姿で描かれたことである。白人は、卑屈で浅ましく鬼の角をはやしており、征服した地域の地図を英語の鬼を表わす名称でけがしていたが、この映画で彼らが徹頭徹尾、鬼でないことは歴然としていた。この映画で彼らが徹頭徹尾、鬼でないことは歴然としていた。こうして桃太郎と白人たちは、人間の特質はもちろん超自然的な特質をも共有する人物として対峙した。この点に関して彼らは、一見したところより実際に似ていたのである。」

P302-303「このように最初の桃太郎=鬼という対立の構図が象徴的に崩れたことは、たとえ当時は明快にわからなかったにせよ、日本が敗北を認めるや否や、純粋な自己と度しがたく邪悪な相手という正反対のステレオタイプを放棄する下地づくりに役立った。というのは戦闘が、それまでに事実上、人間対人間の戦いに戻っていたからである。この本質的に対等という暗示は、日本との戦闘についての西洋の説明で潜在的にせよ完全といっていいほど欠けていたことであった。」

P303-304「大方の欧米人の見逃したのが、日本の宣伝係や論客が同等かより大きい精力を注いだ、ダイナミックな「新」日本というイメージの喚起であった。変化の意識、つまり新時代に入ったという認識は、一九二〇年代、三〇年代の日本で人を動かさずにはおかない理念の最たるものの一つであったことは確かで、限りないほど多様な道具立ての中で表現された。日本国民は、国内での新政治体制と新経済体制、それにアジアと世界中の新秩序という壮大なビジョンの集中攻撃にあっただけではなかった。ありふれた日常生活の場でも、「新」とか「新興」という接頭辞のついた文化にひたされたのである――たとえば新俳句、新写真術、新財閥、新官僚、さらに新興男子、新興婦人まであった。これらの影響は左翼を含む多方面に生じ、とりわけ文化的な領域で国の正統派と対立することが多かった。新しい出発という総合的な理念は広く行き渡り、こうした背景のもとで桃太郎型の人物像が、アジアでの戦争に突入していく時代に日本と日本人の大衆的なシンボルとして採用されるようになったのは、少しも不自然なことではなかった。」

※他国比較のない、改善要求的な要素であるため欧米人から見えづらかったとはいえる。

 

P361-362「西洋の大方のメディアと同様に海兵隊の「レザーネック」誌も戦時中、これを日本人に対する軽蔑の念を強めるために用いた。しかし「レザーネック」の日本降伏直後の一九四五年九月号の表紙は、微妙で意義深い変化を伝えていた。それは、帝国陸軍のだぶだぶの制服を着た可愛らしいが不機嫌な顔をした猿を肩に乗せ、ほほえんでいる海兵隊員を、オールカラーで描いていた。デービッド・ロウの描いた白人の背中を突き刺そうとする猿とか、共栄圏のココナッツをひったくろうとする猿、「パンチ」誌の木から木へ飛び移る猿の侵略者、「ニューヨーカー」誌の猿の狙撃兵、日本人=超人が流行っていた頃に現われた巨大なキングコング、ドゥーリットル隊の飛行士を処刑したというニュースに対するアメリカ人の反応を象徴化した血まみれのゴリラ、「ニューヨーク・タイムズ」紙の失われた猿のシンボル――これらすべては、「レザーネック」が直ちに感じ取ったように、賢く模倣的で飼い慣らされたペットに突如として変身した。猿のイメージの戦時中の側面は、獣性と弱肉強食ということだった。他の側面――平和になり急速に出現したもの――は、魅力と物真似であった。たとえば「レザーネック」と同時期に刊行された「ニューズウィーク」誌の日本降伏に関する特別記事は、敗北を喫した敵を「好奇心の強い猿」と評した。」

P363「こうした父親的な温情主義が、マッカーサーの日本人――と一般に東洋人――に対する態度の本質であったことは疑いない。……「ドイツ人の問題は日本人の問題とは完全に違う」とマッカーサー上院議員たちに告げた。「ドイツ人は成熟した民俗であった。もしアングロサクソンが、その発達段階つまり科学、芸術、神学、文化において、四十五歳だとすれば、ドイツ人はまったく同じように円熟していた。しかし日本人は古代からの存在であるにもかかわらず、学齢期にあった。現代文明の標準からすると、彼らはわれわれの四十五歳という発達状態に比べれば十二歳の少年のようなものだろう。学齢期の常として彼らは、新しいモデル、新しい考え方に動かされやすかった。そこには基本的な概念を植え付けさせることができる。彼らは新しい概念をしなやかに受け入れる白紙に近い状態であった……」